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ヤルダは航法士の持ち場にあるベンチに安全ベルトで体を固定し、停隔 ごとにカウントダウンした。これまでその栄誉を担うのは、つねにフリドかバビラだったが、今回はその役割を自分で引き受けたのだ。これが最後のチャンスだと知っていたから。
「三。二。一」
それに続く肩すかしは、歓迎すべきものだった。それとわかる変化が突如として生じれば、なにか恐ろしくまずいことが起きたという意味なのだから。時計がさらに二分隔 進んでも、ヤルダはなにひとつ気づかなかった──そのときでさえ、こう疑っていた。つまり、目まいがしたり、バランスが狂った気がしたりするのは、予感のなせる業でしかないのでは、と。機械工たちはじっくりと時間をかけて解放剤の流れを先細りにしている。エンジンが完全に停止するまで、丸一鳴隔 はかかるだろう。
「聞こえたか?」フリドが尋ねた。
「聞こえるって、なにが?」バビラが頭をもたげて耳をすます。
ヤルダが「岩よ」といった。エンジンの轟音に被さって、天井を伝わってくる低い軋みが聞きとれた。山はその重量のごく一部を失っただけだが、すでに形を変えはじめている。重荷が減ったので、伸張しはじめているのだ。それは悪いしるしではない。変化をためこんで、あとで急激に形を変え、そのエネルギーをいっせいに解放するよりは、いま調整をはじめたほうがマシだ。
エンジン停止までの四分隔 、背中の皮膚が痺れてきている、とヤルダは誓ってもよかった──そして圧力の減少を感じはじめているほんとうの理由を知っていても、それで錯覚が弱まるわけではなかった。七分隔 で体重の減少がパニックの引き金を引きはじめ、そのパニックのさなか──わずかなあいだだが──体の下でベンチの脚が折れてしまったのだとヤルダは確信した。エンジンはいまや耳慣れない、静かなパタパタという音を立てていた。頭上の岩は音を立てなくなっていた。打ち上げ以来はじめて、ヤルダは部屋の反対側にある時計が時を刻む音を聞いた。
バビラがむきを変え、最後に食べた物を戻した。思いやり深く同僚たちには見えないところに片づける──もっとも、床そのものが嘔吐物をさほど長くはとどめておかなかったかもしれないが。部屋の安定した見かけと、なにもかもがすべっているという、ぎょっとするような感覚とを折り合わせる望みがないので、ヤルダは目を閉じた。気がつくと、遠方から見た〈孤絶〉を思い描いていた。色の尾を背にした黒っぽい円錐を。しかし、この空想的な光景において、山の中腹三分の一は樹脂のように柔らかくなっており、怖いもの見たさで目が離せないでいるうちに、どんどん伸びて細い管になり、やがてボキッと折れて──
ヤルダは衝撃に備えて体を突っ張った。不幸にも高所から落ちた祖先は皆、これと同じ落下の感覚を味わい、そのあとにはかならず衝撃が続いたのだ。自分の身にそんな激突がいつまで経っても起きないのは、ヤルダにとってもちろん意外ではなかったが、だからといって安心した気分にもなれず、いまにも大怪我しそうな恐れはいっこうに消えてくれなかった。
ヤルダはベンチに横たわって静かにうなりながら、なにかが変わるのを待った。とうとう、恐怖感にすっかり慣れて目をあけられるようになり、周囲を見まわした。フリドは安全ベルトの大部分を外し、上体を起こしていた。ヤルダも同じようにしたが、それで気分が悪くはならなかった。じっさいにはその行動は、体をまだ思いどおりに動かせるという証明になって、心強さをあたえてくれた。
半ダースのロープが、肩の高さで部屋に張り渡されていた。フリドは安全ベルトを外しおえると、手を上に伸ばして、いちばん近いロープをつかんだ。最初はそのロープにつかまって床を歩こうとしたが、石の上で足がすべってばかりだった。やがてフリドはやりかたを変えた。体を丸め、両足をふた組目の手に作りかえて、足でもロープを握ったのだ。二、三度ふらふらと動いたあと、テクニックを習得し、両手を交互に動かして、ロープ伝いに壁までするすると移動した。それから、かたわらの石につなぎ留められた別のロープにひらりと飛び移り、新しい方向に出発した。
バビラは呆然としてその姿を目で追った。「わたしは残りの生涯、あんな真似 はしない」うめき声をあげ、「いますぐ送りかえしてくれてもいいから」
ヤルダは腰から安全ベルトを外し、いちばん近いロープをつかんだ。フリドの例にならって、足を作りかえ、振りあげようとする。だが、次の瞬間、気がつくとゆっくりと宙返りを打っていた。一本の手はまだロープを握っているが、それ以外の手肢でロープをつかめないのだ。
「背中を丸めるんですよ、お馬鹿さん!」バビラがいらだたしげにいった。吐き気がおさまらないので、ヤルダの不器用ささえ気に障るのだろう。だが、それは真っ当な助言だった。ヤルダは体のむきを制御できないが、まだ四本の手をいっせいにある点まで持っていって、ロープをつかむことはできた。そこから、ロープ伝いに手をすべらせ、もっとつかみ心地のいい間隔にした。部屋の反対側に目をやり、フリドのテクニックを研究してから──彼はいちどに一本以上の手を決してロープから離さない──ヤルダはおずおずと体を引っぱるようにして進みはじめた。
最初はうまくいった。やがて垂直の感覚が裏返って、水平のロープからぶら下がっているという心地いい錯覚は、その上にとどまっているという、同じくらい偽りの確信に置き換わった。危なっかしくバランスを取っており、いまにもひっくり返るのはまちがいないという感覚に。目を閉じて、代わりにのぼっていく 自分の姿を思い浮かべる。垂直のロープをよじのぼっているところを。目をあけて、ふたたび動きはじめると、自分で選んだ錯覚が消えずに残った。ロープ伝いに体を引きずるとき、体にかかる小さな力は、その考えを補強してくれる方向をむいていた。
しばらく練習すると、ヤルダはかなり上達したが、ロープに頼りきるのは考えものだった。ロープの一本が切れたら、かんたんに張りかえるわけにはいかないだろう。なにはともあれ、こういう室 で動きまわれるようにしておくため、壁に必要な把手の数を低く見積もりすぎていたことは、いまや歴然としていた。もし新しいロープをちゃんと張ることが大仕事なら、どんな種類の建設作業も不可能だろう。
フリドは航法士の持ち場を離れ、出入口をすり抜けて、隣の機械工たちのようすを見にいった。バビラはみじめな表情でベンチにすわったままだった。ヤルダはそちらに近づいた。
「ロープを試して」とヤルダ。「そばにいるから」
「無理です」バビラがきっぱりといった。
「絶対に怪我はしないわ。落ちるわけがないんだから」
「にっちもさっちもいかなくなったらどうするんです?」バビラがいい返した。「空中を漂流したら?」
それはまったく馬鹿げた反論ではなかった。その室はじゅうぶんに天井が高く、しっかりした物に手が届かなくなるということは、ほんとうにありうる──じっさいにつかめる物についてはいうまでもなく。
「たとえ偶然ロープを放しても」ヤルダは指摘した。「あっという間に漂流することはないわ。ロープをつかみ直す時間はかならずある。それにわたしが前にいるから、絶対にだいじょうぶ」
バビラは不服そうだったが、片手を上に伸ばし、かたわらのロープをつかむと、腰の安全ベルトを外し、無用の長物となった足を作りかえ、体を丸めて、四カ所でロープを握れるようにした。
「これでみんな動物ね」バビラは絶望に沈む声でいった。「樹精になった気分」
「それがそんなに悪いことかしら?」ヤルダには疑問だった。「わたしたちは、やることなすこと学びなおさなければいけない。でも、似たようなことを前に森でやったことがあるなら、それが役に立つかもしれない」
「それはどこの無重力の森の話ですか?」バビラは驚くほどの速さで、ロープ伝いに進みはじめた。
ヤルダはあわててバビラから後退し、「過去にはなかったわ」といった。「もっとも、樹精がいまどう対処しているか調べると面白いかもしれない。すべての動物から、なにか学べることがあるはず」
「自分たちの身になにが起きたのかもわからないでしょうね」バビラは陰気に予言した。「わたしたちよりはるかにひどい結果に終わるかも」
「かもしれない」
乗り気ではないことをいっていたものの、バビラはきわめて敏捷だと判明した。ヤルダのにらんだところでは、バビラの悲観論の大部分は吐き気がいわせているにすぎず、両方ともじきに消え失せそうだった。
「わたしの一部は、これは一時的だと考えつづけている」部屋の中央付近でロープにしがみつきながら、ヤルダは認めた。ヤルダにとって、室はいま横倒しになった円盤形の空間のように思えた。「まるでなにか賢明で新しいエンジンの使いかたを試しているだけで、飽きたら、いつでもあっさりやめられるかのように」
「いいたいことはわかります」とバビラ。「故郷では当たり前の状況を維持するには、山をひとつ燃やす必要がある……そして、故郷では一停隔 か二停隔 以上はありえなかった状況が、いまは自然な状態になっているなんて」ぶるっと身震いして、「これからここで生きて死ぬ人々は、みんなずっとこんな気分なんですよ。まるで永遠に落下しているような気分」
ヤルダは止まったエンジンの静寂に耳をすました。とうとうそのときが来たら、天にものぼる心地で歓迎するだろうとずっと思っていた。ところが、その不在に慣れるにはしばらくかかりそうだった。
「人々は落下しているような気分にはならないわ」ヤルダはいった。「その気分を、ふつうだと思うようになるでしょう。それと同じ気分がかつて〝落下〟と呼ばれていたものだと教えてくれるのは、古い本だけになるのよ」
エンジン停止の翌日、フリドとバビラと一団の機械工たちが山のぼりに出発した。山頂近くで一行を待っている新しい仕事がある。ヤルダは航法士の持ち場にとどまり、あとから行くと約束した。だれも理由を説明しろとは迫らなかった。
独房のドアをあけると、土埃が濛 々 とこぼれだし、苔の明かりを浴びて赤く染まった。ここの床の土は、庭園で使われているのと同じ種類のネットで覆われていたが、土を固めるのを助ける植物の根がないので、ほとんどがネットにおさまっていなかった。
ニノは独房の奥でネットにしがみついていた。紐で縛られた紙束が、いくつもの糞便の塊や、半ダースの長虫の死骸とともにニノの周囲に漂っていた。
「そこから出てきなさい」ヤルダは自分の声に怒りを聞きとった。まるでこのゴミ溜めに住んでいるのが、ニノのせいであるかのように。もっと早くようすを見に来るべきだったのだ。
「そのへんにだれかいるのか?」ニノは尋ねた。
「いいえ」
ニノはネットを使って床を這ってきた。出入口で一瞬混乱してためらう。と、ヤルダが後退し、出入口の脇の壁に固定されているロープの上でニノのために場所を空けた。ニノはロープをつかみ、そちらにむかって体を引きあげてから、後ろに手を伸ばして、ドアを勢いよく閉めた。これ以上の土埃が漏れだすのを止めるためだ。
ニノは航法士のベッドに目をやった。タール塗りの布にすっぽりと覆われている。「ああいうことをしたに違いないと思っていたよ。なんでもかんでもこぼれだすわけじゃないから、使いやすいんだろう?」
「かならずしもそうじゃないわ」ヤルダは正直にいった。「ある種の樹脂を砂に加えはじめなければいけなくなりそうなの」
ニノはいった。「おれの問題は、土埃を通すと読みにくいってことだけだ。あのタール塗りの布を二枚分けてもらえれば──」
「もうあんな目には遭わせないわ」ヤルダは独房のほうをそっけなく身振りで示し、「ちゃんとしたベッドで寝られるようにしてあげる、上の階で」
ニノはためらった。彼が振動膜のまわりの筋肉を伸ばすようすにヤルダは見覚えがあった。こういうときは、なにかをいいあらわすもっとも如才ない方法を必死に探しているのだ。「ありがたいお言葉だが」ニノがいった。「すでにあるものを固定できるなら、そのほうがいい」
「ここにはだれも残らない」ヤルダはいった。「直交しているいま、緊急事態を除けば、わたしたちが生きているうちにエンジンは二度と噴射しないのよ」
「なるほど」ニノが答えた。「常勤の航法士はいなくなり、あんたたちはやるべき仕事がよそにあるというわけか。でも、おれは残るほうがいい」
「移動が心配なの?」ヤルダは尋ねた。この前の移送はもっとうまく進めることができたはずだ。「機械工を何人かつけて、道中の護衛をさせるわ。護衛の一団がついていれば、だれもあなたが勝手にふるまったとは非難できないでしょう」
「そもそも、おれが上にいることを受けいれる者がいないだろう」ニノがいった。「ましてや、あんたがおれの独房へやって来る光景を受けいれる者は──」
ヤルダはいらだたしげにその言葉をさえぎった。「それが問題だと思うなら、あなたの独房をわたしの個室の内部に設けるわ。それなら、わたしがどれほどの頻度であなたを訪ねるか、だれも知る必要がない」
ニノはなにがおかしいのかブンブン音を立て、「そんなことをしたら、ふたりとも一旬 以内に死んでいるね」
「そんなことにはならないわ」
「そうかい? じゃああんたは、人々になにができるか知らないわけだ」
ヤルダはいまや腹を立てていた。「なめた口はきかないで。わたしだって牢獄にいたことがあるの、お忘れなく」
ニノがいった。「あんたは甘やかされた若造の手でしばらくひどい目に遭わされた。そいつは、ほかのだれかさんを傷つけることのほうに関心があった。だれもが敵である世界で生きようとすることと、それは同じじゃない」
「そして、その同じ甘やかされた若造のためにあなたがした愚かな真似は」ヤルダはいい返した。「〈孤絶〉の上の人生を左右する肝心かなめのものじゃない。人々には考えるべきもっと大事なことがある」ヤルダはロープから手を離し、一瞬宙に漂った。「こういう状態でパンをどう作ればいいか知っている? ランプをどう直せばいいかを? 作物の種をどう蒔けばいいかを?」
「それなら、しばらくはだれもが無重力で頭がいっぱいだろう」ニノは認めた。「だからといって、調子に乗っていいわけじゃない。おれをここに放っておいて、人々におれのことを忘れさせろ。でなければ、連中がおれのことを少しでも考えたとしても、できるだけ遠くに追放されたんだと満足させてやれ。追放されて、見捨てられたと」
ヤルダはこれを受けいれるわけにはいかなかった。「見捨てられて飢えるの? 見捨てられて正気を失うの?」
ニノがいった。「苔は食べられる。ほんとうに試したことがないのか? でも、おれを助けたいなら……信頼できる者を選んで──行動が注意を引かない者を選んで──二旬 ごとに少しのパンと本を持たせて、ここへ送りこんでくれ。ときどき新しいものを読めれば、正気を失わずにすむだろう。それに、まだ別の英雄譚 の原稿に取りくめる」
「あなたをここでひとりきりにしたら」ヤルダはいった。「だれかが下りてきて、あなたを殺そうとするのをどうやって止めるの? あなたを山頂へ連れていって、わたしの保護下にあることをはっきりさせたら、人々が怒り狂って、わたしに背くのが心配なんでしょう……でも、まったく保護を受けずに、どれだけ命が保つと思うの?」
ニノはこのことを真剣に考えた。「もしじゅうぶんな数の施錠したドアが途中にあれば、役に立つかもしれん。もしおれが脱獄してのけてもそれなら安全だ、とおれをここへ置いておく口実に使えるだろう。おれが開かずの間の地下牢で生き埋めになっていると思えば喜ぶ連中もいるだろう──おれが死ぬまでは満足しない連中も、少しは手出しをしにくくなるだろうし」
ヤルダはいった。「集会を招集して、あなたがあんなことをしたのがなぜなのかを全員に説明すれば、監禁だけでも罰になると認めてもらえるはずよ。そして、伝統に従おうとしないわたしを軽蔑するのではなく、もっと敬意を払ってくれるはず。〈孤絶〉は変化をもたらすために存在する。ここにいる出奔者たちは、最後のひとりまでこう叫ぶ用意ができているはず。古いやりかたなんか八分裂しちまえ ってね。もし本気で古いルールに従って生きたいのなら、それに支配されたままの世界にとどまっていればよかったんだから」
ニノは返事に時間をかけた。またしても如才ない言葉を探していたのだ。「勇敢な演説だ、ヤルダ」ニノがいった。「おれ自身はケチをつけられん。でも、乗員全員にむかってそれをいう前に……はじめは決定に反対していたが、その演説で味方につけた者の名前をひとりでもあげてもらえるかな?」
「ヤルダ! 忙しいですか? お願いです、見にきてください!」
イシドラがヤルダのオフィスの外で大声をあげていた。興奮のあまり、部屋に体を入れる時間も惜しいのだろう。ヤルダは振動する輝素のエネルギー論に関する長い計算の途中だったが、一瞬後にはノートを容器にすべりこませて、掛け金をかけた。イシドラの熱狂ぶりはときにわずらわしいが、光学作業場がこれほど早くまた機能しているのは、彼女の努力の賜物だった。もしまた新たな装置を重力なしで使えるようにしたという興奮をイシドラが分かちあいたいというなら、拒んでは無礼というものだろう。
ヤルダは平行に張られた二本のロープを四本の手で伝っていくことで部屋を横断して、出入口を抜けた。書類に使っていた一対の余分な手はそのままにしておく。焦点つまみをいじったり、プリズムの角度を調整したりしなければいけなくなりそうだからだ。
ヤルダとイシドラの距離が半通離 まで縮まらないうちに、イシドラは早くも作業場にむかって通廊をあと戻りしていた。
「どんな大手柄を立てたの?」ヤルダがその後ろ姿に声をかける。
「自分の目で見てもらわないと!」イシドラが答えた。
光学作業場の壁はどこにでも生えている明かり苔がない状態にされていたので、その部屋の濃い影と抑制のきいたランプの明かりはズーグマ大学にある分身を不気味なほど彷彿とさせた──人々と機材があまりにも雑然と詰めこまれた様は、昔懐かしい幻覚へ迷いこんでいるというヤルダの感覚を強めただけだった。イシドラは片隅で待っており、そこでは若い研究者のサビノが、かつての床と天井とのあいだに走る二本の木製の棒 にしがみつきながら、顕微鏡の一台を操作していた。
顕微鏡は何日も前からふたたび使用可能になっていた。ヤルダは好奇心をそそられて近づいた。
「新しい進展はなに?」ヤルダは尋ねた。透明石のスライドが二枚、触れるか触れないかの間隔で顕微鏡の焦点に置かれていた。中身がなんであれ──意外ではないが──肉眼では見分けられないほど小さかったが、ヤルダがはじめて見るレバーとつまみからなる複雑精緻なメカニズムに取りつけられていた。ほっそりした棒 が両者の隙間に届いている。試料を照らしている小さな太陽石のランプの正面に薄い板があり、ヤルダの見たところ、その材質は偏光フィルターだった。
サビノがいった。「どうか、自分の目で見てください」彼はヤルダに気後れしていたが、とにかくイシドラに負けず劣らず興奮しているのはわかった。
サビノが脇へのき、ヤルダに顕微鏡の前のバーを譲った。ふたりが場所を入れかわったとき、力が移動して、がっしりした木さえわずかに震えた。ヤルダは震動がおさまるまで待ち、それから接眼鏡を覗きこんだ。
視野には半透明の灰色の微小片がひしめいていた。その大部分は大ざっぱな球形をしていたが、輪郭はギザギザだ。形を別にすれば、目立った特徴はなく、はっきり区別できる部分も細かな構造もない。すべての微小片に焦点が合っているわけではない。素材に触れて、しかるべき位置にとどめておくほどには、スライドはきつく押しあわされてはいなかった。しかし、顕微鏡の焦点面は、ある特定の微小片を捉えるように調整されていた。この微小片は固定されていた 。不透明なため漆黒に見えている小さな測径器 にはさまれている。ほかの微小片は、拘束されていないものの、ほとんど震動しておらず、スライドとスライドとのあいだの空気がほぼ静止していることを示していた。
「わたしはなにを見ているの?」ヤルダは尋ねた。
「粉末にした安定石です」サビノが答えた。
「偏光のもとで?」
「ええ」
ひとつまみの細かな砂──安定石か、ほかのなにかを磨りつぶしたもの──は、ふつうはこんな風には見えないだろう。一般に粒は偏光を浴びればまだらになる。非常に異なる色調の灰色でできた半ダースの領域からなっているからだ。これはどこまでも均一だ。
「そうすると粉末を選りわけたの?」ヤルダはサビノに尋ねた。「見つけられるうちでいちばん純粋な粒を選びだしたの?」
「はい。こういうのは、十グロスのうちひとつかもしれません」
「十グロスのうち ひとつですって? 寝る間も惜しんだのね」
航法士の持ち場からあがってきたあと、ヤルダにはサビノのプロジェクトについて知る時間がなかった。しかし、サビノが寸暇を惜しんだ理由は察しがついた。もし安定石のような固体が、規則正しく並んだ個別の粒子──たとえばネレオが推定した輝素──から構成されているのなら、その特性を研究する最良の方法は、できるだけ幾何学的に完全に近いかたちで並んだ問題の物質を入手することになるだろう。規則正しいパターンを維持する粒子の配列は、なにからなにまで同じ光学的特性を備えているはずだ。偏光のもとでふつうはまだらに見える砂はそれに当てはまらないが、たまたまの例外はつねにある。サビノはこの例外を見つけだし、ほかのすべてを捨てたのだ。
「つまみを動かしてみてください」とサビノ。「右側の上のやつを」
接眼鏡から目を離さずに、ヤルダは胸から発芽させたひと組の右手のほうを伸ばし、つまみを探りあてた。指先で縁をなぞり、ごくわずかに押してまわす。それに応えてスライドどうしのあいだのカリパスがズレて、ちっぽけな荷物を数分の一微離 引きずった。
「わたしはなにを見逃しているの?」ヤルダは尋ねた。砂粒ひとつをぐるっとまわせるという事実で自分を感心させられる、と思う人がいるとは思えない。
「カリパスだけを見ないで」イシドラが促した。「そのまわりで起きていることをよく見てください」
ヤルダはもういちどつまみをそっとまわした。なにかが目を捉えたが、細かく調べようとするのをやめたとたん、注意を引かなくなった。
もう少しだけつまみを動かす。と、まったく見たことのない予想外のことがまた起きはじめて、ヤルダはつまみを小刻みに前後させはじめた。カリパスを小刻みに動かし、それがかかえている安定石の微片を小刻みに動かす。
そうしているうちに、そのかたわらにある第二の微片がまったく同じ動きをした。ふたつのあいだには光が見えていた。つまり、触れあってはいないのだ。しかし、カリパスに捕捉された粒になにをしても、その模倣者は従った。まるで単一の固体のふたつの部分であるかのように。
「ネレオの力ね」ヤルダは小声でいった。「これがそうなの? じっさいに見られるものなの?」
イシドラは歓声をあげた。それを修辞疑問と受けとったのだ。サビノはもっと慎重だった。「それであればいいと思います」サビノがいった。「それ以上の説明は考えつきません」
ネレオの方程式によれば、あらゆる輝素はより低い位置エネルギーの溝に囲まれているはずであり、付近にあるほかの輝素はその溝の中に滞在しようとする。あるひとつの輝素にとって、その溝は一連の同心円状球殻にすぎないが、無数の粒子に作用する同じ効果は、それらを結びあわせて規則正しい配列にすることができる──その場合、エネルギー地形におけるギザギザのパターンは、配列そのものをはみ出して延長し、似たような組成の物質の別の断片が、その中に誘いこまれる機会を提供するだろう。要するに、じゅうぶんに純粋な岩石の微小片は、別の同じような微小片に〝くっつく〟ことができるのだ。じっさいにはふたつが触れあっていなくても。
「前にこれを試したの、エンジンが動いているときに?」ヤルダはサビノに尋ねた。
「旬 に次ぐ旬 、やってみました」サビノが答えた。「しかし、重力と摩擦がその効果を打ち消したに違いありません。なぜなら、こういうものはいちども見なかったからです」
つまり、故郷のだれにも見られないということだ。その実験が現実のものとなるのは、無重力という条件のもとでだけなのだ。
ヤルダは後視線でサビノを見つめていた。いまヤルダは顕微鏡から身を反らし、サビノのほうにむき直って、「これはすばらしい業績よ!」と断言した。「次の数日のうちのいつか、すべての研究者にこの件で話をしてもらいたいわ。理論面でやったものはある?」
サビノは顕微鏡のそばの容器から一枚の紙を取りだし、「いままでのところ、これだけです」といった。
「これは、六角形に並んだ輝素のまわりのエネルギー溝です」サビノは説明した。「このプロジェクトについて最初に考えていたころ、地上で描きました。計算に約四旬 かかりましたよ」
「かかっても不思議はないわね」ヤルダは答えた。それは固体の縁からはみ出しても持続できるパターンの好例だった──そしてこのエネルギー縦穴に捕らわれる第二の配列を容易に思い描くことができた。ちょうど別の車の轍 にはまりこむトラックのように。ヤルダはいった。「これよりはるかに大きな配列から生じる力を評価し、さらに三次元幾何学全体を計算に入れる方法を見つけないといけないわね。でも、さしあたりそれは心配しないで。この実験手順をさらに精密にすることに集中してちょうだい」
「わかりました」サビノはいまだに少し呆然としていた。ヤルダはできるだけサビノを浮かれないようにさせておこうとしていたものの、彼が自分の発見の重要さを理解しそこなうわけがなかった。もしこの実験が再現でき、精密にできるなら、物質の性質 が体系的な問いかけの問題になることが約束されるのだ──石と煙との違いに、〝固体は空間を占める〟という空虚な呪文よりもマシな説明がない時代は終わりを告げる。ネレオは道をひらいたが、いままで彼の美しい数学は、すべて試されていない推測のままだった。サビノとネレオは、惑星の軌道にすじを通したヴィットリオと並び称されるようになるだろう──しかし若い研究者には、絶賛を浴びせまくり、不滅の名声を約束して圧倒しないのがいちばんだ、とヤルダは思った。サビノがいましなければならないのは、その研究をさらに追求することだ。
三人は次の段階に関するいくつかの可能性について話しあった。安定石のひと粒を別の粒から引き離すのに働かせなければならない力を計測するだけでも、ひとつのゴールとなるのは明白だ。しかし、好ましい配向にある状態から回転させ配向を変える のに必要なトルクも、その背後にある幾何学について情報をあたえてくれるかもしれない。
議論の場を食堂に移すと、話題はほかの鉱物に関する疑問に変わった。すべてが同じ種類の輝素からなっていて、並びかたが違うのだろうか? 硬石と透明石、安定石と炎石との違いをすべて、幾何学だけで説明できるのだろうか? ヤルダたちがこれまでに思い描いた実験は、出発点にすぎないだろう。サビノがはじめた追求は一世代にわたり続く──ヤルダにはそれがわかった。
しかし、とうとう体を引きずって、自分の個室へ眠りにいったとき、ヤルダはこう思った。(それこそが美点だ──焦らないでもいいことが)故郷での時間は静止してしまった。そして〈孤絶〉にぶつかる疾走星は、いまや滅多に跡を残さない。山の資源は永久には続かないだろう──そして従来の方法で燃やしていては、帰郷するだけの太陽石がなくなることは確実だ──しかし、太陽石の板がじっさいにはなんである のかわからない状態に、ようやくかすかなひびが入ったのだ。
ヤルダはベッドにもぐりこみ、タール塗りの布の下で体が覆われるまで、身をくねらせて樹脂でネバネバする砂を動かした。自分たちが正しい針路をたどっているのだと、前にも増して期待に胸を膨らませながら。
ファティマがヤルダのオフィスの外に姿をあらわした。使いにいって帰ってきたばかりなのだ。ヤルダはファティマを招きいれてから、静かな声で尋ねた。「ニノのようすは?」
「それほど悪くは見えませんでした」ファティマが答えた。「本をありがとうと、あなたに感謝していました」
ヤルダはバツの悪い思いをした。「感謝されるべきはあなたよ」
「あの人に物を持っていくのは苦になりません」とファティマ。「あの階段を延々とのぼっていたら大変だったでしょうけれど、いまはほかのどこへ行くのとも大して違いません」
この旅でファティマを危険にさらしているとは、ヤルダは思わなかった──ファティマは指示に従っただけで、責められることはないだろう──しかし、ニノを訪問するただひとりの者であることが少女にあたえる影響は、心配だった。
「動揺しないの、あんな風に彼と会って?」
「あの人を解放したほうがいいと思います」ファティマが率直にいった。「もうじゅうぶん罰を受けました。でも、まだ釈放できないのはわかります。あの人はあたしに親切でした、ふたりともまだ応募者だったころに。ですから、あそこへ行って、あの人を元気づけるのは楽しいんです」
「わかったわ」これはニノが望んだ人選であり、いまのところヤルダには、それよりマシな案はなかった。「つらくなりはじめたら、わたしにいうと約束だけして」
「そうします」まるで出発するかのように、ファティマはひらりとロープに戻ったが、そこで自分を抑えて、「ああ、戻る途中で森のようすも見てきました」
ファティマにそうするよう頼んだことを、ヤルダは忘れかけていた。〈孤絶〉のちっぽけな未開地を監視する役目にはだれも公式に任命されてないが、農民たちが無重力の攻撃にまだ慣れようとしているうちは、農民たちのだれかにその仕事をまわしたくなかったのだ。「ようすはどうだった?」
「畑や庭園より埃っぽくありません」とファティマ。「空中には小枝や花びらや長虫の死骸がたくさんあります。でも、それより大きなものはありません──木は根こそぎになっていないし、天井でじたばたしている樹精も見ませんでした」
「それはひと安心ね」
「そうはいっても、小麦はそこであまりうまく育っていないみたいです」ファティマはつけ加えた。
「小麦って?」
「空き地のひとつに小麦の区画があるんです」ファティマは説明した。「茎が丸ごとそこへ移されたみたいに見えます──そこの区画で育ったんじゃなくて、畑から掘りだされて、植えなおされたみたいに。でも、あたしがいたとき、花はひとつもひらいていませんでした」
「なるほど」ヤルダはとまどった。その実験をおこなったのがだれであれ、ヤルダにはその話をしていない。
物理学の授業に出られるようファティマを送りだすと、ヤルダは主任農学者のラヴィニオを探しにいった。ラヴィニオのオフィスの入口にメモがあり、あと二旬 は畑にいるとのことだった。ヤルダは辛抱しろと自分にいい聞かせようとした。〈孤絶〉上での科学的活動をひとつ残らず知らせてもらえるとは思っていないし、些細な実験について問いただす以外の理由もなしに、いつもの視察から遠く離れて自分が姿をあらわせば、ラヴィニオの恨みを買うかもしれない。
だが、どれくらい些細なのだろう? 農民たちは無重力での収穫という事業計画に取りくむため多忙をきわめているので、隣に生えている植物の生長速度に関する漠然とした推測を試すためだけに、森へ行って小麦を植えるわけがない。重要でないかぎりは、だれもこんなことをしないだろう。
二旬 は待てない。
無重力のおかげで、階段吹き抜けは、果てしない苦行の場から山でいちばん円滑に移動できる通路になっていた。ほかにはだれも視界におらず、一対のロープをひとり占めにしたヤルダは、高速の進みかたに切りかえた。四本の手肢をいっせいに動かして体を前へ進めてから、ロープを放し、できるだけ長く弾道を描いて飛んだあと、必要などれかの手でロープにふたたび軽く触れて、横へのズレを修正したり、弾みをつけて速さを増したりする。苔に照らされた壁が飛びすぎていく一方で、螺旋状の溝──そのギザギザの段は、目まいを起こして墜落したら、確実に頭をかち割って終わりだと宣言している──の恐ろしげな縁に囲まれていると、自分が体を制御できているという勝利感がひたすら増した。ひとたび山の高さがある階段から身を投げて生き延びれば、なんでもできるように思えるものだ。
森の階層に到達するまで、一時 隔 とかからなかったように感じられた。階段吹き抜けから連絡トンネルへ移動したとき、ヤルダの心は、途中にある樹精を防ぐドアのすべてをハッチとして扱おうとしつづけた。そして室へ入りこんだときには、床を抜けてのぼってきたという気分が強かった。〝頭上〟にそびえている木々が、ヤルダに垂直の感覚を取りもどさせようと必死の説得を試みたが、その周囲にふわふわと浮かぶ岩屑が、その努力を台無しにしていた。
この室の改装はおざなりだった。対になっていない数本のガイドロープが、壁のフックのあいだに張り渡されているだけなので、ヤルダは岩石を押して飛びだし、空中を漂って森本体に入らなければならなかった。もっとも、ひとたび木々に囲まれると、枝が手掛かりをふんだんに提供してくれたが。ちっぽけな黒っぽいダニが、あふれるばかりのエネルギーで脇を通りすぎていった。目にもとまらぬ速さで行き来している。緑の斑模様のトカゲが、あわててヤルダに道を譲った。その鉤爪 は、いまも木の皮に足掛かりをかんたんに見つけられるのだ。本能が古く、変わることがなくても、この動物たちは変化に負けていなかった。
ファティマがいっていた空き地が見つかった──そしてラヴィニオがそこにいた。ラヴィニオは木の生えていない小さな空間にロープを縦横に張りめぐらせて、瀕死の小麦に到達しやすくしていた。いまになってはじめて、ヤルダはネットを被せられた土が下 にあると感じた。ヤルダは空飛ぶスパイだった。祖父ダリオの物語に出てきた樹精のように、林冠越しに忍びこもうとしているのだ。ヤルダはできるだけ枝を盛大にきしませて、こそこそした感じをあたえないようにしながら下りていった。
ラヴィニオは近づいてくるヤルダを無言で見守った。ヤルダがここにいることに、さほど驚いていないようだ。まるで、ひどい悪運の流れに前から直面していて、その最中に歓迎せざる訪問者がやって来るのは予想の範囲内だったかのように。
「これがなんのためか、教えてもらえるかしら?」幹から下りてロープの一本をつかみながら、ヤルダは尋ねた。
「小麦が木々から学ぶかもしれないと期待していました」とラヴィニオ。
「なにを学ぶの?」
「上を」
ヤルダは体を引いて近寄った。森床が自分に対してふたたび垂直になって、ヤルダはまごついた。洞穴の壁からは周囲の幹が木の芽のように生えだして、巨大な針山を思わせる。小麦の茎は木々と一直線に並んでいる ──だがそれは、そのように植えられたからだろう。ならば、なにを学ぶというのか?
「どういうことかしら」ヤルダはいった。「畑にまずいことが起きているの?」元気のない小麦の花を身振りで示す。
「それとは別のことです」ラヴィニオが答えた。「ここだと、花はいつひらけばいいかわかりません。光の中のなにかに混乱するんです。でも、あっちの畑では、生長しきった植物は依然として健康です」
「それは朗報ね。で、種子は?」
ラヴィニオは茎と茎とのあいだの土に手をさし入れ、しばらく搔きまわしてから、種子をひとつ引っぱりだした。別の実験で、そこへ手で植えられたに違いない。周囲の病んだ小麦にそれを生みだせたはずがないし、地中に埋めこむ手段を持つのはなおさら無理だ。
ヤルダはラヴィニオから種子を受けとり、注意深くためつすがめつした。それは何ダースもの細い白色の小根に覆われており、その小根は皮を突き破って、四方八方へ均等に伸びていた。もっとも、苗 条 は生えておらず、茎のはじまりもなかった。その種子はどちらへ生長すればいいのかわからないのだ。
「光と空気が茎のできるきっかけだと思っていた」ヤルダはいった。
「わたしもそう教わりました。それは定説でした。決して疑問をいだきませんでした」ラヴィニオは種子を取りもどし、指にはさんでまわした。「でも、どんなに浅く植えても……やはり上 を見つけられないようです。たとえ種子の半分をさらけ出しておいても──光と空気に直にさらしても──メッセージを受けとりません」
ヤルダはいった。「それで畑に蒔いたテスト用の種子が育とうとしないので、森のほうが強いメッセージを発しているかを調べにきたというわけ?」
「そんなところです」とラヴィニオ。「ここの植物をすべて同じ方向にむければ、なんらかの影響が木々から小麦へ伝わるかもしれないと期待していた。でも、生長しきった小麦はここでは枯れただけだし、種子のふるまいは畑とまったく変わりません」
ヤルダはなんとか落ちつきを保った。畑の生長しきった植物はいまだに健康だから、来たるべき収穫に影響はない。飢餓が差し迫っているわけではないのだ。しかし、近いうちにこれを解決しなければならない。さもなければ、その後の収穫はないだろう。
「薬草園のようすはどう?」ヤルダは尋ねた。
「あそこの灌木はすべて種子ではなく、匍 匐 枝 から育ちます」ラヴィニオが答えた。「中には奇妙な角度で芽を出すものもありますが、園丁たちがいったん手で直してやれば、立派に育ちます」
「それはよかった」
ラヴィニオはしぶしぶ同意する音を立てた。すべてが災厄に見舞われているわけではない。だが、ホリンと鎮痛剤を糧にして生きていくのは不可能だ。
ヤルダはいった。「この件をもっと早く、わたしのところへ持ちこんでくれたらよかったのに」問題を自分自身で処理して、自分の専門技能を証明したいというラヴィニオの気持ちは理解できる。だが、そこに賭けられているものがあまりにも多かった。
「解決法を見つけるのが先決だ、とフリドは考えたんです」ラヴィニオが説明した。「必要がないときに、パニックを広める代わりに」
ヤルダはこの明かされた事実をじっくり考えた。(フリドは小麦のことを知っていて、わたしから隠していた?)ラヴィニオは、作物に責任を負うのは自分ひとりだと感じても不思議はない。だが、フリドにはどんないい分があるというのか?
「パニックを広げることに興味はないわ」ヤルダはいった。「でも、できるだけ多くの人々にこの件を考えてもらわないと」
「望める実験は、すでに片っぱしからはじめました」ラヴィニオが語気を強めた。「要素のあらゆる組み合わせを見ています。光、土壌、空気、隣接する植物……ほかにテストするなにが残っているんです?」
「で、なにひとつうまくいっているようすはないのね?」
「これまでのところは」ラヴィニオは認めた。
「それなら、なにが必要かは、ふたりともわかっているということね」とヤルダ。「小麦はいままで申し分なかった──そしてただひとつのことが変わった」
ラヴィニオはおかしくもないのにブンブン音を立てた。「それなら、これからどうするんです? またエンジンに点火するんですか、次の作物がしっかりと育つまで? そしてその次、その次と?」
「まさか。そんなことをしたら一世代 以内に太陽石を使い切って、その数年後には飢えて死ぬだけよ」
「それなら、なにを?」ラヴィニオが答えを迫った。「もし重力だけが小麦を生長させるなら──?」
ヤルダは片手をあげて、一本の指をくるくるまわした。「回転 も重力を生みだすわ。種子を回転する機械に入れてやればいい──遠心機に──発芽するまで」
ラヴィニオはこれについて考えをめぐらせ、「一案ですね」といった。「でも、発芽がじゅうぶんでなかったらどうします? 植物の生長軸がしっかりするまで、重力下で半シーズンかかるとしたらどうします?」
ヤルダは答えるのを渋った。乗員たちはいまだに、この前の変化に適応しようと苦労している。個室という個室、作業場という作業場、通廊という通廊を改装し、日課という日課を学びなおしているのだ。その努力がすべて見当違いであり、自分たちの達成したいっさいが障害になろうとしていると宣告したら、どれほどの不満をいだかせるだろう?
とはいえ、小麦がなければ生き延びられない。そして痛みが伴わない治療はありえない。最悪の事態に備える必要がある。
ヤルダはいった。「発芽がじゅうぶんでなかったら、山全体を回転させなければならないわね」
予定時間をとうにすぎたあとも、議場はゆっくりと埋まりつづけた。しかし、全員が到着するまで、開始するつもりはヤルダにはなかった。人々は山の隅々からやってきており、その多くは、無重力下ではいちども試みたことのない旅をしているのだ。
ヤルダは入口のそばから離れず、人々に挨拶したり、来た人たちの名前をリストから消したりしていた。フリドがその仕事を代わろうと申しでたが、どんなに短かろうと、乗員の全員とまた顔を合わせることになるこの機会を最大限に活用するのだ、とヤルダはいって譲らなかった。
いまフリドは最前列で待っていた。バビラや、半ダースの古参給剤機室機械工と並んでロープにしがみついている。ヤルダはフリドと対峙し、彼の不実なおこないをなじる気にはなれなかった。フリドが小麦の問題を自分ひとりの胸におさめていたのは、自分の立場を強くする手段としてではなかったか、とヤルダは疑っていた。全員を飢餓から救う単純な生物学的救済策を宣言することで、乗員たちのヒーローになるつもりだったのではないか、と──じっさいにはラヴィニオの功績だが、それでもフリドの庇護のもとで編みだされ、ヤルダが顧みなかった救済策だ。それをいうなら、回転による解決法を自分の発案だと主張する準備もしていたに違いない。じっさい、この山を宇宙空間に送りだすことについて、はじめて本物の計画が練られたとき、フリドが〈孤絶〉を回転させる可能性を論じたグループの一員だったことをヤルダは思いだした。そのグループが達した合意は、そんなことをしたら航法と針路の修正があまりにも複雑になりすぎて、一部の場所でだけ地上と同じ重力があって快適にすごせるという程度の成果を得てもまったく見合わない、というものだった。重力が生きるか死ぬかの問題になるかもしれないという考えは、頭をかすめもしなかった。
半時 隔 後、未到着者のリストは、当然ながらやって来られないひとりの名前だけになった。ヤルダは感謝の言葉を二、三すばやく述べてから、ラヴィニオを紹介し、彼は自分が目にしたものと、試みた実験の説明をした。
「小麦の種子の中に重力を感知するなにかがあるに違いありません」ラヴィニオはしぶしぶ結論を下した。「遠心機に三日入れておけば、種子は発芽するでしょう。しかし、その信号を取り去られると、生長をやめてしまいます。生長しきった作物は、エンジンが切られたとき畑で枯れませんでした。ですから、種苗を遠心機から畑に植えかえてもだいじょうぶになるタイミングが見つかるという望みをいだいて、遠心機内での期間を長くしつづけるつもりです。しかし、そのようなタイミングが存在する保証はありませんし、生長しきらずに終わるかもしれません」
ラヴィニオは脇へさがり、ヤルダが演壇の上に戻った。背後のロープに四本の手でしがみつき、不安げな群衆を見まわしながら、だれかがこの機会を捉えて、破壊工作者に対するヤルダの寛大さを罵倒したらどうなるだろうと思った。しかし、この人々は、飢餓に襲われるリスクがあるのを知ったばかりだ。ニノはとうの昔に打ち負かされて、見えないところで朽ち果てつつある敵にすぎなかった。
「今後一ダース旬 のうちのいつか」ヤルダは切りだした。「もう二、三の遠心機と、農場におけるもっと大きな労働力が、この問題を解決するのに必要なすべてであることが判明するかもしれません 。しかし、それが偽りの希望であることが明らかになれば、〈孤絶〉そのものを回転させることが唯一の選択肢になって、それはひとすじ縄ではいかないでしょう。従って、いますぐそれに備えて仕事をはじめ、次の収穫にまにあうよう精いっぱいのことをしなければなりません──その必要はまったくないと希望していてもです。
〈孤絶〉を水平軸を中心に回転させたくなると思われるかもしれません。畑の重力を従来の方向にできるだけ近づけることを願ってです──しかし、残念ながら、山の重心が低すぎて、それではうまくいかないでしょう。安定性の問題もあります。もし対称軸以外のものを中心にして円錐を回転させようとしたら、ほんのわずかな乱れでも、全体がぐらつきかねません。従って、じっさいには選択の余地はありません。山頂から基部まで走る垂直軸を中心に山を回転させなければならないのです」
ヤルダはフリドにちらっと視線を走らせた。彼をかたわらに立たせ、後ろ盾にするべきではなかったのか? この技術的な主張を認めさせるべきではなかったのか? だれもが遠心力なら理解するが、それでも乗員たちの半分は、もっと細かな点が信用できなければ納得しないだろう。
フリドがどっちつかずの表情でヤルダを見返した。彼がヤルダに背く準備をしてきたことは、ふたりとも承知していた。彼を味方につけようとしても手遅れだ。
「二ダースの小型エンジンを設置しなければなりません」ヤルダは言葉を続けた。「山腹に広げるのです。軸をはさんで反対になるよう二列に並べて。加速に使ったエンジンと比べれば、その装置の推力は非常に穏やかなものになるでしょう。しかしそれでも、その推力がエンジン自体を山から分離させるだけで終わらないように──あるいは、山の表面の一部をいっしょに引き剝がしてしまわないように──エンジンは深い立 坑 の中に設置する必要があります。
つまり、わたしたちを引きつけておく重力のない外で、穴を掘るということです。高体温になるのを避けるため、空気を満たした冷却袋に入って作業するということでもあります。このようなことをやった人は、これまでにだれもいません。そしてどれほど楽観的であろうと、通常の建設作業員に望める以上の仕事をしないと、作物の種蒔きにまにあうよう完成させることはできません。農場で働いていない人は、ひとり残らず手伝わなければなりません。いま建設作業にたずさわっている人たちが計画案を作り、それからほかの人々が作業に加わるための訓練がはじまります。わたし自身が最初の生徒のひとりになります──なぜなら、これより重要なことはないのですから」
「無駄になるかもしれないのに、宇宙空間で何旬 も危険な作業をするんですか?」デルフィナが言葉をはさんだ。彼女は最前列にいた。フリドの数歩離 左側に。「それが農業問題に関するあなたの解決法なんですか?」
「代わりにどうすればいいんでしょう?」ヤルダは尋ねた。
「重力にそれほど依存しない別の食料源を見つけるんです」デルフィナが答えた。「樹精は森でなにを食べて生きているんですか?」
「おもにトカゲです。トカゲはダニを食べて生きており──ダニは木の皮や花びらを餌にしています」
「わたしたちはトカゲの肉に慣れることができます」デルフィナがきっぱりといった。「わたしたちのいとこの食料になるのなら、わたしたちに食べられないわけがありません」
「確かに食べられるでしょう」ヤルダは認めた。「しかし、森全体を費やして、六体ほどの樹精を生かすのがやっとです」
「もっと集約的にトカゲを繁殖できませんか?」
「それは……一考の余地があります」とヤルダ。「けれど、それはまた別のギャンブルになるでしょうし、たとえうまくいったとしても、見返りは手遅れになるでしょう。ひとつだけ確実にわかっていることは、重力のもとでなら小麦を育てられる ということです。いったん〈孤絶〉を回転させれば、新しい畑を準備し、種を蒔くだけでいいのです」
「いったいどこに蒔くんです?」デルフィナが問いつめた。「床が山の軸から遠ざかるように作られている室なんて、どこにあるんですか?」
「回転後の最初の収穫を得るには、即席でやるしかありません」ヤルダは認めた。「以前は壁だった表面に畑を作らなければならないでしょう──理想的な幾何学を持つ新しい部屋を掘りぬく時間はありません」
「では、エンジンを点火する必要が生じたら、どうなるんです? 予想外の障害物を避けるために」デルフィナはこれを楽しんでいた。だれかに入れ知恵されているのだ。
ヤルダはいらだちを見せないように最善を尽くした。「現状では、まず回転を止めなければなりません。しかし、姿勢制御装置とエンジン給剤機を設計しなおして、〈孤絶〉が回転しているあいだも働くようにできない理由は、原則としてありません」
デルフィナはためらった。まるで記憶しておいた反論のリストの終わりにとうとう達してしまったかのように。しかし、難癖はそれで終わりではなかった。
「あいにくですが」とデルフィナ。「納得できません。いろいろと考えあわせると、あなたの計画はリスクをおかす価値があるとは思えません。この目的のためのどの作業チームにも、わたしは加わりません」
ヤルダはいった。「強制はしません。この件に関しては、自由に判断してもらってかまいません」
「そして同じ判断を下すよう、自由に友人たちを説得してもかまわない、といきたいですね」デルフィナが上機嫌でつけ加えた。
「もちろんです」ヤルダはいまやはらわたが煮えくりかえっていた。しかし、態度を変えて、脅迫をはじめるつもりはなかった。山の回転を手伝いなさい 、さもないと 、次の収穫時に食べ物にありつけないわよ 。
脅迫よりはるかにいいのは、とヤルダは判断した。妨害者のこけおどしにひらき直りで応えることだ。
「とはいえ、名簿の作成をはじめる必要があります」ヤルダはいった。「なので、いまこの場で人数をはっきりさせておきたいと思います。この計画の実現のために働くつもりでいる人はどれくらいいますか──農場でも、外の斜面でもけっこうです。その意志がある人は、手をあげてください」
乗員たちのおよそ三分の一が即座に挙手をした。長い苦痛に満ちた瞬間、それが手に入る熱烈な支持の表明のすべてであるかのように、ヤルダには見えた。だが、やがてその数が増えはじめた。
最終的には、デルフィナにつくのを選んだのは二ダースほどの人々だけだった。その大半は給剤機室で働いていた面々で、ニノに関するメッセージを送ってきた連中だった。破壊工作者の死を望む人がもっといるのは疑いの余地がない。しかし、その人たちはまったく別のことに対する怒りを表明するためだけに、作物を危険にさらす──それどころか、作物を危険にさらそうとするところを見られる危険をおかす──つもりはないのだ。
フリドは反対にまわらなかった。いつかの時点で周囲の人数を数え、手をあげることに決めていた。