「転勤?」
というのが、夕食用のオニオンスープの味見をしていた阿部茉莉が振り返って言った言葉だった。台所の隣には一家が食事をとる茶の間があり、茉莉の視界には茶の間に座った母、明海の姿が映る。
明海はローテーブルに両肘を載せたままうなずいて、
「そう、転勤」
と繰り返した。茉莉はスープの味に満足し、味見用の小皿をシンクに置くと、冷蔵庫からしょうがを取り出しながら尋ねる。
「って、誰が?」
茉莉の父である敏三は五年前に他界しているし、明海の職業は風景画家だ。長期の取材や出張などはあるが、転勤などあり得ない。
「あれ、最初に言わなかったっけ? 絵里の旦那がよ」
絵里というのは明海の古くからの親友だ。茉莉自身は数回会った程度の付き合いだが、明海が今でもちょくちょく会ってお茶などしている仲だということは知っている。
「言ってないわよ。いきなり『転勤になった』って」
「ああ、そう? まあ、それはいいんだけどね。絵里もついていくっていうのよ、その転勤に。ブラジルだかアルゼンチンだか、地球の反対側までよ?」
「ああ、今でも旦那さんにべったりなんだっけ?」
しょうがをすり下ろし、ボウルに入れて、みりん大さじ2、醤油を大さじ2に料理酒を大さじ2加えて手早く混ぜる。ミドルボブに揃えられた茉莉の髪が小刻みに揺れる。
「そう。それはいいんだけど、志津香ちゃんが大学は日本の学校に通いたいって言ってるらしいの。ま、それもそうよね、半エスカレーター制の恩恵にもあずかれるし」
姫宮志津香。絵里の娘であり、茉莉の通う私立藍園学園高校で生徒会長を務める高校一の有名人だ。そんじょそこらのアイドルなどかすんで見えるほどの美貌。中学入学時から学年首席を維持し続けている頭脳。慎ましい性格ながらも、中学二年時から現在まで生徒会長を務め続けているカリスマ性──などなど、彼女の魅力を語りだしたらきりがないほどの女の子なのだ。もちろん男女問わずから絶大な人気がある。
そんなわけで茉莉も、直に面識がなかったが、志津香に憧れのような感情を抱いていた。
──ちなみに半エスカレーターというのは、三年時の九月に行なわれる総合試験で赤点さえ取らなければ、平均偏差値65を誇る藍園学園大学の志望学部に進学できるというシステムのことである。もちろん各学部に入れる人数には定数があって、総合試験の成績のいい順に希望の学部に割り振られていくことになるため、成績が悪ければ希望の学部には入れないかもしれないのだけれど。
「うん、まあ、そうだよね」
茉莉が言うと、明海は至極自然な流れだという口調で、
「だから、うちで預かろうと思うのよ。志津香ちゃん」
「ええっ!?」
茉莉はボウルの中に豚腿の薄切り肉を入れて、調味料を揉み込んでいく──途中で振り返り、再び母、明海を見やった。
あの姫宮志津香さんをうちで預かるの?
「あら? 反対?」
「……いや、反対はしないけど」
いろいろと不安はあった。ただ、別段反対する理由もないし、反対してどうなる母でもないことを茉莉はよく知っている。
明海はなんというか、自由気ままで、自分が決めたことは絶対に曲げない人間なのだ。自分勝手と言ってもいいし、唯我独尊と言ってもいい。それでも憎めないのはなぜなのか──得な人だなあ、と茉莉は思う。
茉莉は、はあ、とため息をついた。
「お母さん、どうせ家事なんかやる暇ないでしょ? ってことは姫宮さんの面倒も私が見るのよね? 私も姫宮さんと同じ高校二年生だって、分かってて言ってる?」
「あはは、そうね。ちょっと茉莉には負担かけちゃうか」
「別に気にしないけどね、今更」
茉莉が阿部家の家事を一手に引き受けるようになったのは五年前、つまり小学校六年生の時からだ。それはもうすっかり身に付いた習慣で、苦痛になど感じない。
茉莉は手を洗うと、茶の間に向かい、明海の向かいに腰を降ろした。
「大丈夫なの?」
「何が?」
明海はにこにこと笑顔を崩さない。ウェーブのかかった天然の茶髪を軽くかき上げながら尋ねてくる。
「何がって、姫宮さん──志津香さんのこと。だって、中学生の時からずーっと生徒会長やってるようなすごい人なのよ? うちなんかに来て大丈夫なの?」
「うちなんかって言うけど」
と、明海は周囲を両手で示し、
「今どき十二部屋も部屋があるような家はそうそうないわよ? 下宿先としては上々だと思わない?」
「そのうち八部屋をお母さんが占拠してなければね」
阿部家は木造平屋にして十二部屋(+風呂・トイレ・台所)を擁する日本家屋だ。立派な黒い鉄の門からは敷石の道がくねくねと十メートルほど続き、その先に待つのは古めかしい木製引き戸の玄関に、年季の入った瓦葺きの屋根。白壁はすっかり汚れて黒みがかっているが、その汚れすらもこの家に深い味わいを感じさせる。
縁側から見渡せる広々とした庭には一本の大きな桜の樹が植わっており、今は満開の時期であるため、緑に映える桜色が美しい。その桜の頭だけ飛び出すほどの高さまで、目隠し用の柊の生け垣が庭の周囲を囲っている。
そんなわけで、傍から見ればいかにも名家に見えるかもしれないが、実のところ現在の阿部家はごく普通の中流家庭である。
どうしてそんな阿部家が立派な日本家屋を持っているのか、それを一言で説明すれば「父、敏三の遺産」ということになる。茉莉にとって父方の親族は既に逝去しており、五年前に敏三も亡くなった今、この家を守っていけるのは明海たちだけなのだ。
ちなみに今の阿部家を支えているのは明海だ。数年前から明海の風景画に評価が付き始め、それなりの値段で売れるようになってきたのは幸運だったとしか言いようがない。
また、明海の実家の方も藍園市内にあって、祖母は亡くなったものの祖父はぴんぴんしている──はずなのだが、その辺りは事情が込み入っているので説明は後にしたい。
「仕方ないでしょう? アトリエは私室とは別に必要だし、昔描いた絵は捨てたくないし、通販で買ったいろんなものをしまう場所が無いし、」
最後の「通販で買ったいろんなもの」に関してだけは異論が無いではなかったが、茉莉はこれ以上の議論を無駄だと判断した。
「あー、もういいってば。我が家がやってけてるのはお母さんのおかげなんだし、文句は言いません。ただ、客間に置いてある荷物だけはなんとか別の部屋に移してよ? 姫宮さんには客間を使ってもらうんでしょ?」
「ああ、うん、使ってもらうのは客間よね」
「あと、心配なのはかなみだけど……」
茉莉には今年で十歳になる妹がいる。藍園学園小学校の四年生で、成績表は体育を除けば常にオール10。この歳でいくつかの学術分野でセンセーショナルな論文を発表したことから神童の名を欲しいがままにし、周囲からは将来を期待されている。と、これだけ聞けばすごいのだが、言動にやや難があり、あまり社交的とはいえない性格をしている。──例えば、ある学会で会った偉い教授に「頭皮の油分が目立つ。よくシャンプーして落とさないと、油分が酸化して新生毛の発育を阻害する。もう手遅れかもしれないが、頭皮にとっては毎日の適切な洗髪が重要であるぞ」などと言ってしまったり。まあ、横にいてそれを途中で止めなかった明海も明海なのだが。それどころか「今は植毛技術も発達していますから……」などとフォローのつもりで追い打ちをかけてしまったのでどうしようもない。
茉莉はかなみが志津香に失礼なことを言わないかどうか、ものすごく心配になってきた。
「……ただいま」
噂をすれば影、なのか、ちょうどかなみが学校から帰ってきたようだった。縁側を歩いて自分の部屋へ向かう途中、茶の間で話をしていた茉莉と明海に顔を見せる。
「おかえり、かなみ」
明海と茉莉、二人同時にそう言うと、かなみは頭の左右で結ったお団子を指で示した。薄緑色のシニョンが綺麗にお団子をくるんでいる。
「ずれておらぬか?」
見てみても、まったく普通に、左右対称にしか見えない。
「ずれてないわよ」
明海が言うと、かなみはちろりと横目で茉莉を見やった。茉莉もうなずいて、
「うん、ずれてないわよ」
「そうか、よかった。ダブルシニョンは大事な萌え要素の一つであるからな」
そう言って、部屋へ向かって歩いていこうとする。明海はその背中に、
「あ、ちょっと待って、かなみ」
「……何だ?」
問われ、明海は笑顔のまま、
「姫宮志津香ちゃんは知ってるわよね?」
「うむ。藍園学園中学在籍中、二年時より生徒会長の職に就き、三年になっても引退せず、高校でも一年から生徒会長の職に就いている。頭脳明晰、容姿端麗、品行方正の有名人だ」
「その人がうちに下宿しに来るって言ったら、嫌?」
かなみは少し考えて、
「嫌ではない。興味深い観察対象である」
(……観察対象?)
茉莉はその一言に不安を覚えないではなかったが、明海は笑顔を崩さぬままで、
「それじゃ、決まりね。志津香ちゃんには今日から家に来てもらうようにもう言ってあるわ。──それで、なんだけどね」
明海が言葉を止める。
茉莉はなんだか違和感を覚え、
かなみは無言のまま、明海を見上げる。
「私、今、オーストラリアにインスピレーションを感じるのよ! いい絵が描けそうな気がするの! 家事のことは、私がいなくても大丈夫よね?」
「──って、今なんて言った!? 姫宮さん、今日から来るの!?」
明海は茉莉の言葉を笑顔でスルーして、
「ということで、今からオーストラリアに行ってきます! 留守の間、何かあったら茉莉のことお願いね、かなみ」
「ちょっとお母さん、それ逆、っていうか、あー、もう何からツっこめばいいの!?」
「問題ない。承った」
「って、かなみ!? 何が問題ないのよ、問題だらけじゃ……」
「それじゃ、行ってきまーす」
いつの間に用意したのか、旅行用の大きなキャリーバッグを隣の部屋から持ち出すと、それを引いて明海は家を出ていってしまった。茉莉にツッこむ暇を与えない、見事なエスケープだった。
「だーっ!」
茉莉は両手を挙げて叫──んだが時すでに遅し。
「まあ落ちつけ、茉莉。明海があのように出かけるなどいつもの話ではないか」
「そうは言うけど、今回は外国よ!? しかも姫宮さんが今日うちに来るなんて──」
「最早決まったことだ。文句を言っても詮無いことだろう」
「──なんでかなみはそんなに落ち着いてられるのよ」
茉莉は呆れ半ばで言ったのだが、かなみはしばし考えるような間を置いて、
「全てはなるようになる。何か先に起こることを不安に思うこと、すなわち心痛の先取りはするべきではない。起こるともしれぬ失敗や不幸を脳裏に描いて、早々に恐れるということ。そんな恐怖心ぐらい根もなく意味もないものはないのだから」
「……私はたまに、かなみが本当に妹なのか疑問に思うことがあるわ」
茉莉は言って、肩を落として盛大にため息を吐いた。そして、
「……豚肉のしょうが焼き、作ってる途中だった」
ようやく思い出し、立ち上がったときだった。
「すみませーん」
澄んだ声が阿部家に響き渡った。茉莉はエプロンを外すのも忘れて玄関に向かい、引き戸を開く──と、そこにいたのは、
春物の緑のワンピースに身を包み、流れるような黒髪を腰ほどまで伸ばした美少女。
姫宮志津香であった。
初めて間近で志津香を見て、茉莉は女性同士だというのに思わずどきりとしてしまった。目はぱっちりと優しげで、こぼれそうなほど大きく、鼻梁はすらりと通って、桜色の唇がちょこんと白い肌に映えている。ワンピースにはささやかなフリルがついていて、それが深窓の令嬢を思わせる。──のだが、よくよく見れば胸とお尻がワンピースをやわらかに押し上げていて、健康的なスタイルの良さをうかがわせた。
茉莉が志津香に見惚れてしゃべれないでいると、
「えっと、阿部茉莉さん……よね? はじめまして、私、姫宮志津香です。今日からここでお世話になるようにと母に言われて参りました。ついさっき、そこでおばさまにもお会いしてご挨拶をさせていただいたのですけれど」
あの姫宮志津香に間近でぺこりと頭を下げられて、茉莉は面白いほど動揺した。
「え、えあ、は、はじめまして。えっと、はい、聞いてます。客間を使って欲しいんですけど、まだちゃんと片付いてなくて、母の絵がばらばらと置いてあるから片付けなくちゃならないから──と、とりあえず上がってください」
茉莉はぎこちなく、志津香を茶の間に迎え入れた。