水守は俺たちのそばまで流れてくると、軽く手を振る。

「これ、結構気持ち良いね。このまま寝ちゃいそう」

「でもさ、浮き輪をちゃんと付けてないと危ないんじゃないか?」

「あはは、平気だよ? このプールあんまり速くないから落ちないってば」

 だけど、万が一ってこともあるし……そう思った直後だ。

 不意に、水守がプールに転落した。誰かにぶつかったわけでもないのに、唐突に。

 水守は泳げないのに。

 ぜんとしたのは一瞬、俺はプールに飛び込む……しかし、

 数秒後、何事もなかったかのように水守は立ち上がっていた。

「ほらね、このプール浅いから泳げなくても全然大丈夫──あれ、里久君は?」

「えっと、水守さんが落ちた瞬間にプールに飛び込みましたけど」

 涼音が指をさす。その先にいるのは、恥ずかしさのあまり水面から顔だけしか出せないでいる俺だ。

「里久君、いきなりどうしたの?」

「……いや。なんか急に行水したくなったから」

「そんなこと言って、水守さんが心配で飛び込んだんですよね?」

「っ!! な、何を言うかな涼音は! こんな浅い場所で溺れる心配なんてするわけないだろ、小学生だって遊べるんだぞこのプール!」

「そんな簡単なこと忘れちゃうくらい慌てた、ってことですよね。先輩らしくて良いと思いますよ?」

 朗らかに笑う涼音に言い訳を続けようとした、その時だ。来栖さんがプールに流されるまま、俺の前へと来た。

 来栖さんは無言のまま、にやにやと笑みを浮かべ、すーっと通り過ぎて行く。

 何なんですか、今の笑顔。

「まあ、里久君が水浴びしたくなったからって言うならそれでもいいよ?」

 優しそうに水守が微笑む。

「だから、これは私の独り言……心配してくれてありがと」

「……じゃあ、これも俺の独り言で。早とちりしたの俺だし、礼なんていいよ」

「ほら、やっぱり水守さんを助けようとしたんじゃないですか。こんな腰ぐらいまでしかないプールなのに」

「あーあー、聞こえなーい!」

 俺は耳を塞ぎながらそっぽを向いて、思わず固まった。

 俺を茶化す涼音を見つめる、水守の表情。それが、何だか苦しそうだったから。

 どうして、水守はこんな顔で涼音を見るんだ……そう思った直後だ。

 水守の横顔が、鮮やかに照らされた。

 同時に、わぁっ、とプールを楽しんでいた人たちの歓声が上がる。そして俺は、どうして俺たちがここに来たのか、その理由を思い出した。

 ああ、もうそんな時間なのか。

 まるで夜空や水面を照らすように、幻想的なイルミネーションが光り輝いていた。

「わぁ……っ! すごいです、なんかロマンチックですねっ!」

 彩りにあふれた光に包まれて、涼音が感嘆のいきこぼした。

 それは俺も同じだ。今までは、多くの人が憧れるイベントなんて自分には似合わないと避けていた。誰かに手を引いてもらわなければ、こんなに美しい光景を永遠に知らないままだったと思う。

「綺麗だね。まるで夢の中にいるみたい」

 水守が見惚れたように言うと、くす、と笑う。

「ねっ、里久君。良かったら一緒に写真撮らない?」

「えっ──あ、ああ。もちろん」

「じゃあ決まりだね。涼音ちゃん、ちょっとスマホで撮ってもらってもいいかな?」

「あっ、はいっ。喜んでですっ!」

 ドーナツの浮き輪に座りプールを流れる水守の隣を、俺は並ぶように歩く。手が届きそうで届かない、近すぎもせず離れすぎてもいない微妙な距離。俺と水守の距離と真逆だな、と少しだけ思う。

「じゃあ、撮りますよーっ?」

 水守は楽し気な笑顔をしていたけど、俺はく笑えていたか自信がない。水守と二人きりの写真なんて、初めてだったから。

 ……これも、あとで来栖さんにお願いして写真をもらわないとな。


 高校生でもナイトプールに入場出来るのは貴重なのか、ライトアップが始まってからは俺たちくらいの年代の人をよく見かけるようになった。あちこちで自撮りをしているその光景は、まさにナイトプールって感じがする。

 それは俺も同じで。つい先程まで水守たちを涼音のスマホで撮影ばかりしていた。女の子しかいない中、俺が写るのも居心地が悪かったしほとんど撮る側だ。

 存分に写真を撮り、そして今。俺は休憩がてらナイトプールを眺めていた。

「あれ、里久君一人だけなんだ。と涼音ちゃんは?」

 パーカーを羽織った水守が戻って来た。更衣室に行くって言ってたけど、上着を取りに戻ってたようだ。

「向こうに温水プールがあるとかでそっち行ったぞ。水守がいないのに離れるわけにもいかないし、俺はここで待機」

「そっか、お留守番偉いね」

「俺、もう高校生なんですけど。……水守は、涼音たちのとこ行かないのか?」

「興味あるけど、今はいいかな。ちょっとゆっくりしたい気分だから」

 水守が隣に座り、一緒にきらめく夜のプールを見つめる。

「更衣室に行くって言ってたけど、パーカーを取りに行ってたんだな」

「あんまり肌を露出してると、里久君が嫌がるかなって。彼女の水着姿を他の男の人に見られるのって、彼氏からすれば良い気分はしないでしょ?」

「確かに、水守をやたら見てる人もいたからな。正直かなり気になってたし、それ良いアイディアかも」

「なんだ、本当にそう思ってたんだ。冗談だったのに」

「えっ!?

 水守の小悪魔のような笑み。

「私は寒くなってきたから羽織ってるだけだよ? それに、その人だっていやらしい気持ちで見てたわけじゃないと思うけど。自意識過剰だなぁ、里久君は」

「……水守が無防備過ぎるんだよ。実際、水守はそれくらい可愛いし、スタイル良いし」

 まあ、俺の気にしすぎかもしんないけどさ……と、もやもやしている時だ。水守がぱっちりと目を開き俺を見ていて、思わずびくりとする。

「な、なんだよ」

「私を褒めるような言葉、里久君から自然に聞けるなんて思ってなかったから。いつも真面目な時くらいしか言ってくれないでしょ?」

「……別に、今までだって思ってたよ。恥ずかしいから口に出来なかっただけで」

「ん、そっか」

 機嫌良さそうに水守は微笑んで、ぶらぶらと足を揺らす。

 水守が見ているのは、芸術のようにも思える輝かしいイルミネーション。

「なんか、現実じゃないみたい。夏休みに誰かと出かけてこんな楽しい気持ちになれるなんて、ちっとも想像してなかったよ」

「大げさだな。水守みたいな一緒にいて楽しいやつなら、誰だって歓迎だろ」

「そんなことないよ。こんなに学校で嫌われてる女子なんて、普通関わろうとしないよ?」

 思わず、何も言えなかった。

 そうだった。夏休み中だからつい忘れていたけれど、水守は学校では……。

「高校生になった時から、輝かしいセーシュンとか忘れられないレンアイとか、そういうの全部諦めてたんだ。これから三年間、つまらない学園生活と戦わなきゃいけないんだって覚悟してた。私の噂、みんな知ってたからね」

「俺は知らなかったけど」

「それは里久君に友達がいなかったからでしょ?」

 ぐうの音も出ない正論だ。水守は小さく笑いながら、

「噂を否定しないのは私自身だから、全部自己責任でしょ? 誰かに悪意を向けられるのも、無視されるのも仕方ないって思ってた」

 でもね、と水守は言葉を継ぐ。

「やっぱり、ちょっとは寂しかったのかな。退屈な毎日ばっかりで、彼氏でも出来たら変わるかなぁ、なんて期待して里久君に告白したんだもん」

「えっ、そういう理由で俺に告白したのか?」

「初めはね。この人なら下心で迫って来ないだろうな、って信頼してたのもあるし。まあ、こんな悪い噂のある女子と付き合いたいなんて思うはずないし、駄目元の告白だったけど。……なのに、まさか付き合ってくれるなんて」

 楽しくて仕方ない、といった風な水守の笑い声。

「しかも、好きでもないのに彼氏になりたいなんて、ちっとも予想してなかった。恋愛感情もないのに相手を心配して交際してくれる人なんて、里久君くらいだよ?」

「……俺には、あれくらいしか思いつかなかったんだよ。水守のこと良い奴だって思ってたし、例の噂が本当なら傷つくし。何とかしたくて」

あきれるくらいのおひとしだよね。……でも、多分その瞬間なんだよね。この人にとって特別な存在になりたい、って思ったの」

「水守……?」

 思い詰めたような表情を浮かべる水守に、言葉が出ない。

「時々、怖くなるんだ。里久君、何処にも行かないよね? これが全部夢で、起きたら一人ぼっちになんかならないよね? ……私、やだよ。こんなに温かい気持ちで胸がいっぱいなのに、全部無かったことになっちゃうなんて」

 それは、耳を澄まさなければ風に消えてしまいそうなほど、はかなげな言葉。

 突然、水守は何を言い出すんだろう。

 こんな寂しそうな顔、普段なら絶対に見せないのに。

「何を心配してるかな、水守は。ほら、俺はここにちゃんといるのに」

 ただ水守を慰めたくて、自然に口から言葉は零れていた。

「──里久君」

 どこか切なそうに水守が俺を見つめる。その瞳が何かを求めてるように見えたのは、俺の気のせいじゃなかったと思う。

 水守のぬくもりを確かめたい。少しだけ、こっそり手をつなぐくらいなら──。

 ……いや、やっぱり止めよう。

 俺は今日、水守の友達としてこの場所に来てるんだ。もし、手を繫いでるところを涼音に見られたら? 言い訳なんて無理だ。

 そう、イルミネーションに目を移した時だ。

「先輩に水守さんも、プールをぼーっと眺めてどうしたんです?」

 俺も水守も、文字通り跳び上がった。

 髪から水を滴らせる涼音と来栖さんが、そこにいた。

 危なかった、手を繫いでたら間違いなく見られてた……!

「い、いやさ、こうして見るとやっぱ綺麗だなーって! ほら、なんか遊園地のパレードみたいだし」

「……? 先輩、変なの。でも遊園地かぁ、それも良いですね。今度考えておこうかな」

 涼音がぱっと顔を明るくすると、

「あのっ、水守さん! あっちにペア専用の絶叫ウォータースライダーがあるみたいなんです。良かったら一緒にどうですか……?」

「私と? うん、いいよ。いこっか」

「じゃあ、俺も付いていこうか? 撮って欲しいなら撮影する奴が必要だろうし」

「あっ……せ、先輩は来栖さんと一緒にいてください! ほら、ヤリモクさん?からガードしなきゃいけないんですよね!?

 うん、あんまり涼音の口からヤリモクって単語聞きたくなかったなぁ。ひょっとして来栖さんって教育に良くないのでは……?

「あ、ああ、分かった。じゃあ気を付けて」

「はいっ! すぐに戻ってきますので~」

 そう言って、涼音と水守は行ってしまった。

 途端に、来栖さんはじと~っと俺を見て、

「十神君。あなた、私たちが来る直前まで結衣とイイ雰囲気になってたでしょ?」

「……やっぱり分かります?」

「涼音さんにはバレてないみたいだけど、私たちがいないからって気を抜いたら駄目よ。十神君と結衣の関係は、涼音さんに秘密にしたいんでしょ?」

 反論の余地がないほど来栖さんの言葉は正しい。俺と水守が恋人同士でいるのは二人きりの時だけ。それは十分理解してるはずなのに。

 それでも水守のぬくもりを感じたいと思ったのは、あの瞬間、水守がおびえてるように見えたからかもしれない。

 ──里久君、何処にも行かないよね?

「…………」

 水守の手を繫ぎ損ねた右手に目を落とす。

 大丈夫だよな──水守こそ、何処か遠くに行ってしまわないよな?


◇   


 ほら、俺はここにいるのに──さっきの里久君の言葉が、ずっと耳に残ってた。

 らしくないことをしたな、って今でも思ってる。寂しいだとか怖いだとか、そんな弱音を零すなんて私だって信じられない。学校で一人ぼっちでも、下心しかない男子生徒に慣れ慣れしくされても平気でいられるくらい、強い人間でいたかったのに。

 自分が傷つかないためには、あらゆるものを諦める必要があると思う。

 友達も恋人も自分に無縁な存在だ。そう割り切ってしまえば、目に映るもの全てのリアリティがせる。生徒同士で談笑する幸せそうな光景に何も感じなくなるし、私への陰口だって笑って聞き流せるようになる。だって、私の世界とは無関係な存在だから。それが水守結衣の生き方だったはずなのに。

 それもこれも、全部里久君が悪いのだと思う。

 里久君といると、どうしようもないくらい落ちつくから。

 本当にどうしてしまったんだろ。最近、少しでも気を抜けばあの人のことばかり考えてしまう。

 涼音ちゃんと絶叫系を乗り終えた今だって、そうだ。

「ふにゅ~……さ、さっきのはなかなかハードでしたね……」

「涼音ちゃん、大丈夫? 抜け殻みたいになってるけど」

 満身そうといった風にベンチに座る涼音ちゃんの頰に、冷たい缶ジュースを当てる。意外なことに、涼音ちゃんは絶叫系が好きなのに得意じゃないみたい。

「あ、ありがとうございます……。やっぱり水守さんって凄いなぁ、あんなに激しかったのにけろっとしてるなんて」

「凄くなんてないよ、やせ我慢してるだけだから。怖かったけど、顔に出さないようにしてるだけ」

 高校に入ってから、感情を隠すのは得意になった気がする。

 実際、ポーカーフェイスは得意だって自負してる。恥ずかしい思いを隠して、里久君をからかうことなんて日常だから。

 ……まあ、耐えきれず赤くなっちゃうことも無きにしもあらずだけど。

 涼音ちゃんは飲み物を口にすると、

「よしっ、充電完了です! あの、水守さん。良かったらちょっとだけ散歩しませんか? こんなにイルミネーションが綺麗ですし」

「うん、そうだね。私も、もう少し涼音ちゃんと一緒にいたいって思ってたんだ」

 涼音ちゃんって私に無いものを持ってるから一緒にいて楽しいし……それに、

 前々から、涼音ちゃんにはきたいことがあったから。

「そ、そうですか? えへへ、なんか水守さんにそう言われると照れちゃいますね」

 涼音ちゃんははにかんで、私たちは園内を歩く。

 やっぱり、この時間帯だと若い人たちがずっと多い。カップルで来ている人たちもいて、どこかそわそわしたように手を繫いでナイトプールを眺めていた。

 ライトアップされた噴水の傍を通り、涼音ちゃんがぽつりと言った。

「今日は付き合ってくれてありがとうございました。何だか不思議ですね、住む世界が違うって思ってた水守さんとプールで遊ぶなんて」

「こちらこそだよ、私を誘ってくれる人なんて涼音ちゃんくらいだもん。流花とだって何処かに出掛けることなんてないんだから」

「そうなんですか? だったら嬉しいです。……わたしも、先輩とこういう場所来ないんですよ。先輩ってにぎやかな場所とか嫌いな人でしたから」

「でした、って過去形なの?」

「先輩、ちょっと変わったのかなって。多分、水守さんのおかげなんです」

 にこり、と涼音ちゃんが笑う。

「先輩って女の子が苦手だから、女友達なんて絶対に作れないんです。女の子としゃべったり笑顔を見せるなんて、本来は有り得ないんですよ?」

「そうかもね、里久君自身がそう言ってるし。でも、里久君も女の子慣れしても良さそうなのにね、こんなに可愛い後輩がいるんだから」

「それは無理ですよ。先輩はわたしのこと、異性として見てないですから」

 思わず、足を止めた。

「先輩にとってわたしは他の女の子と違うから、わたしは後輩でいられるんです。もし先輩がわたしのことを一人の女子として見てたら、絶対に今の関係じゃいられませんから」

 涼音ちゃんが浮かべるのは、冗談でも口にするような笑顔。だけど、私は笑うことなんて無理だった。

 涼音ちゃんは、あんなに里久君のことを慕っているのに。そんな言葉、どんなおもいで口にしたんだろう。

「だって、先輩とは中学の頃から一緒でしたから。先輩の女の子苦手エピソード集めたら一冊の本が出来ちゃうくらいですよ?」

 ……あのことを話してもいいのかな。

 戸惑いながらも、私は口にする。

「それってやっぱり、里久君が彼女に捨てられたっていうのが原因なの?」

「えっ……水守さん、先輩の昔のこと知ってるんですか!?

「うん。中学の時、悪い女子生徒に告白したって」

「……びっくりしました。それ、先輩に相当信頼されてますよ? そっか、水守さんに話したんだ……」

「里久君、涼音ちゃんに何度も感謝してたよ。涼音ちゃんがいなかったら立ち直れなかった、って。それくらい、涼音ちゃんって里久君にとって大切な存在なんだね」

「……そんな特別なものじゃないです。あの頃の先輩を知ってたら、誰だって助けたいって思いますから」

 噴水を見つめる涼音ちゃんの瞳は、憂いを帯びてる気がした。

「その女の子って、学校だと人気がある生徒だったんです。流行とか詳しくて、会話を盛り上げるのが上手な人。ほら、今まで出会った生徒の中で一人はいませんか? この人が喋ってると邪魔しちゃいけない気になる、っていうか」

「あっ、それ分かるなー。発言権が強い、っていうのかな。友達どころか教室全体の中心になってるみたいな生徒」

「そうなんですっ! それで男子の輪にも自然に入ったりとか、すごいなぁって感心しちゃうくらいなんです。……今思うと、あんまり好きになれない人でしたけど」

「どうして?」

「その女子生徒──きりしまさんっていうんですけど、話しかける相手を明らかに選んでるみたいでしたから」

「……あぁ、そっか。確かに、そういう生徒もいるかもね」

 だからこそ、その霧島さんって生徒は教室の中心になれたんだろう。

 友人が多かったり、部活で活躍していたり。そんな人気者と仲良くなれば、効率的にクラス全体の主導権を握ることが出来るから。

 だとすれば、霧島さんは自分にとって価値のある生徒かそうでないか、境界線を引いてたのだと思う。使えないなら切り捨てるくらいの、打算的な思考で。

 ……自分でもびっくりだ。会ってもいない人を、こんなに悪く言うなんて。

 理由なら自分でも分かってる。

 私は多分、怒ってるんだ。その霧島って女子生徒は、里久君を傷つけた相手だから。

「先輩はそんな霧島さんを好きになって……それで、利用されちゃったんですよね」

 その時の涼音ちゃんの表情は、今まで見たことがないほど悲し気だった。

「先輩、好きだった人と付き合えたってのろるくらい喜んでたんです。でも、日に日に元気がなくなって変だなって思って調べてみたら、わたしの友達が言うんです。それ、遊ばれてるだけだよって」

「………………」

 一瞬だけ、胸が苦しくなった。

「霧島さんが、彼氏面してどんな命令でも聞いてくれる、って楽しそうに友達に話してたらしいんです。知ってますか? 霧島さんのお父さんって資産家だから、欲しい物なんて大抵手に入るんです。なのに先輩に服や化粧品を買わせるんです、先輩の心を弄ぶために。

 わたし、それが許せなくて。何度も先輩に別れた方が良いって言ったんです。そしたら先輩、なんて答えたと思います?」

 今にも泣きそうな、涼音ちゃんの表情。

「それでも好きだからって、つらそうなのに無理やり笑うんです。あの時の先輩、見てられなくて。友達とか他の先輩に助けをお願いしても、霧島を敵に回すと立場が悪くなるからって見て見ないふりばっかりされて。だから、わたしも何も出来なくて。それでも、先輩、は──」

 涼音ちゃんの声がえつ交じりになり、しかし途中で驚いたように息をんだ。

 わたしが、涼音ちゃんを抱きしめたから。

「悲しいこと思い出させちゃってごめん。もう無理に話さなくていいから。……きっと、涼音ちゃんも苦しかったんだよね」

 誰にだって、思い出したくない過去はある。そんなこと、分かってるはずなのに。

 ただ涼音ちゃんに泣いて欲しくなくて、気が付けばこうしていた。

「……水守、さん?」

 涙を振り払うように、涼音ちゃんがぶんぶんと頭を振る。

「も、もうっ! 恥ずかしいですよ、水守さん。わたしが泣き虫なだけですから、気にしないでください」

 いつもの明るさを取り戻すかのように、笑みを浮かべる。

「その後は、多分水守さんも知ってると思います。先輩は捨てられちゃって、わたしがしつこく付き纏って一件落着って感じです」

「そっか。でも、里久君に涼音ちゃんがいてくれて良かったね」

「先輩ってその頃から友達少なかったですから。なんか、っとけなくて」

 照れたように涼音ちゃんの頰が緩んだ。

「でも、可哀かわいそうだからって理由で一緒にいたわけじゃないですよ? 先輩って人見知りですけど、面倒見が良いですから。高校受験の時だって勉強を教えてくれましたし、受かった時はわたしより喜んでましたもん。ああ見えて優しいんですよね」

 ……危ないなぁ。もう少しで激しく同意するとこだった。

「もう先輩が傷つくとこは見たくなかったですから、今の高校に入った時に決めたんです。悪い女にだまされないように先輩はわたしが守らなきゃって」

 後ろめたそうに、ちらり、と私を見る。

「だから、実は水守さんのことも注意してたんですよね。その、男を惑わす悪女だって聞いてたので……も、もちろん今はそんなこと思ってないですけどね!?

「……そうなんだ」

 涼音ちゃんの気持ちは痛いくらい分かる。私みたいにロクでもない噂がある女子が慕ってる先輩に近寄るなんて、きっと気が気じゃなかったはず。

 だからこそ、私は涼音ちゃんに確認しなければいけない。

 ずっと前から、涼音ちゃんに訊きたかったこと。

「ねえ、涼音ちゃん」

 きっと私は、とても繊細なことを尋ねようとしてる。もしかしたら涼音ちゃんを傷つけることだって。

 でも、向き合わなきゃいけない。これは誰でもない、私の問題でもあるから。

「涼音ちゃんって──里久君のこと、好きなの?」

 それは、ほんの一瞬の静寂だった。涼音ちゃんは、きょとん、とした顔で私を見つめていて。

 やがて、かーっと顔を真っ赤にした。

「す、すすす好きって、わたっ、わたしが先輩をですかっ!? そ、そんなことは……その、えっと……」

 涼音ちゃんはもじもじとしながら、

「ど、どうしてそんなこと訊くんですか……?」

「涼音ちゃん、里久君が入院してた時のこと覚えてる? 私と里久君が付き合ってるのかって、電話で質問したんだよね?」

「し、知ってたんですか!? あぅ……お恥ずかしい限りです」

「ごめんね。あの時、里久君のお見舞いに行ってたから。それで、涼音ちゃんは答えを聞く前に電話を無理やり切った、って里久君が言ってたけど──」

 瞳が揺れる涼音ちゃんに、躊躇ためらうことなく口にする。

「涼音ちゃんは、私たちが付き合ってるかどうか知るのが怖かったんじゃないかなって。……里久君のことが、好きだから」

 涼音ちゃんがやけに慌ててたと聞いた時から、もしかしてと思ってた。

 電話を途中で切ったのは、真実を知る心の準備が出来てなかったから。そんな涼音ちゃんが、私たちが付き合ってることを知ったら……だからこそ、私たちの関係を隠すことを里久君に提案した。

 悪い噂のある私が彼女だと涼音ちゃんが心配する、ってあながちうそでもないけど。一番の理由は、本当のことを話すのは涼音ちゃんの気持ちの整理がついてからにしたかった。

 そうしないと、涼音ちゃんが立ち直れないかもしれないから。

「それに、涼音ちゃんって里久君と仲が良いから。一人の女の子として好きになっても不思議じゃないかなって」

「……先輩と水守さんの関係が気になったのは、ほんとです。だって学校のみんなが、十神里久は水守結衣に片思いしてる、なんて言うんですもん」

 確かに、あの頃はそんな噂もあったっけ。

「それに、先輩が水守さんと食事をしてるのも、マンションに出入りしてるのも知ってましたから。その……つ、付き合ってるのかなー、って」

 照れたように涼音ちゃんが言葉を継ぐ。

「でも、水守さんの言う通りですね。先輩が誰かと付き合うなんて何かやだな、って思って。電話の向こうで先輩が喋る度にどきどきして、思わず切っちゃいました」

「じゃあ、やっぱり涼音ちゃんは里久君のことを……?」

 ふっ、と。涼音ちゃんが浮かべるのは、困ったような微笑み。

「それは、多分違います。……先輩に対して恋愛感情はありませんよ?」

 その涼音ちゃんの答えを聞いた瞬間。

 ふっ、と。胸が軽くなった気がした。

「……そうなの?」

「先輩のことを男の子としてカッコイイなーって思ったこと、少しはありますよ? 初めての彼氏が先輩だったら結構素敵かも、なんて想像したり。……でも、いつの間にかそんな感情も消えちゃいました。ほら、先輩ってわたしのこと女の子として見てないですから」

 ライトアップされた幻想的な噴水。遠くで聞こえる誰かのはしゃぎ声。

「それでも、私は先輩と一緒にいたいんです。だって、先輩って何か放っておけないじゃないですか。頼りになる後輩が一人はいてあげなくちゃ」

「……そっか。確かに、私も涼音ちゃんみたいな後輩が欲しかったな」

「じゃあ、これからは水守先輩って呼ばなきゃですね。……なんて、先輩以外にこういう呼び方をするとあの人が寂しそうにするんで止めときます。先輩が名前を呼んでくれる女の子だってわたしだけですもん」

 それは、羨ましいなと純粋に思う。私も結衣って呼ばれたい。

「でも、もし好きじゃなくても、先輩に恋人が出来たらやっぱり寂しいですかね。先輩って、世話のやけるお兄ちゃんみたいなものですから」

「……そうなんだ」

 心の何処かで、胸をろしている自分がいた。もし私が里久君の恋人だと知っても、涼音ちゃんが立ち直れないくらい悲しむことはない。それについてはほっとしてる。

 ……でも、それと同時に。

 里久君と交際していることを伝えるべきなのに、ひどく怯えている自分がいた。

 その理由は分かってる。

 私は里久君の恋人になる資格はないって、心の何処かで思ってるからだ。

「水守さん……?」

 いつまでも無言な私を心配してくれたのか、涼音ちゃんが顔をのぞむ。

 まるで、不安があふれるように。無意識に私は口にしていた。

「ねえ、涼音ちゃん。……私って、里久君と一緒にいてもいいのかな」


◆   


 初めは冗談だと思っていたのに、来栖さんを口説こうとする男の人はかなりいた。

「ねーえ、良かったら俺らに付き合ってくれない? 近くで洒落たバーを経営してる先輩がいるんだけど、そこで飲もうよ」

「ごめんなさい、今日は弟と遊びに来てるから無理かしら。私、ブラコンなの」

 大体はその言葉が決め手で、二言三言話してチャラ男っぽい人は諦める。

 何が悲しいって、その人たちに本当に弟だって思われてることだ。

 確かに来栖さんは大人びてるから大学生に見えても不思議じゃない。いやけどさ、一歳しか違わないのにこんなすんなり姉弟って思われることなんてある?

「来栖さん、俺が何をしたっていうんですか。あの人たちが弟だって信じる度に、俺の自尊心は粉々になってるんですけど……」

「ふふ、気を悪くさせたかしら。けど、たとえ噓でも里久君を彼氏なんて言ったら結衣に悪いでしょ?」

 それは、そうかもしれないけど。

 ふと見ると、さっきのチャラ男っぽい人は他の女の子もナンパしていた。凄い行動力だな、俺には絶対無理だ。ほら、あの女の子なんて愛想が悪いし、あんな態度されたら俺なんて一瞬で心が折れる──。

 …………ん?

 あの女の子、何処かで見たことあるような気が。

「十神君が女の子を凝視するなんて珍しいわね。浮気は駄目よ?」

「そ、そんなんじゃないですってば。ちょっと、見覚えがある気がして」

 年齢は高校生くらいだろうか。染めた茶髪と派手なネックレスが特徴的な、ギャルみたいな容姿。俺の知り合いじゃないのは確かだけど、だとすれば何でこんなに引っかかるんだろ?

 ……駄目だ、思い出せない。うー、なんだこの小骨が喉に刺さったみたいな感覚。

「いい加減うぜーよ。ナンパするならもっとまともな顔に生まれ変われっての」

 女の子はにやにやと笑い、男の人たちから去って行った。

 うわー、嫌な女の子……。

 さっきのチャラ男っぽい人たちも相当へこんだだろう、って思ってたら懲りずに別の女の子を口説いていた。鋼メンタルかよ。

「すみません、俺の勘違いだったみたいです。けど、未成年でも入れるナイトプールでもナンパ目的の人っているんですね。……はっ。そ、そういえば水守と涼音の帰りが遅いけど、もしかしてナンパされてるんじゃ……?」

「そんな心配そうな顔しなくても平気よ、涼音さんには結衣がいるんだもの。そこら辺の男が結衣をやり込めるなんて無理に決まってるわ」

 何でもないように、来栖さんがソフトドリンクを飲む。

「下心で迫ってくる男子生徒を、結衣は何度も拒んできてるんだから。それに比べたらナンパなんて可愛いものでしょ?」

「……それは、そうかもしれないですけど」

 思い出すのは、水守に近寄ろうと俺にれしく接してきた陽キャ生徒。

 きっと、水守の周りはあんな男子生徒ばっかりだったんだろうな。

「どうして、水守は噂を否定しないんですかね」

 その疑問が、思わず口に出た。

「もし水守が噂通りの女の子だったとしてもですよ。迷惑なら噓でもいいから否定すればいいのに。そうすればこんなに噂が広がることもないし、水守が孤立することもないのに」

「単純に考えて、結衣にそうしたくない理由があるんじゃないかしら」

 来栖さんの返答は、意外なくらい早かった。

 多分、来栖さんは俺の疑問をずっと前から考えていたんだろう。

「恐らく、結衣は噂を否定するわけにはいかないの。たとえば、周りの生徒が噂を信じてくれることが結衣にとってメリットになるから、かね」

 俺にとって、想像もしていなかった仮説だった。

「メリット? あんなロクでもない噂を、水守が望んでるっていうんですか?」

「ずっと不思議だったの。結衣は男子生徒からの誘いを拒み続けているのに、どうしていまだにビッチっていう噂が消えないのか。普通、簡単にヤれるって聞いてたのに誰も成功してないなら、噂は実は間違ってたって話題になると思わない?」

 確かに、来栖さんの言う通りだ。水守は一度も男子生徒の誘いに乗ったことはないのに噂はちっとも風化しない。

「でも、その理由なら見当がつくわ。結衣は自分自身の全ての噂を否定しないから核であるビッチって部分が既成事実になってしまってるの

「……どういうことですか?」

「他人の彼氏を奪うとか、教師と関係を持ってるとか、そんな最低な噂すら結衣は否定しない。そうなると、周りの生徒たちはそんなセンセーショナルな噂ばかり注目することになるの。すると、どうなるか。噂の前提である、水守結衣は誰とでも寝る女である、って部分を誰も疑わないようになるの」

 思わず、あいづちも忘れて来栖さんの言葉に聞き入ってしまった。

「それで、これは私の憶測なんだけどね……その状況を意図的に作っているのは、結衣本人だと思うの」

「………………………」

「だって学生生活に支障が出るくらいひどい噂なんて、真偽はどうあれ否定するのが自然でしょ? でも、結衣は決して否定しようとしない。それはか──結衣は、自分がビッチだとかヤリマンだとか言われることを、自ら望んでいるんじゃないかしら」

 確かに、そう考えれば怖いくらいつじつまが合う。

 初めて水守の家に泊まった夜、全ての噂が真っ赤な噓だって教えてくれたけど、その真実を周りに伝えることは拒んでいた。その時はどうしてか分からなかったけど、来栖さんの仮説が当たっているなら筋が通る。

 水守は、自分自身の悪い噂を必要としていたのか。

「来栖さんの言う通り、かもしれないですね。水守って、今まで一度も俺らに助けを求めたことがありませんし」