里久君には聞かれたくない質問。その一言に、ついこっちまで緊張してしまう。
もしかして、涼音ちゃんが訊きたいことって……。
「あ、あのっ! 水守さんって、先輩のことが──」
思わず、涼音ちゃんの言葉に身構えて……けれど、いつまで待っても無言のまま。
涼音ちゃんは、
「……涼音ちゃん?」
どうしたんだろう。涼音ちゃん、何か様子が変だ。
涼音ちゃんが見つめているのは、私の背後。気になって振り返ってみると、噴水を眺める人たちが目に映った。別段、おかしな光景じゃない。
何かあったのかな、と涼音ちゃんに声をかけようとした、その時だ。
「あ、あの、水守さん。今すぐ先輩たちのところに戻りませんか?」
「……えっ?」
「ごめんなさいっ! 理由は後で話しますけど、急いで先輩に会わなきゃいけないんです」
態度が急変した涼音ちゃんに、戸惑いが隠し切れない。
ただ一つ分かるのは、今の涼音ちゃんが切羽詰まっているということ。きっと、相応の理由があるんだと思う。
「うん、分かった。涼音ちゃんがそう言うなら──」
「おっ、いたいた。
焦った表情を浮かべる涼音ちゃんに
待って。今のって──。
「み、水守、さん……?」
「……ごめん、涼音ちゃん。先に里久君たちのところに戻っててくれるかな? ちょっと気になることが出来たから」
「えっ? で、でも、それだと水守さんが一人に……」
「大丈夫。確認だけしたらすぐに戻るから。ねっ?」
「……は、はいっ!」
涼音ちゃんはぺこりとお辞儀をして、去って行った。
ふう、と一つだけ深呼吸して、さっき聞こえた声の主を探す。
「なぁ、零花。もうプールも飽きたしそろそろホテルに戻んない?」
「勝手なこと言うね。ナイトプールに行きたい、って駄々をこねたの
「そ、そうか? 付き合わせてごめんな。今度は予約制のとこにするからさ」
…………やっぱりだ。
何処かで聞いたことのある声音、梨奈っていう聞き覚えのある名前。
声のする方を見れば、女子高生くらいの二人の少女がいた。その内の一人は、染めた茶髪に派手なネックレスが特徴的だった。
その姿に、呆気に取られた。
間違いない。記憶より見た目は少し変わってるけどあの娘は──中学時代に同じクラスだった、梨奈だ。
もう一人の女の子が私の方に指をさすと、
「ねえ。さっきからあの娘、梨奈をずっと見てるみたいだけど」
「ん……? はあっ!? 結衣じゃんか。マジかよ、こんな場所で会うなんて」
梨奈の表情に、にやにやと笑みが浮かぶ。
「なあ、面白そうな奴見つけたからさ。少しだけ待っててくんない?」
「……へえ。梨奈、私のこと待たせるんだ?」
「ちょ、ちょっとからかうだけだって! すぐ戻ってくるからさ、なっ!?」
……梨奈、やけにあの娘の顔色を
梨奈は焦ったように女の子に頭を下げると、私の
面倒なことになっちゃったな。姿だけ確認出来ればそれで良かったのに、まさか声をかけてくるなんて。
「よぉ、久しぶり。こんなとこで会うなんて奇遇じゃん」
「そうだね。私も、まさか梨奈と再会するなんて思ってなかったよ」
「意外と元気そうだな。あたしはさ、結衣のこと心配してたんだよ?」
笑いながら梨奈は口にする。
「名門校の聖女から逃げて、遠くに引っ越したんだもん。あたしなら情けなくて学校辞めるなぁ、なんてみんなで話してたからさ」
「大げさだね。私だって一応、楽しく暮らしてるんだけどな」
肩透かしを食らったように、梨奈が不満そうな顔をする。
何てことはない。いつも通り愛想笑いだけ浮かべて
……なのに。
「へえ、楽しくねえ。やっぱ中学の頃みたいに高校でも男遊びしてんの?」
その一言に、動揺してしまった。
梨奈が言葉に詰まった私を満足げに見つめると、
「聖女と違ってお
「……そうなんだ。茶髪にネックレスって、お嬢様って感じしないけどね」
「うっさいな、夏休みだけだっつの、この格好は」
あぁ、もう。いつもなら平然としてられるのに。中学の同級生が目の前にいるだけなのに、こんなに心が乱されるなんて。
……私は、こんなに弱い人間だったっけ。
やっぱりあの人のせいだって、こんな時にも思ってしまう。
あの人が、私を何処にでもいる女の子として見てくれるから──ありふれた幸せを、夢に見てしまったのかもしれない。
◆
水守たちはまだかな、と心配し始めた頃。遠くから涼音が駆けて来るのが見えた。
「どうしたのかしら。涼音さん、急いでるみたいだけど」
俺と来栖さんが首を傾げていると、涼音は弾んだ呼吸が落ち着くのも待たず俺にしがみついた。その表情は、今までにないくらい焦っている。
「涼音……?」
「せ、先輩っ! その、そろそろプールを出ませんか!? もう十分遊びましたし、もう帰ってもいいかなって!」
つい目を丸くしてしまう。あんなに楽しそうだったのに、急に帰りたいだって?
「待った、ちょっと落ち着こう。プールを出たいってどうしてなんだ?」
「……それは──」
なるほど、言えない理由があるのか。
けど涼音の様子は明らかにおかしくて、一秒でもここに居たくないように見えた。
「分かった。涼音がそうしたいなら俺はそれでもいいよ。すぐに更衣室に行こう」
「……いいん、ですか?」
「涼音がそう言うなら余程のことがあったんだろ? けど、理由は後でちゃんと話してくれ。来栖さんはどうですか?」
「私もそれで構わないわ。閉園も近いしそろそろかなって思ってたもの」
「じゃあ、残りは水守だな。そういえば水守は? 一緒にいたんだよな」
「そ、そうですけど、何か用事があったみたいで噴水に残ってます。すぐに戻るって言ってましたけど、どうしたんでしょう……」
「じゃあ、水守の様子を見に行ってみるか。もし合流出来るようならすぐに出よう」
水守を探しに噴水まで歩きだそうとした俺の手を、涼音が取る。
「ま、待ってくださいっ! あそこに行くのは絶対ダメです!」
「そこに、俺らがプールを出なきゃいけない理由があるからか?」
「…………はい」
こくり、と力なく涼音が頷いた。
「だから、水守さんはわたしが連れて来ますから。先輩はここにいてください」
「でも、どっちにしろ十神君は噴水に行かなきゃいけないわよ? 更衣室に行くためには、必ず噴水を通らなければいけないもの」
来栖さんの言葉に、涼音が
「あっ、そっか……じゃ、じゃあ、先輩と来栖さんも一緒に来てください。水守さんはわたしが声をかけるので、先輩は出来るだけ噴水に近寄らないってことで。合流出来たらすぐに更衣室に向かいませんか?」
「……ああ、分かった」
どうしてそんなに、涼音は俺を噴水から遠ざけたいんだろう。
噴水の辺りまで行くと遠くに水守の姿が見えて、涼音がぽつりと
「あれ、一緒に誰かいますね。水守さん、あの人に用事があったのかな」
確かに、水守と向かい合うように別の女の子がいる。見覚えのある背丈に髪の色。あの娘、さっきキツい口調でナンパを断ってた女の子だ。
どうして水守と一緒にいるんだろう……そう疑問を覚えた時だ。
水守という単語が化学反応を起こしたように、唐突に記憶が
──この娘は校則で禁止されてるのに、他校の生徒と恋愛してたみたいだし。
「あっ……!」
思い出した。何処かで見たことがある気がしたのも当然だ。
あの娘、聖女の卒業アルバムに載ってた女の子にそっくりだ。
ということは、あの娘は水守の知り合いなのか。でも、ぱっと見た感じ友好的な雰囲気じゃない。むしろ女の子の方は、人を小馬鹿にするような嫌な笑みを浮かべている。
対して水守が浮かべるのは、まるで逃げ場を失っているような
嫌な予感がした。
「あっ、先輩……っ!」
じっとしてられなくて、涼音の呼び声を耳にしながらも水守に歩み寄る。
「水守、どうした? 心配して来たんだけど、何かあったか?」
「……里久君?」
目をぱっちりと開いて水守がこちらを見る。その表情に、先程までの不安はない。
茶髪の女の子は、何だこいつ、という顔をすると、
「何だよ水守、やけにほっとした顔してんじゃん。はーん、もしかしてこいつ、高校の同級生? 相変わらず男を
思わず、むっとしてしまう。
この人も水守の噂を知ってるんだろうけど、やっぱり嫌な女の子だ。
「水守、この人は?」
「……中学の頃の同級生、かな。梨奈っていうんだけど、偶然ここで会ったんだ」
「ほんと久しぶりだよなー、何しろあたしは水守の連絡先なんて知らないし」
女の子──梨奈は薄笑いを浮かべたままだ。
「あたしら、中学の頃から大して仲良くなかったもんな。あたしは名門校についていけない落ちこぼれで、水守は生徒や教師に大人気の優等生なんだもん。天と地くらい差があったもんね」
「えっ!? 水守ってそんなに優秀な生徒だったのか? 初耳だけど……」
「……だって、改めて言うことじゃないから。中学なんて昔のことだもん」
「いいねー、その自分を過小評価してる感じ。謙遜してるみたいで点数高いよ? そんな風に愛想が良いから、あんたにはいつだって友達がいた。同級生から尊敬されるくらい成績が良くて、水守と仲が良いのが一つのステータスですらあったよねー」
知らなかった……。けど、不思議なくらい納得する自分もいる。頭の良さとか、会話の上手さとか、他人に優しいところとか。全部水守から感じてたことだ。
「お嬢様学校が気に入らなくて
梨奈の瞳に怒りが
「自分がカースト上位だからって、底辺のあたしらにまで優しくしてさ。どうしたの、って笑顔なんかで話しかけてきて……むかついた。同情されてるみたいで気に入らなかった。あたしとあんたは同じ聖女の生徒で、上下関係なんてないのに」
「そんな、同情なんかじゃ──」
「そう言うだろうねあんたは。どんな態度を取れば他人に好かれるか、手に取るように分かるもんね。そうでなきゃ、聖女で優等生なんてなれるはずないもん」
「……あの、横からごめん。水守はそんな女の子じゃないと思う」
「は? なんだそれ」
梨奈の
でも、ここは
「水守は打算とかで他人に優しくする奴じゃないから。あなたに声をかけたのも、きっと善意だと思う。だから、周りに好かれるために優等生を演じてたって言い方は間違ってるんじゃないかな、って。……俺には、あなたが水守を羨んでるようにしか思えないんだ」
「なっ……!」
「ごめん、そろそろ俺たちは帰らないといけないから。水守、いいか?」
「あっ。う、うん。じゃあね」
俺と水守は、くちびるを
緊張した……。知らない女の子に嚙み付くなんて、初めてかもしれない。
「……ごめんね、助けてもらっちゃって。中学時代の知り合いって苦手だから、正直ちょっと困ってたんだ」
「別にいいよ。あんなこと言われたら、俺だって黙ってられないし。……それとさ」
何とか頑張って水守に笑いかける。
「ごめん、って言葉よりも、ありがとうの方が嬉しいかな。水守が謝る必要なんて、何処にもないんだから」
「……びっくりした。そんな女の子を口説くような言葉、どこで覚えたの?」
「俺、結構真面目に言ったんだけどなあ」
「あはは、ごめん。ただの照れ隠しだから気にしないで。……ありがと、里久君」
良かった、いつも通りの水守だ。
視線を移すと、少し離れたとこでは涼音と来栖さんが心配そうにこちらを見ていた。二人には後で事情を話さないと……そう、思った直後だ。
「へえ、里久って女の子とまともに喋れるようになったんだ。……学校の女子にびくびくしてた頃とは大違いだね」
その背後から聴こえてきた声音に、足元が凍り付いたように動けなくなった。
梨奈ではない、ましてや水守でもない。この少女の声は──。
「……里久君? どうしたの?」
水守がこちらを覗き込むが、返答なんて出来やしない。まるで心臓を
そんなはずがない。噓であってくれ、と祈るように願いながら振り返る。けれど、そこにいたのは、願わくば二度と会いたくなかった少女の姿。
霧島零花──中学の頃、俺が初めて告白して、そして無残に捨てられた少女だった。
「れ、零花ぁ。なんだよ、いきなりあたしらの間に入って来て」
「梨奈と同じ理由。私も、ちょっと面白そうな人を見つけたから。こんなところで会うなんて奇遇だね、中学以来かな?」
忘れるはずがない。人形のように整った顔つきも、流れるような美しい髪も、脳が溶けるような甘い声も。全て、中学のあの頃とほとんど同じ。
「どうしたの? 幽霊でも見たような顔をして。……ああ、そっか」
霧島の表情に笑みが浮かぶ。
花のように可憐で、けれど他人の心を
「あれから数年も経つのに、まだ私が怖いんだ? それも仕方ないかもね、里久のことは散々
「あれから数年……? 里久君。もしかして、中学の頃に付き合ってた霧島って──」
水守が驚いたように口にしようとした時だ。俺と水守を
涼音、だった。
「……久しぶりですね、霧島さん」
「えっと……あっ、思い出した。確か、里久に付き纏ってた下級生だよね。懐かしいなぁ、こんなところで会うなんて」
やっと、涼音が俺をこの場所へと近づかせなかった理由を理解する。
涼音は、ここに霧島がいることを知ってたんだ。だから俺と霧島を出会わせないために、一秒でも早くプールから出ようとした。
「わたしは二度と会わないと思ってましたけど。まさか、水守さんの知り合いの友達だとは思いませんでした」
「それって梨奈のこと? 梨奈とは高校で仲良くなったんだ。ほら、私って外部受験で聖女に進学したから」
その言葉に、俺も涼音も顔を驚きに染めた。
知らなかった。確かに霧島の家は資産家だけど、まさか聖女に在学してるなんて。
「けど、とても残念です。出来れば霧島さんには会いたくなかったですから」
「会いたくなかった、なんて酷いなぁ。私は思い出話をしたいだけなのに」
「調子の良いこと言わないでください……っ! あなたのせいで、先輩がどれだけ傷ついたと思ってるんですかっ!」
今まで聞いたことがないくらい、怒りが滲んだ涼音の声音。
あの人懐っこい涼音が、俺のために怒っている。
「私のせい……? それって、何のこと?」
「だって、霧島さんは先輩の気持ちを弄んだじゃないですかっ!」
「あっ、それって里久が色々プレゼントしてくれたこと? でも、あれは私が命令したわけじゃないよ? 全部、里久が彼氏として好きでやってたことなの。もし嫌なら別れようって言ってくれれば良かったのに」
「で、でもっ! 霧島さんはいつの間にか他の生徒と付き合って、先輩を捨てたじゃないですか! 先輩は真剣に交際してたのに、そんなのあんまりじゃないですか!」
「そうだね。私はちっとも、里久に興味なんてなかったから。まあ、つまりは……私にとって、その程度の価値しかなかった、ってことかな」
途端に、胸が苦しくなった。
こんな女の子を、あの頃の俺は必死で好きになっていたのか。
「あー、そういうこと。こいつが零花の言ってた元彼氏クンか」
それまで戸惑っていた梨奈が、にやにやと水守を見ると、
「話には聞いてたけど、こんなお人好しだったとはね。良かったね水守、こんな馬鹿な男だったら水守なら簡単に騙せたでしょ?」
「……待ってください。騙す、ってどういうことですか。水守さんのことまで悪く言うんですか?」
涼音は梨奈を睨むように見つめ……ふと、気づく。
涼音の肩が
それなのに、涼音は俺たちを守ってくれようとしている。
「水守を知ってる奴なら、男を連れてたら誰だってそう思うっしょ。……ああ、そっか。あんた高校で知り合ったから水守のこと知らないんだ? 優等生の水守がどうして聖女を辞めたか、とかさ」
俺も、そして涼音も息を吞んだ。
それは、今まで
「その感じだと、やっぱり話してないみたいだね。そりゃそうか、あんな最低な出来事なんて誰だって隠してたいもんな」
水守は何も言わない。ただ、梨奈を見つめるばかり。
この場を離れないと。
水守が過去を隠したいというなら、語ってくれるその日まで待ちたい。水守が望んでないのに誰かに真実を告げられるなんて、絶対に駄目だ。
水守の手を取り駆け出そうとした、その時だ。ぽつりと水守の声。
「いいの、ここにいて。……私はみんなにも、そして里久君にも真実を知って欲しい」
「水守……? 水守はそれでいいのか? 本当に平気なのかよ、今まで誰にも知られたくなかったんだろ?」
「うん。だからこそ、ずっと不安だった。こんな隠し事ばっかりの私が里久君の傍にいてもいいのかな、って」
ぎゅっと、水守が俺の手を握り返す。
「もう逃げない。これからも、里久君の隣にいたいから」
──その一瞬。
つい見惚れてしまうくらい、水守の横顔は決意に満ちていた。
「あんたらは知らないだろうけど、水守はさ──」
薄笑いを浮かべたまま、梨奈は告げた。
「援助交際してたんだよ。それが学校にバレて、聖女を追い出されたんだ」
その言葉は、俺が想像もしていなかった言葉だった。
誰も、何も言わない。霧島も、涼音も、水守さえ沈黙していた。
「くく……はははははっ!」
心底愉快そうな、梨奈の笑い声。
「最高だよな! お嬢様学校の誰もが憧れた
「……水守。あの娘が言ってることは、本当か?」
水守は俯くでもなく、怯えるでもなく、真剣な顔で頷いた。
「うん、本当だよ。……ごめんね。こんな大事なこと、今まで黙ってて」
──あれね、全部噓。そんな経験したことないんだ。
いつか水守は、自分自身に対する噂について、そう俺に教えてくれたことがある。だとすれば、援助交際ってこと自体おかしいのだけど、これは一体──。
……いや、違うか。何が噓で、何が真実かなんて、今はどうだって良い。
たった今、水守に伝えるべき俺の気持ちがあるとするなら、それは──。
「……何だ、そんなことか。その程度のことを、俺たちに隠してたんだな」
──水守を信じる、ってことだけだ。
驚いたように俺を見つめる水守の手を取ったまま、一歩前に出る。涼音は心配そうな顔をしながらも、俺たちの後ろへと下がっていった。
梨奈は呆れながら、
「その程度、って何言ってんだよ。援交だぞ? しかもお嬢様だから金が欲しかったわけじゃない。男なら誰だって良いヤリマンなんだよ、そいつは」
「もし、あんたの言葉通りだったとしてもさ。それがどうかしたのかよ」
「……はあ?」
水守を
「確かにさ、もし水守がビッチなら傷つくよ。水守が他の男に抱かれるところなんて想像もしたくないし、貞操観念が無いなんて胸が
それが、噓偽りのない俺の本心。
水守が周りのみんなが噂するような女の子だったとしても、そんなの関係ない。
だって、水守が優しい女の子だって知ってるから。そんな水守に惚れてしまったから。
俺が好きになった水守を、信じるだけだ。
「中古だとか、援助交際とか。上等だよ──そんなので水守への想いが冷めるかよ」
「……なん、だよ。どうして平然としてんだよ」
「援交なんて後ろ暗いこと、水守は今までお前に隠してたんだぞ? お前は水守に騙されてたんだよ。どうしてそんな奴を庇うんだよ」
ぎゅっと、手に
見れば、水守は照れくさそうに俯きがちに、しかし口元を緩めていた。
「──ふーん。そうやって、また良いように利用されるんだ?」
砂糖のように甘く、しかし氷のように冷たい霧島の声色。
「その水守って女の子、遊び慣れてそうだもんね。援交してたってのも納得出来るな。里久とは別世界の人間って感じすらするよ。……普通、何か裏があるって疑うのが普通だよ?」
「っ、────」
「ほんと、里久ってあの頃とちっとも変わらないね」
「里久は本当に優しいんだね──私が付き合ってあげてた時みたいに、その女に騙されてることに気づかないんだから」
「……あ、…………」
まるで、心をずたずたにされたあの頃みたいだ。恐怖で言葉が出ない。霧島の顔を視界に入れるだけで嫌な汗が噴き出て、直視なんてまるで出来ない。
心が折れそうになって目を閉じた、その時だった。
「大丈夫だよ、里久君。私がここにいるから」
優しい声音がした。
いつまでも耳にしていたいって思える、誰よりも
「あの霧島って女の子に言ってあげて。私が里久君にとって、どんな存在なのか」
胸の痛みが、消えた。
──ああ、分かった。見ててくれ。
ゆっくりと深呼吸をして顔を上げる。真っ直ぐに見つめるのは、薄笑いを浮かべる霧島。もう二度と会いたくないと願っていた少女だ。
水守、俺一人じゃ駄目なんだ。
涼音って後輩がいて、数年っていう時が経って。それでも心の傷を忘れることなんて無理だった。異性が怖くて仕方なかった。
でも、水守となら。水守と一緒なら。
なあ、水守。俺は──俺は。
君のために強くなりたい。
「霧島。水守はさ……お前みたいな女の子じゃないんだよ」
その瞬間、霧島の表情から笑顔が消えたのを、俺は確かに見た。
「……今、何て言ったのかな?」
「他人の心を
「一途、ってどういうことかな? どうしてそんなの里久に分かるの?」
「分かるさ。だって──水守は、俺を好きだって言ってくれたんだから」
その静寂は、世界が停止したみたいだった。
「水守の純粋さを、俺は誰よりも近くで見てきたから。何処までも
言葉を失う霧島に、躊躇うことなく言い放つ。
「だから、霧島。もう俺と水守に関わらないでくれ──俺は、水守が好きだから。水守のことを馬鹿にして欲しくないんだ」
それは多分、今まで恐怖で口に出来なかった拒絶の言葉。
霧島は絶句したように立ち尽くすのみ。けど、それも当然だ。
ただの玩具だった俺が抵抗するなんて、きっと想像すらしてなかったに違いないから。
その瞬間、やっと終わったのだという不思議な確信があって……しかし、
「……つまんないの。里久なら里久らしく、びくびくしてればいいのに」
そう言うと、霧島はぱちぱちとくだらなそうに拍手をする。
「あー、はいはい。カッコイイね。そうやってまた女に捨てられるんでしょ?」
心の底から見下すような、冷たい眼差し。
俺を見捨てた時の目と、全く同じだった。
「里久なんて大した価値なんてないんだし、そこの彼女も他に良い男がいればそっちに乗り換えるよ? 援交するヤリマンなんて、どうせ貞操観念終わってるんだし」
「霧島……っ!」
俺が詰め寄ろうとした、その刹那だった。ふっと、手から水守のぬくもりが消えて……やがて、ぱんっ、という軽い音がプールに響く。
水守が、霧島の頰を
「…………み、水守?」
そんな俺の声にも反応せず、水守は怒りを滲ませた表情で霧島を見つめるばかり。
「霧島さん。どうして里久君は、捨てられるまであなたと付き合い続けたと思う?」
霧島は答えない。何が起こったか分からない、とばかりにぽかんとするだけ。
「それくらい、里久君があなたのことを本気で好きだったからだよ。だから、騙されても傷つけられても、心がぼろぼろになるまで霧島さんのことを信じ続けたの。
その純情さは今でも変わらないよ。お人好しなくらい真っ直ぐな里久君だからこそ、こんな悪い噂ばかりの私のことも信じて傍にいてくれた。私はそんな里久君を、心から誇りに思ってる」
水守は、美しいくらい真剣な表情で口にする。
「里久君の想いを利用したあなたを、私は許さない──もう二度と私の里久君を侮辱しないで」
しん、と静寂が降りて……やがて、霧島がぽつりと口にした。
「………………はい。ごめん、なさい」
「ん、ちゃんと謝れて偉いね。叩いたりしてごめんね? じゃあ、ばいばい」
つかつかと俺の許に戻る水守を、その場の全員が啞然と見ることわずか数秒。
大声で沈黙を破ったのは梨奈だった。
「はあっ!? ど、どうしたんだよ、謝るなんてらしくないじゃん!? っていうか今の暴力だよ、ぼーりょくっ! 零花のお父様に頼んでさ、あいつ潰してもらおうよ!」
ぎゃーぎゃーと梨奈は叫ぶが、霧島にまるで聞こえている様子はない。ぽーっとしたような表情で、水守に叩かれた頰を撫でている。
「──水守さん、かあ」
「れ、零花……?」
まるで夢見る乙女のように、霧島は水守を見つめ続けるのだった。
「お待たせ。時間を取らせちゃったね」
「……い、いや。全然構いませんよ?」
水守って、あんなに激怒することあるんだ……今の迫力、怖すぎる……。
けど、それくらい水守は俺のことで怒ってくれた、ってことなんだよな。
水守は、俺の背後を見つめながら、
「涼音ちゃんも流花も、ごめんね。楽しい時間だったのに私のことに巻き込んじゃったね。……それに、隠してたこともバレちゃったし」
振り返れば、おろおろと小動物の如く慌てる涼音と、そして
「えと、べ、別に気にしてないですよ!? え、えんじょこーさいって、その、添い寝サービスみたいなものですよね! そういうお仕事があるの聞いたことありますよ!?」
涼音は衝撃の事実に現実が受け止めきれてないみたいだな……。
「……ううん、違うの。私がしてたのはそんな優しいものじゃなくて──」
「待って、結衣」
水守の言葉を止めたのは、来栖さん。
「その援助交際って自分のためじゃなくて……誰かのため、じゃないの?」
ほんの一瞬だけ水守の表情が驚きに染まり、諦めたように笑う。
「うん、そうだよ」
「そうなの。……なら、いいわ。結衣が話したくないなら、私は何も聞かない」
「……いいの?」
「気になることはたくさんあるけどね。でも、やっぱり結衣は結衣だって今の返事で確信したから。だったらいいかな、って」
来栖さんが、茶化すような笑顔で俺を見る。
「それに、あんなに力強く結衣を庇った人が近くにいるんだし、ね」
「……ほんとに、そうですね」
涼音の顔に浮かぶのは、優し気な微笑み。
「先輩も水守さんも、相思相愛だったんですね。……何となく、付き合ってるんじゃないかなー、って思ってましたけど」
きょとん、と俺と水守が顔を見合わせて……先に顔が赤くなったのは、多分俺だった。
言い訳なんて出来る訳がない、今のは公開告白みたいなものだ。涼音が見てるって頭では理解してたけど、言葉を選ぶ余裕なんて全然なかった。
わずかに頰を染めて、水守が口にする。
「うん、実はそうなんだ。今まで黙っててごめん。涼音ちゃんは大切な後輩だからって里久君は打ち明けたがってたんだけど、私が無理を言って……」
「いいんです。水守さんが隠してた理由って、私を傷つけないためですもん。それくらい、わたしだって分かりますよ? ……ねっ、水守さん。一つだけいいですか?」
まるで明日の天気でも話すように、涼音が口にする。
「水守さんは、先輩のことが好きなんですよね?」
「ちょ、待った待った! それはいくらなんでも良くないんじゃないかな……!」
それ本人が目の前にいるのに訊くかな普通!?
ほら、水守だってぽかんとしてる……と思ったら、頰を緩めて頷いた。
「うん、好きだよ。こんなに誰かを好きになったの、初めてだと思う」
「水守さんっ!?」
ちょっと待ってくれ、どうしてそんな堂々と言えるんだ。そして来栖さんは何で口元を押さえてぷるぷると震えてるんだ。
もしかして、みんなで俺を辱めようとしてるの?
「そっか……。あの、わたしの我がままを聞いてください。少しだけ、先輩を借りてもいいですか? 二人きりで話がしたいんです」
「……うん、もちろん」
「ありがとうございますっ。じゃあ先輩、いいですか?」
「あ、ああ。分かった」
小さく手を振る水守を
もう閉園も近くなり人も少なくなったけど、イルミネーションの輝きは
「ごめんな。水守と付き合ってるって、涼音にはちゃんと伝えたかったのに。あんな形で涼音が知ることになるなんて」
「あはは、確かにびっくりでしたね。でも、恋愛アンチの先輩が誰かを好きって言うなんて、すごく嬉しいんですよ? 先輩もやっと変われたんだな、って気がしますもん」
「……本当に、それだけか?」
「それだけ、って?」
「俺には、涼音がちょっとだけ無理をしてるように見えるから」
「……そうですね。本心を言えば、やっぱり寂しいです。あ、もうわたしだけの先輩じゃないんだなーって実感しましたから」
その言葉は痛いくらい分かる。
もし涼音に彼氏が出来たら俺も心から祝福するだろうけど、別の気持ちだって抱くと思う。それはきっと、巣立ちをする家族を見送る感情に似ている。
「でも、いいんです。相手が水守さんですから」
涼音の晴れ晴れとした表情。そこに、先程まであった
「あんなにはっきり好きって言えるくらい、先輩に夢中みたいですから。……ちょっとだけ、水守さんが羨ましいです。わたしはそんな男の人いませんから。昔は、この人のこともしかしたら好きかも、って相手がいたんですけど」
「えっ、そんなの初耳だぞ。それって俺の知ってる生徒、とか?」
「それは秘密、です」
涼音のいじわるな笑顔。まるで水守みたいだ、って少しだけ思う。
「わたしがいないと何にも出来ないって思ってたのに、先輩も成長したんですね。あーあ、もうわたしが守らなくても良くなっちゃったのかぁ」
「……もし俺が成長出来たなら、それは涼音のおかげだよ」
歩いていた涼音の足が、止まった。
「涼音がいなかったら、俺なんて高校に進学出来たかも分からない。何もかも嫌になって何処か遠くに行ってたかもしれない。こうして先輩として隣にいられるのは、誰でもない、涼音がいてくれたからなんだ」
少しでも誠意を伝えたくて、深く頭を下げる。
「改めて言わせてくれ。今まで、俺と一緒にいてくれてありがとう」
どれだけ時間が経っただろう。涼音の言葉を待つように、俺は頭を下げ続けて……やがて、すんすん、と音がした。
顔を上げれば、涼音がぼろぼろと泣いていた。
「あっ……す、涼音? 大丈夫か?」
「ぐすっ……ずるいです……しんみりしてる時に、そんな優しいこと言わないでくださいよぅ……!」
「……ごめんな。けど、本心だから」
まるで子どものように涙を流す涼音が、やけに愛おしい。それは水守に抱く好意とは違っていて、けれど涼音だからこそ芽生える胸のあたたかさだ。
「……もう。女の子を泣かせるなんて、サイテーです」
やがて涼音の泣き声が
「でも、約束してください。たとえ水守さんと付き合ったとしても、わたしは後輩のままですから。それだけは絶っ対に譲れません」
そして、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「だから──これからも、わたしの一番の先輩でいてくださいね?」
「……おう。もちろんだ」
多分、それは俺も同じ。もしいつか涼音に彼氏が出来て、俺だけの後輩じゃなくなったとしても、きっと今の涼音と変わらない願いを抱くだろう。