僕の手の中にあった痩せ細った皺だらけの手が零れ落ちた。

 年月には逆らえない。悲しませてごめんね。そう言っているかのように、僕の手の中から力無くベッドの上に落ちた。

 これで何度目だろう? もう数えることもやめた。分かっている。僕はエルフ族だ。だからヒューマン族とは寿命が違う。こうなることは最初から分かっていたことなんだ。

 だけど、手を伸ばすことをやめられない。僕は目の前に横たわっているその人の髪を直しながら思い出す。今だけ……君を綺麗にする間だけ、君との思い出に浸らせてくれないか。



 どこからか幼い泣き声が聞こえてきた。魔獣に荒らされたのだろう小さな村を、通りかかった時にその声を聞いた。生き残りがいるのか?

 生きたいと僕に訴えているように思えて、僕はその声の主を探した。

 きゆうごしらえで建てられた家々は、柱を折られ壁を壊され見るも無残な状態になっている。

 そんなれきの下、母親だろう女性の下にその子はいた。まだ幼過ぎて何が起こったのか理解できていないのだろう。母親が最後の力を振り絞り、僕の服の裾を摑み虫の息で訴えてきた。

「この子を……た、助けて……おね……がい!」

 それだけを言って、静かに瞼を閉じた。その母親の腕にしがみ付いて泣き叫んでいる。

「うえぇーん! かあちゃん! ええーん!」

 この国は建国されて間も無い。魔獣対策に人手を割けないのだろう、防御壁さえまだないんだ。魔獣を討伐するどころか最低限の対策さえできていないらしい。

 それでも人は生きていかなければならない。それ故に、肩を寄せ合ってこうして小さな集落を作る。だけどそれが、この国を自由に闊歩している魔獣の餌場になってしまっていた。

 人はなんて非力なんだ。抵抗することさえできなかったのだろう。

 僕は泣いている小さな子を引っ張り出そうとする。だけど、母親がしっかりと抱きしめていて動かない。もしかしたらまだ息があるかもと、奇跡を願いながらヒールをしてみるけど反応がなかった。ああ、心が張り裂けそうだ。自分は死んでもこの子を守るという強い意志が伝わってくる。

「うえーん! えぇーん!」

「大丈夫だよ。もう大丈夫だ」

「うえッ、うえぇーん!」

 二人の上に瓦礫が崩れ落ちて来ないように注意し、母親ごとそっと助け出すと大泣きしながら僕の首に小さな手をまわしてギュッとしがみ付いてきた。ちびっ子の体温が伝わってくる。この子はまだ生きている。生命力に溢れている。生きたいと叫んでいるんだ。

「僕と一緒にくるかい?」

「うえっ、ひっく。かあちゃんは?」

「君のお母さんはここで眠らせてあげよう」

「うえぇーん! かあちゃん! かあちゃん!」

 泣き叫ぶその子を抱きしめる。その子を近くの大きな街にある孤児院に預けることもできた。だけど、あの時僕にしがみ付いてきた小さな子を手放すことができなかった。

「ねえ、でぃしゃん。ちゅぎはろこにいくの?」

「そうだなぁ、お花が沢山咲いているところなんてどうかな?」

「らめらめらな」

「え? 駄目なの?」

「しょうらよ。らっておはなじゃ、ぼくのおなかはふくれない」

「アハハハ! 確かにそうだ」

 この小さな子と一緒に旅をするようになって、僕の旅は変わった。

 平和だから……平和すぎるから退屈で刺激が欲しくて、エルフの国を出て旅をしていたはずなのに。この子を危険な目に遭わせたくなくて、できるだけ安全な国を選んでいる。

 君はいつも、吹きこぼれる感情を抑えられないかのように身体全部で笑う。雨がシトシトと地面を濡らすように静かに涙する。お口をいっぱいにして美味しそうに食べる。

 そんな些細なことの一つ一つが僕の宝物になる。そしていつか憂いになる。仕方がないのだと分かっていても、いつかは訪れる。僕がどこにいても、どんなに逃げても追いかけてくる。それに心を捕らわれてしまうと、そこから抜け出すのに一苦労だ。

 それでも僕は止めない。小さな命を放ってはおけない。

「でぃしゃん、でぃしゃん、おなかがすいたじょ」

「そうだね、そろそろお昼にしようか」

「ねえ、でぃしゃん」

「なぁに?」

「でぃしゃんはぼくの、とうちゃんじゃないの?」

「ん……そうだね。僕はエルフで君はヒューマンだ。残念だけど、僕は君のお父さんじゃない」

「しょっか」

 急にそんなことを言い出したことがあった。後から分かったことだけど、その時住んでいた町の同年代の子達に揶揄からかわれたらしい。僕はエルフで耳が長い。でもお前はそうじゃない。と言われたそうだ。

 自分の本当の親ではないことは分かっていたらしい。それでも他人から違いをはっきりと言われて、ショックだったと何年も経ってから教えてくれた。

「ぼくはなんにもれきない」

「何を言っているの?」

「いちゅもいちゅも、でぃしゃんにたしゅけてもらってる」

「なんだ、そんなことか。君はまだちびっ子なんだから守られて当然なんだよ。ちびっ子を守り育てることは大人として当然のことなんだ」

「ちがう! ぼくはでぃしゃんが!」

 それだけ言って、丸い瞳にいっぱい涙を溜めていた。

 確かに僕は君の親じゃない。だけど、君のぷっくりとしたほっぺに、未来を夢見るような瞳、なんでも美味しそうに食べるお口、どこを触っても柔らかい身体、どこもかしこも僕は愛している。

 それだけは胸を張って言えるよ。

 そう伝えた時の嬉しそうな君の笑顔を忘れられない。

「でぃしゃん、ぼくもでぃしゃんがらいしゅきら! ぼくらって、でぃしゃんをまもるんら!」

 体ごと僕に抱きついてきた。その時のことをつい昨日のことのように覚えている。


 そんなかけがえのない思い出を、数えきれないくらい作った。僕にしがみ付いていた小さな手は、いつの間にか僕と同じ位になっていた。この街に来て、どれ位経っただろう。何度春の気配がするそよ風を、感じたことだろう。

「ねえ、ディさん。会って欲しい子がいるんだ」

「え? 何? 彼女なの?」

「まあ、彼女っていうか……一緒になりたくて」

「そうなの!? おめでとう! 是非会いたいよ!」

 小さかった子がもう婚姻だって。いつの間にか、僕と同じ位の背丈になっている。照れ臭そうに髪をクシャクシャとしながら君は言った。

 母親譲りのブラウンの髪の毛に、深いグリーン色の瞳。君の中に母親はちゃんと生きている。そんな話ができるようにもなった。

「ディさんが助けてくれなかったら、今の俺はないよ」

「何言ってんの、今更だよ」

 あの時小さな集落で助けた子には、魔法の才が無かった。攻撃魔法を発動できるだけの魔力量が無かったんだ。なら、他で生きていけるようにと文字や計算を教えた。それに体術や弓、剣だ。

 弓や剣の筋はあんまりだったけど、この子は頭が良かった。あっという間に文字も計算も覚えた。だからこの街に来たんだ。隣国との境になってしまうけど、貿易が盛んだ。商人としてなら、この子は生きていけるかも知れないと。

 案の定、商人に弟子入りすると頭角を現した。そこで働くうちに、今の彼女と出会ったらしい。

「本当にヒューマンの子は成長が早くて困るよ」

「アハハハ、ディさん。何言ってんだよ」

 君とこうしてお酒を飲めるなんてね。僕はとても嬉しいよ。

 初めて君と会ってから、何年経ったのだろう。

「なあ、ディさん。俺を助けてくれた集落に行ってみたいんだ」

「え……?」

「もう何もないのかな?」

「ううん、小さいけどちゃんとした町になっているよ」

 君がいた集落は領主が交代してから、防御壁が作られ魔獣討伐に力を入れて発展した。もうあの時みたいに、魔獣に襲われることはなくなった。それを伝えると君は行くと言い出した。

「俺の両親の墓も作ってないんだ。だからせめてどんな場所だったのか見てみたい」

「そうか。じゃあ婚姻する前に最後の旅に出ちゃおうか」

「アハハハ! おう、出ちゃおう!」

 それがきっと君との最後の旅になる。それはよく分かっていた。

 旅が終わると君はこの街で、愛する人と一緒に家庭を作るんだ。

 丸1年かけて二人で旅をした。たった1年だったけど、大人になった彼と旅ができてまた新しい思い出ができた。そして僕の役目は終わりを告げた。

 なのに、僕はその街から離れることができなかった。僕はどうしても君の成長を最後まで見たかったんだ。

 月日が過ぎ、君の子供が生まれた。あの時の君とそっくりだった。その子供が大きくなった。この年頃の時は君とどこにいたかな? なんて考えたりしていた。

 そして君にも孫が生まれた。ちびっ子だった君が成長し、どんどん僕を追い越していく。僕はそれを見送る。

 大丈夫、分かっていたことだ。これまでだって、同じことを繰り返してきた。

 そして僕はまた旅に出る。その繰り返しだ。僕はエルフ族の国を出る時に、こんなことを望んでいた訳じゃない。だけど種族の違いはどうやっても変わらない。

 エルフ族は数千年の時を生きる。僕と同じように国を出たエルフもいた。大抵は数十年で国に戻ってくる。誰も理由は言わないけど、想像はできる。きっとこういうことなのだろう。送ることに耐えられなくなるんだ。

 君の奥さんも先に逝った。子供や孫も大きくなった。皆が君を囲んで泣いている。

 最後の時だ。

「ディさん、どうか手を取ってやってください」

「ああ……」

「ディさんがいてくれたから、父は幸せでした」

 そんなことはない。幸せだったのは僕の方だ。

 皺々になった君の手をそっと取る。命が尽きようとしている。

 僕はハイエルフだ。人には見えないものが見える。こんな時もそうだ。

 君の体から、霧のような淡い光が浮き出している。天を目指すかのように、舞い上がっていく。それはとても神秘的な光景だ。何度この光景を見て来ただろう。

 微かに動いた口から紡ぎ出された言葉……ありがとう、楽しかった。

 僕こそ、ありがとう。楽しかったよ。どうか安らかに眠ってほしい。そう願うと、君が微笑んだ気がした。

 僕にしがみ付いて泣きじゃくっていた君。

 キャッキャと笑い転げていた君。

 悪戯いたずらがバレて、僕に叱られて泣くのを我慢していた君。

 美味しそうに口いっぱいに頰張って食べる君。

 魔法が使えないと分かって、肩を落としていた君。

 僕を守りたいと言ってくれた君。

 何を思い出しても、楽しい思い出ばかりだ。ありがとう。

「ああ……もっと一緒にいたかったな……」