そろそろ六月に入ろうかというこの時期に雨が降ると、梅雨という言葉が頭に浮かぶ。
けれど僕の記憶が確かであればまだこの地域まで梅雨前線は上ってきていないはずで、だったらここ数日続くしとしとじめじめした厭らしい天気はいったいなんなのだと愚痴のひとつも零したくなるのだけど、そんな僕の憂鬱などリリィ姉さんには関係ないらしい。
「私は雨が好きだわ」
彼女は、そんなことを唐突に言った。
しかも、雨の中を歩きながら、である。
それは学校の帰り道だった。
「どうしてですか?」
問うたのは僕のクラスメイトにして鏡山高校生徒会におけるリリィ姉さんの後輩、篠森小梅さん。つまり傘を差して並んで歩くのは三人で、これは割と珍しい組み合わせだった。
まあ経緯としては単純で、僕が放課後、リリィ姉さんに生徒会の仕事を無理矢理手伝わされたというだけ。で、一緒に作業したリリィ姉さんと僕、それから小梅さんが帰路を同じくしている。ちなみに彼女の家も鏡山住宅街の一画にあり、途中まで帰り道が一緒だ。
「あんたは嫌いなの? 小梅」
問い返した姉さんに、
「あ、はいっ」
小梅さんは姿勢をただした。
歩きながら、しかも傘を差しながら緊張すると大変だなと、ぽやぽや歩きつつ僕は思う。
「だってじめじめしますし、雨で靴や服が濡れると厭ですし。眼鏡が曇ったりとかもしますし。あと、私、癖っ毛なので梅雨の時期は毎朝大変で」
まあ一般的な反応だろう。
「そういえばそうね」
彼女の長く美しいストレートヘアはたぶん湿気などには負けたことがなく、それ故に小梅さんの苦労を『ああウラジオストクでは港が凍るんですってね』みたいな他人事で片付ける。
「芽々子もこの時期は毎朝、実験失敗博士になってるわ」
おまけに身内の恥も暴露するという冷徹さである。
いや、確かに芽々子ちゃんの髪はふわふわで、いかにも湿度に寝癖が比例しそうだけど。
「芽々子さんって、妹さんですよね、一年二組の」
「もうすぐ誕生日なのよ、あの子。自分が誕生した時期に毎朝実験が失敗するなんてなんの因果かしらね。前世で薬品の調合を間違えてフラスコを爆発させたのかしら」
「……姉さんは可愛い妹の前世を貶めるのが趣味なのか」
たまらずつっこんだ。
「失礼ね。前世が人間というのは幸せなことなのよ。あんたは虫や魚かもしれないじゃない」
「フラスコを爆発させた博士より虫とか魚の方がいいかもしれないじゃないか」
「あら、だったらあんたは芽々子よりも幸せな前世を送ったというの? それは聞き捨てならないわね。妹の不幸を踏み台に笑うなんて、兄として許されるものではないわ」
「その理屈だと、高遠兄さんが大変なことになるんだけど……」
「あれの前世は粘菌よ。南方熊楠のマッチ箱にでも飼われていたんじゃないの?」
「陛下に拝謁してるかもしれないじゃないか! すげえなおい!」
いや、というか、
「……そもそも姉さん、前世とかそういうの、信じてる訳」
「いえ信じてないわねまったく、これっぽっちも」
「ああ、そう……」
凄まじい切って捨て具合である。
だいたいよく考えると、前世の話に入ってからこっち、客観的に見て罵倒しかしていない。これでは僕が『嫌われている』と誤解したのも無理はないと思うのだけどどうだろう。
「ところで、雨の話だったかしら?」
顔をしかめた僕を放置し、リリィ姉さんは小梅さんの質問を思い出したようだ。
「あ、はい」
どうも僕らの会話に呆気に取られていたらしく、小梅さんは我に返ったように言う。
「その……雨が好きなのって、珍しいなと思って」
「正直なところ、特にないわね。理由は」
しかし返答はなんとも肩すかしだった。
「そ、そうですか……」
「強いて理由を挙げるとするなら、晴れが嫌いだからというのが適当なのかしら。だって太陽光が眩しくて上を見ることができないでしょう?」
またぞろ訳のわからないことを。
これでは小梅さんが不憫なので、揚げ足を取ってやることにする。
「雨だって水滴が目に入るじゃないか」
「あら、水滴は涙を誤魔化せるわ」
「僕はリリィ姉さんが泣いてるなんて殊勝な光景を見たことがないけどね」
「だったらちゃんと誤魔化せてるじゃない。私は雨の日だけに上を向いて泣くのよ」
──それ、かっこいいな。
ちょっとだけ感心してしまった。
「いや、なんか美しいこと言った感じになってるけど……傘を差してると水滴はかからないんじゃないかな? その淡い花柄がいい感じの傘、家に帰り着くまで僕が預かろうか?」
「あんたもなかなか言うわね、響。でも残念ながらこれは私のお気に入りなのよ。取り上げられたら悲しくて泣いてしまうわ」
「いいじゃないか。雨が降ってるから誤魔化せる」
「あらあら、これは打つ手がなくなったわ。悔しいけど私の負けね」
リリィ姉さんが肩を竦め、憮然とした調子で鼻を鳴らす。
と。
「……ふふ」
僕とリリィ姉さんの話が始まってから少し後ろに下がっていた小梅さんが、くすくすと笑い始めた。雨音に混じって、さも楽しそうに。
「なんだよ小梅さん、なにか……」
「なにか、じゃないわよ? 響くん」
振り返った僕へ、彼女は口許を押さえつつ意味ありげな視線を送った。
「さすが先輩の弟さんだな、と思ってね」
「……は?」
「言い換えましょうか? さすが倉須家、って意味よ」
「い、いや、ちょっと待ってくれる?」
思いがけないところからの思いがけない攻撃に、口ごもってしまう。
「僕はまだあの家に来て二カ月とちょっとなんだけど……」
小梅さんはそれでも不敵な笑みをやめない。
眉をしかめる僕と、それから目をぱちくりさせるリリィ姉さんを順番に見、
「あのね、いいこと教えてあげましょうか? 倉須先輩……生徒会長に対して、言い返すだけならともかく、言い負かすなんて芸当、うちの学校じゃ誰もできやしないのよ」
楽しそうに、同時にどこか羨ましげに。
「生徒はもちろん、先生たちだって無理なの。それを響くんはやってるのよ」
「いや、それは……」
単に僕が遠慮するのをやめただけであって、僕自身がどうこうでは。
「私も驚いてるのよ、正直なところ」
リリィ姉さんが、何故か得意げに口を挟んできた。
「新しくできた弟がここまでやるなんてね。立場がないってのはこのことだわ。少し修行の旅にでも出ようかしら。山ごもりして熊かなにか倒せば強くなれるかも」
「これ以上強くなられると僕が困る。というかみんなが困る」
倒せば、って、今の状態で倒せるとでも思っているのだろうか。……思っているかもしれない。この人に睨まれれば熊も逃げてしまうだろう。
「まあ、張り合いがあって嬉しいわ」
唐突にリリィ姉さんは微笑した。
僕へ向かって、真っ直ぐに。雨の中に咲く睡蓮にも似た、淡い笑み。
僕は思わず足を止めてしまう。
小声で、呟いた。
「……卑怯じゃないか」
そんな顔をされたら、小梅さんの揶揄も褒め言葉に思えてしまう。同級生に倉須家の一員として認識されるなんて、本来なら『変人扱いしないでくれ』と言いたくなるところなのに。
「なにか言った?」
問い返してきたリリィ姉さんに、僕はとぼける。
「いいや」
「そう」
彼女はなにも尋いてこない。そこで会話は止まった。
背後から小梅さんがまた前へ出てきて、僕と入れ替わりにリリィ姉さんの隣へ並ぶ。そうして再び、今度は生徒会絡みの話が開始され──僕は彼女たちの話を適当に聞き流しつつ、肩にかけたバッグが雨で濡れやしないかと気にし始める。
しかし本当、雨が好きだなんてどうかしているんじゃないか。
小梅さんじゃないけど、じめじめするわ濡れるわでろくなものではないのに。
そう文句を言いたかったけど、小梅さんとの会話に花が咲いているようなので邪魔するのはやめておく。まったく僕は気遣いのできるよくできた弟だ。まあ少なくとも、頓狂な会話の応酬をするよりは黙っている方が楽ではあるし。
※
そうこうしているうちにバス停へ着いたので、直近の到着を待って乗り込む。
小梅さんとは同じ住宅街といっても、ご近所というほどではない。彼女が使っている三つ前の停留所で僕らは先に降り、再び傘を差して帰路を歩み始めた。
倉須家までは残り徒歩十分ほど。正直、バス停からは微妙な位置にある家だ。
相変わらず雨はやむ気配がない。
朝から一日中降っていたので仕方ないか。天気予報によれば明日もこの調子らしい。まあ、最近少し暑い日が続いていたので涼しくていいと言えるかもしれない。
リリィ姉さんと買い物に行った時は少し肌寒いくらいだったのだが、その数日後になって急に気温が上がった。明日はどうだろう。雨に加えて蒸し暑かったりしなければいいのだが。
そんなことを考えながら無言でしばらく歩いた。
リリィ姉さんとふたりきり。
二カ月前の僕ならば、沈黙が耐えられなくなって妙なことを口走ってしまっていたかもしれない。だけど今は気にならない。それどころか、心地よくさえある。別に会話を交わさなくても気まずくなったりはしないのだ──家族だから。
僕の斜め前、二歩ほど先を歩いていた姉さんが、ふと立ち止まった。
「そういえば、響」
「……ん?」
ほとんど首だけで軽く振り返り、僕が返事をしたのを確認するとまた前を向いて歩き始め、
「三日、芽々子の誕生会をやるからね」
「あ、うん」
芽々子ちゃんの誕生日は五日後に迫っていた。
「でも、誕生会ってなにをするの?」
「別にたいしたことをする訳じゃないわ、平日だし。ただ、夜八時にはちゃんと家にいなさい。全員揃って夕食を摂るのが決まりよ」
「ってことは、食事が豪勢だったりするのかな?」
「どうかしら。毎年そういうのは意識してないわね。そこまで変わらないんじゃない? ……まあ、そうめんとか鯖の味噌煮とか、そういう地味っぽいメニューにはならないだろうけど」
礼兎姉さんも多少は腕を振るうってことか。
「ケーキとかは?」
「出るわね、一応」
「なるほど。ま、僕も楽しみにしとくよ」
「そう、それは重畳だわ」
つまらなさそうに、つまり割といつも通りに、リリィ姉さんはひと呼吸した。
そして──。
そこから更に一分ほど歩いた後。
彼女の歩く速度がふと、やや遅くなった。
必然、僕は追い付き、肩を並べる。
どうしたのだろうと横顔を覗き込むと、
「ところで……」
彼女は無表情で前を見たまま、ぽつりと口を開いた。
「倉須の家のことなんだけど」
「ん?」
家がどうかしたのだろうか。
続きを待ったが、珍しいことにリリィ姉さんは数回なにかを言おうとして言い淀み、おまけに視線を右と上へ移ろわせ、それから大きめの呼吸をし、
ようやく、言葉を発した。
ただし、前後の繫がりがあまり感じられない内容のことを。
「なんだかんだであんたはやっぱりまだうちへ来て二カ月で、だから慣れてないこともあるだろうし、整理できてないことも多いと思うわ」
「あ、うん」
きょとんとしてしまったがひとまずは頷く。
「姉さんのお陰でだいぶ落ち着いたけど……まあ、確かにそうだね」
これはこの人に感謝すべきことだった。
あの日、怒鳴られて抱き締められ思いきり泣いたことで、気分はだいぶよくなった。
吹っ切れた、と言ってもいいかもしれない。
過去のことよりも今のこと、これからのことを考えられるようになった。もう戻ってこない過去の出来事で悲しむのではなく、未来に待っている楽しい出来事で笑えるようになった。
とはいえ当たり前ながら、完璧とはいかない。
ふとした拍子に父さんと母さんのことを思い出すと泣きそうになる。前の学校の友人からたまに来るメールを見ると、もしあのままあの街にいたらどんな暮らしをしていただろうなどと考えてしまい切なくなる。家に帰り着いて玄関を潜った瞬間なんかにまだ違和感があって、申し訳ないような寂しいような気分になったりする。
ただ、それは仕方のないことだ。
「まあ、どのみちスイッチみたいに切り替えられる訳はないんだし。徐々にでも進んでいくしかないよ。せめて来年の春には、笑って墓参りできるくらいになれたらいいな、と思う」
新しい家族のことを報告するのだ。
兄さんがひとり、姉さんがふたり、妹がふたり、弟だか妹だかわからないのがひとり。
全員が全員ちょっと変わっている、僕の新しい家族のことを。
僕を、家族にしてくれた人たちのことを──。
「そう。あんたは強いのね」
リリィ姉さんはいつの間にか横を向いて僕の顔を見ていて、

「……強いのはいいことだわ。とてもいいことよ」
笑った。
「どうしたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
傘の柄を軽く手で弄びつつ、
「言葉通りよ。なんでもない。今のところは、ね。そんなに急いでも仕方ないもの。時間は急いだってのんびりしていたって、止まったり戻ったりする訳ではないからね」
それは、いかにも意味ありげな科白だった。
なにかを話そうとして話さなかったのは明らかで、つっこんで尋いてみたくもある。でもやっぱり、しつこく追及しても仕方ない。今話さなかったということは、今話さなくてもいいことだからだろう。時期が来れば話してくれるに違いない。
だから、
「そうだね」
とだけ言い、放置しておくことにする。
僕はその程度にこの人を信頼しているし、この人もきっと、同じ気持ちでいてくれるだろう。たぶん姉弟っていうのは──そういうものなんじゃないかと思う。
※
家が見えてきた。
まだ郷愁を覚えるほどではないにせよ、徐々に馴染んできた我が家。
以前の園村家よりも少し古く、少しどころではなく騒がしい倉須家。
「あ、りぃお姉ちゃん、ひぃお兄ちゃん! おかえりー」
僕らの姿を自室から見つけた芽々子ちゃんが、二階の窓を開けてぶんぶん手を振っている。雨だというのにお構いなしだ。というか、近所迷惑だ。
「ただいま」
傘を振り返すがもう見ていない。窓がぴしゃりと閉められ──たぶん階下へ降りたのだろう。まったく騒がしい子だ。僕らのために温かい飲み物でも用意してくれると助かるんだけど、用意してくれなくても別に構わないさ。