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普段から騒がしい日常を送っている倉須家だが、さすがに深夜ともなると静寂が屋内を支配する。きょうだいを構成する大部分、つまり学生たちは全員が明日に備えて自室で寝ているのだから当然のことだが──倉須高遠は、この静けさがあまり好きではない。
平和だ、と思う反面、言い知れない不安を覚えるのだ。
倉須家を構成しているのは元来が血の繫がらない者同士の寄せ集め、所詮は疑似家族である。今はこうして平穏無事に日々を送っているが、いつなにが切っ掛けで壊れてしまうとも限らない。もちろんそうならないように願っているし、自分たちの間にある絆は決して細いものではないという確信もあるけれど、一方で切れてしまわない保証がないのも確かだった。
高遠は楽観主義者ではない。少なくとも自分ではそう思っている。
だから不安になる。血の繫がりという先天的な安心感がないことが、恐くある。
昔はそんなふうに考えたことなどなかった。
高遠がこの家に来たのは十一歳の時で、それから十四年経つ。十四年の間にいろいろなことがあった。家族が増えたり減ったりを繰り返しながらいつの間にか自分が一家を支える大黒柱という立場になり──これはその代償、気苦労のようなものなのかもしれない。
居間のソファに身を沈め、缶ビールを適当に呷りながら小さく溜息を吐いた。
テーブルの上に置いた煙草の箱から一本を抜き、火を点けようとする。
背後から声があった。
「駄目よ、誰もいないからって。台所、換気扇の下。それかベランダ」
おっとりとした、それでいてどこか億劫そうな喋り方は高遠にとって聞き慣れたものだ。
「おやおや。こんな夜更けに起きてるとは珍しいね」
高遠は煙草を箱へ仕舞いながら言う。
「まだ一時半じゃない」
声の主──礼兎は高遠の隣に腰掛けると、高遠の缶ビールを勝手に奪った。
ふた口ほど飲んで、顔をしかめる。
「ぬるいわ」
「ビールの味もわからないくせに、生意気言うなよ」
皮肉を飛ばした高遠に、彼女は薄く笑んだ。
いつものアロハシャツである自分とは違い、既に入浴を済ませたパジャマ姿である。そんなふたりの組み合わせはどこか滑稽で、まるで塡め込み合成みたいだ。
そんなことを考えていた高遠に対して、唐突に、
「家族のこれからのこと考えてたんでしょ」
礼兎がそんなことを言った。
──いきなりの図星だった。
どうしてわかった、という疑問が顔に出ていたのだろう。
もう一度ビールに口を付けた礼兎は、
「高遠くんが私を子供扱いするのは未来を不安がってる時だけよ。つまり、昔に戻りたがってるってこと。でも残念だけど、私は今年で二十四になるのよ。就職二年目」
「昔に戻りたくもなるさ。お前が就職……しかも高校の保健教師してるっていうのは悪い冗談にしか思えないよ。忘れたのか? 子供の頃、俺が怪我する度、勝手に包帯を取り出してきて消毒もせずに巻こうとしたり、変な草を揉んで傷口に塗り込めようとしたのを」
「あらまあ、この家に来る前の昔話まで始めちゃった。これは重症だわ」
礼兎の深い溜息に、高遠の視線は宙を泳いだ。
「目を逸らしたって許さないわよ」
しかし容赦はない。
「やれやれ。まるでリリィみたいな口ぶりだね」
「そりゃあ姉妹ですもの」
高遠が感じていた不安──血の繫がりがないという垣根などまるで知ったことかと言わんばかりに礼兎は言う。いや、これは恐らくわざとだ、と思った。
昔から彼女は、高遠が弱気になると途端に鋭くなるのだ。
「私にわからないとでも思ってるの? 響ちゃんのことでしょう」
「……俺はそろそろ白旗を揚げた方がいいのかな、これは」
「ご自由に。でも降伏したらからといって銃撃が止むとは思わないことね。私には機銃掃射の用意もあるのよ? 慣れてないから上手く狙いが定められるかはわからないけど」
「まったく、いかにも倉須家の人間らしい物言いだな」
「それはそうよ。私は倉須家の人間だもの。……あなたもなのよ、高遠くん」
『慣れてない』とはまた控えめに過ぎる表現だ。
礼兎の言葉は高遠の胸へ、極めて的確に突き刺さる。
「私たちがこの家に来てから何年? もう十四年よ。私も高遠くんも、あの施設で過ごした時間よりもこの家で過ごした時間の方が長いの。子供の頃のことを振り返るのは構わないけど、これからのことを考えた方が遥かに建設的じゃない?」
「考えてたからこそブルーになった、そう言えばお前は満足するのかな」
「高遠くんの言い逃れで私が満足したことが一度だってあったかしら」
質問の形を取った叱責だったので、返事をしなかった。
しばらくの間、ふたりは黙り込む。
やがて高遠はぽつりと、ぞんざいに頭を搔きながら言った。
「今日の朝、リリィが響に洗礼を施したらしいよ」
話題を逸らした訳ではない。
礼兎もそれがわかっているのか、普通に返答する。
「なるほど、道理で夕食の時、響ちゃんの様子が変だと思ったわ」
「どう変だったんだい?」
「遠慮がなくなったように感じたの。具体的にどうと言われても困るけれど」
「じゃあ、功を奏したってことか」
「それにしても、相変わらず堪え性のない子ね、リリィちゃんは」
「今回は特に短かったんじゃないかな。何日だ? 響が来たのが一カ月と少し前だから……四十日を超えてるか超えてないかってところか」
「年齢で決めてるんじゃないの? 確か芽々子ちゃんの時は二カ月くらい我慢したと思うわ。稜ちゃんには三カ月くらい。耶衣ちゃんもそのくらいだったような」
「あいつは年齢なんかで区別したりしないよ。忘れたのか? 稜も耶衣も当時五つだか六つだかそんなもんだったのに、大声で怒鳴りつけたんだから。……そもそも、年齢を言うんならリリィ自身が当時小学生だった。芽々子の時には十歳にもなってないはずさ」
「お互い子供だったからこそ、きょうだい喧嘩で済んだのかも。今回はどうだったの?」
「物置からバットを持ち出して振り回したそうだよ。芽々子によると」
「……無茶をする子」
苦笑。
だから高遠は肩を竦めて、
「期待してたんだろうさ」
それから天井を見上げつつ、言う。
「なにせ響は、倉須の血をひいてるんだから」
瞬間、礼兎の視線が鋭くなった。
「それは言わない約束じゃなかった?」
「もちろんそうさ。でも先に響の名前を出したのは、お前だよ」
「卑怯ね」
呆れたように呟くと礼兎は立ち上がる。そのまま居間を出ると台所へ行き、ごそごそと冷蔵庫を漁るとビール缶を手にして戻ってきた。身体を投げ出すようにして再び隣──ソファに沈み込んだ妹を一瞥し、高遠はまるで独白のように、嘆息しながら口にする。

「確かに俺たちは約束したさ。響がここへ来る前に、家族全員で」
響。
旧姓、園村響。
彼は、高遠たちにとってどうしようもなく特別なものを所持している。
即ち『園村』から連なる『倉須』の血だ。
高遠も、礼兎も、リリィも、芽々子も、稜も、耶衣も、倉須の名字を名乗ってはいるが所詮は養子に過ぎない。倉須の血は身体のどこにも流れていない。
倉須の血。つまり、今はもうどこにもないこの家族の核──。
だが皮肉なことに、新参者であるところの響こそがそれを持っている。彼の父親の妹は高遠たちにとっての義理の母、今は亡き倉須詠子であるが故に。
もちろん高遠は、だからこそ響をここへ連れてきた。
自分たちを救ってくれた──自分たちを家族にしてくれた彼らの血縁者が、かつての自分たちと同じ親なしになりかけていたのだ。放っておくことなど決して許されない。
ただ、ことはそう単純にはいかない。
問題はあった。それも大きな、家族全員にとっての大きな問題が。
約束というのは、至ってシンプルなものだ。
比べないこと。
倉須の血をひいた、かつての倉須家の核であったあの人たちと、響を比較しないこと。
それをしてしまえば、誰もが不幸になる。
響は『響』という個人ではなく『倉須の代替品』としてここへ連れてこられたことになるし、高遠たちは『倉須の核』という、既に失った昔日に再び囚われてしまう。
たとえあの人たちの血をひいていても、響はあの人たちとは違う。
あいつはあいつ。高遠と、礼兎と、リリィと、芽々子と、稜と、耶衣と同じ──この世界での縁を失った、誰にも必要とされないたったひとりきりになってしまった存在なのだ。
響は響として必要とされなければならない。
『誰かの代わり』なんていう残酷な役目を負わせることなど許されない。
そんなことをすれば、かつての自分たちを傷付けるのと同じになってしまう。ひとりきりで誰にも必要とされず、孤独だったかつての自分たちを鞭打つに等しい愚行だ。
だから高遠たちは、響を迎えに行く前に全員で決めた。
響を他のきょうだいたちが来た時と同じように、ただの響として扱うことを。
倉須の血を持っていることを、どんな形であれ意識しないようにすることを──。
「つまりはリリィのあれも、約束違反ってことになるのかもしれないな。あいつはたぶん、甘えたんだ……響が倉須の血をひいてることに。四十日しか経っていないのに怒ったのはそのせいだよ。バットを持ち出して振り回すなんて暴挙に出たのも同じ理由さ」
「響ちゃんが倉須の血筋じゃなかったら、そこまではしなかったってこと?」
「たぶんね」
「それはリリィちゃんに対して失礼じゃない?」
批難めいた口調に、高遠は眉をしかめた。
「俺はお前たちと違って、リリィを高潔な人格の持ち主だなんて思っちゃいないさ。あいつは我が儘で、弱くて、ついでに脆い、とんだ甘えんぼだよ。俺から見れば」
礼兎は反論しなかった。
「……そう」
ただし代わりに、悲しそうな眼をする。
あくまで高遠の弱みを的確に突いてくるつもりのようだ。
仕方ないので溜息を吐き、笑ってみせた。
「とはいえリリィを責める気はないよ。俺だって……いや、きみや他のきょうだいたちだって同じだろう? 響はやっぱり倉須の血だよ。それは事実だ」
「高遠くん……」
「顔だって似てる。雰囲気もどことなく。黙って食事してるところなんか見ると、まるで昔に戻ったような錯覚をすることさえあるね。もちろん口に出したりはしないけど……そう思ってしまうのを止めることはできない。みんなもそうだろうさ」
笑顔を苦笑に変え、ビールを一気に飲み干し、
「だから俺は不安なんだ。このままみんなが、響に倉須の血を、あの人たちの面影を見るようになったらと思うと。……ちょっと悩んじゃうね」
家族の前でいつもそうするように、少しばかりおどけた態度で。
倉須高遠は眉を上げ、妹を見遣る。
礼兎はそんな兄の顔を、丸眼鏡の奥にある双眸でじっと見返すと、
「そうね」
俯いて、気を逸らすように、ビールの缶にできた水滴を指で拭った。
「みんな、忘れられたらいいのにね。あの人たちのこと」
「そんなことできないし、したくないね、俺は」
「冗談よ。私だって本当にそう考えてる訳じゃないわ」
でもね、と、再び顔を上げる礼兎。
「発端は高遠くん、あなたなのよ。母さんの血縁を調べたのもあなた。響ちゃんの存在を私たちに知らせたのもあなた。あの子を養子に迎えることを私たちに提案したのもあなた。最終的に迎えに行くことを決定したのもあなた。響ちゃんを誘ったのもあなた」
彼女はいつものどこか億劫げな口調で、けれどはっきりと言葉を紡ぐ。
「もちろん、だからこそあなたが不安になってるというのはわかるけど……もし不安だったら、だからこそって言葉をもう一回重ねればいいんじゃないかしら。あなたが切っ掛けを作った、だからこそあなたは不安に思う必要なんかない」
どういうことだ、と問うより早く、
「切っ掛けを作ったのが長男のあなただからこそ、私たちきょうだいはあなたを悲しませるようなことはしないわ。自分のせいで家族が不幸になったなんて……そんな思いをあなたに背負わせることはしない。私たちは家族なのよ? 血が繫がってないから、だからこそ、あなただけに責任を押しつけたりはしない」
顔も声も笑っていた。
けれど言葉は、真剣そのものだった。
「それに、あなたの弟や妹たちが、そんなやわに見えるのかしら? 新しくできた家族をわざわざ不幸にしてしまうような子たちじゃないでしょう? もしそうだったらそもそも、この家には七人もきょうだいが増えてやしないわ」
今度は、高遠が俯く番だった。
そのまま数分ほど沈黙する。
静寂を紛らわせるためにうってつけなアイテムはなく──煙草を吸っていい場所ではなかったし、ビールも空になっていた──だから無音をただ嚙み締め、黙考し、そうして。
「わかったよ」
礼兎へと、降参するように肩を竦めた。
「だったらいいわ。許してあげる」
もう追加の銃撃は来ない。
だから高遠はいつものように人を食ったような笑みを浮かべると、シャツの襟元へ手を遣りながら立ち上がり、ぞんざいに妹へ告げた。
「風呂に入って寝る。お前も夜更かしするなよ」
2
高遠が廊下の奥へ消えてから、礼兎は深く溜息を吐く。
ビールをひと口飲み、それから小さく笑むと、廊下の玄関側──つまりは浴室や洗面所ではなくて階段のある方向へ視線を遣った。
「高遠くんはもういないわよ、リリィちゃん」
ややあって、長身の人影が居間へと入ってくる。
さすがに普段とは違い足音を消した静かな歩き方で。
「……ふん」
一方で表情はいつも以上に憤然としていた。
「冗談じゃないわ、高遠の奴」
苛立たしげに吐き捨てる。
「いつから聞いていたの?」
「ビールなんて飲むと思考力が鈍るわよ、礼兎。どうせ間を保たせるためのものなんだから麦茶かなにかにするべきね。アルコールは愚かな選択だわ」
礼兎の質問には答えず、リリィはそんなことを言った。
「冗談じゃない、っていうのは高遠くんに『甘えんぼ』だなんて評されたから? それとも、『甘えんぼ』って評されたのが図星だったから?」
「私は間を保たせることに気を遣うなんて願い下げね」
飲み物を取りにはいかず、ソファ──礼兎が座っている隣ではなく、テーブルの反対側へと腰掛ける。まるで挑むように。或いは、見据えるように。
「……ま、前者だったら話の途中で姿を現すわよね、リリィちゃんは」
「時々、高遠が自分の兄だってことがどうしようもなく呪わしくなるわ。礼兎にもそういうこと、あるでしょう? 芽々子も稜も耶衣も、最低ひと月に一度はそう考えるはずだわ。響はこれからね。せいぜい苛立つといいのよ」
「呪わしい、か……。恨めしい、ではないのね。それはつまり、愛しい、ってことだわ」
「あんた私に喧嘩売ってる?」
リリィは眉をひそめる。
「妹に喧嘩を売る姉がどこにいるの。これはお説教よ」
「たとえ姉のだろうが兄のだろうが、私はお説教なんて聞く気はないわね」
「聞く気はなくても、聞き入れる気くらいはあるでしょう?」
礼兎の言葉にうんざりしたように、ソファに背を預けて天井を見遣るリリィ。
「天井になにかあるの? 蜘蛛でも這ってる? だったら退治しなきゃ」
「虫が嫌いなくせによく言うわ」
「嫌いなんじゃなくて面倒なだけよ。高遠くんがいるんならやってもらうのだけど、誰もいないんなら仕方ないわ。長女の私がやらなきゃ」
「あんたはいつもそうね、礼兎。安心しなさい、蜘蛛なんかいやしないわよ。下を向くのが厭だっただけ。……それにしても本当、呪わしいわね。私を言い負かすことができるのはこの世でただひとり、あんただけだと思うわ、正直なところ」
「そうでもないわよ?」
リリィの表情がほんの少しだけ──呆れで──和らいだのを見、礼兎は妹へと笑いかける。
「ひょっとしたらこの先、響ちゃんがそうなるかもしれないじゃない」
返ってきたのは数度の瞬き。
直後、礼兎にすら感情の窺えない、笑っているような怒っているような顔をする。
そして、
「……ねえ礼兎。私は響を、あの人たちと比べているのかしら」
リリィはぽつりと、少しそっぽを向きながら、問うてきた。
礼兎は応える。
「それはあなたにしかわからないわ」
「自分でもわからないから尋いてるのよ」
「そうねえ」
考え込みつつ、ビールを飲んで間を保たせ、二十秒ほど。
なにも思い浮かばなかったので、月並みなことを言った。
「少なくとも、不安を認めるのは悪いことじゃないと思うわね」
「あ、そう」
リリィは少なからず失望したようだった。
礼兎に対してではない。自分で答えを出せず姉に頼った自分に対してだろう。
「寝るわ」
気まずくなったのか、彼女は立ち上がると、そのまま踵を返し居間を出て行こうとする。
故に。
礼兎はそんな彼女の背中へと、声をかけた。
「ねえ、リリィちゃん」
足を止めた妹へ、問う。
「朝、あなたが怒ったことで、響ちゃんはあなたを嫌いになったりしたと思う?」
「わからないわ、そんなこと」
吐き捨てるような返事。
予想通りの──返事に、
「そうね。それはあなただけにはわからないことよ。つまり、私たちには自明ってこと」
「……どういうことよ」
倉須礼兎は、笑った。
「響ちゃんを家族にしてくれて、ありがとう」
愛しい妹へ、心からの感謝を込めて。