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身長、一六九センチ。ひとつ年上とはいえ男の僕よりも背が高く、少しばかり忌々しい。
体重、スリーサイズは不明。けれど体格を見る限り実にスリムで、有り体に言うとモデルもかくやというスタイルである。まあスリムな分出るべきところがあまり出ていないように見受けられるがこれには触れずにおく。
髪と瞳の色、黒。長く伸ばしたポニーテールは爽やかさと華やかさの中間みたいな印象だが、同時にきつい感じがする。原因はその顔立ちと視線だ。
刃物で造った薔薇、とでも形容すれば適当だろうか? 誰もが振り返るほど美しくありながら、誰もが目を逸らすほど鋭利。触れたら怪我をするのはわかっているけれどどうしても触れずにおれない、そんな危険な恐怖と誘惑を見る者すべてに与えるような容姿を持っている。
性格も同様だった。笑えば包丁睨めば鋏、放つ言葉は毒の針。高遠兄さんが彼女をそう評していたのを聞いたことがある。僕も同感、実に正しい比喩だと思う。
以上──と、いったところだろうか。
つまり五月初旬のあの時点で倉須リリィについて僕が知っていた事項はその程度であり、僕の抱いていた認識はそんなものだった。
だから、仕方ない。そうちょっとだけ思う。
僕が彼女を誤解していたことを。
僕が彼女の真意を──まったく理解できていなかったことを。
1
転校が新学期初日、つまり進級とともに行われたのは幸運だ。
僕は当時、そんなふうに考えていた。
なにせ既にグループができている場所に入っていくのは神経を遣う。壇上で三十人強の男女たち全員から奇異の目で見られながらの自己紹介なんて、考えただけで気が滅入る話だ。
その点、クラス替えと同時の転校なら、新しいよそ者がひとりふたり混じっていても気に留める者は少ない。全十クラスという大所帯の高校であれば尚更。
『一年から同じクラスの友人が運悪くひとりもいませんでしたよ』みたいな顔をしておけばいいだろう。あとは自己紹介の際に愛想笑いで以て「実は進級と同時に転校してきたんです」とでも言えば完璧だ。ひとりだけやけに真新しい制服であることや校内の地理がさっぱりわからないことに不安はあったけれど、ま、親切な輩がひとりふたりはいるさ、なんて。
──今になって振り返ると、甘かったし、愚かしい楽観だったとつくづく思う。
転校から一カ月ほど経った、五月の初め。
午前十時過ぎ。
三限の授業をぼんやりと受けながら、自分の希望的観測が当たったのは『親切な輩がひとりふたりはいるはず』ということだけだったなと、僕は改めて嘆息していた。
ただでさえ新しい環境で緊張しているのだからせめて学校でくらいはリラックスしておきたいなんて吞気していた先月が実に懐かしい。
溜息を微かに吐きながら、あの時のことを思い出した。
転校初日、最初のホームルームの際に行った、自己紹介のことだ。
まだぎこちない雰囲気の教室の中、生徒たちが流れ作業のように順番に、立ち上がって名乗り、趣味だの部活だの一言二言適当な説明を追加しては座っていく。
そしてやってくる、自分の番。
立ち上がり、そのむら、と以前の名字を名乗りかけて、直後に言い直した新しい名字。
「倉須響です」
名乗った瞬間、教室中がざわめいた。
「……くらす?」
隣に座った女子生徒がぽつりと呟いた。何故か恐怖するような視線で。
「おい、今、倉須、って言ったか? あいつ」
背後の男子生徒が逆に、色めき立った声で隣に問うた。
「倉須って、あの……?」
憧れじみた調子で、斜め向こうの女子生徒。
「まさか……」
「でもさ、倉須なんて名字、この学校には他にいねえよ」
「じゃあ、あの倉須? でも……」
ざわざわと広がる囁き声。
え、なにこの空気?
心の中で戸惑いながら、とても嫌な予感がしていた。
「あの、この春から転校してきました。よろしくお願いします」
思わず早口でそう答え、座り込むと、
「じゃあ、やっぱり……」
そんな呟きが、転校、という言葉を発した途端に方々で聞こえた。
ホームルームが終わった瞬間のことは忘れられない。教室中の生徒たちの視線が一斉に、遠巻きに、こっちを向いていたのだ。
そして僕は悟った。
ああ、冗談じゃない、と。
自分の儚い願望は、初日早々、脆くも崩れ去ってしまったのだ。
すべて、新しい名字『倉須』のせいで。
チャイムが鳴り、三限が終わる。
起立礼着席の号令が済むや否や、教室が雑然とし始めた。四月の頃はまだぎこちなかった雰囲気も、ゴールデンウィークが明けてからはこなれたものになっている。
「なあ、響」
早速と言わんばかりに男子生徒がひとり、こちらへとやってきた。
転校してきて最初に仲良くなった友人のうちのひとり、木根幹也だった。
見上げるほどに背が高く、名は体を表すというのを地で行っている男である。正直なところ目つきも非常に悪く、初めて話しかけられた時は恐喝されるのかとすら思った。僕はどちらかというと年齢よりも幼く見られてしまうことが多い顔立ちをしているから──自分でそう評するのも悔しいが、事実だから仕方ない──ふたり並ぶと実にちぐはぐだ。
が、人格はその風貌とは裏腹。
「お前、次の英語、課題やってきたか? やってないなら俺の写すか?」
親切で気も利き、なにより人なつこい。女子生徒からけっこうな人気があるのを最近知ったけど、それもむべなるかな。もっとも本人はあまり気付いていない。
「幹也、あまり響くんを甘やかしちゃダメよ。もう一カ月経ったんだから」
続いて、背後からやってきたのはもうひとり。今度は女子生徒。
「前の学校で授業遅れてた訳でもないんだし」
なかなか厳しいことを言う彼女の名は、篠森小梅。ウェーブのかかったボブカットに、細い眼鏡という出で立ち。どこか整然とした口調と男女ともに分け隔てない態度は、幹也くんとは逆に、自他共になかなか厳しい。この学校の生徒会、書記を務めてもいる。
「そうは言っても、やっぱ授業のやり方とか違うじゃねえか」
「だからって課題写させる理由にはなんないわよ。自分でやった方が慣れも早いでしょ」
「でもよ」
「でもじゃないわよ」
「……いや幹也くん小梅さん。悪いけどさ、僕、課題やってきてるんだよ、一応」
肝心の僕を放置して議論を始めたふたりへ、控えめに口を挟んだ。
「お、そうか? なんだ、やるじゃん」
「あら、そうなの? いい心がけだわ」
同時にこっちを向き、にこやかに笑む彼ら。
主張は相反していても息はぴったりである。名前からしてコンビみたいだよな、と心の中でだけつっこんでおく。
ちなみに、名前も性格も対照的なこのふたりは幼馴染みとのことだ。女子に人気がある幹也くんが、それに反して誰かに告白されることもなく、自覚も薄い理由が彼女にある。──本人たちにその気がなくても、付き合っているようにしか見えないのだった。
まあそういった細かな情報はともかく、実際のところこのふたりには感謝している。
新学期初日、転校生の僕に対して最初に話し掛けてきてくれたのは、他でもないこの幹也くんなのだ。彼と、それから相方である小梅さんのお陰で僕は比較的早くこのクラスに溶け込むことができた。ふたりがいなかったら今頃僕はまだ、おっかなびっくり遠巻きに観察されるだけの珍獣として扱われていた可能性だってある。
──ただ。
少なくとも小梅さんに関して言うなら、僕に接触を試みてきたのは親切心以外の理由があったのではないかと思う。それはつまり、あの日クラスメイトたちが僕に向けた奇異の視線と同様、僕の新しい名字に起因してのものだ。
「そういえばさ」
小梅さんが時計を見て、ちょっと期待するような声をあげた。
「今日は? 来ないのかな」
彼女の態度は、まさしくそれによるもの。
「……ああ」
僕は思わず溜息を吐いた。
三限目と四限目の間の休み時間。
それはここ最近の僕にとって、まさしく憂鬱の種となっている。
「来ると思うよ。……そろそろ」
がらり、と。
僕が言ったのとほぼ同時、教室の上手扉が開かれた。
けたたましい音がした訳ではない。
かといって遠慮がちとはほど遠い。
そんな音に、クラスメイトたち全員の会話が一瞬だけ止まった。妖精が通ったかのように。
ただし入ってきたのは、妖精などという可愛らしいものではない。
──暴君、だ。
「お邪魔するわよ」
誰に言うでもなく、けれど高圧的に。
憧れ、畏怖、その双方が混じった視線で、生徒たちが声の主を見遣る。
すらりとした肢体、伸びた背筋、傲慢とも思えるほどに堂々とした態度。
後頭部でひとつ括りに束ねた長い黒髪を微かに揺らしながら、削った氷のような鋭い双眸で周囲を睥睨し歩く姿は、見る者を慄然と陶酔へ同時に叩き込むほどの美しさ──そんな堅苦しくも仰々しい形容が、この人には実によく似合う。
彼女の顔を知らない者はいない。
三年一組、出席番号女子七番。私立鏡山高校の生徒会長にして、僕と同じ名字を持つ少女。
倉須リリィが、真っ直ぐこちらへ向かって歩いてきた。
「こんにちは、先輩」
小梅さんが嬉しそうに頭を下げて挨拶する。生徒会書記である彼女はリリィと面識があった。昨年からずっと憧れの人であるらしく「響くんが転校してきてから先輩がこの教室に来てくれるようになってよかった」などと常に言っている。
本当、勘弁して欲しい。
僕からしてみれば、転校してからこっち自分に注がれている妙な注目と視線の原因の八割は、学内の有名人であるこの義姉のせいなのだから。
「小梅? いつも言ってるわよね。頭を下げる暇があるのなら顔を上げて前を見なさい。背後を振り返るのでもいいけれど。とにかく下は駄目よ。下を向いて、蟻を踏み潰してしまっていることに気付いたら歩けなくなってしまうでしょう?」
笑顔とも侮蔑ともつかない顔で、訳のわからないことを言うリリィ。……これは校内において生徒会長ワールドとも称される彼女独特のもの。
でも、僕は知っている。
この意味不明かつ哲学的な言い回しは、程度と方向性の違いこそあれ、自分を除いた倉須家全員に共通するものであることを。
「はい、すみません」
小梅さんは申し訳なさそうにしゅんとする。
すみません、って、リリィの言葉の意味がわかったのだろうか?
僕にはわからない。いや、なんとなくわからないでもないが、わかりたくない。
リリィは小梅さんに一瞥をくれると、こっちへと向き直った。
「朝ぶりね響。元気にしてたかしら?」
笑み。それはどこかこちらを蔑んでいるようでもある。正直なところ、家に来たての頃は緊張で足が竦むほどだった。もっとも、一カ月経って多少は慣れている。
「まあ、さっきまでは結構元気だったよ」
こうして軽い皮肉のひとつを叩けるほどには。
「結構、ね。それは結構だわ。結構以下ではないということだものね」
「なんだよそれ……」
あと、妙に刺々しい義姉の口調に眉をひそめるくらいにも。
「まあ、あんたが結構でもかなりでもそれほどでも、私の用事はいつもと同じよ」
リリィはポケットから百円玉を数枚、無造作に取り出すとこっちに放って寄越す。
四月半ば頃から、週二回か三回のペースで始まったリリィの来訪。
その用件は、お遣い、だった。
昼休みの購買部でパンを買ってこい、という訳である。
本心を言えば、勘弁して欲しい。
購買部は冗談みたいに混雑するし、どのパンを買うかは早い者勝ちだから、生徒たちが我先にと殺到する。ただでさえ貴重な昼休みに戦争みたいな騒ぎで疲れたくはない。
とはいえ、リリィには逆らえない。僕だけではないのだ、これが。生徒はおろか教師たちですらも、彼女を前にしては萎縮してしまうらしい。
当然と言えば当然か。
この傲岸不遜な態度は誰を前にしてもまったく変化がなく、むしろ威圧にはそれ以上の威圧を以て返すほどなのだから。事実あの日、父さんと母さんの死に際して遺産でもめる親戚連中を一喝したのは──他ならないこの人だった。
「また焼きそばパン?」
うんざりしつつも尋く。
浮世離れした容姿に反し、彼女は焼きそばパンなどという俗なものが好物だ。このお遣いが始まって以来、メロンパンだのカツサンドだのカレーパンだのを頼まれたことは一度もない。
だがリリィは唇を僅かに寄せ、咎めるように言った。
「響、私の好みを推測するのは勝手だけれど、私の意志を勝手に推測してものを言うのはやめなさい。そこにあんたの意志があるの?」
「じゃあ、違うの?」
珍しく気分を変えたのかなと思うが、
「焼きそばパンよ」
違わなかった。
……って、いじめだろうかこれは。
「何個?」
「そのくらい自分で考えなさい」
「いやリリィ姉さん、さっきと言ってること違う……」
「なにも違わないわ。焼きそばパンはひとつ百五十円。私は三百円渡したのよ?」
論理的に考えるとふたつだろう。でも、はいそうですかと頷くのは癪なのである。
問い返す。
「飲み物はいらないのか、って尋いてるんだよ、僕は」
「あら」
と、リリィが目を軽く見開き、
「引っかからなかったわね、響。あんたにしては上出来だわ。よく自分で考えたわね」
皮肉げな口調──というよりあからさまな皮肉に、僕は心中でだけ舌打ちした。
正直、軽くいらっと来る。
「でも答えはふたつよ。私は食事の時に水以外を飲むのは生命に対する冒瀆だと思っているの。そしてミネラルウォーターは購買じゃなくて自販機にしか売っていないわ」
「水道水でも飲んどけばいいじゃないか」
「まあ、あなた、この私に水道水を飲めっていうの? さすがね」
驚いたような顔。
「残念なことに私は生徒会長なのよ。生徒会長がウォータークーラーで満足しているような学校なんて魅力がないでしょう? 私が自分で焼きそばパンを買いに行ってはいけないのと同じようにね。だから駄目よ、却下」
「……はあ、そうですか」
エレガントに振る舞おうとでもいうのだろうか。でも、昼食に焼きそばパンというのはまったくエレガントじゃないと思う。……まあ、リリィの思考回路がねじ曲がっているというのはこの一カ月で骨身に沁みている。
なにせ学校だけではない、家に帰ってもこの調子なのだ。
「とにかく焼きそばパン、ふたつ」
リリィは憮然と告げた。
「そのためにはあらん限りの努力をしなさい。全身全霊でもって焼きそばパンふたつよ」
わかった? と、こちらの目を見詰めてくる。
「ああ、努力するよ」
僕の返事に、リリィは笑いもせず頷いた。
まるでそれが当たり前のような。自分が生まれついての王であるかのような仕草で。
「じゃあね」
踵を返し、リリィは去っていく。
彼女が扉から出て行った瞬間、教室中の空気が弛緩した。それは緊張の解けたことによる安堵と、全校生徒の畏怖と憧れである生徒会長の姿を間近で見たことによる陶酔によって。
あちこちで「……相変わらず恐えよ」とか「でも素敵」とか「すげえないろんな意味で」とか、そんな声が聞こえ始める。リリィの影響力はこの学校にあってそれほどまでに絶大なのである。反感を覚える者もそれなりに存在するとのことだが、僕はまだ遭遇したことはない。
仮に反感があっても、たいした問題ではないのだろう。
リリィは生徒会長であり、生徒会長というのは選挙で最多票を得た者が任命される、つまりはそういうこと。お前にとって私はイエスかノーか──相手に対してその二択を無意識に突きつけるのが、倉須リリィという少女なのだ。
「……冗談じゃないよ」
僕は人知れず肩を落とした。できるなら自分も彼女を遠巻きに見て憧れたり怖がったりする多数派でありたかった、などと思いつつ。
ともあれ僕はその日の昼休みもまた、殺気だった人混みでごった返す購買部への電撃作戦を試みる羽目になった。奪取すべきはもちろん、焼きそばパンふたつ。
倉須という名の威光も、当然のことながら購買部の殺伐とした空気には通じなかった。せめてリリィの名前を出した途端にモーゼの十戒みたく人混みが割れるなら彼女の義理の弟となったことにも感謝できただろうに。
でも、やっぱり無理か。
当の僕は、倉須家の奴らとは違う。
人混みを前に「道を空けろ」なんて叫ぶ度胸もない、ただの一般人なのだから──。
2
かようにして貴重な昼休みの十数分を無駄にしつつ、僕の学校での一日はそれでもつつがなく終わる。転校して一カ月経った今、自分の名字のせいで日に何度かは必ず他の生徒たちに注目されてしまうという日常を『つつがなく』などと奥ゆかしく形容できるようになった自分に我ながら頭が下がる思いである。
まあ、別に深刻ないじめを受けているとか友達がひとりもできないとか、そういう類のものではないからよしとしたい。なんだかんだで、僕に対するクラスメイトたちの視線は同情的だ。週に三度は「パンを買ってこい」だの「生徒会の仕事を手伝え」だのとリリィによって下僕のように扱われているのだから当然と言える。
ただ、僕の所属する二年三組から一歩出ればまた違った結果が待っている。もっと別の視線を送られることは多い。同情というポジティブなものではない、もっとネガティブな感情。
つまり──奇異とか、嫉妬とか。
放課後。
部活動に入っていない僕は基本、ホームルームが終わると時を待たず友人たちに別れを告げて教室を出る。やれやれ今日も疲れたななどと思いながら靴を履き、外に出、青葉となった桜並木の下にさしかかった時、僕の視界に見知った人影があった。
ふたり組。うちひとりがこちらを認めた。
「あ!」
嬉しそうな声をあげると、心底からの笑顔を浮かべ手を振り、
「ひぃお兄ちゃんっ!」
こっちへと走ってきた。
ふわふわとした女の子らしい髪の毛。小柄で、スタイルはいいにも拘わらずどこか華奢な印象を受ける。大きな瞳と仄かな桃色の唇が作る笑顔は華やぐようで、なんというかつまり、一般に、可愛い、と形容される部類の少女である──それも、たぶん百人中百人が。
「やあ」
片手を挙げて挨拶すると、彼女は凄まじい勢いでこっちに突進してきて、
「……って、おい、待っ」
「うりゃあっ!」
速度を緩めず、両手を広げて僕に跳躍。
「うわ!」
なんとか受け止めるが衝撃で倒れそうになった。
慌てて慣性を逃がすように、周る。
「あはっ! お姫様ごっこーっ!」
飛びついたままはしゃぐ女の子を抱いて、ぐるりと回転。まるで昔のドラマみたいなベタを演じる羽目になった僕は、下校途中の生徒たちの視線を一身に浴びながらも彼女を地面に降ろす。学校の並木道なのに、ここ……。
「あー、面白かったっ」
「僕は面白くない! 転んだらどうするんだ!?」
「ねえ、ひぃお兄ちゃん、今帰りっ?」
「人の話聞けよ! てか、帰りってそりゃそうだろ昇降口から出てきたんだから」
思わず声を荒げるが、
「やった! じゃあ一緒に帰ろっ? ね?」
凄まじい笑顔で腕に抱きついてくる彼女に、毒気を抜かれた気分になってしまう。
「……、ああ、うん」
次いで、彼女と一緒にいたもうひとりの女性がこちらへゆっくり歩いてきた。
「丁度よかったわ、響ちゃん」
こちらは大人。つまりはこの学校の職員のひとりだった。アップにまとめた髪の毛と細い鼻梁に乗っかった丸眼鏡は理知的なのだけど、如何せん首から下──グラビアアイドルもかくやの色っぽい体型が、そのインテリ的な印象を完全に打ち消している。特に高校生男子が自然と視線をやってしまう部分などは、同世代の女子ごときではとても獲得できそうにない実りっぷりだ。砂時計でも見ているかのようなプロポーションの前には、アップの髪だの眼鏡だのスーツだの、それら清楚なすべてが逆効果なんじゃないかとすら思えてくる。
「これからスーパーに寄って帰るの。晩ご飯の材料。荷物持ち手伝ってくれるかな?」
「いや、それはいいんですけど……」
「こら」
彼女は咎めるように僕の額を指でつつき、
「私は教師じゃなくて家族として話してるのよ? 敬語はやめなさい」
「いや、ここまだ学校ですけど……てか、まだ四時前じゃないか。仕事は?」
「ん? 面倒だからさっさと閉めてきたわ」
「……熱心な保健教師もいたもんですね」
「いいのよ、もう放課後だし」
部活動で怪我をした人はどうするんだと思いつつ、はいはい、と返事をした。
というか下校途中の生徒連中にめちゃくちゃ見られているんだけど。
当然だ。腕に美少女をぶら下げたまま美女に額をつつかれている冴えない少年がいたら、僕だってガン見する。……それはまさにさっき言及した通り、嫉妬と奇異の視線でもって。
とはいえそんな状況でも、僕は嬉しくもなんともない。むしろ肩を竦めるか苦笑するか唇を引きつらせるかしかできないのだった。

僕の腕に抱きついているのは、この学校の一年生。入学と同時に「あの美少女は誰だ」と大騒ぎになり、名前が知れ渡るやあっという間に有名人となった……らしい。
名前を、倉須芽々子。『鏡山高校の女帝』などと呼ばれる生徒会長、つまり姉と対比するように『鏡山高校の姫君』と呼ばれている。
もう片方はこの学校に勤務する保健教師。が、その悩ましくもけしからん容姿から、むしろ保健室に駆け込んだはいいが更に発熱及び失血する男子生徒が続出しているのではないかという噂が絶えない。ただし穏やかで落ち着いた物腰に比して、勤務態度は「めんどくさいわ」だの「あなた仮病でしょ」だの「病院行けば?」だのと実に最悪。そのせいで一周回ってマニアな人気まで獲得しているらしい。
倉須礼兎。こちらの渾名は『鏡山高校の女神』である。……ただし、気まぐれで助けてくれたりくれなかったりする、ギリシア神話的な意味での『女神』。
──そうなのだ。
幾ら倉須リリィが傲岸不遜で鳴らした有名人だったとしても、その義弟であるというだけでここまで注目を浴びたりはしない。
長女、礼兎。
次女、リリィ。
そしてこの春から加わった三女、芽々子。
姉妹にしては似ても似つかない容姿にも拘わらず、方向性の差こそあれ『どうにも目立ちまくってしまう』ことだけは共通している。
そのせいか、既に去年の段階で、倉須家の事情というのはある程度学内に知れ渡っていたそうだ。曰く、血の繫がっていない六人のきょうだいで構成される変な家、と。
おまけに今年の春になって異様な美少女である三人目が入学してきたのみならず、新しく加わった四人目まで転校してきたのである。僕がいくら平凡かつ一般的な容姿と性格を持った人間であっても、目立たずに済むはずはない。
「じゃあ行くわよ、響ちゃん、芽々子ちゃん」
周囲の注目を知ってか知らずか、礼兎が僕らを促した。彼女が歩き始めると、僕らをちらちら見ていた輩が一斉に顔を逸らす。
気持ちはわかる。礼兎は保健教師なので、目が合ったら礼儀的に素通りではいられない。挨拶を交わす必要がある。そしてその状況は、盗み見していた生徒側にとって非常に気まずい。
「はーい」
一方で芽々子は視線にまったく気付いていない様子で、これは彼女の性格のせいだ。
無邪気で天真爛漫、かつ天然。非常識なレベルで人なつこく、しかもスキンシップ過多。さっきの行動も、彼女の中では家族に対するごく普通の挨拶でしかない。
実際のところ、倉須家に来て一カ月ほどしか経っていない、しかも異性である僕に対してここまで気を許せるというのはちょっとおかしいんじゃないかと思うが──こちらもさすがに変な気を起こす訳にもいかない。最近はどうにか慣れてきて、抱きつかれたり甘えられたりしても顔が熱くなる程度で済んでいる。
並木道を歩きながら、芽々子と礼兎が僕を挟んで夕飯のメニューについて会議を始めた。
「れぇお姉ちゃん、今日のおかずなに?」
「なにがいいかしらね。あまり手のかからないのがいいけど」
「じゃあ、ハンバーグがいいなっ」
「あらあら芽々子ちゃん、私の主張は無視?」
「だって、れぇお姉ちゃんってば『手のかからないもの』って言うと、平気でおそうめんとか作っちゃうじゃん。五月なのに」
「五月でもいいじゃない。おそうめん毎日食べてればそのうち八月が来るわ」
「はいはい、ハンバーグ食べてても来ますぅ」
「あら芽々子ちゃん、知らなかったの? ハンバーグを食べても八月は来ないのよ。ハンバーグが運んでくるのは四月だけ」
「またそういうこと言う! ね、ひぃお兄ちゃん、れぇお姉ちゃんっていつもこうなんだよ。適当なことばっか言って。子供の頃、これに騙されて三日間うどんばっかり食べさせられたことあるのよ、私。九月だったかな? うどんを食べないと十月が来ない、とかってさ」
いきなり話を振られたので、問い返す。
「芽々子ちゃんは幾つだったんだ?」
「ええと、確か……」
「六つだったわ」
礼兎が代わりに答えた。
「六つにもなって騙される方が悪いのよ」
にこにこと笑いながら酷いことを言う。
「だってだって! あの時、りぃお姉ちゃんが『確かにうどんは九月って感じね』なんて言うから……。たぁお兄ちゃんもれぇお姉ちゃんのうどんに文句ひとつ言わないしっ!」
『りぃお姉ちゃん』とはリリィのことで『たぁお兄ちゃん』とは倉須家長男、高遠のことだ。幼児語かよと思わないでもないが、芽々子の口から発せられると妙に似合ってはいる。
というか、どうも十年近く前からこの家族はこんな調子だったらしい。揃いも揃って、訳のわからない言葉遊びで人を煙に巻くのを趣味にしている。
「私さ、結局、かぁ……」
と。
芽々子がなにかを言いかけて、不意に口を噤んだ。同時、僕の腕に絡めた両腕が微かにこわばる。……なんだろう?
だけど僕が小さな疑問を覚えたのも一瞬だった。すぐに芽々子は笑い、
「ひぃお兄ちゃんは、私を騙したりなんかしないもん。ねっ?」
より一層、握った両手に力を込めた。
「あらあら」
呆れたように、礼兎が薄い溜息を吐いた。
「芽々子ちゃんは響ちゃんにべったりね。新しいお兄ちゃんがそんなに嬉しい?」
「嬉しいよ、そりゃあ。れぇお姉ちゃんは嬉しくないの?」
「私だって嬉しいけど、響ちゃんは私にとって弟だからね。芽々子ちゃんとは嬉しがり方が違うわ。まあ、作る食事がひとり分増えたのは面倒極まりないけど」
「……悪かったね、そりゃ」
学校に勤務しているのと同様、家でも礼兎の口癖は「面倒」だ。けれど倉須家における家事全般──一般の家庭で母親がやるような仕事はほぼ全てが彼女ひとりに任されており、不思議なことに面倒だ面倒だと言いつつもサボっているところを見たことがない。そうめんのように手抜きは試みても、誰かがハンバーグを主張すればきっちりハンバーグを作るのだった。
「もう、れぇお姉ちゃん。ひぃお兄ちゃんにそういうこと言っちゃ厭だよ」
芽々子は頰を膨らませ、僕を庇う。
「冗談よ。あんまり芽々子ちゃんが響ちゃんにべったりだから、やきもち焼いただけよ。ね、響ちゃん?」
礼兎がこっちに向かってウインクしてきたので、僕はここぞとばかりに笑った。
「まあ、僕もこの季節にそうめんはごめんだし……ところで芽々子ちゃん。礼兎姉さんが嫉妬してるみたいだから、そろそろ宿り木を変えてみたらどうかな?」
「りょーかいー!」
頷いた芽々子が僕から離れ、今度は礼兎の腕にしがみつく。
「いい? 今日はハンバーグだからね!」
「はいはい、わかりました」
健全な仲のいい姉妹のようで、その光景に僕は安堵の溜息を吐いた。
正直、礼兎の助け船は嬉しかった。
道行く人たちの「なにこの浮かれたカップルは殴られたいの?」みたいな呆れた視線と、なにより腕に密着していた非常に気まずい感触に、僕はほとほと困り果てていたのだ。
礼兎だけではなく、芽々子もかなり発育がいい。血の繫がりはないのだから、そこは姉に似なくてもよかろうに。
3
倉須家の夕食は午後八時きっかりに始まる。
少なくとも僕が家族の一員になってからこっち、このルールが破られたことはない。もちろん、なんらかの理由で全員が八時に揃わないことはある。が、誰がそうなろうと、食事の開始時間を遅らせようというつもりは家族の誰にもないようだ。
奇妙と言えば奇妙な風習だが──家長というものが存在せずきょうだいの間にも上下関係がないこの家では、それが合理的なのかもしれない。
とはいえ、今日は全員が揃っている。
多少ひなびた住宅街にある築二十年の一軒家。決して新しくはないがボロボロな訳でもないその家に住む七人が、キッチンと食卓を兼ねた部屋に集まっていた。
四角いテーブル、上座の一辺に腰掛けているのは長男の高遠だ。
金髪にピアスに派手なシャツとチンピラみたいな装いをした彼は、外見とは裏腹に一家の家計を支える大黒柱。だが非常に困ったことに、僕は彼がなんの仕事をしているのかよく知らないのだった。というか僕だけではなく、家族全員が知らないらしい。ひょっとしたら今日のハンバーグも、どこかの子供を旧共産圏に売っ払った対価であるかもしれない。
……まあ、長女の礼兎だって働いている。ハンバーグの材料はそっちの稼ぎで買ったと思えば美味しく食べられるだろう。
彼の対面、炊飯ジャーを置いたキッチン台に最も近い位置は彼女の席だ。
高遠を父親代わりとするならば、礼兎は母親代わりといえる。実際、家族の中で高遠と礼兎のふたりだけが成人を超えていた。
角を挟んで礼兎の右は、次女であるリリィの指定席。現在不機嫌そうに黙々と食事中である彼女──まったく世の中のなにが気に入らないのかさっぱりだ──の隣に、先月から次男になった僕は椅子をもらっている。
そして僕らの対面に並ぶのが、残り三人。
まずは僕の真向かい、三女の芽々子。自分が希望した通りの夕食であるハンバーグを、まるで子供のようにがっついている。
彼女の右隣、僕の斜め前で箸を動かしているのは、稜。現在中学二年生、十三歳なのだが──こいつは恐らく、倉須家の中でも最もわかりやすい変わり者だろう。
なにせ、性別がはっきりしない。
ボブカットにヘアピンを幾つかあしらった髪型。ゆったりひらひらとしたワンピースにカーディガンを羽織ったその装いは、女性のそれである。顔立ちも可愛らしく、知らない者が見れば、間違いなく女の子と判断されるはずだ。
ただ、戸籍上の性別は紛う事なき男性である。……肉体的にも、たぶん。裸にひん剝いたことはないので自信はないけど。
というかあまりに見事な女装なので、見ているとちょっとなにかがわからなくなる。
私服通学可能な私立中学に通っていると聞いているが、学校でどっちとして扱われているのかを僕はまだ知らなかった。家の中での扱いは、時と場合に応じて──つまり家族の気分や都合で四女だったり三男だったり。
で、稜の性別がはっきりしないことのとばっちりを最も受けているのが、時々五女で時々四女、つまりは末っ子の耶衣である。
席は稜の隣、角を挟んで礼兎の左隣。ちょこんと座って、現在ハンバーグの付け合わせであるニンジンと格闘している彼女は小学六年生だ。
仰々しいフィルムカメラをいつも首から提げていてよくそれでぱしゃぱしゃ写真を撮っているのだけど、その年齢に似合わない趣味を除けば、まあ比較的普通の娘だと思う。
ともあれ以上が、今の僕の家族という訳だ。
引っ越してからこっち、住んでいた場所や枕が変わったことにはいい加減に慣れた。が、日々繰り返される生活ごと、つまりは食事や入浴なんかの時に発生するその家庭ならではの細かな差異については、やはりまだ若干の違和感がある。
たとえば僕が生まれ育った家では、基本的にテレビを点けっ放しで食事をすることが多かった。こちらは違う。食卓は台所にあって、そこにはテレビが設置されていない──もっとも、そもそもこの家ではテレビを見るという習慣自体がまったく普及していない。芽々子が一年前に商店街の福引きで当てた居間の三十二インチは、僕が前の家からゲーム機を持ち込んで初めて家電製品として機能し始めた。
そのせいか食卓はかつての園村家に比べると静かだ。交わされる言葉が「いただきます」と「ごちそうさま」だけであることも少なくない。しかし──これがまた、なかなか慣れない悪習なのだが──時折なにかが切っ掛けになって、きょうだいたちが食事もそっちのけに訳のわからない会話の応酬を始めてしまうことがある。
今日は、そういう日だった。
食事が終わりかけようとしていた頃。
稜がふと、妹にして末っ子である耶衣の肩を肘で軽くつついた。
「おい。ニンジンでいつまで遊んでるんだ?」
咎めるような口調。喋り方は男っぽくもあるのだが、高めの声と容姿のせいで、男勝りの女の子、みたいな印象を受けてしまう。
「ニンジンは、嫌いなのです」
それに対し、唇を尖らせる耶衣。子供らしい仕草で素直に可愛らしい。
「好き嫌いしちゃ駄目だろ」
「オレンジ色など人間の食べ物ではありません。それに、稜くん。ニンジンってどう書くか知っているですか? 人が参ると書くですよ。耶衣は参りました。降参です」
年に似合わず小癪なことを言う。
困ったな、という顔をして家族の顔を眺める稜。
それへ応えるように、リリィがを耶衣を一瞥した。
「降参ってことは、あんたはそいつに負けたのね、耶衣。……いいこと? そいつはただの野菜よ。まあ礼兎の愛情とか調味料とかそういうのも混じってるけど、本質的には野菜でしかないわ。そして、人は野菜には決して勝てないの。そもそも勝負する対象ではないからね」

……なんだそりゃ。
リリィは箸を置き耶衣の目を真っ直ぐに見て、微かに笑って告げた。
「あんたは今、勝てないものと対峙しているの。だったらせめて決して負けてはいけないわ」
わかったようなわからないような理屈だった。
「あの、リリィ姉さん」
たまらず僕は隣の姉に疑問を呈する。
「ちょっと尋きたいんだけど、そう言うリリィ姉さんはどうして今に至るまでニンジンにまったく手を付けてないのかな」
「嫌いだからよ。こんなもの人間の食べ物ではないわ」
言い切りやがった。
「いやいや! あんた今耶衣ちゃんになんて言った!?」
「礼兎も随分と手を抜いたものね。付け合わせがニンジンだなんて」
「しかも礼兎姉さんにまで飛び火した!」
礼兎が穏やかな口調で応えた。
「ふふ、ごめんなさいね、リリィちゃん。ぶっちゃけ余ってたのよニンジン」
「え? 栄養のバランスとか、そういうんじゃなかったの……?」
呆然と呟く芽々子。
どうやら自分の好きなメニューに手を抜かれたのが軽くショックだったようだ。
「ええ。それどころか多少怪しいわ。賞味期限的に」
対して礼兎は容赦がない。家族全員に。
「おい、僕もう食べちゃったぞ!」
「ちなみにぼくは知ってたよ。作るの手伝ったから」
稜がいきなり告白した。
「大丈夫、傷んでた部分は男どもの皿に入れたから。ぼくはフェミニストなんだ」
しかも自信満々だった。
「わあ、稜くんは優しいなー。そういう気遣い、女の子にもてるよっ」
つい数秒前のショックから鳥頭で立ち直り、芽々子が見当違いな感心を送る。
そもそも、稜は女の子にもてて嬉しいのだろうか。自分自身の外見が完璧に女の子なのに。それもそんじょそこらの女の子じゃ敵わないくらい可愛いのに。
「いや、ちょっと待ってくれ稜くん。その『男ども』って間違いなく自分入ってないよね? 僕と高遠兄さんだけだよね?」
「おやおや、ニンジン傷んでたのか。全然気付かなかったな」
高遠が肩を竦め、
「あんたはそうでしょうね。礼兎の作ったものなら傷んでるどころか腐乱してても文句言わずに食べるもの。まったくパブロフも真っ青だわ」
リリィが高遠を見遣る。僕のことは無視だった。
と、それまで黙っていた耶衣がニンジンをじっと睨み付けながら、
「……、わかりました、リリィ姉さま。耶衣は頑張ります。こんな奴には負けません」
力強く頷く。
「覚悟するのがワンテンポ遅いよ耶衣ちゃん!」
思わずつっこんだ。
「ていうか騙されてるから。気付こうよ今の会話の流れで!」
「いい心がけだわ。しっかりやりなさい」
「やっちゃだめだろ!」
──もういいや。
疲れてきたので、僕は追及をやめることにする。
こいつらに付き合っていると、いい加減食べ終わらない。
会話に加わるのを諦めて、ハンバーグの最後の切れ端を箸で突き刺し、残ったご飯と一緒に搔き込んだ。溜息を吐く代わりにコップの麦茶を一気に飲み干すと、僕は「ごちそうさまでした」と手を合わせてから立ち上がる。
「あ、先にお風呂入ってね」
礼兎がそんな僕を見て事務的に告げ、
「あ、響にい、後で対戦な」
昨日の大敗の雪辱を忘れていなかった稜が、逃げるなよと言わんばかりに僕を指差した。
※
さて。
そんなこんなで、食事に入浴、稜に付き合ってゲームなどしつつ学校の課題を適当にこなしていると、いつの間にか夜は更ける。
午後九時を過ぎて、僕は自分の部屋──驚いたことにここへ来てすぐ個室が与えられた──で一息つきながら、今日一日の出来事を日記としてパソコン内のテキストファイルに打ち込む、という地味な日課をこなしていた。
文章自体は単純かつ簡潔なものだ。起きた時間とか、昼食はなにを食べたかとか、夕食後になにをしたかとかを、できるだけ短く。その時その時の心情をだらだらと書き連ねたりもしない。本当にただの記録。
ただ、文章を記している時には多少、いろいろと考えてみたりもする。
たとえば自分のこれからのこととか。
血の繫がらない、親なしの七人きょうだい。状況からして充分以上に変哲な家庭である倉須家のメンバーとなって一カ月強が経つ。多少の騒がしさにやや辟易することもあるし彼ら彼女らの風変わりな性格についていけなくなることも多いけれど、僕はこれからもこの家で、どうにかこうにかやっていけそうな気がする。
つまり『倉須響』の日常は、大きな失敗もなくなんとか上手く回りつつあるということだ。
もし、問題があるとするなら──。
こん、と。
不意にノックの音がした。
「はい」
返事をするのとほぼ同時、つまり僕の確認をまったく待たずにドアが開く。
慌ててパソコンから視線を離し、そこに立った人影に顔を向けた。相手は案の定、
「……リリィ姉さん」
僕は僅かに緊張する。
キャミソールにジャージ。リラックスした格好でありながらもどこか異質な空気を漂わせているように見えるのは、彼女特有のオーラみたいなもののせいか。それとも僕が、風呂上がりの異性そのものに慣れていないせいだろうか。
まだ乾ききっていないまま後ろでまとめた髪を気にする風にうなじを弄んだ後、リリィは腕組みをして僕と、それから部屋の中をじろりと一瞥した。
「ええと、なにか用?」
僕の質問に答えず、
「ふうん」
彼女は視線を移ろわせた。
「あんた、うちに来てどれくらいだっけ?」
そんなことも覚えてくれてないのか。
「一カ月とちょっとだよ」
答えると、
「一カ月とちょっと? それって何日?」
「ええと、三十七日」
手元の日記ファイルを確認して答えた。
「あっそう」
リリィは納得したように頷くと、
「三十七日ね。そう。三十七日といえばちょっとしたものだわ。単純計算でも週末が五回は来てるってことだものね」
再び問うてくる。
「で、あんた今はなにしてるの? 課題?」
「日記書いてたんだよ」
「へえ、日記。それはまた変わった習慣ね」
「……日記を変わってるっていう感性の方が変わってる気がするんだけど」
全人類共通の、実にポピュラーな習慣だ。
けれど僕の混ぜっ返しに、リリィはぴくりとも笑わない。それを無視し、
「週末が五回。今も学校の課題やってるでなし。時間はたっぷりある。だけどあんたは部屋でくつろいで、日記を書いてる、か」
まるでひとりごちるように呟いた後、再び僕へと視線を戻した。
僕はびくりとする。
リリィは、何故か。
眼を細くし声を低くし、怒ったような声で、言ったのだ。
「あんた、まだそれは開封しないの?」
僕の部屋の隅に積み上がった──幾つかの段ボールを指差しながら。
「……え?」
思わず問い返した僕に、
「なに、聞こえなかったの? もう一回言いましょうか?」
「あ、いや。違う。聞こえたよ」
そうじゃない。
僕が驚いているのは、もっと別の理由だ。
つまり、理解できなかったのだ。
何故彼女が、僕を咎めているのかが。
こんなくだらないことに対して怒る理由はなんなのだろう。たかが部屋を片付けていないくらいで。しかも段ボールが積み重なっているだけ。ゴミを散らかしている訳でもない。怒られる謂われがどこにある?
あるとすれば、それは怒られる謂われではなく、怒る謂われ、口実。
つまり、僕ではなく彼女が──、
「ま、いいわ」
こっちが沈黙しているのをどう判断したのかはわからない。
けれど一方で、もはや話をする気もないようだった。リリィはこちらを罵倒する訳でもなく、細くした眼で僕をじろりと鋭く睨みつける。そしてそのまま「おやすみ」というそっけない挨拶とともに扉を閉めた。
去っていく足音が微かに聞こえ、僕は大きく溜息を吐いた。
「……やれやれ、だよ。まったく」
ひとりごちる。
本当に冗談ではない。
そう。問題があるとするなら、まさしく彼女、倉須リリィだ。
僕の新しい家族たちは、おしなべて僕に友好的だ。長兄の高遠と長女の礼兎はもちろん、下にいる三人の妹と弟たちも。ここへ来てたった一カ月だが、歓迎してくれている、と感じる。
だから、リリィだけなのだ。
彼女の態度はちょっと冷淡過ぎる気がする。無闇に高圧的で、かつ横暴で──いや、そういった性格は誰にだって同じだと言われれば確かにそうなのだけど、僕に対してはもっと違う感情が、更に加算されている気がするのだ。
学校でのパシり扱いも気になるが、今のような態度はそれ以上にいい例だろう。ああいった訳のわからない言いがかりは、まさにその感情によるものだったのではないか。
希望的に解釈すれば、僕が家に来て日が浅いせいかもしれない。或いは彼女が単に、僕との距離を未だ測りかねているのかもしれない。
でもそんなふうに前向きな結論を出そうとしても、不安が勝ってしまう。
だいたい、もし僕のことを好意的に見てくれているのであれば、ついさっきのような態度を取ったりしないはずだった。
それは恐れと言っていい。
僕は、恐いのだ。
そうだったらどうしよう、と思うのだ。
なにせ、僕にはもう行き場所がない。両親が死に、以前住んでいた家も処分してしまった。僕の持ち物はこの部屋にある荷物たちと、あとは通帳に記帳された幾ばくかの数字だけ。それらをあてにしてたったひとりで暮らしていくことはとてもできそうになく、だから僕はこの家で上手くやっていくしかないのだ。
そんな思いが──どうにか上手く、みんなと友好的にやっていきたいという僕の願いが──彼女には届いていないのではないだろうか。
つまりはっきりと、有り体に言うと。
彼女はひょっとしたら、僕のことが嫌いなのかもしれなかった。
※
僕のそんな不安と予想は、当然というべきか必然というべきか、間を置かずして形になってしまう。それはリリィとの問答があってから三日後、朝のことだった。
4
夕食とは見事なほど対照的に、倉須家の朝にはおよそ統制というものが存在しない。
長女にして家事の一切を取り仕切っている礼兎は、毎朝六時に起床し朝食を作る。が、朝食は基本的に早い者勝ちで、おまけにこのきょうだいたちはどうも朝の食事を詰め込めるだけ胃に詰め込むことが健康の秘訣だとでも勘違いしているらしく、起床時間が遅ければ鍋の中に入った味噌汁やら人数分作られた目玉焼きやらは──人数分という触れ込みが噓であるかのように──影も形もなくなってしまっていることが多い。
つまり必然、自分の食い扶持は自分で確保しなければならなくなる。
とはいえ家族の起床時間は実にまちまち、かつ全員が気まぐれで、台所兼食卓である十畳間が七人のきょうだいで埋まることは滅多にない。大概はふたりか三人が一緒になって食事をする期間が一時間ほど続き、最後のひとりふたりがろくな食事にありつけず悪態をついて終わり、というのが毎日の習慣となっている。
その日、時刻は午前七時ちょうど。目を覚まし、さて今日は朝食が残っているかなと思いながら台所へ入ってきた僕を出迎えたのはふたりの妹たちだった。
芽々子、それから耶衣である。
朝であろうとお構いなしにまるで自分の身体の一部であるかのようにカメラを首から提げた彼女は、もう既にご飯を食し終わっているようだ。目の前に置かれた空っぽの食器を横目にオレンジジュースをこくこく飲んでいた。その隣に座った芽々子はまだ食べ始めたばかりらしい。パンにジャムなどを塗りつけている。
おはよう、と声をかけつつ、視線をテーブルに遣る。
今朝のおかずはベーコンエッグのようだが、それが盛りつけられてラップがかかった皿は芽々子が確保している分を除けばあとひとつきりしか残っていない。誰かが調子に乗ってふたり分以上食べていなければつまり僕が最後のひとりとなるのだが、
「おはよう」
背後から挨拶があった。
振り返るまでもなく誰だかわかる──愛想の皆無な、まるで無意識に冷たさを刺すような声に、僕は心中でだけ肩を落としつつそれでも背後へと向き直る。
「おはよう、リリィ姉さん」
「あら、今日はあんたがラストの滑り込みなのね。私はアウトって訳」
既に制服を着込んだリリィは僕と食卓の上にあった皿を見比べながら不機嫌そうに言った。
確かに、朝食は早い者勝ちというこの家のルールに従えば、最後に残ったひとつはこの僕のものであり、リリィは『ろくな食事にありつけず悪態を吐く』役回りとなる。
だが僕は、それがとても厭だった。
たった今発せられた「今日はあんたが滑り込みなのね」というひと言にすら、棘を感じたのだ。これでリリィを差し置いて食卓のベーコンエッグを食べでもすれば、なにを言われるか。
そうだ。
こんなくだらないことで彼女の機嫌を損ねる必要はどこにもない。仮にリリィが僕に悪感情を持っているとしたら尚更だ。言い方は悪いが──嫌う口実を与えたくはなかった。
だから僕は、言った。
「僕は今日、食欲がないんだ。リリィ姉さんがそれ食べていいよ」
できる限り自然な、笑顔で。
対するリリィは一瞬だけきょとんとした。もちろん彼女なりの、どこか冷たさのある表情の範囲内でではあったけれど、僕にはそう見えた。
そして、次の瞬間。
僕は自分の目論見が成功したことを確信する。
「あらそう」
目が細められ、同時に唇が弧を描き、
「それは殊勝なことね」
彼女は、笑ったのだ。
──なんだ。
安堵の溜息と同時、こんな簡単なことでよかったのか、と微かに呆れる。
考えてみれば、昼間の焼きそばパンもこの方向性だ。要するにリリィの機嫌を構成する要素の殆どは食欲によるものなのだろう。思いの外単純な人だった。一見どうしようもなく気難しそうに見えて、実のところ彼女を手なずけるための最善は食べ物でご機嫌を取っておくことであって、それを続けていればきっと僕は彼女に取り入ることができると、そういう訳で──、
よかった、と思いつつ僕は、彼女に譲った朝食が載っているテーブルを漠然と見る。そしてそこに座った妹ふたりに視線を移し、
「……ん」
そこで、きょとんとした。さっきのリリィと同じように。
耶衣と芽々子は、同じ顔をしていた。
即ち、呆然。
耶衣に関しては基本的にあまり表情の動かない子なので普段との区別が多少つけにくいが、芽々子のそれは顕著だった。
僕の知る限り彼女はいつも天真爛漫で、およそ笑顔以外の表情を滅多に出さない。こういう状況であれば、リリィに対して「よかったねりぃお姉ちゃん! 今日はダイエットだなんて強がらなくて済むよっ」なんて無邪気に言ったりするのがいつものパターンだ。
なのに、そうしない。
それどころか、
「耶衣ちゃん、芽々子ちゃん……?」
顔面が蒼白だ。唇が微かに震えてさえいる。視線は僕を見ていない。
ふたりとも、だ。
ふたりともの眼が僕の背後にいるリリィに固定されていて、そして姉を見るその表情は紛れもなく──恐怖、だった。
「や、やややや耶衣ちゃんっ!?」
と、突然。
「そろそろ学校行く用意しよっか!」
ネジを巻いた直後の玩具のように芽々子は立ち上がり、硬直した声で耶衣にそう告げると幼い妹を殆ど無理矢理に立たせる。耶衣はともかく、芽々子自身は食事の途中であるのに。
「じゃあごちそうさまっ!」
僕が啞然としているのを後目に、芽々子は耶衣を引き連れて台所を出て行く。引き留める間もなかった。あっという間だった。
「ねえ、響」
そして妹ふたりが去っていったのとほぼ同時、リリィが僕の名前を呼んだ。
「あの、今の……」
ふたりの様子はいったい、と問おうとする僕。
それに先んじて、
「なんで芽々子と耶衣が慌てて出て行ったか、あんたにはわかるかしら?」
「いや、それは……」
リリィは言った。
「私が笑っていたからよ」
振り返った先の彼女は、言葉通りの顔をしている。
眼を細め、唇を弧に、それは笑顔以外の何ものでもない。
「でも、それくらい……」
「そうね。私だって人間だもの。可笑しい時は笑いもするわ。でも、どういう訳かしらね? 自分でもちょっとばかり変わっているとは思うのだけど……」
そこで、僕は気付く。
気配、だ。
確かに彼女は笑っている。
けれどその顔からは、親しみや愛嬌など微塵も見受けられなかった。
それどころか、まったく逆の──。
硬直した僕へ破顔とともに言葉が告げられた。
「……私はね、響。
怒った時も、笑顔になるのよ」
怒る?
怒っている。
リリィは──怒っていた。
「でも、なんで」
「それは何に対しての疑問? 芽々子たちが私の怒りに勘付いたことに対して? それとも、私が怒っていることに対して? ……まあどっちでもいいわ。答えの根っこは同じだものね」
一歩、こっちへと近付いてくる。
それだけで身が竦んだ。恐怖なんてものじゃなかった。
このまま殺されてしまっても不思議ではないような気さえした。
「私がここまで怒ることは滅多にないし、たぶん他人は私が怒っても、そのことに気付きもしないでしょうね。なにせ笑ってるんだから」
リリィは淡々と言う。
笑顔で。可笑しそうに。
それ故に、怒りを込めて。
「でも、耶衣も芽々子も見分けくらい付くでしょうよ。……家族なんだから」
家族だから見分けが付く。
家族であれば自分の感情は察してくれる。
それは裏を返せば、僕は──彼女の機嫌が悪いことに気付いていなかった僕は──つまり、
「そうよ。家族なのよ、私たちは」
「僕は……家族じゃない、って?」
喉を震わせながらの僕の問いに、リリィは答えない。
答えず、続ける。
「笑顔か。笑顔ってのは便利よね。いいえ、笑顔に限らず表情ってのはまったく便利だわ。自分の本当の気持ちを誤魔化してくれるもの。私はね、響。だから自分のこの癖が好きじゃないの。だって怒ってるのに笑ってるなんて、まるで莫迦みたいでしょう? どうして感情を誤魔化す必要があるの? 私にはもうそんな必要ないっていうのにね。……でも、なかなか抜けないのよ、これが。参ったもんだわ」
訳のわからない言葉。
「だから本当は、あんたを責める資格なんて私にはないのかもしれないわね」
僕には意味不明。
家族じゃないから──理解できない?
「今日で四十日よ、響」
リリィは話題を変えた。
銃口を僕に向けたのだ。
「四十日といえばそりゃあちょっとしたもんだわ。なにしろもう一カ月はとうに過ぎてる訳だしね。それ、自分で理解してる?」
「なにを……言ってるんだ」
リリィは絶叫した。
「へらへらしてんじゃないわよ!」
不意に。
唐突に。
もはや顔は笑っていなかった。機嫌が直った訳ではまったくないことは自明だった。単に怒りが極限に達し、誤魔化せなくなったのだ。
僕へ一歩近付き、制服の胸ぐらを摑み、女とは思えない握力でねじり上げてくる。視線は凍てつく炎。僕を凍らせながら焼こうとしているかのようだ。
「あんた、なに笑ってんのよ。笑ってなんかいないくせに。ちっとも可笑しくなんかないくせに。私にわからないとでも思ってんの?」
見通しが甘かった。
気に入られようとか、取り入ろうとか、そんな考え自体が見当外れだった。
まさかここまで、嫌われているなんて──。
「もういいわ」
苦痛に歪む僕の顔を睨み付けながら、リリィは手を離した。まるで、突き飛ばすように。
「高遠や礼兎は『時間が解決する』だとか吞気なこと言ってたけど、私にはそう思えないもの。だから、強硬手段に出ることにするわ」
尻餅をついてしまった僕を一瞥すると、踵を返す。台所を出て、そのまま玄関へ。扉を開け、制服姿にサンダルを突っかけて外へ出て行ってから数分。訳もわからず廊下で待ち構えていた僕は、戻ってきた彼女を見て仰天する。
行き先は庭にあった物置だったようだ。
スカートの裾を埃で汚しながらリリィはそれを探し出し、そして持ち帰ってきた。恐らくは長兄の高遠がかつて使っていたものだろう。
金属バットを持って、玄関へあがってくる。
「ちょ、っと……」
「どきなさい」
僕が動く前に僕を押しのけ、廊下を突っ切り階段へ。
背後を見もせずにのぼっていく。どこへ行こうとしているのか。僕は厭な予感がした。
だから足をもつれさせながら、それでも彼女を止めることはできずまるで腰巾着のように後を追い、辿り着いた先は案の定、
ばぁん、と。
僕の部屋のドアを、リリィが開けた。まるで蹴破るように。ドアノブがたぶん壊れた。
「ちょ、っと……ちょっと待てよっ!」
さすがに僕も慌て、彼女の肩を摑む。
首だけで振り返って僕を睨み付けるリリィ。
「その顔、あんたの本心?」
「……え」
「さっき言ったでしょう。ここに来てからこっち、あんたまだ誤魔化しの表情しか見せてないのよ。へらへら笑うのも、うんざりしましたって顔で迷惑ぶるのも、全部ポーズ。じゃあその焦りは? 本心? それともやっぱりポーズなの? ……私に教えてくれないかしら」
「……っ!?」
止める暇はなかった。
僕の手をあっさりと振り払い、リリィは金属バットを両手に持つと、背後の僕に頓着せず、それこそ見事なまでのフルスイングで──僕の部屋の隅に積み重なった段ボールのひとつを、
豪快にぶん殴った。
けたたましい音とともに段ボールは床へ転がり落ちる。封が開き、中身がこぼれて散らかった。それはかつての自分の部屋から持ってきた私物たち。前の学校で使っていた教科書類と、漫画本、それからCD。CDはケースの幾つかが割れていた。
僕はなにも言えない。
啞然として、呆気に取られて、いや──なんだろう、これは、この感情は、
これは、なんだ?
「まだなの?」
リリィが意味のわからないことを言い、その段ボールをぞんざいに蹴飛ばす。
中身が更に散らかるのを踏みつけながら、再びバットを振るう。
今度はあからさまな破壊音。食器類の入っていた箱だ。
こっちでも使うかと思ったらこの家にはもう僕のものが用意されていて、だから仕舞ったままにしておいたもので、確かにもう使わないかもしれない。
でも、
「……や、」
次のスイングで破壊された箱から転げ出たのは、デジタルカメラだった。写真を撮る気もなかったのでそのままにしておいた。
でも、それは僕が、
「……め、ろ」
去年、お年玉で買ったものだ。
父さんと母さんからもらったお年玉で購入した、僕のカメラだ。
「ふん」
転がった機械をつまらなさそうに一瞥し、リリィは再びバットを、今度は上段に構える。
狙いを定めたのは、三番目の段ボール。
その中に入っているのは、
──あれは、あの箱は。
「……やめろおっ!」
今にも振り下ろされようとしていたリリィの腕を摑み、僕は──ついに怒鳴った。
「ふざけんじゃねえ、このバカ女っ!」
力任せに引っ張る。
それから彼女の手首を取り、バットを奪ってから背後へ放り投げる。さっき彼女が僕にそうしたように──胸ぐらを摑み、そのまま部屋の壁へと押しつけて、大声で詰め寄った。
「その箱に触るなっ! 冗談じゃない、こっちが遠慮してりゃいい気になりやがって!」
理性が飛んでいた。
もはや相手に遣う気など欠片も残っていなかった。
だって。こいつが破壊しようとしていた段ボールに入っていたのは、
「それは……」
引っ越しの際──すべては持って行けないというつらさの中──僕が最低限これらだけはと選んだ、何冊かの本とか、指輪とか、写真とか、
つまり、
「あんたが、他人のあんたが触っていいもんじゃないんだよっ!」
父さんと母さんの、形見だ。
「冗談じゃねえよ。なんなんだよ! 僕の……僕の大事なものを土足で踏みにじって楽しいのか!? そんなに僕が嫌いなのか! だったらはっきりそう言えよ! あんたにここまで毛嫌いされてまでこの家にいようとは思わない!」
もう止まらなかった。
つい三日前まで考えていたこととはまったく逆だ。ここを追い出されたらもう居場所がないだとか、そんな気持ちは失せていた。
だって、同じじゃないか。
こいつに気を遣って縮こまって、こんな嫌がらせをされても黙って耐えるなんて──それは、遺産目当ての親戚に引き取られて暮らすのとどう違う? 同じだ。変わりやしない。
相手が女の子だということも忘れ、僕はリリィの胸元に力を込める。
このまま殴ってやろうかとすら思った。
けれど彼女は、苦しそうな表情を一切見せなかった。それどころか、さっきと同じ──不機嫌に冷淡を上塗りした眼で、僕を睨む。
「ようやく怒ったわね」
「……なにを」
そう──さっきからだ。
こいつは、いったいなにを……。
「でも、まだよ。あんたはまだ、怒っただけ」
僕の頭の隅に湧いた疑問に答えるかのように、或いは答えないかのように。
「『他人のあんた』か。それがあんたの本心って訳」
リリィは淡々と、言った。
「……で、あんたは今まで、それを隠してた。隠してて、私たちと家族になった振りをしてた。それ、気付かれないとでも思ってたの? このままずっとこの調子で、上手くやっていけるとでも考えてたの? だったら随分と侮られたものだわ」
彼女の胸元を摑んだ僕の手が緩む。対してリリィの右手、五指が、僕の首へと触れる。
撫でるように。
絡めるように。
「いい? よく聞きなさい、響。あんたは私たちのことを……私のことを他人と思ってるかもしれないけど、私は違うのよ」
絞めるように。
──しめる。
抱き締める、ように?
「本当にこの家で上手くやっていきたいっていうんなら……受け入れてもらおうと思ってるなら、私たちのことも受け入れなさい。私たちはとうにそうしてんのよ? 高遠も、礼兎も、芽々子も、稜も、耶衣も。それなのにあんたの部屋は、開封できない段ボールに埋もれて、いつまでも過去に閉じこもって、うじうじして」
声に優しさはない。
それどころか怒りが感じられる。
いや、最初から怒っていたのだ。
その原因は、たったひとつ。
最初から、たったひとつ。
「僕、は……」
僕が嫌いなのではなくて、
「ふざけてるんじゃないわ、響。何回でも言ってやるわよ、あんたがふざけてる限り」
僕を、僕のことを、
「段ボールも開封できずにいるくせに、へらへらして。感情を押し込めて、そこから逃げて。冗談じゃないわ。この私にはちゃんとわかっているのよ」
つい一カ月前まで他人だった僕のことを、
「怒ってないだけじゃない。あんた、うちに来てから……いいえ、あのお葬式から……泣いてないでしょう?」
僕のことを、見抜いていたから。
「……あ」
「形見を壊されそうになって怒るくらいなら、どうして泣かないのよ。……あんたの両親が、お父さんとお母さんが、死んだのよ?」
言われ、僕は、声を震わせる。
「だ、って」
だって、あまりに急だったから。
悲しみに浸る余裕なんてなかった。
突然の事故で呆然としているうちに通夜と葬式が終わり、僕の処遇をどうするかの話が親戚連中の間で持たれて、そしたら高遠とリリィがやってきて、新しい環境は僕のことなんか欠片も知らない人たちだらけで、
「だって……僕は、僕のそんな気持ちをあんたたちに言ったって、仕方ない……じゃないか」
「そりゃそうよ」
僕の呟きに、リリィはあっさりと首肯する。
「あんたは実の親を亡くしたんだから。その思いがあんたじゃない私たちに理解できるはずもないわ。でもね……それを言うなら私たちだってそうなのよ。みんな、実の両親と別れてここに来たの。死別したり、最初から見たこともなかったり、親とも思えないような酷い仕打ちを受けたりしてね。あんたにはその気持ちが、ひとりひとりの気持ちがわかるの? わからないでしょう?」
まるで吐き捨てるような口調だった。
けれどもう、僕には理解できた。
これは悪意でも嫌悪でもない。倉須リリィという少女の、ありのままなのだと。
「でも、わからないからって、理解できないからって……私はあんたじゃないけど、もう私はあんたの姉なのよ? 家族の痛みとか悲しみとかを放っておいて平気な人でなしは、この家にひとりもいやしないわ」
「あ、ね……」
姉。家族。
リリィははっきりと、僕にそう言う。確信に満ちた、高慢にすら見える断定で以て。
「お父さんとお母さんが死んで、弟が悲しんでる。なんで私はそれを黙って見てなくちゃいけないの? そんなのごめんだわ。ええ、ごめんね。厭よ。我慢できるもんですか。私は高遠や礼兎みたいな奥ゆかしさも、芽々子や稜や耶衣みたいな遠慮も持ち合わせちゃいないのよ」
──いつの間にか。
僕の視界は、ぼやけていた。
目が熱い。
頰が濡れる。
呼吸がままならない。
そして、
前が見えないのはそれだけではなくて。
「っ、……」
僕は──その場にへたりこんで泣き濡れながら、リリィの胸に強く抱き締められていた。
リリィは問う。
「お父さんは優しかった?」
生まれてからずっと、つい一カ月前までは確かにあった──父と過ごした、些細な日常。大概は無言で、中学に入って以降はあまり話すことがなかったけれど、それでも言いたいことは顔を見ればわかった。
その思い出を、記憶から掬うように。
「お母さんのこと、好きだった?」
脳裏に浮かぶのは、後ろ姿だった。キッチンに立って食事を作っている。そして、おかずのいい匂いと一緒に振り返る母。子供の頃から何度も見てきた光景。一番好きだった瞬間。
その思い出を、記憶から救うように。
「……うん」
僕は頷いた。
泣きじゃくりながら。
「そう」
リリィは、僕の背を軽く叩く。
「悪いけれど、私はあんたの父親でも母親でもないからその代わりはできないわ。もちろん、高遠たちにもね。でも、あんたには新しくきょうだいができたのよ。兄さんがひとり、姉さんがふたり、妹がふたり、弟だか妹だかよくわからないのがひとり。それ、自分で知ってる?」
ぶっきらぼうに。
けれどはっきりと、言った。
「私はあんたの姉なのよ。姉っていうのはね、弟を守るのが仕事なの。だから私は、あんたを守ってあげる。すべての災難から、すべての不幸から、すべての悲しみから、あんたを全身全霊で守ってあげるわ。そのためならね、私は死んだって構いやしないのよ」
ふと、思い出した。
あの日、葬式の後。
親戚連中の、遺産と養育費に関する口さがない議論を止めてくれたのは誰だ?
あの醜くもくだらない彼ら彼女らの視線を一喝し、僕を守ってくれたのは誰だ?
──ああ、そうか。
ようやく、気付く。
リリィは──この人は──リリィ姉さんは。
あの日、もうとうに、僕を弟にしてくれていたのか、と。
「だからあんたはその代わり、私に焼きそばパンを買ってくるの。姉のために焼きそばパンを全身全霊で手に入れる、それが弟の役目なの。わかった?」
だから弟の僕を、学校でこき使った。
だから弟の僕が、この家に馴染もうとしないのが許せなかった。
だから弟の僕に、朝食ごときで遠慮して欲しくなかった──。
「わかったなら顔を上げて泣き止むこと。怒って、泣いて、後は笑った顔を私に見せるのよ」
「すぐには無理だよ」
どうにか顔を上げるも、涙でぐしゃぐしゃだ。
なにより胸に顔を埋めて泣きじゃくるなんて真似をした身、恥ずかしくて仕方ない。
とりあえずは涙を拭き、それから彼女の制服を涙で汚してしまったことを謝ろうかと一瞬だけ思い、すぐにやめた。
だってそれは、まるで他人みたいだったから。
「さ、部屋を片付けなさい」
立ち上がったリリィ姉さんはもはや何事もなかったかのようにスカートを整えると、容赦のない命令を僕に下す。
「もう七時半じゃない。急がないと遅刻するわ。生徒会長が遅刻なんて許されない事態よ」
「……散らかしたのは姉さんじゃないか」
取りあえず文句を言ってみると、
「大丈夫よ、どれも致命的には壊れてないから。手加減したもの」
実に頼もしい応えが返ってくる。
だから僕は、やれやれと溜息をひとつ吐いてから。
床に散らかったものをとりあえず拾い集め、机の上に置く。
リリィ姉さんはそんな僕を黙って見ている。
手伝おうとはしない。
代わりに、遅刻しそうだから先に行くだなんて決して言わない。
その距離感が心地よくて、僕は思わず問う。
「そういや、リリィ姉さん。なんで段ボールの中身、わかったの?」
僕の本当に大事なもの──父さんと母さんの形見は、結局のところ無事だった。
「愚問ね」
返ってきたのは小馬鹿にしたような睥睨。
「あんたが引っ越しの荷物を詰めてる時、私、見てたじゃないの」
──そうだ。
この人はあの時も、手伝いもせず、けれど僕のすべてをちゃんと見守ってくれていた。
今と、同じように。
「あんた、それ忘れたの?」
「思い出したよ。もう忘れない」
「そう、じゃあいいわ」
僕の返答に、リリィ姉さんは笑った。冷たさのある目鼻立ちに比してとても可憐で同時に優しいそれは、まるで雪原に咲いた花のようだった。
※
カレンダーは五月十二日。
僕はその日をたぶん、生涯忘れないだろう。
結局僕が学校の用意をもたついたせいでふたりともに遅刻してしまったこととか。
三限目の休み時間に変わらずやってきたリリィ姉さんに対して僕が嬉しげにお遣いを引き受け、クラスメイトたちがそんな僕の態度の変化に啞然としていたこととか。
学校が終わり帰宅した後に待ち構えていた、すべての段ボールの開封と部屋の片付けがどうしようもなく楽しかったこととか。
5
身長、一六九センチ。ひとつ年上とはいえ男の僕よりも背が高く、それが誇らしい。
体重、スリーサイズは不明。けれど体格を見る限り実にスリムで、有り体に言うとモデルもかくやというスタイルである。まあスリムな分出るべきところがあまり出ていないのだけど、顔を埋めた時の控えめな柔らかさを思い出すと、やはりちょっとばかり照れてしまう。
髪と瞳の色、黒。長く伸ばしたポニーテールは爽やかさと華やかさの中間みたいな印象だが、家族である僕ら以外の他人は、きつい感じを受けるかもしれない。
原因はその顔立ちと視線にある。刃物で造った薔薇、とでも形容すれば適当だろうか? 誰もが振り返るほどに美しくありながら、誰もが目を逸らすほどに鋭利。触れたら怪我をするのはわかっているけれどどうしても触れずにおれない、そんな危険な恐怖と誘惑を見るものすべてに与えるような容姿を持っている。
性格も同様だった。笑えば包丁睨めば鋏、放つ言葉は毒の針。高遠兄さんが彼女をそう評していたのを聞いたことがある。僕も同感、実に正しい比喩だと思う。
けれど、一方で。
彼女の刃物は、鋭利さは、他人が考えるほどに危なっかしいものではまったくないのだ。笑顔に隠された包丁も、鋏で抉るような視線も、毒の針みたいに刺さる言葉も──それらは決して、僕らを傷付けるためには振るわれない。
何故ならそれらすべてを受け止めるだけの余裕を僕ら家族はみんな持っているし、彼女はそれらすべてを実のところ、もっぱら僕ら家族を守るために使っているのだから。
僕はもう、彼女を誤解したりはしない。
倉須リリィ。
我が家の次女にして、僕の姉──家族思いの暴君のことを。