1
彼女は、楽しい週末を過ごしていたはずだった。
土曜日に友人たちと街へ出掛け、日曜日は家でのんびりとする。そうして再び来たる月曜日をリフレッシュした気分で迎える──傍目に見ても特に問題があるとは思えないし、むしろ日常の順調さとしては完璧とさえ言える。
しかし日曜日の午後、芽々子の表情は浮かなかった。
正確には、気を抜けばすぐに浮かないものへと変わる、だ。
なにが原因なのかはわからないが、これはなかなかよくない兆候だ、と、耶衣は幼い頭でそんなことを考えた。いや、考えるというよりも、そう感じたと表現した方が正しいのかもしれない。倉須耶衣は、思考を働かすより感性を赴かせる方が得意な十一歳である。
昼下がり、午後二時四十分頃。
三時のおやつという習慣は倉須家にないが、もし礼兎の気が向くか誰かがねだれば、フルーツや手作りの焼き菓子などが居間のテーブルに並べられてもおかしくはない時間。
もっとも現在、礼兎は仕事だかで出掛けている。果物を剝いたりケーキを焼いたりなどの手間を家族のために割いてくれる人は、この家にいない。
おやつの出る可能性が皆無な居間で、耶衣は芽々子とテレビゲームをしていた。
この春にやってきた新しい家族──響が前の家から持ち込んだその家電は、倉須家に現在ちょっとしたゲームブームを巻き起こしていた。それまで、妖精がリモコンを隠してしまっても一週間どころか一カ月くらいは誰も気付かないのではないかというほどに用をなしていなかったプラズマテレビが、なんと三日に一日は画面を光らせている。
とはいえ耶衣は、コントローラーを持って画面の中のものを動かすというのが苦手だ。なのでもっぱら、誰かの操作している様子を傍にいて眺めることが多い。
響と稜が格闘ゲームで対戦しているのを見るのが一番面白い。
そして次に面白いのが、芽々子のプレイである。
現在遊んでいるのはゾンビを退治するシューティングゲーム。
主人公の目線になって、移動したり銃の照準を合わせて撃ったりするもので、確かアルファベット三文字でジャンルの名前がついていたはずなのだが、耶衣は忘れてしまった。持ってきた響自身すらもあまりプレイしてはいないらしく「性に合わなかったんで途中でやめた」とか言っていた、実に不遇なソフトである。
芽々子はふらふらと廃墟を歩きながら、出くわす敵に対し「きゃー!」とか「うりゃー!」とか叫びながら銃弾を浴びせかける。もっとも、弾は八割ほどが明後日の方向へ飛んでいくのが常で、小一時間で三回ほどゲームオーバーを繰り返していた。
けらけら笑って楽しんでいる様子で、もちろんそれだけ見ればいつもの芽々子であるのだが、どんなにいつも通りでも、耶衣の眼は誤魔化せない。
恐らくは本人も意識していないだろう。
時々、ゾンビがいない時やゲームオーバーになってからスタート画面へ戻るまでの間など、芽々子から笑顔が消えることがあった。どうもゲームに退屈しているとか失敗したのが悔しいからとか、そういうのではないようだ。
つまり、なにか後ろ向きな物思いに耽っている顔である。
──どうしたのだろう。
気になりつつも、耶衣には尋けずにいた。
姉の悩みに対して妹が口を出すのはなにか違うという気がするし、そもそも耶衣はまだ十一歳だ。十五の──もうすぐ十六になる──芽々子に相談されても、自分が役に立てるとはとても思えない。『芽々子姉さま』は耶衣にとってもう大人なのである。
それでも、なにかできることはないかな、と。なんとなくもやもやしたまま芽々子の隣でテレビ画面をじっと見ていると、不意に背後で憮然とした声がした。
「よくもまああんたたちは、ゲームなんてものに夢中になれるわね」
振り返る。
呆れたような不思議そうな顔で、リリィが立っていた。
片手に棒アイスを持ってそれを囓っている。
おやつが出ないならその手があったかと耶衣は感心する。慧眼である。
リリィは画面と芽々子を一瞥し、問うてきた。
「……面白いの? それ」
「見ている分にはなかなかです」
なので、答える。
実際、芽々子の様子が変であることを別とすれば、楽しんでいるのは確かだった。
「でも、ゲームが面白いのか芽々子姉さまが面白いのかはよくわからないです」
「問題ないわ。私の『それ』っていうのは『ゲームをしている芽々子』のことよ。ゲームが面白かろうがなんだろうが、私には興味ないわ」
相変わらず遠慮のないというか、自分に正直な物言いである。
「ところで耶衣、あんたソーダ味は好きだったかしら?」
リリィは自分の持っている棒アイスをひらつかせながら問うてきた。
耶衣の審美眼が正しければガリガリ君だ。まったく、そんな宝物が倉須家の冷凍庫に眠っていたとは。発掘してくれた姉に感謝である。
「ひと口欲しいです」
頷くと無言で差し出してくる。
立ち上がり傍へ行き、はむ、と囓り取った。
冷たい。あと、爽やかに甘い。
「あーずるいー! 私もー!」
コントローラーを握ってテレビを睨んだまま、芽々子が背後へ非難の声をあげた。
「あんたは前を見ながら振り返ることができるのね。たいした子だわまったく」
「もう……りぃお姉ちゃんの意地悪っ!」
「ゲームを放り出すかアイスを諦めるかふたつにひとつよ、芽々子。でも覚えておきなさい? どっちを選んでもあんたは負けることになるの」
「うう……」
さすが、容赦なし。
芽々子は唇を尖らせると悔しそうにして、
「いいもん。あとで冷凍庫から新しい奴取ってくるもん……」
俯き加減に画面の中の銃をばんばんと撃つ。
至って普通、いつも通りの会話ではあった。
だが──、
「……あ」
耶衣は気付く。
リリィがそこで、ほんの少しだけ眉をひそめたのだ。
時間にして一秒もなかっただろう。でも、確実に彼女の表情に変化があった。
それはまるで、誰かを心配しているかのような──。
ぽかんとして姉を見上げていると、薄い笑みが投げかけられた。
「私の心を読んだわね? あんたは賢いのね、耶衣」
リリィは手を伸ばすと、わしわしと頭を撫でてくる。
ぞんざいで、それでいて丁寧な手付き。
「うみゃ……」
思わず変な声が出た。
「加えて優しい子でもあるわ。賢くて優しいなんて完璧じゃないの。うちの女どもはみんなあんたを見習うべきね……いいえ、男どもも見習うべきだわ」
「あの、リリィ姉さま……?」
耶衣は意味がわからない。
リリィの言葉は、いつでもそうだ。
この家へ来てから、つまり倉須家の一員となってから六年ほどになる。怒鳴られたこともあるし笑われたこともある。叱られたことも、褒められたことも。
そのすべてにおいて、リリィの理屈と言葉は、耶衣にとっては少し難しい。はてなマークが三つくらい頭に浮かび、意味を考えようとすると頭がこんがらがりそうになってしまう──まだ自分が子供なせいか、それともリリィの性格が哲学的すぎるのが原因なのか。
ただ。
「でも安心なさい。あんたの賢さは私にちゃんと伝わったし、あんたの優しさをあんたに行使させるほど、私は愚かではないのよ」
たとえ、よくわからない難しいことを言われても、
「あんたは末っ子なんだから、私たちには賢くなくても優しくなくてもいいの」
「……リリィ姉さま」
彼女がなにを言いたいのかは、いつも、なんとなくわかるのだ。
言葉ではなく気持ちがはっきりと伝わってくるような、そんな。
リリィは微笑した。
「大丈夫よ。芽々子のことは私に任せておきなさい。それに、半分くらいは私の責任でもあるしね。でもってもう半分は響のせいよ。つまりそれは、すべて私の責任ということでもあるわ。弟のしでかした不始末の後片付けをするのは姉の仕事なんだから」
「はい」
後半はやっぱりよくわからなかったけれど、耶衣の抱いているもやもやは晴れた。
『芽々子のことは私に任せておきなさい』──リリィがそう言うのならば、それは確実だし間違いないのだ。芽々子の悩みもちゃんと解決してくれるのだ。
「いい返事だわ」
自信満々に、或いは得意げに。
耶衣の頭がもう一度わしゃ、と撫でられた。
「という訳であんたはちょっと他所で遊んでくる。オーケー?」
「はい、リリィ姉さま」
「そうね……響のところがいいんじゃないかしら。今日の午前中、響宛にばかでかい荷物が届いたでしょう? あれたぶんまだ開封していないから、中身を見せてもらいなさいな」
「面白いものですか?」
「きっとね」
響の名前が話に出た途端、何故かテレビ画面の中で芽々子の操作する銃が大きく照準をずらした。どうしたのだろう、と耶衣は思うが、一方でまあいいかという気持ちになる。
何故ならリリィが、それをまったく気に留めていなかったからだ。
「では、響兄さまと遊んでくるです」
だから心配はいらない。
頼もしい姉と悩んでいるらしい姉、ふたりに笑顔を向け、耶衣は居間を出た。
首から提げたカメラを撫でつつ、振り返らずに階段を上る。もし響の部屋にある『面白いもの』が本当に面白いものだったら、是非とも写真を撮らねばならないと思った。
2
「……さてと」
耶衣の足音が聞こえなくなったのを確認すると、リリィはソファへと腰掛けた。
まずは手に持っていたアイスを片付けるべく、急ぎで囓る。冷たさが頭の奥を駆け巡るが、そんなもので顔をしかめたりするほど倉須リリィという存在はやわではない。
「あんたもアイス食べたいのなら、まだ冷凍庫にあるわよ。……さっきあんたが自分で言ったことだけど。それ覚えてる?」
ゲームをしている芽々子へ声をかける。が、
「いーもん」
妹はこちらへ背を向けたまま、ゲームのコントローラーを離さない。
どうやらふて腐れているようだ。
だからリリィは、構わないことにした。
「でもソーダ味はないわね、残念ながら。残ってたのはバニラのカップだったかしら? ま、ひょっとしたら誰かがもう名前を書いているかもしれないけれど」
ちなみに家族の多い倉須家では、食べ物に関してもルールがある。それは至ってシンプルなものであるが、シンプルなだけに冷徹極まりない。
即ち『自分のものには名前を書け、それ以外は公共物』である。
名前を記してさえいれば誰も手を付けないし、付けてはいけない。アイスだろうがジュースだろうがお菓子だろうがカップラーメンだろうが、果ては野菜や生肉などの類であっても、所有権を宣言することでそれは『自分のもの』になる。
逆に言えば、たとえ誰が買ってきたものであっても、名前が書かれていなければそれは『誰のものでもない』つまり『みんなのもの』であり、勝手に飲み食いしても許されるのだ。
当然ながらこのルールは、先に名前を書いた者勝ちという競争原理を呼び起こす。それを許容するかのように、倉須家のキッチン、冷蔵庫の横には常に、油性マジックとメモ用紙、それからセロテープまでもが常備されているのだった。
実際、冷凍庫の中にあるアイスを誰が買ってきたのか、リリィは知らない。知らないが名前は書かれていなかった。それは『誰に食べられても構わない』という証であり、だから食べた。ただし一緒にあったバニラカップに名前が書かれていたかどうかは確認していない。
焚きつけても、芽々子は腰を上げようとはしなかった。
「ま、そうでしょうね」
リリィにとって予測済みのことである。
芽々子は別にアイスが食べたかったのではない。リリィが食べているアイスをひと口もらいたかったのだ。そうしてじゃれ合うことこそが目的であり、アイスはただの手段。
まったく──厄介極まりない。
心中で苦笑した。
「あんたは家族依存症だもの」
昨日、響と話している時に自分が口にした言葉だが、我ながら的確であると思う。
「……なにそれ」
あからさまに不機嫌そうな口調になった芽々子は、それでもゲームをやり続けている。
本来であればテレビのコンセントを抜いてでもこっちを向かせるところだ。それから首根っこを捕まえていい加減にしろと怒鳴りつけるのが常套手段である。
ただ、リリィはそうしない。
そうは、できなかった。
何故なら芽々子をこの家に連れてきたのは誰でもない自分であり、つまり芽々子を家族依存症にしてしまったのも、他ならない自分であるからだ。
もう十年になる。
十年前、まだ七つか八つだったリリィは、まだ五つかそこらだった芽々子をここへ導いた。彼女の最初の家族──つまり実の両親と姉が事故で亡くなったのが切っ掛けだ。
リリィは、死んでしまった芽々子の姉とクラスメイトで、それが縁だった。
もちろんこの経緯が問題の発端となっている訳ではない。芽々子を引き取ったことは自分の誇りだし、間違った選択などではなかったと思う。
だから悪いと言えば、運が悪かったのだろう。
その三カ月後だった。
倉須家の両親、つまりは倉須夫妻の乗った飛行機が墜落したのは。
海だった。遺体はあがらなかった。当時の家族たちは取り返しのつかないダメージを受けた。それはもちろんリリィだって例外ではない。
けれど芽々子は、悲しみだとかとはまったく別の、もっと深刻な傷を負ってしまう。
彼女は実の両親を亡くした三カ月後に、再び親を亡くしてしまったのだった。
悲しみから立ち直りかけた後での悲しみ。
両親を立て続けに二度も喪うという経験は、芽々子の原因となった。
異常なまでに家族に執着し依存するのであれば、ぬいぐるみのような偶像に興味を示さないのも当然のことではある。響が指摘した通りだ。
偶像は偶像であるが故に、代替品でしかない。家族がいるが故に──家族が生きているからなおさら──代替品に愛情を注ぐなどという行為、芽々子にとっては論外なのだろう。
ただ、だからといって、今回のことは度が過ぎている。
ぬいぐるみに愛情を注ぐ家族を見て悲しむなんて。響がぬいぐるみを愛玩するということはつまり家族に、自分たちに満足していない証拠だと考えるなんて。
自我境界線を水で溶かして辺りにぶちまけたような、とんでもない曲解だ。
やはりその思考は不健康に過ぎる。
だからせめて、響に対しての誤解くらいは解いておきたい。あれはリリィがおっかぶせてしまったようなもので、同時にリリィはあの新しい弟に、助けられもしたのだから。
「ねえ、芽々子」
声を荒げるのは逆効果だと判断したので、できるだけ平坦な口調を心がける。その程度の分別と冷静さくらい、自分だって持っているのだ──誤解されやすいけれど。
「とはいえ、どう言ったもんかしらね。屈辱だわ、この私が言葉に詰まるなんて」
ひとりごちつつ、後ろで束ねた髪を軽く弄び。
五秒ほど、つまりほんの短い間だけ沈黙してから、リリィは姿勢をただし、言った。
「あんた、もう少し家族を信頼なさいな」
返答があったのは二秒後だった。
「……どういうこと?」
芽々子は握っていたコントローラーを手放し、振り返る。
その前にきっちりメニュー画面を呼び出してゲームを中断したところから判断するに、極端に怒ったり悲しんだりはしていないようだ。
とはいえ、機嫌がいいか悪いかで言えば当然ながら、これはもうはっきりと、悪い。
「ようやく挑戦を受ける気になったのね。ほんと厄介な子だわ」
テーブルの上にあったリモコンで、テレビを消した。
「ねえ、りぃお姉ちゃん。さっきの……」
「もう少し家族を信頼なさい。二度も言わせないで頂戴」
「なにそれ」
芽々子がリリィを睨み付けた。生来が可愛らしい顔をしているから、ふくれっ面で拗ねているように見える。それは芽々子の長所であり短所だ。
「説明しないとわからない? あんたはそこまで愚かではないはずよ」
鈍くもあれば、ぼんやりともしている。頭の回転もあまり早くないし察しも悪い。
だが──倉須家の三女は、決して愚かな娘ではない。
それを信じて、リリィは続けた。
「甘えるのはいいわ。頼るのも結構よ。依存するのもまあ、許容範囲としましょうか。でもね芽々子。甘えるのも頼るのも依存するのも……信頼しないのとは違う」
芽々子はなおもこちらを睨んでいる。
もう一度。
「響は別に、あんたや私たちを愛してない訳じゃないのよ。あんたや私たちだって、決して響を寂しがらせてる訳じゃない。そりゃ、まだ日は浅いから足りない部分もあるだろうけど、お互い全力は尽くしてる。それ、わかってるでしょう?」
返事はない。ただ、目が逸れた。
図星と見て追い打ちをかける。
「それともあんたは……稜が性別をはっきりさせられないのも、耶衣がカメラを手放せないのも、許容できないっていうの? あんたはあの子たちに対しても悲しい顔をするの?」
そこで、ようやく──。
「ひぃお兄ちゃんのぬいぐるみは、稜くんや耶衣ちゃんのあれとおんなじだっていうの?」
ぼそり、と。
俯いたままではあったが、芽々子が声をあげた。
だからリリィは首を振る。
「さあね。知らないわ」
実際は響の『ぬいぐるみ趣味』など、昨日偶発的に飛び出したただの出任せである。稜の服装や耶衣のカメラとは比べるべくもない、噓っぱちに過ぎない。
今それを明かす──という手もある。あんたの誕生日プレゼントを物色していただけで本当は響にぬいぐるみを集める趣味なんてないのよと言ってやれば、少なくとも芽々子は元通りになるだろう。昨日の努力が無駄になるが、妹の気を晴らすことができるのなら安いものだ。
「でもね、芽々子」
そう。でも、だ。
それでは根本的な解決にならない。
やはり、元通りでは駄目なのだ。
元々が病んでいるのだから、元通りでもまだ足りないのだ。
言わなければならない。故に、言おう。
「稜や耶衣のあれとおんなじでも、そうじゃなくても……あんたには関係ないのよ」
「……関係ない、って」
「ええ、関係ないわ。だってそれは、あんたの我が儘だもの」
「……っ」
唇を嚙んだ芽々子に、告げる。
「仮に響が、稜や耶衣みたいに、いつか解決すべきものを抱えていたとしましょうか? ぬいぐるみがそうだとは言わないわ。仮にぬいぐるみじゃなくてもっと別のなにかにいつか解決すべきものを潜ませているかもしれないから。それはわからない。なにせあの子はここへ来たばかりだからね。でも、そうだとしても……『あんたの悲しみ』じゃあ、響を、家族を助けることはできないわ。だってそれは芽々子、あんた自身が助かるためのものだから。あんた自身の問題だから。それ自分で知ってる?」
一気にそこまでを口にして、リリィは黙り込んだ。
あとは目を見る。芽々子のつぶらなふたつの瞳を真っ直ぐに、問いかけるように。
ややあって、芽々子は──。
あさっての方を向き、俯き、瞬きを数回し、それから。
「……うん」
悲しそうな顔を申し訳なさそうな顔に変えて、こちらに視線を合わせた。
「わかってる。わかってたよ」
首だけでなく身体もきちんとこちらへ向けて。
「私が不安なのは私の問題で、それをみんなに押しつけちゃいけないってこと。みんなは私みたいに不安じゃないし、不安でもいけないんだ。それは、来たばっかりのひぃお兄ちゃんでもそう。……私もっと、みんなを信頼しなきゃいけないのに」
「わかってるじゃないの、あんたは」
「でもね、りぃお姉ちゃん、わた……」
「わかってるのよ、私も」
口を開きかけた芽々子を制した。
立ち上がり、カーペットに座り込んだ妹の傍へ行く。
隣に腰掛け、リリィは言った。
「私があんたのことをわからないとでも思ってるの? そうだとしたらとんだ侮辱だわ。私はきょうだいたちの中でも一等、あんたのことをわかってるつもりよ。そうであるべきで、そうじゃなきゃいけないの。だってあんたをここに連れてきたのは、この私なんだから」
「……うん」
「だから私は、その上で言ってるのよ。……難しいしつらいかもしれないけど、徐々に進んでいかなきゃいけないわ。あんたに後ろを向かせてちゃ、私は立場がないのよ」
「うん」
「ごめんなさいね、無理を言って」
そこまで言ってようやく、芽々子は笑った。
「ううん」
首を振りながら、いつものようにリリィへと寄りかかる。
「私こそごめんなさい、りぃお姉ちゃん」
だから背中を軽く叩いて、
「謝るのは私にじゃないわ。そうでしょう?」
「そうだね」
「耶衣が今頃、あれで遊んでるはずよ。あんたも行ってみたら? 家族の代替物だなんてふざけた考えを持たなければ、あれはあれで可愛いものじゃないかと思うわ」
わかった、と。
芽々子は腰を上げる。
もう悲しそうな表情は欠片も見えない。
切り替えられたのか、それとも吹っ切れたのかはわからないが、とにかく──気にしないことができるようになったのだろう。
「りぃお姉ちゃんも来る?」
「私はいいわ。悪いけれど響の趣味は理解できないもの」
さすがに本当のことがわかっている自分まで乱入するのは憚られる。
「じゃあ行ってくるね。本当はあれ、ちょっと可愛いって思ってたんだ!」
すっかりいつもの調子になって、ぶんぶんと手を振りながら居間を後にする芽々子。
そんな彼女を見送りながら、リリィはようやく、安堵の溜息を吐いた。
「……やれやれ、だわ」
しかし──正直なところ。
これではとても、成功したとは言い難いだろう。
自分にできたのは先延ばしだけだ。要するに、我慢しろ、と言い聞かせただけ。芽々子を家族依存症から解放することは、今回もできなかった。
「私はやっぱり、礼兎のようにはいかないわね」
思わずひとりごちる。
礼兎が高遠を支えるように、あんなふうに上手くやれればいいのにと思いつつ。
とはいえ、礼兎に芽々子を解放させられるかといえば彼女にも難しいかもしれない。
いや、礼兎だけではない。リリィも、高遠も、稜や耶衣も、家族全員が今に至るまで、芽々子の病を治すことができずにいる。
もしできる者がいるとすれば──芽々子を家族依存から脱却させられるのは──。
やはり、期待をしてしまう。
「ふん。これも高遠の言う通り、甘えてるってことになるのかしらね」
ただその期待が、倉須の血に惑わされて視線が濁っている故のものか、それともリリィの人を見る目がちゃんと澄んでいる証拠であるのかはわからない。
ともあれ、判断はまだ保留していいのではないかと思う。少なくともあれが、自分たちに吹き込んだ新しい風であることは間違いないのだから。
さて、それが、古い風を、この家に淀んでいるものを吹き飛ばしてくれるかどうか。
「……どうなのかしら、兄さん」
喉の奥から洩れた声を、リリィ自身は意識していなかった。
居間には誰もいない。
だからその呟きは、誰にも聞かれず消える。
3
階段を上がった先は、割と大変なことになっていた。
廊下にも騒がしさが聞こえてくる。芽々子は首を傾げつつも歩を進め、声が洩れてくるドア──無論、響の部屋である──を、おもむろにノックした。
返事がない。
なので、勝手に開ける。
「ひぃお兄ちゃん……って、うわ!?」
まず耳に届いたのは笑い声だった。
男とも女ともつかない中性的なもの、つまり稜のもの。
「あははははは! すっごいよ響にい! いいよ! すげーいい!」
はしたなくもお腹を抱えて仰向けに足をばたばたさせていた。まるでマンガのようだ。
稜がそうしている理由が、次いで目についた。
「ひぃお兄ちゃん……?」
響が、例のウサギのぬいぐるみを膝に抱いていたのだ。
背後から抱き締めているような格好である。
むすっとした顔は稜に笑われているからか、それとも、
「……いいです。なかなかです。面白いです」
耶衣にカメラを向けられて、ばしゃばしゃとシャッターを切られているからか。
「いや真面目な話、それ可愛いよ。ぼくも欲しいなー」
「もう少し首を傾げてください、響兄さま」
「うるさいよ。稜くんは棒読みをやめなさい。あと耶衣ちゃん、そろそろ撮影料取るよ?」

口々に勝手なことを言う弟と妹にすっかり辟易した様子の響。
ドアの前に突っ立っていた芽々子の存在に気付き、視線を向ける。
「なんだ、芽々子ちゃんも僕を笑いに来たのか?」
疲れ果てたようなその顔を、芽々子は一瞬だけ見入った。
けれどすぐに、胸の奥から込み上げてきた笑みを抑えきれなくなる。
「ふふ……あは……あはっ!」
自分が可笑しがっているのが少し不思議だった。
どうしてだろう、と考える。
響の様子が滑稽だったからではない。確かにまあ可愛い感じではあるけれど、それだけが原因ではここまで笑ったりしない。
たぶん自分は、ばかばかしくなったのだ。
ぬいぐるみを抱いて眉をしかめている響。
響に大受けしている稜。
ふたりの写真を撮っている耶衣。
そこに、芽々子の懸念していたものは欠片もない。
響がぬいぐるみで寂しさを紛らわしているのではなどという懸念は、勘違いも甚だしかった。これが『いつか解決すべきもの』だとはとても思えなかった。
何故なら響は──響たちは、ぬいぐるみで一緒に遊んでいるだけなのだから。
「あ、そうだ、芽々子ちゃん」
けらけらと笑っていると、どこか申し訳なさそうな響の顔。
きょとんとした芽々子に、兄は少し笑って言った。
「大丈夫だよ。芽々子ちゃんが心配しているようなもんじゃないから、これは」
「……ひぃお兄ちゃん」
その言葉と視線に、はっとした。
わかってくれていたのだ、この人も。
うちへ来てまだ日が浅いのに。
芽々子を妹にしてくれてまだそんなに経っていないのに。
私のことをちゃんと、わかってくれたんだ──。
「ほら稜くん、次はきみの番だ」
ぬいぐるみをそのまま、稜へと放る響。
「おわ!」
そのまま床へと寝転がりつつ、ウサギを受け止める稜。
「案外重いなこれ! 耶衣も抱く?」
「……はいです」
構えていたカメラを脇へ遣り、稜のもとへと行く耶衣。
そんなきょうだいたちに嬉しくなって、芽々子は満面の笑みで叫んだ。
「じゃあ、ひぃお兄ちゃんは私がもらうっ!」
「え……って、うわっ!」
響に背中から飛びついて覆い被さりながら、スリーパーホールド。
じゃれ合う稜と耶衣に負けじと、思いきりはしゃぎまわり始める。
※
──よかった、と思った。
新しく来た兄は、ちゃんと笑ってくれている。
芽々子が心配するまでもなく、楽しんでくれている。それは素敵なことだ。
でも、もっと素敵なことになる。
何故なら、これからなのだから。
自分は響のことをどんどん大好きになっていくはずだ。
自分だけではない。高遠も、礼兎も、リリィも、稜も、耶衣も。
なにせみんな、響にこの家に来てよかったと思ってもらえるよう頑張っているし、響だって同じように、この家に受け入れてもらえるよう頑張っているのだから。家族全員が、誰のためでもない他の家族のために力を注いでいるのだから。
笑い合って、遊んで、たまに喧嘩して、怒鳴り合って、すぐに仲直りして。
そうしてみんなで一緒に暮らす。
寂しくはない。寂しいことになんてならない。
寂しい思いもしないし、させない。
「ねえ、ひぃお兄ちゃん!」
自分を引きはがそうともがいている兄に、言った。
「まだまだだからねっ! 今でも充分楽しいけど……まだまだ楽しくなるから。歌にもあるみたいに、だんだんよくなる。どんどんよくなるよ!」
『ゲッティング・ベター』。
まるで自分に言い聞かせるように。
願うように、芽々子は笑った。