第六章 真の力


 アレグオムは猛っていた。

 瘤のような筋肉が、別の生き物のように蠢き、隆起している。

 あのくそったれな建物をぶち壊し、ガキどもを貪り尽くす。そうすれば、この魔界はまた暗黒時代へ戻る。力を持った者がすべてを奪い、得ることのできる素晴らしい世界。獣人を、ダークエルフを好きなように貪れる、あの享楽の時代へ戻るのだ。

 その後は、人間界を侵略する。

 ニンゲンの肉は、柔らかく美味だと聞く。ああ早く、早く味わいたい。

 あの建物にはニンゲンの男がいるという。

 女がよかったけれど、とりあえずはそいつも喰らってこの空腹を満たすとしよう。

 上空に巨大な魔法陣が広がった。それが、童園から光り輝く魔力を吸い上げる。

 解呪の術だ。結界が、解けたのだ。

「行くぞ、貴様ら」

 アレグオムの後ろには巨人の群れがあった。百を数えようかというその群れが、歩みを始める。数百年を経た大木がそぞろ歩いているような、圧倒的な光景である。

 地響きを上げて圧し進む、彼らはまるで一つの森であった。手に手に冗談のように巨大な棍棒を持つその巨人たちは、立ち塞がる何もかもを打ち砕き、踏み潰すことだろう。

 ──正門の前に腕を組み立つ、小さな女の子なんて、なんの驚異にもなりはしない。

「やあっと来た、ゾロゾロと。待ちくたびれたんだぞ」

 小柄な体躯。活発そうな面貌が小生意気に巨人を睨みつけている。

 頭に乗っかっている獣耳はピンと立ち、ふさふさの尻尾が、ゆらりゆらりと揺れている。

 獣人だ。しかも、この童園に通っているということは──その一族の中でも、族長クラスの子どもということだ。

 獣人ならば、四貴族か。

 かつての魔戦で、巨人族にそのほとんどを貪られた、魔狼族の生き残り。

「くはっ……はははははっ! なんだお前。何をしに現れた?」

 笑うしかない。わずかな生き残りだけで、細々と逃げ暮らしていればいいものを。

「俺たちの餌になりにきたのか。ひひっ、犬肉めが」

「────犬、か」

「犬の肉はもう飽きた。散々に、喰ったからな。ぐわははははっ!」

 アレグオムに合わせて巨人の群れが嗤い声を上げる。地鳴りのような嘲笑に、小さなクーフェイは──にぃと口の端を吊り上げ、笑った。

 その顔はケモノが牙を剥くのに似ていた。

「そう言ってお前ら、ボクの親を喰ったよな。犬だ、犬の肉だっ、つって。ふん──上等だぞ。じゃあ今度はお前らが、お前らこそが、犬の餌だ」

「ぬっ?」

 クーフェイの身体から──真っ黒な、霧のようなものが吹き出した。

 闇色としか形容しようのない、何か。それは少女の身体を覆い隠し、広がっていく。

 いよいよ巨人の体躯すら超えようというほどに、膨張する霧の塊。その、奥から。

 ──ううぅがぁうぐうぅあううぅあううぅあうう……!

 魂を囓るような──おどろおどろしい呻き声が、漏れ出した。

 ぬう、と。暗がりから、三つの頭が現れる。

 狼のそれに酷似した頭蓋である。光を吸い込むような、黒々とした毛並み。三つの首が現れて、次いで闇から出てくる胴体は、一つだった。

 やはり狼の胴体に、生えている四肢は一揃え。

 幼い少女は三つの首を生やした、巨大な魔狼に形を変えたのである。

 悪夢としか言いようのない光景であり、魔界にふさわしい光景であるのかもしれない。

「馬鹿な、ありえぬっ! あれはっ……!」

 魔族の魂の奥底に封じられ、解き放たれることのない、原初の力。

「グォオォオアオォオオォアオオォアオァオオォオアオォオアオォオア──!」

 咆吼は、巨人の魂すらも凍らせた。

 其れは黒炎の魔獣。三つ首もって地獄の門を護る魔狼である。

「ケルベロスっ……!」

 目前に現れた破壊の化身に巨人の群れはおののいた。

「う……うおおおおっ!」

 勇敢にも、と言うべきか、一人が棍棒を振り上げ飛びかかっていく。

 やめろ、と、声をかける間もなかった。

 魔獣の巨躯が、掻き消えて。

「げえっ」

 ──次の瞬間、巨人の頭部は半分以上、囓り取られていた。ドス黒い血をぴゅう、と、うじゃじゃけた傷口から吹き出し、剥き出しの脳みそをずるりとこぼして倒れ伏す。

 身震いするような凶悪な牙を、がりがり噛みあわせ、魔獣は巨人の頭蓋をしゃくすると、ごくりと飲み下し口の端を吊り上げた。

 ──ツギハオマエラダ。

 獣でありながらその顔には理知がある。十全たる殺意がある。

「ひっ、ひぃいぃいいいぃいいっ!?」「こんなのっ、訊いてねえぞっ、アレグオムっ!」

 巨人の群れは恐怖した。

 彼らはただ、享楽のためにここを訪れたのだ。童園にいる子どもらを引き裂き、喰らって、過去への供物にしようと集まっていた。己に死をもたらす者がいるなどと考えてもおらず、故に、たやすく恐怖に押し流される。

「黙れ、落ち着けっ! 相手は一匹だっ! 囲め!」

 叫ぶ。頭目のその言葉に、畏れを抑え巨人らは、獣へと飛びかかる。

 そして殺戮が始まった。

 三つの首は全方位への警戒を可能とし、獣の敏捷性には追いつくことすら敵わない。

 目にも留まらぬ速さで移動を繰り返す、獣はまるで瞬間移動してでもいるかのようだ。一蹴りのたびに地面にぼっ、ぼっ、ぼっ、と穴が穿たれて、その連続でしかアレグオムには魔獣の移動を認識できない。

 そしてその行く先々で、仲間たちがほふられていく。

 牙で抉られ、頭蓋を喰われ、爪で裂かれ、はらわたをぶちまけられる。悲鳴と怒号と血の匂いに、空気が汚染されていく。

 腕を食いちぎられ「ぎゃぁあっ」喉を潰され「おげぇゅ」腕の一振りで首が飛ぶ。

「……なんだ、なんだこれはっ!」

 こんなことがあっていいはずがない。我々は強者だ。喰らう者だ。

 それがこんなに簡単に、喰われてゆくなどあり得るものか。

 ──気がつけば、アレグオムただ一人が生き残っていた。

 酸鼻極まる情景が、彼の周囲に広がっている。そのただ中を悠々と、巨大な獣が歩いている。ぎらつく眼に睨まれて、彼は自己の運命を悟った。

 目前で、死そのものが口を開く。

「あ……た、たす、け……」

 命乞いもなにもかも、獣のあぎとに呑み込まれた。




 童園の裏手には林が広がっている。

 巨木の乱立するその林は、天を枝葉に遮られ、常に薄暗くじめついている。腐葉土が敷き積もる、濃密な緑の匂いが立ち込める木々の狭間を、無数の影が駆けていた。

「ヒヒヒヒヒッ! もうすぐだ、もうすぐだぞお前たちっ!」

 クルエルが先導するのは下腹の膨れ上がった餓鬼の群れである。

 細く節くれ立った四肢を振り回し、駆けゆくその数はゆうに三百を超えようか。まるで巨大なダニが集団で、走っているかのようだ。

 木々の切れ間に、光がさしている。林の終わりが、近い。

「親分親分っ! そこにゃあ、ガキしかいねぇんですかい?」

「おう。それがちぃっと残念だけどよぉ。まあ、ガキのちっちぇ穴っぽこもオツなもんよ。クヒヒヒヒッ」

「俺ら全員が犯れるんですかねぇ?」

「ヒッ! 壊れようがどうなろうが、どうせやっちまうんだろうによぉっ」

「ちげぇねえ。ひゃははははははははははははははははっ」

 嗤いあうグールたちの股間は例外なく勃起していた。魔王が魔界を平定してからは、好きな時に好きなように獲物を犯すことができなくなっていた。妖精や、ホビット、幼いサキュバスなんかを、集団で襲っては壊れるまで遊んでいたのに。

「面白くねぇっ。ヒッ! 俺たちゃぁ魔族だぜぇ」

 決まり事。ルール。そんなものに縛られないのが、魔族であったはずだ。

 ──見てやがれ。魔王にへいこら従って、童園にガキを差し出した魔族ども。

 犯して犯して犯し尽くしてやる。魔王の娘を人質にアスモデウスを殺して、小生意気な娘を涙も出なくなるまで犯して、ぶっ壊してやる。

 その後は、人間界だ。向こうの世界の女を、ぜんぶ、ぜんぶ犯してやる──!

「クヒヒッ! クヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒイヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」

 ペニスががっちがちに固まっていく。想像するだけで、先走りが出始めた。

 ──と。その時である。

「──うぉぉっ!?

 ──いつのまにか。

 目の前に立っていた、一人の女にクルエルは驚愕した。

 なんという、いい女か。

 なめらかで艶やかな緑の髪が燦然とし、森の空気に溶け込んでいる。艶めく瞳はっぽく、厚めの唇は色気たっぷりの紅である。高貴でありながら、淫らを内包する、凄まじい美貌の持ち主であった。

 また、そのプロポーションがたまらない。長身でスラリと伸びた美脚。腰も細くくびれて、抱きついたら折れてしまいそうだ。それなのに、その女の胸は馬鹿みたいにデカい。スイカを二つ、突っ込んだような峰乳は、肉感に満ちて柔らかそうだ。

 前を向いていても、肉付きのよいヒップがプリンと張り出しているのを確認できる。

 そんな色気たっぷりの身体を包むのは、下品なくらいに淫らなコスチュームだ。まるで紐のようなそれは、女の胸の先端と、股間部分くらいしか隠していない。

「たっ……たまらねぇなぁ、おい」

 涎が溢れ出す。絶世の美貌と魅惑的な肢体は、高貴な輝きを放ちながら、まるで娼婦のような色香をすら匂わせてクルエルの欲情を煽るのだ。

「親分っ……なんだ、あの女っ……」

「すげえ、いい女だぁ……うぁあ、ヤリてぇ、ヤリてぇえっ」

「あの胸をメチャクチャに揉んでっ……うぁあチンポを挟みてえっ」

 ほうぼうから、恍惚とした声が上がる。皆、突然目の前に現れた美女に釘付けなのだ。

(……ん?)

 ふと、クルエルは違和感を感じた。仲間たちの目。どうしてか、皆、あべこべを向いているような。上を見たり、下を見たり、後ろを向いていたりと、まるでそちらにあの女がいるかのようではないか。そこには、何もないのに。

 その違和を追求する気にはならなかった。ただ目の前の美女のことしか考えられない。

 頭の中が、女の姿で埋め尽くされていく。

 その女は腰を艶めかしくくねらせた。胸肉がこぼれ落ちそうで、乳首まで見えそうになる。女はその乳房を、こちらに差し出すように持ち上げて、ウィンクを一つ投げてきた。

「うっ……うぉぉおぉおおぉっ!」

 猛る情動を、抑えきれない。女に飛びかかり、押し倒す。

 枯れ木のような腕を伸ばして乳房を握り、空いた手を股間へ伸ばす。熱い。すでに女のそこは、突っ込んだ指を溶かしてしまうくらいに熱く、ジュクジュクに濡れていた。

 どうしてこんな場所にいるのか。

 どうしてグールに押し倒されて、そんな、淫らな笑みを浮かべていられるのか。

 どうして、どうして。どうして、どうしてどうして──どうでも、いい。

「クヒヒッ! クヒヒヒヒヒヒッ! グヒィィィイイィッ!」

 脳を灼く衝動。女の股を開き、そこへ腰を突っ込もうとして──。

 グォオォオアオォオオォアオオォアオァオオォオアオォオアオォオア──!

 どこか遠くから、生存本能をすら揺るがす獣の咆哮が響いてきた。

「……う、あ、あ?」わずかに──理性が戻る。

 おかしい。なんだ、この状況は。なぜ、なぜ。

 ──どいつもこいつもが枯れ果てて、事切れているのか。

 眼窩は落ち窪み、頬は削げ、腹はしぼみ、手足は枯れ枝が如く乾ききっている。

 そして皆、動かない。

 悲鳴も、呻きも何もなく、ごろごろと転がるのは三百を超える木乃伊ミイラ

「な、な、な、なんだっ、こ、れっ……」

「あら。正気に戻ってしまったの? それは──可哀想に、ねぇ」

 飛び退こうとしたクルエルの腕を女が掴む。たおやかな、細い腕は、力を込めているようには見えないのに、振りほどこうとしても離れない。

「なんだ、お前、うあ、あっ」

 否──離れないのは、クルエルの、肉体の意志だ。

 魅了に溶かされた彼の肉体が、女から離れることを拒否しているのだ。

「さ、サキュバスッ……!? で、でもこんな、強力な魅了の幻術なんてっ……」

 三百を超える連中の、一人一人に個別の魅了をかけるなど──あり得るものか。

「ふふ。わたくしにはできるの。だって──」

 自らの描き出す世界を、相手に見せることは得意なのだと、女は言った。

「絵を描くみたいに、ね」

 その時の女の顔は、なぜだか子どものように見えた。

「さあ、おいでぼうや。わたしと一緒になりましょう」

 女の長い足がクルエルの腰に絡みつく。ドロドロの秘所へ、滾った肉根が埋没していく。

「あ、がぁああぁっ!」

 ただ入れただけで果ててしまった。ドクドクと、大量の精液が吸い取られていく。背骨が溶けてしまうような快感にクルエルは喘いだ。肉棒が、萎えない。女の内に囚われたまま、また吐精。どびゅどびゅと、噴水みたいに流し込んで、けれどまだ男根は衰えない。

 射精。射精。射精。止まらない、止まらない。

「ひっ……ひぃいいぃいぃっ!」

 脳が狂いそうなほどの快感に、けれど恐怖しか感じなかった。

 そんなに射精できるはずがないのに、精液は止まらない。吸われていく。それは、寿命とか、生命力とかいう、哲学的な何かだ。それが精液となって吸い出されているのだ。

「いやだっ……いやだいやだっ、もう、やっ、出したくねぇっ! やめてくれぇえっ」

 止まらない、止まらない。ペニスばかりが狂おしく熱を持ち、だが身体は冷えていく。

 ああ、手が動かない。足が動かない。耳が聞こえない、目が霞む。快楽を感じる神経はとうに焼き切れた。ただただ命を失っていく、喪失の恐怖だけがクルエルを苛んでいる。

 死神の腕が彼の魂を掴み、引きずり下ろす。連れてゆかれる先は、魔界など比較にならぬほど、冷たく恐ろしい地獄である。

「出したくない、出したくない、出したくない、出したくない、出したくナイ、ダシタくない……だ、だした、くな、ダシタ……だ、だ、あ、げ、ダシタ……ぎゅぅ」

 蝋燭の火が掻き消える寸前の如く、枯れきった総身が末期の痙攣を起こし、止まる。

 ──彼の下には誰もいない。腐ちて倒れた樹木を抱いて、そこへおびただしい精液を撒き散らす、クルエルであった亡骸がそこにあるだけだ。

 少しだけ、離れた場所に彼女はいた。

「ふふ。わたしのカラダは、せんせいのもの。あなたは木の節にでも突っ込んでなさい」

 と。一時的に、サキュバスとしての最盛期まで成長した美しき毒婦、ミイナ・ルサリアは──己の魅力に死に果てた、化け物どもの亡骸を前に、淫猥な笑みを浮かべるのだった。




「契約、か」

 ファブルーニル・グラントは苦々しく呟く。

 黒みがかった緑色の、巨大な羽を雄々しく広げ、彼は地上を見下ろしている。

 そこは童園の上、すべてを睥睨できる上空である。

 アレグオムと、クルエル。彼らの前に現れた、獣人とサキュバスは、契約により原初の力を解放していた。おそらくは二人とも、そう長くは持つまい。

 無数のドラゴンがグラントの周囲を舞っている。火竜、氷竜、雷竜、飛竜。トカゲのような体躯の者もいれば、蛇が如く胴の長い者もいる。巨大な羽を生やした、鳥のようなドラゴンもいた。

 見上げる者を絶望に突き落とす、強大な力を持ったドラゴンの一群は、けれどたった一人の少女を向こうに回して攻めあぐねていた。

 グラントと高度を同じくして、腕を組み、堂々と直立する幼い少女。アスモデウスのそれよりも二回りは小さな角と、漆黒の鴉羽を生やして、金髪をたなびかせている。

「まさか──お前らのような幼少に、手を出す外道がおるとはな。それも三人も」

「保志を愚弄しないでくださいまし。怒りますわよ」

 睨みつけられる──それだけで、魂を圧する力を感じる。

 この覇気。この力。まさしく、魔王アスモデウスと同一だ。

 ──契約。

 魔族がその魂の奥底、根源に秘めた原初の力。遥か昔、神々と争いを繰り広げていた時の、強大な力を解き放つ、唯一の方法である。

「……あのニンゲンが、それほどか」

 その契約の条件。それは、契約を行う相手と心を通わせ、繋がりあうこと。

 ただしそれは、人間種族に限るのだ。

 アスモデウスがそうであったように

「ええ。保志は、それほどですわ。わたくしの大事な人。愛しの我が君。契約の主」

 愛おしげにリリアが言う。

 ほとんどの人間は、魔族との契約で魂を擦り切らせ消滅する。惰弱な人間の魂など、魔族の前では塵芥ちりあくたも同然だ。

 それなのに、童園にいた人間は三匹もの魔族を相手に契約をして生きている。

 グラントには、およそ信じられない事態であった。アスモデウスの妻もしばらくは生きていた。だが、契約により衰弱し、リリアを産んだことで、死んだ。

(やはり親子か)

 二代揃って、人間と契約するとは。

 あるいはそれが魔界の意志だとでもいうのだろうか?

「お退きなさいな、グラント。退いて沙汰をお待ちなさい」

 凛とした声でリリアが命じる。金髪が、輝かしい粒子をばらまきながら、拡散する。

 さながら獅子のたてがみである。

「──舐めるなよ、小娘が」

 低い声音が、グラントの喉から這い出る。くらい瞳がリリアを睨めつけた。

 みしりっ、と、巨躯の中から軋む音がする。みしり、みしり、みしり、それは男の体躯が膨れ上がる音である。

 竜鱗の鎧が弾け、衣服が裂けていく。

 その内側に覗くのは、漆黒の体表。頭蓋が歪み、トカゲのような形に変わりながら膨れ上がる。首が伸び、その表面に鱗を浮き上がらせながら膨れ上がる。

 手足はドラゴンのそれに変わり、長大な刀剣が如き爪がずらりと並ぶ。

 その体躯は童園の高さを超えるほどに巨大化していく。

 漆黒の鱗を纏ったその姿は邪竜。それも、齢にして八百歳を超える古代龍だ。

 ドラゴンという種族は、齢を重ねれば重ねるほどに強く、大きくなる。

 千に近いグラントは、龍族のうちでも最長齢であり──最強であった。

 ぐるうぅぉおおぉおぉあおぉおぉおあおぉおあおぉおあおぉおあおお!

 黒竜の咆吼が空を震わせる。彼は空を舞う竜族たちを睨めつけると、

「手を出すなよ、貴様ら。……ゆくぞ、小娘。魔王のチカラ、見せてミヨ」

「……ふふっ。しかとその目に焼きつけて、逝きなさいなっ! グラントォぉおっ!」

 リリアがする。同時に、小さな身体がバチバチと帯電を始めた。

 ごっ! とふうが巻き起こる。グラントの巨躯が、リリアに迫っていた。凶悪極まりない爪剣が、幼い体躯へと容赦なく振るわれる。素早く降下し、頭上にそれを空振らせたリリアは、剥き出しの真っ黒な下腹へ向け手のひらを差し出す。

「エヴォルトッ!」

 純白の雷が小さな手から噴出した。童園で彼に使用した雷撃呪文は、契約によりその威力を数十倍に高めてグラントへ襲いかかる。

 だがその一撃は堅牢な、竜の鱗に弾かれた。

 今、なにかしたのか、と──蛇のような瞳がリリアを睨みつける。

「ふんっ、ですわ。──我、天駆ける黒貌。赤き槍もて射抜くは蒼天」

 リリアの唇が呪を紡ぐ。右手に輝く魔法陣が現れるや、中心から、紅く輝く光の槍が引きずり出された。ばちばちと紫電の絡む赤槍は全長三メートル。

 それをもって攻撃させじと、ドラゴンが迫る。槍を構えたリリアの腕が、それを投擲しようとした──寸前。巨獣のかぎ爪が、リリアを薙ぎ払う。

「ぐぅうっっ!」ぎりぎりで、回避。だが巻き起こる颶風により矮躯が木の葉のように吹き飛ばされる。解き放とうとした赤槍が、あらぬ方へと飛んでいってしまった。

 体勢を立て直そうとするリリアへ黒竜が迫る。死をずらりと並べた顎ががぱりと開かれ、小さな身体を喰いちぎらんと強襲する。

 リリアに魔術を用意する暇はなく、もはやその矮躯は喰われる以外の運命にない。

 ──はずであった。

「ギィギャアァア!?

 刹那。輝ける赤槍が、グラントの下腹を抉り抜いた。

 耳障りな悲鳴がグラントの顎から響く。リリアの離した赤槍は中空にて反転。狙い通りに、巨竜の腹腔へと重大な傷を与えたのである。

「グォォォォオオオオ───!!

 下腹からどぷどぷと、真っ黒な血を垂れ流しながら、けれどグラントの羽ばたきに衰えはない。古代竜の威容はいささかも衰えず、魂を押し潰す咆哮を放つ。

「──黒き闇に集まりし、電磁の波。現世に収束しすべてを破壊せん──」

 リリアの両腕に光り輝く魔法陣が顕現する。

 巨大な、怖気をふるうほどの攻撃性に満ちた陣である。

 青白いオーラに包まれる、少女は口の端を吊り上げ──。

「エルグ・トゥ・ヴァルハラッ!」

 両手を合わせる。集約された莫大な魔力が、極太の閃光となって迸った。

 体躯すべて呑み込むほどの暴力の嵐にグラントは呑み込まれる。



「ガァアアア──────────!」

 轟くドラゴンの悲鳴。鱗が剥がれ、皮膚が焼け、羽が吹き飛ぶ。

 勝利を確信し、なおも術に魔力を注ぎ込もうとしたリリアの顔が──驚愕に歪んだ。

「なっ!」

 目の前に、ドラゴンの巨躯。グラントは攻性呪文に灼かれながら、なおもリリアへ向けて突進してきたのだ。魔力を術につぎ込んでいた、リリアに避ける手段はなかった。

 小さな身体が竜の頭蓋に打たれ宙を舞う。

 ──落ちていく。

「あ……がっ……っ」

 ぎりぎりで後方へ退いたおかげか、リリアはまだ意識を保っていた。

 ──失っていれば、楽に逝けたであろうに。

 グラントが顎を開く。さながら火山の噴火口であるかのごとく、赤くただれた口腔に、焔が灯る。赤く、赤く、燃えさかる焔は熱を増し、いよいよ青白く輝き始めた。

 ドラゴンブレス──石も鋼も蒸発させる、炎獄の極地。

 おそらくは、魔王ですら滅ぼせうる竜族最強の攻撃が、解き放たれる。


 視界が真っ白に染まる。

 本能が、逃げろとがなりたてている。アレを受けては無事にはすまない、と。

 けれど──。

「ふん、ですわっ」リリアの前面に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。今にも吐き出されるであろう凶悪無慈悲な一撃を、受け止めるための防性魔術だ。

 逃げるわけにはいかなかった。

 背中に、童園があるのだから。

 子どもたちが──保志が、あそこにいるのだから。


 轟音と衝撃が、大地を揺るがした。窓の外は白。何も、見えない。

 そうして──童園が、吹き飛んだ。

 天井が消失し、壁が崩れ、地が陥没する。悲鳴を上げる子どもたち。部屋の隅に子どもたちを集めて、保志は彼らに覆い被さるようにしていた。

 背中を瓦礫が叩く。頭蓋を打たれ、意識を失いかけて、だが子どもたちの声がそれを阻んだ。

 ここで子どもたちを護ることが、自分の役割なのだから──。

 やがて光は消え、衝撃は退いていく。巻き起こる粉塵が、風に乗って飛んでいく。

「く、あ……みんな、無事か」

 目を開き、子どもたちの無事を確認する。

 周囲を、見回す。

 童園は、その三分の一ほどが消失していた。いや、その程度ですんだことが、信じられないくらいの衝撃だった。

 地面が一部、陥没している。そして。

 その底に──らんのようなリリアがいた。

「リリアっ!」叫び、駆ける。

 彼女が、攻撃の地点をずらし、受け止めたから、今自分たちは生きているのだ。

 抱き起こす。小さな頭蓋が力なく落ちて、心臓が冷たく跳ね上がる。だが、

「う、うっ……」と、苦しげな呻きを漏らすリリアに、ひとまず、安堵した。

「……ニンゲン、めがっ……!」

 消失した壁の向こうにグラントが現れる。

 焼けただれた顔面が、憎々しげに保志を睨んでいた。

 羽が片方消失していた。左腕が、力なく垂れている。右腕は巨大なトカゲの腕だ。黒ずんだ裸体は、痛々しいほどに焼けこげて、鱗の残骸のようなものがへばりついている。

「何か」のカタチを維持できず、人の姿に戻っているようだと、そう思った。

「貴様さえ、いなければっ……ニンゲンなど、この世界には不要なのだっ……」

 近づいてくる。弱っているとはいえ、魔王の力を使えるリリアを、ここまで痛めつけた相手だ。保志など相手にもなるまい。

「滅ぼすっ……魔界は、混沌の、ものだっ……!」

 呪詛がごとく呻く、グラントが──。

「ぐっ、がぁあっ!?

 その時、保志の眼前で弾き飛ばされた。横合いからの、ゴーレム少女の体当たりだ。

「この、キサマっ、うぉおっ!?

 立ち上がろうとしたグラントが再び転倒する。その足に、スライム君が絡みついていたのだ。そして、地に手をつくグラントへ向けて、いくつもの瓦礫が放り投げられる──。

「このっ、このおぉっ!」「あっちにいっちゃええっ!」「こっちにくるなっ!」

 子どもたちが──手に手に瓦礫を取って、恐るべき竜族へ放り投げていた。

「リリアをいじめるなぁぁっ!」「せんせいからはなれろっ」

「……は、はは」

 笑いが、込み上げる。子どもたちに、逃げろと言うべきなのに。

「僕たちの」「私たちの」「場所から」「どっかにいっちゃええっ!」

「こ、ガキどもがっ……!」

 飛んでくる瓦礫を打ち払いながら、グラントはスライム君を踏み潰した。拡散する彼は、だがまた一つに寄り集まると、そそくさと逃げていく。

「身の程を知れ! 貴様らの場所など、この魔界にあるものかっ!」

 グラントの怒号に、子どもたちが震え上がった。

 まったく──。

「滅ぼす、誰も彼もっ、滅ぼしてっ……」

「──子どもを怒鳴りつけるもんじゃないよ」

 保志はグラントのすぐそばにいて。そう声をかけていた。

「──キサ、マ」

 拳を握る。獣人の──クーフェイの力が、右腕に宿るのを感じる。

 筋肉が、みりりと軋んだ。一発でいい。子どもたちを怖がらせた、リリアを痛めつけたこいつに、一発、叩き込んでやれればいい。

 グラントが、ドラゴンの腕を振るおうとする、だが、でかい分、遅い。

 ぐしゃり、と。焼けこげた竜族の顔面に拳が突き刺さった。

 保志の拳が潰れた。目覚めたばかりの獣人の力に、人の身体は耐えられない。手首が、肘が砕け、背筋が断裂して腰筋が裂け、膝関節が割れながら、けれど、なおも。

「うぁぁぁあああぁああぁああああっ!」

 保志は右腕を振りきった。

「がっ……!」

 グラントの身体が吹き飛んでいく。地面にバウンドし、二転三転。三十メートルは吹っ飛んだだろうか。

 巨躯は、童園の敷地外まで転がって、ようやく止まった。

「不審者は、立ち入り禁止です、ってね……。っ、あいたたたたたたたっ!」

 凄まじい痛みが全身に駆け巡り、たまらずに座り込む。この場でのたうち回りたいくらいだが、子どもたちが見ているのだ。格好の悪いところは見せられない。

「……まったく、無茶をしますわね……」

 リリアが、薄く目を開いていた。身体はまだ動かせないようだ。

「なんてこと、ないさ。でも、どうする。あいつは、まだ──」

 多少パワーアップしていたところで、ニンゲンに殴られたくらいで気絶する相手でもない。今しも立ち上がろうとするグラントに、どうやって対抗すればいいのか。

「いいえ」と、リリアが首を振る。

「もう──心配ありませんわ、保志」


「よぉ。手ひどくやられたのぉ」

 その男は、悠々と宙に浮いていた。グラントを超える巨躯。獅子のたてがみが如く金色の髪を輝かせる、魔王アスモデウスは野卑な笑みを浮かべていた。

「……アスモデウス」

 気がつけば、宙を舞っていた仲間の竜族は、その姿を消していた。

 そこいら中に、彼らの残骸が落ちている。腕。脚。羽。首。炭化した、カラダ。グラントの連れてきた、竜族すべてを討ち滅ぼして、魔王には傷一つないのだった。

「まったく、間抜けを晒したものよ。おかげで娘を危険に晒してしまった」

 ゆっくりと、降りてくる。グラントは動かない。動けないのだ。

「……本当に、できると思っているのか。ニンゲンとの──共存など」

「いつかは。わしの代では無理だろうさ。だが娘の、そのまた子の代なら、わからんよ」

「ふん──」と、グラントは鼻を鳴らして、殴られた顔に触れる。

 グラントとアスモデウスとの間にある実力差どころではない。

 生物としての次元、そのものが隔絶している相手に、魔族の子どもを守るため立ちはだかり、殴りつけてきた人間の顔を思い出す。

 ニンゲンに、あのような男がいるのなら、あるいは──と。

「──だが私は認めんぞっ、アスモデウスッ!」

 跳ね上がり、背中に隠していた折れた爪の一本を、魔王の心臓へ向けて突き出す。

 乾坤一擲の一撃は、けれど衣服すら引き裂くこともなく、その寸前にて不可視の壁に弾かれた。

 同時に──ごぉっ! と、グラントの身体が焔に包まれ燃え上がる。

「地獄で見ていろ、グラント。我らの子らが、作り出す世界を」

「──ふん。楽しみにしている。ニンゲンと相争う、これまで以上の魔界をな」

 燃えさかる焔の中でグラントは弾けるように笑い続ける。 

 頭蓋がすべて消し炭と化すまで、その嘲笑は消えることはなかった。


「終わった、の……かな?」

 ほっと、肩を落とした。なんとはなしに、傍らで寝転ぶリリアの髪の毛を撫でる。

 にこやかな笑みを浮かべて、アスモデウスがこちらへ歩いてくる。リリアの治療、破壊された童園の修復と、やることは多いが、これで一件落着だろうか。

「ふふ。保志。本当に終わったと思っていますの?」

 と──リリアが謎めいた笑みを浮かべる。

「へ?」間抜けな顔で、保志は聞き返す。

 ……近づいてくる、魔王の顔。そのこめかみに、青黒い血管が浮かんでいる。

 あれ。何か、怒っているような。それも、もの凄く。

「こぉんな、ちっちゃな娘に手を出して、さて、ただで済むものですかしらね?」

「──────────あ」

 クスクスと、実に愉しげにリリアは笑う。いつもの、小生意気な笑顔だ。

「よぉ。保志ぃ?」

「はひっ!」

 アスモデウスに呼びかけられた瞬間、痛みも忘れて直立していた。

 膝が壊れていたはずだが、スゴイね、人体。

「ずいぶんと、娘と仲良くなってくれたみたいだのぉ。ふふふ。ふふふふふ」

「え、えええええええ。ま、まあ、その、それなりにー、みたいな?」

「ふふふふふふふふふふふ」ごきりごきりとアスモデウスが拳を鳴らす。

「あはははははははははは」だらだらと脂汗を垂らして保志は乾いた笑いを浮かべる。

「それも限度があるっちゅーのだぁっ! ごるぅぁぁあぁあぁぁあああああぁあっ!」

「す、すっ、すいませんでしたぁぁああぁあっ!」

 凄まじい怒気である。グラントを前にした時よりも、死を身近に感じた。

「おやめください、お父様」

 と、リリアが制止する。

「そもそも、お父様が敵に振り回されていなければ、防げた事態ではありませんか」

「う。で、でも、リリたん」

 リリたんって。

「でも、ではありませんわ。……まあ、そのおかげで……ぽっ」

 と、リリアは頬を染めて、流し目で保志を見る。

 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。

「いやそんな、すっごい歯ぎしりしながら睨まないでください……怖いから」

 血の涙すら流しそうな、偉大なる魔王アスモデウスであった。

「お前ちょっと、校舎裏に来いや」と、魔王は保志の胸ぐらを掴み上げた。

「あ、こら、お父様っ!?

 まだ身体を動かせないリリアの声を背中に、童園の裏手へ引っ張り込まれる。

「あ、あああ、あの? その、確かに申し開きもないのですが……」

 ガクガク膝を震わせる、保志の襟首からアスモデウスは手を離す。

「ふん──まあそれは、ひとまず置いとくわい。わしもあまり、人のことは言えんからの」

「はい?」

「……わしも昔、人の女を愛した」

「──それは」

 だからアスモデウスは、人間に対してどこか気がいいのだろうか。

「ぶっちゃけストーカーだった」

「ぶっちゃけましたねっ!?

「あんまりにも美しい女での。結婚しようとする輩が後を絶たなかった。七人は、追い払ってやったわい。がっはっは」

「うわぁ」

 魔王が人に偏愛をしていたとは。世も末というか、なんというか。

 では、もしかして。

「リリアの、母親って」

「うむ。サラ──わしの愛した、人の子よ。あの子は魔と人とのハーフである」

 あの子はそれを知らんがの、とアスモデウスは付け加えた。

 ──教えていないのか。

 リリアがそのことを、知る必要があるのかないのか。

 それは、家族ですらない保志の、踏み込む領分ではない。

「今回の事態はわしの不徳のいたすところであった。それについては謝罪をする。すまなかったな、保志。また、よく子どもらを護ってくれた。礼を言う」

「い、いえいえ、そんなっ! 保父として当然の務めなのでっ」

 頭を下げてくるアスモデウスに、ひどく恐縮する。魔王に礼を言われるような、大それたことをしたつもりはなかった。

 そんな、たいしたことではないのだ。

「命を懸けたことですら、たいしたことでないのなら、何がたいしたことになるのか。貴様のような者だからこそ、三人を相手に契約ができたのかもなぁ」

 アスモデウスは苦笑して──神妙な顔で、保志を見る。

「また、今日のようなことがないとも限らん。童園を始めたのは、まあ強制であったが、だから今度はおぬしに決めてもらおう。

 ──保志よ、魔界を去るか?

 それともここに残って、子どもたちに教え続けるか?

 魔界を去るのなら、去ってよい。わしらはもう、貴様に関わらん」