私立あいぞの学園小学校は、毎年受験倍率十倍を超える名門校である。

 授業は週に六日。一時期取りざたされたゆとり教育なども一切を無視し、それまでと同じクオリティーの授業をそれまでと同じ時間数行い続けた。一番大きな理由は大学までの一貫教育であろうが、授業のクオリティーの高さもあって、今も少子化の影響をほとんど受けることなく三十人学級で六クラスを維持している。

 だからこそ、とも言える。

 藍園学園小学校の受験では親も試験対象になる。

 簡単に言えば親の品格が見られるのだ。

 まつのときはよかった。あけは事前に散々言い聞かされていたので、自ら進んで発言しようとはせず、としぞうが受け答えをするのに任せていればよかったのだから。

 しかし、かなみの時には既に敏三はいなかった。

 幸運だったのは、姉である茉莉がしっかりとした成績を修めて藍園学園小学校を卒業して、藍園学園中学校へ進学したことだった。面接官の一人が茉莉の担任だったことも幸いし、茉莉の事は話題にもされ、明海もそれに対してはしっかりとした受け答えを返した。それ以外に関しては──教官たちがちんうつな表情で黙り込まざるを得ないような発言があった、ということだけを記しておく。仮にかなみが普通の娘だったら、それだけで不合格だっただろう。

 しかし、そんなことが些細に思えてしまうほど学校側を驚かせたのは、かなみのポテンシャルの高さだった。おそらくはしようぞうの血を色濃く継いだのだろう、かなみは六歳にして既に簡単な微積分までの計算ができたし、日本語の読解力も知識人レベルであった。唯一の弱点として運動がさほど得意ではないという点だけはあったものの、これだけの逸材を逃すのはもったいないと学校側に思わせるだけの能力を持っていたのだ。

 そんなこんなもあってかなみが試験を突破して藍園学園小学校に無事入学し、はや四年目となる。藍園学園小学校では一、二年を低学年、三、四年を中学年、五、六年を高学年とし、それぞれの境目でクラス替えを行なうため、今年はクラス替えはなかった。

 今日は新学期が始まって三週間目の水曜日。二時間目と三時間目の間にある二十分休憩時間のことである。

「ねえねえ、かなみ」

「うむ?」

 校庭に遊びに出る生徒も多い中、自分の席で読書に励んでいたかなみに、うれしそうに話しかけてきたのはりくあいだ。髪の毛を短く切り、ボーイッシュな外見をしているが、やはり女の子らしく噂話には目が無い。ただ彼女の場合、食いつく話題がなぜか百合系のみという、変わったこうの持ち主なのだが。

「かなみのお姉ちゃんがゆりゆりって噂、ホント?」

 藍園学園高校の女生徒会長が、近頃一人の女生徒にべったりらしい。

 そんな噂は、どこをどう経由したのか、藍園学園小学校まで流れてきていた。それはもう一週間ほど前のことだ。

「ふむ……お主には悪いが、五分といったところだな。だが、それは先日も言っただろう? どうして今更繰り返すのだ?」

「だって、昨日スーパーいなりやで腕を組んで買い物してたって、すずが言ってたよ。ねー、鈴」

 愛がぶんぶんと手を振って呼ぶと、次の授業の準備をしていたらしいやけ鈴が席を立ってやってくる。リムレスのオーバルフレーム型の眼鏡をかけ、髪の長い、成長したら──ほどではないにせよ──美人になるのではないかとうかがわせる容姿をしている。

「うん、仲良さそうだったよ。丁度この表紙みたいにしてたもん」

 と、鈴が胸に抱いていたのは、B5判の薄っぺらい本だった。表紙には美形の青年が美形の少年を背後から包み込むように抱きしめた絵が描かれており、裏表紙には中央に『犬のかんづめ』とだけ書かれている。

 愛は呆れたように、

「またBL同人誌買ってきたの?」

 鈴は嬉しそうにうなずき、

「うん、お小遣いが入ったから、『スイカブックス』と『の穴』に行ってきたの」

「その収穫というわけか。見せてもらおう」

 と言って、かなみは鈴から本を受け取った。

 去年流行したRPGゲーム、LLXの二次創作同人誌だった。十六ページしかない本なので、すぐに読み終わる。内容は簡単に言えば、どんなに辛い戦いがあってもお前を守り抜く、と主人公(少年)がクールなわきやく(男)に言われるだけのものだ。

「ね、素敵でしょ? 『今はお前を抱きしめていたい──お前を抱きしめるこの腕が、明日もついているとは限らないのだから』なんて、もう最終決戦間近って感じで、すっごくしびれちゃうよねっ! 他にもね、ほら、ここなんて見て! 何気ない仕草だけど、主人公を気にしてるのが分かるでしょ? こういう細かいところが最高なのっ!」

 と、まあこの言葉だけでも分かるとおり、三宅鈴も普通の小学四年生とは言い難い。BL道まっしぐらといった感じで自らの道を貫いており、百合道一直線の愛とはベクトルが真逆のようでいながら、マイナー嗜好の持ち主同士ということで仲が良い。類が友を呼んだのか、二人ともかなみの大切な友達である。

「ふむ……まあ、なかなかの良作だな。鈴、確か以前にもこの『犬のかんづめ』というサークルの本は買っていたな?」

「うん、お気に入りのサークルだもん」

 かなみから本を返されると、鈴は大事そうにその本を胸に抱きしめた。

「ぶー、BLなんて面白くないよー、百合本買おうよ、百合本ー」

「愛、主張は分かるが人の好みは千差万別だ。押しつけるものではない」

 かなみは珍しく正論を言って、愛を黙らせた。

 本を抱きしめる鈴の顔に、嬉しそうなほほみが浮かぶ。その表情、仕草から、鈴がどれだけこのサークルが好きで、どれほどこの本が大事なのかがうかがえる。──だからこそかなみは鈴をかばったのだが。

「閑話休題だ。話は茉莉の話ではなかったか?」

「あ、そうそう。それでどうなの? お姉ちゃん、ゆりゆりなの?」

 かなみは親指をあごにあてて少し思案し、

「……難しいな。ペットと飼い主の関係のようにも思える」

「な、なんか、もっと危ない世界に行っちゃった気がするんだけど……」

 鈴が言うと、かなみはしばしめいもくし、目を開いて、

「ふむ。では、親子のよう、あるいは姉妹のようだ。どちらにせよ、ひめみやが一方的に甘えているだけに見えるな」

「でも、ボクのお姉ちゃんが、あの生徒会長は誰かにべったり甘えるような性格の持ち主じゃないって言ってたんだけど……」

 愛が言うと、かなみはうなずいて、

「私もそう思っていた。しかし事実なのだから仕方ない」

 そう言って、読んでいた分厚い本をぱたんと閉じた、その表紙には『ネット投資術の基本と応用』と書かれている。

「まあ、だから私が頑張ろうと思っている」

 愛と鈴がげんな顔をして、二人同時に、

「……何を?」

 そう尋ね、かなみは口の端を持ち上げて笑った。

 

「全国一千五百万の百合ファンのために、二人を真の百合にする」

 

「ボク、それ、賛成っ。生徒会長がネコでかなみのお姉ちゃんがタチだよねっ?」

 ツっこみより先に愛の賛同の声が上がる。言葉の意味は割愛するが、愛が単純にネコを「女役」、タチを「男役」という意味で使っていることをかなみは理解していた。

「ネコとタチって何……?」

 鈴が疑問げな顔をし、かなみは、

「いや、知らなくていいことだ」

「ふーん……まあいいけど、どっちみち安易に賛同しないの」

 ぺし、と鈴が愛の胸に手の甲でツっこみを入れる。それから鈴は、

「それにかなみ、それ、嘘でしょ?」

 と、にこりと笑う。

 かなみは座ったまま、視線だけで鈴を見上げ、にやりと笑った。

「どこが嘘だと、なぜ分かった?」

「動機が嘘。理由は、だってかなみだもん」

「鈴にはかなわんな」

 かなみが悪戯いたずらげな笑みを浮かべ、愛だけが一人取り残されて、

「えー、何? ボク分かんないよ。本当の動機って何?」

 両の手を拳にして上下に振っているところに、かなみは笑みを浮かべたまま、

「こんな場合、動機など一つしかなかろう」

 そして、鈴と同時に口にする。

「おもしろそうだからでしょ?」「おもしろそうだからだ」

 愛は、百合好きの目からしてもそれはどうだろうと思い──かなみの姉、茉莉に、心の中でそっと同情するのであった。



 茉莉が六時間目の授業を受けている頃、先に放課後を迎えたかなみは一度家に帰り、Tシャツにデニム地のサスペンダー付きキュロットという格好に着替えて、愛の家を訪れていた。ちなみにTシャツの胸部分には丸っこいポップな文字で「かわいいは正義っ」と書かれている。

 ちょうど愛の家の前で出会った鈴は、ひらひらとした淡いピンク色のワンピースに身を包んでいた。うむ、実に可愛らしい、とかなみは思う。

 そしてかなみがチャイムを押すと、どたどた、と階段を駆け下りてくる音がして、玄関から愛が顔をのぞかせた。愛も既に制服から私服のオーバーオールとTシャツの組み合わせに着替えている。うむ、これもまた似合っていてよし、とかなみは満足げにうなずいた。

「いらっしゃい、かなみ、鈴。あがってよ」

 愛にうながされ、二人は家の中へと入った。

「あら、かなみちゃんに鈴ちゃん、いらっしゃい」

 少しでっぷりとした体型の愛の母がリビングから声をかけてくる。かなみはうなずき、

「うむ、日頃から愛には世話になっている。おじゃまさせてもらうぞ」

「おじゃましまーす」

 二人ぺこりと頭を下げて、愛を先頭に彼女の部屋のある二階へと上っていく。愛の母もかなみの口調にはすっかり慣れているので、動じるようなことはない。

 愛の部屋は八畳間で、学習机とベッドの他に、カーテンの付けられたカラーボックスが二つ、本棚が一つ、洋服ダンスが二つ置かれている。床には漫画が何冊か散乱し、ベッドの上にはうさぎのぬいぐるみが二つ──いや、よく見ればカラーボックスの上や机の上など、至るところにクレーンゲームで取ったと思われるぬいぐるみが飾られている。

「あのね、やっぱり参考図書が必要だと思うのよ」

 学習机の前に置かれた椅子に腰を下ろすと、愛はそう切り出した。

 勧められたクッションの上に正座したかなみは、一拍の間を置いたあと、

「それはつまり、うちの姉の話か」

 と返す。同様にクッションに女の子座りした鈴は、困ったような顔をして、

「でもいいのかなー、おもしろそうだから、でそこまでやっちゃって」

 かなみは、自分のシニョン(今日は水色だ)を直すように両手で触れてから、

「まあ、心配は無用だ。私が二人を真の百合にしようと努力したところで、結局は本人の資質の方が大きいからな。そして、茉莉も姫宮も高校二年現在にしてヘテロセクシャルだ。これからの変化は難しいだろう。結局、私がちょっかいを出すのは、私の楽しみでしかない」

「えー、じゃあ何、二人を真の百合にするっていうのも口だけなの?」

 愛がだまされた、という顔で非難してくるが、かなみは親指を舐め、不意に眼を細めて、

「内心を隠した会話は人間として当然だ。正直に思ったままを語るのは、会話ではなく動物のえ声に等しい。なぜなら、そこには知性も戦略もなく、何も発生しないからだ。虚偽を語り、本心を隠し、さらには意図的に真実をしゃべらない。会話とは相手の求める言葉を与え、そこから自らの利益を引き出すための道具なのだ」

 と言った。

 言われた二人は、ぽかんと口を開けてかなみを見ていた。かなみは続ける。

「──と、いうことをかつて『赤毛の眼鏡の置き台』が言っていた。一理はある。だが、私はその全てが真だとは思わない。まっすぐに素直に思ったままを語るのは、正直という美徳だ。誠意を持ち、自らの本心を偽りなく語る。そのことによって相手が自分に好意を示してくれれば友情や愛情が生まれるし、嫌悪を示されれば距離は離れるだろう。愛、鈴、私は常に誰に対しても正直で素直でいたいと思っている」

「……えーと、つまり?」

「かなみ、言ってることが難しいけど……」

「要は、私は言葉遊びはしても嘘はつかないということだ。結果がどうあれ全力は尽くす」

 というかなみの結論を聞いて、二人の顔に笑顔が戻った。

「そこで愛、閑話休題だ」

「え? あ、うん、参考図書の話だよね?」

「うむ、頼めるか?」

「もっちろん」

 と、愛はカラーボックスにかけてあるカーテンをしゃっと引いた。そこには『百合百合マガジン』と書かれた背表紙がずらりと並んでいる。

「おすすめの号はあるか? できれば読み切りで面白いのが載っている号がいいのだが」

「えっとね、私のお気に入りの新人さんがいるのよ。今は連載持ってるんだけど、その人のデビュー作になった読み切りが、確かこの辺に……」

 と、愛は棚の最上段を左からつーと人差し指で撫でていくと、

「これだ」

 言って、『百合百合マガジン二〇〇六年八月号』を取り出す。

「しかし、お主もつくづく百合趣味に目覚めるのが早かったのだな。二年前ではないか」

 かなみが感心したように言いながら本を受け取り、ぱらぱらとめくる。

「へっへへ、ニュータイプって呼んで。──あ、それ、その巻中カラーの」

 そこには美麗なお姉さまタイプの美人が、可愛らしい後輩のえりを直してあげているシーンが描かれていた。

「この時二人はお互いの名前も知らないんだけど、生徒会長のお姉さまが服装チェックの際に襟の乱れを直してくれるの。それで、すっかりそのお姉さまの魅力にやられちゃった主人公が、生徒会選に立候補して書記の座を勝ち取るまでの話なんだけど」

「……姫宮でもあるまいし、二期連続で生徒会長を務める人間もそうはいないだろう?」

「うん、そうなの。そこで一度オチがついて、でも、普通の生徒になった生徒会長に『今日から、先輩専用の書記になります。側にいさせてください!』って告白して、結局ハッピーエンドになるんだけどね」

 愛は言って、別のカラーボックスにかけられたカーテンを開いた。

「その話に人気があったのか、別バージョンで連載になったのがこれ。『女神さまっが見てる』単行本の第一巻ね。生徒会長は引き続き生徒会長を務めることになって、生徒会の中で二人の仲が徐々に縮まっていくの。そのもどかしい近づきっぷりがもう……!」

 愛は単行本を両手で握りながら、うっとりと宙を眺める。

「あーあー、またトリップしちゃった……」

「トリップ癖に関しては鈴も他人のことは言えんが」

 かなみは言って、愛の手から本を受け取り、

「ふむ、大事にしている本のようだが、これも借りていって構わないか? ……ああ、いや、やはりいい。せっかくの初版本を、汚してしまったりしたら申し訳がたたない。単行本は今でも本屋に行けば並んでいるだろう。四月号だけを貸してもらえるとありがたい」

 と、そこまで会話が進んだときだった。こんこん、と部屋の扉がノックされ、はーい、と愛が返事をする。扉が開かれて、愛の母親がポテトチップスとジュースの載ったトレイを持って現れる。

「はい、これ。ゆっくりしていってね」

「かたじけない」

「ありがとうございます」

 かなみと鈴が礼を言うと、愛の母親はにこやかに部屋を出て行った。

 それを見送ってからかなみは、

「勧められたものを断わるのは気が引けるのだが、ポテトチップスは遠慮させてもらっても構わないだろうか?」

「え? うん、別にいいけど……」

「なんで? かなみ、ダイエット?」

 かなみは小さくうなずき、

「まあ、そのようなものだ。姫宮が家に来てからというもの、三食の度にデザートと称して甘いものを食べさせられているからな。このうえポテトチップスのように油分の多い糖質をとるのは避けたいところなのだ。私自身が目指すスレンダーえキャラは、わずかな脂肪がついただけで命取りになりかねないからな。申し訳ない」

「ふーん、やっぱり噂の生徒会長との同居にはそれなりの苦労もあるのね。──それじゃ、これ食べたら本屋さん行こっか? かなみ、『女神さまっ』買うんでしょ?」

 愛の言葉にかなみはうなずいて、

「ああ、買いには行くつもりだが、それは後でよい。今日は愛に百合について語ってもらおうかと思っている。その魅力への造詣が深まれば、私も動きやすくなるからな」

「えー、それじゃあ私にもBLについて語らせてよー」

 鈴が言うのだが、かなみはかぶりを振った。

「現状私はBLには特にかれるものはない。それよりも身近な題材について話を聞きたいのだ。すまぬな、鈴。それはいずれにしてもらおう」

「うー」

「それじゃあ、さっそく百合の基本的な概念から説明していこうか」

 と言って愛が笑顔で語りだし、小四とは思えない会話が繰り広げられるのであった。

 興味津々のかなみに対し、鈴が終始不機嫌そうな顔をしていたのは──無理もないことなのかもしれない。



「来週には生徒総会があるから、生徒会はちょっと忙しいの。でもすぐに会議を終えて帰ってくるから、教室で待っててね」

 そう言い残して、志津香は生徒会会議へと向かった。

 ひようへん前の志津香であれば、「先に帰っていていいわよ」という場面である。

 茉莉は例によって宿題をやりながら志津香を待っていたのだが、今日はたまたま宿題の量も多くなく、一時間もすると出されていた宿題は全て終わってしまった。

 時刻は夕暮れ時を迎え、西に向かって窓を構えた教室内はだいだいいろの光に満たされている。教室内に他の生徒の姿はない。

 志津香はまだ戻って来ない。

 茉莉は席から立ち上がると、窓際へと歩いて行き、外の風景を眺める。

 茉莉の教室のある二階の窓からは、目の前に校庭、その向こうに住宅街、その先に高架式になっている駅のホームが見える。そしてはるか遠くに目をやれば、オレンジ色の光の中に浮かび上がる藍園ディスティニーランドの象徴、お城のシルエットもうかがえる。

 茉莉はふと、小学校の頃、家族でディスティニーランドに行ったときの事を思い出す。

 あの時はまだかなみは幼稚園で、しかしお化け屋敷に入っても、

「あそこにね、透明のビニールの幕が張ってあるの。そこに映像を映してるから、幽霊が浮いてるみたいに見えるんだよ」

 などと冷静に解説をして、お化けを怖がる茉莉を慰めてくれたりしたものだ。茉莉はそう言われても意味が分からなくて、敏三に抱きついて目をつむっていたのだが。

 コーヒーカップを絶叫マシーンと化させたのは明海とかなみだ。せめて二人が一緒のカップに乗っていればよかったのだが、かなみと敏三、茉莉と明海という組み合わせでコーヒーカップに乗ることになり、かなみと明海はハンドルを回せる限り回しまくり、敏三と茉莉の二人だけが気持ち悪くなってしまうという結果を生んだ。

 数少ない絶叫マシーンのライトニングマウンテンに乗る際にはかなみの身長が足りなくて、乗るのが怖かった茉莉はこれを好機とばかりに「全員で乗れないならやめておこう?」と訴えた。しかし、「それならば子供が乗れる絶叫マシーンもある」というかなみの提案が通って、なんたらのジャンピングホップコースターとやらに乗ることになった。茉莉はやっぱり目を閉じて敏三に抱きつきっぱなしで、その前に乗った明海ははしゃいで歓声をあげまくり、その隣に座っていたかなみが一番冷静で、降りてから「お母さんが一番楽しそうだった」というコメントをした。

 ちなみに明海に関して言えば、終始撮影禁止と書かれたアトラクション内で写真を撮りまくり、係員に叱られたりしていた。平謝りをしていたのは敏三で、明海はそんなこと気にしたふうもなく、最後まで写真を撮りまくっていた。途中で一度だけ、厳しい係員の手によってメモリ消去を命じられ、明海はしぶしぶそれに従ったのだが、その時既に記録用メモリーカードが別の物にすり替えられていたことには誰も気がつかなかった。すり替えた当の本人である、かなみを除いては。

 そして、まだ幼いかなみを連れていた阿部家一行は、丁度こんな夕暮れの中を帰宅することになった。恥ずかしいことに疲れて眠ってしまったのはかなみではなく茉莉で、敏三におぶさったまま帰宅したのだということを後に聞かされている。

(……お父さん、か)

 そういえば、敏三が息を引き取った時の病室も、こんな風に夕暮れの色が満ちていた。

 敏三にタバコを吸う習慣はなかったけれど、死因は肺ガンで、医師の診断によると肺は真っ黒だったそうだ。言われれば、職場が煙たいとよく嘆いていたものだ。

 そんな悲しい思い出も、楽しかった思い出も、最後は全てがあかねいろに染まっている。窓の外を見つめる茉莉の表情は、いつしか複雑な、沈鬱なものへと変わっていった。

「どうしたの、まーちゃん?」

 突然背後から声をかけられて、茉莉は跳び上がるほど驚いた。彼女に驚かされるのは、今月に入って一体何度目だろう。

 しかしそれが志津香だと分かると、茉莉は少し無理をした笑みを浮かべて、

「なんでもない」

 と言った。

 言ったのだが、志津香はなおも茉莉の顔を覗き込み、

「ほっぺた」

 指をさす。茉莉の目尻から、顎にかけて。

「涙の跡、ついてる」

「え、嘘」

 泣いた覚えなんかないのに。

 茉莉は慌ててほほをごしごしとこすった。だが、志津香は優しい笑みを浮かべて、

「ええ、嘘よ」

 と言った。茉莉はとたんに頬を膨らませ、

「ちょ、ずるいーっ。なんでそういう嘘つくかなあ」

 両の拳を胸の前で握りしめて抗議した。すると、志津香はその右手に自分の左手を添えて茉莉の拳をほどき、両手で包み込むようにきゅっと手を握った。

「まーちゃんのことが心配だからよ。……何かあったの?」

 志津香の問いに、茉莉は何と答えようか迷い──

「……ちょっと、昔のこと思い出してたの」

 とだけ言った。

「……ん」

 志津香はカバンのポケットに手を入れ、あめ玉を一つ取り出すと、茉莉の唇にあてがった。自然と茉莉の口が開き、志津香はその中にあめ玉を押し入れる。口の中に苺の味が広がって、甘い香りが茉莉の周囲を包み込む。

「私にはこれくらいしかできないから」

 そう言って、志津香は茉莉を抱き寄せた。茉莉は反射的にそれに抵抗しかけるが──すぐに力を抜いて、その胸にぽすりと収まってしまう。

 ──まるで妹ができたみたいだと、思っていたのに。

 夕暮れの光の中、茉莉は志津香に抱きすくめられる。

 しかしそれは不快ではなく、むしろ温かに感じられて──

 茉莉はしばらくの間、志津香の腕の中でひとみを閉じていた。

「──それじゃあ、そろそろ帰ろうか」

 志津香がそう言わなければ、夕陽が沈みきるまでずっと、そうしていたかもしれない。

 茉莉は志津香から離れると、照れくさくて志津香の顔を見ることができず、うつむいたまま、右手にカバンを取った。