かなみがすらすらと言い終えるとカレーを口にする。なんだかんだ言って食べるのだから、文句なんか言わなければいいのに──と茉莉が思っている横で、

「へー、そんな効果があるんだ……。やっぱりかなみちゃんはすごいわね」

 と、志津香が感心していた。

「私も、辛さが痛みと同じものってことは知ってたけど……かなみちゃん、小学校の四年生なのよね?」

「うむ。藍園学園小学校の四年に在籍している」

「天才っていうのはこういう子のことを言うのねー」

「言われ慣れてはいるが、実感はないな。私にとってはこれが普通なのだから。……それより姫宮、フライドガーリックを載せて食べてみても美味いぞ」

「え? そ、そう……? 匂いが苦手なんだけど……大丈夫かしら」

 志津香はカレーにおそるおそるガーリックを一欠片載せてみて、口にした。

 そして、驚いたように口をおさえ、

「ん、にんにくってカレーに合うのね。知らなかったわ」

「ちゃんとフライされてるやつじゃないと、匂いがきついけどね。自分で揚げようとしてみたこともあったんだけど、上手く行かなかったのよねー。まあ、百円でパックが売ってるから、それを買ってくれば済むだけの話なんだけど」

「うむ、茉莉はまれに意味不明な大失敗をやらかす。以前に揚げたものはひどい出来だったな。外は焦げているくせに内側は生という、地獄のような状況であった。しかしにんにくは栄養価も高い健康食品だ。匂いが気になるかもしれないが、少量とっておくのもよいだろう」

 と、カレーの皿を空にしたかなみは、皿を茉莉に示し、

「おかわりだ。皿に半分ほど欲しい」

「はいはい」

 茉莉はそれを受け取ると、台所に向かい、ご飯にカレーをかけて戻ってくる。

「はい。あんまり食べすぎないのよ? 小さいうちに太ると痩せにくくなるんだからね」

「それは脂肪細胞の増殖のことを言っているのだろうが、脂肪細胞の増殖は三歳程度までだ。それ以降は脂肪細胞は肥大・縮小のみを行なうようになる。よって心配はない」

「……可愛くないわねー」

「正論を言ったまでだ」

 かなみがきっぱりと言って皿を受け取り、食べ始める。かなみの食べる速度はかなりのもので、あっというまに半皿のカレーライスを食べ終え、茉莉と志津香が一皿を食べ終えるのとほぼ同時にスプーンを皿に置いた。

「うむ。であった。ごちそうさま」

「うん、美味しかったわ。ごちそうさま、茉莉さん」

「いいえ、お粗末さまでした」

 茉莉がにっこり笑顔で言うと、志津香はこれだと気がついたように、

「あ、お皿洗いは私が……」

 と言うのだが、茉莉はそれをやんわりと断わった。

「ううん、すぐ済むから、大丈夫よ」

 三つの皿を重ねずにシンクへと持っていくと、茉莉は皿の表側を重点的に、裏側はおざなりに洗い始める。皿を重ねてしまえばアウトだが、たいして汚れてもいない皿の裏なのだからちょっとくらい楽をしてもいいだろう。

 少し残ってしまったポテトサラダはラップをして冷蔵庫へ。明日のお弁当のおかずにしよう、と茉莉は考える。そして茶の間へと戻ると、

「はい、今日のデザートー」

 茉莉と行き違いで台所に入って行った志津香が嬉しそうに持ってきたのは、そういえば夕方のスーパーで言っていた、ワッフルであった。

「一人二つずつあるから、好きなのを食べてね。バニラ、チョコ、いちごの三つがあるから」

「……ねえ、姫宮さん? なんでそんなに甘い物食べても太らないの? 私、自分の体重が心配なんだけど……」

「大丈夫」

 志津香は胸を張って、チョコレートクリームのワッフルを手に取り、

「脳の栄養はブドウ糖なのよ。頭を使うからには甘い物を食べないと」

 茉莉はしばしワッフルを見つめ、食べようか食べまいかしゆんじゆんした後に──

「……うん、私も食べようっと。いただきます、姫宮さん」

 苺クリームのワッフルに手を伸ばした茉莉に、ぼそりとかなみが呟く。

「頭を使うからには、だぞ?」

「う……つ、使うもんっ。今日これから宿題やるんだから、頭使うもん~っ!」

 茉莉は叫び──かなみは無言で、茉莉のウエストをつまんだ。

 そして一言、

「気をつけよう、その一口が、命取り。字余りだな」

 言って、バニラのワッフルを口にした。



「かなみ、ちょっといい?」

 夜遅く、志津香が客間に行ってしまってから、茉莉はかなみの部屋を訪れた。

「良い。何だ?」

「うん、ちょっとお邪魔するね」

 と、後ろ手にふすまを閉じ、茉莉は切り出した。

「あのね、明日か明後日あたり、姫宮さんの歓迎パーティーをやろうと思うの。それで、かなみの情報網で、姫宮さんの好きな食べ物を調べて欲しいんだけど」

 方法はよく分からないが、かなみにはパソコンを使って様々な情報を仕入れるスキルがある。志津香レベルの有名人なら、かなみならどうにかなるのではないかと考えたのだ。

「甘い物だ」

 かなみはベッドに横になり、小説を読みながら、きっぱりと答える。ちなみに小説の表紙には、ものすごく美形な青年が同じく美形な青年をお姫様抱っこしている絵が描かれている。茉莉はそれについては触れないことにして、

「それは知ってるわよ。そうじゃなくて、もっと主食、主菜になりそうなもの」

「ふむ」

 かなみは本を閉じて立ち上がると、

「調べて来よう」

 と言って、部屋を出て行った。

(? パソコンは使わないの?)

 茉莉が考えていると、すぐにかなみは戻ってきた。

「オムライスだそうだ」

「だそうだ……って、ひょっとして、」

「うむ、本人に聞いてきた。それが一番確実だろう」

「って……まあ、そっか、それが一番早くて確実よね。でも、歓迎会のことは、」

「もちろん伏せておいたから安心するがよい」

「そっか。うん、ありがと。それじゃ明日の晩ご飯はオムライスね」

 それに加えて、手作りのケーキでも焼いてあげればきっと志津香は喜ぶだろう。

 料理を作るのはさほど上手くない母のあけだが、なぜかお菓子を作るのだけは大の得意で、茉莉にもその技は伝授されている。甘いものが好きな志津香のことだ、チョコレートケーキでも作れば大喜びしてくれるのではないだろうか。

 茉莉はそれを想像して少し楽しみになり、微笑を浮かべるのだった。



 夜を歩く、一つの影があった。

 ゲームセンターやパチンコ屋、カラオケボックスに居酒屋などが軒を連ねている雑多な通り。色とりどりのネオンで照らされ、人々でにぎわう繁華街。そこから道一本外れただけで、世界が変わったかのように、周囲の支配者は闇と化す。時々思い出したかのように明滅を繰り返す街灯が頼りなく周囲を照らしている他は、真っ暗と言って差し支えない。

 そんな道に、メイド服を着た少女がいた。

 道の真ん中に立ち止まり、両側頭部から突き出たアンテナを光らせながら、じっと目を閉じている。やがて目を開くと、眼鏡を中指で押し上げ、

「GPS座標を確認──阿部家のGPS座標との誤差、増大傾向なのれす」

 小さく呟く。

 つまり、現在自分は阿部家から離れた方向に向かって歩いている。

 それを確認して、少女はきびすを返した。

 目標から離れていっては意味がない

 アンテナが頭部に収納され、少女を『人間ではない』と認識させる記号が消え失せる。

 そして足を速めようとした少女の肩に、ぽんと手が置かれた。

「ちょっと君、かわいいねえ、どこの店の子?」

 すいきやくであった。

 メイド服を着た少女を見て、風俗店の店員か何かと間違えたのだろう。

 しかし少女にはそんなことは分からない。

 男の方は、にやにや笑いを浮かべたまま──少女の、まだ発展途上と思われる胸に釘付けになっていた。

 少女趣味のある男なのかもしれない。

 かんなことだが、この現代、少女趣味の需要があれば供給もある。

 男は少女もきっとその手の──「供給者」であると思ったのだ。

「? あるてみすはどこの店の子でもないのれすよ?」

 少女──あるてみすという名らしい──はそう答える。

「えぇ~、それでその格好なの? もしかして、売り?」

「?」

 あるてみすがきょとんとしていると──その肩に、再びぽんと手が置かれた。

 今度は酔客とあるてみす、同時に。

「君、未成年だよね? そしてそっちのあなたは、今、買春行為をほのめかしたね?」

 紺色の服を着た男──あるてみすはそれを、警察官だと認識する。

「ち、違うのれす、あるてみすはただ通りかかっただけで、」

「あのねえ、青少年保護条例っていうのがあってね、未成年者はこんな時間に出歩いちゃいけないの。ちょっと交番まで来てもらうよ」

「ちょ、待つのれす、あるてみすは未成年なんかじゃなくて、」

「じゃあ身分証明書を見せて」

「……」

 あるてみすはそんな物持っていなかった。

 警察官は、あるてみすの腕を力強くつかむ。

「親御さんに来てもらって、しかってもらわないといけないな。……いや、最近の親だとそれすらもしてくれなかったりするから困るんだが──まあいい。とにかく交番だ。そっちのあんたもね……って、おい、待て!」

 酔客が走って逃げ出して、警察官がそれに気を取られ、一瞬束縛が解かれた。

 逃げよう。

 あるてみすは反対方向に向かって逃げ出した。

 数メートルも行かないうちに転んだ。

「ば、バランサーに異常発生なのれす」

 すぐに酔客の方をあきらめたらしい警察官が走ってきて、あるてみすをわきに抱えるようにひょいと持ち上げようとした──が、あるてみすは地面を転がってそれを避ける。

「あ、あるてみすは未成年者なんかじゃないのれすっ!」

「……君、ひょっとして酔っぱらってるんじゃないだろうね?」

「そんなことはないのれすよ?」

「ろれつが回っていないぞ」

「これがあるてみすの標準のしゃべり方なのれす」

 あるてみすの言葉に、警察官はまゆをひそめた。

「そんな方言聞いたことないぞ。まさかクスリじゃないだろうな」

「待つのれす。あるてみすにはしなければならないことがあるのれす。こんなことをしている暇はないのれす」

「話は交番で聞くから、いいね」

「よくないのれすーっ」

 あるてみすはそのまま転がって立ち上がると、今度こそ警官から逃げ出した。

 あるてみすの速度はそれほど速いとも言えなかったが、体力において警官を圧倒的に勝っていた。途中で息を切らした警官を振り切って、あるてみすは繁華街の雑踏へと身を紛れ込ませた。



 翌朝。

 茉莉が朝食の支度をしていると、誰かが起きてきた。誰かといっても志津香かかなみしかいないのだが、台所から振り返って茶の間を見やると、制服姿の志津香がそこにいた。

「姫宮さん、おはよう。早いのね」

「ゆっくり寝かせてもらって悪いくらいよ。本当は朝ご飯ぐらいは作りたいのに……」

「そ、それはいいの、台所のことは私に任せてちょうだい」

 茉莉が言うと、志津香は申し訳なさそうに、

「それじゃあ、お言葉に甘えるわね。それで、えっと……コーヒーが飲みたいなって思うんだけど、飲んでもいい? あ、もちろんインスタントで構わないわよ?」

 志津香が台所の方に入って来ようとしたのを、茉莉は慌てて止めた。

「ま、ちょ、うん。置いてある場所は分かるわよね?」

「ええ、昨日片付けた時に見たけど……どうかしたの? まるで私に台所に入って欲しくないみたいに見えるんだけど……」

「え!? あ、と、それはその、えっと、お、お魚焼いてるから、匂いがついちゃわないかなって思って。そ、そうだ。お湯は今かしたところだから、待って」

「うわ、朝からお魚なんか焼いてたの? 大変じゃない?」

「日本人の朝と言ったらお魚とおしるでしょう?」

 そう言って茉莉は、てててとコンロへと走って行き、しゅんしゅんと湯気を立てるやかんを持って戻ってきた。茶の間の、台所に入る扉の横に置いてある電気ポットのふたを開けて、お湯を注ぐ。

「はい、どうぞ」

「わざわざ悪いわね、沸かしたてなんて」

「朝には沸かすことにしてるから、いつものことよ」

 茉莉はそのポットの置いてある棚の一つ下の段から、インスタントコーヒーのびんと、クリームの瓶と、砂糖壺を棚の上に置いた。

「カップはどれを使えばいいかしら?」

「あ、そうそう」

 と言って、茉莉は茶の間に置いてある食器棚からマグカップを手に取った。

「マグカップ、姫宮さん用のを買っておいたの。安物で悪いんだけど、どうかな?」

「え……わざわざ買ってきてくれたの? ごめんね、そっか、言ってくれれば家まで戻って、自分のカップを持ってきたんだけど……」

「ううん、いいの。新生活を始めるんだから、新しいものがあってもいいじゃない?」

 志津香は感慨深そうにそのブルーのカップを眺め、

「……ありがとう。このカップ、気に入ったわ。早速コーヒーを入れさせてもらうわね」

 そう言って志津香は、ティースプーンを手に、コーヒーを二杯、粉クリームを二杯、お湯を八分目まで注いだ。そして、砂糖壺から角砂糖を一つ、二つ、三つ、四つ……

「って、砂糖入れすぎじゃない!?

「これぐらい甘いほうがいいの」

「……せっかくスタイルいいのに、崩れちゃわないか心配になっちゃう」

「頭を使えば糖分をとっても太らないわよ。ほんとよ?」

 一昨日から何度も聞いた気がするその言葉を聞きながら、茉莉はふと一つの疑問に思い当たった。志津香なら知っているだろうか。聞いてみることにする。

「あのさ、糖尿病とかは大丈夫なの?」

 茉莉が言うと、志津香はしばし動きを停止して、

「……それは考えたことなかったわ」

 言いながらも志津香はコーヒーをすすり、

「あとで調べてみることにするわ」

 言った時だった。

「糖分のじようせつしゆと糖尿病に直接的な関係はない。糖尿病は確かに生活習慣からもかんするが、主原因は糖の代謝異常だ」

 いつから会話を聞いていたのか、藍園学園小学校の制服を着たかなみが、茶の間のテーブルに両手を組んで座っていた。

「しかし糖分の過剰摂取が身体に良いとは言えない。一日に体重一キロにつき一グラム程度がせいぜいだろう。また、糖分はカルシウムの効果的な利用を阻害する。特に女性にとってはこつしようしようの原因ともなるゆえ、望ましいとは言えない──おはよう、二人とも」

「おはよう、かなみ」

「おはよう、かなみちゃん……私、牛乳をたくさん飲むようにするわ」

「糖分を減らす気はないのね……」

 茉莉はあきれ半分で言って、そういえば朝食の準備の途中だった、と台所へと戻る。ちょうどさけが良い具合に焼けたところだったので、魚焼き用の網から降ろして皿に盛りつけると、を各自に二枚ずつ添えて茶の間へと運ぶ。

「ああ、それくらい手伝うわ。次はお味噌汁を運べばいいのよね?」

「あー、た、わた、私がやるからっ」

 茉莉はそう言うと、志津香の進路をふさぐように走って台所へと戻り、次に大根とわかめの味噌汁を三人分、お盆に載せて運んで来る。

「それぐらいさせてくれないと、逆に落ち着かないんだけど……」

「かなみみたいに、どっしりと構えていてくれて構わないわよ」

 と、茶の間のかなみを視線で示す。かなみは座布団の上に正座をして、新聞を熟読している。──おそらくは経済欄だろう、と茉莉は思う。

「でも、居候の身だし……」

「いいのいいの、家事は私に任せてちょうだい」

 茉莉はそう言って、最後にご飯の盛られた茶碗を運び、朝食の準備の整った食卓についた。エプロンを外せば、その下には既に制服を身に着けている。

「かなみ、ご飯にするわよ。それじゃ、いただきます」

「いただきます」

「うむ、いただこう」

 と、食事を始めたところで──

 不意に、くんくん、と志津香が空気の匂いをいだ。

「ど、どうかした?」

「あ、うん。甘い匂いがするな、と思って──これは、ケーキを焼いてる匂い?」

 一発でバレてしまった。

「な、なんのこと?」

「誤魔化しても駄目よ。ケーキを焼いてる匂いよね?」

 志津香に問いつめられ、茉莉は白状してしまうことにした。

「あー、さすがに隠してはおけなかったかー」

「焼いてるの? ケーキ」

 と、志津香が目を輝かせる。

「うん、今晩のデザート用にね。だから、今夜の分は用意しなくていいわよ?」

「ええ、分かったわ。楽しみにしてるわね、茉莉さんの手作りのケーキ」



 その日の晩──

「それじゃあ、姫宮さんが我が家にやってきたことを祝して!」

「かんぱーい!」

 と、烏龍茶で乾杯をした三人は、目の前のオムライスへと視線を落とした。

「ようこそ阿部家へ」とケチャップで書かれたオムライスは、卵がほんの少しだけ半熟気味で、実に美味しそうに見える。

「あ、あはは、なんだか照れちゃうな……」

 と、志津香が顔を赤らめる。

「でも、すごく嬉しい。歓迎会を、やってもらえるなんて思ってもみなかったから」

「いいからいいから、早く食べて」

 茉莉がその手にスプーンを握らせ、オムライスを食べろと催促する。

 志津香はスプーンをオムライスへと差し入れた。すくい、口に運ぶ。

「~~~っ」

 志津香は左手で口をおさえ、右手のスプーンを握りしめ、もぐもぐとしやくしながら、満面の笑みを浮かべる。まるで飲み込むのがもったいないとでも言うように、しばしそのまま咀嚼をし続けてから──

 志津香はごくりと口の中のオムライスを飲み下し、両手を握りしめた。

「美味しいっ。すごい、茉莉さんはオムライスの天才だわ」

「そんな、天才だなんて」

 茉莉は言うのだが、志津香はかぶりを振った。

「この卵の半熟加減と絶妙な厚さのせいかしら、口の中に広がる濃厚なケチャップの味を白身が消していく感覚。卵とケチャップライスが混ざり合って、溶けていくような食感。バターが溶かされているのね、その適度な香りもたまらないわ。食べ物には味、匂い、食感の三つの要素があるけれど、このオムライスは全てが完璧だわっ」

「あ、あはは、そこまで喜んでもらえると、こっちも嬉しいけど」

 まあ、オムライスの半熟加減と温度を考えて、志津香用のオムライスを最後に作ったのは確かである。だが、まさかここまで喜ばれるとは。

「うん、私のためのパーティーで、こんなに美味しい料理を作ってもらえるなんて……なんだか感激しちゃう。昨日かなみちゃんに好きな食べ物を聞かれた時は何かと思ったけど、まさかこんなことだったなんて……」

 と言いながらも、まるで「ようこそ」の文字が消えてしまうのがもったいないとでもいうように、外側からスプーンを入れていく志津香。

 それでも、食べ物というのはいつかは食べ終わってしまうものである。

 オムライスを食べ終え、皿を下げると、茉莉は棚から紅茶の缶を手に取った。

「それじゃ、ケーキにあわせて紅茶をれるわね。種類があればいいんだけど、あいにくディンブラーくらいしかちゃんとした茶葉は置いてなくって」

「そんなの気にしないわ。オムライスがあれだけ美味しかったんだから、ケーキも期待しちゃう。ああ、何ケーキなのかな。苺のショートケーキ? チョコレートケーキ? それともチーズケーキかしら」

「そ、そこまで楽しみにされちゃうとちょっと緊張しちゃうな──」

 と言って、三分間待ってから、茉莉は温めておいた三つのカップに紅茶を注いだ。一応ゴールデンルールくらいは知っている。ケーキをより美味しく食べてもらうために、紅茶の方も手は抜かない。

 それから茉莉は、冷蔵庫で冷やされたケーキを持って茶の間に現れた。

「じゃん。チョコレートケーキでーす」

「わーん、チョコレートーっ!」

 ぱちぱちぱち、と志津香が拍手をし、それに付き合ってかなみもぺちぺちと拍手する。

 黒色のケーキの上には生クリームでふちりがしてあり、その中央にはホワイトチョコレートで「歓迎 姫宮志津香さん」と書かれているのだが、志津香は最早そんなこと気にもしていないようだった。「待て」をされた犬のように、フォークを握りしめて待っている。

「それじゃ切り分けるわね。六等分にするから、今夜は一つだけ食べるのよ? かなみ」

「うむ。私よりも姫宮の方が心配だが」

「きっと大丈夫よ。茉莉さんのケーキを一晩で食べちゃうなんて、もったいないもの」

 とは言うものの、切り分けられたケーキが皿に載せられていくのを見る目は完全に子供のものである。皿が配られ、紅茶が運ばれると、志津香は自ら乾杯の音頭を取った。

「それでは、かんぱーい!」

 紅茶を一口、志津香は早速ケーキにフォークを差し入れ、それを一口ほおった。

 もぐもぐと咀嚼しながら──その目が、丸くなっていく。

「……」

 そして、ケーキを見つめたまま、言葉を発しない。

「? どうしたの、姫宮さん。口に合わなかった?」

 茉莉が心配になって問うと、志津香は呆然とした口調で、

「おちゃんの味だ……」

 と言って、次の一口、次の一口と、あっという間にケーキを食べ終えてしまった。

 いつもデザートを食べる時は、志津香は食べ終わるのがもったいないとでもいうようにゆっくりと食べる。それが、このケーキに対してはこの勢いだ。

 茉莉は気づく──その顔が、いつものりんとした表情から、無邪気な子供のようなものに変わっていることに。志津香はおねだりをする子供のような顔で茉莉の顔色をうかがい、

「私の分、もう一つあるのよね? もらってもいい?」

「あー、えーと」

(まあ、普段からあれだけ甘い物食べてるんだから大丈夫よね……)

 と茉莉は考え、

「それじゃあ、姫宮さんだけね。かなみは、一つだけよ?」

「うむ」

「! 嬉しい、茉莉ちゃん!」

 茉莉の手から二つ目のケーキを受け取ると、かなみと茉莉が一つ目のケーキも食べ終えないうちに、あっという間に食べ終えてしまう。

 それからフォークを口にくわえて、

「お代わりは……ないのよね、茉莉ちゃんとかなみちゃんの分だもんね」

 残念そうに言う。あまりにも哀しそうなその様子に、茉莉は、

「あ、あは、そんなに食べたいなら私の分をあげてもいいけど」

「ほんと!?

「私の分も食べて良いぞ。ケーキとしても、より喜んで食べられる方が本望だろう」

「ありがとうっ! 茉莉ちゃん、かなみちゃん!」

 志津香は茉莉とかなみの手をとって礼を言うと、残っていたケーキを全て、瞬く間に食べ終えてしまった。その勢いたるや、テレビで見る大食い芸能人のようですらあった。

 茉莉はしばし、ぽかんとそれを見つめていたが──

「──って、姫宮さん、お腹とか大丈夫?」

「大丈夫よ、甘い物は別腹って言うでしょ? それより、ケーキはもう無いのよね?」

「う、うん。一ホール作って、今全部食べちゃったから……」

 茉莉がなんだか申し訳ない気分で言うと、志津香はきらきらとした目で茉莉を見つめ、

「それじゃあ、今度は何か別のデザートを作って?」

 ぎゅ、と茉莉の手を両手で握りしめる。

「さすがに今夜これ以上食べるとお腹壊すと思うんだけど……」

「お願い、ね、お願い」

 茉莉は押されると弱い。

「うーん、卵はまだあるし、チョコレートシロップと生クリームの素もまだ残ってるし、バナナがあるから……三十分くらい待ってくれれば、クレープなら作れるけど」

「クレープ!」

 志津香のひとみが一層輝いた──そういえばこの前「何を食べたい?」って聞いた時にクレープとか答えてたなー、などと思いながら、台所に戻ってエプロンを着けて、茉莉は無塩バターをせんし始めた。ボウルに薄力粉をふるい、砂糖を加えて混ぜる。それとは別に卵もよく溶いて、人肌に温めた牛乳を加える。それらを混ぜ合わせ──

「って、えーと、姫宮さん?」

「なに?」

 きらきらきらきら。期待に満ちたまなざしが、すぐ横からじーっと茉莉に注がれている。

「な、なんか落ち着いて作業ができないんだけど……」

 茉莉が言うと、志津香は人差し指の先を軽くくわえ、

「……見てちゃ駄目?」

「いや、駄目ってことはないけど、えーと、どのみちこのあと三十分くらい生地を寝かさなくちゃならないから、すぐにはできないわよ?」

「そうなの!?

 それはもう、人生に絶望したかのような顔であった。

「いや、三十分だけだから……そんなにショックを受けないで、ね? 向こうの部屋でかなみとテレビでも観ててくれる?」

「うん……分かった」

 すごすごと茶の間に帰っていった志津香を見送ってから、よーく混ぜ合わせたそれらをこし器にかけてダマを取り除いていく。湯煎して溶かしておいたバターにそれを混ぜれば、一段階目は終わりである。

 それから茉莉は生クリームの素と牛乳を混ぜ合わせて生クリームを作り、もう使わないボウルや夕食の食器などを洗い終えてから、エプロンをほどいて茶の間へと戻った。と。

「……」

 じー。っと、志津香が茉莉を見つめていた。

「え、えっと、今生地を寝かせてるところだからね。三十分くらいしたら焼くから」

「うん。待ってる」

 畳の上に寝そべって青年誌のグラビアを眺めていたかなみが、顔だけ振り返り、自分の横の座布団をぽんぽんと叩いた。

「まあ、ここに座るがいい。楽しみなのは分かったが、待っている時間というのは長く感じるものだ。私と共にテレビでも観て、クレープのことはしばし忘れるが良い」

「……うん」

 志津香は素直に、その座布団の上に体育座りをした。テレビではどうでもいいようなグルメ番組が流れていて、とてもかなみがそれを真面目に見ていたとは思えなかった。──実際、かなみは再びグラビアの方にじっと視線を注いでいる。……小学四年の女の子が、女性アイドルの水着姿など見て嬉しいものなのだろうか?

 茉莉は疑問に思い、聞いてみることにした。

「かなみ、グラビアなんか見て楽しいの?」

 するとかなみはゆっくりとうなずいて、

「うむ。女性の持つ曲線美というのはやはり他では表現しがたいものであるな。私は茉莉を見ている故自分がこのようになるとは思ってもおらぬが、出るところが出てひっこむところがひっこんでいるという姫宮のような姿もいいものだ。……まあ、私はつるぺた派故、茉莉のようにスレンダーな身体の方を好むのだがな」

「……つるぺた派?」

「うむ。興味があればググるが良い。参考になりそうな絵が山ほど出てくるだろう。最近では『ひんにゆうはステータスだ』、などと明言している漫画、アニメすらあるほどだぞ」

「……何言ってるんだかさっぱりだけど、なんだかなぐさめられてることだけは分かったわ」

 などという会話がなされている横で、志津香は一応テレビに向かって座っているが、その目はそわそわと時計とテレビとの間を行ったり来たりしている。

(うーん……なんか……甘いものが絡むと別人……というか子供みたい?)

 意外な志津香の一面を発見したような気がして、茉莉はちょっと微笑ましい気分になった。──などと思っていられたのも、この後のさらなる変化を知らないからであった。

 テレビがのんびりと地方の名産品などを紹介していたその時、志津香が振り向いて、

「三十分経った」

 と言った。

「え、あ、うん。もうそれくらいになるわね」

 茉莉が言うと、志津香はだだっ子のように、

「三十分経ったら焼いてくれるって言ったー」

 と、両の拳を握りしめて言う。茉莉は慌てて、

「あ、うん、それじゃあ焼こうか」

「うんっ」

 と、茉莉がエプロンをしながら台所に向かうと、志津香はちょろちょろと茉莉の後をついてくる。くんくん、と匂いを嗅いで、

「甘い匂いがする」

「それはまあ、クレープ生地だから。生クリームも冷蔵庫に入ってるし」

 ホットプレートがあればいいんだけどねー、などと言いながら、茉莉はフライパンに油をひいて熱し始め、生地をフライパンの中央に垂らし、おたまでならしながら円状に薄く伸ばしていく。

「すごーい、手際いいー」

「お母さんに仕込まれたからね……っと、これで一枚焼き上がり」

 フライパンからクレープ皮をはがして、先ほど作っておいた生クリームと刻んだバナナを載せ、その上からチョコレートシロップをたっぷりかけて、半分に折り、さらにそれを三つ折りにしてやれば、立派なチョコバナナクレープの完成である。

「はい、おまちどおさま、姫宮さん」

「ありがとう、茉莉ちゃん」

 志津香はうやうやしくクレープを受け取ると、茶の間に戻る余裕すらもなく、その場で一口クレープを口にした。もぐもぐもぐ、と咀嚼し、飲み込んで、

「美味しい~~~っ」

 志津香は両の手でクレープを持ち、両の目を閉じて天を仰ぐ。

 まるでそれが天からの授かり物だ、とでもいわんばかりに。

「いやまあ、そこまで喜んでもらえれば作った甲斐もあったというものだけど」

「……あのね、茉莉ちゃんの作るデザートはお祖母ちゃんの味がするのよ」

「お祖母ちゃん?」

「うん、去年死んじゃったんだけど」

 言いながら、ぱくぱくぱくぱくと、クレープ一つを食べ終えてしまう志津香。

「ねえ、茉莉ちゃん?」

 クレープを食べ終えた志津香は、きらきらとした目で茉莉を見つめる。

「うん?」

「これから茉莉ちゃんのこと、まーちゃんって呼んでもいい?」

 唐突な申し出であった。

「え? あ? べ、別にいいけど」

「その代わり、私のこともしーちゃんって呼んでね?」

 そう言って、茉莉にきゅっと抱きつく志津香。

「え? え? え?」

 茉莉は意表を突かれて、抱きつかれるがままに任せ──

「う、うん、分かった」

 承諾してしまったのであった。



『あー、志津香ちゃんね、ものすごいお祖母ちゃんっ子だったのよー』

 丁度その日の夜、オーストラリアの明海からの電話があった。

 事の次第を話すと、明海はあはははと笑って、

『そうそう、去年亡くなられたお祖母ちゃんなんだけどね、その家に行くと、甘えまくりになってたのよ、志津香ちゃん。は結構厳しく志津香ちゃんを育ててたし、旦那は子育てにはあんまり関与してなかったみたいだから、普段ずっと気を張ってたのよね、きっと。それでただ一人甘やかしてくれるお祖母ちゃんのところに行くと、普段の分を取り戻すかのように、甘え倒してたのよねー』

「はー。うん、まあ、それは分かったけど……どうして私のデザートが、そのお祖母ちゃんの作ったデザートの味になるの?」

 電話中である。茉莉はコードレスホンの子機を持って茶の間の畳の上に女の子座りしているのだが、そのひざの上には志津香が寝ころんで丸くなっていた。

『私もそのお祖母ちゃん──絵里のお母さんのデザートが大好きでね。しょっちゅう食べに行ってたんだけど、やっぱりよその家だから気が引けるじゃない?』

「うん」

 茉莉は、その志津香のへんぼうぶりにまったくついていけていない。あの姫宮さんがこんな風になるんだー、と、まるで他人事のように思うばかりである。

『それで、どうせなら習っちゃえばいいんだーって、絵里のお母さんにデザート作りを習ったわけ。だから私が茉莉に教えたのも、絵里のお母さん──つまりは志津香ちゃんのお祖母ちゃんのレシピなのよ』

「なるほどねー」

『それで何? お祖母ちゃんの代わりに茉莉が懐かれたの?』

 どうしていいのか分からず、この姿勢では志津香の髪を撫でていたりすれば自然なのかもしれないがそんなわけにも行かず、茉莉は動けないままでいた。

「懐かれた……っていうと動物みたいだけど……うん、そうみたい……」

 自分のひざの上の志津香を見やる。普段のてきぱきてきぱきぴしっ、とした志津香からは想像もつかない姿。まるで猫のように、今は茉莉の膝の上をごろごろしている。

『あはは、じゃあ大変だと思うけどがんばってね。国際電話で料金高いから切るわよ?』

「あー、うん。じゃあ、そっちも元気でね」

『こっちの心配する余裕があるなら大丈夫か。んじゃ、まったねー』

 がちゃん。つー、つー、つー。