「……ん」

 とある朝のことである。いつもであれば目覚まし時計が二回鳴ってようやく目覚めるまつが、ふと目を覚ました。

(あれ……目覚まし鳴ってないのに……珍しいな)

 不思議に思いながら横を見ると、が制服姿で正座していた。

 茉莉は、なんだ、と思い、何とはなしに確認する。

「……あ、しーちゃんが起こしてくれたの?」

「あ、うん……そう」

 なぜだか歯切れ悪く肯定する志津香に、茉莉は上半身を起こすと、笑顔で礼を言う。

「ありがと。でも、私寝起き悪いのに、よく起こせたね。どうやったの? 揺さぶられた記憶もないんだけど……」

「……」

 茉莉の問いに、志津香は視線をわずかにらして下を向いた。

「?」

 その視線の先を見やるが、何があるわけでもない。

「何かしたの?」

「……」

 志津香は答えない。

 茉莉は問いを繰り返す。

「何かしたの?」

「……」

 それでも志津香は答えない。

 茉莉はここに来て、わずかに眉をひそめた。

「……何をしたの?」

「……」

 志津香の両の肩をつかんで、茉莉は更に問いを重ねる。

「怒らないから、言ってみて? どうやって私を起こしたの?」

 すると志津香はぽつりと、

「……おはようのちゅーした」

 茉莉は一瞬その意味がつかめず、自分が寝ぼけているのではないかと確認したあと、

「ちゅー?」

 と、問い返した。

 志津香は茉莉からわずかに視線を外したままうなずいて、

「うん。おはようのちゅー」

 まだ寝起きだった頭に、その言葉がようやく浸みこんでいく。

 茉莉は目を丸くして、

「……えええっ!? ちゅー、って……口と口の、ちゅー!?

 一瞬の間を置いて、

 こくり。うなずく志津香。

「だーっ! 私、初めてだったのにーっ!」

 茉莉は頭を抱えて叫ぶのだが、志津香は平然とした顔で、

「大丈夫よ、女の子同士だからカウントに入らないわ」

「だ、大丈夫……なの、かな?」

 茉莉は一瞬同意しかけ──

「──いや、やっぱり大丈夫じゃないっ! だって、ちゅーだよ? キスだよ!?

「欧米じゃあいさつよ」

「ここは日本よーっ!」

 茉莉は眠気もすっかり吹き飛んで、パジャマ姿で布団の上に立ち上がった。

「でも、もうしちゃったし」

「う……」

 茉莉はがくりと布団の上にへたりこんだ。──何しろ中学時代にポエムを書いてしまうような茉莉なのだ、一人の乙女としてファーストキスに抱く夢も色々とあったのだろう。そのファーストキスを、女の子に、しかも眠っている間に奪われてしまうなんて……

 志津香は横目で茉莉を見やって、

「それでね。今まで目覚まし二回でやっと起きてたまーちゃんが、キスをしたら一回で起きたの。だから毎朝の習慣にしようと思うんだけど」

「……お願いだから、それはやめて」

 茉莉はきっぱりと断わった。

「むー」

 茉莉の横に女の子座りをして、志津香は人差し指を立てた。

「じゃあ、その代わりってことで」




「いってきます」

「いってらっしゃい。……って、私もいってきますなんだけどね」

 と言って、十数秒にも及ぶ間が開く。

「ほら、早く、まーちゃん」

「う、うん……」

 えーとえーと、これは普通のこと。欧米じゃ挨拶。女の子同士だからノーカウント。

 頭の中でぐるぐるとそれらを繰り返しながら──

 ちゅ。

 と、茉莉は志津香のほほにキスをした。

 かくして──

 毎朝キスで起こされる代わりに、行ってきますとおかえりなさいのキスをする約束をしてしまった、茉莉なのであった。

「……これって、えーと、ほっぺだし……セーフ……よね?」

 なんだかだまされているような気もしながら──茉莉は家を出た。



 昼休み。

 二年G組の教室で、いつものように机を並べ、茉莉といずと志津香は話をしていた。あの衝撃的な襲来から二週間以上経って、クラスメイトたちも志津香の存在に慣れてきたようだ。ときおり視線が向けられるが、あの時のような居たたまれなさはもう感じない。

 話の内容は、珍しく真面目に、大学の志望学科のことである。あいぞの学園高校では二年生の二学期から、『選択授業』のコマが週に五つ入るようになり、そこでだけ理系と文系とに別れることになるのだ。当然ながらその選択は、藍園学園大学の学科選択に影響してくる。その志望を提出する期限が、一週間後まで迫っていたのであった。

「学部はねー、さすがにちゃんと考えないと、将来に関わってくるわけだし……」

 人差し指をあごに当てながら茉莉が言うと、泉美は笑いながら、

「私の叔父さんもうちの学園出身なんだけどさっ、小説家になりたかったのに、漫画の影響で理工学部に行って大変な思いをしたらしいよっ」

「漫画の影響って……」

 茉莉が苦笑するが、泉美は真面目な顔でうなずいて、

「中学校の頃ハマった漫画の影響で、理工学部に入らなくちゃ、って思いこむようになったんだってっ。それまでは塾の先生に『理工系なんて大変だからやめといたほうがいいぞー。奴らがレポートで大変な思いしてる間、俺たちは遊んで過ごしてたからな』とか言われて文系に行く気まんまんだったらしいんだけどさっ」

「いや……それはまあいいとして、でもまあ、泉美も大学はあいがくに行くのよね?」

「あたしはもちろん藍学さっ。ほぼエスカレーターで家から近くて偏差値高いなんて、夢のような環境さねっ。それより、ひめみやさんはどうするんだいっ? 姫宮さんなら、もっと上のランクの大学も狙えるんじゃないかなっ?」

「私も藍学に行こうと思ってるわ」

 と、茉莉の肩に頭をあずけたまま志津香が言う。

「学科は? 考えてるの?」

 茉莉が尋ねると、しばしの間を開けてから志津香は、

「んー。……まーちゃんは?」

 茉莉はじとっと目を細めて、自分の肩にもたれかかる志津香を見やる。

「……しーちゃん、まさか私と同じ学科に入るとか言わないわよね?」

「……」

 つい、と目を逸らす志津香。

「だーっ! さすがにそれは私、責任取れないわよっ!?

 将来に関わってくる学部選びを、「まーちゃんと一緒のとこがいい」などと言われてはたまったものではない。なにしろ志津香は、学園トップの成績を誇るのだから。

 すると志津香は、

「でもね、結局文系なんかの場合、どの学科にいっても就職にはさほど影響しないって話もあるわよ? もちろんお医者さんとかみたいに、専門分野の職業に就きたいとかいうんなら話も別だろうけど」

 言うと、泉美もうなずいて、

「それを言うなら理系だって同じさねっ。結局大学のランクが大事で、勉強してきた内容はあんまり関係ないんじゃないかって、うちのお母さんは言ってるけどっ。だからこそ、自分の勉強したい分野を専攻できる学科に行くのが一番いいんじゃないかなっ?」

「勉強したいことかー」

 そう言われても、茉莉は悩んでしまう。

 今まで特に何事もなく、平凡な人生を送ってきた茉莉だ。何を勉強したいかと言われれば料理くらいなのだが、それは学問というより技術の方だ。そうすると藍学に進学するという話からして怪しくなってくる。料理には料理の専門学校があるだろう。

 そこで茉莉はふと疑問に思い、

「……で、泉美、その叔父さん、結局小説家にはなれたの?」

「うん、それがね、なんとなれちゃったのさっ。どっかの出版社の新人賞を受賞して、今は小説家やってるよっ。ただし、頭に『売れない』がつくけどねっ。お祖父ちゃんたちと同居してるから生活には困ってないみたいだけど、一人暮らしだったら大変だろうなっ」

 うーむ、人生なんて何がどうなるかなど分からないものだ。

 茉莉はそう考え、

「ふーん、やっぱり自分が今勉強したいことを勉強できる学科に行くのが一番かー。就職は、いざとなったら永久就職もあるから……ってのも、今の時代じゃないかな?」

「まーた、茉莉は乙女な夢を持ってるねえっ。うーん、どうなんだろ、だんさんによるんじゃないかなあっ。収入の問題とかもあるだろうしっ」

 泉美が言うと、志津香が肩から茉莉を見上げ、

「まーちゃん、私のお嫁さんになってくれたら、収入は保証するわよ? そのためなら受験勉強して、藍園学園大学より二ランクくらい上を狙ってもいいかなーとも思うし」

 茉莉はこめかみに汗、

「いや、それはちょっと……っていうか、法律で駄目って決められてるから」

「そこはほら、内縁の妻ってことで」

 うーん。そうすると、今の生活がずっと続くのかー。それも悪くもないかもなー。

 とまで考えて、茉莉は、はっと我に返った。

 いけないいけない、また流されるところだった。

「そんなの駄目よ、しーちゃん。だいたいしーちゃんぐらいの美人ならいくらでも結婚相手は見つけられるだろうし、そっちで考えた方が現実的じゃないの?」

 茉莉がいうと、志津香は悲しそうな顔をして、

「うー、まーちゃんが意地悪言うー」

「いや、別に意地悪ってわけじゃ……」

「なんだか今日はいつにもまして仲がいいねっ、お二人さんっ」

 などと、いつものようにして平和な時間は過ぎていった。

 放課後、茉莉が帰宅の途につこうとするまで。



 生徒総会も無事に終わり、今は生徒会も比較的忙しくない時期だ。だから今日は帰りのHRホームルームが終わるなり志津香がG組にやってきて、茉莉と共に帰ることになった。

 仲良く並んで歩く二人だが、昇降口では一度別れることになる。A組とG組の下足箱が離れているためだ。

 さてこの下足箱、扉を開けると内部は上下段に別れていて、上段に上履き、下段に外履きを入れるようになっている。茉莉が学校から帰ろうとしている今、下段にはお気に入りのローファーが置かれていて、上段は空っぽのはずである。

 だが。

 その上段に、水色の封筒が置かれていた。

 茉莉はそれを見た瞬間、誰にも見られないように周囲を念入りに確認し、素早く通学カバンの中へと放り込んだ。

 これって、もしかして、もしかして、もしかする?

 ラブレター。

 その単語が頭の中に浮かんで、茉莉はぼっと顔が熱くなるのを感じた。

 乙女チックなシチュエーションに弱い茉莉に対して、この攻撃はかなりの威力を持っていた。下足箱にラブレターなんて、古くさいようだがやはり憧れてしまうところがある。

「まーちゃーん、帰ろー」

 A組の下足箱から、茉莉とお揃いのローファーにき替えた志津香がやってくる。

「あ、う、うん」

 茉莉はこの封筒のことを誰にもられないようにしようと、瞬時に決めた。

「? どうしたの? 顔が赤いけど?」

「え、あ、いや別に何でもないの。それじゃあ帰ろっか」

 茉莉は自分から志津香の手を取ると、いささか早足で学校を出た。

 カバンの中に放り込んだ、水色の封筒のことを気にしながら。




 家の前にたどり着くと、志津香は門の前で立ち止まり、

「まーちゃん、先に玄関入って?」

 と言った。茉莉が何だろうと思いながら玄関扉を開けて中に入り、靴を脱いでいると、志津香が入ってきた。

「ただいま、まーちゃん」

「え、あ、うん、おかえり、しーちゃん」

 玄関マットの上に腰を下ろしたままの茉莉と、扉を閉めたままの志津香が、しばしそのまま無言で見つめ合う。

「……」

「……」

 我慢しきれなくなったのは、案の定、志津香の方であった。

「おかえりのちゅーは? 約束したでしょ?」

 ああ、そうだった──と思う。手紙のことで頭がいっぱいになっていたが、そういえば今朝そんな約束をしたのだった。

「おかえり、しーちゃん」

 ちゅ、とほっぺたにキスをする。すると志津香はうれしそうに笑って、

「おかえり、まーちゃん」

 お返しとばかりに、ちゅ、とほっぺたにキスをしてきた。

 茉莉の顔が真っ赤に染まる。ものすごく恥ずかしいが──可愛い妹のすることだと思えば悪い気はしない。無理やりそう思いこむことに決める。これはこれから毎日の習慣になるのだ。早めに割り切っておかなければならないだろう。

 茉莉はそう考えて、

「それじゃあ、着替えるから部屋に行くね」

 と、自室へと向かった。

 さて。

 茉莉は制服姿のまま、机に腰を下ろした。

 カバンを机の上に置き、一番上に放り込んでおいた水色の封筒を手に取る。

 表には確かに「茉莉さまへ」と書かれており、裏側には何も書かれていなかった。のりで封をするのが忍びなかったのか、星形のシールが貼られている。

 茉莉は封筒の表面が破れないように、そっと星形のシールをはがした。ぺり、と小さな音を立ててシールがはがれ、封筒の口が開く。

 茉莉はどきどきを抑えるように一度自分の胸を押さえ、深呼吸してから、中身を取り出した。中には、封筒とセットで買ったのだろう、水色の便せんが一枚だけ入っていた。


『突然お手紙を出してすみません。

おれは、二年A組のうえすぎけんです。

回りくどいのは苦手なので、単刀直入に書きます。

阿部茉莉さん、俺と付き合ってくれませんか?

明日の放課後、特別授業棟の裏にあるだんのところで待ってます。

そこで返事を聞かせてくれると嬉しいです。

それでは。

二年A組 上杉 健』


「……」

 茉莉はその手紙を、三回読み返した。最後は口の中で声に出して読んだ。

 間違いでも、勘違いでも、人違いでもない。

 このラブレターは、茉莉にあてて書かれたものだった。

 上杉健。確か今は生徒会副会長をやっているが、遠い記憶の彼方にもその名前はあった。

 まだ茉莉が藍園学園小学校に通っていたころ、同じクラスだった男子だ。

 勉強ができ、運動もできたことから、女子から人気があったことを覚えている。そういえば一度だけ、茉莉が給食委員にすいせんされてなってしまった時、男子の給食委員に立候補したのが上杉健だった。大変な居残り仕事などは率先してやってくれて、おかげで茉莉はかなり助かったのを覚えている。──それを考えると、ひょっとしてあの頃から──? とも思えてしまう。

 その時だった。

「まーちゃん、入っていい?」

 わたたたたっ、と茉莉は慌て、便せんを封筒につっこんで、引き出しの一番上の段にしまった。それから何事もなかった風を装って、

「う、うん、いいよ」

 すう、とふすまを開けて入ってきたのは、花柄の薄いピンクのワンピースにスパッツ姿の志津香だった。椅子に座っている茉莉を不思議そうに見やり、

「? 着替えないの?」

「あ、うん、えっと、ちょ、ちょっと今日の授業で復習しておきたいところがあって、すぐにやらないと忘れちゃいそうだったから、確認してたの」

 茉莉が慌てて口からでまかせを言うと、志津香はちょっとすねたような顔をした。

「そんなの、私に聞いてくれればいくらでも教えるのに」

「だって、しーちゃんに聞いたら絶対何か代わりに『お願い』があるでしょ?」

 茉莉が悪戯いたずらげに笑って言うと、志津香は口をとがらせて、

「そんなことないわよ。勉強を教えるくらい、ただでやってあげるわ」

「こないだは宿題と引き替えにタルトを作らされたけど?」

「宿題と自習は別よ」

 志津香はそう言って、茉莉そっくりの悪戯げな笑みを浮かべた。

 茉莉は笑みを苦笑に変えて、

「──それにしても、しーちゃんってワンピースが好きなの? 私、スタイルが出ちゃいそうだし、着こなしも難しそうだなって思って、あんまり着ないんだけど」

 茉莉が言うと、志津香は自分のワンピースのすそを軽くつまんで、

「スタイルはそれこそ着こなしでいくらでも誤魔化せるし、着こなしだって難しくないわよ。今日みたいに暑い日はワンピースだけでもいいし、春や秋は上にカーディガンを羽織ったりシャツを重ね着したりしてもいいし、冬になったらそこにショールとタイツを足してみるとか、それぐらいのことで可愛く見えるものよ?」

「それはしーちゃんが美人だからっていうのを計算に入れてないでしょ? 同じ服を着ても、しーちゃんなら似合っちゃうっていうのが実際にあるんだからね」

 茉莉が言うと、志津香は少し考える風な間を置いて、

「でも、まーちゃんにはまーちゃんの可愛さがあるわ。だから告白なんてされるんだし」

!?

 茉莉は慌てて、背後の机を見やった。机の上には何も置かれていない。確かに便せんも封筒も引き出しにしまわれている。

「ど、どど、どうして知ってるの!?

 志津香は人差し指を立てて、

「上杉くん、同じクラスなのよね。それで、昨日聞かれちゃった。『姫宮と阿部って恋人同士じゃないよな?』って」

「な、なんて答えたの!?

「もちろん、恋人同士じゃないわって答えたわよ。そしたら『俺、明日、阿部に告白しようと思ってる。姫宮には負けないからな』って。恋人同士じゃないって言ってるのにね」

 そう言って、志津香は微苦笑を浮かべた。

「どうするの? 返事」

「……どうするって……」

 茉莉が口ごもると、志津香は続けた。

「上杉健。やや女性的なルックスが受けて女子からは人気。学業成績は優秀、同時に現在はサッカー部のエースストライカーとして活躍中。一年時に生徒会副会長に推薦され、二位に圧倒的票数をつけての当選を果たしたほどのカリスマ性の持ち主──ちなみに現職。以上、かなみちゃんの個人情報ファイルより抜粋──なんてね。私としては、もうちょっと生徒会の仕事の方に力を入れて欲しいところなんだけれど。サッカー部の方でも彼はなくてはならない人材らしくて、今は秋から始まる全国高校サッカー選手権へ向けて猛練習中。そこにさらに恋愛しようだなんて、欲張りな高校生活ね」

「そんなすごい人になっちゃってたんだ……」

 噂話にはややうとい茉莉は、ただの生徒会副会長という認識を改めた。

 サッカー部のエースストライカーで、

 生徒会副会長で、

 ルックス抜群。

(……そんな相手に、私が釣り合うはずないじゃない)

 それこそ志津香となら似合いのカップルになるのではないか──と思う。

「まーちゃんのことだから、私なんかじゃ釣り合わないって思ってるでしょ?」

 ずばり核心を突かれて、茉莉はしょんぼりとうつむいた。

 すると、志津香が近寄ってくる──す、と伸ばした右手が茉莉の顎に触れる。

「まーちゃんは、自分で気づいてないだけで、すっごく魅力的よ」

 そう言って、志津香は茉莉の顔を軽く持ち上げると──

 キスをした。

 唇と唇で。

「ちょっ!?

 茉莉が慌てて椅子から転げ落ちそうになると、志津香はそれを優しく受け止めた。

「ちょ、ちょ、ちょちょちょちょっと、いきなり何を、」

 今朝、口と口でのキスは嫌だと言ったばかりである。それなのに──

(セカンドキスも……しちゃった……)

 茉莉はなんとか椅子に座り直すと、

「な、何するのよ、しーちゃんっ! 今朝の約束はっ!?

「あれは寝込みを襲わないっていうだけの約束でしょ?」

「えええっ!? 唇同士のキスはアリなの!?

「挨拶よ、挨拶」

 志津香は笑って言うと、身を翻して茉莉に背を向けた。ワンピースの裾が遠心力でふわりと持ち上がる。そのまま顔だけで振り返って、

「まーちゃんが私と上杉君のどっちを取るのか、楽しみにしてるわ」

「そういう問題じゃないんだってばーっ!」

 茉莉は両手をももの間に挟み、志津香の出て行ったふすまをしばし見つめていた。志津香の柔らかな唇の感触が、まだ鮮明に残っている。

(お付き合い……か)

 自分とは縁のない世界だと思ってたのに──あまりの急展開に、頭がついてこない。

(とりあえず……着替えて、夕飯の支度しよう……)

 茉莉は胸の中にもやもやとしたものを抱えたまま、ドレッサーへと向かった。



 翌日。

 二回目の目覚ましのあと、ゆさゆさと身体を揺すられて、茉莉は目を覚ました。

「ん……おはよ、しーちゃん」

 言うと、志津香は横を向いて正座した。

「?」

 茉莉には意味が分からない。

「何?」

「おはようのちゅー、して?」

 茉莉は、布団の上に倒れ込みたくなるのを我慢して、

「それは行ってきますとただいまだけにするって約束したでしょーっ?」

「ほっぺたのちゅーなら、いいでしょ?」

「うう……そういう問題じゃないのに……」

 と言いながら、茉莉はまだ慣れない仕草で志津香の頬にキスをした。

「おはよ、まーちゃん」

 そういうと、志津香も茉莉の頬にキスをしてくる。

 軽く触れる程度のキスとはいえ──

(……あー、なんかもう、考えるのはやめよう……)

 茉莉はそう考えて、布団の中から起き出した。志津香は名残惜しそうな素振りを見せながら、茉莉が着替えるために部屋を出ていく。

 それから朝の支度をして、いつものように朝食の準備をして(もちろん志津香は茉莉の周りをちょろちょろしていた)、学校へと出かける時間になった。

「いってきますのちゅー」

「はいはい」

 茉莉は志津香の頬にキスをすると、二人手をつないで、家を後にした。

「それでまーちゃん」

「ん?」

「返事どうするか、決めたの?」

「んー」

 昨日のラブレターは、今も変わらず茉莉の机の引き出しの一番上に入っている。

 その返事に関しては──

「……まだ決めてない」

「そうなんだ」

 志津香は何か考えるように間を置いたあと、

「でもまあ、上杉くんになら譲ってもいいかなー、と思わなくもないかなあ」

「何を?」

「まーちゃんを」

「……私は別にしーちゃんのものじゃないんだけど……まあ、ともあれ昼休みまでには決めるわ。泉美にも相談してみてね」

 そういうと、志津香は茉莉を横目で見つめ、

「……」

 何も言わないまま、視線を外した。




「そりゃ茉莉、OKするべきに決まってるじゃないのさっ」

 朝のHR前、泉美に事のあらましを説明すると、返ってきた第一声はそれだった。

「だってあの上杉くんだよっ? 密かにファンクラブまでできてるって噂だよっ。それが告白してきたなんて、断わる理由が見つからないじゃないのさっ」

「……私の好みとかは?」

 茉莉がぽつりと呟くと、

「茉莉の理想ってのはそんなに高いのかいっ? 大体考えてみれば、今まで私は茉莉の好みってのを聞いたことがないよっ。それともやっぱり姫宮さんの方がいいのかなっ?」

 朝からテンションの上がった泉美に、茉莉は頬をかいて、

「いや……それはないけど。理想っていうか、なんかまだ男の人とお付き合いするのって、自分には関係ない話のような気がするのよねー」

「高校生にもなって何を言ってるのさっ。今のご時世、早い子なら小学生でカップルだっているくらいだよっ。それを、おそらくは藍園学園高校ナンバーワンのモテ男に告白されて、断わる理由が分からないよ、私はっ」

 泉美はこぶしを握りしめて言うのだが、茉莉は机にへばって、

「あー、多分それだわ、私が迷ってる理由って」

「うん? 理由? 聞かせてもらおうじゃないさっ」

 泉美は茉莉の机の上に腰掛けて、茉莉を見下ろした。

「有名人とのお付き合いは疲れる。だって、同性のしーちゃんの時ですら、しつがすごかったんだよ? 別に付き合ってるわけでもなんでもなくて、ただ仲良くしてるだけなのに。それが男女の関係として公に付き合うなんてことになったら、それこそ女子の嫉妬を一身に受けそうで怖いのよ」

「そりゃ茉莉、ぜいたくってもんだよっ。有名税はどんなとこにも付いてくるものさねっ。それとも何かい、他に気になる男子でもいるのかいっ?」

「いや……それもいないんだけど……わざわざ有名税払ってまですごい人と付き合いたくないなー、ってのはあるかなー。私の理想はね、つつましくてもいいから、私だけを見てくれて、優しくしてくれる人よ。モテる人って、他からの誘惑も多そうじゃない? しーちゃんみたいに芯が通った性格してればそういうのにも負けなさそうだけど……」

「上杉くんが浮気するってのかいっ?」

「いや、そういうわけじゃないけど……っていうか、泉美ひょっとして、上杉くんのこと好きだったりする?」

 茉莉が言うと、泉美はぱたぱたと手を振った。

「あはは、あたしはああいうのはタイプじゃないよっ。まあ、誠実そうだとは思うけどっ。とにかく放課後まではまだ時間があるんだから、後悔しないよう悩むことだねっ」

 泉美がそう言ったところで、朝のHRのために担任教師が教室に入ってきた。泉美は慌てて自分の席へと戻り、茉莉は考えへと沈んでいく。

(確かに男の人に好かれるなんてこと一度もなかったし、何事も経験だって言うし、断わっちゃうのはもったいない気もするけど……)

 教師が何やらしゃべっている。その言葉の一欠片すら、今の茉莉には入ってこない。

「聞いてるかー、阿部ー、おーい」

(私が男の人と付き合うって言ったら、しーちゃんはどう思うんだろう……朝は上杉くんになら譲ってもいい、なんて言ってたけど……)

「あーべー! あべー! 聞いてるかーっ!」

「ちょ、ちょっと阿部さん? 先生呼んでるわよ?」

 後ろの席の女子に肩をつつかれて、ようやく茉莉は先生に呼ばれていることに気づいた。

「あ、は、はいっ、すみません、聞いてませんでしたっ!」

 茉莉は慌てて姿勢を正し、担任教師を見やる。

「お前にしては珍しいな、阿部。しっかり聞いてろよ、理系文系選択の話だからなーっ」

「は、はいっ」

 クラス中から失笑が起こる。

 茉莉は顔を赤くしながら──まだ、放課後のことを考えていた。



 昼休みまでの四時間の授業は、あっという間に過ぎていった。

 何一つ頭に入らなかった。

 ぐるぐるぐるぐると──同じ事ばかりを考えて、授業など聞いていなかったから。

 ──どうしよう。

 茉莉の悩みを一点に集約させれば、ただそれだけに尽きる。

 まだ答えは決まっていなかった。

(お付き合い……か)

 男の人とのお付き合い。

 あこがれたことがないわけじゃない。

 むしろ、夢みていたほどだ。

 だけど──

「まだ悩んでるの? まーちゃん」

 気がつくと、お弁当包みを持った志津香が目の前に立っていた。

「あ、しーちゃん」

「机も動かしてないじゃない……仕方ないなー」

 と言うと、志津香はいつも通りの配置に机を動かして、茉莉の隣に腰を下ろした。

「まーちゃん」

「んー?」

 茉莉は両の手で自分を抱きしめるようにしながら、どこか遠くへと視線を投げている。その表情は暗く、とても良いことがあったようには見えない。

「悩んでるくらいなら、とりあえずOKしちゃえば?」

 志津香の言葉に、茉莉は意外そうな顔をする。

「しーちゃん……反対じゃないの?」

「本音を言えば、まーちゃんが誰かのものになっちゃうのは嫌だけどね。でも、まーちゃんの恋路を邪魔するようなこともしたくないのよ」

 志津香は言って、茉莉の頬をつついた。

「断わったあとで付き合うことはできないんだし、とりあえずOKしちゃって、デートの二、三回もしてみて、それで合わないと思ったら別れちゃえばいいんじゃない?」

「……それって、何か不誠実な気がする」

 茉莉は机の上に両腕を組んで、その上に顎を乗せる。

「それなら最初っから断わった方がいいって思うし……でも、断わったら傷ついちゃうかなとも思って……」

「茉莉、別れる、断わるのが前提なのかいっ?」

 茉莉の視界に、ぽすぽすっとヤキソバパンとチョココロネが落ちてきた。がららとを引いて茉莉の向かいに腰を下ろしたのは、言うまでもなく泉美だ。

「もしかしたらすっごく相性が良くて、今から付きあい始めて交際歴十年で結婚とかいうパターンだってあるじゃないさっ。ポジティブに考えようよっ」

「うーん……」

 茉莉は頬に手を当てて机の上にかたひじつくと、ほお、とため息をついた。

「私……恋愛に憧れてたけど……自分から告白するってパターンしか考えたことなかったのよね。自分の理想の人がいたら、その人のために何でもできると思うわ。でも、告白されちゃうと……好意はもちろん嬉しいし、応えてあげたいとは思うけど……」

「とにかく、ご飯にしよう?」

 志津香がそう言って、弁当箱を開くと、いつもの茉莉弁当とは大違いの、冷凍食品ばかりのおかずが詰められていた。いつもなら冷凍食品など一品がせいぜいだ。

「……お弁当にも影響が出てるのね」

 志津香が珍しく弁当を見て声を落とすと、泉美は笑って、

「まあ、今日解決するんでしょっ。一日くらい我慢我慢っ」

 と言って、ヤキソバパンの袋を開ける。

「……泉美は、いっつもヤキソバパンとチョココロネでよく飽きないわね」

 志津香が言うと、泉美は笑みを浮かべたまま、

「好きなものは毎日食べても飽きないさねっ。まあ、たまに茉莉のお弁当がうらやましくはなるけどねっ」

「それなら、今度から三つ作るようにしようか? 手間は大して変わらないから……」

 茉莉が言うと、泉美はにっと笑って、

「それが四つになるかもしれないねっ。いや、そしたらあたしらの分なんかなくなっちゃって、愛妻弁当オンリーになっちゃうのかなっ?」

「あ、愛妻って……」

 茉莉が頬を赤らめてうつむいた。

「うーん、恋愛自体に嫌悪感があるわけじゃあないみたいだし、やっぱりとりあえず付き合ってみちゃうのがいいんじゃないかしら。まあ、本当は愛妻弁当は私に欲しいんだけど」

 志津香は言って、いつもより数段味の落ちる弁当にはしを入れる。

「だから……ううん、あとは一人で考えさせて」

 茉莉はそう言うと、自分の弁当箱を開けて、もくもくと弁当を食べ始める。

 いつもより味の落ちる弁当が、さらにまずく感じられた。



 放課後──

 茉莉は昇降口でローファーに履き替えると、特別授業棟の裏へと向かった。

 特別教室棟は、茉莉にとってはあまり縁の無い場所だ。週に一度、美術の授業で一階にある美術室に来るくらいである。とはいえ美術室は窓が大きく、外の様子も良く見えるようになっているため、そこにコスモスのだんがあることを茉莉は知っていた。

 そのコスモスの花壇にたどりつくと、まだそこには誰もいなかった。

 帰りのHRが終わってすぐに来たのだから、無理もないかもしれない。それが証拠にいつもならHRが終わるとすぐにG組にやってくる志津香ともまだ会っていない。志津香と上杉は同じクラスなのだから、まだHRが終わっていないと考えるのが筋だろう。

 茉莉は、既に答えを決めていた。

 ここに来る直前に、やっと。

 茉莉が花壇のれんに腰を下ろし、五分も経たないうちに、上杉はやってきた。

 おそらくHRが長引いたことは意識していたのだろう、その息は乱れていた。

「はあ……はあ……待たせてごめん、阿部」

 久しぶりに見る上杉は、噂通りの美形青年へと成長を遂げていた。線の細いりんかく、さらさらとした前髪に意思の強そうな太い眉。切れ長のひとみ。茉莉は、これならモテるのも無理はないなあ、と思った。

「ううん、そんなに待ってないよ」

 茉莉は立ち上がって、スカートについた埃を払った。それから背後の花壇を示し、

「上杉くんのことだから、知ってて選んだんだよね、コスモス」

 その言葉に、上杉は照れくさそうに頭をかいた。

「花言葉『乙女の愛情』……ロマンチックでいいなって思うよ。もし私が答えを決めないでここに来てたら、それに気づいてOKしてたかもしれない。コスモスの一輪でもつんで、あなたに渡していたかもしれない」

「……」

 その前振りに、上杉の顔が曇る。

 茉莉は、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい。私、あなたとお付き合いすることはできません」

 上杉はよほどショックを受けたのか、校舎の壁に背をもたれかからせ、肩を落とした。

「ふう……悪い予感はしてたんだよなあ……」

 茉莉は自分がフったというのに泣きそうな顔をして、それでもなんとか微笑んだ。

「ごめんね。……でも、まだ私、恋愛とか、そういうことよく考えてないんだ。男の人と付き合って、今の生活に変化が出ちゃうのが怖いのかもしれない」

「怖い?」

「うん」

 茉莉はうなずいて、胸の前で両手の指を絡ませた。

「だって、何から何まで変わっちゃうと思うんだ、きっと。今は妹と姫宮さんに栄養を考えて作ってるお弁当も、彼氏のためだけに、好きなものばかり入れて作るようになっちゃうかもしれない。家庭のための買い物の時間だって無くなっちゃうかもしれないし、それ以前に勉強に身が入らなくなっちゃうかもしれない。……あはは、意志弱いからね、私。それに、ここ数週間で私の周りにはいろんなことがあったの。正直どれも、今までの私の人生からは想像もできないことばかりだった。だから、これ以上変化があると、ちょっと耐えられそうにないんだ、今は」

 上杉は、その答えをちんうつな表情で聞いていたが──ややあって、笑みを浮かべた。

「ふう、あきらめろってことか」

「ごめんね、優柔不断で」

「いや、でも、安心したよ。他に好きな奴がいるわけでもなければ、嫌われてるわけでもないってわかったから。確認しておくけど、姫宮がいるからってわけじゃないよな?」

「し、しーちゃんは関係ないよっ」

 茉莉が慌ててぱたぱたと両の手を振ると、上杉は小さく笑った。そして真剣な顔をし、

「姫宮と最近すごく仲がよかったからさ。慌てて告白しちまったけど──じゃあ、いつかまた、告白するようなことがあっても──構わないかな」

 茉莉は、精一杯笑顔を浮かべて答えた。

「こんな私でよければ。……でも、上杉くん、女子からすごい人気があるの知ってるの? 私、なんだか恨みを買っちゃいそうだわ」

「俺に人気?」

 上杉は、意外なことを聞いた、という顔をする。どうやら人気がある人物ほど鈍感らしい──しーちゃんも自分に人気があるって自覚してなかったな、と茉莉は思う。

「そうだよ。ファンクラブまであるんだから。そのへんの女の子に告白すれば、十中八、九はOKしてくれるんじゃないかな」

「……残念ながら、俺が好きなのは阿部茉莉、一人だけなんだよ」

 茉莉はどきんとして──しかし、申し訳なさそうに笑った。

「ごめんね。たまたま十人中の一人だったみたい」

「ついてねえなあ、俺も」

 上杉はそう言って、ふうと息を吐き出した。そして、そこいらの女子が見たら一発で恋に落ちるような、うれいに満ちた、しかし魅力的な笑みを見せた。

「それじゃあ、阿部、返事ありがとな。もう、行ってくれるか? 俺は──しばらくここにいたいと思う」

「うん、分かった……それじゃあ、またね」

「ああ──またな」

 茉莉は小走りに、特別教室棟の裏から走り去る。

(ごめんね、ごめんね、ごめんね)

 何度も、何度も、心の中で上杉に謝りながら。

 昇降口の前まで行くと、そこには志津香が待っていた。

「……その顔。フってきちゃったんだ?」

「……うん」

「泣くぐらいならフラなきゃいいのに」

「……いいの」

 茉莉は自分から左手を出して、志津香はそれを右手で握った。

「でも、私はちょっと嬉しいな」

「……ばか」

「それじゃ、帰ろっか」

「うん」

 すっかり桜の散った桜並木を、二人は並んで歩いていく。

 住み慣れた我が家へと向かって。



「男子をフった?」

 どうして目が赤いのか、との問いにそう答えると、かなみはますます怪訝な顔をして、

「ではなぜ茉莉が泣くのだ。理解しかねるが」

「年頃になるとね、色々あるのよ」

 志津香がそう言って、かなみの頭をぽんぽんと叩いた。かなみは、例のグラフォトン生命体──グラと名づけたらしい──を右手でわしづかみしたまま、

「……よほど性格に問題があったのか? 例えば……そうだな、『今日から俺のことをお兄ちゃんと呼んでくれないか?』と言われたとか」

 グラはかなみに頭をつかまれたまま、どこか遠くを見つめるような目をしてだらんと四肢を垂らし、じっと動かない。実に隔世感あふれる生物だ。

 茉莉は笑って、

「違うわよ。生徒会副会長で、サッカー部のエースで、男版しーちゃんって感じの人」

「……やはり理解しかねる。どうしてフったのだ?」

「いや、うーん。どうしてって言われると困るんだけど、なんか、恋愛ってまだ遠い存在のような気がするのよね」

「……高校生にもなって。だからこういう道に走る」

 と、かなみが示したのは百合百合マガジン最新号であった。

 その表紙、可愛い女の子同士が見つめ合っている絵を、茉莉はしばし見やる。

「……やはり、そうなのか?」

「うー……違う、違うわよー」

「もしかして志津香さんがいるかられすか?」

 あるてみすにまでツッこまれて、茉莉は両の手をぶんと振り上げた。

「だー、ちがーう!」

 茉莉は叫んで──

「とにかく、着替えてくる」

 と言って、足早に茶の間を後にした。

 自室に引っ込むと、制服をハンガーにかけ、ドレッサーから──夏向けのワンピースを取り出す。白くてフリルのついた、少し志津香の緑のワンピースに似ている品だ。それを身に着けて鏡の前に立つと、やはり少し胴が太く見えた。

 鏡に映った自分は、一ヶ月前となんら変わらないごく普通の女の子だった。それなのに、あの志津香と同居することになって、しかもものすごく懐かれてしまった。それに加えてあるてみすの登場に、世界の平和を守るための戦いだ。何もかもが以前とは違う。しかも──そんな破天荒な毎日を、どこかで楽しんでいる自分すらいる。平凡でつつましい生活こそが自分には一番似合っていると思っていたのに。

(それに……男の子に告白されて、それをフったんだよね……上杉くん、傷ついちゃったかな……落ち込んだりしてなければいいけど……)

 ──などと思っていた、そのときだった。

「大変大変大変なのれーす!」

 あるてみすの声が家中に響き渡った──というか、叫びながらあるてみすが家中を駆けずり回っていた。

 茉莉が顔を出すと、隣の部屋からかなみも顔を出す。その手には相変わらずグラがだらんとぶらさがったまま、どこか人生を達観したような瞳で前を向いている。

「何事だ? やかましい」

「さあ……何だろうね」

 そこへ丁度やってきたあるてみすは、

「今すぐお茶の間に全員集合なのれす!」

 と叫んで、茶の間へと消えて行った。

 グラを両手で抱えたかなみと二人で茶の間に向かうと、そこには既にスカートとブラウスに着替えた志津香が待っていて、あるてみすはプレート上のしようぞうと共に、例のグラフォトン貯蔵タンクのコンソールを渋い顔で眺めていた。

「どうしたの?」

「どうもこうもないのれす! 緊急事態なのれす!」

「それじゃちっとも分からないわよ。落ち着いて、あるてみす」

 志津香にたしなめられたあるてみすが黙ると、プレート上の彰造が振り返った。

「いや……君たちには申し訳ないとしか言いようがないのだが」

 彰造らしからぬ語り出しに、誰もが嫌な予感を抱く。

「二回目の圧縮が失敗したのは誰の目にも見てのとおりであったのだが、どうやら一回目の圧縮ですらもまっていたエネルギーの十分の一程度しか処理できていなかったことが判明した。現在タンクは許容量を超えてレッドゾーンにあり、もはや一刻の猶予もない。君たちには至急戦闘体勢に入ってもらいたい。圧縮するエネルギー総量が大量になるため、戦闘もれつを極めると想定される。前回のようなことがあったからといってゆめゆめ油断せぬよう、全力をもってグラフォトン生命体の消滅に当たって欲しい」

 あるてみすの手から、三人にイヤリングが渡される。

「最初ので、十分の一?」

 茉莉が言って、志津香が顔を曇らせる。

「あれの十倍は……ちょっと考えたくないわね」

「ともあれ、やるしかあるまい」

 かなみがそう言って、グラをぽいとテーブルの上に放り投げた。ゴムまりのようにふにゅんふにゅんと弾んで、グラは動きを停止する。

 三人は真剣な面持ちでイヤリングを手に取り、耳にはめた。

 茉莉は彰造のプレートの赤いスイッチを押して電源を切り、

 そして、変身する──

「スイートチェンジ、シュガークラフト!」

 三人の姿が白い光に包まれて──光が消え去った時、三人が身にまとっていたのは、だぶだぶの白いYシャツにショーツだけであった。

「ちょ、これ、下手に動いたら下着が見えちゃうじゃないっ!」

「それどころか……ブラもないのは何でなの……?」

えというのはごうが深いな」

 三者三様の感想を聞き終えて、あるてみすは叫んだ。

「それはだぶだぶYシャツオンリーなのです!」

「見れば分かるわよっ!」

 茉莉の叫びを無視し、あるてみすはコンソールの上で手を走らせる。

「男のロマンなのれすよっ! さあ、問答をしている時間はないのれす、圧縮機をスタートさせるのれすよ。今度こそ、すいっち、ぽん!」

 その瞬間──

 茉莉たちの視界には、茶色い壁が落ちてきたようにしか見えなかった。

 桜の樹が押しつぶされてめきめきと音を立てて折れ、土煙を上げて壁は着地する──

 上を見上げて、ようやく分かる。

 それは、巨大なハニワ(?)であった。

 阿部家の広大な庭だからこそ現れられたのだろう、直径十メートルほどの円筒状をしており、全高は十五メートルほど。顔とおぼしき部分に三つの穴が空いていて、それぞれが目と口とを示しているようだった。

「な、何よこれーっ!」

「ちょ、大きすぎるのれす、想定外れす」

「それより、見て、あそこっ!」

 ハニワの胴部正面に扉のようなものが開き、中から円筒状のハニワとそっくり同じ形をした人間大のものが次々と現れ出てきていた。足はついていないので、全身をバネのようにしてぴょこぴょこと跳ねて移動している。

「と、とにかく戦おう!」

「え、ええ」

「了解した」

 三人はあるてみすの手からそれぞれの武器を受け取ると、庭に飛び出した。跳躍した拍子にYシャツの裾がふわりとめくれあがり、あわやショーツが見えそうになる──あるてみすのカメラがそれを追うが、惜しくもそれを捉えることはできなかった。

「くぅぅ、今回は三人のショーツをなんとしてでも捉えたいれすのに……いや、でもこれはこれで萌えるのれす……!」

 かなみはそんなあるてみすのおうのうなど知る由もなく、

「しかし、人間大のそれにしても武器を振れるような腕がついていないが──」

「どうやって攻撃してくるつもりかしら?」

 その疑問に応えるかのように、先陣切って突っ込んできた一体のハニワが、口と思われる穴から熱光線を発射した。狙われた茉莉はとつのことに反応できず、それを正面から──

 食らわなかった。志津香の振るったいつとうせんの切っ先が、熱光線を受け止めていた。

「そう簡単にっ」

 志津香は熱光線の照射が止んだのを確認して、一気にハニワとの間合いを詰める。

「やられるものですかっ!」

 突き出した一騎刀千の切っ先が顔の中央に四つめの穴を空けると、ハニワはあっさりとぽんと音を立てて煙と化した。

「まーちゃん、かなみちゃん、こいつらそんなに強くないわっ!」

 志津香が一陣のふうと化す。ハニワの群の中に突っ込んで一騎刀千を振り回す、その一振りごとに一体どころか二体三体とハニワが煙と化して行く。舞うような動きに合わせてYシャツの裾が揺れ、ふとももを露わにするが──ショーツはぎりぎりで見えない。あるてみすのカメラはその太腿と、大きく開いた胸元からぎりぎりで映りそうな隆起を追っている。

「かなみっ! 私はしーちゃんの援護に回るわ。あなたはそれで、あの大きいのをお願い」

つかまつる──!」

 M202A1が火を噴いた。胴部にどごーん、と巨大な爆炎が立ち上り、しかし巨大ハニワには傷一つ付いた様子もない。

「く──火力不足だというのか!」

 続けて二射、三射は顔面に穿うがたれたこうこうを狙った。狙いあやまたず口腔へと飛び込んだM74しよういロケット弾が爆発し、まるで巨大ハニワが口から火を噴いたように見える。口の中での爆発はさすがにキツイものがあるのか、巨大ハニワが身体を大きく揺らす。同時に地面がぐらぐらと揺れて、踊るように一騎刀千を振り回していた志津香がバランスを崩して転倒しそうになる。

「しーちゃん!」

 そこを狙って熱光線を放とうとしたハニワを、茉莉のたねしまが撃ち抜いた。ハニワはぽんと音を立てて白煙と化す。爆風にYシャツがはためき、茉莉のももあらわにする。

(れも、ショーツは見えないのれすっ! なんというチラリズムれすかっ!)

「ありがとっ、まーちゃん!」

 志津香は体勢を立て直すと、再び舞うように薙刀を振り回し始める。おそらく演舞の型か何かなのだろう、しかしそれは恐ろしく的確に、ハニワを一匹、また一匹と仕留めていく。志津香の胸は布一枚越しに大きく躍動し、大きく開いたYシャツの胸元からは谷間がのぞくのだが──その先端が映るまでには至らない。あるてみすにはそのぎりぎり加減がたまらない。

「でも、いてくるハニワも止まらないよっ!」

 茉莉が叫んだように、今もまだ巨大ハニワ正面の扉のような穴からは、次から次へとハニワが現れてくる。茉莉は先ほどからそこを狙い撃つことに集中していたのだが、もうかれこれ二十匹は撃ったというのに続々と現れるハニワが枯れる気配はまったくない。

「やはり、元を断たねばならぬか──」

 そう言って突っ込んできたのは、かなみだった。

 間近から熱光線を放とうとしてきたハニワを、遠心力を利用して思い切りふるったM202A1本体でぶん殴り、ぽんと消滅させる。

「口腔でも駄目なら、ここしかあるまいっ!」

 茉莉が出口から出てきたハニワを撃破した瞬間、かなみはM202A1のトリガーを引いた。何も邪魔するものなく、ロケット弾がハニワ出口の中へと飛び込む──

 どごーん! と音がして、しかし期待していたような、ハニワたちが消えていく「ぽぽぽぽぽぽん」という音は聞こえてこなかった。代わりに、その一発が相当効いたのか、巨大ハニワが身体を前後に揺すって苦しがる。

「内部でハニワを製造しているのか……? 一網打尽にするつもりだったのだが」

 再び出口からハニワが出てきたのを見て舌打ちし、かなみは一旦後ろへと下がる。弾数に限りがあって一番の火力を誇る自分は、巨大ハニワを相手にしなければという判断だ。

 再び、茉莉が出口から出てくるハニワをせんめつし、既に外に出ているハニワを志津香が倒し、遠距離から巨大ハニワめがけてかなみが砲撃するという図式に戻る。

 戻ったのだが──

 ついに巨大ハニワが攻撃を始めた。はるか頭上にある口腔から、巨大な光線を放ち始めたのだ。志津香はそれを悠々と避け、かなみには届かず、茉莉もなんとかそれを避けた。

 そんな一進一退の攻防が十分近く続いた。しかし──

 集中力が最初に切れたのは茉莉だった。

 巨大ハニワから放たれた熱光線の一条を避け、しかしその際に破砕された庭石の破片を避けることができなかった。すさまじい勢いで砕け散った石の破片が茉莉の頬をかすめる。

 ぴ、と血のしずくが飛び、

 それを見た瞬間、志津香がキレた。

「……まーちゃんにケガさせた」

 志津香の舞が勢いを増した。周囲のハニワを斬り倒しながら、徐々に周囲にスペースを確保していく。そして──

「いい加減にしなさいっ!」

 志津香は叫んで、巨大ハニワに一騎刀千を突き刺し、ほぼ垂直と言っていい巨大ハニワの身体を駆け上り始めた。巨大ハニワに一筋の傷が付いていく。下からのアングルでついに志津香の水色ショーツが露わになって、あるてみすが小さく歓声をあげた。そして志津香は、一騎刀千を巨大ハニワに突き刺したまま、反対側へと飛び降りた。一騎刀千にぶらさがるように、自分の重量を利用して、巨大ハニワに切り傷を付ける。

 志津香が着地し、

 一瞬、何も起こらなかったように見えたが──

 志津香が付けた傷、それに沿って、

 ぱか、と──巨大ハニワが真っ二つに割れた。

 そして、ぼん、と音を立て、煙と共に消える。