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 エアロックを使う順番を待つあいだ、ヤルダはファティマがヘルメットを被り、冷却袋に入るのを手伝った。だれの肉もその織物の形にぴったりとなじむほど柔軟ではない──それに、空気が皮膚の上を自由に動くようにすることが重要なのだ──しかし、袋が一カ所でもだらりと垂れさがるようにしたら、膨らんで、強ばったテントになり、動くたびに格闘するハメになるだけだ。空気を袋にギリギリまで満たすが、できるだけ皮膚に皺を寄せて、皮膚と織物とのあいだに狭い空気の通り道を作るのがコツだった。

 ヤルダは適合の点検を終え、「これでいいと思うわ」といった。

「ありがとう」ファティマがかたわらの容器に手をさし入れ、圧縮空気の缶をふたつ取りだすと、ひとつをヤルダに渡した。ヤルダはそれを自分の袋の側面にある塡め込み口に取りつけた。

「涼しくしておくためのもっとマシな方法を、だれかが見つけてもいいのに」とファティマ。

「次の交替勤務シフト にまにあうように?」とヤルダがジョークを飛ばす。

 オーシリオはエアロックの気圧を下げおえていて、外側のドアを横にすべらせてあけると、出口のすぐ外側にあるガイドレールをつかみ、体を引いてすり抜けた。オーシリオが後ろに手を伸ばしてドアを叩き閉めると、間髪を入れずにファティマが等圧機をひらき、空気がシューシューと音を立てながらゆっくりとエアロックに戻ってきた。

 シフトに次ぐシフト、ヤルダはこの骨の折れる準備段階に飽き飽きしていた。しかし、そのいらだちは胸の内におさめていた。あと三ステイント で、この煩雑な手続きを二度と踏まなくてもよくなるのだ。

 ファティマがエアロックに入って、ポンプを勢いよく動かしはじめた。三本の手を透明石の壁に当てて踏ん張っている。

 ヤルダが斜面へ出たときには、ファティマやほかのチームの面々は、すでに視界から消えていた。ヤルダはガイドレールのあいだに体を振りあげ、きびきびと、しかし、少なくとも二本の手はつねにレールをつかむようにしながら、山を下りはじめた。重力がないので、斜面の勾配は無視してもよかったが、頭上にあるけばけばしい色の尾からなる逆さまになった鉢の縁が、山が地上にあったときの地平線とぴったりと合っており、地面を水平と考えられなくしていた。

 新しい地平線は、目も眩むような色とりどりの円であり、そこでは古い星々から出た最速の紫外線が、目に見える周波数に偏位してから、だしぬけに暗黒に場所を譲っている。ヤルダのまっすぐ前方──〝ふもとのほう〟──では、直交星群団クラスター のもっと慎ましい尾が地味に輝いていた。ガイドレールから離れたところで、星明かりを浴びてシルエットになった枯れ木が、奇妙な角度で不規則に広がっていた。空気の薄い高所になじんでいたこうした木々も、空気がまったく存在しない中で、地中に張った根だけで植物全体を冷やしておくのは無理だったのだ。赤い苔の斑が枯れ木に群落を作っていたが、そのかすかな光を見れば、苦闘していることがうかがえた。

 エアロックから数区離ソーンター のところで、ヤルダは立坑にたどり着いた。トンネルの奥から漏れるランプの光が、口からあらわれ出る土埃を明滅させていた。一見すると、惑星むきに訓練された目には、その埃がある種のそよ風に乗っているように思える。だが、やがて微小片のあいだに散らばった親指大の岩石──もっとゆっくりとだが、同じくらい自由に動いている──がその幻影に終止符を打つ。なにかがその塵を進ませているわけではなく、それがトンネルから流れでているのは、偶然の衝突に容赦なく駆りたてられて、さらに多くの空間を占めるようになっているにすぎない。

 打ち上げ前からあるガイドレールは、トンネルの入口の前を通っていたが、中へ連れていってはくれない。ヤルダは、方向を転じて光の奥へと続く一連の木製杭に固定された一対のロープに握りかえた。トンネルの床はゆるやかな下り勾配を描いて、岩石の内部へ通じている。さらに半区離ソーンター 進んだころ、天盤が頭上にあらわれた。

 土埃と砂粒の靄が濃くなった。ヤルダが杭のそばのロープを握ると、携帯用削岩機の震動が感じとれた。手をあげると、後ろから照らされた岩石の微片が、くるくるまわりながら離れていった。織物を抜けてゆっくりと逃げていく空気に押されているのだ。ファティマが不満をいだくのも無理はない。体を冷やす方法が、温かい空気を投げ捨てることしかないなら、それはお粗末な取り引きだ。

 露出岩石がしだいに視界に入ってきた。煌々と輝く太陽石のランプに取り巻かれている。チームの七名が、ケージの内部で岩に体を押しあてながら、携帯削岩機でそれを砕いていた。ピンと張った三本のロープが、それぞれのケージのてっぺんからトンネルの壁に走っており、削岩機の容赦ない反動に抗って、作業員とケージをその場にとどめていた。ヤルダはその骨を震わす仕事を二ステイント 間続けてやって、ついに をあげたことがあった。

 ほかの作業員が四人、ケージとケージとのあいだを移動していた。張り綱にしがみつきながら、口をあけた荒石袋を引きずって、削岩機から跳ね飛んでいる割れた岩の残骸に被せている。すべての岩屑をすくいあげるのは不可能だが、この作業のおかげで、作業空間を動きまわるのが多少なりとも容易になっていた。

 ファティマがヤルダを見つけて手を振り、それから追いかけていた荒石に注意を戻した。冷却袋が全員の皮膚を覆っているので、目配せと手振りだけが意思疎通の手段だった。もしだれかと軽く触れあえば、二、三のくぐもった言葉を交わすことはできる。だが、シフトはたいてい無言の仲間意識のようなものに包まれてすごされる。そこでは作業そのもののリズム──削岩機ケージの移動、張り綱の留めなおし──が、親しいおふざけの代わりになるしかない。

 すでに満杯の袋ふたつが片づけられるのを待っていた。てっぺんの引き紐は閉じられて、トンネルの天盤まで走る滑車綱についているフックに縛りつけてある。ヤルダは綱を引いて、袋が手に届くところまで持ってくると、引き紐を自分の肩にかけて、トンネルの出口へとあと戻りをはじめた。

 カタパルトはガイドレールの反対側に鎮座していた。ヤルダは機械の側面にある固定用フックに荒石袋を引っかけると、二本の左手で近くにある支持用の杭をつかみ、それからレールに載ったカタパルトの発射プレートをつめ車で引き戻すクランクをまわしはじめ、その下にあるバネを伸ばした。クランクが抵抗に遭って固くなりはじめると同時に、支持用の杭がひとりでに地面から抜けそうになるのが感じられた。悪態をつきながら、ヤルダは下のほうの手をカタパルトに移し、道具入れから木槌を取りだして、支持用の杭を半ダース回強打した。

 ヤルダは杭をチェックした。いまはしっかりしている感じだ。しかし、木槌を道具入れに戻そうと身をかがめたとたん、カタパルト本体がわずかに揺れるのが感じられた。その基部を地面に固定している先細りの木釘を何本かゆるめてしまったのだ。

 大したことではない。あとでなんとかしよう。ヤルダはひとつ目の袋を発射プレートに振りあげ、それがきちんと閉まっており、プレートにしっかり載っているのを確認してから、手を伸ばして、留め金を外した。プレートが勢いよく飛びだして、一歩離ストライド 丸々移動したところでバネに止められる。機械全体がビリビリと反響した。袋は動きつづけ、なめらかに宇宙空間へ滑空していった。こういう風に岩石を処理することについて、ヤルダには納得できないものがあった。なんらかの理由で、子孫たちがこの上なくありふれた物質さえほしがらないとも限らないのだ。だが、荒石を斜面に固定しておくのに必要な労力を──エアロックを通過させて山の内部のどこかへしまっておくことはいうまでもなく──割りふっている余裕はない。

 ヤルダはふたつ目の袋を忘却へ打ちだしてから、トンネルをあと戻りした。

 靄が濃くなってきていた。二台の削岩機が粉末石の鉱脈にぶち当たったのだ。それには集められるような固体の破片はなく、ただふわふわと煙のように漂って、全員のフェースプレートを灰色の塵でべったりと覆った。

 さらに四つの袋が滑車綱で待っていた。ヤルダはそのうちのふたつをおろしてから、ひと休みしてヘルメットをぬぐい、目をすがめて露出岩石を見た。崩れる粉末石はわずらわしいが、仕事ははかどるようになる。ひとたび大きな掘削が完了すれば、露出岩石の後ろに半ダースの小さな供給機室が建設され、地表へまっすぐに通じている個別のトンネルで行き来ができるようになるだろう。ベネデッタが宇宙に送りだした探査機を別にすれば、これが重力で解放剤を供給するのではないエンジン──解放剤は圧縮空気によって燃料を突きぬけることになる──がはじめてほんとうにテストされる機会になる。ヤルダはそれについてすでに不安をいだいていたが、いくつかの点についてはそれほど厳しいテストは必要ないだろう。いちばん重要なのはエンジン配置の幾何学だ。推力のわずかな変動は決定的ではあるまい。

 ヤルダは重い足取りでカタパルトへ戻った。クランクをまわすうちに、つかんでいた支持用の杭がふたたびゆるんだ。木槌を手探りする──フェースプレートにまだ頑固にへばりついている灰色の粉末のすじのせいで、それを手に取るという単純な仕事がむずかしくなった──とそのとき、袋のひとつがじっさいに道具入れの前をふさいでいるのだと悟り、それを発射プレートの上に移した。それから低いほうの一対の手でカタパルトの基部を握って体を固定すると、支持用の杭を強打しはじめた。

 ヤルダは逆さまになり、地上から二歩離ストライド 浮かんだところで、下の手首に締めつけを感じた。木槌を落とし、必死にカタパルトのほうへ手を伸ばしたが、すでに手遅れで、どこもつかめなかった。後視線で見あげると、袋の引き紐が手に絡まっていた。発射プレートの側面から引き紐がはみ出していたに違いない。その紐の作る輪に、ヤルダの腕がすべりこんだのだ。

 最初の馬鹿げた衝動は、単に袋を振りほどくというものだった──まるでそれだけが、問題すべての原因であり、袋を外しさえすれば、地上にゆらゆらと戻れるかのように。次に考えたのは、袋を体に引き寄せるというもので、ヤルダはじっさいにそうした。それから紐を手首から外し、袋のごわごわした織物をつかんで胸に押しつけた。しかし、とっさの計画を完了させることは、なんとか思いとどまった。つまり、袋を上方へ投げて、体を山のほうへ進めるという案だ。この方策でうまくいく、という本能的感覚は圧倒的だった。〈孤絶〉内部の室のまん中でにっちもさっちもいかなくなったのなら、確かにそれでうまくいったはずだ。だが、たとえ四本の腕で力のかぎり袋を押し離したとしても──たとえ冷却袋の縫い目を破って、さらに二本の腕を成形したとしても──力が足りないだろう 。自分がどれだけ長くカタパルトのクランクを苦労してまわし、どれほどのエネルギーをバネに注ぎこんだかはわかっている。いちどだけ力を放出するのではそれに匹敵できないのだ。しかも、そうすることでほかの手を打てなくなるとしたら、いくら上昇を遅らせても部分的な勝利でしかなく、なんの役にも立ちはしない。

 ヤルダは後方のトンネルの口から漏れる、遠のいていく光にちらっと視線を走らせた。もしパニックを起こして、考えなしに行動すれば、命はない。地面からの距離がみるみる増していくさまは恐ろしいが、それはほんとうの敵ではなかった。方向を逆転するのにどれだけ長くかかろうと、かまわないのだ。いったん安全な場所にまたむかえば、旅の長さは関係なくなる。あるいは、そういってかまわない。判断の基準はひとつだけで、それは空気缶がから になる前に戻らなければならないということ──そして空気は、六 のシフトのあいだ保つようになっているのだ。

(缶そのものは助けにならないだろうか?)ヤルダはその冷たい表面に手を走らせ、すばやい空気の噴出が、自分を安全な場所まで投げ飛ばしてくれるところを想像した。しかし、なんの道具もないので、空気の流出量を制限しているバルブをこじあけられるかどうか怪しいし──たとえあけられたとしても、中身全体の運動量では、その仕事には足りないかもしれない。すばやく降下できなかったら、距離は重要ではないという態度は噓になるだろう。もし地面へむかってゆっくり漂い戻ることになったら、冷却できないので、高体温のため途中であっさり命を落とすかもしれない。カタパルトの道具入れには一ダースの予備の缶があるが、この缶を壊してあけ、時間切れにならないうちにほかの缶のもとへたどり着ける可能性に本気で賭けたいのだろうか?

 では、空気ロケットはなしだ。排気ガスの代わりになるのは袋の中の荒石だけ。そしてそれを推進させるためにあるのは、自分の体力だけ。しかし、カタパルトはヤルダをこの窮地に陥れるのに、蓄えられた筋肉の力しか使わなかった。もしクランクをまわしたときのエネルギーよりも多くのエネルギーをこの作業で消費できるようなかたちに荒石を分配すれば、結果を逆転させられるはずだ。

 体のゆるやかな回転のせいで、ふたたび後方のトンネルから漏れる光のほうをむいていた。荒石の袋が滑車綱にたまりはじめれば、同じチームの作業員たちがヤルダの不在に気づくのは確かだ。しかし、あわてて探しには来ないだろう。ヤルダがこの間ずっと、カタパルトにちょっとした修理をしているとしても不思議はないのだ。重大な事故が起きる場所は露出岩石だ。よっぽどの間抜けでもなければ、自分を宇宙空間に打ちだしたりはしない。しかし、チームの人々がいつかはヤルダがいないのを心配しはじめるにしろ、ロープを投げてもらうことは忘れたほうがいい。それにはすでに遠ざかりすぎていた。

 それはかまわない。冷静さを失わなければ、なんとかなる。ヤルダは星の尾の地平線上の一点を特定した。自分の進んでいる方向を、いまわかるかぎりで示すものだ。縮んでいく地上の光の斑点とは正反対に当たる。ヤルダは引き紐をゆるめ、体の揺れで中身がこぼれるのを怖れて、少しだけ袋をあけると、手をさし入れ、ひと握りの荒石を取りだした。回転で標的がふたたび正面まで来るのを待つ。逆むきのとうてき に同等の力をこめられるように肉を作りかえるつもりはない。それから腕を引いて、ひと握りの岩石を渾身の力で投げ飛ばした。

 その努力は取るに足りないもので、無駄骨折りに感じられた──と、不意に悟ったのだ、あわてていた上に興奮していたので、また別の勘違いに基づいて奮闘していたのだと。荒石の袋全体のような重い物体を投げれば、それにこめたエネルギーの限界は、ヤルダの筋肉が生みだせる最大の力になるだろう。もし袋をふたつに分けて、それぞれを別々に投げれば、同じ力でも投げる速さは、袋ひとつ丸ごとよりも半分のほうが速くなるだろう。全体に使っていたのと同じエネルギーをそれぞれの半分に伝えられるからだ。

 二回投げれば、エネルギーが二倍──すごい! だが、二回投げただけではまだ足りない。それなら四回、一ダース回、一グロス回投げればいいではないか。時間はかかるが、エネルギーの総量は必要なだけ増えるだろう。それがヤルダの考えていたことだった。カタパルトに注ぎこんだエネルギーと匹敵させるのは、じゅうぶんに注意して荒石を節約する問題にすぎない、と。

 だが、ひたすら小さくなる重りをひたすら速く 投げるというパターンは、ある点までしか有効ではない──そう、袋半分には当てはまるが、ひと握りの小石には当てはまらないのだ。その時点で、限界因子はヤルダの筋肉が生みだせる速さとなり、筋肉が働かせられる力ではなくなる。そしてスピードが固定されれば、任意の量の荒石にこめられるエネルギーは、その質量と比例するようになる──つまり、何回に分けて投げたかにかかわらず、合計すれば同じ総量になるということだ。

 どれだけの体力が残っているかは問題ではない。あのカタパルトのクランクを、疲れずにあと十ダース回まわせたとしても関係ない。ヤルダの運命は、袋の中の岩石の総質量と、それを投げるスピードによって完全に決まっている。最大の量を投げる速度ではなく、最小の量を投げる速度によって。

 ヤルダは後ろの山に目をやった。いまではほかに三つの作業現場が見えた。斜面をさらに下ったところにトンネルの明るい口がある。しかし、ヤルダの軌道は側面へ逸れていくものであり、黒っぽい岩石地帯がいまや眼下に広がっていた。山を半周したところに、作業現場が並ぶ第二の線がある。エンジン一式は、軸をはさんで逆をむきあう一ダースのペア からなる予定だ。しかし、その現場のどれかが視界に入ってきたら、なにかがおかしいとわかるだろう──投げる方向を誤って、うっかり軌道を曲げてしまったのだと。

 ヤルダは袋からまたひと握りの荒石を取りだし、標的を待ってから投げた。回転のおかげでその過程にリズムが生まれ、次の投擲をあまり長く遅らせずに腕を休める機会が得られた。一ダース巡したあと、腕を替えた。冷却袋に損傷をあたえずに新しい手肢を成形することはできない。だが、投げるたびに最後に震えを感じるものの、痛みやダメージが蓄積して、動作がのろくなることはなかった。

 もっとも、性能のいいパチンコがあれば、それに越したことはないが。

 いまや十の作業現場が見えた。残りのふたつも山のこちら側にあるので、おそらく小さな露頭の陰に隠れているだけだろう。自分がいてもいなくても、このエンジンはすべて完成するはずだ。〈孤絶〉は回転をはじめ、作物はいまいちど繁栄する。旅のほんとうの目的が、まもなくふたたび最重要課題となるのだ。サビノが道をひらいたので、聡明な若い生徒たち──ファティマ、オーシリア、プロスペラ──があとに続くだろう。自分が死んでも、なにかが終わるわけではない。

(では、ニノは?)ヤルダは病的な思考の連なりを断ち切った。荒石の袋の中身はまだ半分以上が残っている──この状況は救いようがないとは、まだ証明されてはいないのだ。

 次にひと握りの荒石を投げると同時に、後視線が閃光を捉えた。その場所を正確に定め、残像から同じ道を遡ろうとしたが、回転のせいで混乱した。ほかの作業現場のひとつがちらりと見えたのだろうか、トンネルから漏れる光が、山の端からつかのま覗いたのだろうか? それにしては明るすぎたのではないか? トンネルの口はすべて山をめぐる同じ方向をむいている──だから、ほかの作業現場の口はヤルダから遠ざかっていることになる。いちばん見えてもおかしくないものは、立坑付近の地面からこぼれた光と、土埃の靄の中で散乱した光だろう。そんなものが 、トンネルをまっすぐ覗きこんでいる現場より明るく輝くわけがない。

 二、三回転後に山のほうをむいていたとき、第二の閃光が見えた。どの作業現場からも遠く離れたところで、漆黒に囲まれていた。だれかが観測室の内側で太陽石のランプを点けたのだろうか、とヤルダは思った──しかし、ほんの一瞬しか点けなかったこともだが、そもそもなぜそんなことをするのだろう?

 第三の閃光は違う場所で走ったが、相変わらずどの作業現場の近くでもなかった──そして、人工的な光源であるにはあまりにも短すぎるし、明るすぎる、とヤルダは結論づけた。なにかが〈孤絶〉に衝突しているに違いない──小さいにもかかわらず、岩石を白熱させられるほどのエネルギーを運んでいるなにかが。

 望遠鏡は物質がまったくない回廊を示していたが、観測の感度には限界があったのだ。ここの微塵は、通常の星々から見れば悠然と漂っているわけだが、いまや〈孤絶〉にとっては疾走星のようなものとなる。それは、速度を合わせることで疾走星を手なずけることの代償だった。いまや通常の塵が、疾走星が通常の世界にあたえられるのと同じだけの損傷を山にあたえられるのだ。

 お気楽な学者の都はこれでおしまいだ。大宇宙の秘密が、自らの前にさらけ出されるまで、のほほんと仕事をすることは。自分たちがあとに残してきた人々とまったく同じように、大火災の脅威に絶えずさらされて生きることになるだろう。しかも四年間ではない。数世代ジエネレーシヨン にわたって。

 最悪なのは、とヤルダは悟った、この出来事を目撃するのが、おそらく自分ひとりだということだ。塵は何日も前から山にぶつかっていたのかもしれないが、地表の大部分は作業現場や観測室からは見えない。引き返して、〈孤絶〉のための火災監視体制を組織しなければならない。斜面のどこへでもたどり着いて野火を消せる備えをしなければならない。さもなければ、ジェンマの二の舞になるリスクをおかすかだ。

 ヤルダはさらに数個の石を放った──体をだまして、もう少しだけ多く力を分配することを願って、もっと重いと想像しながら。袋の中身は四分の一になっていた。まだ山から遠ざかっているのは確かだと思ったが、この距離では眺望の細かな変化を判断するのは、不可能に近かった。

(どうしたら火事の見張り番を置けるだろう?)地表から高いところで、ロープにつなぎ留められたケージを、安定させる……どうにかして。もっとも、いったん山が回転をはじめれば、問題は安定性ではなく、ロープの強度になるだろう。

 そしていったん山が回転をはじめれば、地表を動きまわるのは、はるかに困難になる。無重力のせいでじゅうぶん困難になっていたが、斜面のあらゆる部分が天井に変わるのだ。天井で燃えさかる火事をどうやって消すのか?

 袋が空っぽになった。ヤルダはそれをしっかりと胸に抱きしめた。それ以上は使い道がないと思いたくなかったのだ。(自分は山にむかっているのだろうか、それとも遠ざかっているのだろうか?)というのも、しばらくのあいだ、それが空に占める角度に変化が認められなかったが、気が散りすぎていて、そのことはあまり考えていなかったからだ。山の端に近い目立つ星を二、三見つけてから、それがじりじりと山から離れているのか、それとも山のシルエットが徐々に大きくなり、星々を隠すのかどうかがわかるまで待たなければならない。

 またしても山から閃光が走った。今度は作業現場のひとつのすぐそばだ。ひょっとしたら、カタパルト操作でトンネルから出ただれかが、そこでいまのを見たのではないだろうか? ヤルダは山頂から立坑の数を数え、その現場が自分のものだと気づいた。

 光がまた明滅した。まったく同じ方向から。では、衝突ではないのだ。いまごろはもう、同じチームの人々があたり一帯で自分を探しまわっているかもしれない、とヤルダは気づいた。そして探索中に太陽石のランプが時おり天にむけられる。カタパルトを調べている人々をヤルダは想像した。カタパルトがどれほどゆるんでいるかを手で探って、こう考える、ありそうもないことだが、もしだれかが不注意すぎて──

 同じ光が前よりも明るくなってあらわれ、非常にゆっくりと見通し線を横切ったので、目が眩んだ。半回転しおえたとき、それがヤルダの後眼に当たって、とどまった──わずかにふらついたが、決して完全には消えなかった。

 そのランプは山の表面にあるのではない。宇宙空間を抜けてまっすぐヤルダにむかっているのだ。そしてランプがひとりでに狙いを定めているわけがない、ひとりでにヤルダを探しているわけがない。

 ヤルダは体の前で空っぽの袋を広げた。もっと大きく、もっと光を反射する標的になればいいと思ったのだ。まるで陽炎を通して見ているかのように、近づいてくる光が奇妙に揺れ動きはじめた。宇宙空間に広がる、噴出した空気を通して見ているかのように 。どこかのおめでたい馬鹿が追いかけてきたのだ──カタパルトによって同じ軌道に打ちだされて──そしていま、圧縮空気を使ってブレーキをかけている。ヤルダの持っているようなちっぽけな缶からではなく、携帯用削岩機の動力となる大型シリンダーのひとつから。

 目も眩む光がヤルダを行きすぎて、脇へ逸れていった。それは逆戻りしてから、反対側へ行きすぎた。もどかしくてたまらなかったが、救助者を途中まで出迎えにいくすべ はなかった。試行錯誤を重ね、目と空気噴射だけを頼りに、両者を隔てる距離と速さの差が小さくなっていき、ついにはランプが不要になって、その所有者がランプを消した。もはやランプのギラギラする光に目が眩まされず、星明かりだけでヤルダには目の前の人物が見えた。空気タンクとひと巻きのロープを握り、見慣れた冷却袋に包まれている姿が。

 ファティマが巻いたロープの一部を握り、ヤルダのほうへ投げた。これでファティマは後方へすーっと動いたが、わざわざ戻ろうとはせず、ロープがほどけるにまかせただけだった。ヤルダは手を伸ばしてロープの端をつかむと、腰に二回巻きつけて、しっかりと握った。

 ロープがピンと張ると同時に激しい上下動が生じ、次の瞬間、ふたりは結びあわされ、共通点をめぐる大きな円を描いて動いていた。ヤルダはロープをたぐって少しだけ進んでから、空気の噴出を利用して角運動量の一部を相殺するよう、ファティマに身振りで伝えた。おたがいの腕が届く範囲に入ったときには、ふたりの回転はほぼ消えていた。

 ファティマがヤルダのヘルメットをつかみ、自分のヘルメットに押しつけた。「あたしを下ろしてください。お願いします」

 その声は怯えていた。一瞬、ヤルダには返事ができなかった。(これほど怖がっているのに、そもそも、どうして自分を追ってこられたのだろう?)

「その缶を取らせてちょうだい」ヤルダはやさしい声でいった。「わたしがつかむまで離さないで」

 ファティマは二本の腕をシリンダーに巻きつけていた。ヤルダは自分も同じようにシリンダーを抱きしめると、ファティマの手から抜いていった。

 ほかの手でロープを巻きなおし、ふたつの輪を作ると、自分たちの体に巻きつけてから、一連の結び目でしっかりとつなげる。ファティマはぶるぶる震えていた。ファティマはすでに、ヤルダがだれにも頼めないようなことをしてくれていた。自分たちを無事に下ろすのは、今度はヤルダ自身の仕事だった。

「ベネデッタのことをずっと考えていました」ファティマがいった。「着陸がいちばんむずかしい」

「あのときみたいにはならないわ」ヤルダは約束した。「火はないし、熱はないし、危険もない──」太陽石のランプがまだファティマの肩にベルトで留められているのに気づき、「もうそれは必要ないわ」ランプを引っぱって外し、そっと宇宙空間へ投げこむ。あれだけ揺さぶられてきたのに爆発していなかったのは、奇跡だ。

 ヤルダは地平線上に目標を見つけ、シリンダーのバルブをひと目盛りひらいた。腕に感じたごく軽い衝撃は、これまでの一生で感じた中で、もっともすばらしい感覚だった。ファティマが自分のもとに達する前、すでに地上へむかっていたのかどうかはわからなかった。ヤルダは知りたくなかった。

 ピンで刺したような光が、眼下の黒っぽい岩にあらわれた。「いまのを見た?」ヤルダはファティマに尋ねた。自分がこれまで錯乱していたのならいいのだが、とヤルダは思っていた──あるいは、ファティマがありえないくらいに道を逸れながら上昇してきたので、ヤルダの見たすべての光が探索用ランプのせいだったならいいのだが、と。

「見ました。なんだったんですか?」

「見当もつかないわ」ヤルダは噓をついた。「心配しないで。あとで突きとめましょう」

 山が迫ってくるにつれ、一連の作業現場が下方で散らばっていき、いちばん遠いものは暗黒に飲まれていった。ヤルダは横方向の修正を施し、自分たちのトンネルの口にむかって進んでいった。明るい岩の地区が不安をいだかせるほど大きくなりはじめると、空気を下へ噴出させ、降下を遅くした。一停隔ポーズ か二停隔ポーズ のあいだ、やりすぎて、また山から遠ざかることになったかもしれないと思ったが、いまではじゅうぶんに近づいていたので、近づいているのか遠ざかっているのかわからない状態が長く続くことはなかった。またしてもすばやい噴射を使って水平方向の動きを遅くし、岩で皮膚をこすり取られないようにした。

 トンネルの口を横切っているガイドレールがいきなり視野に飛びこんでくると同時に、ヤルダは新しい特徴を見分けた。チームが数ダースのロープを、二通離ストレツチ にわたってレールに縛りつけておいてくれたのだ。ロープは岩から離れて延びており、結ばれていないほうの端を地上高くに浮かべている。もしあの柔軟なフェンスに飛びこめたら──

「できたらロープをつかんで!」そちらにむかって舞いおりながら、ヤルダはファティマを急きたてた。「衝撃を分散する腕は多いほどいいわ」

 そのすばらしい間抜け捕りが手の届く範囲に入る一瞬隔フリツカー 前、ヤルダはシリンダーを軽く蹴って、自分たちにわずかに上むきの速力をあたえた。次の瞬間、シリンダーを落とし、腕を振りまわして、なんとかロープの一本をつかんだ。ファティマが別のロープを二カ所で握っていた。ヤルダは自分のロープがピンと張る前に、すべての手をそこへ持っていった。関節に衝撃が走り、痛みのあまり悲鳴をあげたが、ロープを握る手をゆるめはしなかった。

 ふたりはガイドレールの数歩離ストライド 上にいた。ヤルダはロープをたぐって地上まで下りていかねばならないと覚悟していたが、伸縮するロープの強く引く力のおかげで、止まるのに必要な力をわずかに上まわる力をもらったかたちであり、じっさいは地表へむかってゆっくりと漂っていた。

 ファティマがショックでうなり声をあげはじめた。ヤルダも加わりそうになったが、音を立てはじめたら止まらないのではないかと心配だった。

 ヤルダはいった。「もう安全。あなたのおかげよ、ファティマ、もうふたりとも安全なのよ」