志津香はハンカチでキャリーバッグの車輪を拭いてから家に上がってくると、畳の上に正座する。茉莉はお茶を淹れて志津香の前に出すと、
「そ、それじゃ、客間を片付けてきますね」
と言って、あたふたと茶の間を出た。
しかし本当に綺麗な人だ──と茉莉は思う。
あんな人が本当にうちみたいな家にいていいのだろうか。フランス映画に出てくる洋館のほうが百倍くらい似合いそうだ。
茉莉がそんなことを思いながらふすまを開ける──と、
「って、これは酷いわね……」
客間で茉莉が見たものは、積み重ねられたキャンバスの山、山、山。とてもじゃないがお客様をお通しできる部屋の有様ではない。
茉莉はとにかく、母にあてがわれている八部屋──うち一部屋は亡くなった父の部屋をそのままに残してあるものなので、七部屋へと、キャンバスを移動させることにした。
のだが。
「だーっ! この部屋も、この部屋も、この部屋も、この部屋も、この部屋もーっ!」
考えてみればもっともなことで、片付ける場所があれば明海も客間にキャンバスなど置かなかっただろう。明海の私室、明海のアトリエ、明海の物置、明海の物置、明海の物置、明海の物置、明海の物置、全てが物でいっぱいだった。
「うう、お父さん、ごめん……」
唯一空間の残されていた場所、亡父の私室に持ち込めるだけのキャンバスを運び込むと、客間はなんとか見られる程度の体裁にはなった。まだキャンバスが残っていないわけではないが、そこは我慢してもらうしかないだろう。
「えっと、姫宮さん」
「はい」
居間に戻ると、美少女がお茶をすすっていた。茉莉はどぎまぎと、
「えっと、客間が、まだ完全にとは言えないんだけど、片付いたから──荷物はそっちに運んでください。お布団は急だったから、干してもいない押し入れから出しただけのものになってしまいますけど、それは今日だけ我慢してください。ごめんなさい」
「そんな、私は居候させていただく身なんですから、気を遣わないでください」
「あ、そそ、そうですか、えっと、あー、すみません……」
「ですから、気を遣わないでくださいね」
志津香が苦笑する。
どうにも空気が固い。どうにかしなければ、茉莉は考えて、考えて、考えて、
不意に思いついた。
まず、しゃべり方が固いからいけないのだ。
「あ、そそ、そうだ、同級生なんですから、丁寧語なんて使わない方がいいですよね?」
茉莉が言うと、志津香はにこりとおひさまのような笑みを浮かべた。
「そうですね──じゃなくて、そうね。茉莉さん、仲良くなれると嬉しいわ」
「は、はい。私も、仲良くなれたら嬉しいです──じゃなくって、嬉しいな」
志津香はキャリーバッグを手に抱えて、茉莉の後をついてくる。縁側を通って、少し歩けば、そこはもう客間だ。
「えっと、ここが今日から姫宮さんの部屋になるわ。お母さんの荷物が多すぎて、どうしても片付かなかったからキャンバスが積んであったりするけど、気にしないでね?」
「ええ、さっきも言ったけど、居候させてもらう身だもの。気にしないわ」
言いながら、志津香はバッグの中からハンドタオルを取り出し、その上にキャリーバッグを載せる。どうやら床を汚してしまうことを気にしているようだが、そこまで気を遣わなくてもいいのに──と茉莉は思う。
「それじゃ、家の中を軽く案内したほうがいいかな──」
とりあえず手荷物を客間に置いてもらい、茉莉は志津香を連れて邸内を歩き始めた。
「えっと、ここが私の部屋で、隣がかなみ──妹の部屋。かなみ、ちょっといい?」
「いい」
ふすまを開けてかなみの部屋に入る。
かなみの部屋は、小学四年生の女の子の部屋とはとても思えないほどに味気ない。パソコンデスクの周囲に本が整然と並んでいる他、和室なのにベッドが置いてあり、それ以外にはものらしいものも見あたらない。後はクローゼット、本棚と、それぐらいだ。明海が買ってきたピンクのカーテンが部屋の中で浮いている。
ちなみに本棚にちらりと目をやると、最上段左から順に『月刊少女どぼん』『六法全書』『秋葉原探検マップ』『フォン・ノイマンの一生』『渚のシュリンプ少女』……とまったく統一性がない。
ベッドに寝ころんでいるかなみが読んでいる本は、何やら経済書のようだった。
「紹介するわね。こっちが私の妹のかなみ。こちらが姫宮志津香さん」
「はじめまして、かなみちゃん。よろしくね」
志津香がぺこりと頭を下げて挨拶すると、かなみは立ち上がり、頭を下げた。
「うむ、以後よろしく頼む」
「あー、かなみはしゃべり方がちょっと変だけど、気にしないでね、姫宮さん」
茉莉が言うと、志津香は花がほころぶように微笑んだ。
「ええ、ユニークで可愛いと思うわよ」
「それは重畳」
「ちょうじょう?」
かなみの言葉に志津香が疑問の声を上げる。茉莉は、あー、と頭をかいて、
「大変結構、とか、そういう意味──だったわよね? かなみ?」
「その通り」
かなみはそれだけ言い終えると、ベッドに腰を下ろし、再び読書へと戻ってしまった。茉莉は志津香と共にかなみの部屋を後にする。
縁側を歩きながら、茉莉はとにかくフォローをしなければと考えて、
「え、えっと、ちょっと変わった子だけど、悪い子じゃないから」
言うと、志津香は優しく微笑んだ。
「ええ、読んでいた本も難しい本みたいだったし、頭の良い子なのね」
「うん、姉としてはちょっと複雑だけど、私よりは確実に頭がいいわ」
「そんなになの?」
「うん。なんか理系分野で論文とか発表してたことあったし」
「ろ、論文?」
さすがにそれには志津香も驚いたようだった。しかし茉莉は平然とうなずき、
「私にはさっぱり内容が分からなかったけどね」
と、その話を終わらせてしまった。
「それで、こっちがお手洗いでこっちがお風呂。あとの部屋はみんなお母さんの物置みたいなものだから、使ってる部屋はこれだけになるわね。……えっと、だいたいの位置関係は分かったかな? ちょっと入り組んだ造りだから最初は慣れないかもしれないけど、姫宮さんなら大丈夫よね、きっと」
と、二人は茶の間へと戻ってきた。ここが生活空間の中心だ。
「ええ、早く慣れるように努力するわ」
茉莉の言葉にうなずいてから、志津香は台所に目をやって、
「夕食の準備の途中だったの? 手伝わせてもらってもいいかしら?」
志津香の申し出に、茉莉は慌ててぱたぱたと両手を振った。
「ああ、いや、姫宮さんはお客様なんだから、自分の部屋でゆっくりしてて。それに、もうあとは炒めるだけだし」
「そう? じゃあ、悪いけど……と、そうだ。冷蔵庫を借りてもいいかしら?」
「冷蔵庫?」
「ケーキを買ってきたの。食後のデザートにどうかと思って」
「あ、そんな、気を遣ってくれなくてもよかったのに」
「ふふ、本当は私が食べたいから買ってきただけだから。みんなの分はそのついでよ」
と、志津香が客間へと戻り、台所へと持ってきたのは、どう見ても三人分のケーキが収まっているとは思えない、一ホールは入りそうな大きな箱だった。
「って、えーと」
「あ、明日の朝昼のデザート用も一緒に買ってきたの。おばさまがいなくなってしまうとは思わなかったから、四人分あるけれど」
「そ、そうなんだ……朝からケーキ……太りそうで不安だわ」
「頭を使えば糖分は消費されるから平気よ」
志津香はそう言って、笑顔で茉莉にケーキの箱を手渡した。
「それじゃあ、お夕飯の時間まで部屋で休ませてもらうわね」
そう言って、志津香は茶の間を出て行った。
茉莉は冷蔵庫になんとか隙間を空けてケーキの箱を入れると、豚肉のしょうが焼きの続きにとりかかる。ちょっと漬け置きする時間が長くなってしまったので、味が濃くなってしまったのではないか、などと思いながら。
と、こんなふうにして、茉莉、志津香、かなみの共同生活は始まったのであった。
*
これにさかのぼること半月前。
阿部家より北に1042・56メートル、東に2052・21メートル、下方に13・2メートルの地点で、小さなエネルギー反応が発生した。
その地点、重く低い機械の駆動音がわずかに響くだけの真っ暗な部屋の中央に、人が一人横になれるような大きなカプセルが置かれていた。カプセルからは幾本かのコードやチューブが伸び、壁のコンピュータらしきものへと接続されている。
そのカプセルの上部にぽつんと赤いLEDランプが点灯した。すると続いて次々とカプセル側面のLEDランプが灯っていく。それらが全て点灯すると、カプセルの上部がほんの少し持ち上がり、蒸気機関のように一度だけ煙を噴き出した。
次いでカプセルの蓋が開いた。煙が闇の中に溶けていき、カプセルの中に横になっている一人の少女の姿が露わになる。
少女はまぶたを閉じたまま、まるで死体のように身動き一つしない。
身長は百四十センチ程度だろうか、眼鏡をかけた、中学生程度の女の子に見える。ただし、その格好はかなり奇異なものであった。真っ黒なヴィクトリアン調のメイド服に全身を押し包み、白いエプロンドレスを身に着けて、室内だというのに漆黒のワンストラップシューズを履いている。まるで十九世紀半ばのイギリスからタイムスリップしてきたようないでたちだ。
少女の目が開いた。
同時に、カプセルのサイドに表示されていたステータスウィンドウの文字が──SUSPENDED──から──ACTIVATED──に切り替わる。
「タイマーにより休眠プロセスより復帰。各関節のテストラン──問題無し、なのれす」
上半身を起こした少女は、カプセルからすっと飛び降りると、がしゃんと音を立てて着地した。その背後を、ポニーテールがふわりとついてくる。
中指で眼鏡を押し上げる──
「NTPサーバーに無線接続なのれす。現在時刻──二〇〇八年三月二十日午後七時四十七分五十二秒二三。誤差を修正──完了なのれす。タイマーの正常動作を確認しましたれす。周囲の明度を2ルクスと測定、赤外線による視界へと移行しますれす」
少女は一人、LEDが明滅を繰り返すだけの暗い部屋の中で呟くと、まるで太陽の下を歩くかのように、部屋の壁に向かって歩き出した。
そしてそのまま、壁にごつんとぶつかる。
「……痛いのれす」
ひたいをさすりながら、目の前の壁に手を触れて確認すると、口を開く。
「暗証コードd76hty、なのれす」
すると壁の一部が持ち上がって、外の通路へと続く出口となった。
そしてそのまま、少女は部室を後にした。
出口が閉じられ、再び静寂を取り戻した室内では、役目を終えたかのようにLEDの灯りが一つ、また一つと消えていく。最後に赤色のLEDも消えると、再び部屋の中は闇に支配される。
少女は歩き出す。
初めて自分が目にする、外の世界へと。
制作者に命じられた、目標人物へ向かって。