庭に残された茉莉は、かりかりと頬をかき、

「えっと、ナノ、って……」

「十のマイナス九乗、すなわち十億分の一を意味する」

 かなみがぽつりと呟き、志津香は肩すかしを食らった顔で、

「放置しても構わない、ってことだし、倒すのはやめにしない?」

 と提案した。

「うう……これでは記録を撮っても仕方ないれすからね。皆さまが嫌なのでしたら、やめで構わないれすよ」

 力なく肩に担いだカメラを下ろすあるてみすの横で、いつのまにかそのグラフォトン生命体を小脇に抱えたかなみが、

「うむ。ではこの疑似生命体も、あるてみすと同じく私の部屋で飼おうと思うのだが」

「あるてみすは飼われていたのれすかっ!?

 あるてみすが悲痛な声を上げる。かなみはおうようにうなずいて、

「自覚が無かったか?」

「なかったのれす……」

「まあ良い。それよりも、これを飼っても構わないだろうか?」

 と尋ねた。

 ──誰に。

 一同の視線は、茉莉に集中している。

 この場の決定権を握っている人間は、やはり、茉莉なのだった。

 茉莉はため息をついて、

「……はあ、分かったわよ。あるてみすもお祖父ちゃんも害はないって言ってるんなら害はないんでしょ? でも、飼うならちゃんと面倒みるのよ?」

「うむ、任せろ」

「なんか気が抜けたわよ……変身、もう解いてもいいわよね? お風呂入るわ、私……」

 イヤリングを外して変身を解除すると、グラフォトン生命体を嬉しそうに抱えて部屋に戻るかなみと、庭の固定カメラを片付けに向かうあるてみすのあいしゆう漂う背中を横目に、茉莉は種子島を茶の間に置いて風呂場へと向かった。その後を、当然のように変身を解除した志津香がついていく。

「何だかなあ。こないだみたいな目に遭うかと思って、どきどきしてたのに」

 言いながら、茉莉は服を脱いでいく。

 制服のままだったので、上着とスカートがしわにならないように脱衣かごの上に置き、薄いブルーのブラとショーツを網袋に入れて洗濯機へ放り込む。

「うん、私も緊張してたんだけど……次もこれぐらい楽だったらいいわね」

 志津香も上着とスカートは茉莉の制服の横に並べ、真っ白なブラとショーツは網袋に入れて洗濯機に落とす。長い髪は結んで頭の上へ。

「でも、今回圧縮が不調でちょっとしかエネルギーが消費されなかったんなら、次回はちょっとキツくなるのかなあ、やっぱり」

「うーん、やっぱりそうなのかしら」

 二人順番にかけ湯をすると、湯船には同時に入った。ばざー、とお湯があふれ出し、茉莉は深い息を吐き出す。

「はー、生き返るわー。……って、何か私年寄りくさい?」

「ふふ、大丈夫。肌にもこんなに張りがあるし、水を弾いてるわよ」

 と言って、志津香は茉莉の腕をつんと押した。弾力のある肌が水の玉を作り、つつーと肌の曲線に沿って流れていく。

「……」

 茉莉は天井を見上げるようにしながら、瞳を閉じて湯船に身を預け──

 不意に気づいて、志津香を見やる。

「って……あれ? いつから私、しーちゃんと一緒におふろ入ってたっけ?」

 当たり前のように志津香は答える。

「四日前からだけど?」

「だー!? そんな前からだっけ!? そういえば何か違和感があったのよ。でもなんか、あまりにも自然だったからー」

 茉莉は頭を抱える。

 これは超えちゃいけない一線じゃない? じゃない?

 頭の中をぐるぐると渦巻く思考に茉莉が苦しんでいると、

「大丈夫大丈夫、銭湯ならみんな一緒に入るんだし」

「うー、でもなんか、なんかー」

「私は平気よ」

 と言って、志津香はざぶんとお湯をかきわけ、茉莉に抱きついてきた。

 胸と胸が触れ合い、お湯の中でとろけそうなほどに柔らかな、それでいて張りのある感触が伝わってくる。志津香は茉莉の肩に腕を回してぎゅっと抱きつくと、

「髪、濡れちゃうね。まーちゃんもお風呂に入るときは結んだ方がいいんじゃないかな」

 そう言って、濡れた手で茉莉の髪を後ろで一つ結びにする。

「あ、まーちゃん、結んでも似合うね。可愛いわ」

「……あー、何か、引き返せない道を進んでいるような気がするのは気のせいかしら……」

「気のせい気のせい。それじゃ、私、先に身体を洗わせてもらうわね」

「うん……」

 ざぶんと湯船を出ると、志津香はボディソープを泡立てて身体を洗い始める。相変わらず出るところは出て引っ込むところは引っ込み、無駄のない身体をしている。茉莉は自分のずんどう体型を見下ろして、小さくため息を吐いた。すると、

「まーちゃんは、さ」

「うん?」

「今の生活、嫌?」

 いきなりの質問だった。

 茉莉は考える──

 ここ二週間は激動の二週間だった。

 お母さんが海外へ行って、しーちゃんがやってきて、怪物退治をさせられて。

 デザートを作った日からしーちゃんが豹変して、でれでれの甘えっ子になって。

「あは、なんでかな、こんなに大変なのに、そんなに嫌に感じないんだよね」

 茉莉が言うと、志津香は目を細め、優しげな笑みを浮かべた。

「よかった……迷惑かけてるんじゃないかって、ずっと思ってたから」

 シャワーを流す。志津香を包んでいた泡が洗い流され、白い裸身が湯気の中に浮き立つ。余分な肉のついていない、けれども女性特有のゆるやかな曲線の美しさがはっきりと現れている身体。張りのある大きな胸。──れいだ、と素直に思う。

「……ちょっと、まーちゃん、どこ見てるの?」

「え、あ、綺麗だなー、と思って……」

「そういうまーちゃんだって綺麗で可愛いわよ? ほら、背中流してあげるからお風呂から出て出て。こっちにいらっしゃい」

「い、いい、いいってば、自分で洗うから」

「そんなこと言わないの。ほら、まーちゃん」

「だー、やめ、ちょ、きゃ、」

 志津香の伸ばしてきた手から逃れようとして半分立ち上がろうとした状態から足を滑らせた茉莉は、どぼん、とお湯の中に落っこちた。茉莉はその一瞬、反射的に志津香の手をつかみ、志津香も巻き込まれて浴槽へと転落する。

 かくして茉莉は、普段は二日に一度洗っている髪を、昨日に続けて洗うことになったのだった。

 髪をわざわざ結んで入っていた志津香も、同様である。

(あー、毎日髪を洗うのは痛みやすいんだけどなー)

 茉莉は思いながらも、大人しく志津香に身体を洗われるのであった。



「かなみー、お風呂上がったわよー、冷めないうちに入っちゃいなさいー」

 背中にべったりくっついた志津香を連れたまま、茉莉は茶の間へと向かった。

 かなみはあるてみすと何かを話していたようだったが、それを中断し、

「うむ、そうか。それでは入らせていただこう」

 と言ってから、一冊の本を茉莉の前に示した。

「友人より借りてきた。刊中カラーからの読み切りがお薦めだそうだ。一読するとよい」

『百合百合マガジン 二〇〇六年八月号』だった。

「だーっ! 私はそういうのじゃなーいっ!」

 受け取った茉莉は、思わずそれを床に叩きつけそうになり──友人より借りてきた、の一言がリミッターとなってそれを我慢した。

「説得力がかけも感じられぬな」

 茉莉と志津香を指さし、次いで本の表紙を指さすかなみ。

 偶然にも──いや、偶然かどうかはわからないが、本の表紙には美少女が後ろから美少女に抱きつかれている絵が描かれていた。今の茉莉と志津香を写真に撮れば、きっとこの絵のモデルだと言っても通用するだろう。

「……いや、そうじゃなくて、えーと……確かめておきたいんだけど、しーちゃん、好きになるなら相手は男の人よね?」

 茉莉が不安半分問いかけると、

「んー、もちろんそうだけど……」

「そうだけど?」

「今はまーちゃんの方がいい♪」

 と、頬を寄せてくる。張りのいいつるつるとした頬の感触が心地よく感じてしまうのは、仕方のないことなのかどうなのか。

「あー、まあ、うーん、好きになる相手が男の人ならいい……のかなあ」

 茉莉は呟いて、その背中で志津香が何か重大なことを思い出したかのように、

「あっ!」

 と言った。

「? どうしたの?」

 茉莉が言うと、志津香は頬と頬を合わせたまま、

「クレープ作ってくれるって約束した」

「あー、はいはい。じゃあ今から準備するわね……」

「わーい♪ まーちゃん大好きっ♪」

 そのまま、すりすりと頬をすりあわせてくる志津香。

 茉莉は──まあなるようになるだろうと、そんなことを思った。