その少女に気付いた日。


 その日はちょうど、定期考査のための試験週間が始まる一日前だった。

 昼休みが終わるちょうどぎりぎりのぎわ、俺は焦っていた。

 ハートマークのちりばめられた母親お手製の弁当を、なんとか誰にも見られることなく食べ終えて。廊下で捕まった化学教師のセクハラをなんとかしのぎ。毎日20メートル後ろからずっとついてくる女生徒をなんとかいて。

 そうしているうちに遅刻ぎりぎりだ。

 公立の割に全校生徒千人を数えるだけあって、うちの高校はしき面積も校舎サイズも比較的大きい。移動教室を挟む休み時間には、教室移動の時間を計算に入れて休みを過ごさなければならないくらいには規模のある学校だ。

 授業に遅刻などあってはならない。そんなことを仕出かしてしまったら、俺は俺に何をするか分からない。最低でも頭を丸める覚悟である。

 なぜなら俺は完璧な存在として周囲に認識されているし、その在り方を曲げるつもりもないからだ。あれ? じゃあぼうまずくね?

 とはいえ、存外に余裕はあったらしい。教室についた時には、2分ほど余っていた。

 ほっと胸をなでおろして教室のしきまたごうとすると、中から楽しそうな歓声が聞こえてきて顔を上げた。

 机の上にあぐらをいて扇子片手に語るのは、クラスをまとめるリーダー役の雑賀さいかなおみち

 周囲には彼の仲良しグループをはじめ十人以上の観客。

「続きまして中学二年の始業式のハナシ。今日きたっつー転校生を遊びに誘うアグレッシブなマイフレンド。ところが会場は始業式サボってたオレのとこ。会ったこともねえ人間の家に突っ込むってんで、おいおい正気かとオレもマイフレンドに問うわけですが──」

 ……まさか教室戻ってきたらが始まってるとは思わないじゃん。

「待ち合わせ場所に転校生が着くってLINEが入ったってんで、喜び勇んで向かうマイフレンド。しばらくして連れてきた転校生は挙動不審、そらそうよ知らん人間の家に突然来るんだから。仕方ねえオレがどうにかせにゃって、場を盛り上げることにしたんでさ」

 聞き入る観衆に紛れて、俺もつい耳を傾けてしまった。

 俺が入ってきたことに気付き片眉を上げる雑賀は、しかし言葉を止めることもない。

 ぱちんと扇子を一度机の角に打ち付けて、堂に入った仕草で周囲を見渡す。

「したらよ。しばらく遊んでたらマイフレンドのスマホにまたLINEが来たんよ。んでマイフレンドが顔をぶわーっと真っ青に変えて言うんだわ。『転校生、待ち合わせ場所着いたって』、と」

 えっ。

「じゃあ今オレのポテチ食ってるこいつ誰だよ!!!!

 どっ、と笑いが起きる教室内。決まったとばかりにご満悦の雑賀。

 しかし、そりゃ転校生──じゃない、転校生として連れてこられてしまったやつは挙動不審にもなろうと言うものだ。雑賀のマイフレンドとやらにあれよあれよと全然知らんやつの家に連れてこられていたわけだから。

 と、その時だった。

「何やってるんですか。机の上に乗らないでください」

 一瞬で、笑いの場が凍り付いた。

 空気読めよとばかりの観衆の視線が行きつく先は、教室に入ってきた一人の女子生徒。

 彼女がにらみ据える先には、もちろん机の上にあぐら搔いてる雑賀尚道。

 雑賀は雑賀で、片眉をあげて軽く言う。

「木下ぁ。今いいとこなんだからちょっと待ってくれよ。大オチがまだなんだよ」

 まだ大オチあるのか。ちょっと気になるな。

「ルールはルールです。言われるまでもないことくらい守ってください」

「……ふう。分かった分かった。んじゃ、ここまでで。おあとがよろしいようでして」

 そう言って雑賀が机を飛び降りると、ブーイングにも似た落胆のめ息が蔓延はびこる。完全なアウェーの空気の中で、くだんの少女──木下きのしたみなみは迷わず自分の席に突き進み、その小さな身体からだをぽすんと席に落ち着けた。

 ……ふむ。

「よ、昼休みの失踪者」

 少し考えていると、雑賀が話しかけてきた。

 相変わらず目立つ風体の男だ。180を超える高身長もそうだが、自信にあふれた表情と切れ長の瞳に強気な威圧感と存在感がある。ガキ大将気質なのか、世界を己の敵か味方かで分けているようなその在り方も、彼のカリスマ性を引き立てているのかもしれない。

 とはいえ。昼休みの失踪者ね。

「あまりかっこいいとはいえない二つ名だな、それは」

「お、二つ名とかちゅうっぽいこと知ってんだ? 意外だな」

「〝厨二とはバカにされがちだが、実際に厨二ものと呼ばれる創作はかっこいい〟のだと、この前にこうから教えてもらったんだ。実際面白かった」

「河野? ……ああ、あのぼそぼそしゃべる」

「それはお前が無駄に居丈高にふるまってるんじゃないか?」

「そうか? まあ、りょうからそう見えるなら少し気にしとくけど」

 教室の端の方、三人くらいで話している河野に目をやると、控え目に手を上げてくれたので返しておく。あいつは俺にとっては、特定の分野で頼りにしている情報通だ。

「それで雑賀、何か用か?」

「まあ、用っちゃ用かな?」

 楽し気に笑いながら、雑賀はちらっと振り返る。釣られて見れば、雑賀が見ているのは黙々と次の授業の準備をしている木下の姿。

「小学校の頃はチクり魔とかよく居たけどよ。このとしになってもってのはタルいよな」

「向こうから言わせれば、この歳になっても机の上に乗る方がどうかって話だが」

「おいおい、向こうの肩持つのかよ。だい涼真さまのイケメンスマイルで懐柔して貰おうと思ってたのによ」

「それは雑賀の方が得意だろ?」

 こいつが仲間内に向ける笑顔は、ある種の中毒性があるという。理屈は分かる。いつでも自信満々に振る舞っている、誰もが知るハイスペック人間が、自分を仲間として認めてくれているという快感。雑賀というライオンが、うさぎの肩をたたいて「お前はすごいやつだ」と言ってやるだけで、その兎は喜ぶし、周囲は羨ましがるという寸法だ。

 なんならこいつは分かっていてそれをやっている。

「……さあな」

 雑賀は意図を理解して挑発的に笑う。とはいえ、俺の回答は決まっていた。

 ちらっと、きゃしゃで生真面目な少女の後ろ姿に目を向けて。

「……俺が誰かに手を貸すようなことはしないと言ってあるはずだが?」

「そうか? 案外お前は土下座で頼み込めば手伝ってくれそうな甘さがあると思うぜ」

 ……。

「じゃあ、するのか? 土下座」

「いやしねえけど」

 肩をすくめる雑賀だった。相変わらず余計なところまでよく見ているやつだ。

「しっかし、木下チャンには困ったもんだな。あれで絶世の美女……それこそとかなら言うこと聞いてもいいけど、木下チャンだもんなー」

 随分とえんな言い回しだな。

「オレは何もしてないしするつもりもないけど、女子たちにも結構嫌われてるみたいだし? ひょっとしたらこの先なんかあるかもしれねえなー?」

 すっとぼけた様子で、雑賀は言う。自分がいじめの主犯格になるとか、そういう腹積もりではないだろうが……起こりうる未来を俺にどうにかさせたい魂胆は目に見える。

 見れば、まっすぐ睨むように黒板を見据えたまま授業を待っている木下の周囲には友達も居ないし、先のことでひそひそと彼女の陰口が飛び交っているのもうっすら聞こえた。

「……っ」

 わずかに唇をんだあの横顔を見るに、聞こえてないわけでもないんだろう。

 真面目で不器用な子だとは思っていたが……確かに最近は以前にも増してとがり気味だ。

 一年の頃は、それとなく風紀違反を口頭注意するだけだったのが、公衆の面前でも人を叱るようになったとも聞く。

 なんとなく、あせっているようにも感じられる。不安定なのは分かる。

「だが俺には関係のないことだ」

「相変わらずだねえ、涼真。ま、いいぜツンデレくん。ただ、オレもクラスでいじめが起きるのは気分が悪いとだけ言っとくよ」

「ツンデレって河野いわく、お前のことなんか好きじゃないって言いながら言葉と行動が一致しない人間のことだが……使い方間違ってないか」

「間違ってねーよ。っと、授業始まっちまう」

 鐘が鳴り、ひらひらと手を振って雑賀が自分の席へ戻ろうとする。

 俺はその背を呼び止めて聞いた。

「雑賀。さっきの寄席で言ってた、大オチってなんなんだ」

「……ああ、あれな。挙動不審な転校生もどきの彼、オレたちはその日いじり倒して結局最後まで四人一緒に楽しく遊んだんだが、翌朝学校で話しかけようとしたら三年先輩だった」

「ひどい話だ」

 俺が笑うと、雑賀は満足そうに去っていった。


    


「授業中の喫食が絶えない人が居ます。早弁の禁止は、部活動を重んじる高校であっても当然のことです。公立校ならなおさらだと思います」

 すべての授業が終わったホームルーム中。明らかに白けた空気にも耐えて言葉を続ける小さな風紀委員を、俺はぼんやり眺めていた。

 名前は木下みなみ。今年から同じクラス。生真面目で不器用。小さい。風紀委員。

 彼女について俺が知っているのはその程度だ。

 いくら風紀委員だからといって、ここまで周囲に煙たがられながらもりちに仕事をこなそうとする人間を見たことがないし、そういうところは本当に不器用なのだとも思う。

「ありがとう木下。じゃあその辺り全員気を付けるように。他には誰か、何かあるか?」

 ホームルームの最後に誰かから連絡事項があるかないか。

 そう担任の先生が問う。普段は誰も手を挙げることなく終わり、部活に突撃したい高校二年生にとって──木下の存在は確かにストレスなのかもしれない。

 なにせ明日あしたからはテスト前の部活禁止期間。今日でいったん、部活は最後になる。

「まだあります」

「まだあるの!?

「はい。自転車置き場のルールを守っていない人がこの学年にも多く居るそうで──」

 一人起立して話を続ける木下から、なんとなく周囲に目を配ってみる。

 抗議、いらち、けんたい、虚無。決してプラスとは言えない感情が、真ん中の席の小さな少女に突き付けられていた。

「──以上です」

「お、おう。はは、みんな気を付けるんだぞ!」

「先生、笑っているような話では──」

 先生が空気を変えるように笑うと、それがどうやら真面目に受け取られなかったと思った木下が食い下がろうとしたその時だ。

 雑賀さいかがぱちんと手を打って、響く声で言った。

「じゃ、帰ろうか!」

 その言葉を免罪符にするように、部活組が飛び出していく。

 木下が制止する間もなく、といったところだろうか。

 先生が困ったように木下に歩み寄り、

「まあ、きっとみんな聞いてはいたと思うから」

 と励ましにも似た言葉をかけているのが見えた。当の本人はうつむいているが。

 事の発端となった雑賀は、木下を避けるようにぐるっと回って教室を出て行く。あとは任せたとばかりの視線を寄越してきたので、俺は無視してトイレに行くことにした。

「……っ」

 教室からの去りぎわ、一瞬木下と目があったような気がした。悔しいでも苛立たしいでもなく、無力感を味わっているような、そんな目に見えた。

「……俺には関係のないことだ」

 廊下を歩きながら思う。

 この手のことで俺が口出しして、物事がうまくいったためしがない。

 確かに俺は、人より優れている自覚はある。努力も、人一倍続けられる自信がある。ただそれはひるがえって、努力できない人間の気持ちが分からないということでもある。

 たとえば誰かが、解決しなければならない問題を抱えていたとして。俺が何かを手伝うと、結果的にその人物よりも関与して、そして最後にはこう言われるのだ。

『じゃあもう全部お前でいいじゃん』

 テストで良い点を取らなければならないから勉強を教えてくれと頼まれた。飯睡眠以外の全ての時間を使って教えた。途中で音を上げられて、俺だけが学年一位になった。

 声優になりたいと夢を語り、俺に協力してほしいと頼んできた。多くの情報を集めてそのロードマップを仕上げたら、ここまでしなきゃいけないなら無理、と背を向けられた。

 俺が普段から鍛えていることを知って、強くなりたいから一緒にやりたい、と名乗り出たやつがいた。三日で「もっと楽しくやろうよ」と吐き捨てていなくなった。

 たぶんやりすぎたんだと、反省している。結果として俺は友人を失ってきた。

 俺の死んだ父親も、偉大な業績を残したにもかかわらず、優しさという名の過剰な献身がもとで身を滅ぼして、遺族たる母さんと俺には権利も事業も一つも残っていない。

 だから俺は、もう他人の人生には干渉したくないし、されないように完璧を貫く。

 助けてあげたい、支えたいと思うのは、その人物に欠点があるからだ。

 俺は個として完璧で、誰にも隙を与えない。そうすれば俺に関わろうとする人は減る。

 そのうえで俺が誰かの欠点や問題に目をつぶる。そうすれば俺は傷つかずに済む。

 そう、これでいいこれでいい。

「ふぅ」

 トイレを出ようとしたところで、ふと足を止めた。なぜすぐ廊下に踏み出さなかったのかは正直自分でも分からない。俺の後ろを付け狙う男女の多さに、みついてしまった行動だったのかもしれない。

 俺たちの教室の前。後ろ手に扉を閉めた木下きのしたが、しばらくぽつんとそこに立っていた。

 合流するのも雑賀の思惑に乗ったようでしゃくなので、彼女の動きを待っていると、俺の耳が小さなつぶやきを拾ってしまった。

「やっぱりわたしがおかしいのかな……うまく、いかないなぁ……」

 涙、えつ混じりの声だった。

 とぼとぼと、奥の階段へ向かっていく。そのまま帰るつもりだろう。

「……俺じゃなくても無理だろこれ」

 また、完璧な人生に傷がつくと分かっていて、足が勝手に動いた。

 ──おいおい俺よ、他人の人生に干渉したくないと言ったそばからこれか。

 ──いや……わざわざ俺が何かをしなくとも、友達の一人や二人いればそれとなく伝えるだけで良いんだ。それならまだ、干渉のうちには入らない。

 そう自分に言い聞かせて、俺は彼女と入れ違いにそのまま教室に戻った。

「あれ、りょうくんだー!」

「忘れものー!?

 ちょうど女子グループが二組と、男子グループが一組教室に残っていた。

「ま、そんなとこ」

 忘れものなんてないが、とりあえず自分の机に戻ってそういうアピール。

 それから、女子グループに向けて問うた。

「木下が落とし物したっぽいんだけど、追いつけなくてさ。誰か連絡先知らない?」

「え、木下さん? 連絡先……誰か知ってる?」

「ってかグループLINEにも入ってないんじゃない?」

「まじ? うっわほんとだ。もしかして今時あの子、LINEすらやってなかったりして」

「そんなことあるー? あ、でも多分うちのクラスの女子は誰も知らないかもー」

 ダメそうだな。マジか。グループに入っていない人間が俺以外にもいようとは。

「あ、ってかてか涼真くん! 涼真くんこそLINE交換しようよ!!」

 と、俺に飛び火した。仕方ない。

「ああ。体育祭までには準備するから、待ってて」

 そう笑って言うと、彼女たちは楽しそうにうなずいた。

 とはいえ木下については何も知らなそうだ。

 もう一つの女子グループにも聞いてみたが木下との仲を無駄に詮索されそうになって退散。最後の頼みとして、男子グループ──俺の漫画仲間のこうを頼る。

「木下さんの連絡先……? え、女子が知らないのにおれが知ってるとでも……?」

「そんな幽鬼みたいな顔するなよ……」

だい、おれをめない方がいいよ。生まれてこの方、女子からLINE交換に誘われたことなんてないんだ。嫌そうに交換してくれたことは二度あるけど」

「何をカッコつけてるんだお前は」

 なお河野以外の男子は俺と目も合わせてくれなかった。

 むしろ河野に、よく五代と話せるなとかなんとか言ってたが知らん。一応これでも完璧な男を心掛ける都合上、誰とでもフレンドリーにはしてるはずなんだが。

「……はあ、ちくしょう」

 教室を出て、め息を一つ。雑賀め、余計な話を振ってくれやがって。

「結局、自分で行くしかないか」

 誰も連絡先を知らないというのなら、もう仕方がない。

 頭の中で雑賀が、『やっぱりお前はそういうヤツだよな』と笑っている気がした。

 ……これは、己に罰を科す必要がありそうだ。腹筋百回追加するか。


    


 木下は帰り際、財布の中身を確認していた。

 何かしらこのあと使う予定があると推理しよう。あの真面目少女が制服姿で遊戯というのも考えづらいし、コンビニくらいなら交通系ICなどでも事足りる。

 バイトで稼いだものか小遣いかは分からないが、何かしらの目的の決まった金と考えると、絞りやすい。参考書や文具の類だろうか。だとすると目的地は本屋か文具屋か。

 彼女の通学手段すら知らないが、自転車通学なら彼女の性格上自転車置き場で風紀活動にいそしんでいそうだから、今日のホームルームでの言動から考えて電車通学。

 ……駅前の百貨店に大きな本屋と文具屋があったな。空振ったら明日にしよう。

「涼真!!」

 校門を出ようとしたところで、背後から伸びてくる影。たったった、と軽い小走りと共に俺を呼び止める高く澄んだ声色は、聞き慣れた女のもの。

 振り向けば案の定、今日も今日とて誰もを魅了する上機嫌なやつがそこに居た。

如月きさらぎか」

 口で表現するのが難しい、アシンメトリーの長髪が優しく風になびく。

 そんな彼女は振り返った俺の一言目が気に入らなかったのか、その彫刻みたいな美しい相貌をころころ変えて不満さをあらわにした。

「嫌そうな言い方ね! そんな顔しなくたって良いでしょ」

 俺はどんな顔をしていたのやら。少なくとも、嫌ではないはずだからお前の誤解だが。

「別にもう、無理やり撮影に付き合わせたりしないわ。あんたなんか頼らなくてもカメラマンならたくさん居るもの」

「……順調そうだな」

「……当然でしょ? もうつまずくものなんて何もないんだから!」

 ふふん、と満足気に胸を張ると、抜群のプロポーションが制服越しにもはっきり分かる。

 ──如月。この美女の完成形みたいなビジュアルをした彼女とは、一年の頃からの付き合いだ。といっても、初めて会った頃とは違い、もはやSNS上で彼女を知らぬ学生などほとんどいないほどのカリスマになってしまったのだが。

「それで何か用か?」

 俺も行く場所があるし、と思って問えば、露骨に曇る彼女の表情。相変わらず、ころころと機嫌の変わる秋の空のような性格だ。

「なに。用がなくちゃ、話しかけるのもダメなの?」

「別にそんなことはないが、お前も忙しいんじゃないのか? 最近は友達とも遊びに行けてないって聞くしな」

「っ」

 そんな顔して驚くほどのことを言ったつもりはないが。

「……余計なお世話よ。連絡一つよこさないくせに、心配だけはするんだから」

 唇をとがらせて、不満そうな如月。

「心配ってほどのことじゃないだろ」

 そもそも今日も、大人気インフルエンサーである〝Airi〟その人は取材やらなにやらで休みをとっていて、それでクラスにいなかったのだ。芸術系の私立高校に転校する話も出ているくらいの文字通りの芸能人だが、かたくなにこの学校を離れようとしない。

 長期休みを返上して単位を取るまでして、ここに居続ける理由もないと思うんだが……一度それ言ったら如月は泣いてぶちキレたので、以降は触れていない。

 去年のもろもろを、大事な思い出だと思ってくれているのは、うれしくはあるけれど。

「今日は学校に報告だけしたらフリーなのよ。だから……その。あ、あんたどうせ暇でしょ、久々にどっか出かけたりしない……?」

 その長くれいな髪を弄びながらちらっと俺を見上げる上目遣いは、思わず首を縦に振りたくなる強い魔性。横顔でコインが作れそうなほどの美貌を、こうして無邪気に振り回すから如月はが悪い。今日はもうこれ以上己に腹筋を科すのは御免だ。

「せっかくなら、お前と遊びたがってた友達と行くといい。それに、お前の商売はあまり男の影があるとよくないだろ」

 あ、額に青筋が。

「だから余計なお世話っつってんでしょ! だいたい疑似恋愛で売ってるわけじゃないって知ってる癖に! あたしはカリスマインスタグラマーなの! アイドルじゃない!」

 そうは言ってもだな。……と、この話は平行線だからいったん置くとして。

「分かった分かった、そう怒るな。相変わらず、見る度にお前は本当に綺麗だよ」

「っ……もう、ほんとずるい」

 ごす、と拳を一撃たたき込まれた。大した力は入ってないが。

「……それに、その一言で全部許しそうになる自分が嫌」

 もう一撃殴られた。ぷいっとそっぽを向いて如月は言う。

「……友達と遊びに行く。一人で寂しく帰ればーか」

「ああ、そうする。気を付けて楽しんでこい」

 ひらひらと手を振って如月を見送り、なんとなくスマホのアプリを開く。

 百万人以上のフォロワー数を抱え、ランキングでも二百位以内を誇るAiriが、今日も美しい自然を背景に己を十全に引き立てた画像を上げている。

 そこから自分のプロフィールに飛ぶと、華々しさが一転、随分殺風景だ。

『五代涼真なんて付けたらみんなが見に来るでしょ。もともと随分とぜいたくな名前なんだから、あんたの名前は「ご」で十分よ』

 名前も「ご」しかない俺のアカウントには、フォロワーが一人しかいない。

 あいつと違って、ずーっと1だ。一緒なのはアカウントの開設日だけ。

「綺麗な夕日だ」

 なんとなく空を撮影して久々に投稿すると、すぐにそいつから「いいね!」が付いた。


    


 如月と話して少し時間を取ったが、今日の解決すべき事案は木下きのしたの方だ。

 いや俺が勝手に事案にしているだけではあるんだが……とはいえ、泣くほど追い詰められているところを見てしまったのは事実だ。

 不器用な生真面目さが押し付けになってうとまれて、というのが俺の目の前で起きた現実で、現状それ以上でもそれ以下でもないけれど。

 どうしてそこまで頑張らなきゃいけないのか、頑張らなきゃいけないと思っているのか。

 そのあたり、どうにかできるならしたくなってしまうのが……俺の悪癖であり、まわしき父親との共通点なのかもしれない。あまり深く考え出すと投げ出しそうになるが、そんなことをしたら己への罰に爪を剝がなきゃ釣り合わない。流石さすがに嫌だ。

「……まあでも、推測が当たって見つけてしまったら、初志貫徹か」

 駅前百貨店の5階。大きな書店の参考書コーナーに、目的の彼女の姿があった。

 偶然をよそおって声をかけようとしたら、ちょうどその時彼女のかばんが参考書の積み上げられた平台を崩しかけたところだった。

「おっと、足元気を付けろよ」

……ぇ?

 参考書を支えながらそう言うと、うつむいて本棚を眺めていた彼女が顔を上げた。

 ややうつろにも見えた瞳の光が戻ってきたと同時、その小さな口が声を漏らす。

「えっと……五代、さん? どうしてここに」

「そりゃ学生だからな、本屋に用がある時くらい……ってかお前の鞄で崩しかけたこの本の山、支えるの限界だから手伝ってくれ」

「あ、ご、ごめんなさい!」

 慌てて両手でピサの斜塔みたいになっていた参考書の山の重心を整えてくれる木下は、代償とばかりに自分の鞄を落っことしていた。

 流石に床に落ちるのも忍びないので俺の足の甲を滑り込ませたけど、予想以上にこの子の鞄クソ重いなちゃちゃ痛い。

「何が入ってんだお前の鞄……!」

「なにって、今日の科目に必要な……って落としちゃってた!? あ、五代さん足がそんなところに! 間が悪くてすみません……!」

「間が悪いんじゃなくて地べたに鞄落ちないように俺が足を犠牲にしたから、謝罪よりお礼が欲しいかなぁ……!

 ぺこぺこ頭を下げる彼女。いいから鞄どけてくれと思いつつ、やっぱりこの子いちいち不器用だなと改めて思う。今だけで何コンボ不器用かましたんだろう。

 そもそも今の言動からして置き勉ゼロじゃない???

 普通あり得ないだろ、全部の教科書持ち帰ってんの???

「あ……そう、だったんですね。ごめんなさい、気づかなくて……ん、しょ……」

 おそるおそるといった感じで木下は鞄を両手で持ち上げる。

「ありがとうございます、だいさん」

 申し訳なさそうに、半ば無理やり作ったような笑みと共に木下はそう言った。

 それが疲れ切ったふうに見えたのは、今日のあれこれで俺の頭に余計な情報が積載されているからだろうか。

 五代りょうは完璧な男、五代涼真は完璧な男、と内心で唱えながら痛みを耐えつつ。

「木下も、参考書買いにきたのか?」

「はい……といっても、中間試験を目前にして買うものでもなかったかなと」

 明日あしたから、うちの学校は中間試験の試験期間だ。二週間の部活禁止と、速やかな下校が求められる。木下の言う通り、参考書を買うより試験のための勉強で時間を取りそうだ。

「本屋まで来てから気が付いたのか?」

「……そう、ですね」

 俺が努めて明るく笑って問うと、木下は力なく俯いた。会話相手を不快にさせまいとしたような、乾いた自嘲の笑みが余計に痛々しい。

 なんかもう見ていられないのは俺だけか。気がっている時特有の思考の鈍化というか、けんまで混ざった落ち込みよう。

 どうして自分はこんなことにも気づかないのか、と顔に書いてある。

「あのさ、木下。なんか最近疲れてないか?」

「え? どう、でしょう。そう見えるのでしたら、そうなのかもしれません。といっても、五代さんとお話ししたことはそんなに多くありませんが」

「教室の後ろの席って、全体がよく見えるんだよ。背中ばかりであってもさ」

「そうなんですか……?」

 俺を見上げる彼女の、困惑したような視線。……まあ、今ぐいぐい行くのも違うだろう。こうしてある程度話というか、接点が出来ただけで十分だ。

「良かったらこれ受け取ってよ」

「え?」

 手渡したのはノートの切れ端。げんそうな顔の彼女は、そこに書いてある文字を見て少し驚いたようで。

「無理にとは言わないけど。何か困ってることがあったら連絡くれる程度でもいいから」

「は、はい。ありがとう、ございます」

 きゅっと切れ端を握って、木下はうなずいてくれた。

 大した関係もない人間が、今日だけの縁をたてにスマホを取り出して強引に迫れば、あまりいい印象は与えない。

 自分の意志で連絡先を登録してもらうのが、あとあとになって効いてくる──とは雑賀さいかの弁。連絡先の交換も男から、連絡をするのも男からで、受動的にさせすぎると鬱陶しく思われやすいんだそうだ。

 まさかあいつのナンパの持論が役に立つとはな。

 LINEは友達に追加されたら通知が来るし、そうしたらあとのやり取りはスムーズだ。

 聞き流していたが、おぼえていて良かった。

「さて、邪魔して悪かったな」

「あ、いえ全然……びっくりは、しましたけど」

「分かる。ただ、知り合いの姿を見つけたら、用事がなくても声はかけて良いらしい」

「……?」

 先の如月きさらぎとのことを思い出して、笑う。

「参考書買わないんだったら、木下ももう帰りか?」

「あ、はい。ちょっと下の階のお弁当屋さんにだけ寄って」

「そっか。それじゃあまた明日。良い弁当が買えるといいな」

 手を振り去ろうとすると、「あの」と意外にも木下から声。

「……五代さんは、参考書買わないんですか?」

 同じく本屋に用があると言ってここに来て、先に帰ろうっていうんだからそりゃ疑問か。

 まあ、口実のために散財できるようなお金もないしな。

「俺も本屋まで来て気が付いたんだよ。明日から試験期間じゃんってさ」

 すると木下は驚いた顔をして、それから初めて見る笑顔を見せた。

「五代さんも……何かを忘れることがあるんですね」

 純朴で自然なその表情はきっと木下本来のもの。雑賀は如月と比較してディスっていたが、彼女も笑うとこんなに魅力的なのだ。

 その笑顔を、学校でも見られるようにしてあげたい。

 それがたぶん……この子をどうにかしたいと思った動機だった。