二章 かみは照れさせたい



 もりに部室棟に呼び出されてから、数日後。夏休みが目前に迫り、学校全体が浮かれているような七月半ばの真夏日のことだった。

 放課後、くるさんと待ち合わせをしていた俺は、生徒指導室の扉をノックした。

「どうぞ。開いてるわよ」

 鈴の音が転がるような澄んだ声。入室すると、机に座っているのは一人の少女。

 夜空を映したようなれいな黒髪に、容姿端麗という言葉に相応ふさわしいれいな顔立ち。

 この高校の風紀委員長──来栖さんだ。

「すみません、来栖さん。風紀委員の仕事で忙しいのに時間を割いてもらって」

 いわく、来栖さんは二学期になれば風紀委員を辞めるため、その引き継ぎをしているのだとか。すずとかき氷を食べるという誘いを断ったのも、それが理由だったらしい。

 そんな来栖さんに相談事をするのも気が引けるのだが、こればっかりは仕方ない。

 何しろ、来栖さんはこの学校で唯一、俺と水守が付き合ってることを知ってる生徒なんだから。水守についての相談は来栖さんにしか出来ない。

「別に構わないわ、他でもないかみ君との問題なんだもの。その相談事、っていうのも興味あるしね」

 楽し気に、来栖さんが笑みを浮かべる。

「水守に照れてしまう自分を何とかしたい、なんて面白そうだもの。あので純情で奥手で童貞な十神君が、ね」

 最後の別に言う必要なくない?

「付き合いたての頃は、結衣を好きになることはない、とか言ってた十神君が自分を変えたい、なんてね。彼氏としての意識を持ち始めた、ってとこかしら?」

「……付き合いたいって言ったのは、俺も同じですし。そのためには、今のままじゃ駄目なんだろうなって思って」

 正直俺は、異性が苦手、ってことが悪いことだとは思えない。特別女の子と仲良くなりたいわけでもないし、学校生活を過ごせる程度の必要最低限のコミュニケーションが取れるならこのままでもいとさえ思ってる。

 たった一つ、水守との距離が埋まらない、という弊害を除けば。

 嫌われるかもしれない、という恐れから水守への苦手意識が生まれているのなら。異性が苦手という欠点を克服するには十分過ぎる理由だ。

「これでも、水守と交際してますから。水守にあきれられたくないですし、来栖さんに手伝って欲しいんです」

「なるほどね、もちろん構わないわよ。……やっぱり、結衣と仲良くなりきれないのは、女の子が苦手だから、かしら?」

「来栖さんもそう思いますか? 自分でも分かってるんですけど……」

「十神君って、それが原因で恋愛も奥手になってるみたいだしね。まあ、男の子にはよくあることだけどね。ヤマアラシのジレンマ、って心理学の用語もあるくらいだもの」

「あ、それなら聞いたことあります。他人を傷つけたり傷つけられるのが嫌で距離を取る、っていう心理のことですよね」

「そうね。鋭い針を持つヤマアラシ同士は、仲良くなろうと近寄ればお互いの針で傷つけ合う。だからお互いの距離感が分からない、っていうジレンマのことね」

 ふっ、と来栖さんが笑みをこぼす。

「もっとも、十神君の場合ヤマアラシは異性だけ、みたいだけど。十神君が一番恐れてるのは、女の子に嫌われることみたいだから」

「……メンタリストですか、あなたは」

 ここまで見透かされると怖くなるんですけど。

「オーケー、なら話は簡単ね。要は十神君が女の子慣れ出来れば良いんだから」

「あっさり言いますね。それが中学の頃から出来なかったからここまでこじれたんですけど」

「確かに、十神君は女の子関係だと石橋をたたいて渡るどころかバズーカで爆破させてどや顔するような人だけど」

 前も似たようなこと涼音から聞いたけど、その言い回しってるの?

「ただ、結衣への苦手意識を克服するだけなら、そう難しい話じゃないと思うわ」

「ほんとですか? それなら有り難いですけど」

「ええ、私がしっかりサポートしてあげる。でも、一つだけ条件をいいかしら?」

 ぴん、と来栖さんが人差し指を立てた。

「私たちが達成するべき目標を設定しておきたいの。ゴールを用意しておけば、どうやってそこまで到達するか道筋を立てやすいでしょう?」

「なるほど。でも、目標って水守への苦手意識を克服することじゃ……?」

「それじゃ曖昧過ぎるわ。目標はもっと具体的にしないと、途中で何をするべきか分からなくなるもの。……だから、私が君に目標を与えてあげる」

 口の端をあげて、来栖さんが不敵な笑みを浮かべる。


「彼氏として水守結衣を照れさせる──それが、十神君の達成すべき目標よ」


 何を言ってるんだ、来栖さんは。

 それってつまり、水守を恥ずかしさで真っ赤にさせるってこと? いつも俺が水守にされているように? 今度は俺が水守を照れさせろと?

 はっはっは。あまりに無理ゲー過ぎるでしょ。

「というわけで、まずはプランを練るわけだけど──」

「い、いやいや、冗談ですよねそれ?」

 むしろそうあってくれ、と願うように尋ねるが来栖さんはあっけらかんと、

「まさか。とても合理的じゃない。照れるってことは、結衣が想像している以上の彼氏としての積極性を見せる、ってことだもの。奥手を克服したい十神君からすれば、こんなに分かりやすい目標もないでしょ?」

 さっきから嫌な汗が止まらない。マズい、この人本気だ……!

「そんな不安な顔しないの。十神君は今まで、結衣が照れたとこ全く見たことないの?」

「そりゃそうですよ、俺なんて水守に遊ばれてばっかりですし……いや、でも待てよ」

 そういえば、身に覚えがある。

 初めて水守の家に行った時、事故で胸を触りかけた時とか照れてたっけ。それに、俺が二階から飛び降りて中庭で告白をしたあの日も、水守は確かに頰を朱に染めて慌てていた。

「そういえば、なくはないかも……」

「ほら、無理なんかじゃないでしょ? 結衣って男慣れしてるって勘違いされやすいけど、ちゃんと女の子なんだから。十神君にときめくことだってあるわよ」

「そ、そうなんですか?」

 じゃあ、今まで俺が恋愛面でクソザコ過ぎただけで、少しでもアグレッシブになれば意外とちょろくなる……?

「それに、十神君っていつも結衣にいじられてるんでしょ? からかわれてばっかりで悔しくないの? 私と一緒に結衣を見返しましょうよ」

「お、おぉう……!」

 水守に彼氏らしいことをしてどきどきさせる──それは、良い。すごく良い。俺だって、照れて顔を赤くする水守を見てみたい。

 水守の不安を解消したい。それが一番の理由だけど、この際来栖さんの言う通り目標は高くするべきだと思う。

「そのためなら、私も助力は惜しまないわ」

「ほ、本当ですか? ありがとうございます、これは俺と水守の問題なのに……」

「いいのよ、これくらい。だって面白──二人の関係を応援するのは私の使命だもの」

 なんて良い人なんだろう、感激が止まらない。本当に来栖さんに相談して良かった。

「でも、水守を照れさせるってどうすれば?」

「そうね、やっぱり十神君の異性としての魅力を伝えるのが一番だと思うけれど」

「……俺にそんなのあります?」

「誰にだってあるわよ。そうね、まずはファッションは押さえておくべきじゃないかしら。十神君が持ってる衣服から合わせようと思うけど、予算は一万円くらいは用意して欲しいかしら」

「……服、ですか」

 不意に、嫌な思い出がよみがえり来栖さんから目をらす。

 中学の頃、似たような経験をしたことがある。

 異性に好かれたくて、知識もないのに背伸びをしたようなファッションに憧れた。値段が高ければおしゃだなんて勘違いをしていて、親に頼んで貯金を下ろして、念願の衣服を身にまとって。

 あの時の、女の子たちの俺への嘲笑を浮かべた顔は、今でもはっきり覚えてる。

「深く考えなくてもいいの。ちょっとお洒落をするだけなんだから」

 俺の沈黙に何かをったのか、力強く来栖さんが口にする。

「結衣だって喜ぶと思うわよ? それに、十神君って素材は良いから似合うファッションも多そうだし」

「はは……すみません。素材は良い、なんて心にもないフォローまでしてもらって」

「別にお世辞じゃないんだけど……まあいいわ。とりあえず、今夜にでもお気に入りの私服の自撮りを何枚か送ってもらえるかしら? 服装の方向性は、それから決めましょう」

「わ、分かりました。自信はないですけど、頑張ってみます」

「じゃあ、次ね。十神君が結衣を攻略するためのプラン、その二」

 腕組みをしながら、平然と来栖さんは言い放つ。

「明日、同級生の女子生徒と会話をしなさい」

「えっ──」

「時間は、授業の合間の小休憩。相手は問わないわ。話に付き合ってくれそうなクラスの人気者でも、他人の頼みを断れない優しい女子でも、誰でも良い。十神君が一番話しやすいと思う女子に声をかけるの」

 真剣な表情のまま、来栖さんは言葉を続ける。

「異性が苦手という弱点を克服するためには、十神君自身が女の子との成功体験を覚える必要があるの。俺でも出来るんだ、っていう自信が必ず行動につながるもの。そのために、今までなら絶対に出来なかった、ほとんど他人の女子との会話を成功させるの。……出来るかしら?」

「……分かりました。出来る範囲でやってみます」

 俺が答えるなり、来栖さんはきょとんとした。

「随分すんなり聞き入れるのね。もっと嫌がるかと思ってたのに」

「何となくそう言われるような気はしてましたから。多分、女子を避けてばかりだと前に進めないんでしょうし」

「へえ、腹はくくってるのね。やっぱり結衣のため?」

「……さあ、どうですかね」

 ふふ、と来栖さんは小さく笑う。

「私も、結衣の彼氏は十神君が良いわ。……あのも、あなたと似てるから」

「似てる、ですか? 俺と水守が?」

「ええ。だってあなたと同じで、結衣もヤマアラシのジレンマを抱えてるんだもの」

 まるで意味が分からず、一瞬だけ言葉を失った。

「それ、どういうことですか……?」

 しかし、来栖さんは俺の疑問に答えようとせずいつもの不敵な笑みを浮かべるのみ。

 傷つけられることを恐れて、他人との距離感が分からない俺と同じ?

 水守と俺は、まるで正反対なのに。


 女の子に気軽に話しかけることが出来るやつを、俺はひそかに尊敬している。

 彼女が出来た今でも、そのスタンスは変わらないわけで。

「それでねそれでね、沖縄に行ったら絶対イリオモテヤマネコ見に行くの。ユミのおみやげも絶対忘れないからね? あ~早く夏休みにならないかなぁ」

「…………」

 翌日の、朝礼後の教室にて。俺は青ざめながら隣の席の女子たちの会話を耳にしていた。

 もしここで俺が、「へ~そうなんだ。沖縄良いよね、二千円札が流通してるみたいだし」と会話に参加したとしよう。

 うん、白い目で見られること間違いなし。却下だ却下。

 頭を振り、離れた席にいるスマホをイジっている女子生徒に目を向ける。今は友達が席を離れてるのか、先程から彼女が一人なのは確認済みだ。

 やっぱり、あの娘が一番声をかけやすいかもしれない。

 踏ん切りがつかないまま五分ほど経過し、やっと俺は立ち上がり彼女の席へと歩き出す。

 今日の数Bの小テストって、範囲どこまでだっけ? 用意していた話題を何度も頭の中で繰り返し、絞り出すように声を出した。

「ね、ねえっ。ちょっといいかな?」

「…………」

「あ、あの~……」

「えっ? あ、あたし? うん、どうしたの?」

 大丈夫、まだばんかい出来る!

「えっと、今日のしゅ」

「しゅ?」

「いや、何でもない。話しかけてごめん」

 はい、ここでタイマーストップ。記録、五秒。

 今、確実に心が折れる音が聞こえました。

 不思議そうな顔をする女子生徒にきびすかえし、戦略的撤退を余儀なくされる。

 数学って言葉をんだだけで諦めるなんて、こんなにコミュ力無かったか……?

 思い返してみると、今まで俺が異性に声をかけた時って全部切羽詰まった状況ばかりだ。こんな風に下手に逃げ道があると、すぐに逃避してしまう。

 ……いや、何を弱気になってるんだ俺は。

 それでも挑戦しなければ。水守を照れさせるって、来栖さんと決めたんだから。

 でも、このままではく行かないのも事実。何か方法を変えなければ……。

「やっぱり、やるしかないか……」

 あまり実行したくはなかったけど、実は一つだけ案があった。この教室で、俺が最も会話を成立させやすい相手。

 その後授業は進み、目的の四限目を迎える。

 この授業は選択科目であり移動教室。そして、俺が声をかける相手が唯一、一人で行動をするタイミングであった。

 あぁ、おなか痛い。

「あの、なかさん。ちょっといいかな」

 廊下にて、俺の言葉にギャルっぽい女子生徒が足を止めた。

 ウェーブのかかったお洒落な髪、こだわりを感じるくらい派手なメイク。

 彼女の名前は真中。数週間前、水守を巡って俺がくちげんをした女子生徒だ。

 真中が振り返る。舌打ちでもしそうな、それはそれは不機嫌な表情。

「は? ウチに何か用?」

 まあ、こうなるよな。あれだけ真中と口論したんだし、俺の印象は最悪に決まってる。

 だからこそ、俺は真中に声をかけたんだけど。

 どうして俺が女子に緊張するかといえば、嫌われることが怖いからだ。

 その点、真中は俺への好感度が既に最低でこれ以上嫌われることないから、他の女子生徒に比べて少しは気楽になれる。前のめりな後ろ向き思考だ。

「い、いや、ちょっと真中さんに聞きたいことがあるんだけど。今日の数Bの小テス──」

「つーか、あんた見てんの? 目を逸らしてないでこっち見たら?」

 流石さすがパリピ、陰キャに容赦がない……。

「ご、ごめん。それで、今日の数Bの小テストなんだけどさ、範囲どこまでだっけ?」

「んなもんウチが知るわけないじゃん」

「あ、あはは。そっか」

「………………」

「………………」

 気まずい。

 いや、真中は俺への印象が悪いんだから会話をリードしてくれるって考える方が間違ってる。明らかに拒絶されるまでは俺がしゃべらなきゃ。話題なら何個も用意してるし。

「あっ、じゃあさ──」

「あんた、水守とは最近会ってるの?」

 何一つ上手くいかねえ。

 って今、水守のことを話した? あんなに水守のことを嫌ってたのに?

「まあ、一応……。友達なわけだし」

「良かったね、あんなわいい女の子とパコれて。童貞卒業おめでと」

「してないからそういうの!!

 思わず大声を出してしまい、廊下の生徒たちがげんそうにこちらを見る。

 体温が上がるのを感じながら、俺は声を落として、

「水守とはそういう関係じゃないって。水守は悪いうわさのイメージがあるかもしれないけど、普通の女子なんだから」

「なんだ。友達ってセフレ的な意味じゃないんだ」

 いい加減怒るぞ。

「冗談だっつーの。エロいことしたいだけなら、あんな堂々と水守をかばうわけないし。実際どんな関係か知らないけど、下心だけじゃないんじゃない?」

「そう言ってくれると助かるけど。っていうか、水守のこと嫌いって言いながらちょっとは気になってるんじゃない?」

「嫌いだから目に付くだけ。あんなヤリマン、どうでもいいっての」

「そういう奴じゃないと思うけどなあ、俺は」

「あんた、水守から何も教えてもらってないの? 今までの経験人数とか、初めてヤった相手とか」

「全然。水守はそういうこと話そうとしないから。俺はそんな事実ないって信じたいけど」

「信じたい、ってことは分かんないってことじゃん。あんた、水守にだまされてるだけっしょ。ほんとはエグい過去があるけど、知られると都合悪いから黙ってるだけじゃないの?」

 そうかもしれない。真中の言葉を否定するだけの事実なんて、俺にはない。

 それでも、確かなことがある。

「でも、水守は優しい奴だから。水守が誰かを傷つけるために他人を騙すなんて、俺には想像出来ない」

「ふーん。十神ってバカだね。そんなんじゃ悪い女に遊ばれるよ」

「はは、そうかもな」

 実際、中学の頃に似たようなことがあったから……なんて、口にはしないけど。

 教室に着くと俺は真中に、

「ありがとう、真中さん。話に付き合ってくれてうれしかった」

「真中、でいいよ」

 控えめに見ても愛想なんて欠片かけらもない、ぶっきらぼうな口調。

「っていうか、あんたウチにブチギレた時真中って呼び捨てしてたじゃん。今更他人行儀にされるとかキモいんだけど」

「い、いや、あれはついカッとなっただけで……あの時は怒鳴ったりしてごめん」

「……いいよ、水守を馬鹿にしたウチも悪いし。少なくとも、あんたがいる場所で話すことじゃなかった」

 バツが悪そうな顔をする真中に、思わず面食らってしまった。

 俺と水守を敵視してる真中が、謝った?

「あー、もうっ! こういう空気苦手なんだよ。ほら、さっさと行けって」

「あ、ああ。じゃあ、これで」

 適当な席に座ろうとした、その時だ。

「それとさ、十神って最近知らない男子生徒にれしくされたりしてない?」

「えっ? いや、そんなこと別にないけど」

 質問の意図が分からず、首をかしげた時だ。

「水守の噂なら色々と耳に入ってくるから。近寄ってくる男子には気を付けなよ。……あいつら、ガチで十神と水守をそういう関係だって思ってるから」

 そういう関係。その一言で、真中が伝えたいことを察した。

 ああ、なるほど。水守に下心を抱く男子生徒がいる、って忠告してくれてるのか。

 確かに、水守の友達だって公言してる男子生徒は俺くらいだ。水守狙いで俺に近づく生徒がいても不思議じゃない。

「分かった。ありがと、真中」

 真中は軽く手を振ると、離れた席に座る。

 真中って、結構良い奴なんだな。女子との会話に成功した達成感より、そんな真中に対する驚きの方がずっと大きかった。

 ……そして、真中の注意が現実になったのは、その日の終礼終わりのことだった。


「よっ、あんただよな? 二階から飛び降りて腰の骨を折った十神って奴は」

「えっ、はい?」

 にこにこと笑顔を浮かべる男子生徒に、思わず帰宅の準備をしていた手を止めた。

 全く知らない人だ。ぱっと見はお洒落な男子で、学校が終わったからか服装は着崩しているし、校則で禁止されているヘアワックスで髪を整えていた。その笑顔はノリが軽そうで、正直あまりみがないタイプの男子生徒だ。

 うわ、チャラ男だ。

 失礼ながら、それが真っ先に浮かんだ印象だった。

「あ、うん。そうだけど……?」

「へえ! じゃあ噂ってマジだったんだ。すげえ勇気だよなぁ。じゃあさ、その武勇伝をもっと聞きたいし、ちょっと今から付き合ってくんない?」

 あまりの唐突な誘いに戸惑った時だ。ふと思い出すのは、真中の忠告。

「あのさ。もしかして、水守のことと関係があったり……?」

 頼むから違っててくれ、と心の中で祈りながら尋ねる……が。

「なんだ、話が早いじゃん。まどろっこしいことにならなくて助かるよ」

「……そっか。ここで話す内容でもなさそうだし、ちょっとベランダまで来てくれるか?」

 人がいないことを確認し、真夏の太陽にさらされながらもベランダでチャラ男生徒と二人きりになる。

「勘違いしてるみたいだけどさ、俺と水守はあんたが思ってるような関係じゃないんだよ」

 開口一番、はっきりと言った。

「そもそも、水守が男子生徒の誘いを軒並み断ってるのは聞いてるだろ? そういうことする奴じゃないんだって、水守は」

「またまた、十神っちってば~!」

 十神っちて。

 呆れる俺に男子はにこにこと笑いながら、

「あのヤリマンで有名な水守だぜ? 実は清純でした、なんて誰が信じるんだよ。十神っちだってそういう目的で水守に近づいたんだろ?」

 やっぱり、真中の言う通りか。

「水守と仲が良い男子がいる、って聞いた時は驚いたぜ。一発ヤろうとしたのがバレて女子から軽蔑された男子もいるからな。だけど、だ。十神っちは生徒の前で水守を庇って、どうやらマジでれてるだけらしいって評判になってる」

 男子が浮かべるのは、楽しげな笑み。

「やられた、って思ったよ。あえて堂々と振る舞えば、今までの連中みたいに悪評が立たないなんてな。十神っちも見た目によらずやるねぇ」

「……そんな打算なんてないよ。俺は単純に、水守の友達でいたかっただけだって」

「あー、うん。分かった分かった、そういうのもういいから」

 まるで信じてないような口調。なるほど、この男子にとって水守は噂通りの価値しかないらしい。

「十神っちはさ、俺のこと水守に友達として紹介してくれればいいから。後は俺が勝手にやるから、手間はかけさせねえよ。なっ、いいだろ? 独占なんてしないでさ、みんなでシェアしていこうぜ?」

「……シェア、ね」

 この男子が水守に下心を抱くことは、仕方のないことだと思う。水守の悪い噂はあまりに有名で、しかも本人がその噂を否定しないんだから。

 だけど、だ。水守を下品な目で見る権利がこの男子にあるのなら、俺だってそんな連中と徹底的に戦う権利だってあるはずだ。

 端的に言おう。

 俺は今、とても怒っている。

「実のところ、俺も水守の噂の真偽は分からないんだ。もしかしたら水守はとんでもないビッチで、貞操観念なんて欠片もないような、あんたらにとって都合の良い女の子なのかもしれない」

「おっ! やっと分かってくれた? だったら──」

「それでも、やっぱり俺の気持ちは変わらない」

 迷いなく、よどみなく。はっきりと言い切る。

「出来るなら、俺はどんな男だろうと水守を抱かれたくない。特に、あんたみたいに下半身でしか物事を考えられない猿みたいな男には」

 男子の笑顔が、固まった。

「俺は水守の友達だから。やっぱり噂が真実だとしたら胸がもやもやするんだ。だから、俺の手が届く範囲なら全力で止めるんだ」

「……へえ、そうかい。ま、そりゃそうだよな。あんな可愛い女子なら他人に譲りたくないよな」

「だから、そういう関係じゃないって」

「あぁ、はいはい。一応信じてやるよ。けどさ、俺も簡単には引き下がれないんだよなぁ。水守には前々から目を付けてたし」

 一歩、男子が俺に距離を詰める。

 にわかに空気が緊張する。ベランダを選んだのが裏目に出た、人目につかないのなら手段を選ぶ必要はない。

「っていうかさ、俺みたいに水守目当ての奴って結構いるよ? そいつらからひんしゅく買うのって結構だるいと思うけどなぁ。そういう連中に明日からウザ絡みされんの、十神みたいなぼっちだと結構キツいっしょ?」

 獲物をいたぶるような、いやらしい目。

 見覚えがある。中学の頃、特定の女子はいつもこんな目で俺を見ていた。自分より弱い人間を見つけることが得意な奴は、何処にだっている。そこに性別なんて関係ない。

 そして、あの頃と同じ。助けてくれる人なんて誰もいない。

「さっさと水守を売れよ。どうせ誰にでも股を開くヤリマンなんだからさぁ、今更一人や二人ヤったところで大して変わら──」

「それは、聞き捨てならないわね」

 りんとした声に男子が絶句したのと、扉が開け放たれたのは同時だった。

 どうしてここに、と俺はぽかんとするばかり。

 そこにいるのは──来栖さん、だった。

 男子は、さっきの威勢がうそのように動揺する。

「ふ、風紀委員長……!?

どうかつ、それに不純異性交遊未遂。あまり模範的な生徒とは言い難いわね、さな君。去年、飲酒がバレて厳重注意を受けたのにまるで反省してないみたい」

「なあっ!? ど、どどどうして知ってるんですか! あれは公表されてないのに……!?

「まあ、この学校の風紀委員長ですから」

 いつもと変わらない、不敵な笑み。

「言動には気を付けた方が良いわよ。ただでさえ推薦に不利なのに、これ以上問題を起こせば停学になるかもね?」

「あ……あははっ! 冗談ですよぅ、来栖さん! ちょっとふざけてただけですってば! 俺たち実は友達同士なんすよ、なっ十神っち!」

「知りません。さっき知り合ったばっかりです。何なら名前も覚えてません」

「ねっ、風紀委員長!?

 何に対しての、ねっ、なんだそれ。

 来栖さんは呆れたような表情で、

「十神君。あなたは真田君から恫喝をされたわけだけど、何か処分を求める?」

「別にいいです。もう俺と水守に構わなければ、それで」

「じゃあ、私から言うことは何もないわ。ただし、二度目はないわよ? もしまた真田君が問題を起こしたら、その時は職員に相談するからそのつもりで」

「は、はい! すんませんでしたっ!」

 どたどたと、男子生徒は逃げるように去っていった。

「あんな生徒に目を付けられるなんて、災難だったわね。大丈夫だった?」

 その一言に、ようやく俺の全身から力が抜けた。

「──っ。緊張したぁ……!」

「なんだ、堂々としてるって感心してたけど無理してたのね」

「そりゃそうですよ。けんすらまともにしたことないし、相手が俺の苦手なタイプですから。怖くないわけないですよ」

 ただ、女子生徒に声をかける時の方が緊張した、というのが正直な感想だ。どうやら俺は、女子より男子から敵意を向けられる方が楽らしい。

「来栖さんが来てくれて助かりましたけど、よく俺たちの会話分かりましたね。ベランダの扉、閉まってたのに」

「会話の内容は分からなかったけど、穏やかじゃないのは明らかだったもの。どうせ結衣関係なんだろうな、って推測しただけよ」

「なるほど。っていうか、どうして俺の教室に?」

「十神君が私からのミッションを達成した、って聞いたからめようと思って。真中さんと五分も話したんですってね。すごいじゃない、頑張ったわね」

 称賛してくれる来栖さんに照れそうになるけど、それより気になることがある。

「あの、女子生徒と会話出来たことってまだ来栖さんに伝えてませんよね? 何でそんな詳しく知ってるんですか?」

「実は、仲の良い後輩にお願いしてたから。十神君がちゃんと女子と会話出来るか監視しておいて、って」

「え」

「ちゃんと目的を達成出来たか、私の方で判断しておきたかったから。一言話しただけではい会話終了、なんて言われても困るもの」

 だからって他の生徒にまで協力してもらうとは。風紀委員長ってそんなに万能なの?

 ……いや。でも、待てよ。

「ちょっといいですか? もしかしてですけど、後輩の人に手伝ってもらったのって、監視以外にも目的があったんじゃないですか?」

「目的、って?」

「俺を助けるため、とか。俺が女子との会話で空回りしたら、フォローしてくれるつもりだったのかなって」

 来栖さんは、俺が女子との嫌な思い出があるせいで苦手意識があることを知っている。なのに無責任に、女子と会話しろ、なんて無茶ぶりを押し付けるだろうか。

 もしかしたらその監視って、俺が危機に陥った時に助けてくれるために……?

「さあ、どうかしら。まあいいじゃない、十神君は無事クリア出来たんだから」

 けれど、来栖さんは涼しい笑顔で流すだけだ。

「他の人に聞かれたくないし、ここで話さない? 暑くて嫌なら場所を変えるけど」

「いえ、俺は別に良いですけど」

 さっきから、教室の生徒たちがこっちを見てるんだよな……。誰もが知ってる風紀委員長の来栖さんと二人で会話してるんだから、無理もないんだけど。

「でも、これで自信とかつくんですかね。あまり実感はないですけど」

「人間って何か一つを成し遂げても、劇的に変わるものじゃないもの。でも、少しずつ変わってるはずだから、きっと昨日の十神君より前に進んでるはずよ。まあ、これから定期的に女子生徒とコミュニケーションは取ってもらおうと思うけど」

「うっ……お、お手柔らかにお願いします」

「あとは、結衣を照れさせるための具体的なプランも考えなきゃね。デートとかすれば、結衣の気が緩むチャンスも多そうだけど」

「それは、ちょっと難しいですね。水守と外出するのは避けるようにしてますから」

 理由は、涼音に俺たちの関係がバレないようにするためだ。水守はこの学校の有名人だし、俺といたことが生徒に見つかればすぐ噂になって涼音の耳に入るかもしれない。

 ……本音を言えば、水守と外出出来ないのは残念ではあるのだけど。

「けど、水守を照れさせる方法なら任せてくれませんか? 一応、考えならありますから」

「へえ、自信あるのね。なら、夏休みになる前に作戦決行出来そうね」

「それは、随分早いですね……。でも、分かりました。やるだけやってみます」

「うん、良い心意気ね。頑張ってね、きっと十神君なら出来るわよ」

「だと良いんですけどね。何しろ、相手が強敵ですから」

 そこで、来栖さんはベランダに寄りかかると、

「あら、そんなことないわよ。結衣って実は物凄く純情だもの。好きな男子にアプローチされれば絶対喜ぶと思うけど」

「はは……何か、嬉しいです。水守を純情って言ってくれるの、来栖さんくらいですから」

「まあ、私は結衣の友達だから。そもそも、さっきの真田君みたいな男子から言い寄られること自体おかしいのよ。結衣はもっといちな女の子なのに」

「……あの、前々から疑問だったんですけど、どうして来栖さんはそこまで水守を信頼してくれるんですか? ほとんどの生徒は、水守の例の噂を信じてるのに」

「だって、あんな噂がデタラメに思えるくらい結衣って良い子だもの。初めて会った時から、結衣はそんな優しい女の子だったから」

「初めて会った時?」

「ええ。一年くらい前かしら。私が風紀委員長になったばかりの頃、女子更衣室にピアスが落ちていて、ある女子生徒が呼び出されるって事件があったの」

 俺たちの高校では、ピアスは校則で禁止されている。持ち込みがバレれば教師から呼び出しを受けるのは自然なことだろう。

「そのピアスを見つけたのが私だったから、教師と一緒に女子生徒の話を聞いたんだけど……その娘、自分じゃないって主張したの」

 来栖さんが肩をすくめた。

「でも、ピアスはその娘のロッカーから見つかったし、耳にはピアス穴だってあった。だから、その時の教師は噓をついてるって思い込んじゃって。違うって言ってるのに、その女子生徒を一時間以上も事情聴取をしたの」

「そんなに長時間もですか?」

「教師も引くに引けなかったんでしょうね。でも、女子生徒はもっとつらかったと思う。どれだけ説明しても全然信じてくれなくて、今にも泣きそうな顔をしてて……そんな時に、そのピアス私のです、って自白したのが結衣だったの」

「えっ、水守が?」

「そんなはずないのにね。だって、結衣の耳にピアスを着けた跡なんてないんだから」

 来栖さんの顔に浮かぶのは、呆れたようなほほみ。

「でも、結衣はちっとも譲らなかった。結局、教師はその女子生徒に謝罪して、代わりに結衣が怒られたの。どうしてあの娘を庇ったのか、って後で結衣にいてみたら、無関係な人間があんなに𠮟られるなんて理不尽だから、だって」

「無関係な人間……?」

「その女子生徒が犯人じゃない、ってことに結衣は気づいてたのね。現に、その数日後にピアスの持ち主が現れたんだもの。結衣曰く、そのピアスに似た物を他の女子が着けてたのを前に見ていたみたい。だからその娘じゃないって分かってたんだって」

「ちょっと待ってください。じゃあ、水守はその娘を庇うためだけに泥をかぶったんですか? その女子生徒とは友達でも何でもないのに」

「そういう娘なのよ、結衣って」

 くす、と来栖さんが笑みを零した。

「結衣、言ってたっけ。私は他人に嫌われることには慣れてるから、って。とても損な役回りで、とても不器用な優しさよね。でも、私はそんな結衣を尊敬してるの。だって、その時の私は何にも出来なかったから」

 そして、流し目を送るように来栖さんが俺を見る。

「だから、結衣のことお願いね。少しくらい、あの娘だって報われてもいいはずだもの」

「……分かりました。俺に何が出来るかは、分からないですけど」

「それでもいいわ、結衣のそばにいるだけで十分だもの。……あっ、そうそう」

 そこで、来栖さんは思い出したように、

「風紀委員長としてアドバイスするけど、避妊具は用意しておくこと。付け方は家で練習しておいてね?」

 ごんっ! と。ベランダの手すりに、したたかに頭を打ち付けた。

「なっ……にをっ! 急に言い出すんですか、俺が水守を誘えるわけないでしょ!?

「十神君にその気はなくても、結衣にはあるかもしれないわよ。彼女に誘われて初体験を終わらせるパターンだって少なくないんだから。それに十神君だって男の子なんだし、結衣に言い寄られたら心が動いちゃうんじゃない?」

「うっ……」

 ──俺は、絶対に水守を拒まないから。

 やっぱり、水守とあんな約束したの早計だったかも……。

「だ、大丈夫ですってば。っていうか、来栖さんがそんなこと言っていいんですか? 今の、不純異性交遊を認めるようなものですよ」

「今のは、この学校の風紀委員長としての言葉じゃないわ」

 ふっ、と来栖さんが笑みを浮かべる。

「十神君と結衣の二人の風紀を守る者──恋の風紀委員長としての言葉、ね」

 何か言い出したよこの人……。


 その夜、俺は水守を照れさせよう大作戦のために秘密の特訓を行っていた。

「……きっ、君の瞳に恋してる。今夜は離したくないんだ」

 スマホに映る水守の写真に向けて、俺は口説き文句を口にした。

 誤解されそうだから言っとくけど、思春期を拗らせておかしくなったわけではない。

 これが、俺なりの羞恥心をくすための練習なのだ。

 水守を照れさせようと思えば、それなりに大胆なアクションが必要になる。たとえば手を握るとか肩を抱くとかだけど、練習したくても相手がいないから無理だ。

 だから、俺に出来る範囲の練習が、この恥ずかしい言葉を言うことなのだ。

 ぶっつけ本番でやっても、きっと俺は羞恥でまともに言えないだろう。でも、こうやって反復練習をすれば水守の前でも自然に言えるはず。

 ちなみに、この恥ずかしい台詞せりふ集は合コンとかで使われるアプリからチョイスしたもので、全パターンをメモに書き写している。

「う、うるせえな、黙らせてやろうか? ……この俺のくちびるでな」

 このアプリの制作者、恥ずかしさで人をもんさせる実験でもしてるの?

 い、いやいや。集中しよう。これも照れた水守を見るためなんだから。

 心を殺すな……本気で口説くつもりで感情を込めて告白しろ……!

 ……ただ、問題があるとするならば。

「どうやって、この台詞を自然に水守に言うか、だよな……」


 時は来た。

 土曜の昼下がり。数十階はあろうかというタワーマンションのオートロック前で、さながらデートの待ち合わせをしているかのようにそわそわとしていた。

 服装が映らないようにカメラに顔を近づけて、水守の部屋番号を打ち込む。

 落ち着け、自然体自然体。

「よっ。お待たせ。遊びに来たぞ」

「いらっしゃい。でも、遊びじゃなくておうちデート、でしょ?」

 そんな言葉、照れずに言えるの水守くらいだ。

「……? じゃあ、開けるね」

 顔をカメラに寄せてることに水守が疑問を覚えたみたいだけど、何事もなくエントランスの扉が開く。

 水守の部屋に到着し、インターフォンを押した。私服姿の水守が姿を現して、

「あっ……」

 俺の姿を見つめたまま、ぽかんとした。

 俺が今着ているのは、今日のために用意していた衣服だ。

 涼やかに見えるような爽やかなコーデ。来栖さんと一緒に選んだファッションで、何件もお店を回って選んだ服だ。服装に合わせてヘアスタイルも変えているから、鏡を見た時は気合入れすぎがバレて笑われるんじゃないか、って心配したんだけど……。

「あ、あのさ。これ、どうかな……?」

 だけど、水守は無言のままだ。

 ……やっぱり、俺にお洒落なんて無理だったのかな。

 何だか突然恥ずかしくなって髪型を崩そうと手を動かした、その時だった。

 がしっ、と水守が俺の腕をつかんだ。

「どうして? 絶っっっ対、そのままの方が良いよ。今の里久君、カッコいいんだから」

「はへ?」

 あまりに聞き慣れない言葉に、どこかの外国の言葉かなとすら思った。

「びっくりした、一瞬だけ頭の中真っ白になっちゃった。写真撮っても良い? 誰にも見せないから。ねっ?」

「まあ、別に良いけど……」

 信じられない。水守が目を輝かせて俺をスマホで撮影してる。

「い、いやいや。やっぱりからかってるだろ。カッコいいとか、そんな訳ないし」

「そんなことないって。自覚ないかもしれないけど、里久君のルックスは私の好みだもん」

「──────」

 ……はっ。危ない、もう少しで気絶するところだった。

「う、噓だろ? そんなこと言われたの初めてなんだけど……」

「まあ、里久君ってたまに目が死んでたりうつむきがちだったり表情に覇気が無かったりするから。でも、私はカッコいいと思ってるよ?」

「~~っ。そ、そうか」

 やばい、嬉しすぎる。前半の減点ポイントがどうでも良くなるくらい、この服を着てきて良かったと思えた。

 ただ単純に容姿を誉められるというよりは、水守が俺の見た目を好きと言ってくれることが何よりも嬉しい。

「でもその服、涼音ちゃんか流花に選んでもらったんでしょ?」

「まあ、俺にこんなセンスないからな。来栖さんと一緒に選んだんだよ、これ」

「いいなぁ、一緒に見たかったな。私も誘ってくれれば良かったのに」

 ありがとう来栖さん、と心の中で深く感謝する。

 でも、水守は喜んでくれたみたいだけど、照れさせるという目標までは達成出来てない。気を緩めずに挑まなければ。

「ふーん、そっか。私のために服を頑張ってくれたんだ」

 上機嫌に頰を緩ませる水守と一緒にリビングに入る。

 俺は手にしていたミスドの袋を差し出した。

「はいこれ、いつもの買ってきたから。ポンデはもちろんだけど、何か季節限定とかあったぞ?」

「あっ、それ気になってたんだ。うんうん、里久君も私のことが分かってきたね」

 良かった、買ってきて正解だった。ワンコイン以下でこんなに喜んでくれるんだから、大変コスパが良い。

「ほんと、水守ってドーナツが好きだな」

「まあね。私、ミスドのショーケースを眺めてるのが一番好きなんだ。限られたお小遣いの中で今日はどれを買うか考えてる瞬間が、一番生きてるって感じがする」

 それは極端過ぎるのでは。

「ねえ、里久君。ドーナツって、どうしてこの形をしてると思う?」

「いや、別に理由なんてないと思うけど……焼いたらこの形になっちゃうとか?」

「答えはね、天使の輪をモチーフにしてるから。ドーナツのあまりの尊さに、思わず天使の輪を連想しちゃったんだって」

 そっかー、ドーナツってそんなに神々しいものだったのかー(棒)。

「その尊いドーナツは後で食べるとして、今日は何をする?」

「んー、そうだね。里久君とのおうちデートだし、きっと何でも楽しいと思うけど」

 基本、俺たちは一緒に家で過ごすことの方が多い。最近ではサブスクでだらだら映画を見たり、ゲームで遊んだりするのが日常だった。

「ゲームだったら負けないよ? 最近結構練習してるから、五連鎖くらいなら安定するようになったし」

 実際、水守はパズルゲームが強い。初めの内は俺が勝ち越すんだけど、システムを理解し出すと途端に動きが良くなる。最近では対戦するのが二人のマイブームだ。

 けれど、今日の目的はゲームじゃない。

 水守を照れさせるための計画を遂行するためには、水守をとあるゲームに誘わなければならない……のだが、

「望むところだ。せっかくだしドーナツでも賭けるか? 勝つ度に一個食べられる、とか」

「むっ、それは負けられないなあ」

 怪しまれないために、まずは水守の言葉に従っておく。今まで俺は散々水守にしてやられてるのだ。慎重になるに越したことはない。

 それから、パズルゲームで対戦すること数時間。

 もう何十回目かのばたんきゅ~を見た後、時計を見る。夕方と言っても良い時間帯。

 そろそろだな。

「このゲームも相当遊んだなぁ。今度は別のゲームでもしないか?」

「そうだね、ちょうど気分転換したいなって思ってたし。里久君、何か別のゲームあるの? この前のペンキを塗ったりするやつみたいな、操作が難しいのは無理だよ?」

「大丈夫、水守も知ってるゲームだから」

 俺はかばんから、五十三枚のカードが入ったケース──トランプを取り出した。

「ちょっと、水守とババ抜きをしようかなって」

「へえ、トランプか。悪くないけど、ババ抜きって二人でやると単純で退屈なイメージがあるんだよね」

「だからさ、ルールを一つ足すのはどうだ? ……負けた方が相手に対して、恥ずかしい台詞を言うんだ」

 きょとんとする水守にスマホを掲げ、

「恥ずかしい言葉がランダムで出る、っていう罰ゲーム用のアプリがあるんだ。合コンとかで使われてるやつなんだけど、これを使おうかなって思ってさ」

「ふーん。なるほど、準備万端だね。そんなに私に恥ずかしい台詞言わせたいんだ」

「いつも水守にはからかわれてるしな。水守が恥じらうところも見たいなー、なんて」

 そう、このルールを聞けば誰だって恥ずかしい台詞を言わせようとしてる、と思うだろう。けれど、実際はそうじゃない。

 今回は、俺が負けて恥ずかしい言葉を言うことが目的なのだ。

「何回も罰ゲーム受けるのもキツいだろうし、どっちかが三回勝ったら終了にするか」

「いいよ、やろっか。でも、恥ずかしい台詞なんて大丈夫? 里久君が耐えられるといいんだけど」

 ゆうしゃくしゃく、って感じだな。それもそうか、女子とまともに目も合わせられない俺が罰ゲームなんて、泣き言を言うって考える方が自然だ。

 カードを配り、ババ抜きを始める。ゲームの性質上、二人戦だと数字を引けば必ずペアがそろうためさくさく手札が減っていく。

「あっ、ジョーカー引いちゃった。里久君、ジョーカーは一番右だからね?」

「またそうやって心理戦に持ち込もうとする……」

 手が止まるとすれば、こんな風にどちらかがジョーカーを引いた時だけだ。

 ババ抜きは進み、やがて最後のペアが捨てられる。

 勝ったのは水守だ。

「私の勝ち、だね。どんな台詞言ってくれるのかな?」

「くそ、やられた~。二分の一を外すかぁ」

 まずは一敗だ。

 アプリを使用し、言うべき台詞が画面に映し出される。大丈夫、この言葉は記憶してる。

 何しろ、真顔で言えるように何度も練習したんだから。

 真面目な雰囲気で口にすれば、きっと水守だって──。

「どうしたの? 早く言って欲しいな」

 小悪魔のような笑みを浮かべる水守に、吐息が感じられそうなほど近づき、綺麗な瞳をぐに見つめた。

「……り、里久君?」

 同級生とだって会話出来たんだ。もう、水守から目は逸らさない。

 顔に戸惑いが浮かんだ水守に、はっきりと口にした。

「今まで隠してたけど、水守のこと世界一可愛いって思ってる──一生、俺から離れないでくれ」

 一瞬だけ、沈黙が広がった。

 それでも、俺は目を離さない。水守はあっに取られたように固まっていて……やがて、頰を薄く染めながら、ぷい、とそっぽを向いた。

「……そんな恥ずかしい台詞、よく真顔で言えるね」

 噓だろ、と内心でがくぜんとする。

「み、水守? もしかして照れてる……?」

「そんなことないってば。ちょっとびっくりしただけ。世界一可愛い、なんてありきたりな言葉で喜ぶわけないでしょ?」

 確かに、呆れるくらいクサい台詞だ。けど、だからこそ効果があったのかも。

 俺にとって水守が特別な存在であるように、水守も同じなのだから。真っ直ぐな言葉こそ響くのかもしれない。

 でも、信じられない。あの水守がこんなに困ってるなんて。

「へえ、照れてるわけじゃないのか。じゃあ、俺の方をちゃんと見て欲しいけどな」

「……別に、里久君を見るくらいいつでも出来るから」

 じと~、っと文句言いたげな水守の視線。まだまだ水守は冷静な部分が残ってるらしい。

 ならば、まだ攻められる。

 もっともっと水守を恥じらわせたい……!

 ふふふ、と内心でほくそ笑みながら二回戦に突入。意地を張ったような顔をする水守とババ抜きを進めていく。

 勝ったのは初めと同じ、水守だった。これで二敗。

「おっ、また俺が罰ゲームか。参ったな」

「……里久君、運が悪いね。また二分の一を外すなんて」

「いやいや、水守がツイてるんだって。じゃあ次の台詞はっと」

 アプリを起動し台詞を確認。

 こほん、とせきばらいをした後に、先程のように真顔で告げる。

「今夜、お前を抱いてやるよ──俺の腕で眠れ」

「…………」

 先程のように頰を染めるでもなく、じーっとこっちを見る水守。

 なに、このスベッたみたいな空気。

「あの、どうして無言……?」

「うん、ちょっと反応に困っちゃって。あんまり里久君らしくない言葉だから、噓っぽくて真に受けれないっていうか……」

 確かに、死んでも俺が言わなそうな台詞って自覚はあったけど。流石に今のはじんも心を込めてなかったし、無理もないか。

「なるほどな。じゃあ次は俺が負けたらラストだし、とびっきり恥ずかしい台詞になるようある程度選ぼうかな」

「何か、里久君残念そうだね。まるで私が無反応なのが不満みたい」

「そんなことないって。ただ、ちょっと変な空気になったから申し訳なくなっただけだよ」

 やっぱり鋭いな、水守は。

 三回戦目。俺がもう二敗してるから、もしかしたらラストになるかもしれないゲーム。

「これで里久君が負けたら終わっちゃうんだよね。里久君にばっかり罰ゲームさせるのも悪いし、私もしてあげたいんだけどな」

「ははは、でもこればっかりは運だからさ」

 水守には悪いが、三回戦目も俺が負けて罰ゲームを受けることになるだろう。うんてんではなく、これは確定事項だ。

 だって、このゲームは一〇〇%俺が負けるように仕組まれてるんだから。

 理屈はこうだ。

 ババ抜きは順番にペアを揃えるゲームだから、必ず三枚だけ残った状態になる。そして、カードを引く側はジョーカーか数字を引く二択で勝負が決まるわけだが……もしジョーカーを、あらかじめ用意していた、もう一枚と同じ数字に入れ替えたら?

 相手は確実に勝利する。当然だ、俺の手札には同じ数字のカードが二枚あるんだから。

 これが、俺が必敗するトリックだ。

 このイカサマのために準備だってしてる。全ての数字に対応するために、今遊んでいるトランプと同じ柄の十三枚のカードを後ろのポケットに隠しているし、素早く手札と交換する練習もした。

 全ては、水守を照れさせるために。

 けど、ババ抜きもこれで終わりだ。俺が何度も負ければ水守もイカサマを確信するだろうし、今だって俺を疑っているはず。何度も行うのは危険過ぎる。

 このゲームで俺が敗北し、最後に水守を真っ赤にさせる。それで終わりだ。水守には一敗たりともさせはしない。

 さあ、ラスト三枚。ジョーカーを手にしてるのは俺で、引くのは水守の番。

 イカサマが発動する条件は揃った。

「もうこんな時間か。これが終わったら何処か食べに行くのもありかもな」

「外食かぁ、それもいいかもね。たまには料理しない日があっても良いし。えっとこの辺りだと……」

 水守がスマホで地図を開く。今しかない。

 緊張と共に、俺は手札のジョーカーとポケットに隠してあった数字の3を入れ替えた!

 よしっ、何度も練習したがあった。俺の手札はクラブの3が二枚。当然水守の手札も3だから、引けば必ずペアになる。

「オムライスとか食べたい気分だから、手頃なレストランとか行きたいな。でも、とりあえずゲームが終わってからだね」

 その通り。水守がカードを引いた瞬間終了だ。

 水守がスマホを仕舞い、俺の二枚の手札を見つめる。けど、どちらを引こうとも俺の負けは確定している。そして、厳選した恥ずかしい台詞で水守は見たこともないくらい照れ照れになるに違いない。

 それで、やっと俺の目的は達成される。

「……あーあ、残念だなぁ」

 ぽつり、と水守が口にする。

 まるで何かを確信したような、小さな笑み。


「今回は私の負け、か。仕方ないけど、罰ゲームはちゃんと受けなきゃね」


「……は?」

 何を言ってるんだ。水守が持ってるカードは数字の3なのに。

「すまん、どういうことだ? まだ引いてもないのに、何で水守の負けになるんだよ」

「私としては、どうして里久君がそこに疑問を持つのか分かんないけどな」

 くす、と笑いながら水守は言う。

だって今さっき里久君が引いたの数字の3でしょ? だから、私のこの手札はジョーカー以外あり得ないの。そんなの、里久君だって分かってることなのに」

 ん? なんでだ、俺が引いたのはジョーカーなのに──……。

 瞬間、全身に電流が走った。

「違うの? だったら里久君、手札を公開してみる? 私の言葉が間違ってたら、ジョーカーがあるはずだもんね」

「い──いや、めとく! そうだよな、水守の負けだよな。すまん、俺がどうかしてた!」

 やっと水守の言葉の意味を理解した。ああ、そういうことか。全然思いつかなかった。

 水守は、とっくにイカサマに気づいてたんだ。

 水守がジョーカーを持ってると噓を言っても、俺にはそれを覆すことが出来ない。なら、俺の手札はどちらも数字の3だから。

 だからこそ堂々と噓がつけるんだ。ここで俺が手札を公開すれば、イカサマがあったことを認めることになる。当然手札は見せられないから、水守の最後の一枚がジョーカーであることを否定出来ない。

 水守が負けたと宣言した瞬間、俺の必敗は必勝へと変わってしまった。

「あはは、どうしたの? 負けたのが信じられないって顔してるけど、そんなに不思議なことかな」

 愕然とする俺を楽しむように、水守が笑う。

「ババ抜きなんて、勝ち負けを決めるのは運だもん。イカサマでもしないと、必ず負けるなんて不可能でしょ?」

「は、はは。そうだな……」

 く、くそっ……! やられた。イカサマを見抜かれるどころか利用されるなんて。

 絶対避けたかったのに、水守の恥ずかしい台詞を受け止めなきゃいけないのか。今更だけど、もうどっちが罰ゲームか分かんないなこれ。

「じゃあ、このアプリでランダムに台詞が出てくるから。えっと、操作法は……」

「それについてなんだけど、罰ゲームの内容を重くしたいんだけど、どうかな?」

「えっ、重くしたいのか? 軽くするんじゃなくて?」

「だって、そのアプリにあるような恥ずかしい台詞なら、私が普段から言ってるもん。里久君はともかく私の罰ゲームとしては弱いかなって」

 確かに一理ある。けど、何だろう。もっと罰ゲームを重くしたい、って水守が言い出すことに嫌な予感しかしないんだよな。

 でも、困った。軽くしたいなら問題があるけど、重くしたいなら断る理由がない。

「里久君は頑張って罰ゲームをしたんだもん。だったら、私も頑張らないと釣り合いが取れないでしょ?」

 ……まあ、いっか。恥ずかしい言葉を言われるってこと自体耐えられる自信がないし、いっそ変えた方が良いかもしれない。

「分かった。別にそれでもいいけど」

「ありがと。じゃあ、ちょっと待っててね」

 そう言うと、水守は別の部屋へ行ってしまった。

 さらに恥ずかしい罰ゲーム、ってなんだろ。俺だったら、パソコンのハードディスクの中身を全公開、とかされたらいっそ殺してくれって思うだろうけど。

 そんなことを考えていると、扉越しに水守の声。

「お待たせ。こっちは準備できたよ」

「ああ、分かった。でも今更なんだけどさ、その罰ゲームって水守が決めるんだろ? じゃあ罰ゲームの内容が重くなってるのかって、俺からは判断しづらい可能性があると思うんだけど」

「それは、大丈夫かな。多分、一目見ただけで里久君も納得すると思うから」

 それ、どういう意味だよ。そう問う前に、がらりと扉が開く。

 そして、水守のその姿に絶句した。

「──っっっ!」

 たった今、俺の目の前で水守が着ている服装。ニットのミニワンピなのだがノースリーブと異様に短い丈が特徴で、しかも下着を着ていない。あらわになった肩やかすかに見える胸や太ももに目がかれてしまう挑発的なファッション。

 童貞を殺す服。一般的に、そう呼ばれている服装だった。

 ダメだ──これは、ダメだ。

 一瞬で、全身の血液が沸騰するくらい顔が熱くなる。耐える、なんて概念など存在しない。一撃でくらくらしてしまうほどの見た目。何これ、童貞への殺意が高すぎる。

 何より、そんな刺激的な格好を水守がしている、ということが一番破壊力があった。

「どう、かな。……これくらいしなきゃ、罰ゲームにならないと思うんだけど」

 その服の仕様上、どうしても胸が強調されるデザインになってしまう。

 水守の胸が大きいってことは知ってたけど、まさかこれほどなんて。はっきりとラインが分かる胸の膨らみに、駄目だと分かってるのに目が引き寄せられてしまう。

「っ! い、いや、どうかな。それはちょっとやりすぎと思わなくもないこともやぶさかではないというか……!」

 やばい、まともに日本語が喋れてない。

 かなうなら、二分前の俺を全力で止めてやりたい。何がいっそ変えた方が良いかもだよお前、そのせいで今とてつもない羞恥心と戦うことになってるぞ。

「これ、ドーテーを殺す服って呼ばれてるんでしょ? やっぱり里久君も好きなの?」

「べ、別に。露出で言ったら、前の水着の方が凄かったし」

「噓ばっかり。耳まで真っ赤になってるよ?」

 ほんと、誰なのこの服デザインした人。童貞のツボを押さえすぎだ。って言っても、まともに水守の姿を直視出来ないんだけど。

 見たら嫌らしい男だと思われるかもという大きな恐怖と、もっと見たいというほのかな欲望。もう自我が崩壊しそう。

「い、いや、っていうかさっ。どうしてそんな服持ってるんだよ。まさか日常的に……?」

「違うって。これは趣味みたいなものだけど、着るのは初めてなの。他にもあるよ?」

 水守が立ち上がると振り返り、

「なっ……!?

 その一瞬、頭が真っ白になった。

 童貞を殺すセーターの特徴として、背中部分が大きく開いているという点がある。さらには下着を着けていないため……つまり、その……。

 おしりの一部分が、見えてしまっているのだ。

 見てはいけない。そう思考した瞬間視線を上げる。すると、俺の視界に飛び込んできたのは小悪魔めいた水守の微笑み。

「何処を見てるの? ……里久君のえっち」

 あと一ミリでも理性が溶けてたら、どうなっていたか自分でも分からない。

 それくらい、今の言葉はやばかった。

「っ! ご、ごめんっ……!」

「見せてるのは私なんだから謝らなくてもいいのに。まあでも、里久君もさっき私を照れさせようとしてたし、これでおあいこってことで」

 くそっ、罰ゲームの意図さえ見抜かれてる。しかもここまで遊ばれるなんて……!

 一人でもんもんとしていると、水守が衣装ケースを持ってきた。中にあるのはメイド服やチャイナドレスといった衣服や、カチューシャなどのアクセサリー。多様な衣装だ。

「すごいな、これ。水守ってコスプレが趣味だったのか?」

「そういうわけじゃないけど、趣味なのは間違いないかな。本格的な商品じゃないからそこまで値段は高くないけど」

 そんな趣味あるのか、知らなかった。と、俺は衣装ケースの前面に何やら文字が書いてあることに気づいた。

 里久君からかいBOX、と書かれていた。

「趣味って俺をからかうことかよ!?

「うん。通販サイトで良さそうな服とかグッズを見る度にポチってたの。里久君に使うと楽しそうだから」

 計画的かつ全身全霊で俺のことを弄びにきてるじゃないか……!

 むかしむかし、神様がとある箱に全ての悪と災いを封じた、というのは有名な神話だ。その箱の名前をパンドラの箱という。

 それじゃん。

 里久君からかいBOXって、パンドラの箱レベルで俺への災いが詰まってるよね?

「でも、里久君にお披露目出来て良かった。これ、絶対に理想的な反応してくれるって思ってたんだ。こんな服装、里久君なら困るに決まってるもんね」

「くっ……!」

 実際その通りなだけに、何も言い返せない。まずい、さっきからイジられてばかりだ。一回戦の時は俺が水守を照れさせたっていうのに。

 絶対に、次のババ抜きは勝てない。何としてでも負けて俺が罰ゲームを受けなければ。

「じゃ、里久君の反応も楽しんだことだし四回戦行こっか。カード配ってもいい?」

「ま、待った! このトランプを使うの止めて、別のに替えてもいいか?」

 イカサマが見抜かれた以上、また同じ手を打たれたら俺が負ける。それは避けないと。

「別にいいけど、トランプなんて持ってないんだ。代わりに別のゲームとか……」

「大丈夫、今から買ってくるから!」

「えっ」

 ──一〇分後。

「お待たせ……じゃあ、始めるか……」

「本当にわざわざ買ってきたんだ……。退院したばかりなんだから無茶したらダメだよ?」

 ぜえぜえと息を切らし、コンビニまで全力ダッシュで買ってきたトランプを差し出す。まあ、全力ダッシュって言っても腰をしてるから競歩くらいのスピードだったけど。

 ちなみに、水守は普通の服だ。

「水守、俺が行ってる間に着替えたんだな」

「あの服薄着すぎて、クーラーが効いた部屋だと寒いからね。もっと見たかった? 言ってくれればいつでも着てあげるけど」

「……まともに水守のこと見れないし、止めとく。それよりまだ未開封だから仕掛けなんて出来ない。正真正銘、トリックなしのババ抜きだ」

「いいよ、やろっか。負けた方が罰ゲームだよね?」

 かくして、お互いが負けようとするババ抜きが始まった。

 今までとは比べものにならない緊張感に、カードを選ぶ手にも気合が入る。ジョーカーを引けば救われた気持ちになり、逆に引かれれば死神の鎌を喉元に当てられた気分にすらなる。

 そして、重要なラスト三枚。ジョーカーを持ってるのは、俺だ。

「引くのは私の番か。絶体絶命、かな」

 そう、有利なのは俺の方。数字であるハートのエースを引いた瞬間、水守の勝ちだ。

「さあ、引いてくれ。それでこのゲームは終わりだ」

 無表情に徹した俺の手札に、水守がゆっくりと手を伸ばす。

「実はね、このゲームは絶対に私が勝てるようになってるんだ。だって、私は里久君の心の中が読めるから。どっちがジョーカーかなんて、目を見ただけで分かるの」

 動揺するな、ただのハッタリだ。

「へえ、凄い特技だな。超能力が使えるなんてまるでアメコミのヒーローみたいだ」

「そんな特別な力じゃないよ。こんなに一緒にいた男の子、里久君だけだから。何気ない仕草とか、ちょっとした表情の変化とか。そんなさいなことで里久君が何を考えてるか分かるようになったの」

 見惚れるくらい綺麗な瞳が俺を見つめる。

 水守のたおやかな指がエースを選び──

「だって、出会ってから里久君だけを見てきたんだから」

 けれど引いたのは、その隣のジョーカーだった。

「ほらね、やっぱりこっちがジョーカーだった」

「くっ……!」

 噓だろ、ほんとに当てるなんて。

 状況は逆転した。今度は俺がジョーカーを引かなければ。

 楽しげに笑顔を浮かべる水守が掲げる、二枚の手札。その内の一枚が、まるで強調してるかのようにわずかに高く持たれている。

 もしかして、あのカードを引かせようとしてる? あるいはその逆をついてエースはその隣とか──いや、考えるな。

 疑う心理を水守は利用するだろう。だから、無心で引け。

 頼む、ジョーカーよ来てくれっ!

 震える指で一枚のカードを引き、ゆっくりと目を開けて──愕然とする。

 勝って、しまった。

 俺が引いたのは、ハートのエースだった。

「はい、私の負け。やったね」

「なっ……!」

 ギャンブルに負けたかのごとく、ぐにゃぁ、と景色がゆがむ。アカギのわしやカイジのがわもこんな気持ちだったに違いない。

 完璧な作戦だと思っていたのに、二勝もしてしまった。

「まさか二分の一を外すなんて……。いや、待てよ。本当にただの運か? まさか、本当に水守は俺の心が読めるとか……?」

 ふっ、と水守が微笑みを浮かべる。

「あはは、それ冗談だよ? そんなの出来るわけないでしょ」

「えっ? じゃ、じゃあ単純に運任せでジョーカーを引いただけ?」

「それも違う。実は、私はどれがジョーカーか分かるよう細工をしてたんだ」

 なん……だと……?

 ジョーカーを手に取る。けれど、裏面を眺めても印らしきものは見つからない。そもそも、開封してすぐにゲームを始めたから仕掛けをする余裕なんてなかったはず。

「種明かししてあげよっか? 自分の手札に来るたびに、ジョーカーだけ他のカードと逆さまにしてたんだ。このトランプ、上下逆にしても模様が似てるからよく見ないと分からないでしょ?」

「…………えっ、たったそれだけ?」

 やられた。こんな古典的な策に騙されるなんて。

 もし気づいていれば、逆に利用して水守をハメることだって出来ただろうに。俺は最後に運否天賦に身を委ねてしまった。

 完敗だ。なんかもう、こういうゲームで一生水守に勝てる気がしない。

「じゃあ、罰ゲームは私だね。さーて、今度はどの衣装を着ようかなぁ」

「ちょ、ちょっと待った! さっきのワンピでもヤバかったんだから、もうちょっと手加減というか……!」

 罰ゲームなのに、水守はご機嫌でパンドラの箱(またの名を里久君からかいBOX)をのぞき……ふと、俺も水守もその場に固まった。

 俺と水守のスマホが、一緒に鳴ったからだ。

 まさか、同時に着信? けど、馴染みがない音楽だ。こんなメロディ設定した記憶がない。焦燥感が芽生えるような、無機質な音程。これって確か……。

 地震アラート。

 そう理解した瞬間、俺ははじかれたように水守を抱いて床に倒れた。

「ふあっ……!」

 水守の小さな悲鳴。直後、世界が揺れた。

 家具が小刻みに動く音。何かが床に落ちて割れる音。恐怖心で固く目を閉じてて周りがどうなってるかまるで分からないし、無理に動いたせいで腰がずきずきと痛い。けれど少しでも動けば水守が傷つくような気がして、覆い被さるような体勢のまま一歩も動けない。

 永遠に続くように思えた地震は、意外とすぐに収まった。

「びっくりした……。今の凄い揺れだったな」

 目を開けると、水守は息をんだ表情でじっと俺を見つめるのみ。

「どうした? 水守、大丈夫か?」

「…………(こくこくっ)」

「そっか、怪我がなくて良かった」

 無言でうなずく水守。周囲を見ると、被害は大してなさそうだ。

 そこまで大きな地震じゃない、そう思った瞬間、緊張が解けて笑いが込み上げてきた。

「はは、怖かった。ほら、まだ手が震えてる。でもこれくらいで済んで良かったな」

「う、うん。ねえ、そろそろ……」

「ん?」

 なんだか、水守の瞳が潤んでいるような。

 そこで、やっと自分の状況に気づく。あと少しでくちびるが触れ合ってしまいそうな、水守を押し倒すような体勢。

 文字通り、その時の俺は跳び上がってたと思う。

「わっ……ご、ごめんっ! そんなつもりはなかったんだけど……!」

「謝らなくていいのに。私のこと庇ってくれたんでしょ?」

「……まあ、水守に何かあったら大変だし」

「ん、そっか。ありがと」

 水守がはにかむような笑みを浮かべる。何か、不思議だ。大きな地震があったのに、水守は機嫌良さそうに微笑んでいた。

 スマホでSNSを開くと、一番に地震速報が目に入った。タイムラインは地震の話題で持ちきりだ。

「最大震度5だってさ。俺らのとこはそこまで被害なかったけど、やっぱりかなり大きいみたいだ」

 ふと、メッセージアプリに通知があることに気づく。

 涼音からだった。『大丈夫ですか~!?』と慌てた風のスタンプと一緒に届いていた。つい頰が緩み、『心配してくれて悪いな。そっちは平気か?』と返信する。

 どうやら、水守も涼音からメッセージがあったらしい。涼音からのスタンプを俺に見せながら、

「良かった、涼音ちゃんも何もなかったみたい。ねえ、今日は早く家に帰った方が良いんじゃないかな。ご家族も里久君がいなくて不安だと思うし」

「確かにそうだけど、水守は大丈夫か? ここはタワーマンションだし、さっきより大きい余震があったら避難とか遅れるんじゃ……?」

 水守は一人暮らしだ。安全だと確信出来るまでは、傍にいた方が良いんじゃないか。

「大げさだなぁ。避難が必要なくらい大きな地震じゃなかったみたいだし、私のことは気にしなくても大丈夫だよ?」

「でも……」

「それより、早く家に帰った方がいいよ。ご家族もきっと心配してるよ?」

 少しの間だけ躊躇ためらい、その言葉に頷いた。

「分かった。けど、何かあったらすぐに連絡してくれ。またここに来るから」

「里久君って心配性なんだね」

「むっ……悪いかよ。心配にもなるさ、水守のことなんだから」

「はいはい。見送ってあげるから、そろそろ行こ?」

 後ろ髪を引かれる思いで、水守と共に部屋を出る。

 考えすぎだ、水守が大丈夫って言うならきっと平気だよな。そう何度も自分に言い聞かせるものの、やっぱり胸のもやもやは晴れなくて……ふと、気になる光景に足を止める。

 なんか、エレベーター前に人だかりが出来てるんですけど。

 焦った顔をする住人の人たちはボタンを押すが、エレベーターはちっとも反応しない。

「もしかして、さっきの地震のせいか? まさかエレベーターが止まるなんて」

「そういえば、ある程度の震度だと安全装置が作動するんだっけ。どうしよ、多分非常階段なら使えるようになってると思うんだけど……」

 じゃあ、それしかないか。遠くにある非常階段まで歩き出そうとして、その腕を水守が摑んだ。

「ま、待って。里久君、もしかして階段を使うつもり?」

「……? だって、それしか方法ないんだろ?」

「そうだけど、里久君は大丈夫なの? 二〇階以上ある長い階段なんだよ? ……退院したばっかりなのに、無茶は良くないよ」

 あぁ、なるほど。水守は俺の腰の怪我を気にかけてくれてるのか。

 確かに、今の俺の腰はおじいちゃん並みに繊細だ。ただ降りるだけでも苦労する。

「これだけの高さだし大変だとは思うけど、まあ大丈夫だろ。慎重に行けば問題ないって」

「そんなの分かんないよ。里久君、骨折してたんだよ? 負担をかけたら完治まで長くなっちゃうし、最悪また入院することになるかも。だから絶対にダメ」

「いや、気持ちは嬉しいけどさ……」

「行くなら私を倒してからにして」

 少年マンガの敵キャラかな?

 水守って意外と大げさなんだな……なんて、のこと言えないか。心配性なのはお互い様だ。

「了解、階段は使わない。じゃあエレベーターが復帰するまで待つしかないか。参ったな、早く直るといいんだけど」

 なんて、もう少しだけ水守と一緒にいられそうだから、内心ほっとしてるのは秘密だ。

「あのね、一つ提案があるんだけど」

 ぽつり、と水守が口にする。

 どうしたんだろ。どことなく、そわそわしてるような。

「私は里久君に安全に帰って欲しい。でもエレベーターはいつ直るか分からない、もしかしたら終電が過ぎても直らないかも」

「あー、それは避けたいな。タクシー使うのもホテルに泊まるのも高校生には厳しいし」

「だよね? それで、里久君はまた地震があるかもしれないから私を心配してくれたよね? だから、私と里久君の心配事を一気に解決出来る方法があるんだけど、聞きたい?」

「そんな都合の良い方法があるのか? それは凄いな、是非教えてくれ」

「うん。あのね、里久君」

 そして、水守は小悪魔のような笑みで口にした。


「──今夜、私の家に泊まらない?」


 ………………えっ?

 今、水守は何て言った?

 私の家に泊まらない? って──。

「い、いやいやっ! 流石にそれはまずいだろ! ほら、俺たちってまだ未成年だし、風紀的にそういうの良くないんじゃ……!」

「今は非常事態なんだから仕方ないでしょ? 風紀委員長の流花だってこの状況を見たら、見逃してくれると思うけどなあ」

「いやでも、水守と一夜を過ごすなんて緊張でどうなるか俺でも分からないぞ!?

「心配だから私の傍にいたい、って言ってくれたでしょ?」

 ぴたり、と俺は人形のように固まった。

「私も、もう里久君には怪我をして欲しくないの。たとえそれがわずかな可能性でも、ね。終電までにエレベーターが復帰したら帰ってくれてもいいから、それまで一緒にいて?」

 どこか期待をするような、水守の表情。

 ……ずるい。そんな顔されたら、断れるはずがない。

 ゆっくりと、一度だけ深呼吸をした。

「分かった、もう少しだけ一緒にいるよ。一晩過ごすことも覚悟しとく。けど、エレベーターが直ったら帰るからな?」

「じゃあ、明日まで直らないようにお祈りしよっかな。ありがとね、里久君」

 大丈夫、慌てるようなことじゃないさ。

 手だって繫いだ、デートだってした。だったら彼女の家に泊まるくらい、恋人として自然なステップだ。

 ……待てよ。恋人としての段階を正しく踏んでるっていうなら、お泊まりの次のステップは──そこで考えるのを止めた。頭ががりそうだったからだ。


 今晩のメニューは、カルボナーラにクリームポテト、ブイヤベースという洋風メニュー。特にブイヤベースがおすすめで、魚介類でうまみが変わるから最近こだわってるというのは水守の談。

 ただ、泊まることで頭がいっぱいで料理の味が全然分かんないけど。