偉大なる母
おれが35歳になるまで、家族にも年齢を偽っていた母ちゃんが、実は予想外の年寄りだったと判明し、おれら兄弟は愕然としながらも、現実を受け止めるしかなかった。
人生設計は根本からやり直し──。さらにタイミングの悪いことに、常日頃、何かと金をタカらせてもらった資産家の叔母や祖母が相次いで他界。これまで億近いカネをタカっておきながら、我が家は宿主の死んだ寄生虫よろしく、たちまち金欠となってしまった。
当時のおれは家に帰れないほど仕事が忙しく、月のほとんどを会社で過ごしていた。オヤジが認知症と思われる奇行に走り出したのは、ちょうどそんなときだ。
全ては被害妄想から始まった。それもかなり重症で、既にババアとなった母ちゃんが「俺に内緒で浮気している」という妄想に取り憑かれ、頭がいっぱいになってしまった。
狂ってしまったオヤジは毎日毎日、仕事中のおれに電話を寄越しては「母ちゃんの相手は不動産屋の鈴木だ。畜生、おまえも知ってたんじゃねえのか?」等の不毛な愚痴や泣き言を延々まくし立て、それをなだめすかしてへとへとになった頃、今度は母ちゃんから潔白を訴える電話がかかってくる。
そもそも母ちゃんは不倫なんかするような歳じゃないのだが、オヤジにすれば火のない所に煙は立たないらしい。
嫌な予感はしていたが、とうとうオヤジは問題の不動産屋に殴り込み、憎き鈴木を脅し上げるという暴挙に出たため、おれと弟は交代で謝って回る羽目に……。
働きもせず、ただ適当に生きてきたオヤジ。好き勝手やって、金の引っ張りどころがなくなった瞬間ボケやがった!
仕事に忙殺されながら、キチガイオヤジと嘘つき母ちゃんの世話に明け暮れる毎日。なんでおれがこんな目に遭わなきゃならないんだ!
結局、ノイローゼとなったおれは働くのがアホらしくなり、半年も休職した挙げ句、会社には後ろ足で砂をかけて辞めてやった。
仕事から解放されたおれは、マンションの頭金用に母ちゃんから預かっていた400万の定期預金を解約、バイクを買ってツーリングに出るという掟破りの行動に出た。
早い話、面倒な日常から逃げ出してしまったのだ。
強靭な精神力が自慢だったおれが、摩耗してツルツルになっていた。
そんな自分を癒やすため、バイクで向かった四国では豪華なシティホテルに泊まり、美味いものを腹いっぱい食べ、秋風を感じながら悠々と3千キロを走破し、わずか一ヶ月で400万をきれいさっぱり使い切ってしまった。
旅行中、実家からの電話は全て無視していたが、おれのことなど半ばお見通しの母ちゃんは400万の件にすぐ感づき、だが怒り狂うこともなく「使っちゃったの? しょうがないわねー」と、金にはとことんテキトーな家庭だった。
ボケたオヤジは強力な薬のお陰もあって「妻の不倫」という妄想を乗り越えるも、副作用で腑抜けのようになってしまい、文字通り、よれよれの廃人となってしまった。
さて、母ちゃんの用立てた頭金を使い切ってしまったおれだが、それでもマイホームは欲しい。再び母ちゃんに相談すると、さすが、頼れる女だった。
「私がなんとかしてみるわ」
と言って間もなく、死んだ祖母が生前暮らしていた埼玉の家をオヤジの姉妹3人から強引に買い取り、おれの家にしてしまった。
買ったはいいが、都合よく金を引っ張れる先はもうない。家の現金化と所有権を手に入れるため、かかる金が約一千万。リフォームに900万かかり、計2千万近いローンをこのおれが背負う羽目になってしまった。
さらに、その家にはガキの頃からおれに優しくしてくれた親戚が住んでいたが、母ちゃんはこれも強引に追い出してしまい、こうして、母ちゃんの剛腕で念願のマイホームを手にしたおれは、後味の悪さを感じながらも、しこしこと仕事を続けるのだった。
それから何年か経った大晦日、オヤジが脳梗塞で倒れた。オヤジには愛想を尽かしていたし、正直、実家の出来事には一切興味が無かった。なので危篤の連絡もシカトして、見舞いに向かったのは暖かくなりかけた春先だったろうか。
肺がんを発症したオヤジは手術を終え、口から食べると肺に入って肺炎になってしまうとかで、点滴漬けの寝たきり生活を送っていたが、しばらくして死んだ。
借金を繰り返し、家族だけでなく親戚にも迷惑をかけ、前述の妄想事件もあっておれはとてもムカついていたが、死んでしまった今となっては、ちょっぴり寂しくもある。
そんなオヤジの呪いだろうか? オヤジが死んでしばらく、今度は母ちゃんの頭がおかしくなり出した。
母ちゃんから「隣の家が巨大なスピーカーを設置して、毎日私の悪口を放送している」──と、悲鳴混じりの電話がバンバン入り始めたのだ。
もちろん、現実にはスピーカーなどひとつもない。いつもの静かな住宅街である。
「スピーカーの音、東北地方まで聞こえてるよね?」
あるときは母ちゃんからこんな電話があった。おれの実家は千葉である。とりあえず「聞こえてないと思うよ」と言うしかない。
「でも東京までは届いてるでしょ? それぐらい大音量なのよ」
オヤジの死後、おれは埼玉の家を人に貸し、都内のマンションで女と同棲していた。突然、東京までおれを訪ねてきた母ちゃん。実はこのとき、母ちゃんの被害妄想はマックスに達していた。
「まったく! スピーカーだけじゃなくて耳にコンピューターまで取り付けられたのッ! こんなひどいことないじゃないッ! あの家はヤクザよ! ヤクザなのよッ!」
大声で騒ぎ立てる母ちゃんを前に、おれと彼女、そして弟は困惑するしかなかった。
そして、遂に事件は起こった。110番通報した母ちゃんがスピーカーの件を喚き散らし、大騒ぎになってしまったのだ。
通報は何度も繰り返された。そのたびに弟が近所中に謝り歩く羽目になる。結局、警察や近所にはぶっちゃけた事情を話し、裁判沙汰になることはなかったが、このままでは近いうち、手に負えなくなりそうなのは明らかだった。
「私はボケてもキチガイじゃないわよッ!」
頑なに病院を嫌がっていた母ちゃんも、受診させると意外にも脳に異常はなく、妄想は神経症から来ていることが判明した。ボケ老人のたわ言と、諦めなくて正解だったのだ。
処方された薬を飲んてしばらくすると、なんとスピーカーの妄想はうそのように消え、母ちゃんはまともに戻った。但しそれは、必ずしも過去の妄想を妄想と認識したのではなく「隣の悪人たちは皆、処刑されたわ」ということで納得したみたいだ……。
四捨五入すると今年で90歳になる母ちゃん。今は頭も身体も健康で、実家に帰れば手料理を振る舞ってくれる。被害妄想に因われていた頃の病みっぷりを思うと、奇跡が起きたと心から思う。
そんな母ちゃんが最近よくこぼすのが、弟の金銭感覚だ。
「あの子、お金を計算して使ってるのよ! ほんと、ずる賢くなったんだから……」
母ちゃんにとってお金とは、引っぱれるとき引っ張って、あればあるだけ無計画に使うものらしい。おれはそんな母ちゃんを反面教師に、今はできるかぎり、お金を大切に、計画的に使うよう心がけている。
(つづく)