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ファティマがヤルダの先に立って階段吹き抜けの中央を進んでいき、時おり停止しては、ヤルダが追いつくのを待った。ヤルダはこういう風に急かされるのを気にしなかった。もし肩を並べて移動していたら、移動の理由を議論して時をすごすハメになっただろう。
最初の放射状トンネルに行きあたると、ファティマは道の大部分を自由落下していき、縄梯子をさっとつかむのは、そこから逸れはじめたときだけだった。ヤルダはファティマのお手本に従うのは遠慮して、一段ずつゆっくりと下りていった。途中で出くわす施錠されたドアは、損傷はいうまでもなく、汚れもないようだった。なかば忘れられた破壊工作者を暗殺しようという気を起こす人はいなかったのだ。
第二層エンジンの上の、見捨てられた航法士の持ち場で、ヤルダは独房の外で待った。ニノはファティマを信頼しているから、ことのあらましはファティマが聞かせるのがいちばんだ。しかし、数分隔 後、ファティマがヤルダを招きいれた。
「こんちは、ヤルダ」ニノはまばらなロープのネットワークの中心にぶら下がっていた。ヤルダの記憶にあるよりもずっと瘦せていて、しゃべるあいだ、目を逸らしてばかりだった。
「こんにちは」独房は本と紙でいっぱいだった。ヤルダ自身の個室と同じように、かならずしも無重力でない状態のせいで、そうしたものは扱いがむずかしくなっていた。しかし、その部屋はこざっぱりとしていた。
「ファティマが、あんたの申し出を説明してくれた。でも、おれが断ったらどうなるか、ファティマにはわからなかった」
「強制ではないわ」ヤルダはいった。「あなたがなにを選ぼうと、わたしはあなたを山頂に連れていって、あなたを守るために最善を尽くす」
「あっちで自分の面倒を見られるかどうかわからない」ニノがいった。「ましてや……ほかのだれかの面倒を」
ファティマが穏やかな声で、「あたしが手伝うわ」
ニノは呆然として、決断を下せないようだった。なにができるか、できないか、だれにもわからないのだ。ヤルダは後ろの壁際に積みあげられた紙をしげしげと見て、「あとで取りにこられるわ」といった。「上にあなたに必要なものがなければだけど」
ニノは低いブンブンいう音を立てた。「英雄譚 と同じ部屋には二度といたくない」
独房の外でニノはたじろぎ、周囲の途方もない空間にぽかんと見とれた。ファティマが訪問の際にルールを破って、ニノを出してやったことはなかった、ということなのか? ひょっとしたらニノが断ったのかもしれない。わずかでも自由を味わったら、監禁が耐えがたいほどつらくなるのを怖れて。
帰り道では、ファティマが辛抱強く、体に働く変化する力とのつきあいかたをニノに示していた。ヤルダは同じように自分自身を励まそうとしながら傍 で見ていたが、ひどいまちがいをおかしてしまったのではないかという疑問に囚われていた。ニノはふたたび機敏になることを学ぶかもしれない。だが、自分はニノの精神になにをしてしまったのだろう? ニノに教えていたときは、子どもたちの思い出がニノの正気を保っていると信じて疑わなかった。しかしニノは、ふつうの生活といえるようなものからはいっさい切り離されて、三年以上を送ってきた──しかも、ニノが〈孤絶〉のコミュニティに復帰を認められるどうか、いまだにわからないのだ。
文教地区で中央階段吹き抜けをあとにしたとき、ニノは目をしばたたき、目を細くして周囲のランプを見た。まるで焼けつくような白昼の光の中へ突きだされたかのように。最初に通りすがった人が三人のほうを見たとき、ニノは動きを止め、四本の手でロープをしっかりと握りしめると、怯えて身を守る姿勢を取った。ヤルダが見ていると、通りすがりの女の表情が混乱から認識、ついでショックから理解へと変わった。梯子の反対側ですれ違うとき、その女はちらっとヤルダを見たが、その目つきは、ヤルダの図々しさを認めるものだったのかもしれない。しかし、幸福なカップルにその女がどんな運命を望んでいるのか、ほんとうのところはわからなかった。
ファティマはニノをどこへでも連れていき、人目を気にするそぶりもなく、友人や、仲間の生徒や、知り合いに紹介した。まるでニノが長いあいだ音信不通だったおじで、なにか謎めいた別の経路でたったいま仲間に加わったかのように。はじめのうちヤルダはそれを、その仕事をやろうとしない自分に対する、無言の非難のようなものとして受けとめていたが、やがてそういうものではないのだと悟った。人々は、ニノの代弁者としてのファティマの態度を我慢した。ファティマの態度は、そもそもニノが生きているという事実の責めを負うべき女が取るだろう態度とは、まるっきり異なるものだった。ファティマはこの友人を完全な同志として扱ったが、それをファティマが自分の利になるからやっていると考える理由は、だれにもなかった。
毎日ヤルダは、ファティマがニノに食堂や作業場や教室を見せるのに付き従った。ニノは打ち上げ前から目にしていなかった場所にふたたびなじんでいき、変化する遠心力に慣れるために、軸からかなり遠くまでうろつくようになっていた。三人が出会う人々の中には無愛想な者もいたが、だれも脅迫や糾弾の言葉を叫びはじめたりはしなかった。そしてヤルダや、ファティマや、フリドの保護の誓いにとりたてて敬意をいだいていない人たちでさえ、ヤルダの代理双の選択は、いつ、だれと子どもを持つかを決める女の権利に関するもっとも大胆不敵な主張かもしれないことに気づいて、あらためて考えさせられているようだった。ホリンが乏しく、薬理学が当てにならないいま、体の自律性を守るために、純粋に文化的な圧力の価値が、前にも増して高まっていた。
イシドラとサビノが交替で、ヤルダが前に受けもっていたクラスを教えた。ヤルダはそれを傍聴しながら、ニノがファティマに小声で説明してもらいつつ、謎めいた専門用語から意味を汲みだそうと必死になっているようすを見守った。いまや小麦畑ではなく、これがニノの世界であり、その中でどんな役割を果たすにしろ、その言語と慣習を多少なりとも学ばなければならないのだ。
ヤルダは自分の個室にニノのベッドをしつらえ、ニノは不平をいったり、図々しくなったりせずにこの親密さを受けいれた。いっしょにすごした最初の夜、ヤルダはまんじりともしなかった。ニノが彼女を起こして、彼女がさしだしたものを要求するとは思わなかったけれど、ニノがそこにいるだけで、自分が自ら選んだ結末を忘れることは不可能になった。トゥリアのように、不意を突かれるよりはマシだ。これ以外の自分で選べる結末の選択肢は、ふたたび宇宙空間に自らを打ちだして、冷却袋の空気が底を尽き、体熱で蒸し焼きになるのを待つことくらいしかないだろう。弱気になった瞬間になにを望もうが、取り消したいという衝動がどれほど強くなろうが、ヤルダにあと一年か二年をくれたかもしれないホリンには、いまやなにをどうしても手が届かないのだから。
ニノが観測室の端にあるロープを握りしめ、岩だらけの斜面の上に固定された、無数の小さな色の尾をじっと見おろした。
「あれが直交星群なのか?」
ヤルダは「ええ」といった。
ニノは顔をしかめ、「故郷の星々とそっくりだ。でも、あの世界に触れただけで命取りになる、といまあんたはいってるんだな。足を置いただけでそうなると」
「そう思われているわ」ヤルダは答えた。「でも、それをいうなら、のちの世代になにが起こるかなんて、だれにわかる? あの星々の岩石を採掘し、無害にする方法を見つけさえするかもしれない」
ニノは疑わしそうな顔をした。そもそも〈孤絶〉に未来があるということを、いまだにかんたんには受けいれられないのだ。
「わたしたちがこれまでにどんなことを生き延びてきたか、考えてみて」ヤルダはいった。「打ち上げのときにあなたが出したどのテストよりも、むずかしいものばかりだわ」
「もしあの星々が未来にあるなら」ニノはいった。「どうして望遠鏡で探りまわるだけで、故郷の世界にぶつかるか、ぶつからないかがわからないんだ?」
「来歴のその部分から出た光は、ここにいるわたしたちには届かないからよ」ヤルダは説明した。「故郷でふつうの星々を見るときは、何年も前のその姿が見えていた。この星々についても同じことがいえる──ただし、わたしたちの基準での〝何年も前〟はいまでは、故郷の世界から遠く離れている、という意味なの。起きるかもしれない衝突から遠く離れている、という意味」
「でも、この星々が見えるままだとしたら──?」
「そのとき故郷の世界は、その星々が密集した場所で終わりを迎えることになる」ヤルダはいった。「それだけは確実」
黙りこんだニノにむかって、ヤルダは、「わたしたちのやっていることは、あなたの子どもたちを助ける可能性がある。アシリオのお金ができるよりも、はるかにたくさん。その一部になりたくはない?」
「試す値打ちはある」ニノは認めた。「あの独房で腐っていくよりはマシだ。もしほんとうにあんた自身の肉をおれにまかせてくれるなら──」
「そうしない理由がある?」ヤルダは自分自身の疑いを黙らせようと最善を尽くした。「あなたは以前、いい父親だった。子どもたちに英雄譚 を無理やり飲みこませないとだけ約束して」
「古い話をふたつするかもしれん」ニノはいった。「でも、あとは空飛ぶ山と、そこで時間を止めることを覚えた人々の話になるだろう」
ニノが手を伸ばし、ヤルダの肩に置いた。自然がヤルダの不安を鈍らせ、前途にあるものを考えればこれが正しいのだ、という感覚に誘いこむ。もしここで立ち止まれば、もしさよならをいう時間をくれと頼めば、ますますつらくなるだけだ。これは自由にもっとも近いものを得るための、ヤルダにとって最後の機会だった。ヤルダの意志、ヤルダの行動、そして世界に残した成果のすべてが、調和する。
ヤルダはいった。「わたしたちの子どもたちを、トゥリアとトゥリオ、ヴィタとヴィトと名づけてほしい」エウセビオのことが気にかかっていたものの、エウセビオのほうが長生きするなら、その名前は自分で新たな居場所を見つけるだろう。「単者が生まれたら、クララという名前にして」
ニノは頭をちょっと下げて、わかったと知らせた。
「子どもたちみんなを愛して、子どもたちみんなを教育して」
「もちろんだ」ニノが約束した。「そしてあんたは、子どもたちにとって、知らない他人にはならないよ、ヤルダ。あんたについておれの知らないことは、あんたの友人たちが教えるだろう。ファティマは一日に一ダースも、あんたの話をするだろう」
ニノはヤルダを安心させるつもりでそういったのだが、ヤルダは悲嘆で身震いした。山が宇宙空間を飛ぶことは可能でも、彼女が自分自身の子どもを見ることは不可能なのだ。
ヤルダは悲しみと闘った。もしいまそれに屈して、はじめたことをやめたら、次回の苦しみが二倍になるだけだ。
ヤルダは手のうちの三本でロープをつかみ、四本目でニノの体を引き寄せた。頭上では古い星々の色の尾が末広がりに延びていた。ニノの胸がヤルダの胸に押しつけられる。はじめのうちはなにも起こらなかったが、やがてふたりの皮膚が癒着しはじめた。ヤルダはパニックに陥って体を引きつらせた。体を引き離す自分の姿が脳裏に浮かんだが、やがて恐怖を鎮め、その過程が続くにまかせた。見おろすと、結合したふたりの肉を淡い黄色の輝きが通り抜けるのが見えた。そのメッセージは描書よりも古かった。
まぶたが重くなり、平和と安らぎの感覚が頭をいっぱいにした。いまや言葉はいらなかった。ふたりは光を分かちあい、その光は、ヤルダがこれからなるものを守る、というニノの約束を伝えていた。