「里久君、さっきから緊張しっぱなしだね。初めてフーゾクに行く男の人ってこんな感じなのかな」

「ごほっ……! なんつー例えを言うんだよ……」

 おかげで、ブイヤベースでむせる、っていう人生初の経験をしてしまった。いやまあ結構的確だったけど、だからこそ問題だというか。

 くす、と水守が笑みを零す。

「うん、そんな風にいつも通りの方が良いよ。せっかく初めて里久君と一つ屋根の下で夜を過ごすんだもん。私だってどきどきしてるんだよ?」

「その割には、水守はいつも通りって感じだけどな……」

 けど、少しだけ気が楽になったかもしれない。

 スープを口に入れると、トマトの酸味が口の中に広がる。イカや貝は柔らかく、その幸福感につい口元が緩んでしまう。

「やっぱり、水守の料理はいな。作ってくれてありがとう」

「どういたしまして。まあ、料理を作るのも、料理を食べる里久君を見るのも、好きでやってるんだけどね」

 そう口にする水守は、満更でもない顔をしていた。

 食事を終えて、システムキッチンの食洗機に食べ終わった食器を仕舞う。

 ちなみに、水守がタワマンで暮らして一番なくてはならない設備がこの食洗機らしい。ついさっき、人類が生み出した最大の発明だと真顔で熱弁していた。

 リビングでくつろいでいると、水守がぽつりと口にする。

「じゃあ、恋人っぽいことでもする?」

「いきなりだな……。何か、水守楽しそうだな」

「だって、里久君とは外でいちゃいちゃなんて出来ないでしょ? こういう時くらいしか甘えられないし、せっかく夜遅くまで里久君と一緒にいるんだもん」

「相変わらず積極的だな……。一応聞いとくけど、たとえば?」

「とりあえずキスしてみる、とか」

 あまりの言葉にがくり、とうなだれる。

 そんな、とりあえず生、みたいに言われても。キスってそんな軽いノリでしていいものじゃないと思う。

「なんて、冗談だけどね。前も言ったけど、一回目は私が強引にしたから。次は里久君から、って決めてるもん」

「水守さ、どうせ俺が出来ないと思ってそういうこと言ってるだろ?」

「まあ、それが里久君の良いとこでもあるから。彼女の家に泊まるなんて、彼氏なら期待する人だっていると思うし。な里久君だから積極的になれるのかな」

 その言葉に、少し躊躇いながら口にする。

「じゃあ、こういう時女子はどうなんだ。その……水守も、期待するのか?」

「どうかな。女子だって、一線を越えても良い、って思う人だっていると思うけど。少なくとも、私は里久君ならいいかなって思ってるよ?」

「……それ、俺のことからかってる?」

「さあ、どっちだと思う?」

 かあっ、と顔が熱くなった。

 どうしよう。今なら、何をしたって許されるような気がする。手を握るくらいならきっと水守は拒絶しないだろう。ほら、行け。勇気を出せ。水守の家に泊まるなんて絶好の機会はもう二度とないかもしれないんだから──!

「そ、そういえばさ、彼女の家に遊びに行った時って卒業アルバム見るのがお約束だよな」

 はい、見事に逃げました。

 とでも何とでも好きなように呼んでくれ。俺だってそう思う。

「もう水守の家には何度も来てるけど、中学の頃の水守って見たことないし一緒に卒業アルバム見てもいいかもな」

 ……? どうしたんだろう。水守、驚いたように固まってる。

 そこまで考えて、やっと気づく。

 水守は今まで、一度も中学時代のことを語ったことがない。

 何故なら、それは水守の噂に関することだから。水守に悪い噂が流れる理由、水守が噂を否定しない理由。それを誰にも知られないよう、水守はかたくなに過去を秘密にしていた。

 そして、俺は無自覚にも水守の過去を知りたいと口にしてしまっている。

「わ、悪い。嫌なら無理にとは言わないから」

「……ううん、別にいいよ? えっと、アルバムって何処にあったかな」

 拍子抜けするくらいあっさり、水守は頷いた。

 俺がぽかんとしていると、水守は別室へと行った。一〇分くらいっただろうか、戻ってきた水守が手にするのは、高級そうな装丁をしたアルバム。

「待たせちゃってごめんね、適当にクローゼットに押し込んでたから探すのに時間かかっちゃった」

「いや、それは全然良いけど。水守は大丈夫なのか?」

「大丈夫、って?」

「だって、水守って昔のこと喋りたくないみたいだから。中学の頃の水守を見たいなんて、困らせちゃったかなって……」

「まあ、ちょっと抵抗はあるかな。でもいいの、里久君だって観覧車に乗った時、過去のこと話してくれたから。私のことは気にしないで」

 水守が卒業アルバムをテーブルに置く。表紙に書かれた学校名を見て、俺は絶句した。

 せいこう女学院中学校──県内で屈指のお嬢様学校だ。

「噓だろ、水守って聖女の卒業生だったのかよ!?

「まあね。びっくりした?」

 俺の県で暮らしてる生徒で、聖女を知らない奴なんていない。偏差値は県内トップであり、中学の段階で第二外国語を学ぶという。伝統を重んじるが故に厳格な校則が残っていることでも知られ、聖女を卒業したこと自体がステータスになるくらいの名門校。

「一応確認するけど、これも俺をからかうための小道具とか……?」

「信用ないなぁ。こんな手の込んだことしないってば」

「いやでも、水守ってお嬢様って感じ全然しないから。どっちかっていうと、その……男の扱いが上手い小悪魔、っていうか……」

「男の扱いじゃなくて、里久君の扱いが上手いって言って欲しいけどな。これでもちゃんとお嬢様してたんだから」

「堂々と童貞を殺す服を着る人をお嬢様とは呼ばないと思うけど」

「お嬢様である前に、私は里久君の恋人だから。照れる里久君を見るためなら恥ずかしい格好くらい平気だよ?」

 こっちが動揺しそうになる言葉をはっきり言わないで欲しい。

「あれ、だけど聖女って確かエスカレーター式だよな。ってことは……」

「高等学校には進まなかったんだ。中学の時、色々あったから」

「……そっか」

「何があったか訊かないんだ?」

「水守は話したくないんだろ? だったらそれで良いよ」

 もちろん、その色々を知りたいという気持ちはある。けど、水守の秘密に無理やり足を踏み入れる権利なんて誰にもない。

 こうしてアルバムを見せてくれるだけでも、きっと相応の覚悟は必要だったはずだ。それだけでも十分以上に嬉しい。

「なるほどな、だからこのタワマンに住めるわけだ。聖女っていえばとにかく学費が高いことで有名だもんな」

「娘に不便な思いはさせられない、ってパパが勝手に契約してたんだってば。私はもっと安い部屋でも良かったのに」

「でも、それくらい娘のことを心配してるってことだろ?」

「……うん。一人暮らしさせてくれて、パパとママには感謝してる。二人には迷惑もかけちゃってるし」

 名門学校を辞めて一人暮らしをせざるを得ないほどだ、きっと余程の理由があったんだろう。それでも両親と仲が良くてほっとした。

 アルバムを開くと、文化祭や修学旅行のワンシーンを撮影したいくつもの写真が載っていた。それらの写真をざっと見渡し……見つけた。

 聖女の制服を着た、中学時代の水守。

 文化祭の準備だろうか、水守は筆を片手に看板に着色をしていた。周りには同級生の女子が何人も手伝っていて、その誰もがカメラに向けて楽し気に笑っている。もちろん、水守だって。

「あっ、懐かしいなぁ。これ、クラスで喫茶店をした時にみんなで作ったんだ。この後ペンキ零しちゃって大惨事だったんだよね」

「……そうか。なんか、青春してるな」

 きっと、この頃の水守には多くの友達がいたのだと思う。

 今みたいに一人ぼっちなんかじゃなくて、俺や涼音や来栖さんみたいに水守に好感を持った生徒がたくさんいたはずだ。じゃないと、こんな風に笑えるはずがない。

 他人の彼氏を奪うとか、男なら誰でも良いとか。水守にそんな噂が流れるのが、やっぱり俺には到底信じられない。

 ……いや、暗い考えは止めよう。そういうの水守に悪いし。

「けど、聖女って文化祭とかするんだな。お嬢様学校っていうからもっと厳しいものだと思ってた」

「お堅いからこそ、年間行事で羽目を外してるって感じかな。それに、名門でも隠れて悪いことやってる生徒もいたしね」

 言いながら、水守は写真のとある生徒を指さす。

「この娘は校則で禁止されてるのに、他校の生徒と恋愛してたみたいだし。あと、他の生徒はスマホを持ち込んだり、こっそり髪型を変えてたりしてたかな」

「それ全部校則違反って凄い世界だな……。じゃあさ、水守がどんな生徒だったか知りたいし寄せ書きを見てもいいか? えっと、ページは──」

「別に良いけど、面白くないと思うよ? メッセージなんて誰も書いてないから」

 ページをめくろうとした手が、固まった。

「卒業の頃にはもう、誰も私と関わろうとしなかったから。今の学園生活と大して変わらないかな。何となく想像つくでしょ?」

「……そっか」

 やっぱり、中学の時に何かあったのか。

 そう思うと同時に、俺は水守に微笑んでいた。

「なら、俺とあんま変わらないな」

「えっ?」

「俺も当時友達なんて全然いなかったからさ、寄せ書きを書いてくれる奴いなかったんだよな。流石にその時は結構寂しくて、でも書いてくれとも言えないから冗談混じりに涼音にだけ話したんだ」

「涼音ちゃんに……? それでどうしたの?」

「ページが埋まりそうなくらいでっかく、卒業おめでとうございます、って書かれた。良かったら俺も水守のアルバムに書こうか?」

「……それ、一年と数ヵ月くらい遅いかな。私、とっくに中学卒業しちゃったから」

 呆れたような水守の笑顔。うん、やっぱり水守は笑ってる方が似合ってる。

 ページをめくり、日常を過ごす聖女の生徒たちを眺める。探すのはやっぱり水守の姿だ。ほとんど知らない水守の過去。その姿を見つけるだけで、ほんの少し水守に近づけるように思えた。

 あった。中学時代の水守の写真。これは修学旅行だろうか、水守がカメラに微笑みを向けて観光地を歩いている。

「……あれ?」

 その水守の隣には、一人の女子生徒がいた。

 大人しそうな、優し気な女の子だった。水守に手を引かれるようになかむつまじく肩を並べていて、はにかんだ笑顔を水守に向けていた。

 さっきの文化祭とは違う、水守とその娘だけの二人きりの写真。

「なあ、水守。この娘と仲良さそうだけど、もしかして友達──」

 そう、俺が言葉を口にしようとした時だった。


 まるで奪い取るように、水守がアルバムを閉じた。


「えっ──」

 予想外の行動に言葉を失い、水守に視線を移す。

 その一瞬見えた水守の表情は、今まで見たことがないくらいこわっていた。

「……あ、あはは。今のは気にしないで。えっと、もう卒業アルバムは十分だよね。次は何をしよっかなぁ」

 部屋へ去ろうとする水守に、胸のざわざわが止まらない。

 もしかして水守は、あの少女の存在を俺に隠しておきたかったのだろうか。多分、卒業アルバムに写真が載っていることを忘れて俺に見せてしまったのだと思う。でなければ、水守があんなに動揺するはずがない。

 じゃあ、どうしてあの大人しそうな女の子の存在を秘密にしたかったのか。それは分からない……だけど。

 今まで、水守が自分の過去を隠していた理由。そのへんりんを見たような気がした。


 時刻が一〇時を回っても、エレベーターは直る気配はなかった。

 スマホで調べてみると、地震が大きかった場合技術者が点検をする必要があるのだが、病院や公共施設が優先されるらしい。いつ技術者がこのマンションに来るか、誰にも分からないようだ。

「やっぱり、エレベーターは動かない?」

 ふと、その声に顔を上げる。

 そこにいるのは、パジャマに着替えた水守だ。俺より先に風呂に入った水守はもう上がったらしく、手入れをしたばかりの髪はさらさらで、湯上がりの頰は上気している。

 初めて見るパジャマ姿に見とれたのは一瞬、俺は慌てて目を逸らす。

「あっ、うん。あれから余震がないのは良かったけど、やっぱり水守の家に泊まることになりそうだ」

「そうなんだ。里久君もやっと覚悟を決めたみたいだね?」

 卒業アルバムの例の写真を見た時は空気がひりついたけど、ご覧の通り水守はいつも通りに戻っていた。お風呂で気分転換出来たのか、それともただ感情を表に出さないようにしてるのか。前者だと良いな、と思う。

「お湯が冷める前に、里久君もお風呂に入ったら?」

「ああ、悪い。浴室借りるよ。……ただ、シャワーだけにしとこうかな。水守が入った後に使うのも悪いし」

 というより、初めから湯船を使う気がなかったから水守に先に入ってもらったんだけど。

「私に悪いって、どうして?」

「いや、だって女の子はこういうの嫌だろ。自分が入った後に男が湯船を使うとかさ」

「知らない男の人ならね。でも、里久君は彼氏だから全然平気だよ? そんなの気にしなくていいのに」

「いや、でもシャワーだけにしとくよ。やっぱり水守に悪いし」

「……そっか。じゃあ、シャンプーを使うなら青色のボトルがおすすめ。他のは女性向けで里久君に合わないと思うから」

「分かった、ありがとな」

 いつも髪が綺麗だし、こだわりとかあるのかな。とりあえず泡立てば何でも良い俺からすれば使うのも恐縮するな……。

 数十分後、シャワーを済ませると水守が、

「今日の寝る場所なんだけど、私のベッドでも良い? 一晩寝るにはソファは小さいし、床なんて絶対に無理だもんね」

「まあ、そうなるよな。俺は構わないよ。泊めさせてもらってるんだから、水守がベッド使うのは当然だよな。俺は床でも問題ないぞ」

「……? 里久君、何か勘違いしてない? ベッドを使うのは里久君の方だよ。腰を怪我してる人をソファや床で寝させるわけないでしょ?」

「えっ? いやでも、そしたら水守が……」

「そんなの心配しなくてもいいのに」

 にこりと笑い、水守はさも当然のように言う。

「私、ベッドじゃないと寝れないんだ。だから、里久君と一緒に寝れば解決でしょ?」

 おい、おいおいおいおい……!

「い、いや、それはいくら何でも……」

「どうして? 私のベッドけっこう大きいから、里久君がいても余裕だと思うけど」

「サイズの問題じゃないって。未成年の女の子が、男子と一緒に寝るべきじゃない」

「そうだね、知らない男子ならそうだと思うよ。でも里久君は彼氏でしょ? むしろ、そうやって気を遣われる方が嫌なんだけどな」

 ぐい、と水守が俺に詰め寄る。

「それに、里久君は私のこと拒絶しないんじゃなかったの?」

「うっ……」

 痛いとこ突いてくるな……。確かに水守の言う通りだ。一緒に寝て欲しいというのが水守の頼みなら、俺は極力受け入れるべきなんだろう。

「あ、ああ。分かった。これも仕方なく、だよな。また入院なんて笑えないしな」

「ん、分かればよろしい」

 むっとした表情で、水守はリビングに座るのだった。

 ……水守さん、もしかして不機嫌になってる?


 それから数時間のことは、寝る時のことで頭がいっぱいでろくに覚えていない。

 そして今、俺はベッドを使うために水守の寝室にいた。

「…………」

 初めての水守の寝室に、妙に緊張してしまう。

 きちんと整理されたデスクや本棚に、ぬいぐるみが飾られた壁掛けラック。水守って鞄に熊とかリボンのアクセサリー付けてるし、結構ファンシーなものが好きなのかも。

「水守って、結構ぬいぐるみ集めてるんだな」

「ちょっと子どもっぽいけどね。昔から可愛いものが好きで捨てられずにいるんだ。抱いたまま寝ることもあるけど、今日はしないかな。代わりに里久君を抱きしめればいいから」

 ……危ない。今の、もうちょっとで照れが顔に出るとこだった。

 ま、まあ、今度プレゼントするかもしれないし、どんなぬいぐるみがあるか覚えとこうかな。ちなみに、案の定というか一番多いぬいぐるみは猫だ。

「里久君、こっちに来て?」

 ベッドに腰かけた水守が、ぽんぽんと布団を叩く。そのまなしは絶対に逃げるなよというプレッシャーすら感じる。

「あ、ああ」

 ベッドに潜ると、背中越しにもぞもぞと動く気配。水守もベッドに入ったのだろう、同時に胸の高鳴りが激しくなる。

「おやすみ。また明日、だね」

「……うん。おやすみ」

 水守がリモコンを操作し、部屋のあかりが消えた。

 寝返りでも打てば水守と密接してしまうくらいの至近距離。部屋は無音なのに、耳元で鳴ってるのかと思えるくらい心臓の音がうるさい。

 こんなの、眠れるわけない。

 けど、水守の良い匂いが鼻をくすぐっていて、ずっとこうしていたい……なんて、口にしたら水守に嫌われるだろうか。

「ねえ、もう寝た?」

 ぽつりと、水守のつぶやくような声。

「私はもう少し起きてたいかな。なんかね、不思議と落ち着くんだ。里久君の匂いがするからかな……なんて言ったら、笑う?」

「……笑わない。俺も水守の匂いがするって思ってた」

「ん、そっか」

 もしかして水守も寝れないのかな、なんて思った時だ。

 突然、水守が俺の手を握った。

「っ! み、水守? いきなりどした……?」

「逃げられないように、里久君と手を繫いどこうかなって。ほら、私が寝た時にこっそりベッドから抜け出すかもしれないでしょ?」

「そんな理由かよ! 信用ないなぁ、俺」

「……多分、寂しいのかな。里久君に距離を置かれてるな、って思うことがあるから」

「……水守?」

 背中越しだから、水守がどんな表情をしてるか俺には分からない。けれど、その声は切なそうだった。

「さっきのお風呂もだけど、里久君は私を避けてるような気がするから。初めの頃みたいに形だけじゃなくて、今はちゃんと付き合ってるのに」

 多分、水守の言う通りだ。水守に嫌われたくなくて、俺は過剰に気を遣っているのだろう。まるで傷つくことを恐れて距離を置くヤマアラシのように。

「なんて、ごめんね。里久君が女の子苦手なこと、知ってるのに。それに、里久君だって頑張ってるのにこんなこと言っちゃダメだよね」

 背中から伝わる、水守のぬくもり。

「私のためにお洒落な服を着たり、地震の時に庇ってくれたり、里久君が私のことを大切にしてくれてるって分かってるはずなのに。もっと私を見て、なんて里久君からすれば迷惑だよね」

「……そんなことないよ、水守の気持ちも分かるし。俺だって自分のこと恋愛下手な臆病者だって思うから」

 だからこそ、少しでも水守への抵抗を失くすように特訓だってした。水守を照れさせる、っていう目標だって達成出来た。

 ……だけど、まだ水守を不安にさせているというなら。

 俺は、水守に伝えるべきなのかもしれない。

 これからも、水守の彼氏であるために。

「あのさ、水守。ずっと隠してたことがあるんだ。……どうして、俺が異性が苦手なのか」

「里久君……?」

 いつもと違う雰囲気を感じ取ったのだろうか、水守の不思議そうな声。

「それは、観覧車に乗った時話してくれたでしょ? 女の子に好かれるより嫌われることの方が多かった、って」

「そうだけど、俺の中でちゃんときっかけがあってさ。それは黙ってたんだ。……カッコ悪いところなんて、水守に知られたくなかったから」

「それを私に話してくれるの? ……無理しなくてもいいんだよ?」

「別にいいよ、昔の話だし。それに、水守には知ってて欲しいんだ」

 それは涼音しか知らない、忘れられない俺の思い出だ。

「俺さ、中学の頃に女の子と付き合ってたことがあるんだ」

 言った瞬間、ぱっと部屋の灯りがいた。

 何事かと振り返れば、いつの間に立ち上がったのだろう。むすっとした顔で仁王立ちする水守が、そこにいた。

「み、水守……?」

「里久君、ちょっとそこ正座。今の話詳しく聞かせて。朝まで話し合いしなきゃ」

「ま、まあまあ。ちょっと落ち着こうか? なっ?」

「だって話が違うもん。里久君、今まで恋人なんていなかった、って言ってたよね?」

 あかん、目が本気だ……!

「いや、水守が初めての彼女って言うのは噓じゃないんだ。だって、その時の女の子と付き合ってるって思ってたの、俺だけだったから」

「……どういうこと?」

 灯りが点いたまま、水守は再び俺の隣で横になる。

 俺は壁側に目を向けるよう姿勢を変えた。こんな話、水守を見ながら話すなんて無理だ。

「その娘は学校でも可愛いって評判の女の子で、男子からすごく人気があったんだ。俺もその一人でさ、初めて会った時からずっとその娘のこと気になってた」

 思えば、異性をあんなに意識したのは、あれが初めてだったかもしれない。

「で、どうせ無理だよな、とか思いながら無謀にも告白したら、奇跡的にオーケーされたんだ。私も気になってた、なんて言ってさ」

「……やっぱり、付き合ってるように聞こえるんですけど」

「その時はな。俺だって憧れの女の子と恋人になれて夢みたいだ、って浮かれてた。……実際は全然違ったのに」

「違った?」

「俺はただ、利用されてただけなんだ。その娘にとって俺は彼氏なんかじゃなくて、奴隷だった」

 口にして、胸がきゅっとした。

 思い出す。記憶から消したいのに忘れられない、心に焼き付いた傷跡。

「ずっと付き合いたかったからさ、その娘のためなら何でもした。服とかコスメとか贈ってその娘がありがとうって言ってくれるだけで、彼氏として胸を張れる気がした。

 その娘も賢くてさ、何かを欲しいなんて絶対に言わないんだよな。この服が素敵だとか一言言えば、俺が買うんだから」

 ──ありがとう。里久って優しいね。

 その娘にそう言われるだけで、自分が特別な存在に思えた。本当、大した女の子だ。その一言が、俺にどんな要求でも叶えさせるパスワードだって理解してたんだから。

「その娘の期待に応えることが彼氏の甲斐性だって思ってた。実際は、その娘はただの財布くらいにしか思ってなかったんだろうけど。

 何しろ、その娘と恋人らしいこと一切したことなかったから。手だって繫いだことなかったんだ」

「……うん」

 水守は、ただあいづちを打つばかり。俺の話を肯定も否定もしないでただ聞いてくれる、そんな水守がたまらなく嬉しい。

「一度だけ、もう無理だってその娘に反発したらさ、デートの途中なのに帰られてさ。そこで目をませば良かったのに、別れたくないなんて思っちゃったんだよな。

 だから、明らかに中学生の限度を超えてたけどその娘に従い続けた。無理に笑って、彼氏だから仕方ないなんて言い聞かせて。ただ嫌われることが怖かっただけなのにな」

「ん、そうなんだ」

「でもさ、嫌われるも何も、その娘は俺のこと何とも思ってなかったんだ。だって、いつの間にか他の男子と付き合ってたんだから」

 水守の相槌が、止まった。

「その娘からすれば、俺と付き合ってるなんて意識すらなかったんだろうな。別れよう、なんて言葉もなかったし」

 その娘が手を繫いで歩いてたのは、俺とは比べものにならないくらいクラスで人気の男子生徒だった。

 どうして、俺以外の男子と手を繫いでるんだろう。彼氏は俺のはずなのに。

 ぼうぜんとする俺に気づいた、その娘の瞳。あわれみだとか同情だとか侮蔑だとか嘲笑とか、そんなものは一切なかった。

 何の感情も込もっていない、冷めた瞳。

 その瞬間、その娘の世界にとって、俺は何の価値もないのだと思い知らされた。

「本当のこと言うと、利用されてるって薄々気づいてたんだ。だっておかしいだろ、その娘が別の友達を見つけた時とか俺と別行動するのに、代金だけは俺が払うんだから。

 でもさ、認めたくなかったんだ。その娘のこと、好きだったから。

 いっそ嫌いだとか、興味ないって言ってくれた方がずっと楽だった。それでも、その娘は俺のことを優しいなんて言うから。馬鹿みたいにその言葉にしがみついてた。

 結局、最低の終わり方だったけど。捨てられたどころか、初めから付き合ってすらいなかったんだよな」

 息苦しさに、ゆっくりと深呼吸をする。大丈夫、すぐ傍に水守がいてくれてる。

「それから、女の子のことが怖くなった。いつだって、損をするのは恋をした方だから。傷つきたくないから異性から逃げ続けてたんだ」

「……そっか」

「でも、一人だけやけに声をかけてくれる女子がいてさ、それが涼音だった。あいつとは委員会が同じで元々接点があったんだけど、見てられないくらい落ち込んでたんだろうな。止めてくれって言ってんのに飯とか誘おうとするんだよ」

「……良い子だね、涼音ちゃんって」

「涼音には感謝してもしきれないよ。その時の俺に関わろうとする生徒なんて、涼音くらいだったし」

 ──だって先輩、目を離したらどっか遠くに行っちゃいそうな顔してますもん。

 平然とそう言う涼音に、なんだよそれ、って内心で呆れたことを覚えてる。

 特別深い関係でもないのにしつこく付き纏うところが涼音らしいというか。そのおかげでここまで仲良くなれたんだけど。

「だからさ、今まで彼女がいないって言葉、噓じゃないんだ。あんなの、付き合ってたなんて言えないから。告白を受け止めてくれたのも、デートをしたのも、彼女が出来たのも。全部、水守が初めてだよ」

「……うん」

 若干の沈黙の後に、水守がささやくように口にした。

「どうして、そんな昔のこと話す気になってくれたの? 里久君にとって、忘れたい思い出のはずなのに」

「そうだな……水守に安心して欲しかったから、かな」

 ほんと、背中越しで良かった。こんな言葉、水守を見ながらだったら絶対口に出来ない。

「水守の言う通り、俺は臆病なくらい水守と距離を置いちゃってるんだと思う。けど、それは水守が嫌いなわけじゃなくて、過去に嫌な出来事があったからだって知ってて欲しかったんだ。……だからさ」

 迷うことなく、はっきりと口にする。

「俺も、水守の彼氏として一緒にいたいから。もうちょっとだけ待っててくれないかな。俺も頑張るから」

「……里久君はもう、十分頑張ってるよ。自分を変えるために行動してるの、傍で見てて凄く伝わってくるから。むしろ、過去と向き合わないといけないのは──」

「……水守?」

 不意に水守が口を閉ざし、思わず振り返りそうになる。むしろ過去と向き合わないといけないのは──その先に続く言葉って何だ?

「ねえ、里久君。そういえば、私の罰ゲームまだだったね」

「罰ゲームって……ああ、最後のババ抜きの」

「うん。地震でうやむやになったけど、負けは負けだし、ちゃんと罰ゲームは受けなくちゃダメだよね」

 突然、水守は何を言い出すんだろう。

 そう、疑問を抱いたのは一瞬だ。

「だからね──噂の真実、教えてあげる。この世界で誰も知らない、私だけの隠し事」

 銃弾で胸を撃ち抜かれたように、硬直した。

 水守は今、なんて言った? 私だけの隠し事って……。

「誰にも言わないって、約束してくれる? 流花にも涼音ちゃんにも絶対に内緒にして欲しいんだ。里久君だから、話すんだよ?」

「……分かった、約束する。水守が秘密にして欲しいっていうなら、誰かに脅されたって話さない。絶対に」

 こんなの、水守は軽々しい気持ちで口になんてしない。それくらい、その秘密ってやつは水守にとって重い。

「里久君だって気になってるよね? ヤリマンとか、ビッチとか、それに中古だっていう学校の誰もが知ってる私の噂」

 ほんの一拍、無言になる。

 その静けさはまるで永遠のように思えて……やがて、水守が口にした。

「あれね、全部噓──そんな経験、したことないんだ」

 気がつけば、俺は弾かれるように起き上がり、水守を見つめていた。

 心の底からこみ上げてくるように、自然に言葉にしていた。

「良かった──本当に、良かった」

「ほっとした?」

「……ああ、正直凄くしてる。水守は好きでもない男と寝る女の子じゃない、って信じてたけど、それでも不安になる時もあったから」

 無論、もし噂が真実だったとしても、俺の水守へのおもいは変わらない。

 けれど、どうして水守は噂を否定しないのか。そんな疑心につぶされそうな夜もあって。やっと水守が秘密を教えてくれたことが、何より嬉しい。

「今まで黙っててごめん。里久君、不安だったよね?」

「いや、別にいいよ。今こうして話してくれたんだし。……でも、どうして隠すんだ? 噂が噓ならそんなことする理由無いと思うけど」

「たとえば、だよ。学校の生徒が、水守結衣は中古のロクでもない女だー、なんて言ったら里久君は絶対に庇うでしょ? 水守がそんな事実は無いって言ってたぞ、って」

 多分、言うと思う。噂の真偽が分からないなら耐えるしかないけど、真実を知った今ならはっきりと否定するだろう。

「里久君は絶対に私の味方をするから、言えなかったの。……たとえ真実と違っても、ヤリマンとかビッチっていう悪い噂を否定出来ないから」

「悪い噂を否定出来ない……?」

「だからもう一度言うよ。私の噂が間違ってるってこと、誰にも言わないで。他の人が、水守は貞操観念の欠けた中古だって言ってても、我慢してて欲しいの」

「えっ? でも噂は噓なんだろ? どうしてそんなことを……?」

 けれど、水守は目を逸らし迷う素振りを見せるだけ。

 ああ、そっか。水守にはまだ、俺に話せないことがあるのか。

「分かった、水守がそうして欲しいならそうする。理由だって無理には聞かない」

「……いいの? 私、呆れるくらい自分勝手なこと言ってるよ」

「別にいい。水守にも事情があるはずだし、誰かを傷つけるためじゃないはずだから」

 思わず、頰が緩む。

「それにさ、今まで隠してた秘密を教えてくれただけでも嬉しいんだ。本当は、俺に打ち明けることだって水守にとって都合が悪かったんだろ? なのに頑張って話してくれた水守を責められないよ」

「……里久君に嫌われるの、怖かったから」

 突然の言葉に、自分の耳を疑った。

「水守……?」

「こんな悪い噂ばっかりなのに何一つ否定しない彼女なんて、いつ見捨てられても不思議じゃないもん。ある日突然里久君に愛想を尽かされるんじゃないかってことばかり考えてて……そんなの耐えられないから。ずっとほんとのことを話したかったんだ」

 それは、俺をからかってばかりの水守からは想像も出来ない弱々しい言葉。

 そういえば以前、似たような言葉を水守から聞いたことがある。

 俺がまだ入院してた頃、水守が俺の反応を楽しむためにわざと口にした弱音。

 ──だって、彼氏に大切なことも話せない彼女なんて、サイテーだから。里久君が愛想を尽かして別れたいって言っても、不思議じゃないなって。

 あれは、本心だったんだ。

「そんなこと思ってたのか……? 俺が水守を嫌うとか、心配し過ぎだろ。俺にはもったいないくらいの女の子なのに」

「そんなこと全然ないよ。……私は、里久君が思ってるほど綺麗じゃないから。だから、あんまり私に期待しないで。いつかきっと幻滅するから」

 その言葉は、まるで凶器のように胸に突き刺さった。

 もっと訊きたいけれど、きっと水守は話せないのだろう。誰にも語れないからこそ、水守はこんなに苦悩してる。

「だからね、里久君が純情で良かったって思ってるの、本心だよ? 里久君が奥手だからこそ、私は強引になれるんだ。……だから、私にからかわれて里久君が恥ずかしがってくれる瞬間が一番好き。私のこと、恋人として見てくれてるって実感するから」

 自分でも不思議なくらい、その言葉は自然に胸に落ちた。

 水守にとって、俺をからかうのは恋人同士であるという証明で。俺が照れたり顔を真っ赤にする度に水守は小悪魔のような笑みを浮かべていたけれど、その笑顔の裏でほっとしてたのだと思う。

 だから、水守はやけに俺に構ってくるんだ。

「里久君は初め、私のことを心配して好きじゃないのに付き合ってくれたでしょ? こんな悪い噂が流れる女子なんて、放っておいてもいいのに。……そんな優しい里久君だから、離れたくないのかな」

 いつか、来栖さんは水守を俺と同じヤマアラシだとたとえていた。その時は、俺と水守は真反対でそんなはずない、って思ってたけど今なら分かる。

 水守は、俺に嫌われることをおびえていた。

 愛想を尽かされたくないから距離を縮めて、少し離れただけで不安になるからまた近寄る。何度もそのジレンマを繰り返している。

 俺も水守も、相手に傷つけられることを恐れるヤマアラシだ。

「なんて、ダメだね。こんなこと言ったって、里久君困るだけなのに。……今夜のことは忘れて。明日になったら、いつも通りの私に戻ってるから」

 顔を背けるように水守が姿勢を変える。ベッドに寝転ぶその肩はあまりに小さくて、抱き寄せれば壊れてしまいそうなはかなさすらあった。

 今夜のことは忘れて欲しい──本当に? それが正しいのか?

 水守の臆病な心を見なかった振りをして、何にもなかったようにこのまま眠って。それが水守のためになるのか?

 違うだろ、そうじゃないだろ。

 俺が水守のために出来ることは、他にあるはずだ。

「なあ、水守」

 水守に嫌われるのが怖い。水守に疎まれるのが怖い。水守に嘲笑されるのが怖い。そうやって怯えるのは、もううんざりだ。

 今だけは、この一夜だけは──水守の彼氏らしくありたい。

「少しだけ、身体からだを起こしてくれないか?」

「……? どうして?」

 不思議そうに水守は起き上がり、その瞬間、俺は人生で一番緊張したかもしれない。

 水守の肩を抱き寄せたから。

「~~~っ!? り、里久君……?」

 水守を抱いたまま、ぼふん、と一緒にベッドに倒れる。

 動揺なんてしない。水守を照れさせるために、真顔の練習なら何度もしたんだから。

「俺に愛想を尽かされるのが怖いなら、何度だって抱きしめるから。だから、そんな寂しいこと言わないでくれ。こんな言葉、今しか言えないけど──」

 頰を染める水守の瞳を、じっと見つめる。

「このまま離したくないくらい、水守のことを愛してるから」

 息を吞んだように水守は俺を見つめていて……やがて照れ隠しなのか、恥ずかし気に目を逸らす。

 そういえばこの間、寂れた部室でどっちが先に目を逸らすか勝負したっけ。惜しいな、今なら俺の勝ちなのに。

「……も、もうっ、止めてよ。いつもはこういう時照れるくせに、真剣な顔でそんな恥ずかしいこと言うんだから」

「これでも、ちょっとは努力したからな」

 水守を抱き寄せることも、好きだと伝えることも、いつもなら恥ずかしくて到底俺には出来なかったことだ。

 けど、それで水守の不安を拭えるなら──。

「……でも、そっか」

 水守の両手が、そっと俺の手を包む。

「里久君にこんな風に抱き寄せられるなんて、想像もしてなかったな──こんなに心が穏やかなの、久しぶりかも」

 はにかむように、水守が微笑む。

「ねっ、少しだけこのままで寝てもいい? なんだか、気持ちよく寝れそうな気がするの」

「……俺は全然構わないけど」

「ありがと、里久君」

 そして、水守はまぶたを閉じる。あどけない横顔と、手のひらに伝わる水守の体温。

 俺は、少しは水守の彼氏らしくなれただろうか。