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ヤルダは航法士の持ち場に備えつけのベンチにすわり、フリドとバビラ越しに、苔に照らされた部屋の反対側にかかった壁時計にちらっと視線を走らせ、その機械の同類たちが給剤機をひらいて山の奥底に点火するのを待った。
〈孤絶〉を地面から離昇させるエンジンは、山の幅いっぱいに散らばった三ダースの給剤機室から制御される。それぞれの室内には機械仕掛けとジャイロスコープからなるシステムがあり、下の太陽石にむかう解放剤の流れを調節する。打ち上げ計画全体と、ロケットが上昇中に傾いたり、逸れたりしないよう力の配分を微調整する必要との両方を考慮に入れてのことだ。二名の機械工がエンジン給剤機ひとつひとつを見張って、かんたんな調整や修理を施すべく待機しており、同時に、信号ロープのネットワークによって、隣の地区、あるいは必要ならもっと遠い地区から応援を呼べるようになっている。
この一年にわたり、機械工と航法士は想定される何ダースもの緊急事態に対応するリハーサルを重ねてきた。エウセビオとフリドがシナリオの初稿を書き、ついでヤルダと赤塔市出身の工学者、バビラが加わり、やがて生き延びられる災厄のうち想像できるものすべてに備えができ、チーム全体がその計画案に同意した。きっかけは、ヤルダの飛ばしたジョークだった。できのいいぜんまい人形なら、自分たちの代わりに仕事ができるかもしれない。でも、その人形が動かなくなったら、どうすればいいかを指図する新しい計画案一式が必要になるだろう、と。
「点火二分隔 前」フリドが声を張りあげた。まるでほかのだれも時計を見ていないかのように。いまごろベースタウンは空っぽになり、最後の列車がズーグマへの途上にあるだろう──もっとも、炎が線路の反対端を飲みこみはじめる前に、目的地に到着することはないだろうが。もしだれかが安定石のレールに耳を押しあてたら、その下にある、もっと組成のゆるい、不均質な岩を伝って震動が届く前に、打ち上げの音を聞くことになるかもしれない。〈孤絶〉はズーグマの地平線の上に音もなくのぼるだろう。東の空に浮かぶジェンマ並みの明るさで。地鳴りや、空中のシューシューいう音はあとからやって来るだろう。ひょっとするとヴァレリアとヴァレリオは、リディアとダリアといっしょにバルコニーに出て、出発するおばに手を振るかもしれない。エウセビオはまだ列車上で西へむかっているところだろう。打ち上げを見るために、最後尾の車輌を貸し切りにしたのではないか、とヤルダはにらんでいた。
「一分隔 」
逃げだしたい──あるいは、危険を免れるためなら暴力行為でも懇願でもなんでもする──という本能的な衝動が不意にこみあげてきた。だが、堅固な地面へ連れもどしてくれる選択肢はもうないのだ、〈孤絶〉の全能の支配者にとってさえ。ヤルダたちは打ち上げ中止の判断の最終期限を点火三分隔 前に設定していたが、その時間はさっき、フリドがなにもいわないうちにすぎてしまっていた。一分隔 半あれば、山の縁まで延々と延びているロープで中継して中止命令を伝達できる──事故も遅れもなく、だれもがすばやく反応すれば──のだが、最終期限は必要以上の安全性を見こんで設定してあった。なぜなら、もし給剤機のすべてではなく、いくつかにだけ中止命令が届いて、それ以外の給剤機が予定どおり点火したなら、想像できる最悪の結果を招くだろうから。
「六停隔 」
この合図でヤルダはベンチにあおむけになり、訓練どおり、安全ベルトで体を固定した。ベネデッタの死以来、彼女の離れ業を再現して、完遂しようと試みた人はいなかった。しかし、薬づけにされた樹精二体が、同じような旅を生き延びていた。地上に戻ってから鎮静剤が切れると不機嫌そうになったが、肉体的には無傷だった。こうして、宇宙空間を抜けて飛ぶことそれ自体は、致命的ではないのが明らかになった。そして旅のいちばんリスクの高い部分──着陸──は無期限に遅らせられるので、〈孤絶〉の成算はそれほど悪くないといえる。すべての飛行試験とほんとうに違うのは、スケールの問題だけだ。
フリドがカウントする。「三。二。一」
山の各地でいま、給剤機がひらいて、燃料を守る硬石の外装板に走る亀裂に解放剤を落としこんでいるだろう。ヤルダはむきを変え、時計に視線を走らせた。二停隔 しか経っていない。灰色の粉末が剝きだしの太陽石へたどり着くまで、まだ延々と落下しなければならない。バビラが降下をカウントする任務を引き継いだ。「五。六。七」
ヤルダは振動膜を引き締めた。
「八 !」
一瞬隔 と経たないうちに、圧縮波が岩を伝って押し寄せてきた。ベンチを通して、いちばん近い点火地点からの執 拗 な震動を感じた。ついでさらに多くのエンジンの轟音が届き、やがていちばん遠いエンジンさえヤルダの体を乱打していた。身の毛のよだつ一瞬、体重の変化は感じとれなかった──皮膚はベンチの震動しか伝えなかった──と、次の瞬間、腕をあげようとして、まぎれもない抵抗に遭った。かんたんに克服できたが、不安を払拭するには足りた。もしエンジンが弱すぎて、山を浮かせられなかったのなら、これを感じることはなかっただろう。いくら猛火をむなしく吐きつづけても、いくらただの震動と揺動が続いても、加速の輝かしいしるしを模倣することはできなかったはずだ。
遅ればせながら、ヤルダはかたわらのバネ秤をチェックした。震動を打ち消すフレームにおさまって、小刻みに震える床からは隔離されている秤だ。磨かれた硬石の挟重 重りが、もとの重さの二倍近くまでバネを伸ばしており、意図した値の範囲内で推力を増していた。〈孤絶〉が上昇し、空へむかってぐんぐんのぼっていることに疑問の余地はない。
冷たい空気が部屋に流れた。冷却システムが作動しているのだ。山が崩壊して、くすぶる荒石に変わったり、地面にうずくまって、世界に火が点くまで熱を貯めこんだりしなかっただけではなく、乗員を生きたまま蒸し焼きにすることもなさそうだった。
ヤルダの安堵は天にものぼる心地に変わった。下で起きていることを思い描いてみる。切断された山が地面に残した穴から炎がこぼれだし、熱いガスと燃える土埃が渦巻きながら平原を横切って、ベースタウンの空っぽになった建物を飲みこむ。いまエウセビオをうらやむ点があるとしたら、自分の前にはこのガタガタと揺れる赤く照らされた洞穴しかないのに、東の空を切り裂く、目も眩むほど白い火炎のすじが見えることだ。しかし、それでもかまわない。ヤルダは彼に置き手紙を書き、何期 をも超えて伝わるよう、石にこう刻ませるだろう──『あなたは華々しい打ち上げを目撃した。でも、わたしがあなたの世界を見おろしたとき、それは小石並みに小さかった』
部屋がガタガタと震えた。ヤルダは安全ベルトを締めたまま横むきに投げだされ、浮かれた気分は搔き消えた。部屋の中央にあるジャイロスコープに目をやり、この小刻みな震動をなんとか解釈しようとする。ヤルダは、フリドとエウセビオといっしょにありとあらゆる悲惨な状況でのこの装置の動きを計算してきたが、いま彼女の心は空白で、目にしているものを、その予測のどれとも一致させられなかった。
バビラが伸ばした掌に一連のシンボルを描書して、ヤルダの目を捉えた。『エンジン一台故障、だが回復しました』それならすじが通る。もしロケットがバランスを崩したままで、山が宙返りをはじめたのなら、ジャイロスコープの軸は当初の標識から遠く離れたところにあるはずだ。ほかのエンジンに給剤する機械が最初の逸脱を検知して、それを補 塡 する位置に配置された機械が、その役を果たしているのだ。
三ダースのうち、一台の給剤機が不調を起こした。その割合は、辞退した応募者よりも悪くない。担当する機械工たちは、エンジンがいまだに追加の推力を生みだし、なんとか世界の重力に打ち勝とうとしているあいだ、修理を試みるためにベンチを離れようとさえしないだろう。この程度の故障は予想していた。緊急事態ではないのだ。重量が正常になるまで、六鳴隔 待てばいい。
ヤルダは時計をチェックした。一鳴隔 が経過していた。〈孤絶〉はいま、地上約一中旅離 にあるはずだ。窓がほしかった──そして炎越しの視力をあたえてくれて、窓を意味あるものにするなんらかの魔法が──しかし、いちばん高い観測室にいる幸運な人々でさえ、しだいに縮んでいき、やがて排気のギラギラした光に覆い隠される遠い地平線しか見えないだろう。〈孤絶〉の針路がじゅうぶんにカーブを描き、出発点を振りかえられるようになったころには、世界はほんとうに小石ほどに小さく見えるだろう。
部屋がまたぐらりと傾き、胸の悪くなる揺れが唐突におさまった。ヤルダは体を安定させ、ジャイロスコープを不安げに見つめた。ロケットは水平を保っている。第二のエンジンが停止したのだろうか、それとも最初のエンジンが自発的に回復したのか? エンジンが二台止まっても安定性は脅かされないが、この割合で故障が続けば、問題が生じるのは確かだ。なにが起きたにしろ、現場の機械工たちが今度はベンチを離れ、点検と報告をするだろう。
ヤルダはフリドに目をやった。彼がそっけなく合図を送ってきた。『辛抱ですよ』もっと情報が得られるまで、航法士にできることはない。〈孤絶〉は依然として制御下にあり、依然として目標に近い速度で上昇している。もし幸運がこの調子で続けば、あと二鳴隔 のうちに、すべてのエンジンを停止しても、地上へまっすぐ戻る恐れがなくなる高度に達するだろう。幅の広い、低速の太陽周回軌道に乗れば、状況を評価し、修理ができる。そういう挫折で落胆が生じるだろうが、〈孤絶〉を螺旋花火に変えるよりは、遅れたり、士気にダメージをあたえるほうがマシだ。
三たび、ロケットはよろめいてから、体勢を立て直した。ヤルダは風隙に架けられた歩道橋に戻って、足もとの深淵の光景に足をすくませているような──そして、橋を支えるロープが目の前で一本また一本と切れていくような気分になった。(機械工たちからの報告はまだ?)信号用ロープにつながった紙テープ描書機の列に目を凝らす。その装置は〈孤絶〉の外で使われたことはないものの、計り知れないほど価値があることを建造中に証明していた。直につながっているのは隣接する部屋どうしだけだが、さらに遠くへ届けなければならないメッセージは部屋から部屋へと中継できる。この特別な装置 は徹底的にテストされていた──いちばん最近は、打ち上げに先立って、機械工たちがはじめて持ち場に到達したときだ。
ようやく、一台の描書機がメッセージを吐きだしはじめた。バビラはベンチを離れずに手が届いた。紙片の端をつかみ、目を凝らすと、メッセージが終わる前に顔をしかめる。メッセージをじっさいのシンボルとして印刷することは複雑すぎるので、搭乗者たちは二本のロープのどちらかを引くことで伝達できる単純な符号 を考案し、暗記していた。
『四番室より』バビラは掌に描書し、その手を延長して言葉を足せるようにした。『給剤機停止。待機中』四番室は外縁にある。そのメッセージは、ふたつの中間段階を経て到達したわけだ。
そのメッセージは最初の故障に関するものだったのだろう。機械工たちは計画案に従い、推力が減少して動きやすくなるまで点検を遅らせたのだ。が、そのとき、間髪をいれず、次のメッセージが届いた。『三番室より。給剤機停止。調査中』
三番室も外縁にある。四番室のすぐ隣だ。隣接していることで引き起こされる故障の原因がなにかあるだろうか、とヤルダは思った。建設中に荒石から出た土埃が──どういうわけか、すべての点検で見落とされ──積もっていた場所から振り落とされて、震動で舞いあがったのだろうか?
だが、それはすじが通らない。じゅうぶんに粗い破片は機械仕掛けを動かなくさせるかもしれない──そもそも給剤の開始を遅らせるだろう──だが、いったん開始されれば、はめば歯車にはさまった砂粒のせいで給剤が止まるような部分が、機構のどこにもないのは確かだ。
四番室、ついで三番室……第三の故障がどこで生じたのか判明するまで待つつもりはなかった。ヤルダはバビラにむけて手をあげた。『二番室へメッセージ、そして隣接するすべての室 へも──徹底的に調査させて』
バビラがロープを操作しはじめた。フリドがヤルダの目を捉える。
『破壊工作だろうか?』フリドが尋ねた。その顔には疑惑の表情が浮かんでいた。これは予想していたシナリオではない。
『ただの用心よ』ヤルダは答えた。最初のふたつの故障の原因がなんであれ、隣りあった場所で起きたのは単なる偶然ではないと仮定し、その仮定を試しても害はない。
ヤルダは時計のほうをむいた。あと二分隔 で惑星脱出速度に達する。計画案によれば、三つの故障が上限だ。あとひとつでヤルダの選択肢は、安全になりしだいすべてのエンジンを停止させ、原因を突きとめて問題を修正するまで、〈孤絶〉に太陽のまわりを漂わせることだけになる。
別のテープ描書機が動きはじめた。これはバビラの手の届かないところにあった。バビラは安全ベルトを外し、よろよろと床を横切った。立ち止まって、上体の余っている肉で脚を強化する。メッセージを読むあいだ、振動膜がぴくついた。まるで無言で悪態をつくのをやめられないかのように。やがてバビラは機械からむき直り、胸いっぱいに描書した。『二番室より。侵入者を目撃。追跡中』
ヤルダとフリドはその知らせを広めるのに加わった──まずは二番に近いが、そのメッセージがまだ見られていないはずのいくつかの室へ。ロープ・システムはどんな徒歩の伝令よりも速いのだが、それが絶望的なまでに遅くて扱いにくく思えてきた。
操作を終えると、ヤルダは混乱し、憤懣 をかかえて、テープ描書機のかたわらに立った。(侵入者ですって?)その考えはもともと受けいれにくかったが、ヤルダの役割のせいで、いっそう耐えられないものになった。自分は破壊工作者をつかまえようとして給剤機室を駆け抜けているべきなのだ、ここで通信係を演じてぶらぶらしているのではなく。
点火から六鳴隔 ──予定ぴったりに──ほかの給剤機は、ロケットの推力を二重力から一重力へ減らして、支障なく作動していることを証明した。その間ずっと、停止したエンジンを埋めあわせてバランスをとる活動をスムーズに維持しつつ。〈孤絶〉はいまや、打ち上げ時点より四倍も世界の中心から離れていた──そして無限の上昇を続けるために必要なスピードの五倍近い速さで動いていた。〈孤絶〉の飛行を地上から追跡している天文学者たちにとって、その旅はなにごともなく進んでいるように見えるだろう。もっとも、あとひとつ給剤機が動かなくなれば、トラブルに見舞われているのを全世界が知るだろうが。
ヤルダはおそるおそる振動膜をゆるめた。エンジンの打撃音は依然として不愉快だったが、耐えられないほどではなかった。
「どうやらまた話ができそうよ」ヤルダは同僚たちに叫んだ。
『なんていったんです?』バビラが胸に描書した。
ヤルダはフリドのほうをむき、「さて、破壊工作者を送りこんでくる第一の候補者はだれ?」
ヤルダがだれを念頭に置いているかをフリドがわかっているのは、表情を見れば明白だったが、それでも彼はその考えに尻ごみした。「六グロス の死傷者、それも罪のない人々ばかりを……?」
「アシリオだとしたら、わたしたちを殺そうとしたわけじゃないわ」ヤルダは答えた。「それが目的だとしたら、ジャイロスコープを狙う者を送ってきたでしょう。〈孤絶〉が地面からろくに離れないうちに墜落させ、ズーグマから見ていただれにとっても派手な見せ物にすることができた」
「それなら、われわれを漂流させたかったんですか?」とフリド。「エンジンの故障で士気をくじき、給剤機という給剤機を分解して、部品という部品を一ダース回も点検するまで軌道をめぐらせたかったんですね。死者は出ないが、その程度の挫折でもエウセビオの面目はつぶれる」
「そのアシリオとやらは何者なんです?」バビラが尋ねた。
「ズーグマの市議会議員よ」ヤルダは疲れた声で説明した。「この男の祖父とエウセビオの祖父が商売上の諍 いを──」
バビラが手をあげてヤルダの話を止めた。「だれの先祖が喧嘩していようとかまいません。戻っていってその男を見つけだして殺す人々にとっては、名前と立場がわかればじゅうぶんですから」
ヤルダはいった。「ええ、そしてわたしたちは、そういう世代を超えた野蛮な反目には興味がないしね」
テープ描書機の一台が急に動きだした。ヤルダは進みでて、メッセージの解読をはじめた。「一番室からよ」ヤルダは読みあげた。「侵入者を捕獲。単独犯だと主張。そちらへ連行する」
半時 隔 後、四人の機械工が航法士の持ち場へ入ってきた。ピア、デルフィナ、オネスタが一列縦隊になって歩き、虜囚を肩に担いでいる。余分な腕を押しだして、男を逃がさないように抑えていたが、男はもがいているようには見えなかった。四人目の機械工セヴェロは、背が低すぎて隊列に加われなかったので、見張りとして女たちの前を歩いていた。
機械工たちは航法士たちの前で重荷を落とした。破壊工作者は、顔を床にむけて、石の上にうずくまった。名札をつけていなかったが、それがだれか、まずまちがいなくわかった、とヤルダは思った。
「ニノなの?」
男は返事をしなかった。ヤルダはもっとよく見ようとしゃがみこんだ。ニノだった。エウセビオの大演説の前に、名札を渡したのをいまだに覚えている。
「なぜ?」怒りと困惑がこみあげてきて、ヤルダは語気を強めた。ニノはベネデッタの墜落を目撃したが、それでもヤルダたちのもとに残ることを選んだ。それはこの男が賛同してくれたしるしだと思っていたのだ。「アシリオはなにを申しでたの?」
その名前が出たとたん、ニノの後眼がさっとヤルダのほうをむいたのは、推測をほぼ裏づけたも同然だった。「アシリオのために働いている者が、ほかにもここにいるの?」とヤルダ。
ニノの返事はエンジンの騒音に搔き消された。「もっと大きな声で」ヤルダは叫んだ。「アシリオはほかにだれを手下にしたの?」
「自分のことしか知らない」ニノはいい張った。「もしほかの者がいても、教えられなかった」
ヤルダは機械工たちに声をかけた。「よくやってくれたわ。さあ、持ち場に戻ってちょうだい。給剤機を無防備にしておきたくない」
「こいつを確実に抑えておけますか?」デルフィナが尋ねた。「こいつは足が速い。融合樹脂を取ってくるべきです」
(融合樹脂ですって?)ヤルダはいった。「この部屋から出しはしないわ。お願いだから、あなたたちの給剤機を守って」
機械工たちが行ってしまうと、ヤルダはニノの前の床にすわりこんだ。「ほんとうのことをいって」ヤルダは懇願した。「ほかにだれかいるの? もし〈孤絶〉がダメージを受けることになれば、あなたの命も道連れなのよ」
「隣の部屋に道具があるわ」バビラが暗い声でいった。「フリドに取ってきてもらえばいい」
「道具って?」
「スクリュードライバー、錐、突き錐」バビラが説明する。
ヤルダは、「ちょっとだけ……この人と話をさせて」といった。
ニノにむき直り、「ことの起こりからはじめて。信じてもらいたかったら、洗いざらい話してもらわないと」
ニノは目を伏せたままだった。「おれは噓をついた」彼は認めた。「おれには子どもたちがいる」
若いころ双を亡くしたとニノはいっていたが、それを信用しなかったのをヤルダは思いだした。家族を育てる圧力から逃げているのだと思ったのだ。「それじゃあ、なぜその子たちから離れているの?」
「ジェンマのせいで農場が壊滅状態になった」ニノがいった。「おれはすでに負債をかかえていた。借金の肩代わりをしてやる、と議員はいった──それに子どもたちの養育費に足りるだけの金を兄に払うと」
「その引き換えになにを要求されたの?」
「まず、あんたたちの仲間に加わり……議員のスパイを務める」ニノの声が途切れたが、自分の行為を恥じているのか、バツの悪い思いをしているだけなのかは、ヤルダにはよくわからなかった。「それですめばいいと思っていた──自分で宇宙空間へ行かなくてもすめばいいと。でも、そのあと給剤機を動かなくしろと指示がきて、もし〈孤絶〉の炎が打ち上げの一時 隔 以内に消えれば、家族への支払いを倍にするといわれた」
「アシリオは給剤機の詳細をどうやって知ったの?」ニノの持ち場がどこになるはずだったか、ヤルダは忘れてしまっていた。だが、機械工の仕事のための訓練を受けなかったのは確かだ。
「さあね」ニノが答えた。「議員は、このロケットについておれよりくわしかった。ほかにもスパイがいたに違いない」
「ほかのスパイはどこに いたの?」ヤルダは語気を強めた。「建設作業員の中、それとも搭乗者の中?」
「さあね」ニノはにべもない答えを繰りかえした。
「なにを使って給剤機を止めたの?」ヤルダは尋ねた。
「これだ」ニノはふたつのポケットをあけ、小さな岩石をいくつか取りだした。「解放剤タンクの緊急遮断レバーの下にこれを押しこんだ。できるだけ多くの給剤機にそうしろ、といわれた。機械工がすべてのエンジンを停止させろという命令を受けるまで」
そういうレバーは、それぞれの給剤機室に何本かある──中には機械工の持ち場から遠く離れているものも。室は機材で足の踏み場もないので、姿を見られずに入り、岩石を置いてくるのもそれほどむずかしくはないだろう。とりわけ、だれもが自分のベンチに縛りつけられているときには。
ヤルダは岩石のひとつをニノから取りあげた。柔らかい粉末石の一種で、握っただけで細かな砂が散らばった。レバーの下に押しこめば、まもなくあっさりと砕けて、落ちてしまっただろう。もしニノが現行犯でつかまらなかったら、ほんとうはなにが起きたのかわからずじまいで、給剤機自体に欠陥があったのだと納得して終わったかもしれない。
「で、そのあとはどうするの?」ヤルダは尋ねた。
「それだけだ」ニノが答えた。「もしつかまらなかったら、またまぎれこむことになっていた。持ち場へ戻り、仕事をするだけだ」
「そうすると破壊工作が終わったあと、自分の職務を果たすつもりだったの?」ヤルダは皮肉っぽい声で訊いた。「またチームの一員になるつもりだったの?」
「おれはだれも傷つけたくなかった!」ニノが猛然と抗議した。「〈孤絶〉はしばらく宇宙空間を漂流することになっていた──それだけだ。ひとたび議員の望みをかなえてやったら、あんたたちに悪意をいだく理由はない」
「あなたの背景がほんとうはどうであれ」ヤルダは答えた。「わたしたちに採用されてからいろいろと見てきたのだから、これがどんなに危険なことかわからないはずがない。わたしたち全員を殺すかもしれないという考えが、いちども心をかすめなかったふりはしないで」
ニノはその非難に腹を立てて体を強ばらせたが、憤然とした否定で終わるには沈黙が長引きすぎた。「そのことは議員に訊いてみた」とうとうニノは認めた。「もし山が地面に激突すれば、慈悲になるって話だった」
「慈悲 ですって?」
ニノは顔をあげ、ヤルダと視線を合わせた。「議員にいわせれば、宇宙空間に街があるという考えそのものが正気じゃない。ひとつまたひとつと、物事はおかしくなるだろう──外部からの助けがなくては直せない物事が。一世代のうちに、全員が飢えているだろう。そして土を食う。そして殺してくれと泣いて頼む」
ヤルダはいちばん近い建設作業場へメッセージを送り、頑丈な監房を作る技術を備えた人々に招集をかけた。だが、材料を運んでくるので、到着には二日かかるものと思われた。応急措置として、航法士の持ち場になっている食料貯蔵室から食料を出し、隣の給剤機室から調達した道具と予備の部品を使って、ドアに急造の掛け金を取りつけた。航法士たちは交替で眠るので、少なくとも二名はつねに目をさましていることになる──そして食料貯蔵室のドアのすぐ隣にベッドを移したおかげで、それがバリケードとなり、眠っている者さえ第三の看守の役割を果たせるようになった。
バビラはニノを山の上方へ移送し、遠くの倉庫に監禁することを具申した──無防備なものからできるだけ遠ざけ、これ以上の破壊工作ができないようにするためだ──しかし、ヤルダはニノを手近に置くほうを選んだ。アシリオの陰謀に関して、大事なことを訊きそこねたと思う場合に備えてだ。応募時の記録によれば、ニノは学校へ行っていないが、経験を積んだ農民として、〈孤絶〉でも同じ仕事をする予定になっていた。この男が真実を語ったと信じる理由はないが、自分自身の行動に関する説明はもっともらしく聞こえた。たとえ、自分をできるだけよく見せるために、おそらく話に尾ひれをつけたり、細部を省略したりしたのだとしても。
ショックと怒りがおさまるにつれ、ヤルダは気がつくと、物事のじっさいの展開に自虐的な高揚感のようなものを覚えていた。〈孤絶〉は三度も傾いたが、バランスを保ったのだ──そのテストが歓迎できないものだったとしても、その結果はそれでも祝う価値がある。自分たちが命を預けた機械仕掛けは、どの一部をとっても望んだとおりの回復力があると証明されたのだ──しかも、敵の鼻を明かしてやったのである。
ひょっとしたら、自分とエウセビオは、アシリオがどこまでやるか予想しなかった点で愚かだったのかもしれない。だが、自分たちを守るために、あれ以上なにができたというのか? 人々を雇って、世界じゅうを旅させ、乗員の話を片っぱしからチェックしろとでも? そんなことをしたら、応募者の採用率が驚くほど変わり──けれど、知る価値のあるようなことはなにもわからなかっただろう。出奔者は、ちゃんとした理由があって、ひとり残らず噓をつくのだから。
もしニノの行為で破壊活動がほんとうに終わりだったら──古い世界が新しい世界を弱々しく殴打するのが、これで終わりなら──それもお祝いの理由になる。かつてダリアがいったように、別れに痛みはつきものだが、それは古い影響から脱するときでもあるのだ。
『ニノの命を助けるわけにはいかない』胸いっぱいに言葉を浮かびあがらせて、フリドがヤルダに伝えた。ひょっとしたら、声に出さないのは、囚人の感情をおもんぱかってのことかもしれない──だが、それをいうなら、バビラは眠っていたし、エンジンの音に負けないよう声を張りあげるのに、だれもがときどきうんざりするようになっていた。
『なぜ?』フリドの助言は意外ではなかったが、いつかどこかの部署からそれがもたらされるのをヤルダは怖れていた。
『ひとたびニノから得られるだけの情報を絞りとったら』フリドが答えた。『いちばん重要なのは、アシリオの報酬に応じた行動をほかのだれにも取らせないようにすることだ。ほかのスパイを見つけられなかったら、次善の策は、怖くて行動できないようにすることです』
ヤルダには説得力があるとは思えなかった。『ひとたび地上からわたしたちの姿が見えなくなれば、アシリオはもうなにをしても得にならない。わたしたちがどんな妨害をされるにしろ、地上から見てわからなければ、エウセビオの面目はつぶれない。それにたとえアシリオがこれ以上わたしたちを苦しめたくても、望みを実行してくれたスパイにどうやって報いられるというの? 支払いができるわけないのに』アシリオとニノとの取り引きなら理解できる。たとえ約束が守られるかどうかニノに確かめる方法がなくても、ニノの兄がアシリオのもとへ行き、「ロケットの炎が消えたのはだれもが知っている。それなら、あんたが約束した金はどこにあるんだ?」といえるのだ。しかし、打ち上げ時に〈孤絶〉を消滅させる努力をしなかったことを思えば、〈孤絶〉が帰還に失敗するという条件で、アシリオが第二の破壊工作者に家族を養う金を申しでるとは思えない。
『それはそのとおりかもしれない』フリドが認める。『しかし、たとえニノがわれわれを殺そうとしなかったとしても、われわれを裏切ったことは確かだ。もうわれわれのあいだに居場所はない。人々はあの男の死以外は受けいれないでしょう』
「それなら、わたしがうんといわなかったら、あなたは反乱を起こすつもりなの?」意図した皮肉がシンボルだけで伝わるとヤルダは思わなかった。しかし、エンジンの騒音に負けないよう、その言葉を叫んだあと、表現方法を変えたのがとくに役立ったかどうか、よくわからなくなった。
「そうすればあなたの権威が弱まるといっているだけです」フリドが叫びかえした。
『では、権威のために人を殺すべきだというの?』
フリドはその質問を真剣に考慮した。『もしここが掌握できなくなった場合、何人が死ぬとあなたが考えるかによります』
ヤルダはいった。「自分が〈孤絶〉を針路に乗せておくことのできる唯一の正気の柱だなんて、うぬぼれてはいないわ」
「そんなこともいっていません」フリドは請けあった。『だが、権力が移行するときは、暴力のリスクがつきものだ──不満の徴候があらわれたとき、あなたがあっさりと辞職しないかぎり』
ヤルダはどう答えていいのかわからなかった。フリドは自分の地位をほしがっているのだろうか? 打ち上げから二日と経っておらず、エウセビオにこの役割をあたえられてから四日と経っていない。その重責はおよそありがたくないものであり、自分に取って代わりたいと願う者がいるという考えは、これまで脳裏をかすめたこともなかった。しかし、もしそれほどありがたくないのなら、返上してもいいのではないだろうか? もしエウセビオがフリドを〈孤絶〉の支配者に任命したとしても、自分は反対しなかっただろう。現状維持に固執しすぎる者が出る前に、エウセビオの決定を訂正してもいいではないか?
ニノは死んでヤルダに権力を握らせつづけるのではなく、死んだらヤルダに安楽な生活をあたえてくれるのかもしれない。
観測室は山腹に浅く掘られた洞穴で、透明石の板からなる傾いたドームによって、宇宙空間とは遮断されていた。洞穴のへりに立ち、ヤルダは斜面をじっと見おろし、かつて山のふもとから広がっていた平原が、ほんとうに消えていることを確認した。エンジンから発する散乱光の靄が山の根もとの縁からこぼれだして、目もあやな夜明けの前触れのようだ。ただし、その激しく燃える〝太陽〟は、じっさいの夜明けとは違っていまは輝きよりも上方にあって動くことなく──けれど、太陽がこんなに山の下のほうに あるうちに輝きが見えることは、じっさいの夜明けではありえなかったわけだが。ヤルダは腕を伸ばし、それが洞穴の天井に投げる影を後眼で見た。
周囲にある多角形の透明石は、打ち上げのあいだに破片で穴だらけになっていた。その疵 が陽光を捉え、気を散らすまばゆい斑点を生みだして、そのむこうの本物の空とヤルダの視線を奪いあっている。どこを探せばいいか前もって知っていなかったら、目標を探しあてるのに苦労しただろう。太陽と、部屋の床によって暗黙のうちに決まる〝地平線〟との中間あたりだ。
ヤルダの肉眼には、ほっそりした三日月が特徴のない灰色の円盤をかかえているように見えたが、経緯儀の小さな望遠鏡を通せば、惑星の夜の側は、複雑精緻な色相のパッチワークとして姿をあらわした。純粋な小麦光のちっぽけな斑点がちらほらと認められたが、大部分は森と畑の色がしっかりと織りあわされて、区別できなかった。ヤルダはトゥリアが、スペクトルにあらわれるほかの世界に棲む植物の証拠を探したことに──さほど遠くない昔、まさにこの山の頂上で──思いをはせた。
これだけ隔たると、都市は見えなかった。野火も見えなかった。たとえ〈孤絶〉があとに残してきた穴 がいまだにくすぶっていても、打ち上げが新たなジェンマを創りださなかった証拠がここにあった。ヤルダはぶるっと身震いした。後ろを見て、自分たちが必死に守ろうとしてきたいっさいが猛火に包まれているのを発見したら、いったいどんな気分になっただろうと一瞬想像したのだ。
ヤルダは経緯儀のダイヤルから位置を記録し、その後、ジェンマ、内惑星ピオ、一ダースの明るい星々を観察した。四つの疾走星が見えた。盲目だが、疲れ知らずの暗殺者の道具のように、燦 然 と光る長い逆 棘 が、その光景を串刺しにしていた。機械仕掛けとジャイロスコープだけでは、〈孤絶〉を目的地、つまり、どんな角度からも刺される恐れなしに一期 のあいだ漂っていられる空っぽの回廊へ、安全に導けない。細心の注意を払った日々の観測と計算と調整だけが、旅の成功する確率を、ベネデッタの自動化されたプローブのそれよりマシにできるのだ。
計算には一時 隔 以上かかったが、結果は心強いものだった。〈孤絶〉の位置と方向は、飛行計画で決められた値に非常に近く、給剤機室に些細な調整を伝えれば、ロケットは理想の針路へかんたんに戻るだろう。
ヤルダはその場を立ち去りがたかった。望遠鏡をまた生まれ故郷へむけ、その見慣れない顔を記憶に刻もうとする。地上では、別れに次ぐ別れがあった。しかし、これが最後の別離なのだ。
孤立の痛みが胸のうちで大きくなってきて、ヤルダはその問題に直にむきあうことで痛みをやわらげようとした。もし望むだれかを連れてこられるチャンスがあったとしたら、だれを選んだだろう? エウセビオとダリアだったら同行してくれただろう、とヤルダは思った。リディアと子どもたち、ジョルジョとその家族、ルシオとほかのみんなは残ったほうがいい。もし自分が気にかける人がひとり残らず搭乗しにきたら、〈孤絶〉は帰還するのだという考えを捨てたくなったかもしれないから。この幸運な少数の人々が、安全で自給自足しながら、後眼をしっかりと閉じたまま宇宙空間を漂いつづけるところを想像して、満足していたかもしれないから。
非常時がすぎ去り、自分が不在のあいだに破壊工作者があらわれる事態はもう起こりそうにないと確信すると、ヤルダは山をのぼる短い旅に出ることに決めた。軽微な損傷の知らせをロープ・ネットワーク経由でいくつか受けていて、修理は順調だと報告があったものの、どういう具合なのか、自分の目で見たかったのだ。
エンジン第二層の給剤機室のひとつは、打ち上げの際に天井の一部が崩落していた。当時は無人だったので、怪我人はなかった。ヤルダが到着したとき、作業チームはまだ荒石を片づけているところで、建設にたずさわった鉱山技師あがりのパラディアが現場にいて、損傷を評価したり、新しい支柱を塡めこむ計画を練ったりしていた。
「五旬 以内にこれを直せる?」ヤルダはパラディアに尋ねた。第二層はそれほど早く噴射はしないが、損傷を負った部品を取りかえるだけでなく、給剤機構を掃除し、点検し、テストしなければならない──建設作業が進行しているあいだは、いずれも不可能だ。
「三旬 で」パラディアは約束した。ヤルダは室を見まわした。手押し車を押したり、シャベルや箒を持ったりしている女や男が、硬石の外装板の拳大の塊から、壊れた天井を抜けて周囲の鉱脈から落ちてきた粉末状の太陽石の無害に見えるすじまで、手当たりしだいに回収している。もし解放剤のタンクが破裂していたら、〝無害〟という言葉はふさわしくなかっただろう。
「修理する物があるのは、士気にいいと思います」パラディアがしみじみといった。「いちど自分の手で建物を修理すると、ほんとうに関わったことになるんです」
「きっとそうなんでしょうね」とヤルダ。檻に入れられたハタネズミのような気分を味わいたい者などいない。自分はエウセビオに宇宙空間に投げこまれた繁殖用の動物で、ここにいるのは、遠い子孫が偉業を達成するためでしかないと思いたい者など。「それでも、同じようなことはあまり起きてほしくないわ」
「打ち上げでここに生じたような圧縮力は、二度と生みだされないでしょう」パラディアが答えた。「でも、山の重量がすっかり消えたら、これまでほんとうには実行できなかった実験になるでしょうね」
作業員たちが食事休憩を取るとき、ヤルダもいっしょにすわって食べ、サイコロ六個 の略式ゲームに興じているグループに加わった。各層の食料貯蔵室にはパンが貯蔵されている──そして、ある種の香辛料であるかのように、女たちがさりげなくまわすホリンが。そのチームに男は数少なく、その大部分は双同伴であり、この異様な新しい環境でもすっかりくつろいでいるように見えた。もし絆を断ち切ったことを後悔している人がいたとしても、ここでの仲間意識がその痛みを確実にやわらげていた。
食事のあと、片づけが再開されたが、ヤルダは食事をふるまってくれた人々とは活動周期がズレていて、どうしても眠らなければならなかった。目がさめると、パラディアと作業員たちに別れを告げ、山をのぼる長い歩みを続けた。
苔に照らされた階段が、頭上で果てしなく延びている。のぼっていっても、その光景にほとんど変化はなかった。高いほうのエンジン層に損傷はなく──あるいは少なくとも、表面的な点検には合格しており、もっと念入りに調べるのは、第二層が完璧な状態になるまであとまわしにできる──従って、そこの人けのない室に長居をする理由はなかった。下のエンジンの音はまだ聞こえていたが、距離のおかげでいらだたしい角が取れており、残ったのは心安まるようなブンブンいう音だった。
連れがいないので、ヤルダは心配事の長いリストを整理して時間をつぶした。(ここの出奔者は、友人の子どもたちを育てるという仕事を、自分がトゥリアの子どもたちにしたよりもうまくやるだろうか?)少なくとも父親のいない子どもたちは、ここでは嘲笑される少数派にはならない──だが、もし父親のいないことが重要な要素になるとしたら、逆に父親のいるわずかな子どもたちの運命はどうなるだろう? そのあとに必然的な移行が続いて、次の世代では性別がバランスを取りなおし、そのときにはまた新たな問題が生じる。〈孤絶〉は出奔者たちにとって贈り物だったが、ここからは逃げだす場所がない。子どもたちにとって希望があるとすれば、選択は個人の自由にまかされるという原則が人々に深く浸透して、自らの双を怖れる理由がなくなることしかないだろう。
最高所のエンジンの上にある第一層にたどり着いたとき、ヤルダは安全ドアのかんぬきを外し、階段吹き抜けから踏みだした。ドアがさらに三組並ぶ短いトンネルをたどって洞窟の端まで行く。樹精たちが〈孤絶〉でいちばん居心地のいい場所を離れる理由はないが、混乱した動物たちが、下の給剤機室を暴れまわっているような事態は願い下げだった。
ヤルダは灌木のあいだに立ち、近くの樹木を見つめた。一本の枝が小刻みに震えた。二匹のトカゲがダニを追いかけて走っているのだ。この地中の森を作るには多大な労力を要したので、それがはじめて繁茂する徴候を見せたとき──打ち上げよりずっと前だ──まるで全世界を宇宙空間へ連れていくことにすでに成功したような気がしたものだ。しかし、その感傷が時期尚早だったとしても、少なくとも打ち上げでここに危害が加えられたようすはない。樹木はじゅうぶん回復力があることを証明しており、トカゲは以前と変わらず活発に見えた。樹精を探しだして、健康について尋ねるつもりはなかった。飛行試験後、樹精たちがどういう気分に陥ったかを目にしていたので──しかし、あの飛行には、〈孤絶〉が経験したよりも大きな加速が含まれており、それでも生き物は怪我をしなかったのだ。
その場所に漂うかすかな腐敗臭は、ヤルダの子どものころの記憶にあるどんなにおいとも完全には一致せず、天井から反射する紫色の光は、懐かしいというよりは不気味だった。それでも、時おりここへ来て、この小さく不完全な生命の豊かさのサンプルを提供した世界を思いだす──あるいは、のちの世代では、想像する──ことは、人々のためになるだろう。
ヤルダは農場への損傷の報告を受けていなかったが、自分の目で作物を調べるため、小麦洞窟のひとつに立ち寄った。下の森と同様に、この畑は何年も前からできていたので、わずかなあいだ上昇した重力を生き延びられたのなら、今後も盛んに生育しつづけられないと考える理由はなかった。赤い花の半分がひらいて、健康に輝いている一方で、半分は眠っていた。ひとりきりで列のあいだを歩いていると、折れた茎や乱れた花に時おり気づいたが、根こそぎにされた植物はない。突風が吹き荒れたあとの故郷で、これよりひどい状態を見たことがある。
薬草園のひとつで天井の崩落があったので、ヤルダはそこを次の立ち寄り先にした。階段吹き抜けからトンネルを進むにつれて、苔の暗褐色の光が、森の放つ光よりも豊かな輝きに席を譲り、そして最初にちらりと見えたのは、洞窟いっぱいに広がる青々とした色合いの植物からなるモザイクだった。入口にたどり着いてはじめて、左側にある荒石の山と、貴重な灌木を踏みにじらずにそれを片づけようとしている一ダースほどの人々が目に入った。
ヤルダはそのグループに近づき、挨拶の声をかけた。だれもが丁重に応えたが、うやうやしく会釈するにとどまらない作業員はひとりだけだった。
「ヤルダ! こんにちは!」
「ファティマなの?」
ファティマは岩の残骸とつぶれた植物のあいだを注意深く縫って、ヤルダのもとまで歩いてきた。
「怪我人は出たの?」ヤルダは尋ねた。
「いいえ、天井が落ちたとき、みんな共同寝室にいましたから」
「それはよかった」ヤルダは天井を見あげた。小さな家並みの大きさがある塊がなくなっていた。ここは太陽石の鉱脈の上に当たるので、壁には保護用外装板の必要がないが、もともとの掘削でさらけ出された天然の鉱物組成は、工学者たちが思ったほど安定していなかったに違いない。「植物はどう?」
ファティマは荒石を身振りで示し、「あれは全部、傷 痍 兵 ノ木だったんです」ヤルダはその青い花をつける灌木を知っていた。農場のそばに自生していたのだ。その木の樹脂は傷の治癒を助けてくれる。もっとも、役に立つとはいえない化学者の中には、その樹脂に手を加えて、警察が愛用する融合剤を作りだす方法を見つけた者もいたが。
「そう気を落とさないで」ヤルダはいった。「ほかの庭にもっとたくさんあるし、一、二旬 のうちに、またここにも生えてくるわ」
じつはファティマは、その損失を嘆いているようには見えなかった。「あたしたちは、ほんとうに世界をあとにしたんですか?」ファティマが尋ねた。
「まちがいなく」ヤルダは請けあった。
「後ろに目をやって、見たんですか?」
「ええ」もし宇宙空間に到達しなかったら自分たちは一巻の終わりだったことを、ファティマが完璧に理解しているのはまちがいない──だが、あらゆるものの重量が正常に復したので、この洞穴の中にはファティマの感覚に真実を伝えるものがないのだ。「自分の目で見るべきね。あなたたちみんなが。ここの責任者はだれ?」
「ジョコンダです」ファティマはその女を指さした。
ヤルダはジョコンダに近づき、仕事の進捗状況を尋ねてから、望む人がいれば、自分といっしょに最寄りの観測室まで行けるよう、一時 隔 の休憩が取れないかと交渉した。
「わたしもこの目で世界を見たい」ジョコンダはいった。「かすかにしか見えなくなる前に」
人々の準備ができるあいだ、ヤルダは荒石の片づけを手伝った。ジョコンダは、その荒石を使って庭に一連の小道を通す計画を立てていた──いまのところ雑草の聖域となっている、区画どうしのあいだで剝きだしになった土を覆うわけだ──しかし、大きめの石は砕かなければならないだろうし、〈孤絶〉が加速をやめたとき、ふらふら漂っていかないように、すべての敷石に網 を被せなければならないだろう。
その作業は緊張をほぐすものであり、チームは意気軒昂に思えた。ひとたび学校がはじまれば、この空飛ぶ山を、どんな小さな街にも負けないくらい住みやすい場所にするのに、さほど時間はかからないだろう、とヤルダは判断した。ズーグマに匹敵する料理の豊富さは望めないだろう──あるいは、旅まわりの芸人が訪れることもないだろう──しかし、人々が独自に新しい献立を発明したり、独自の演芸を考案したりすることを止めるものもないのだ。
観測室は遠くなかった。山の端は一街離 と離れておらず、そのあと短い坂を下ると、航法士の階層にあるのとそっくりの透明ドームをいただいた洞穴に着いた。ヤルダは座標を用意していなかったが、バツの悪い思いをするほど遅くならずに、ちっぽけな三日月となった世界をなんとか探しあてた。
園丁たちは列に並んで、順番に経緯儀を覗きこんだ。人々が無言で、考えこんだように後退するとき、ヤルダはその顔から目を離さなかった。〈孤絶〉が帰還することを望んでいる場所が、確実に薄れて消えていき、生きているうちには二度と目にすることがなくなったいま、人々の究極の目的は、これまでなかったほどよそ事に思える。けれどヤルダの目に、人々が絶望している気配はまったく映らなかった。自分たちはもはや世界の一部ではないが、前進させ、守るべき自分たちの故郷がある。なによりも救いになるのは、こうして別れていくからといって、自分たちが競争相手や職場放棄者になったわけではないことだ。〈孤絶〉が繁栄したならば、古い世界もその分け前にあずかるだろう。
ここに来た目的のものを全員が見終わると、ヤルダはピオの荒涼とした土地、ついでシーサの煌々と輝く色の尾を人々に見せた。
「直交星群はいつ見られるようになりますか?」ファティマがじれったげに尋ねた。
「もうしばらくは無理」ヤルダは答えた。「これまでのところ、わたしたちが星の光となす角度はほとんど変化していない」部屋をぐるっと見まわし、ほかの人々を目におさめて、「ほかに見たいものがある?」
園丁のひとり、カロゲラがドームのむこう側にある不毛な斜面を身振りで示し、「裏切り者のニノが落っこちるところが見たい。山頂から投げだされて、エンジンの炎へ落ちていくところを」
拍手喝采がおさまるまで、ヤルダはなにもいわなかった。おかげで、反応しないのがいちばんだと判断する時間を稼げた。「わたしはそろそろ行かないと」ヤルダはいった。「まだまだ点検をしなくてはいけないの。みんな、しっかり修理してね」
ヤルダは航法士の持ち場に戻った。部屋の一画に独房が設けられていたが、目立たないようにされていた。壁はもとの壁と継ぎ目なく混じりあい、三重に差し錠のかかったドアはほとんど目につかなかった。フリドとバビラは小さなハッチをあけて、中にいる者とはひと言も交わさずにパンを投げこんでいた。土の床には囚人の糞便を食べる長虫がひしめいているので、ドアをいちどでもあける理由は、じつのところなかった。
錠を外し、独房に踏みこむ勇気を奮い起こすのに二日必要だった。囚人は暗黒に苦しめられてはいなかった。ここの壁は、外と同じ苔の赤い輝きを放っている。ニノは拘束されずに片隅にすわっていた。ヤルダがドアを閉めて近づいても、顔をあげなかった。
ヤルダはニノの正面の床に腰をおろし、「わたしにいいたいことはある?」と尋ねた。
「洗いざらい話した」ニノが大儀そうに答えた。「ほかに破壊工作者がいても、議員はおれにはいわなかった」
「わかった。信じるわ」この男自身の任務を全うするのに必要な指示以外のなにかを、アシリオが教える理由はない。「あなたの自白はすんだ。で、これからどうするの?」
ニノは床に目を伏せたままだった。「あんたの慈悲にすがる」
「そういうこともあるかもしれない」ヤルダはいった。「でも、あなた自身の望みがあるに違いない」
「望みだって?」ニノはその言葉を、幼児の無意味な言葉のようないいかたをした。
「選べるとすれば」ヤルダは食いさがった。「どういう運命がいいの?」
しばらくしてからニノは答えた。「議員に耳を貸さなかった運命。借金を背負わなかった運命。空に第二の太陽を拝まなかった運命」
「そういう意味じゃないわ」ヤルダが想像していたのとは、まるで違う会話の進み具合だった。「あなたはここにいて、あなたがしたことをした。それは変えられない。で、今度はなにを? 運命を終わらせてほしいの?」
ニノは愕然としてヤルダを見あげ、「死にたがるやつはいない」といった。「そうなると予想はしているが、あんたに助けを乞うつもりはない。自分のしたことを恥じているが、威厳をすべて失ったわけじゃないからな」
「失ってないの?」ヤルダは独房を示すように腕を広げた。「ここにどんな威厳が残っているの?」
ニノはヤルダをにらむと、自分の額に触れた。「まだ心はあるんだ! まだ子どもたちがいるんだ!」
「つまり、思い出があるってこと?」
「おれには過去がある」ニノがいった。「そして子どもたちの未来が。議員の二度目の支払いがなければ、兄は苦労するだろう。だが、兄が最善を尽くすのはわかっている」
「それなら……ただここにすわって、家族の人生を想像するの?」
「喜んで、できるかぎり長いあいだ」ニノは反抗的に答えた。
ヤルダは恥ずかしくなった。ニノに慈悲を垂れているのだと納得しようとしていたが、じつはその論理はアシリオのそれと同じくらい唾棄すべきものだったのだ。かつて自分は一生鎖につながれるのだと信じ、自分を助ける力のある者は、自分の窮状など一顧だにしないのだと確信した。独房の暗闇の中で、トゥリアの励ましがまだ心に新しい状態で、驚くなかれ、宇宙の形を推測した──だが、それ以上の仲間意識を奪われたら、自制心が長く保ったかどうかは疑わしい。ニノもいまは考えごとをして正気を保っていられるが、永久には保たないだろう。
ヤルダはニノのもとを立ち去った。自分のデスクのところで立ち、フリドのもの問いたげな視線を無視して、星図を熟視しているふりをする。
自分は〈孤絶〉の乗員たちにどんな責任があるだろう? なによりも安全だ。しかし、ニノの死はそのために不可欠というわけではない。復讐の満足感だろうか? ニノが死ぬところを目にすれば、大部分の人が喜ぶだろう。だが、自分はその快楽を人々にあたえる責任があるのだろうか?
そして、ニノに対してはどんな責任があるのか? ニノは弱く、愚かだったが、生きる権利を喪失したのだろうか? アシリオがヤルダを 彼の愚劣な争いに引きずりこんだとき、ヤルダ自身の誇りはアントニアの自由を失わせた。ニノの犯罪があまりにも重大なので、いかなる慈悲にも値しないと宣言する自分は何様だろう?
だが、もしニノの命を救えば、それで終わりにはならないだろう。ニノを監禁しつづければ、頭から追い払えず、自分にはニノの安寧と正気に対する責任はないというふりはできないだろう。
ヤルダは星図をじっと見おろした。図の端からはみ出している針路の始点近くにある二、三の×印を。(自分は将来の世代にどんな責任があるのだろう、自分のふるまいしだいで決まる針路をたどることになる人々に対して?)正義の概念が、祖先の時代よりも粗雑ではなくなるという希望だ。二、三の的確な賄賂や、ひとりの判事の気まぐれが、だれかを死ぬまで地下牢に閉じこめることのできた、祖先の時代よりも。高い視点を持つことが、将来の世代に対する自分の責任だ。
ヤルダはフリドに目をやった。「死刑はおこなわない」ヤルダはいった。
フリドは満足そうではなかったが、ヤルダの態度から、議論しても無駄だと理解したようだ。「決めるのはあなただ」フリドが答えた。「あの男を山の上へ送りたいですか?」
ヤルダはいった。「わたしがここにいるあいだは送りたくないわ」
「まだ尋問する必要があるんですか?」
「いいえ。ニノがアシリオについて教えられることは残っていない」
フリドは混乱した。「それなら、なぜここに置いておくんです?」
ヤルダは、自分たちの叫び声でバビラが目をさましたのに気づいたが、彼女にも聞いてもらう必要があった。
「もしニノの自由を奪うのなら」ヤルダはいった。「その結果に対処するのはわたしの務めになる。彼を忙しくしておく方法を見つける必要が出てくるわ」
「どうやって忙しくさせるんです?」フリドが抗議した。「あの男は農民だ、職人じゃない。あの独房を工房に変えることはできませんよ」
ヤルダはいった。「そんな野心的なことを考えていたわけじゃないわ」
バビラがベッドから起きあがり、「じゃあ、なにを?」
ヤルダはいった。「こういう場合の第一歩はなんだと思う? 記録が正しければ、ニノは学校へ行ったことがない。だから、まず読み書きを教えるのよ」