通夜と葬式のことはあまり覚えていない。
両親が一度に、前触れもなく、唐突に死んでしまったことで放心状態だったせいなのか、それとも僕が高校生の子供で、通夜だの葬式だのといった社会的な儀式に対して無知に無力を重ねた状態だったせいなのか。
僕は叔父、つまり亡き母の弟に一切の雑事を任せ、ただ学生服で突っ立ったまま弔問客たちを迎えることしかできなかった。
もちろん彼ら彼女らの顔も、かけてきた言葉も、僕の記憶には残らなかったし心にも届かなかった。ああ、通っていた高校の先生とクラスメイトたちが来てくれた時は別だ。少しだけ安心したから──焼香の匂いや誦経の声やふたつ並んだ遺影や飾られた花や棺の中の物言わぬ父さんと母さんが、現実でないような気がして。
とにかく、僕はまともでなかった。
だから葬儀の後のことも同様に、あまりよく覚えていない。
それは式場から自宅へ戻った後に始まった、親戚連中の喧喧諤諤のことだ。
五年前に購入したばかりの一軒家は、当然のようにまだまだローンが残っていた。もちろんそれ自体は生命保険を使って完済できる。
問題は、両親の死因だった。
運転中に飛び出してきた犬を避けるためハンドル操作を誤り、民家の壁に突っ込んで裏口を半壊させる、という、言わば自爆事故。こういう場合、普通は自動車保険が修繕費用を負担してくれるらしい──普通は。
なんとびっくり、両親が突っ込んだ民家というのはつまり、我が家だったのである。
まったく間抜けな話だ。
我がことでなければ笑っている。もちろん当事者である僕はまったく笑えなかった。
なにせローン自体はどうにかなっても、破壊された壁やめちゃくちゃになった裏口や台所の修繕費用が自動車保険から出ない。家を修理するためには両親がちまちま積み立てていた貯金を使う必要があって、それは本来、僕が大学へ通うためのものだった。
とにかくそういった経緯があって──親戚たちは、僕と我が家をどうするかについて口角泡を飛ばし合い始めた、という訳だ。
台所が破壊されたせいでお茶を出すこともできない、我が家の居間で。
家を欲しがっている者がいた。
築五年の一軒家だ、無理もない。けれど修繕費用はそれなりに高額で、できればそれを肩代わりせずに済ませたがっているのが見え見えだった。
貯金を欲しがっている者もいた。
家は処分すればいい、と。けれど相続人はひとり息子である僕であって、遺産を手に入れたければ代わりに僕の扶養義務を負う羽目になる。
親戚たちは全員、どうにかして遺産のおこぼれにあずかりたがっていた。できれば、遺された未成年である僕を他の誰かに押しつけた上で。
よくある話だ。ただし、ドラマなんかで。
うちにはもうふたり子供がいるから面倒は見きれないだの、引き取っても構わないけど貯金は養育費として頂きたいだの、だったらこの家はどうするんだだの、ちょっと待て俺にも少しは相続する権利があるんじゃないかだの。遠慮もなければ呵責もない下世話な会話は当の僕を目の前にしていながら、堂々と行われていた。
もっともその時の僕は、親戚たちが醜く喚く様をただぼんやりと眺めていることしかできなかった。怒ることも泣くこともせず。
言葉は耳に届いていたのに、脳が理解を拒絶していたのだろう。さっき『あまりよく覚えていない』などと言ったけど、正確を期すならばこうだ。
記憶したくもなかった、と。
だから。
覚えているのは、ここからだ。
唐突に、居間のドアが開いた。
一斉にみんなが静まりかえった。
それまで口さがなく金の話をしていた母の従姉とか、なにが目的なのか今ひとつはっきりしないまま「俺が喪主の代わりもやったんだから」とかぼそぼそ言っていた叔父とか、声高に「この子のためにできるだけ余裕のある家が引き取るべきよ」などと綺麗事にもなっていないことを主張していた伯母とか、とにかくその場にいた十人近くの親戚一同が、瞬時に会話を止めた──ドアの向こうから現れた人物に、ぎょっとして。
ざんばらに刈った金髪の髪。やせぎすの、そのくせ手足が長くどこか迫力のある体軀。サイケデリックな極彩色の派手なシャツ、大きく開いた胸元にはシルバーの刺々しいネックレス。
年齢は二十代半ばほどだろうか。赤いサングラスをかけたまま居間を睥睨したその男は、無精髭を生やした顎を歪め、皮肉げに笑った。
「おやおやこれは。出で立ちはモノクロームで厳かだっていうのに随分とかまびすしいね。まるで葬式っていうよりも、お祭りだ」
不謹慎なことを言いながらサングラスを外すと、外見の印象にまったく違わない軽薄そうな瞳が、そこにはあった。
全員が呆気に取られる。
十数秒の沈黙の後、ようやく口を開いたのは喪主代行を務めた叔父だった。
「……、なんだ、きみは」
「なんだきみは、か。いい質問だねえ。漠然とし過ぎていて答えに窮するな。じゃあ逆に尋くけど、なんに見えます? 俺って」
僕がその時思ったこと──というより、いきなり登場した彼からなにを連想したかはたぶん親戚連中とほぼ同じだろう。
借金取り。
葬式の後にいきなり家へ侵入してきたチンピラみたいな金髪男といえば他になにが思い浮かぶ? 別の可能性があったら教えて欲しいくらいのステレオタイプじゃないか。
もしかしたら両親は自分が知らない間に負債でも抱えていたのか、なんて疑問が頭に浮かんだ。父も母も僕の知る限りは誠実で真面目な人だったけれど、その分お人好しなところがなかったとは言えない。騙されたとか保証人になってしまっていたとか、そんなことがひょっとしたらあるかもしれなかった。……だいたい死因からして間抜けなのだし。
問い返されて呆然とする叔父を、男は完全に無視した。
彼から視線を外し、移ろわせ──それを、僕で止める。
居間を真っ直ぐに横切り、歩いてきて、目の前にしゃがみ込んで、
「おやおや。随分と変わった表情をしてるじゃないか、きみは」
そんなことを言った。
「安心した、って顔だね。具体的な単語で形容すると」
「あん……しん?」
「大方のところ、きみは俺が借金取りの類だと思ったんじゃないかな? 周囲の彼らと同じくね。どうしてわかったかって? そりゃわかるさ。だって俺が初対面の人に持たれる第一印象は『チンピラ』とか『ヤクザの鉄砲玉』とかそんなんばっかりで、でもって葬式の後に場もわきまえずやってくるチンピラと言えば借金取りと相場が決まってる。まったく嘆かわしいな。誤解にもほどがある。世界中を見回しても俺ほど誠実な人間はそういないっていうのにさ」
これほど誠実とは縁遠い容姿もそうそうない顔で、男は笑った。
「しかしきみは、そんな俺を見て『安心』してる。まったく興味津々だね」
ぼんやりと思った。
この人の言う通り、僕は──安心したのだろうか、と。
だったら、何故?
仮にこの男が本当に借金取りであれば、両親には負債があったということで、その支払い義務は自然、ひとり息子たる僕が負うことになる。額面にもよるが、保険金も家もすべて手放す羽目になるだろう。下手をすれば借金までできるかもしれない。
なのに、安心した。
僕は、安心していた。
それはつまり──、
「べらべら喋り過ぎね、高遠」
僕が答えに行き当たりそうになったのと同時、居間の扉の前、男の背後から声があった。
「あんたはいつもそう。誠実、ですって? 言うに事欠いてなにが誠実よ。あんたみたいな外見の男を誠実って言うのなら、チャールズ・マンソンは人類愛の化身だわ」
姿を見せたのは、とびきりの美少女だった。
制服姿で、たぶん僕と同じく高校生だろう。でも、この辺の学校のものではない。
すらりとした身体つきに整いすぎるほど整った目鼻立ち。あまりに端正で日本人離れしているほどだ。艶やかな黒髪は長く、後頭部で括ってポニーテールみたいにしていたが、それでも尻尾の先は腰辺りにまで達している。
目つきは異様に鋭い。美人特有の冷たさもあったが、どこぞの高慢なお姫様のようでもあった。生まれつき人を見下すことしか知りませんよそれがどうかしましたか、みたいな。
彼女の射殺すような視線に肩を竦め、男は、
「そりゃ素敵だ、リリィ。滑り台の下には誰がいるんだろうね?」
「はぁ? あんたの言ってることは時々訳がわからないわ」
「『ヘルター・スケルター』。我が妹ながら嘆かわしいね。ビートルズは人類の財産だぞ」
「私はジョージ派なのよ」
「ポールの曲ってことは知ってるんじゃないか。やれやれだ」
もはや葬式の後に聞く会話ではなかった。
どうもこの男──高遠、と呼ばれていた──と少女──こちらはリリィ、親の顔が見たくなるような名前だ──は、兄妹らしい。
リリィの方が兄であるはずの高遠を呼び捨てにしていたのが少しだけ気になったが、単に習慣だろう。男は確かに少女に向けて『我が妹』と言った。間違いなさそうだ。
ただ、それは僕の困惑を解決してくれる情報ではまったくなかった。
「おい、きみたちは誰だ? 他人の家へ勝手に上がり込んでどういうつもりだ」
立ち上がった親戚のひとりが、高遠の背中を睨み付ける。
その人──母の従姉の旦那さんに応えたのは、少女、つまりリリィの方だった。
「は、ふざけたことを言ってくれるじゃないの。いつからここはあんたの家になったの?」
冷酷とすら言える蔑みの視線を年上のいい大人へ向けた後、返す刀で僕を一瞥し、
「あんた、この子の父親? 違うでしょう? だってこの子の父親はもう灰になってしまったものね。だったらあんたは誰? 誰であろうともこの子の家族じゃない以上、あんたにとってもここは『他人の家』でしょうに」
「ちょっと、なんてことを……さっきお葬式が済んだばかりなのよ!」
灰になった、という表現に血相を変えたおばさんに対しても、
「『なんてこと』? これまたお笑い種ね。ま、ちっとも笑えないけど」
一歩も引かず、むしろ視線に蔑みと怒りを一層込めた。
彼女は吐き捨てる。
「ふざけてるんじゃないわよ、この愚物ども。あんたたちが今の今までここでしていた反吐の出るような会話に比べたら……私の言葉なんてなんてこともないでしょう?」
「……っ!」
全員が、息を吞んだ。
彼女は声を荒げた訳ではない。
拳を振り上げて威嚇した訳でもない。
ただ、それは──とても苛烈だった。
口調、声音、態度、すべてがまるで、相手の喉元に刃を突きつけているかのように。
居間にいた十人近くの大人たちが、女子高校生たったひとりに威圧されたのだった。
「その辺にしときなよ、リリィ」
兄の制止に彼女は軽く肩を竦める。
次いで高遠が、僕に向き直った。
「さて。ご覧の通り、俺は借金取りじゃない」
どうやら本題が始まるようで、唇から笑みが消える。
そして──。
告げられた言葉に、今度こそ僕は、啞然とする羽目になったのだった。
「俺は、きみの、言わば親戚だよ」
「……え」
「倉須、という名字を知っているかい?」
聞き覚えはなかった。
「きみの亡くなった父親と……つまりはこの園村家と血縁関係にある家だ」
「父さんの?」
実のところ、父に親類がいるなんて想像もしていなかった。
父方の祖父母も僕の生まれる前に亡くなっていて、ほぼ天涯孤独だったはずだ。実際、今日の葬儀に来ていた親戚連中もすべて母方の筋だ。
お盆や正月は母親の実家に揃って里帰りしていたし、祖父母にしたって母方の記憶しかない。彼らもそれぞれ十年前と五年前に死んでしまっていた。ああ──お爺ちゃんとお婆ちゃんがもし生きていたら、この口さがない親戚たちを黙らせてくれたのだろうか?
思考が逸れかかったところで、男が再び怪しげに笑った。
「きみの父親には妹がいた。いろいろあったらしく交流が途絶えていたようだね。まあ、俺もこの辺の事情についてはよく知らないんだけど……とにかく、彼女はある男性と結婚して名字を『倉須』と改めていた。俺は、その家の長男だよ」
「僕の……」
従兄、なのか。
「戸籍上は、ね」
心を読んだように彼は首を振る。
「ただ、俺ときみの血は繫がっていない。俺は養子なんだ。そこにいるリリィもだ。というより……倉須家にいる子供たちはみんなそう。だから我が家は言わば、ストロベリーフィールズ、って訳さ。知ってるかい? ストロベリーフィールズ」
「いえ」
「孤児院の名前だよ。ジョン・レノンが幼少期に遊んだ」
──孤児院?
「ああ、まさに孤児院だ。なにせ両親は、もういない。俺たちの父さんと母さんにしてきみの叔父と叔母であるところの倉須夫妻は、十年前に亡くなっている。つまり核家族ならぬ核なし家族って訳だ。笑っちゃうねまったく」
「……はあ」
「私はストロベリーフィールズよりもストロベリーガーデンの方が好きね、残念ながら」
居間のドア近く、壁に背を預けて腕を組んでいたリリィがどうでもよさそうに口を挟む。ただし、言葉自体は僕にとって意味不明だった。
「高遠、あんたのくだらない説明はまったく説明になっちゃいないわ。孤児院ですって? そんな生っちょろいもんだったかしら、うちって。……どちらかといえば戦場ね。捨てられた孤児どもが行き着いた先、血まみれで日々戦ってるわよ」
「おい、邪魔するなよ。今は俺のターンだぞ? やれやれ、我が妹ながら嘆かわしいね、さっきも言ったけど」
高遠が困ったように肩を竦め、
「あんたのターンだとか知ったことじゃないわ。私の名前はリリィなのよ。だったらこめかみ指でこじ開けるの、当然じゃない。誰のターンだろうが、私がそうしたくなったらね」
「まったく、パスタじゃなくて焼きそばパンなんかが好きなくせに。よく言うね」
「うるさいわね。あんた私に喧嘩売ってる?」
「あの、ええと……」
こっちを置き去りに話が盛大に逸れつつある気がしたので、思わず声をあげる僕。
「つまり、どういうことなんですか」
冗談じゃない。訳がわからない。借金取りの方がまだマシだった。
このふたりの異様なキャラクターや目の前で繰り広げられる意味不明な言葉のやり取りを脇に置くとしても、その前に告げられた事実だけで、僕は混乱に陥ってしまっていたのだ。
でも、仕方ないだろう?
両親が事故死して、戸籍上の従兄だという男がいきなり現れ、自分の来歴を説明し始めたのだ。それも、頓狂な。
父の妹に養子がいて、でも彼女は夫とともにもう十年も前に死んでしまっていて、おまけにどうやら口ぶりからするに養子はこの高遠という男とリリィという少女だけではないらしい。何人いるんだろう。三人? 四人? というか僕のおばさんは慈善活動家だったのか?
と。
「あ……」
脳裏に、もしや、という思考が浮かんだ。
ひょっとして彼らは、ここにいる母方の親戚連中と同様に──、
だが、そんな僕の表情の変化を高遠は見逃さなかった。
リリィと饒舌に交わしていた会話を不意に止め、眉をひそめると僕を睨み付ける。
「おい、侮るなよ。俺たちが欲しいのはきみの両親の遺産なんかじゃない。くだらないね。金なんて一文の価値もない」
矛盾したことを言う。
けれど表情は、真剣そのものだった。
リリィがぽつりと言う。
「私たちはね、あんたに選択を持ってきたのよ」
「選択……?」
「覚えておきなさい。悲劇や喜劇の後にはね、大事な選択が必ずあるのよ。まあ、悲劇や喜劇が訪れなくても選択しなきゃならないことは幾らでもあるのだけれど」
「……園村響くん」
言葉を、男が受け継ぐ。
そして。
彼の発した言葉は、僕にとって──まさしく選択と呼ぶべきことだった。
「きみ、うちの子供にならないかい?」
「え……」
「養子に来ないかってことだよ。園村響改め、倉須響。いい名前じゃないか。……なに、生活費や学費の心配はしなくていい。最低でも大学を出るまでの面倒を見よう。望むなら修士課程も博士課程も。なんなら卒業後はニートになっても構わないよ。まあ、我が家は残念なことにここからちょっと遠いから、今の高校には通えない。転校してもらうことにはなるけどね」
養子。
転校。
「もちろん、きみの両親が遺したお金に手を付けたりしない。それはきみの財産だからね。きみが貯蓄しようが投資しようが寄付しようが食い潰そうが、それはきみときみの両親の問題さ。俺たち家族は口出ししない。この家に関しても同様だよ。処分するか、将来独り立ちする時のために取っておくかは自由だ」
「でも、それじゃあ……」
あんたたちにいったいなんの得があるんだ、と問おうとした。
高遠は僕の言葉を最後まで待たなかった。
「俺たちが欲しいのは、きみの身ひとつだ。きみが家族になるというのが、俺たちにとっての得だよ。シンプルな話だろう?」
親戚連中がざわめき始める。口々になにかを言っていた。
僕はもちろん、高遠やリリィにまで詰め寄りながら、必死にわめいている。
でも僕に、彼らの声は聞こえていなかった。
だって、この高遠という人は──、
僕が欲しい、と言ったのだ。
親戚たちがただの負債として押しつけ合っていた僕を。
両親の遺したお金やこの家ではなく、この僕を。
僕が家族になるのが、お金や家よりも得だと──そう、言ったのだった。

「ぼく、が……」
騒ぎを眺めながら呆然としている僕の横にふと、人の気配があった。
少女だった。もちろん、葬儀に参列していた親戚にこんな娘はいない。
ふわふわとした髪、大きくつぶらなふたつの瞳。まるで人形のように可愛らしい子だった。向こうで親戚たちを睨み付けているリリィとはまったく別のタイプだ。
いつの間に家へ入り込んできたのか、いつの間に僕の隣へ来ていたのか。座り込んだまま、こっちを上目遣いに覗き込んでいる。
目が合うと、にこっと笑った。
「こんにちは、初めまして」
無邪気で元気そうな声に、僕は思わず頷き、
「ええと……きみは」
尋くと、悪戯っぽく舌を出す。
「外で待ってろって言われたけど、来ちゃった。私の名前は芽々子だよ」
漫画のような仕草が妙に似合っている。思わずどきっとしてしまった。
「めめこ……さん? きみも、倉須の?」
「うん、そう」
三人目の登場だった。
親戚たちすらも、彼女が入ってきたことに気付いていないようだ。というより、高遠とリリィに文句を言うことで忙しいらしい。
選択権を持っているのは僕なのにと、ふと思う。思って、芽々子を見遣る。──親戚連中とは対照的に、僕のところへと来た少女を。
彼女は期待を込めた目で、僕を覗き込んだ。
「えっと、あなたが響さんだよね? 私の、新しいお兄ちゃん」
「いや……まだそう決まった訳じゃないんだ」
「……そうなの?」
彼女は悲しそうな顔をした。
ただ芽々子からは、僕を説得しようとか引き込もうとか、そういう意志は微塵も感じられない。むしろ打算とはまったく無縁、純粋に──『新しいお兄ちゃん』になるかもしれない僕の顔を見に来た、ただそれだけらしかった。
「あ、その……芽々子さん、だっけ?」
僕はだから、彼女へと問うた。問うてみた。
「きみは、僕が家に来ても迷惑じゃないのかな」
彼女はきょとんとする。
沈黙し、思考するように頰へ指をあて、五秒ほど。
それから眉に小さく皺を寄せ、答えに窮するかのような態度を見せた後に、迷い迷い、ゆっくりと口を開いた。
「あのね、響おに……響さん。私が倉須の家に来たのは、五歳の時だったの」
無言で続きを促すと、
「その時ね、みんな、喜んでくれたんだ。家族が増えて嬉しいって言ってくれた。それってたぶん、本当のことだよ。だって私も、稜くんや耶衣ちゃんが来た時……嬉しかったもん」
うん、と自分の言葉に納得したように頷き、それから屈託なく笑って、芽々子は言った。
「だから、響さんが新しいお兄ちゃんになってくれたら、私、嬉しいな? 他のきょうだいたちも、みんな嬉しいよ、きっと!」
「そう……か」
迷惑じゃない、のか。
それどころか、嬉しい、と。
迷惑なんて概念、想像できないくらい──。
「おいおい芽々子、いつの間に入ってきたんだ? お前はいつでも神出鬼没だなぁ。まったく……車で待ってろって言ったじゃないか」
親戚たちを鬱陶しそうにあしらいかき分けながら、高遠が再びこちらに歩み寄ってくる。
「だって、退屈だったんだもん」
「だもん、じゃないよ。お前はいつでも神出鬼没で、おまけに奔放だよ。まあ奔放って言うなら我が家の連中はどいつもこいつも奔放だけど。……ところで、響くん」
ヒステリックに肩を摑んできた叔母をひと睨みして黙らせつつ、高遠はまるで、フェアを装う詐欺師のように人差し指を立てた。
「説明しとこう。俺たち家族……倉須家は現在、両親なしの六人きょうだいだ」
六人。
つまり、あと三人いる、と。
「男がひとり、女が四人、男か女かはっきりしないのがひとり。そしてこいつらは全員、どうしようもなく……そうだな、控えめな表現を使うとすれば『変わり者揃い』なんだよ。率直に言えば、狂っている。頭がおかしい。病んでいる。いかれてる。当然と言えば当然さ。家族構成からしてまともじゃない。なにせ血の繫がりなんてない孤児の寄せ集めなんだからね。そこにいる芽々子だってそうだよ。いくら可愛いからって安心しちゃいけないな。こいつは我が家でも折り紙付きの猛獣さ」
「なに言ってんのさ、私のどこが猛獣なのよ。たぁお兄ちゃんはいっつも酷いこと言う!」
「なにが酷いもんか。お前はさしずめ、人間の肉の味を覚えた子猫だよ。にゃーにゃー鳴きつつ俺たちを貪るのさ」
物騒な比喩で芽々子を指差しながら、こっちに意味ありげな視線を送る高遠。
諧謔じみた笑みを浮かべ、彼は言った。
「さっきリリィが言った通りかもしれないな。戦場さ、我が家は。秩序も統制もないって意味ではそうだ。ひょっとしたらきみは、うちに来ることでまさに精神的兵士となってしまうかもしれないよ? 我が家の混沌と混乱を相手に戦わされることによってね。……それでもいい、構わないというなら歓迎しよう。どうする?」
それは、饒舌すぎてかえって真摯さを感じさせてしまうような態度だった。
けれどその眼は僕を、僕だけを捉えている。
言葉を発している高遠はもちろん、隣に座った芽々子も。親戚たちに囲まれたまま身動きが取れずにいるリリィですら、僕を見ていた。
有象無象などよりも、僕の選択だけが関心事だとでも言うように。
正直なところ──今考えても──。
僕はこの時、もっと詳しい説明が聞きたかった。
家はどこにあるのか。
どうやって僕の両親の死を知ったのか。
血が繫がっているという叔母ももういないのに、何故僕を誘いにきたのか。
そもそも、あんたたちは一体何者なのか。
考えれば疑問はきりがない。つまり、怪しいことこの上ない。養子に迎えるだなんて言っているけどそれが真実である証拠などどこにもなく、彼はやっぱり借金取りで、僕を外国に売り飛ばすために噓八百を並べて連れ去ろうとしているだけなのかもしれなかった。
でも。けれど。
どうしてだろう?
その時僕は、素で人を嘲っているような倉須高遠の視線と、素で人を軽蔑しているような倉須リリィの瞳と、素で人を信頼しきっているような倉須芽々子の眼に──紛れもなく、安心していた。まさに彼がさっき、指摘したように。
今になってみれば理由ははっきりしている。
僕は、厭だったのだ。
両親が死んだ事実が。
天涯孤独になったことが。
親戚連中の口さがない遺産争いが。
今のこの状態が。
だから、いいと思った。
たとえ引っ越すことになっても、この家を手放すことになっても。最悪、外国に売られたって構うものか。自分で選択したことならば、今のこの状況よりは幾分かマシだろう。
「わかりました」
僕は言った。
「あなたたちの家に行きます」
親戚たちが一斉に血相を変える。今度は僕に詰め寄り、声を荒げて制止する。
でも僕にはやっぱり、彼らのことなんか目に入らなかった。
見えていたのは、
「オーケー。だったらきみは今日から、俺たちの家族だ。でもな……そのよそよそしい口調はやめてくれるかい? 家族なんだから敬語はなしでいこう」
今までの印象とは一変、驚くほど人なつこい笑みを浮かべる新しい兄と、
「やった! じゃあ、響だから、ええと……お兄ちゃんは、ひぃお兄ちゃんね!」
まるで子供のように飛び跳ねて僕に抱きついてくる新しい妹、それから、
「さっさと荷物をまとめなさい、響。言っておくけれど最小限で済ませなさいよ。うちはそんなに広くはないのだから」
僕の名前を当然のように呼び捨てにする、新しい姉の顔だった。
※
つまりこれが、始まりという訳だ。
かくして僕、園村響はこの日から、名字を改め倉須響と名乗ることになった。
倉須家、即ち──、
チンピラみたいな外見、軽薄な態度で諧謔を飛ばす長兄の高遠。
おっとりと優しい容姿のくせにやたらと毒のあることばかり口にする、長女の礼兎。
美人のくせに態度は辛辣、口調は傲慢、視線は凶悪と三拍子揃った次女のリリィ。
天性の人なつこさに加えてスキンシップ過剰、家族依存症である三女の芽々子。
男だか女だかよくわからない、つまり三男であり四女でもある稜。
稜のとばっちりを受けて四女になったり五女になったりする、末子の耶衣。
以上六人に僕を加えた七人の──親のないきょうだいたちだ。
僕の年齢はリリィのひとつ下、芽々子のひとつ上。
つまり新しい次男として、彼ら彼女らの家族となった。
けれどその日々はまったく、順風満帆とはほど遠いものだった。高遠やリリィの言葉通り倉須家の連中は全員が一筋縄ではいかない奴らばかりで、僕は面食らったりうんざりしたりおののいたりしながらの新しい生活に、心身ともに疲れ果てる毎日を送ることになる。
とはいえこの時の僕はまだ、そんなことを知る由もない。
倉須家の一員になったことで降りかかる災難も、厄介ごとも、それから──幸せも。
季節は春の初め。
高校二年生になる直前、三月末のことだった。