志津香は、しばししゆうに耐えながら両手で自身を抱くようにして腰元を隠していたが、同じように苦心している茉莉の姿に気がつくと、不意に目を輝かせた。

 ──まーちゃんがあの格好で戦っている姿は録画しておきたい。

 志津香は心からそう思った。

「……あるてみす」

「はいなのれす」

「私たちが戦っている姿を録画しておくことはできる?」

 志津香に尋ねられると、あるてみすは眼鏡を中指で押し上げながらきっぱりと答える。

「それは、ますたーによって既に命じられているのれす」

「なっ!?

 茉莉は驚いたのだが、志津香は至って冷静で、

「それなら丁度いいわ。まーちゃんを中心に撮るようにお願いするわね。それで、そのデータを後で私にくれないかしら?」

「了解したのれす。ただ、超高画質、かつマルチアングルにする予定れすので、容量が大きくなってしまうのれすが、ハイパーブルーレイディスクでもよろしいれすか?」

 その言葉に、志津香は眉をひそめ、

「それ、独自規格でしょう? 再生装置はあるの?」

「もちろんなのれす。お貸しするのれすよ」

「ありがとう、あるてみす」

 志津香は一転笑顔になって、がしっ、とあるてみすの手をとった。

「……なんだかなー」

 かりかりとこめかみをかく茉莉をよそに、かなみは静かに、姿見に自らの姿を映してポーズをとっているのであった。


「ところで、グラフォトン生命体と戦うための武器なのれすが──」

 と言って、あるてみすは例によってスカートの中から一冊の小冊子を取り出した。さっきからどういう仕組みなのかと茉莉は気になっていたのだが、おそらくはさっきの話にも出たワームホールとやらで何とかなっているのだろう。

「この中から好きなものを選んで欲しいのれす。どれを使ったところでグラフォトン生命体を倒すことはできますれすから、使いやすいもの、気に入ったものを選んで欲しいのれす。どれも実在の武器を元に、ますたーが作ったオリジナル品なのれす」

 小冊子は全部で八ぺージあって、各ページに四つずつ、合計三十二種類の武器が写真付きで、全長や重量などの個別データなどと共に記載されている。

「何度も聞くようだけど……こんな武器まで用意してる時間があったの?」

 茉莉が漏らすと、あるてみすはわたわたと手を振って、

「ぶ、武器に関しては以前に別件で必要になったことがあってれすね、その際に製作したのがこれらの品々で──」

「その割には種類が多いと思うんだけど……なんかまるでこれって、どのみちいつかは私たちに『美少女戦士』なんてのをやらせるつもりだったんじゃ、」

「わーっ、わーっ、そんなことはないのれすっ。今回のエネルギー漏洩、及び圧縮による疑似生命体の登場が好都合だったなんてことはないのれすよっ!」

「……全部自白したわね」

 茉莉は呆れたように肩をすくめ、ため息を吐いた。が、それはそれと割り切ったらしく、小冊子に目を通し始める。

「はあ……仕方ない。やるって言っちゃったしね」

 と、ぱらぱらと小冊子をめくりながら、

「……とりあえず飛び道具がいいわよね。それでいて扱いやすそうなやつ……うーん、拳銃みたいな小さなのはないのね」

 茉莉が言ったとおり、その小冊子に小型火器に類するものは一切載っていなかった。近距離戦用の刀や剣が一ページ、やり薙刀なぎなたが一ページ、その後は火器のたぐいが、ページをめくるたびにゴツくなっていくばかりであった。

 茉莉は火器の最初のページを開き、

「それじゃあ私、これ、この『たねしま』っていうのを使うわ」

 茉莉が指さしたのは、製図用の図面を入れておく筒ほどの大きさの砲で、重量も三キロと軽量であるらしい。説明によると射撃反動もほとんどなく、それでいて強力な爆発弾を発射できるというものだそうだ。

「了解なのれす。茉莉さまは種子島を使うのれすね」

 と、あるてみすはスカートに手を突っ込むと、そこから砲身一メートルほどの、写真通りの『種子島』を取り出して、テーブルの上にでんと置いた。試しに持ち上げてみると、三キロという重量などまったく感じない。変身によって身体能力が増強されているためだろう。

「それじゃあ、私はこれね」

 そう言って志津香が示したのは薙刀だった。

「私、ちょっとだけ薙刀の道場に通っていたことがあるから……これがいいわ」

「了解なのれす。志津香さまはいつとうせんを選ぶのですね」

「へえ、めいがついているのね。由緒のある薙刀なの?」

「由緒はないれすが、力はあるのれす。自由に使いこなすことが可能になれば、まさに一騎当千の活躍ができるというわざものなのれすよ」

 あるてみすは一振りの薙刀をスカートをめくって引っ張り出した。全長二メートルにも及ぶため、あるてみすの身長を楽々と超えるだけの長さがある。刀身は四十センチ近くあり、警察に見とがめられれば一発で銃刀法違反な一品であった。

 志津香は手を伸ばし、その薙刀を手渡しで受け取る。軽く振って感覚を確かめると、

「まるで重さを感じないわ……身体能力が増強されているせいだろうけれど、逆に少し使いづらいかもしれないわね」

「それなら、いしづきを左回りにお回しくださいなのれす。一騎刀千の組成密度が増大して質量が増加し、普通の薙刀のように感じられるようになるはずなのれす」

「こう、かしら?」

 くるくると石突の部分を数回転させると、なるほど確かに手応えを感じるようになる。

「うん、いいわね。……それにしても物体の質量まで変えられるなんて、本当にトンデモ科学者ね、まーちゃんのお祖父さまは」

「ますたーは超優秀な科学者なのれす。ちなみに今の一騎刀千は百キロ近い重さになっているはずれすから、取り扱いには注意してくださいなのれす」

 志津香が、ちょっと不便ね……と呟いている横で、

「それでは、私はこれを選ぼう」

 最後にかなみが示したのは、そろそろ重火器に入ってきた七ページ目のラスト、四つの穴が先端に開いた、肩にかついで使うタイプのロケットランチャーだった。

「M202A1けいこうしきれんそうしようだん発射器なのれすね。これは、使用するM74焼夷ロケット弾の燃焼能力がそれほど必要であるとも考えにくかったため、燃焼時間は極端に短くしてあるのれすが、よろしいれすか? それと弾丸のそうてんすうが規定されているため、十数発撃てば弾切れになってしまうのれす。単に爆発力で種子島を上回るロケットランチャー、ただし弾数に限りありといった感じになってしまうのれすけど」

「うむ、構わぬ。形が気に入った」

「それでは、M202A1なのれす」

 あるてみすのスカートから取り出されたロケットランチャーが、ごとりと床に置かれる。

 重量十キロ以上はあるはずのそれを、かなみはひょいと片手で持ち上げると、肩に担いでスコープを覗いてみせる。

「大丈夫そうれすね。それでは早速戦闘開始と行きたいところなのれすが」

 あるてみすはグラフォトン収集圧縮機をいじりながら、

「半年分ものエネルギーが溜め込まれているので、まとめて固めると相当巨大なものになると予想されるのれす。一体の総エネルギー量を限定することで数を調整させることもできるのれすが、大きいの一体と、小さいのがたくさんと、どっちがいいれすか?」

「うーん、的が大きければ私やかなみの飛び道具は当たりやすそうだけど……それを無視して突き進んでくるような強さだと困るわよね」

 茉莉が言うと、志津香もうなずいて、

「火力のありそうな武器を選んだかなみちゃんには悪いけど、薙刀の一斬で消滅させられるぐらいの相手がいいわね。私はちまちまと一体ずつ撃破していって、まーちゃんとかなみちゃんがまとめて何匹も吹き飛ばす感じでいいんじゃないかしら」

「異論はない」

 最後のかなみの一言までを聞き終えて、あるてみすは装置の設定を終えたようだった。

「それでは、皆さん庭に出てくらさい。ああ、裸足のままでけっこうれす。薄いバリアが体表面をコートしているので、足が汚れる心配はないのれす」

 三人は庭に出て、満開の桜を背にして陣取ると、それぞれの武器を構える。

 茉莉はただひたすらに、無事に終わってくれればいい、と、それだけを考えていた。

「それではいくのれすよー、すいっち、ぽん」

 と、緊張感のないあるてみすの声が三人の耳に届いた瞬間だった。

 うじゃっ、と、阿部家の庭中を埋め尽くすほど無数に、バレーボールほどの大きさの、耳の部分だけを粗いポリゴンの手にして二足歩行させたウサギのような生物が現れた。

 しかし、茉莉たちの周囲、足下などにもうじゃうじゃとウサギモドキはいるのだが、こちらに何か攻撃をしかけてくるような兆候は見られない。ただ気まぐれにぴょこぴょこと飛び跳ねたり、ぼーっとどこかを見ていたりするだけであった。中には桜の樹をじっと愛でているものなどもおり、実に平和な様子である。

「……なんかこの子たち、まるでやる気ないみたいなんだけど……戦わなきゃ駄目?」

 茉莉が下を指さしながら言うのだが、あるてみすはきっぱりと、

「危険なエネルギーの圧縮体なのれす。一体一体が原爆一発分くらいのエネルギーを持っているとお考えくださいなのれす。消滅させる必要性がお分かりになるれしょう?」

「──仕方ないわね」

 最初に動いたのは志津香だった。茉莉の周囲にいるものから順に、振るった薙刀がウサギモドキたちを一刀両断に切り捨てていく。切り捨てられたウサギモドキは、ぽん、とポップコーンが弾けるような音を立てて、わずかな白煙をあげて消滅する。

 と、茉莉の目の前に数匹のウサギモドキたちが集まってきた。ウサギモドキの身体の上で、ごつごつとした手がわきわきとゆらめいている。

「だー、気持ち悪いのか可愛いのかはっきりしなさいよー!」

 と叫びながら、ごめんね、と心の中で呟いて、茉莉は種子島のトリガーを引いた。発射された弾丸がどごんと爆発し、一気に数体のウサギモドキをぽぽぽんと消滅させる。

「きもかわいい。七十年代に流行──当時はきもかわいいという言葉はなかったが。平成に入ってからも一時期女子高生を中心に流行の兆しが見られたが、間もなく廃れた」

 茉莉の悲鳴に、かなみが律儀に解説を加える。

 とにかく敵の数が多すぎて、トリガーを引けば的に当たる。茉莉の種子島から次々と砲弾が放たれ、それが次々とウサギモドキを消し飛ばしていく。

(でも、おかしいれすね。この大きさだと、こんな少ない数で済むはずはないのれすが……)

 戦闘の様子を一人安全圏から眺めながら、あるてみすは考えていた。

(……まあ、多いよりは少ないほうがいいれすよね。それより録画録画なのれす)

 と、どごーん! と派手な音を立てて爆発が起こり、一気に十数体のウサギモドキが消え失せた。かなみのロケットランチャーによる一撃だ。三人の武器の中で唯一弾数が定義されているため、冷静に観察を続け、ウサギモドキが一箇所に群れた瞬間を狙っての発射だった。

「ふむ、なかなか気分そうかいであるな」

 と、かなみが呟いたときだった。

「きゃあっ!」

 と茉莉が叫び声をあげたのは、ウサギモドキの手のような耳が偶然内腿に触れたためだった。するとどうだろう。今までまったく攻撃を仕掛けてこなかったウサギモドキたちが、ざわ、とざわめいた。もしかしたら、たまたま、一方的にやられていることに何かを感じ始めていたときだったのかもしれない。茉莉の周辺にいたウサギモドキたちが、次の瞬間、いっせいに茉莉に向かって飛びかかった。茉莉も、側にいた志津香も応戦するのだが、なにぶん数が多すぎる。ウサギモドキたちは茉莉の身体に群がるように、手(?)を伸ばして太腿や胸などに触ろうとしてくる。

「あ、ちょっとどこ触ってるのよ、やめ、あ、ちょっと、」

 まさか至近距離で種子島を撃つわけにもいかず、茉莉の攻撃の手が止まる。すると、ウサギモドキたちにも人間のおすに近い感情があるのだろうか、次々と伸ばされた手が茉莉の身体を攻撃してくる。ささやかな胸はまれてやわらかに形を変え、脇をつつかれてびくんとし、お尻を撫でられて涙目になる、すっかり防御体勢に入った茉莉へのとどめは、背中の筋をつつつつ、と撫でていく一本の指だった。

 ぞわっ、とした感触が全身を走り、茉莉は思わず種子島を取り落とす。

「あ、駄目、もってかないで、ってちょっとやめなさいってば、う、えう、だー!」

 茉莉の姿が、ウサギモドキの群れに埋もれて消えた。

「まさか初回からこんな展開がやってくるとは思っても見なかったのれすよっ!」

 それらの光景──無数のウサギモドキによって茉莉が過激なセクハラに遭っていく様を、あるてみすはしっかりとあますところなく記録していた。自身の持てる能力を全力で駆使し、それぞれのタイミングにおけるベストと思えるアングル数点からの同時記録を、どんな大画面での観賞にも堪えうるウルトラハイビジョン画質で。

 あるてみすはビデオで撮っておくだけでは物足りないとでも言うように目を見開き、興奮した様子で息を乱しながら撮影を続ける。

「ちょっと、駄目、やめ、くすぐったい、あはははむぐ。ぐむー、ぐむー」

 どうも口を押さえつけられて息ができない様子である。急ぎ、志津香が必死にり分けて救出を試みるのだが、それ以上のウサギモドキが茉莉に群がっていてまったく近づけない。志津香の耳には、茉莉のくぐもった悲鳴が──いや、わずかにつやの混じり始めたか細い声が聞こえてきた。志津香の耳が敏感に反応した──のだが、

 次第に群れてきたウサギモドキたちが、今度は志津香をも標的にし始めた。そのプロポーションの良さにウサギモドキたちもリビドーを感じるのか、主に胸部とでんを中心に攻撃目標が集中しているのが分かる。志津香は鳥肌を立てて、

「変な目で見ないでっ! このすけべっ!」

 叫んだ瞬間、一匹が志津香に飛びかかった。一騎刀千の一斬がそのウサギモドキを消滅させる──が、その時には既に二匹のウサギモドキが懐に入っていた。

 しかし、薙刀は槍とは違って近距離戦の攻撃方法にも多岐に渡っている。志津香がぐるりと薙刀を回転させただけで、二匹のウサギモドキは弾かれて、ぽぽんと消滅する。

「まーちゃん!? 大丈夫っ!?

 必死に自身と茉莉の周囲のウサギモドキを斬り払っていると、群の中からわずかに茉莉の手の先が見えた。口を塞いでいた手(?)がとれたのか、茉莉の再びの悲鳴があがる。

「ぷはっ、駄目、駄目だってばっ! ちょ、お嫁に行けなくなっちゃう……っ! 駄目、めるのは気持ち悪い、やだ、や──」

 その一言だけを残して、再び茉莉の姿はウサギモドキの群の中へと消える。

「むう……群がりすぎてウサギモドキと志津香さま、それに離れているかなみさましか映らなくなってしまったのれすよ」

 あるてみすが言ったのも確かなことで、ほぼ全てのウサギモドキが現在は茉莉と志津香に襲いかかっている最中のようだった。

 げしげしと二、三匹のウサギモドキを足蹴にしていたかなみは、その白い山を見やり──

「……これは、好機か?」

 呟いて──

 ウサギモドキたちをロケットランチャーで吹き飛ばした。

 茉莉と志津香ごと。

 

 結果からいえば、その一撃が決め手となって、戦闘は終息に向かった。

 ロケットランチャーによる一撃を受けてなお茉莉と志津香に傷一つなかったことは、かなみの計算内なのかどうなのか──チャイナスク水はぼろぼろに破れはしたが、それは彰造の趣味による設計なのだろう、胸と腰部にはかろうじて布は残っているが、腹部などはむき出しのような状態だった。ともあれ、残ったごく少数のウサギモドキの掃討にはさほど時間がかかることもなく、生成されたグラフォトン生命体は全滅したのであった。



「はー、疲れた」

 イヤリングを外し、制服姿へと戻った茉莉は、立ち上がる気力すら出せずに茶の間のテーブルに頬をのせてだれていた。その横にはぴったりと志津香がくっついている。かなみは「気分爽快であった」などと言って部屋に戻ってしまい、あるてみすはなにやら「太陽発電による充電を行うため、休眠モードに入るのれす。皆さまおつかれさまでしたれす」というなり縁側に寝転んで動かなくなってしまった。

「学校、どうしようか……」

「かなみちゃんは休むつもりみたいだけど、私はそうもいかないのよね、今日も生徒会があるし。ということで、今からでも三時間目には間に合うし、学校に行くことにするわ」

「それじゃあ、私も行こう……しーちゃんが行くのに私だけ休めないわ」

 そう言って、茉莉が立ち上がる。寄り添うように志津香も立ち上がって、玄関に置きっぱなしだった通学カバンを手に、学校へと向かう。

 二人、腕を組んで。

「あー、しーちゃん?」

「何?」

「学校では、こういうのは控えめにしようね?」

「……善処するわ」

 志津香のその言葉は、まさに政治家の「善処します」に等しいことを、茉莉はすぐに思い知らされることになる。

 三時間目が終わったあとの休み時間、わずか十分しかないその休み時間に、志津香は茉莉の教室を訪れた。A組からG組まで、長々と距離があるというのに。

「まーちゃん♪」

 教室の入り口から志津香が声を上げると、教室中の視線が、ざわ、と志津香に集まった。一体まーちゃんとは誰なのか。誰もがそう思っている中、志津香はぼうぜんとしている茉莉に向かって笑顔で駆け寄ってくる。

 慌てた茉莉は志津香の手をとると、強引に教室の隅っこへと引っ張っていった。周囲の視線を背中で受けながら、小声でひそひそと、

「ちょ、姫宮さん、控えてっていったでしょ?」

 そう言ったとたん、志津香の顔が悲しげなものに変わった。

 まるでしかられた子供のように。

「しーちゃんて呼んでって言った」

「だ、だって学校だし。みんな聞き耳立ててるの、分かるでしょ? 姫宮さんは、本当にみんなの人気者なんだよ?」

「でも、しーちゃんって呼んで欲しいんだもん」

 茉莉はできるだけ声を抑えて周囲に聞こえないように話すのだが、志津香は遠慮がなかった。泣きそうな声でそう口にする。周囲で一斉にざわめきが起こる。どうしてが? 姫宮さんに何があったの? そんなささやきが聞こえてくる。

「わ、分かった。分かったから、しーちゃん。それで、何か用なの?」

「まーちゃんの顔が見たくて」

「そんなの家に帰ればいくらでも見られるでしょ?」

「今、見たかったんだもん」

 そうきっぱりと言い切って、志津香は茉莉の瞳を覗き込んでくる。

 志津香の綺麗な黒い瞳には、茉莉の顔が映り込んで見える。それほどの至近距離だ。

「え、えーと」

 茉莉は軽く頬を紅潮させ、かりかりとこめかみをかきながら周囲を見回す。

 クラス中がかたを呑んで二人の動向に注目していた。それぞれの視線に込められた感情は様々だ──驚嘆、興味、しつに始まり、困惑、妄想──果ては絶望まで。

 茉莉は慌てて志津香から半歩の距離を取ると、

「あー、えっと、しーちゃん? 恥ずかしいから、これからこういうのは控えてくれると嬉しいんだけど……」

「駄目なの?」

 とたんに悲しそうな顔になる志津香に「駄目」の一言がどうしても言えないのが茉莉だ。

「いや……駄目ってことはないんだけど……」

「じゃあいいのね」

 茉莉は困って、断るのも可哀想だし、でも認めるのも困るし……と考え、

「……うーん、えっと、ほどほどにね」

 とだけ答えた。志津香はその言葉をどう受け取ったのか、

「うん♪」

 満面の笑みを浮かべて言った。思わず茉莉の方もつられて笑顔になってしまいそうな、邪気の無い笑顔だった。

 何かを言いかけた茉莉は、しかしその笑顔の前に何も言えず──チャイムが鳴った。

「それじゃあ、名残惜しいけど、行くね」

「う、うん」

「またお昼休みには来るから」

 来なくていいってば──などとは言えずに、教室の出口から笑顔で手を振ってくる志津香を、茉莉は小さく手を振って見送った。

 チャイムが鳴ったというのに、生徒たちは誰一人自分の席に戻ろうとはせず、どよどよとどよめいて茉莉へと視線を向けていた。あの姫宮さんが。あの姫宮さんを。どうやって。なんで。代わりたい。そんな声の数々が聞こえてくる。茉莉がいたたまれない思いで自分の席に着き、次の授業、現代国語の準備を始めていると、

「どういうことなのかなっ?」

 普段なら休み時間には茉莉と一緒にいる泉美いずみがやってきて、興味深げに尋ねてきた。

 茉莉は少しほっとする。遠巻きに噂をされるより百倍マシだ。

 確かに、このクラスに生徒会長がやって来たのなんて一昨日を含めても二度目で、これは明らかに異常事態である。なにしろあの姫宮志津香があれなのだ。

「どういうことって言われてもなー」

 と、茉莉は頬をかく。

「なんか懐かれちゃって……えっとさ、今の雰囲気って耐え難いし、姫宮さんがいても気にせず話しかけてきてくれると嬉しいんだけど」

「って言われてもなあ……二人のらぶらぶを邪魔するのは気がひけちゃうよっ」

「だから、らぶらぶじゃないんだってばぁ……」

 茉莉が否定すると、泉美はにやにや笑いを浮かべ、

「そうなのかい? そうとしか見えなかったけどっ」

「違うのよー、信じて、泉美」

 すがりつくように茉莉が言うと、泉美はにかっと笑った。

「あたしは茉莉が信じてって言うなら信じるけどねっ。OK、分かったよっ」

 泉美の言葉が、今の茉莉には死ぬほどありがたかった。

「おーい、お前らー、席に着けー」

 いつの間にかやって来ていた現国教師の言葉に、泉美は慌てて自分の席へと戻った。


「まーちゃん♪」

 昼休みである。

 志津香の手にはしっかりとお弁当の包みが握られていて、どうやら茉莉と一緒に昼食をとる気まんまんのようだ。それをうらやむ声とえんの声とがあちこちから聞こえてくる。

(うう、針のむしろだわ……)

「お昼食べよ?」

 とは言っても志津香の誘いを断わることもできず、茉莉はひきつった顔でうなずく。

「う、うん、いいわよ」

 と言って、茉莉は疲れ切った様子で、自分の机の前に二つの机を向かい合わせて並べた。

「? どうして二つなの?」

 志津香は聞いてくるが、茉莉は当たり前のことを言う口調で、

「いつも私と一緒にご飯を食べてる友達がいるからよ。しーちゃんも一緒に食べるなら、三人でしょ?」

「む……ん、そっか。それなら仕方ないね」

 どうやら志津香が泉美に対して嫉妬心や何かを抱くというようなことはなさそうだった。そのことに茉莉はほっとするが、しかし、

「でも、まーちゃんと私は隣同士がいい」

 と言って机を動かし、茉莉の席の隣に机を置いて、志津香はそこに座る。ぽんぽんと茉莉の椅子を叩いて、早く座れとかしてくる。

(しょーがないなー)

 茉莉は自分の席に腰を下ろし、カバンから取り出したお弁当箱を机の上に置いた。布包みは、まだ開けない。

「? 食べないの?」

 茉莉が開けるのを待っているのか、同じように布で包まれたままのお弁当箱を机の上に置いて、志津香は不思議そうに聞いてくる。

「泉美が帰って来るのを待ってるのよ。購買でいっつもパンを買ってくるの。せっかく一緒にご飯なんだから、一緒にいただきますしたいじゃない?」

 茉莉が言うと、志津香はうっとりとした目をして、

「まーちゃん、優しいんだね」

「いや……わりと普通っていうか、められるようなことでもないんだけど……」

 茉莉の言葉を聞いているのかいないのか、志津香は茉莉の肩に頭を預けた。おーっ、という歓声とも嫉妬とも付かない声が、男女問わずあちこちから聞こえてくる。

「ちょ、ちょっとしーちゃん!? あんまりべたべたくっつくのは、」

 茉莉が言いかけた時だった。

「まーちゃん、あのね、生徒会長って結構疲れるんだ。来週また、生徒総会があるでしょ? 今はその準備で忙しくって、本当はこんなことしてる時間はないの。でもね」

 茉莉は志津香に肩を貸したまま動けない。無理やりどければいいだけの話でもあるのだが、今の志津香の雰囲気は今までになかったものだ。どうしても保護欲のようなものをそそられて──茉莉はそのまま志津香の話に耳を傾ける。

「こうしてると、すっごく気が休まるの。ごめんね、他の人から注目浴びちゃってるでしょ? でも、まーちゃんの側だと、すごく安心できるの」

 確かに、今クラスにいる人間の全員が一度は茉莉たちを見ただろう。今も見続けたままの者もいる。無遠慮に茉莉たちを指さしてひそひそ話をしている人たちもいる。でも。

(きっと、しーちゃんは、普段からこういう生活を送ってるんだね……)

 茉莉は空いている右手で、そっと志津香の髪を撫でた。

 いいこいいこをするように、軽く、一度だけ。

「……茉莉、やっぱりそっちの趣味だったのかいっ」

 ちょうど泉美が購買から帰ってきたところだった。

「ち、違うわよ──っていうか後ずさらないで、お願いだから」

 茉莉は慌てて志津香の頭から手を放した。

 すると志津香も、茉莉の肩から頭を上げて、泉美を見やった。

「あっはは、冗談冗談。まあ、仲良きことは美しきかな、って感じかなっ?」

 泉美がにかっと笑うと、志津香はそれを見て、

「まーちゃんのお友達の、泉美さんよね?」

「うんっ、その通りだねっ」

 泉美がいつものように気楽に答える。

 志津香はそれが嬉しかったのか、優しく微笑んだ。

「私、姫宮志津香よ。まーちゃんの友達ってことは、私の友達でもあるってことでいいわよね? これから仲良くしましょう?」

「ほいほい、よろしくっ! あたしはたけ泉美だよっ。泉美、で構わないからねっ」

 と言って、泉美はようやく自分の席に買ってきたパン類を置いた。泉美の定番メニューであるヤキソバパンとチョココロネ、それからパックのコーヒー牛乳だ。

「それじゃあ、ご飯にしよっか」

 茉莉が言って、弁当の包みを開く。それにならうように、志津香も弁当の包みを開いた。

 そして、ふたを開ける──今朝まとめて作ったのだから当たり前だが、中身はまったく一緒の弁当だ。ご飯、卵焼き、夕べの残りのポテトサラダにパセリが添えられている他、冷凍食品のミートボールが入っている。

「いただきます」

 志津香が小さく頭を下げ、

「はい、どうぞ。私もいただきます」

 茉莉も小さく頭を下げる。

「いっただきまーす……って、姫宮さんも、それやってるのかい?」

 ヤキソバパンのパックを破りながら、泉美が尋ねる。

「それ?」

 と志津香が聞き返し、

「いや、頭下げるの。幼稚園とかではやらされた気がするけど、いまだにやってる人が茉莉以外にいるとは思わなかったからさっ」

「あ、えっと、私もまーちゃんの家で暮らすようになってから始めたのよ」

「さっきも言ってたけど、まーちゃんって?」

 泉美の疑問に、茉莉は恥ずかしげに自分を指さした。

「……私のこと。うち、かなみがいるでしょ? まだ小学校だから、食事の時には必ず手を合わせていただきます、ってやってるのよ。それに合わせてたら、いつの間にか我が家の習慣になっちゃって。まあ、食べ物に感謝の気持ちを捧げるのはいいことだよね」

「いや、それはいいんだけど。まーちゃんのほうは、『茉莉』でいいんじゃないかい?」

「あ、あはは、いろいろあってね。泉美もそう呼ぶ?」

「あっはは、あたしは恥ずかしいから今までどおりでいいさっ」

 泉美はそう言って、ヤキソバパンに口をつけた。それからふと思ったように、

「そのお弁当、茉莉が作ったんだよね? 姫宮さんも料理上手って噂だけど、たまにはお弁当作ったりしないのかなっ?」

 志津香は卵焼きを口にし、

「まーちゃんのお弁当は美味しいわ。私が作るよりずっと」

 ストレートに誉められて、茉莉は少し照れながら、

「そ、そうなのかな? 私、お母さんとかなみ以外に食べてもらったのって、泉美以外ではしーちゃんが初めてだし、よく分からないでいたんだけど」

「美味しいわ」

「そ、そう?」

「うん、美味しいよっ。茉莉はいいお嫁さんになるよねっ。よく、男を捕まえるには胃袋を捕まえろ、なんていうし、私も料理の勉強しようかなっ」

 泉美がコーヒー牛乳にストローを刺しながら言う。茉莉は目を丸くして、

「そんな格言があるの? 知らなかった……けど、普段お母さんが料理を作ってると、料理をするのも大変でしょ? 冷蔵庫の中身なんか把握できないし、何を使ってよくて何が使っちゃ駄目なのかも分からないし、結局材料を一から買ってきて作るぐらいしかできないのよね。理想はやっぱり、冷蔵庫の中身+αで作れるようになることじゃない?」

「うー、そうなんだよねえ。私も前に鶏の照り焼きとか作ってみたことあるけどさ、その日の夕食はそれとご飯だけになっちゃって、家族には申し訳なかったよっ。あ、無理やり生野菜のサラダは付けたけどねっ」

 茉莉は少し考えて、

「やっぱり、お母さんがご飯の支度をするのを手伝うところから始めるのがいいんじゃないかなあ。しーちゃんはどう思う?」

「ええ、私もそう思うわ。今朝まーちゃんが朝ご飯を作るのを見ていただけでも勉強になったし。お手伝いをして、できることを徐々に増やしていけばいいんじゃないかしら」

 そんなこんなの会話をしながらお弁当を食べ終えたところで、茉莉がカバンから、志津香が弁当の包みから取り出したのは、チョコレートクリームのロールケーキであった。

「お、今日もデザートなんだねっ」

「うん。泉美にも分けてあげるから、ちょっと待ってね」

 茉莉は自分のロールケーキを半分に割ると、少し大きくなってしまったほうを泉美に手渡した。残った半分の方を口に運ぶ。

「ん、今日もしーちゃんの選んだデザートは美味しいね」

「まーちゃんの手作りにはかなわないけどね」

「うん、美味しいねっ。昨日のシュークリームも美味しかったし、今度デザートのお店、教えてくれると嬉しいな──あ、そうだ、教えて欲しいと言えばっ」

 と、泉美はロールケーキを手にしたまま自分の本来の席に戻り、

「姫宮さん、姫宮さんっ」

「?」

 言いながら、物理Ⅱの教科書を持って帰ってくる。

「この問題解るかな? 力学なんだけどさっ」

 すると、志津香の先ほどまでの弛緩した雰囲気が、ぴっとしたムードに変わる。

「どこでつまずいてるの?」

 泉美が自分が考えた道筋を説明していくと、志津香はふむふむとうなずいて、

「間違ってる理由は、ここ。いい? 二つの物体が互いに力を及ぼす場合、必ず作用には反作用が発生するわ。大抵この手の問題は『ただしさつはないものとする』付きだから、簡単に言い換えれば物理の基本中の基本、運動エネルギーの保存則よね。ここで加わる力が時間的に変わる場合にどうするかっていうのがこの問題のキモなわけよね?」

「あ、なるほどなるほど。ということは──っと、作用した時刻における力と、その力が作用した時間間隔をかけて、足せばいいんだったよねっ?」

「はい、正解」

「おー、さすが姫宮さんっ、分かりやすくていい教え方だねえっ」

 と泉美が感嘆の声を漏らし、それから思い出したように、

「そういやあやも解けない問題があるって言ってたんだ。見てあげてくれないかなっ?」

 言われ、志津香は穏やかにうなずく。

「ええ、構わないわよ」

「おーい、綾っ! さっきの問題、姫宮さんが見てくれるってっ!」

 呼ばれ、志津香ほどの長さではないが黒髪をストレートに伸ばした女生徒が、おずおずと教科書を持ってやってくる。

「あの……すみません姫宮さん、この問題を教えてもらえますか?」

 すると、それを皮切りに、男女問わず幾名もの生徒たちが集まってくる。

「この問題、何度解いても答えが合わないんだけど、姫宮さん、教えてくれないかな」

「姫宮さん、この問題の解き方を教えてくれると嬉しいんだけど──」

「姫宮さん、姫宮さん──」

 と、いつの間にか勉強会が始まってしまった。

 一昨日からG組を訪れていた志津香に、話しかけたくても話しかけられなかった生徒たちなのだろう。これを機とばかりに生徒の輪がふくれあがっていく。

「それにしても姫宮さん、本当に勉強できるわよねー」

 誰かが言った。すると志津香はいつものように、

「脳を働かせるにはブドウ糖が必要なのよ。だから甘い物を食べるの」

 と言ったところを見やれば、生徒たちに解法を教えながら、左手には食べかけのロールケーキを持ったままだった。すると女子生徒の一人が、茉莉と同じようなことを言う。

「うーん、でも太っちゃいそうだしなー」

 それに対する志津香の回答も変わらない。

「頭をいっぱい使えば、糖分は消費されて太らないわよ」

 クラスメイトに囲まれて、席から立ち上がることのできなくなってしまった茉莉は、

(うーん、私以外には前のままなのよねー)

 と、すぐ隣でてきぱき質問に答えている志津香を見ながら考える。

(なんだか嬉しいような、嬉しくないような……いや、嬉しいかな、やっぱり)

 誰かに好意を抱かれるのは嬉しいこと。

 茉莉は改めてそう思ったのだった。



 学校から帰宅すると、緊張感が解けたからか、どっと疲労が襲ってきた。

 茉莉は制服から着替えることもせずに茶の間に行くと、テーブルの上にうつぶせに倒れ込む。頬をべったりとテーブルにつけて、窓越しに庭を見やる。わずかに花びらを散らす満開の桜が咲いている。

(あー、今朝、あそこで戦ったんだよねー)

 なんだか今でも信じられないような体験だった。だが、全身を包むけんたいかんは間違いなくあの戦闘によるものだ。

「まーちゃん、制服シワになるよ」

「ん」

 志津香に言われ、茉莉はよろよろと立ち上がる。いつの間に着替えたのか、志津香は最初に阿部家にやって来たときと同じ緑のワンピースに身を包んでいた。

 茉莉は部屋に戻り、ドレッサーの手前にあったものを適当に引っ張り出した。肩から袖の部分だけがピンク色のTシャツと、ライトグリーンのキュロット。これでいいや、と制服から着替えると、茶の間に戻り、座布団を枕に床に寝転がった。畳の感触が心地良い。

「まーちゃん、桜をイメージしたの? 似合ってるわ」

「……え?」

 言われてみれば、ピンクとグリーンの組み合わせは庭にあるそれと似ていたかもしれない。意図したわけではないのだけれど。

「桜……桜もちが食べたくなっちゃった」

「さすがにそれは作れないわよ? ……と、そうだ、夕ご飯の支度をしなきゃ。一昨日のカレーが残ってるから、それでいいよね? ご飯を炊くぐらいで済むし……」

「ええ、私は構わないわ。まーちゃんのカレー、美味しいもの」

 などと会話していると、あるてみすとかなみが連れだって茶の間に現れた。

 あるてみすは例のメイド服のままだが、汚れは綺麗に落ちている。かなみは茉莉の物と色違いのスカイブルーのTシャツにデニムの半ズボンをはいている。

「ああ、かなみ。今日は学校休んだの?」

「うむ。あるてみすの寝床を確保せねばと考えてな。色々と思案したのだが、私の部屋の押入れに布団を敷くことにした。どうせ本がいくらか入っていただけだし、その内容は全て私の頭の中に入っている」

「ということでお世話になるのれす。そして皆さま今日はお疲れさまでしたなのれす」

 ぺこりとお辞儀をするあるてみす。

「あー、うん、まあお祖父ちゃんのしたことの後始末だからね……しーちゃんには迷惑かけちゃうけど、仕方ないかなー、とか」

「私はまーちゃんのためならこれぐらい何てことないわよ」

「ありがと。さて、夕ご飯の支度しなくちゃ……」

 茉莉が言って、大儀そうに立ち上がろうとすると、

「お疲れのようですし、夕ご飯の支度は私がするのれすよ」

 と、あるてみすが立ち上がりかけた茉莉を座らせた。

「え……あ、ほんと?」

「あるてみすは嘘つかないのれす」

「うー、じゃあ、ごめんね、今日は疲れてるからお願いできる? 一昨日のカレーがあるから、それを温めて、あとはご飯をくだけでいいんだけど」

 料理好きな茉莉であるが、今日だけはその申し出に甘えたかった。

「分かったのれす」

 あるてみすが台所へと消えて行き、茉莉は再び畳の上にごろんと横になった。

「私はまーちゃんの料理がいいんだけどなー」

 志津香の声を背に受けつつ、睡魔が襲ってきて──その数秒後だった。

 ぼふん、という音が台所の方からしてきたかと思うと、黒い煙がもくもくと台所から茶の間へと溢れ出してきた。

 茉莉と志津香は慌てて立ち上がり、煙をぱたぱたとかきわけながら台所へと向かう。

「けほ、けほ……何があったの?」

 と言って台所に入っていった茉莉がまず目にしたのは、カレーの鍋が床に転がってできた、スープカレーの小さな池だった。茉莉は力なくそれを指さし、

「……これは?」

「コンロの上に載っていたのでおそらくこれだろうと判断して、確認するために中身を覗こうとしたときに、うっかり落っことしてしまったのれす」

「……」

 茉莉は呆然と、三秒ほどそのまま放心状態で立ち尽くした。それから自らを奮い立たせるようにふるふるとかぶりを振って、

「で、この煙は?」

 茉莉が言うと、あるてみすは今も黒煙を立ち上らせている炊飯器を指さして、

「ご飯を炊く道具だと思ったのれすが、失敗してショートさせてしまったのれす」

「何をどうやったら自動炊飯器でこんな失敗できるのよ……」

 茉莉が怒鳴る気力もわかずにうめくように言うと、あるてみすはしゅんと縮こまり、

「使い方が分からなかったので、あるてみすと直接接続したのがマズかったようなのれす。電力の過供給になってしまったのれすね。ごめんなさいなのれす……」

 茉莉は、それ以上あるてみすを責める気にもなれず、

「……今日はパスタを作るから。あるてみすは何もしなくていいわ」

「すみませんなのれす……」

 茉莉は疲れ切った表情で、まずは炊飯器のコンセントを抜いて安全を確保すると、のろのろと膝を折り、カレーのざんがいの始末から始めることにする。

「まーちゃんのパスタ♪」

 一人嬉しそうに床の掃除を手伝ってくれている志津香の存在が今は有り難かった。

 と、どこかへ消えていたかなみが台所の入り口に現れた。

 その手に、一枚の習字用紙が丸めて持たれている。

「? 何、それ?」

 茉莉が尋ねると、かなみは無言で、その習字用紙をするすると伸ばし、茉莉たちに見えるように広げた。そこには小学四年生のものとは思えないほどの達筆で、

『ドジっ子メイドは日本の宝』

 と書かれていた。

 茉莉は、本当に今日何度目になるか分からない、大きなため息を吐いた。