第一章 アルバムの中のふたり

 ……どうやら先日の嫌な予感は外れてしまったらしい。

 確かにはじめのうちは、かおるんが泊まりに来たこともあって少々騒がしかった。ただこの数日の間、うちで明るく暮らすルナたちを目の当たりにしてなにを思ったのだろう?

 時折かおるんは表情を曇らせることがあり、さらにいつもみたいな悪戯を仕掛けることもなく、気がつくとよくひとりでため息をついていた。

 明らかに様子がおかしい。そしてがゆいことにその理由がよくわからない。けれど少しでも元気付けてやれればと思い、とある日の午後。オレはお勧めの小説を四冊ほどわきに抱え、自室を出てかおるんが寝泊まりしている客間へと足を伸ばした。

 確かかおるんも本が好きだったはずだ。読書で多少なりとも気が紛れればいい。そう考えて客間に来てはみたものの、タイミングが悪かったのか、部屋にかおるんの姿はなく、ふと玄関のあたりから扉が閉まるような音がかすかに聞こえてきた。

 ……だれか出掛けたのか? ちょっと気になって足を向けると、なにやら今度はリビングからルナとマキナの話し声が聞こえてきた。

 ふむ、とりあえずかおるんがどこにいるのかふたりにもいてみよう。オレはリビングの扉を開け、「なあ、かおるんなんだけど……」と声を掛けようとしたのだが、思わず言葉が途中で止まった。一応だが予想通りリビングにはふたりの女性の姿。

 ひとりは輝くようぼうの金髪美女ことルナ。せいな雰囲気に似合わず、彼女は悪魔だったりもするが、我が家の頼れるお姉さんであることに変わりはない。

 また、もうひとりの赤髪の女性、目の覚めるようなぼうの彼女はマキナ・リーベライ・オランジェロ。ルナの義理の妹であり、半人半魔の悪魔。そして我が家の住人でもある。

 が、彼女たちは一体なにをやっているのだろう?

 リビングであるのにもかかわらず、ルナは身にまとっている上着を大胆にも捲りあげており、白のブラジャーに包まれた量感たっぷりの乳房があらわになっている。こうして横から見ると豊かな胸の膨らみがよくわかるわけだが、目線は自然とマキナの手元へと移っていった。

 果たしてこれからなにをするつもりなのか、ルナの背後に回っているマキナ。彼女はルナのブラジャーに手を掛けている上に、よく見たらブラのホックが見事に外れていた。

 ……かおるんを捜していただけなのに、こいつはとんでもない場面に出くわしてしまったな。うっかり抱えていた小説たちを床に落としてしまったところ、ルナとマキナはこちらを認めるや否やそろって目をしばたかせ、そのまま互いに動きを止める。

 一方オレはえてあいまいな笑みを作り、冗談半分でふたりから目をらした。

「……すまん。邪魔をしたな。どうぞごゆるりと」

 言いながらリビングのドアを半分ほど閉め、チラリと様子をうかがったところ、案の定ふたりは見る見るうちに赤くなり、いち早くルナが裏返った声をあげた。

「待ってくださいしのぶさん! なにか勘違いをしていませんか! これはかおるさんが──」

「ちょ、ちょっとお姉さま、そんなに動いたらブラが──あっ……」

 ブラのホックが外れている状態のまま、オレを止めるためか勢いよく振り返るルナ。

 察するによほど慌てていたのだろう。マキナの制止もむなしく、ルナの動きに合わせてたわわな果実が刺激的に揺れ動き、ぷるんとブラからこぼれるようにして顔を出す。

 もう隠すものはなにもない。大ぶりのメロンをほう彿ふつとさせるふたつの丘。まろやかな乳房は重力の干渉を受けていないのか、なんとも誇らしそうにそそり立ち、その頂ではれんに色づいたピンクのつぼみが……って、状況も忘れて見とれている場合ではなかった。

 さすがにこれはまずい。おそらくマキナもオレと同じことを考えたのだろう。彼女はさっとブラのホックから手を離し、後ろからわしづかみにするようにしてルナの胸を隠した。

 しかしルナの乳房は圧倒的なボリュームを誇っている。当然ながらマキナの小さな掌に収まるわけもなく、みずみずしい上乳や下乳が露出したままだった。

 ……かなり際どくあでやかな手ブラである。

 きっとマキナも動揺していたに違いない。彼女が手を離したことで白のブラがはらりと床に落ち、さらに両胸をつかまれたせいか、ルナがびくんと細い肩を震わせた。

「やぁん……マキナ……そんなにぎゅっとしたら……うぅん……」

「あっ、ごめんなさいお姉さま、痛かった……って、すごいわねこれ」

 謝罪の途中で軽く目を見張り、小さく感嘆の声をもらすマキナ。なにやら両胸の感触に心をかれたらしく、彼女はルナの肩にあごを載せ、弾力を確かめるように、手ブラの状態のまま豊満な乳房をたゆんたゆんと揺らしはじめ……もはやあまり手ブラの意味がない。

 柔らかな乳房は波打つように揺れ惑い、マキナの手のすきから時折ピンクのつぼみが誘うようにチラリと顔をのぞかせている。多分ルナもそれに気づいたのだろう。恥じらうようにほおを染めながらも、やんわりとマキナをたしなめる。

「んぅ、マキナ、もうおっぱいに悪戯いたずらしちゃダメですよ。しのぶさんに見られちゃいます」

「大丈夫よお姉さま。どうせ忍のことだから目をらして──って、ガン見してる!?

 ……はい。見てました。ごめんなさい。ついかおるんのことをくのも忘れ、悩ましい膨らみに魅了されていたところ、マキナはオレへと視線を移し、わずかに声を低くする。

「……あたしが言うのもなんだけど、さっきから忍はドアの前でなにをしているの?」

「見ての通り芸術品の鑑賞中だ。悪いが静かにしてくれ。気が散ってしまう」

「あっ、邪魔してごめんなさい。どうぞごゆっくり──なんて言うわけがないでしょう! なにが鑑賞よ! ふてぶてしい顔をしてお姉さまの胸を見ているだけじゃない! もう部屋に入るなら入るでいいから、早くドアを閉めて後ろでも向いてて!」

 ……部屋に入ってもいいのか。なかなか寛大な処置だ。少し驚きつつも、オレは「ほんとすいませんでした」と頭を下げて背中を向け、言われた通りリビングの扉を閉める。そのついでに先程落とした小説たちを拾い、当初の予定通り後ろのふたりに質問を投げた。

「なあ、いつものようにいちゃついているところ悪いんだけど、お前らかおるんを見なかったか? 部屋にもいないみたいなんだが……」

「えっと、別にいちゃついているわけじゃないんですけど……入れ違いになっちゃったのかも知れませんね。かおるさんならいまさっき出掛けちゃいました」

 そいつはなんとも間が悪い。こちらが胸中でため息をつく中、話している間に着替えを済ませたらしく、ルナが「忍さん、もうこっちを向いてもいいですよ」と声を掛けてくれたので、ひとまずオレは扉の前で振り返る。

 と、かルナもマキナも微妙に表情をかげらせていた。

 どうかしたのか? げんに感じながらも、いつたんオレはリビングのソファーに腰を下ろし、持っていた小説たちをテーブルの上に置いていたところ、ふたりは顔を見合わせたのち、ルナが「あの忍さん」と控え目に切り出した。

「さっきマキナとも話していたんですけど、やっぱり最近の薫さん、少し変ですよね?」

「まあ確かに、最近は変態メイドというよりも、憂いを帯びたれいなお姉さんみたいになっているからな。妙な悪戯を仕掛けることもないし……」と、ルナに同意するように言葉を返したところ、そばにいたマキナも心持ちまゆじりを下げ、「そうよね」と口を挟む。

「少し前までかおるもリビングにいたんだけど、やっぱり元気がないように見えたのよ。それでお姉さまが『どうしたんです。大丈夫ですか』って声を掛けたの。そうしたら……」

 一度言葉を止め、マキナはため息混じりに続ける。

「なにを思ったのか、薫ったら『わたくしならちゃらへっちゃらです』なんて冗談めかして、いきなりお姉さまのブラのホックを外したのよ」

「……あいつは服の上からホックを外したのか? だとしたらすごいテクニックだとは思うが、かおるんにしては下手な誤魔化し方だな」

 しかしなるほど。それでマキナがブラをつける手伝いをしていたわけか。胸中でオレがひとりうなずく中、どうしてかマキナは沈んだ面持ちで声を落とす。

「下手な誤魔化し方でも、あたしは気づかなかったのよ。つい普段みたいに『なにをしているのよ!』って怒っちゃったの」

「いや、そんな落ち込まなくても、別に注意ぐらいしてもいいと思うぞ?」

「でもあたしが怒ったら、あの薫が冗談も言わないで素直に頭を下げたのよ? その上しょんぼりしながら『おびに夕食の買い出しに行ってきます』とか言って止める間もなく出掛けちゃったの。なんだか注意したこっちまで申し訳なくなっちゃったわよ」

「……かおるんがそんな風だと、確かに調子が狂うな」

 軽く肩をすくめてマキナにあいづちを打ち、オレは腕を組んで天井を見上げる。

 さて、マキナの話によるとかおるんは夕食の買い出しに行ったみたいだが……やはり近くの商店街だろうか? それなら散歩ついでに様子を見に行ってみよう。もしかおるんに会えたら荷物運びを手伝えばいいし、会えなかったら本屋にでも寄ればいいだろう。

 などと考えていたところ、なにやらルナがテーブルに置いた小説たちに目を落としていたので、「気に入ったのがあれば、一冊持っていってもいいぞ」と声を掛けたのち、オレは早々に家を出て商店街に足を伸ばした……。

 どこか物げな夕暮れ時。オレンジの淡い空の下、オレはひとり家路を辿たどる。

 あれから家を出てはみたものの、スーパーや商店街でかおるんとすれ違うこともなく、用事もないのに携帯で連絡を取るのもどうかと思い、仕方がないので本屋に顔を出し、こうして帰宅したわけなのだが……今度はどこで入れ違いになったのだろう?

 買い出しから戻ってきたところらしく、視線の先ではスーパーの買い物袋を手にしたかおるんの姿。しかし彼女はなにをやっているのか、うちの門からのぞき見るようにして、じっと我が家の庭の様子をうかがっている。

 なんだか不審者みたいだな。苦笑をもらしてオレが歩みを進めたところ、かおるんもこちらに気づいたようだ。ふと彼女はオレに視線を移し、そのまま小さく会釈をひとつ。

「おかえりなさいませしのぶ様。お出掛けだったんですね」

「ああ、ずっとお前の笑顔を捜していたんだ」

「はあ、それはご苦労様です……」

 え? なにその反応? 普段のようにこちらの冗談に合わせることも鋭い突っ込みを入れることもなく、気のない返事と共にのぞき見を再開させるかおるん。一体なにを見ているんだ? 少し興味をかれ、オレも彼女に倣うようにして庭先へと目を向ける。

 ちなみに、現在我が家の庭にはルナが製作した花壇があり、おそらく手入れの最中なのだろう。かおるんの視線の先を追うと、庭の花壇の前には笑顔のルナ。また、彼女の隣で明るく微笑ほほえむ銀髪の少女の姿が見えた。

 夕日を浴びて輝く銀の髪。それをツインテールにまとめた少女はエルニ。我が家のボケ担当かつムードメーカー。そして優しい次女でもある。

 そんなエルニはルナと一緒に花壇の前で腰をかがめ、どうやらふたりで談笑を楽しんでいるようだ。こちらが様子を見守る中、ルナはエルニに目を向け、笑顔のまま声を弾ませる。

「いまから楽しみですね。きっと春にはたくさんの花が咲いてくれると思いますよ」

「たくさん咲くのか。それは本当に楽しみだな。ところでその花……食べられるのか?」

「エ、エルニちゃん? そんな風にじっと見てもダメですよ? おなかを壊しちゃったらどうするんです? お願いだから食べないでくださいね?」

 ちょっぴり慌てつつも、ルナはやんわりとエルニに言葉を掛ける。

「せっかく咲いてくれるんですから、食べるよりも見て楽しみませんか? おうちの庭に花が咲くんですよ? 明るくて華やかになって素敵だと思うんです。それを見て忍さんたちが笑ってくれたらって考えると、すごく幸せな気持ちになりませんか?」

「う~ん、今ちょっとその絵を想像したら、なんかこう、急に春が待ち遠しくなってきたぞ! まあ、わたしの頭の中はいつでも春なんだけどな!」

「暖かくていいですね」

「う、うん! ぽかぽかしていていいんだぞ! そのうち頭の中でも花が咲くかもな!」

 にっこりと笑顔でエルニのボケをスルーしたルナ。おそらく本人に悪気はないのだろうが、エルニはあいまいに笑い、「それよりも」とぎこちなく話題を変えた。

「ルナはよく花壇の手入れをしているけど、やっぱり花が好きなのか?」

「はい。心を込めてお世話をしたら、花もれいに咲いてくれるでしょう? ちゃんと気持ちにこたえてくれているみたいで、なんだかそれがうれしいんです」

「ルナの気持ちにならわたしだって応えるぞ? わたしのことも心を込めて愛してくれ」

 花に対抗するように、ぎゅっとルナに抱きつくエルニ。

 なにやらクリスマスの日を境に、あんな風に彼女もオレたち家族とスキンシップを取る機会が増えてきたような気がする。そんなエルニの変化を受け、抱擁に応じるみたいにルナは彼女のほおに軽くキスをひとつ。続いて満面の笑みを浮かべた。

「エルニちゃん、実は私、花は見るのも育てるのも大好きなんですよ? エルニちゃんは向日葵ひまわりの花みたいですから、ずっとこうしてそばで見ていたいです」

「それだとしのぶしつされちゃいそうだけど……そうか、花を見るのも好きなのか」

 小さくあいづちを挟み、エルニはあごに手を当てたのち、声音にぬくもりをあふれさせた。

「それならルナにも見せてあげたいな。わたしはこれまで世界各地を旅してきたんだけどな、ある所でれいな向日葵畑を見たんだ。明るい黄色の花が辺り一面に咲き誇っていて、まるで太陽の笑顔みたいに思えて、今でも覚えている。こんなにも大きな向日葵畑なんだ」

 両手を目一杯に広げ、エルニは頬を緩めて「ほかにも」と夕暮れの空を見上げる。

「鮮やかなチューリップ畑。なずなが好きそうな、猫がたくさんいるお城。夕日が今みたいなだいだいじゃなくて、本当に真っ赤に見える国。世界には素敵な場所がいっぱいあるんだ。わたしが見てきた大好きなものを、皆にも見せてあげたいな。今度は皆と一緒に見たいな」

 穏やかに言葉を紡ぎ、ふと口を閉ざしたかと思ったら、エルニは「そうだ」と声をあげて勢いよく立ちあがり、そのままルナに笑顔を向ける。

「なあルナ、今ちょっと思ったんだけどな、いつか皆で海外旅行に行かないか? 忍たちが高校を卒業するときでもいいし、それに大学生の休みは長いんだろう? この先旅行を楽しむ機会はたくさんあると思うんだ」

「ふふ、そうですね。私もエルニちゃんが大好きなものを見てみたいです」

「そうか! それなら絶対に見せてあげるからな! 忍にルナにマキナ、なずなとともえお母さんと一緒に家族旅行だ! もちろんひじりとかおるんも誘うぞ! ちなみに旅費の心配ならいらない! わたしがお金を稼いで何とかするからな! 大好きな皆にプレゼントだ!」

「えっと、でもエルニちゃんひとりだと大変でしょう? よかったら協力させてください。私も忍さんたちになにかお返しがしたいです」

「よし! それじゃあ二人で協力しよう! 家族旅行でもいい思い出をいっぱい作ろうな! ふふ、それで最初はどこから行こう? お勧めの場所がいっぱいあって迷うな……」

 柔らかな朱の陽が差し込む庭先。夕日に照らされながら互いに笑みを絶やさず、花壇の前で談笑を続けるルナとエルニ。そんな姉妹のようなふたりの姿を見て……やはり思うところがあったのだろう。

「……エルニさんは、少し変わりましたね」

 門の前で足を止めたまま、かおるんはぽつりとこぼす。

「前までなずなちゃんのことは友達みたいに、『なずにゃん』と呼んでいましたが、今は妹に接するように名前で呼んでいます。巴さんのことも『お母さん』と呼んで、たまに甘えるように抱きついたりして……エルニさんも、このうちの家族になれたんですね」

「わりと時間は掛かったけどな」

 ほおを緩めてそう口を挟むと、かおるんはこちらに視線を移し、どこか淡く微笑ほほえんだ。

しのぶ様はすごい人と家族になれましたね。きっとエルニさんなら、家族にも色んなことができるんだと思います。一緒に笑ったり泣いたり、時には家族を支えたり、それにあの明るい笑顔が待っていると考えたら、それだけで毎日うちに帰るのが楽しくなりそうですね」

「……お前も、エルニに負けてないと思うぞ?」

 オレがルナたちのことを自慢の家族だと感じているように、ひじりもかおるんのことを大切な姉だと考えているに違いない。それは自信を持って言える。しかしオレの言葉は、いまのかおるんにとって負担にしかならなかったのかも知れない。

「ダメなんですよ……」

 力なく首を横に振り、彼女は手に持っていた買い物袋を強く握り締める。

「わたくしは……エルニさんやルナさんたちみたいには……なれそうにありません」

 かすれかけた小さな声。いまにも崩れそうな微笑み。こちらがなにか言葉を掛けるよりも早く、会話を打ち切るようにかおるんは庭先へと足を伸ばしていく。

 と、そこで、ルナもエルニも彼女に気づいたらしい。

 ふたりは揃ってかおるんへと駆け寄り、『おかえり』という言葉のあと、夕食を話題にそれぞれ口を開き……それは一見和やかな光景のようにも思える。けれど、かおるんはどこかうらやむようにルナたちを眺めていて、彼女の表情が晴れることはなかった……。

 ……元気付けるどころか落ち込ませてどうする。

 先程のかおるんとの会話を思い返して少し反省。庭先で日課のけいを終えて気持ちを切り替えつつ、今度こそかおるんに小説でも勧めてみようと考え、オレは客間へと足を運ぶ。

 ちなみにその途中、昼間リビングに置いていた四冊の小説。そのうちの一冊を借りたと、ルナが声を掛けてくれ、なんでも彼女は夕食の支度をかおるんに代わってもらったらしいのだが、まあそれはともかく。問題はまたしてもかおるんが客間にいなかったということだ。

 一応軽く家の中を見て回ったものの、彼女の姿が見当たらず、仕方ないので小説を抱えてひとまず自室に戻ったところ……なにやら電気がいている上に人の気配までした。

 ……だれかいるのか? 首をひねりながら気配を辿たどると、どうやらこんなところにいたようだ。さっきまで捜していたかおるん。彼女は部屋のベッドに潜り込み、オレのまくらに頬を預け、心なしかほんわかと口元を緩めていた。ちょっぴり幸せそうである。

 思わず苦笑をこぼして歩みを進めたところ、彼女はオレに気づいてもベッドから出ることもなく、枕に頬を預けたままどこかぼんやりと口を開く。

「いらっしゃいませ忍様。少々狭いところですが、どうぞ遠慮なくおくつろぎ下さい」

「……なかなかごあいさつだなお前は」

 少し狭くてもいとしのマイルームなんだよ。というか、お前はひとのベッドでなにをやっているんだ? なんて突っ込みは控え、オレは心持ち柔らかく言葉を続ける。

「しかしどうしたんだ? こんなところで休憩中か?」

「はい、エッチな意味でのご休憩中なのです──と、言いたいところなのですが、実はここのところ色々とありまして、わたくしはいま傷心中なんです。ですからいやしを求め、こうしてしのぶ様の甘いにおいに包まれているというわけですね」

「程々にしてくれよ? お前の匂いが移ったら寝るときにドキドキして困るからな」

「……忍様、もうちょっと気の利いたことが言えないんですか?」

 これでも気を遣ったつもりなのだが、かおるんは小さく唇をとがらせてしまった。

「わたくしがこんなにも傷ついているんですよ? ここはわたくしをがばっと抱き寄せながら、『かおる、匂いなら直接かぎな』とワイルドに迫るところでしょう?」

「あ、いや、でもさっきけいで汗をかいちゃったから……」

「それでは『愛してるぜ薫』とつややかにささやき、優しくおでこにキスしてください。この際ですからおっぱいにキスでもいいです」

「悪いんだけど、今日は不思議とおしりの気分なんだよ」

「わたくしとしてはそちらの方がうれしいですね」

「……もう返す言葉もなくなっちまったよ」

 そしてそのまま会話もなくなった。

 普段のように冗談を飛ばしてくるかおるんだったが、彼女の声には張りがなく、そのせいかこちらの突っ込みもボケもえないままだ。オレは苦笑を濃くしつつ、いつたん抱えていた小説を机の上へと移す。それからベッドの端に腰掛け、そっとかおるんに手を伸ばした。

 本人は傷心中だと口にしていたが、どう慰めたらいいのかよくわからない。ただ無言で頭をでてやることしかできなかった。それでもかおるんはかすかにほおを染め、掛け布団で顔を半分程隠しつつも特に抵抗はせず、しばしの間のあと、小さく言葉を紡ぐ。

「……忍様、こう見えてもと言いますか、見ての通りわたくしは大抵のことはそつなくこなす、頭脳めいせきもく秀麗、スポーツ万能のかんぺきメイドでしょう?」

「多少遺憾ではあるが、確かに否定はできないな」

「そうでしょう? ですからなんでも出来るはずなんです。けれど、なりたいものにはなれそうにありません。このうちに来たらなにかわかると思ったんですが……わかったことといえば、自分に足りないところばかりでした」

 微かに声を落とし、かおるんは少しだけ寂しそうに目を細める。

「わたくしも、もっと変わりたいんですけどね」

「……お前なら、別に無理して変わる必要はないんじゃないのか?」

「ですがエルニさんは変わられましたよ? ルナさんもマキナもそうです。皆さんはこのうちのお姉さんになられました。その変化は、忍様にとっても嬉しいものだったはずです」

 どこか力なく反論して、掛け布団のすそをぎゅっと握り、

「きっとひじりちゃんだって、もしわたくしがルナさんたちのようになれたら……」

 にじみかけた表情を見られたくなかったのだろう。すっと掛け布団を上げて完全に顔を隠してしまうかおるん。彼女はそのままわずかな間だけ口を閉ざしてはいたものの、場の雰囲気を変えるように、不意に布団越しからわざとらしいため息をついた。

「もう色々とあって自己嫌悪で泣きそうになって、勢い余ってしのぶ様の部屋に来てみたんですが、気がつくとエッチな本はないかと探索していました。わたくしも重症ですね」

「お前の場合は重症なんだか正常なんだかよくわからないな」

「……普段のわたくしなら、エッチな本よりも先にベッドに行くところですよ? ただ、最近は聖ちゃんから『元気にしているかな?』なんてメールがよく来ますから……」

「あの犬の絵文字が入っているやつか?」

「はい。あの可愛かわいらしいメールがよく来るんです。それで落ち込んでいることがバレないように、『忍様の部屋に隠されたエッチな本を朗読中。ナウ』なんてメールを送りたかったのですが、どこをどう探しても肝心のお宝が見当たりませんでした」

「この部屋にオレ以上の宝はないということだ。残念だがあきらめろ」と、ジョークめかして言葉を返したところ、どうしてか布団越しにかおるんが不満そうな声をあげた。

「もうがっかりです! それでは思い通りのメールが打てない上に、聖ちゃんに忍様の趣味を教えてあげることもできないではありませんか! 一体どうしてくれるんです!」

「……逆に聞くが、オレにどうしろというんだ?」

「これから聖ちゃんに、『忍様のベッドでご休憩中。ナウ。忍様が隣で優しく頭をでてくれています。今夜は眠れそうにありませんね』というメールを送りますので、どうかそれを笑顔で黙認して下さい」

「布団の中でなにをしているんだよお前は。波乱万丈な予感しかしないからやめてくれ」

 だけどまあ、これだけ冗談が言えるのだ。そろそろ大丈夫だろう。オレは突っ込みと同時に手を伸ばし、勢いよく布団をがす。と、予想に反してかおるんの手に携帯はなく、代わりに彼女は胸に一冊のアルバムを抱いていた。

 さっきから隠し持っていたのだろうか? アルバムに目を落とすと、『忍君のはかなくも切なく美しいようなそんなメモリーズ 序章編 ~爆誕から早数年、思い出は伝説に変わるかも知れない~』などと父さんが適当に銘打った長いタイトルが確認できた。

 そんなアルバムを胸に抱いたまま上体を起こし、かおるんは控え目に口を開く。

「先程エッチな本を探しているときに発見したのですが、よろしければめるようにして見てもいいですか?」

「……普通に見る分には構わんぞ?」

 というか、勝手にエロ本の探索はしても、アルバムを見るときはちゃんと許可を求めるんだな。礼儀があるのかないのか微妙だが、とりあえずうなずいて応じると、かおるんは興味津々な様子でアルバムを広げ、オレは微苦笑混じりに彼女の手元をのぞき込んだ。

 するとアルバムには在りし日のオレの姿。おそらく五、六歳ぐらいのころだろう。幼い日のオレがまるで天使のごと微笑ほほえんでいたわけなのだが、その写真を見てなにを思ったのか、かおるんは不思議そうに小首をかしげた。

「これはしのぶ様のアルバムなんですよね? 初っ端から忍様が写っていませんよ? こちらのプリティーな男の子はどなたなんです?」

「ちょっとこっちを向いてみろ。そうすればそのプリチーな少年にすぐ出会える」

「……歳月は残酷ですね。なんですかその魔王みたいな顔は。キュートの欠片かけらもありませんよ? まあ、わたくしはいまの忍様の方が好きなんですけどね」

 こちらに目を向け、暴言を吐きつつもウインクをひとつ。続いて彼女は手元に視線を戻し、ゆっくりとページを捲っていき……アルバムを眺めながらくすりと笑みをこぼした。

「なんだか、なずなちゃんと一緒に写っている写真が多いですね。家の中でも外でもなずなちゃんが隣にいて、よく忍様に抱きついています」

「あいつは昔から、『お兄ちゃんがいないとはじまらないの』なんてよくわからないことを言って、しょっちゅうオレの後ろをくっついてきたからな」

 こちらが温かくあいづちを挟む中、かおるんはアルバムを眺めたまま笑みを濃くして、声音にぬくもりを乗せる。

「きっと少しでも長くお兄ちゃんのそばにいたかったんでしょうね。写真の中で忍様と一緒にいるとき、なずなちゃんはいつも幸せそうに笑っていて……って、あら? この写真だとなずなちゃんが大泣きしていますよ? なにかあったんですか?」

 はたとページをめくる手を止めるかおるん。彼女の視線を追うと、確かに写真の中でなずなが大きく口を開け、ひとみからとめどなく涙をあふれさせていた。そしてなずなの傍にいる少年。幼い頃のオレはか涙目で妹の頭をでていて……どうにもクールじゃない。

 なんでオレまで泣きそうなんだよ? ちょっとあきれて写真を眺めていたところ、ふと当時の記憶がよみがえり、思わずオレは軽く噴き出してしまった。

「これはあれだ、オレがはちに刺されたときのやつだな。そういやあのとき、なずなが『お兄ちゃん! 蜂さんだよ! いまから人を刺すぜみたいな目でこっちを見ているの!』とか叫んで、慌ててオレのところまで逃げて来たんだったっけ……」

「なずなちゃんは子供の頃から面白いだったんですね」

「ちょっとアホだけどな。もっとも、あのときはオレの方がアホだったか」

 当時のことを思い出しているうちに、自然とため息がこぼれた。

「正直オレも蜂は怖かったんだが、やっぱり妹の前だからな。を張って『いいかなずな、蜂は人を刺す前に一度警告する。その警告さえ見逃さなければ大丈夫だ。問題ない』なんて聞きかじった知識をひけらかしている間に……思いっ切りはちに刺された」

「それはなんと言いますか……残念でしたね」

「ああ、格好悪い上にちやちや痛くてな、色んな意味で泣きそうになっていたら、なずなが顔をあおくして『お兄ちゃんが死んじゃうよお!』とか言って大泣きしちまって、そのときそばにいた父さんが……大爆笑して写真を撮った」

「なかなか愉快なお父様だとは思いますが……」

 微苦笑と共に再び写真に目を落とし、かおるんは穏やかに言葉を続ける。

「なずなちゃんが泣いてしまうのも無理はありませんね。大好きなお兄ちゃんになにかあったらって考えたら、もうどうしていいのかわからなくて、心配で仕方がなくて、それでこんな風に涙を……」

 不意に柔らかな表情から一転。オレが蜂に刺されてなずなが大泣きしている写真。それを眺めながら表情を変え、今度は無言でアルバムに目を通していくかおるん。そんな彼女の反応に少し戸惑いを覚え、オレは首をひねってかおるんに声を掛けた。

「……急にどうしたんだ? そんな真顔で見るものじゃないと思うぞ?」

「あっ、いえ、少し昔のことを思い出しまして……」

 そう返事をしつつも顔を上げることはなく、かおるんは目を凝らして写真を眺め続けていて……その後オレが小説を勧めてみてもあまり興味を示してくれず、彼女は夕食の時間まで何度もアルバムを見返していた。しかしなにがそんなにも気になったのだろう?

 アルバムを見てからというもの、かおるんの様子がますますおかしくなってしまった。

 夕食の席ではずっと上の空。ルナたちに話し掛けられても、彼女は気のない生返事ばかりを繰り返し、それから夕飯もほとんど残してしまい、なにか考え事でもしていたのか、おでのぼせてしまったりと……もうこちらとしても心配でたまらない。

 けれどやはり考え事をしているらしく、オレがなにを言ってもあまり効果はなかった。相変わらず彼女は生返事でしか応じてくれず、結局オレは「なにかあったらいつでも声を掛けてくれ」とだけ言い残して自室に戻り、ベッドの上で先程のアルバムを広げる。

 ……このアルバムがどうしたというんだ? アルバムを見てからかおるんはおかしくなってしまった。どうにも少し気に掛かる。彼女の不調の原因を探るべく、オレは眠りにつくまでベッドの上でアルバムに目を落としていた……。

     

 昔のアルバムを眺めていたせいか、久しぶりに子供のころの夢を見た。

 妹と比べて武術の才能もなく、ひどく弱い自分。じいちゃんの道場でいじめられて、そこから逃げ出した先でも……変わらずオレは弱いままだった。

 自分のせいでなずなが交通事故に遭って、お見舞いに来てくれた大切なおさなじみも傷つけて、今思えば、そんな自分が許せなくて、悪魔を呼ぼうだなんて考えたのかも知れない。

 もちろんなずなを助けて欲しいというおもいはあった。それは間違いない。けれど願いをかなえてもらう事と引き換えに、悪魔に魂を要求されてもいいと、そう思ったのも事実だ。

 じいちゃんの道場でみんなに期待されていたなずな。父さんと同じ天才。

 そんな妹が病院のベッドで眠ったまま目を覚まさず、代わりに才能の欠片かけらもなく役立たずの自分が無駄に生きていて……だから思ったんだ。オレが事故に遭えばよかったのに。こんな自分なんて消えてしまえばいいって……。

 あのとき呼び出した悪魔、ルナにもそう話した。

 魂なら持って行ってもいい。また妹が笑ってくれるのなら、オレはそれで構わない。それにみんなだって、オレなんかよりも、なずなが笑っていた方が……。

 弱い自分が許せなかった。自分の代わりに妹が笑ってくれたらそれでいいと本気で思っていた。だけどルナはなずなだけじゃなくて、オレのことも救ってくれたんだ。

 ──大丈夫ですよ。もう、大丈夫ですからね。

 頭をでてくれる手が優しくて、抱き締めてくれたときのぬくもりに胸が熱くなって、掛けてくれた言葉がうれしくて……涙があふれて止まらなかった。

 彼女がくれたもの。胸を満たしてくれた言葉。温かなあの言葉。情けないことに一度はそれを忘れてしまったけれど、もしかしたら心のどこかでは覚えていたのかも知れない。

 自分が消えてしまってもいいだなんて、もう二度と思うことはなかった。

 あの日、ルナがオレにくれた言葉は──。

     

 う~ん、あのときルナが掛けてくれた言葉は……ん? なんか変だな。さっきから微妙に身体からだが揺れているような気がする。その上どこか遠くでだれかの声が響いているようにも思えたが、まあそれは別にいいだろう。それよりも、あの日ルナがくれた言葉は……。

「──そろそろ起きて下さらないと、身体中にキスしますよ?」

 なにやら夢の中のルナが急に大胆になってしまった──わけでもないな。

 誰かに声を掛けられ、淡いまどろみから意識がかくせいまぶたの裏に光を感じて目を開けたところ、消したはずの部屋の電気がいており、一体いつ侵入してきたのか、視線の先でかおるんが軽くこちらの肩を揺さぶっていた。

 ……なんの用なんだろう? ちょっとだるくベッドの上で上体を起こし、そのまま壁時計に目線を移すと、時刻は真夜中の十二時を回っている。道理でまだ眠いわけだ。オレは欠伸あくびみ殺しつつ、かおるんにまなこを向けた。

「こんな時間にどうしたんだ? いにでも来たのか?」

「わたくしがそのつもりでしたら、いまごろしのぶ様は全裸です」

「……風邪を引いちゃいそうだな」

「大丈夫ですよ忍様、その時はわたくしが自慢の肌で心身共に温めて差し上げますからね」

「はは、今度から寝る時には部屋にかぎを掛けることにする」

 なんて冗談を交わしつつ、ふと寝る前の事を思い出し、オレは何気なく言葉を続ける。

「そういやお前、なんか考え事をしているみたいだったけど、それはもういいのか?」

「いえ、いくら考えてみてもモヤモヤが止まらないだけでしたので、思い切って行動を起こす事にしたんです。というわけで忍様、少し付き合って下さい。これから外に出ます」

「……あと五分だけ寝かせてくれない?」

「忍様、いまから十かぞえるうちにお着替えをして下さらないと、わたくしはそのセクシーな身体からだをいやらしくもてあそびます。それではいきますよ? 一、十──では遠慮なく」

「ちょ、ちょっと待て! 三秒さえ待てないのかお前は!」

 言うが早いか彼女はひとの服に手を掛け、さすがに眠気も吹き飛びオレは声を裏返す。

「確かにさっきは『なにかあったらいつでも声を掛けてくれ』とは言ったが、こんな夜中にいきなり──って、あ、こら、服を引っ張るな! やめて! いや! よして!」

「いや、よして? つまり『いやよシテ』のアナグラムですね。わかります。女性がよく使う手ですからね。実は『ああん、だめ』とか言いつつも本当はダメじゃないんですよ?」

 勉強になるなあ……なんてボケを挟む間もなく、かおるんは瞬く間にひとの服を脱がせた上に着替えにまで手を付け、それから数分もたないうちに、オレはコートを羽織って寒空の下、彼女と肩を並べながら暗い夜道を歩いていた。

 ちなみに家を出る前、かおるんはか小さなリュックを背負っていたのだが、それはさて置き。こちらとしては半ば強引に外へと連れ出されたわけである。覚えずオレは軽く肩をすくめ、ジョーク混じりに彼女に声を掛けた。

「しかしちょっぴりひどくないか? 夜中寝ている所を突然起こされたと思ったら、詳しい話もないまま外へと駆り出され、こうしてオレはいま寒さに震えているわけだよな?」

「お金では買えない貴重な体験をされていますね」

「うん、一応言っておくが、相手がお前じゃなかったら確実に張り倒しているぞ?」

「仮に相手がルナさんだったらどうです?」

「迷わず笑顔でついて行く」

 もっとも、かおるんが相手でも大して変わりはない。言葉と共にさわやかな笑みを浮かべたところ、かおるんもにっこりと笑い、だけど心持ち淡々と告げる。

「そのまま笑顔でついて来て下さいね忍様。いまから我が家へと向かいます」

「……こんな真夜中に? まさかのホームシックか?」

「ち、ちちち違いますよ。真夜中だからこそ戻れるんです」

 わずかに動揺しつつも、どうやらようやく外に出た目的を話してくれるようだ。かおるんは歩みを進めながら人差し指を立て、かすかに声をひそめる。

「実はこれからぎよう家へと舞い戻り、こっそりそうパパの書斎へと侵入。そこでとあるものを入手する予定なんです」

「自分の家なんだろう? そういう事をするのなら別に昼間でもいいんじゃないのか?」

しのぶ様、今回わたくしはひじりちゃんたちと相談して、しゆうくんとけんのふりまでして家を出て来たんですよ? なんの成果もなくおめおめと戻ったりしたら、その、なんと言いますか、格好がつかないではありませんか」

 姉の面目というやつだろう。まあその気持ちはわからないでもない。しかし話を聞いているうちにちょっとした疑問を覚え、オレは首をかしげて口を挟んだ。

「なあ、ひとつ聞きたいんだけどな、家に侵入するのならお前ひとりでも十分なんじゃないのか? オレがここにいる意味はないんじゃあ……」

「そんなことはありませんよ。最近よく来る聖ちゃんからのメールによると、幸いなことに現在、宗悟パパはお仕事で外出中みたいなんです。ですが問題は修くんとみさきママ……あっ、ちなみに岬ママとは奥様のことですよ?」

 なんて説明を付け加えつつ、かおるんは軽くまゆを寄せて話を続ける。

「この時間帯であれば、おそらく聖ちゃんのことです。忍様の夢でも見ながら眠りについているでしょうが、修くんの場合はいまごろまたアホなことをやって冬休みを満喫しているに違いありません。それに岬ママもみだらかつふしだらに朝まで起きていると思います」

「……なんかだんだん嫌な予感がしてきたんだが、オレは一体なにをすればいいんだ?」

「こちらが書斎に侵入する際、忍様は居間で待機していて下さい。その時に足音が聞こえた場合は直ちに現場に急行。わたくしと家族が鉢合わせないように取り計らってもらえれば助かります。ちなみにわたくしは足音を一切立てませんのでその辺りはご安心下さい」

「いや、欠片かけら程も安心できねえよ。顔見知りの修君ならともかく、聖の母親も起きているかも知れないんだろう? もし廊下でばったり遭遇しちまったらどうすればいいんだ?」

 その絵を想像するだけでドキドキが止まらない。しかしこちらの不安をに、かおるんは問題ないと言わんばかりにぐっと親指を立てた。

「相手が岬ママであればやすく対処できると思いますよ。岬ママには何度か忍様の写真を見せたことがありますからね。仮に出会ったとしても、『聖をいに来たぜベイベー』とか言っておけば、岬ママならそれで納得してこのように親指を立てることでしょう」

「……聖の母親とは一度も会ったことがないんだが、本当にそんな人なのか?」

「たとえるのならルナさんの『天然エロス』と聖ちゃんの『ムッツリスケベ』、そしてわたくしの『コケティッシュ』な部分を足したような方ですね」

「それだとただのエロい人にならないか?」

しのぶ様、それは違います。そんな生易しいものではありません。みさきママはドエロなんです。なにやら最近、そうパパがわたくしを見て『ひじりは私に似て、お前は岬の影響を受けたみたいだな』と苦笑していましたが、甚だ遺憾であると言いたいです」

 なんて口にしながらも、かおるんは小さくほおを緩めており、彼女とそんな風に会話をしているうちに、いつしかぎよう家の大きな屋敷へと到着。するとかおるんは家のかぎを使って静かに中へと侵入。続いて広い居間にオレをひとり残し、早々に書斎へと向かっていった。

 ……こんなにもひとりが心細いと思ったのは久しぶりだ。下手をすれば通報されるかも知れない。色々と不安を数えれば切りがない。けれど別に悪さをするわけでもなし、こそこそしているから怪しいのであって、いっそのこと堂々としていれば問題はないだろう。

 と、半ば開き直って居間の電気をけ、オレはおもむろに腰を下ろしてテーブルにほおづえをつきつつ、悠々とテレビのスイッチを入れた。

 ふむ、最近の深夜アニメはなかなか大胆なんだな。ちょっぴりエッチだ。しかしオレのいまの姿をだれかに目撃でもされたら確実に終わってしまう。かおるんのためにもおとりになる必要はあるのだろうが、さすがにこれはまずいな。

 というわけで、オレはすぐにテレビのチャンネルを回そうとしたものの、悪意を感じるようなタイミングで背後から足音が響き、誰かが部屋に入って来てしまったようだ。

 ……見つかるの早くね?

 ひょっとしたら思っていた以上に緊張していたのかも知れない。オレとしたことが人の気配に気づかなかった。しかしもう後には引けない。相手がしゆう君だろうが聖の母親だろうがクールに決めるほかないだろう。意を決して振り返ったところ、視線の先にはりんと整った顔立ちの少女の姿があった。

 予想外にも聖である。かおるんの推測だと寝ているはずだった聖。彼女は浴衣のような寝間着姿であり、服のすそからチラリとのぞき見える長い脚がなんともあでやかだった。

 が、こちらを認めた聖は不思議そうに目をしばたかせ、きょとんと首をかしげる。

「え? あれ? 忍くん? こんなところでなにをやっているんだ?」

「……あ、いや、その、ちょっといに来てみた」

「ああ、そうだったんだ。夜這いに──って、夜這い!?

 動揺のあまりうっかり、かおるんから教わった聖の母親用のセリフを口走ってしまったところ、彼女はとんきような声をあげ、たちまち真っ赤になって両手を振る。

「し、忍くん! 本気なのか!? これは昨日見た夢の続きとかじゃ──んん!?

 ここで騒がれても困る。オレは勢いよく立ちあがって一気に距離をつぶし、聖の口元を手で覆って言葉を封じつつ、「しっ」と人差し指を立てた。

 すると聖は小さくうなずいてくれたわけなのだが、もしかしたら変な勘違いをさせてしまったのかも知れない。ゆっくりとオレが口元から手を離すと、彼女はほおを上気させたままひとみを潤ませ、そのまま消え入りそうにつぶやく。

「……しのぶくん、私、はじめてだから……ベッドがいい……」

「えっと、なんか、本当に悪かった。いはただの冗談だ。オレもこんなところで妙なことをするつもりはないから安心してくれ」

「そ、そうか、冗談だったんだ。ごめん忍くん。変に真に受けちゃって……」

 さらに赤くなって頭を下げたのち、ひじりは「ところで」とやばいことに話を戻す。

「どうして忍くんがうちにいるのかな?」

 その疑問はもっともだ。けれどオレはかおるんのためにもなんとか誤魔化そうと試みた。

「きょ、今日はその、なんと言うか……遊びに来た」

「こんな夜中に? でもどうやってうちに入ったんだ?」

「別に盗人じゃないんだ。正面から堂々と入ったぞ。玄関をブチ壊してな」

「な、なんだか強盗みたいなんだけど……ひょっとしてかおるさんと一緒に来たのかな? 薫さんならうちのかぎも持っているし……」

「た、確かに持っていたな。だからかおるんから鍵を借りてここまで来たんだよ。こんな時間だけど急にお前の笑顔に会いたくなったんだ。さあ笑ってくれ聖」

 そう促すと、聖は少し照れたように笑ってくれる。

 うん、このうちに来てよかった。笑顔を眺めてちょっぴりそんな風に思いつつも、焦りがあることに変わりはない。ここで聖とかおるんが鉢合わせたらどうしよう? こちらが冷や汗をかきそうになっていたところ、聖が微笑ほほえみを浮かべたまま声を掛けてきた。

「忍くん、会いに来てくれてありがとう。少し待っていて欲しい。お茶をれるからな」

「いやいや、お茶なら結構だ。気にしなくていい。そ、それよりも、こうしてここに来たわけだし、その、なんだ、えっと──聖の部屋に行きたい」

 とつに出た言葉がこれか。我ながらテンパっているな。聖も「こんな時間に?」と目を丸くしてはいたが、意外にも特に突っ込みはなく、かすかに首を縦に振って応じてくれた。

「……うん、いいよ。一緒に行こう」

 頬を朱に染め、そっと控え目にオレの手を取る聖。その柔らかく温かな手に導かれ、廊下でかおるんと会わないかとヒヤヒヤしつつも、無事に二階へと上がって彼女の部屋にお邪魔したわけなのだが……もしかしたらまた誤解されてしまったのかも知れない。

 か聖はベッドに座るようにとオレを促し、せっかくなので言葉に甘えたものの、彼女はこちらの隣に腰を下ろし、なにやら妙に距離が近い。

 隣からほのかに花の香りが漂い、軽く触れ合った肩からは彼女の甘いぬくもりを覚え、今度は違う意味で鼓動が高鳴ってきた。しかも聖はもじもじとひざ同士を擦り合わせて赤くなり、とりあえずオレはこの場の空気を変えようと、ぎこちなくも冗談を飛ばす。

「えっと、ひじりはこんな時間になにをしていたんだ? ひとりでエッチなことか?」

「エ、エッチなこと!? わ、私は冬休みの宿題をしていただけなんだけど、その、今夜はそんな風になっちゃうのかな?」

 ……これはオレが悪かった。チラチラと赤いほおでこちらを盗み見てくる聖。

 こいつはどう誤解を解いたらいいのか、そしてどう謝ったらいいのか、言葉を探してオレが口を閉ざす中、気まずくなってしまったのか、聖は「あう……」とうつむき、しばしの間のあと不意に勢いよく顔をあげたと思ったら、

「あの、私……やっぱりお茶をれてくる!」

「いや! 別にのどは渇いていない! 行かないでくれ聖!」

「でも私、なんだか緊張しちゃって、少し喉が渇いちゃったんだ」

 腰をあげかけた聖。お茶を淹れる際にかおるんと遭遇でもしたらまずい。オレはそっと彼女の腕を取ってストップを掛けたのだが、あまり効果もなく、聖は「すぐ戻ってくるから」と言葉を返す。対してオレは慌てふためいた挙げ句……聖のふとももに頬を預けた。

 これで聖も動けないはずだ。我ながらいよいよテンパってきた。さらにみずみずしい太腿の感触に酔いそうになる。けれどオレは気を引き締め、早いところ謝ろうと思ったものの、

「……これ、私の夢じゃないよな?」

 どうやらその必要はないようだ。念のため様子をうかがおうと、太腿の上で首を回してみたところ……豊満な乳房しか見えなかった。しかもひじりは特に抵抗もせず、それどころかそっとオレの髪に触れ、どこかうっとりとした吐息をもらす。