ヤルダにわかるかぎり、生き物が自分の体から発する光を知覚する能力を持てない根本的な理由はない──だが、生命が発生する通常の条件下での運動とエントロピーに関していえば、そのような能力は無用の長物だろう。樹精の祖先がある種の感覚器官を備え、何累代イーオン も前もって直交星群を見られるようになったとしても、五瞬隔フリツカー 未来にトカゲがどちらへ跳躍するかを知る役には立たないのだ。

 知る価値のある事柄、備える価値のある技能は、変化する。〈孤絶〉は、自らがあとにしてきた世界にとって時間稼ぎになるが、その手段が功を奏するのはこの一回きりだ。搭乗者たちは自分たち自身の問題を第二グループの搭乗者たちに下請けに出すわけにはいかない。自分たちを形作った来歴に対して直交する状態で生き延びるために、どんな能力が必要であるにせよ、たったの一年半で習熟しなければならないのだ。


 ヤルダはもういちど山をのぼっていった。第二層給剤機の修理はほぼ終わり、薬草園は片づけられて、損傷を受けた区画には植物が植えなおされた。ヤルダは主任農学者のラヴィニオに面会し、ふたりは繁茂する小麦のあいだを並んで歩いた。太陽がない状態にとっくに慣れていた植物は、果てしない飛行という新しい状態を気にとめていないようだった。

 いまや〈孤絶〉じゅうで授業がおこなわれていて、半 以内の移動でだれもが出席できるようになっていた。ヤルダはファティマが受ける授業のひとつを聴講した。その授業は初等教育を受けた作業員に、回転物理学と折り合いをつける際に必要な背景をあたえることを目的としていた。だれもが研究者になれるわけではないが、もしコミュニティ全体の常識レベルが、ただの算数から四空間幾何学へ引きあげられたなら、その高くなった基盤が意味するのは、将来の進歩がより容易に手の届くものになったということだ──そして雑草をむしっている園丁全員が、同時に輝素に関するネレオの理論にまつわる問題を黙想しているようなところまで持っていければ、それに越したことはない。

 教師のセヴェラが単純な問題を出した。「均等に耕された畑で、北から南へ延びているロープが、三本の き跡と交差しています。同じ畑で東から西へ延びている同じロープは、四本の鋤き跡と交差しています。もしロープが、できるかぎり多くの鋤き跡と交差できる方向に延びていれば……いったい何本になるでしょう?」

 生徒たちがセヴェラの述べた問題をスケッチするのに合わせ、一ダースの胸で図が花ひらいた。いちどこの問題に答えを出したら──そしてそれが正解である理由を理解したら──光と時間と運動の秘密の半分が、この人々の第二の天性になるだろう。


 航法士の持ち場に戻ると、ヤルダは自分自身の生徒と会った。ニノに執行猶予を知らせたとき、自分の計画を説明しておいたが、それ以来忙しすぎて、約束を果たせずにいた。

 ヤルダは床にすわり、ニノと対面して、「最初の一ダースのシンボルは読める?」と尋ねた。

「ああ」ニノの声からすると、その質問を侮辱と受けとったのは歴然としていた。だが、はじめにそういうことをはっきりさせておかなければ、なにも教えようがない。

「シンボルを形作れる? 自分の肌に?」

 ニノはすねたようにヤルダをじっと見返した。単に無礼の度合いが増しただけだと受けとったのか、それとも今回は侮辱がきつすぎて答える気になれないのか、なんの手掛かりもない。

 ヤルダはいった。「懲罰の類をあたえようというのではないわ。あなたが時間をつぶすのに役立つかもしれないと思ったのだけれど、わたしに立ち去ってほしいなら、そうする」

「好きにしろ」ニノがそっけなく答えた。

 ヤルダは投げやりな気分で、「なぜわたしを敵のように扱うの?」と尋ねた。「あなたがわたしたちに悪意をいだいていないと認めても、好意を返してもらえないの?」

「あんたはおれの看守だ」ニノがいった。「自由を失ったことに文句はない。でも、看守は友だちじゃない」

 ヤルダは、相手の恩知らずを糾弾したくなる衝動を抑えた。「そのほうがいいなら、代わりの教師を寄越すけれど、なり手がいるかどうか。それにほかの搭乗員たちがどう思うか、よくわからない」

「あんたがここへ来ることを、連中はどう思っているんだ?」ニノが尋ねた。

「そのことは広く知られないようにしてきた」ヤルダは認めた。「でも、ほかのだれかを寄越すなら、議論百出でしょうね」

 ニノは一本の脚を床の上で動かした。「あんたにとってなんの違いがあるんだ、おれが読み書きをできるようになると」

 ヤルダはいった。「自分の考えしかなくて、生き延びられる人はない。あなたを訪ねようという人々がいるなら、好きなだけしょっちゅう面会に来てもらって、あなたの士気を高めてもらうわ。でも、かつては自分をあなたの友人に数えていた人がこの山にいるとしても、気が変わったか、あなたを支援する姿を見られるのを怖れているかでしょうね」

「だからおれに読みかたを教え、それから本でおとなしくさせておくのか?」それが自分を隷属させるための計略、肉体的な監禁よりもはるかにつらい精神の征服であるかのようないいかただった。

 ヤルダはいらだって、手で顔をこすった。「じゃあ、どうしたいの? 無罪放免というわけにはいかないわ」

「それなら、なぜ自分の良心を慰めようとしているんだ?」ニノが語気を強めた。「おれをここに閉じこめておいたって、あんたが恥じることはない」

「ええ」ヤルダは同意し、「でも、あなたが正気を失えば、恥じるでしょう」

「なぜ?」ニノは皮肉をいっているわけではなかった。純粋に困惑しているのだ。「なぜその恥はおれだけのものではないんだ?」

 ニノにとって、これは自尊心の問題なのだろうか? それとも自分をたの むという問題なのか? ヤルダがいちばんしたくないのは、すでにニノに備わっている回復力をむしばむことだった。

 ヤルダはいった。「あなたが愚かな真似をしたせいで、わたしたち全員が死んでいたかもしれない──でも、あなたがこの岩の上で生きているあいだ、わたしたちはほかのだれにも適用されるのと同じ義務を、まだおたがいに負っている。あなたがまた破壊行動を起こすというリスクから〈孤絶〉が解放されても、ほかのことはなにひとつ変わらないまま。じっさいのところ、わたしはまだ意味のある仕事と教育の機会をあなたにあたえなければならないし──あなたはまだ自分の務めを果たさなければならない。いまはこの義務を果たすのがずっとむずかしくなって、わたしとしてはうれしくないけれど、その義務が存在しなくなったふりをするほどでもない」

 ニノは黙りこんだが、いまや態度が軟化したように見えた。自分の役割を果たすよう頼まれても面目を失いはしない。

 ヤルダは相手の立場をなんとか理解しようとした。ニノは自分を捕らえた者たちを侮蔑してはいない。アシリオに買収されなければ乗員に加わらなかっただろうが、ヤルダたちの野心に対する蔑みに毒されてここへ来たわけではない。アシリオは、どうせ死ぬのだから時間の問題にすぎないとほのめかすことで、大量殺人のリスクを正当化した。しかし、たとえニノが飛行任務ミツシヨン の見通しについて懐疑的だったとしても、搭乗者たちの善意は信じていたに違いない。

「この話はどこへ行き着くんだ?」ニノが尋ねた。「あんたが学ばせたがっていることを学んだら、おれはどんな仕事ができるようになるんだ?」

「かんたんにはいえないわ」ヤルダは包み隠さずにいった。「でも、もう農民にはなれない。基礎的な教育を受けるところからはじめて、それからほかにどんな適性があるのかを見つけださなくてはいけない」

 ニノは長々と考えこんだ。ひょっとしたら、希望が膨らみすぎるのを警戒しているのかもしれない。ヤルダは相手を落胆させたくなかったが、慎み深い数歩が最終的に新たな可能性をニノにひらくなら、死ぬまでここで腐らせるよりマシに違いない。

「あんたのいうことはすじが通っている」ニノが認めた。「おれに教えようという気があるのなら、うまくいくようおれも最善を尽くす」


 太陽石の層のいま燃えている部分が近づいてくるにつれて、エンジンから発する騒音と熱が耐えがたいものとなり、機械工と航法士たちは上の第二層給剤機へ移動する準備をはじめた。〈孤絶〉は途方もない運動量を獲得していたので、二、三日は手動で訂正しなくても、たどっている針路にほとんど違いはないはずだったし、いったん第二層が点火すれば、わずかな漂流が起きたとしても、かんたんに対処できるはずだった。

『ガラクタを処分する絶好の機会になりますね』航法士の持ち場の洞窟が、いまやベンチと計器を剝ぎとられてがらんとなったのを見まわしながら、バビラが描書した。『山の中に散らばってほしくないものは、片っぱしからここへ置いていって、宇宙空間へ吹き飛ばされるようにすればいい』バビラの視線は監房のドアから離れなかった。

『ゴミの山は富の言い換えにすぎない』ヤルダは答えた。『なにかを投げ捨てられるほど、わたしたちは裕福ではないわ』

 フリドはとっくの昔にどちらの側の味方につくのもやめていた。少なくとも公然とは。『切り離し火薬の点検を手伝ってくれないか?』フリドがバビラに尋ねた。バビラはフリドのあとを追って部屋から出ていった。第二層に点火する前に、放棄しなければならない岩石の突出部全体を弱くするため、第一層の給剤機室で爆発を起こす手はずになっていた。

 ヤルダは独房をあけて、ニノを連れだした。最初の数歩、ニノは方向が定まらず、さっきまでいた場所よりはるかに広大な空間の異様さにまばたきしたり、怯えたりしていたが、すぐに落ちつきを取りもどした。気づかう言葉をかけないほうがいいのをヤルダは承知していた。ふたりは無言で並んで歩き、空っぽの給剤機室を抜けて、階段へ出た。

「どれだけの時間が経ったんだ?」のぼりはじめたとき、ニノが叫んだ。「おれたちが出発してから?」

「わたしたちにとっては半年近く」ヤルダは答えた。彼女の中の教師は描書で会話をしたがったが、ニノのほうが前を歩いていたし、背中に描書する技をニノはまだ習得していなかった。

「それで、故郷では?」

「ほぼ同じ。考えさせて」ヤルダは故郷での時間経過がつねにわかるようにはしていなかった。この場で答えを計算しなければならない。唯一の実用的な方法は、母星の同時性の観念を使ってふたつの来歴を関連づけることだ。その方法で得られた日付は、〈孤絶〉が直交する方向に飛んでいるあいだは進むのを停止するが、それ以外は比較的ふつうにふるまう。〝いま〟の定義を〈孤絶〉自体の曲折する来歴に結びつければ、〈孤絶〉が加速するときは故郷の日付を無限の未来へと大急ぎで進ませ、反転するときは無限の過去へとはるばる遡らせ、こうして〈孤絶〉と再会するときの故郷の時間の進みかたは正常に戻る。

「十日ほど少ないわ」ヤルダはいった。

「なるほど」ニノは階段吹き抜けのむこう側に目をやった。なにかを考えこんでいるようすだ。

「なぜ訊いたの?」

「もうじき孫ができるかもしれない」ニノがいった。

「まあ」相手がお祝いの言葉を聞きたがっているのかどうか、ヤルダにはよくわからなかった。

「子どもたちが一ダースを二年超えるまでは禁じたんだ」ニノが説明する。「もう数年待ってくれるといいが、子どもたちがどう選択するか、知るのはむずかしい」

「その子たちは分別があるに違いないわ」とくに確信があったわけではないが、ヤルダはそういった。「それで、〈孤絶〉に参加することについて、子どもたちにはどう話したの?」

「エウセビオは喉から手が出るほど農民をほしがっているから、おれの技術を利用するために、進んで家族に支払ってくれるといったんだ」

「子どもたちはどう受けとったの?」

 ニノは階段の上で立ち止まった。「子どもたちも来たがった。みんなで行くのは危険すぎるといい聞かせた」

 エンジンの騒音はしだいに遠のいていった。無重力状態でなにが起こるかをじっくり考えると心が乱れたとはいえ、炎が際限なく岩を叩くことがなくなるなら、それに見合う価値はある、とヤルダは判断していた。

「あなたのお兄さんの子どもたちは年上、それとも年下?」ヤルダはニノに尋ねた。

「年下だ」

「それでお兄さんが姪や甥に圧力をかけると思うの?」

「いいや」とニノ。「兄はそういうことはしない。心配なのは、子どもたちが自分を抑えきれなくなることのほうだ」

 第二層のてっぺんで階段を離れた。新しい航法士の持ち場にたどり着く道は、いくつかの給剤機室を抜けるものしかなく、そこは無人ではないはずだ。

「手を背中にまわして」ヤルダが語気を強めていった。「見せかけのために」

 ニノは素直に従った。ヤルダはその手をくっつけ合わせてから、自分自身の、より大きな手の一本で包みこんだ。じっさいに融合樹脂を使うつもりはヤルダにはなかったし、こちらを見た人に囚人がじつは位相幾何学的には自由だとひと目ではわからないようにしても、別に害はないはずだ。

 ふたりは姿を見られずにいちばん外の室を渡ったが、次の室ではデルフィナが持ち場でテープ描書機を点検していた。「その人殺しにここを歩かせるんですか?」信じられないといいたげに、デルフィナがヤルダにむかって叫んだ。

「独房へ行く道がほかにないのよ」ヤルダは答えた。機械工たちは数日がかりで、片づけと新ピカの給剤機のテストをしているところだった。この状況では、ニノの存在を腹立たしく感じる人がいる理由は理解できる。だが、選択の余地はない。

 デルフィナが近づいてきた。「こんなの認められません!」怒りのこもった声でヤルダにいう。「エウセビオがあなたをリーダーに任命したとき、裏切り者ひとりの命をわたしたち全員の命より上に置かせるつもりだったと思うんですか?」

 こういう誇張した表現で問題を扱うのは時間の無駄だ、とヤルダは学んでいた。「あなたがここにいてくれてよかった」ヤルダはいった。「囚人を新しい独房に護送するあいだ、見張りを手伝ってくれるもうひとりの看守がほしかったの。でも、バビラとフリドは切り離し火薬のことで手が離せなくて」

 デルフィナはためらった。だが、その要求を拒めば、ニノがもう危険ではないと認めたも同然になる。

「あなたが前を歩いて」とヤルダ。「囚人が逃げようとしても、すぐに道をふさげるようにしてもらえる……?」

 三人は無言で真新しい機械仕掛けの列を縫って進み、やがて隣の室に入った。オネスタが解放剤タンクの基部でバルブの点検をしていたが、縦列の先頭に立つデルフィナを目にすると、会釈だけですませた。

 航法士の持ち場まで来ると、ニノが独房に閉じこめられるまでデルフィナは待機した。

「手伝ってくれてありがとう」ヤルダはいった。

「こんなことが必要だったのは、まちがっています」デルフィナが答えた。「移動させる囚人がいること自体、あってはいけないことだったんです」

「そうはいっても、感謝しているわ」ヤルダは言葉を重ねた。

「それはどうでもいいんです」

「無重力への移行訓練を忘れないで」ヤルダは思いださせた。「あさってよ」

 デルフィナはあきらめた。彼女が立ち去ると、ヤルダは独房に入ってニノのようすをあらためた。「ここは──」

「居心地がいいかって?」とニノ。「前のと変わらない」

 ヤルダはいった。「とくにほしい物があれば、いまならこっそり持ちこめるかもしれない」

英雄譚サーガ の中では」ニノが感慨をこめていった。「生き延びる支配者は、敵を即座に見抜いて、さっさと片づける者たちだった」

「せいぜい心にとどめておくわ」ヤルダは立ち去ろうとしかけたが、そこで立ち止まり、ニノにむき直った。「サーガを習ったの?」

「もちろんだ」

「暗記している?」

「父親に教わった」ニノが答えた。「すべて暗誦できる。言葉のひとつひとつまで」

 ヤルダはいった。「それを紙に書き残すことをどう思う?」

 ニノは困惑した。「なぜ?」

「図書室にとって、それがあるのはいいことだから」じつは、すでに図書室の蔵書にあるだろうとヤルダは思っていた。しかし、どの一族も独自のバージョンを伝えてきており、ひょっとしたら未来において、だれかがその異本の性質を検討したがるかもしれない。「染料と紙を持ってきたら、書きはじめる気はある? どういう風になるか、やってみる気はある?」ニノの書き言葉の語彙は、まだその作業ができるほどではないだろうだが、作業中にぶつかる問題が、授業において取りくむべき課題となるだろう。

 ニノは考えをめぐらせた。小麦畑の世話をすることに比べれば、これが名目だけの仕事であることはふたりとも承知していた。だが、ヤルダが毎回準備する退屈なシンボル描きの練習にニノのほうはまだうんざりしていなくても、ヤルダはそれを考えだすのにうんざりしていた。

「いいだろう」ニノが同意した。

 ヤルダはほっとした。「道具を持ってくるわ、フリドとバビラがやって来る前に」

「ほんの数年前、息子たちにサーガを教えた」とニノ。「それがすんで、サーガはもう自分には必要ないと思った──すっかり忘れてしまったと思った」

「でも、忘れていなかったのね」

「忘れていない」

 ヤルダはいった。「いるものはなんでも持ってくるわ」


 新しいエンジンは大過なく始動し、第一層のてっぺんに残っていた岩の突出部を宇宙空間に吹き飛ばした。フリドとバビラが喝采する中、ヤルダは自分がエウセビオに、彼の設計がうまくいったことのお祝いをいうところを想像した。あとになって、それは〈孤絶〉の帰還について、まるで自分がその場に居合わせられるかのように考えていたことになると気づいたが──それをいうなら、ズーグマでは自分のかたわらを歩いているトゥリアをしょっちゅう思い描いていたのだ。自分自身が幽霊を演じるときについて同じようなことを考えるのも、馬鹿げているという点では、それと大して違いがあるだろうか?

 ニノはサーガでページを次々と埋めていった。ヤルダはニノのもとを訪れ、その第一稿を読んで訂正点を指摘した──だがそれをするのは、同僚の航法士のひとりが眠っており、もうひとりが観測のため縁へ出ているときだけだった。だれを欺いているわけでもないが、異論のあった決定をわざわざ思いださせるまでもない。山頂の天文学者たちは前方に障害物を見つけていなかったが、いまもヤルダの周囲のあらゆる人々は、機械工も航法士も同じように、〈孤絶〉が針路から外れないようにしておくために、反乱を組織する気になる余裕もないほどの多忙をきわめていた。だが、やるべきことがなければ、その気になっていただろう。


〈孤絶〉が加速段階の中間点に達し、青い光の速さと同じになったとき、ヤルダはセヴェラの授業で話をするために山をのぼった。

 その授業は観測室のひとつでおこなわれた。観測室に入ると、生徒たちは黙りこんだ。なにが見えるかは教えられていたが、見慣れて育ったありとあらゆる星が──シーサも、サラックも、ゼントも、ジューラも、ありとあらゆる微妙で、見分けられる光の染みが──搔き集められて、ほかのなによりも疾走星のつるべ打ちに似ている色のすじになっているのを目にするのが、どれほど動揺を誘うことか、ヤルダには理解できた。

 生徒たちが最初に直面したのは、その眺めだった。山腹からまっすぐ外を見ると、小さくてでたらめな星々の動きが、〈孤絶〉の速度に飲みこまれるのだ。山が上昇する速さは、あらゆる色の尾を垂直に整列させ、鋤き跡が平行に走る畑を空に作りだすのにじゅうぶんだった。それぞれの尾は異なる点ではじまり、異なる点で終わるが、赤をてっぺん、紫色を底にして、そのすべてが直角の約半分の範囲におさまる。この目に見えるようになった来歴の中で、紫色の最新の報告はつねに、歩みの遅い赤いバージョンより空の低いところにある星々を示している。

 だが、天頂のほうを見あげると、このパターンが遠くまでひたすら反復されるという予想はくつがえ される。こちらでは、星自体の横むきの動きがロケットの前進運動と競合し、幾何学がじゅうぶん複雑になるので、尾は完璧な消失点に収束できなくなるのだ。さらに驚くべきことに、ここでは尾の多くが標準と比較して完全に逆転して、赤い端が下に突きだしている──そしてどちらの種類の尾も、スペクトル全体を横断する前に薄れていた。赤側の尾は緑色を決して越えないし、紫色側の尾は藍色にかろうじて達するかどうかだ。それよりなにより、空の上半分は下半分よりも単純に混みあって おり、〈孤絶〉が近づいていく星々が、どういうわけか前方に遠のいていき、自分がそこから離れつつある街の建物がそう見えるようにひとつに集まっていく、という奇怪な印象をあたえている。

 ヤルダは生徒たちに話しかけた。「これが奇妙に見えるのはわかります。でも、わたしたちがここにいるのは、これにすじを通すためです。ここでみなさんの目に映るなにもかもが、単純な幾何学で説明できるのです」

 セヴェラはこのときのために、ふたつの小道具を生徒たちに前もって作らせていた。ヤルダはそれをセヴェラから受けとり、室の床に置いた。「手はじめに、この物体をじっくり見て、横むきに見えるとおりに描いてください」

 ふたつの小道具は紙製の八角形ピラミッドだった。片方は傾斜がかなり浅く、もう片方はずっと険しい。どちらも単純な木製スタンドに載せられている。生徒たちがその周囲に集まり、台座と水平に見られるようしゃがみこんだ。

「それぞれのスタンドの は」ヤルダは説明した。「打ち上げ前における〈孤絶〉の来歴の短い範囲をあらわします。時間は垂直に、つまり床からまっすぐにあがることで計られます。空間は水平です。そのときには、星々はわたしたちに対してゆっくり動いているだけだったので、床一面に均等に広がっていると考えられます。星々の来歴はほぼ垂直に上昇しているわけです」ヤルダはファティマの整然とした、様式化された図にちらっと目をやった。

「するとピラミッドは光ですか?」オーシリオが尋ねる。

「そのとおりです」ヤルダは認めた。「入来する光、周囲の星々が遠い昔に発し、ピラミッドの頂点でようやくわたしたちのもとに達した光です。ふたつのピラミッドは、わたしたちに見える紫色の光と赤い光をあらわします。険しいほうが……?」

「赤です」プロスペラが自発的に答えた。「一定時間内に辺が渡る空間が少ない──速度が遅いわけです」

 ヤルダはいった。「正解。円錐ならもっとくわしいモデルになり、特定の色の光線をすべて 見せてくれるでしょう。しかし、このピラミッドそれぞれの八つの辺を見れば、光がどうふるまうか、かなりよくわかりますし──それらが〈孤絶〉のまわりで角度を均等に分けるという事実が助けになるでしょう」

 全員が最初の観察を終えた。「今度は上から見おろしてください」ヤルダは指示した。「そして見えるものを描いてください」

 生徒の大半が新しいスケッチを胸に描きおえるのを待ってから、ヤルダは先を続けた。「これらの三角形それぞれの辺のあいだで」ヤルダはいった。「わたしたちのもとに届く光線を考えてください。〈孤絶〉が星々に対して動いていなかったとき、わたしたちに見える空のこうした均等な切片は、周囲の均等な一角から光を受けいれていました。星々は、多かれ少なかれ、わたしたちの周囲の空間に一様に配置されていますから──星々は空全体に一様に散らばっているかたちで見えて、どちらを見ても、ほかの方向とひどく違っているわけではありませんでした」

 ヤルダは周囲を見まわし、静かにしている生徒のひとりを選んだ。オーシリアだ。そのふたり組のうちしゃべるのは、もっぱら彼女の双のほうだった。「わたしの代わりに軸を傾けてもらえないかしら。両方とも垂直からできるだけ八分の一回転分近く下げてみて。直交の半分。青い光の速さに」

 軸は回転するジョイントで台座とつながっていた。オーシリアはその作業に熱心に取りくみ、何度もあとずさりして、角度をあらためた。

「みんな、新しい外形を描いてもらえるかしら」ヤルダはいった。「まず側面から」

 セヴェラがヤルダに近づいてきて、小声でジョークを飛ばした。「これを代数で解くのを習うときに得られる大きな成果を、奪うことになりますよ」

「はっ! それまでどれくらいかかるの?」

「二年だと思います」

「そしてこのクラスの何人が、それほど長くついて来ると思う?」

 セヴェラはしばらく考えて、「半分以上は」

 ヤルダは勇気づけられた。第一世代にとって、それはよい結果になるだろう。しかし、いまこのときは、この生徒たちがひとり残らず、自分の目と直観しか使わずに、周囲の光景にすじを通せるようにするのだ。

 ヤルダはふたたびクラスに話しかけた。「〈孤絶〉から見られそうな光景について、この絵からすぐにわかることがあります。意見はありますか?」

 プロスペラがいった。「わたしたちの後ろから来る紫色の光は、すごく傾いているので……水平を越えてしまいます」そのいいかたで、その変化が重要に違いないことはわかるのだが、どういう意味なのかはよくわかっていないことがはっきりした。

「それなら、もしこちらにむかって来る光を追いかけたら」ヤルダは示唆した。「その高さにはなにが起こりますか?」

「近寄るにつれ、低くなります」プロスペラが答えた。

その高さは低くなります 。そして、この絵において高さはなにをあらわしますか?」

「時間です」プロスペラは一瞬考えこんだ。「そうすると、光は未来から来るに違いないということですか?」

「そのとおり。それは時間を遡ってこなければ なりません。わたしたちにとっては違います──それはやはりわたしたちの過去から来ます──しかし、それを発した星にとってはそうなります。従って、あなたが発見したことが教えてくれるのは、わたしたちの真後ろにあるふつうの星々は──視界の後ろ八分の一、あるいはそれをわずかに越えるところにある星々は──わたしたちには紫色には見えない、ということです。なぜなら、わたしたちに紫色に見えるためには、星はそれ自身の過去にむけて光を発していなければならなくなるからです」

「でも、直交星にとっては違うんじゃないですか?」ファティマが勢いこんで尋ねる。

 ヤルダは答えた。「ええ、その時間はこの絵では水平だし、未来はわたしたちが進んでいる方向と一直線に並びます。でも──」

 ファティマは洞穴の縁まで走っていき、山の斜面を見おろした。

「──でも、あいにく、わたしたちの下にある岩が、眺望のその部分を隠しています」山とエンジンから出る靄とのあいだに直交星を観測できる見こみは、まだまったくない。

 ヤルダは傾いたピラミッドを上から描くよう生徒たちに頼んだ。混乱したり、じっさいに見えるものというよりは先入観で描く生徒もちらほらいたが、仲間たちの意見が一致していくのに気づくと、自分の描いた図を見直して正確にした。

 ヤルダは、全員が基本的な特徴を正しく描くまで待った。

「八つの切片それぞれは、依然としてわたしたちの視野の均等な一部 をあらわしています」ヤルダは念を押した。「しかし、周囲との関係は変わっています。紫色、つまり広いほうのピラミッドからはじめましょう。なにが起きているか、わかる人はいますか?」

 オーシリアが発言した。「前面では」と胸の三角形を指さしながら、「辺と辺との角度は、上から見れば、いまは八分の一よりずっと大きくなっています」

「ということは……?」ヤルダは促した。

 オーシリアはためらったが、すぐに最後までいった。「わたしたちの見る 八分の一は、星々の八分の一よりも多くからの光を受けているということですか?」

「そのとおり!」ヤルダはオーシリアに近づき、クラス全体が彼女のスケッチを見られるよう、むきを変えさせた。「〈孤絶〉が進んでいる方向については、視界の八分の一の一角は、じっさいにはもっと幅広くを見渡していて、より多くの星々からの光がそこに詰めこまれています。わたしたちはそれを均等な八分の一だと思って見ていますが、周囲の側からすると、ずっと多くを見ていることになるのです」オーシリアから離れて、天頂を身振りで示す。「尾の紫色の端をよく見てください。打ち上げ前は、それらはわたしたちの周囲で一様に散らばっていました。いまは、わたしたちが進んでいる方向にひしめいています。その理由は単純です。角度を固定した二本の線──ちょうどその前面の三角形の二辺のような──は、傾ければ傾けるほど、その間の角度が大きくなるように見えるでしょう」

 ヤルダはその単純な論理が、生徒たちの目の前にある証拠と一致するのを待ってから、こうつけ加えた。「反対方向には、反対の効果があります。山のせいで見にくくなっていますが──また、わたしたちの背後に、とにかくふつうの星々から紫色の光は受けとらない領域があることはすでに示しました──全般的には、後ろを見れば、眺望はよりまばらになります」

 ファティマのほうがいまはオーシリアよりも近くに立っていたので、ヤルダはファティマのかたわらへ移動し、彼女の描いた赤のピラミッドを指さした。

「赤い光はどうなりますか? ふたつのピラミッドの後部に当たる三角形を比べたら、赤い光の角度が、紫色のそれよりもさらに小さいことがはっきりするでしょう──従って、背後では赤いイメージが紫色よりも広く 空一面に引き伸ばされるのが見えるはずです。紫色に比べて前に押されている のですから。その違いは、みなさんが視線を後方から遠ざけるあいだずっと続きます。任意の星にとって、赤い光 は天底からより離れた場所に落ちつきます。聞き覚えがありませんか?」ヤルダは背後の垂直になった尾を指さした。赤い端はすべて紫色よりも高いところにある。

「でも、進んでいる方向に目をやると」ヤルダは言葉を続けた。「赤い光になにが起きるでしょう? ここで見えるピラミッドの三角形は五つしかありません。わたしたちの正面を指している三つの三角形はどうなっているのでしょう?」

 ファティマが助けるように三本の線をつけ加えたので、隠れていた三角形が見えるようになった。

「後ろを指すことになります」とオーシリア。

「そうです!」ヤルダは天頂まで目をあげた。「この奇妙な尾の赤い端 が、逆方向に突きだしているのがわかりますか? それらは、じっさいにはわたしたちの背後にある星々なのです! そのピラミッドを見れば、赤い光では、わたしたちの正面にあるものは──星々に固定された観察者が、なにかを〝正面に〟あると判断する意味においては──まったくなにも 見えないのがわかります。しかし、わたしたちの見る眺望は、その方向に赤がないわけではありません。正面にあるものを見る代わりに、背後にあるものの一部を見ているからです」

「しかもそのすべてを二度」ファティマが指先を図に走らせ、ピラミッドの頂点にむかわせた。「赤い光で背後に見える星という星が……赤い光で正面にも見えます」

「そのとおり」とヤルダ。「でも、それは同じ星から来る光で──わたしたちには同じ色に見える──けれど、同じ光ではありません」

 ファティマは一瞬考えた。「後ろをむいたときあたしたちに見える赤い光は、あたしたちとなす角度よりも大きな角度で星を出ます。だから、赤よりも速い光として星を出るわけです……でも、あたしたちはその星から遠ざかっているので、あたしたちが静止していたら追いつく速さでは、あたしたちに追いつきません。あたしたちの動きが、その色を紫色や紫外線から赤に変えてしまったんです」

「そう」ヤルダはファティマを後押しした。「では、ほかの光は? わたしたちが前を見るときに見える、まさに同じ星から来た赤い光は?」

 ファティマは図をじっと見おろし、必死に考えをめぐらせた。「角度から見て、それは非常にゆっくりと動きながら星を出たに違いないと思います。でも、それほどゆっくり動いているなら、どうしてあたしたちに追いつけたんでしょう?」

 ヤルダはいった。「混乱したのなら、とにかく描いて……なんであろうと描く必要のあるものを」

 ファティマは新しいスケッチを描き、間を置いてから、いくつかの注釈を加えた。