「きれいだわ」ヤルダは心を動かされ、好奇心をそそられた。「これはなに?」

「ネレオの方程式を覚えてる?」ヴァレリアが尋ねた。

「もちろん」ヤルダは何年にもわたり光学の分野で独自の研究をする時間がなかった──そしてネレオ本人は、赤塔市に彼女が訪ねたあとまもなく亡くなっていた──が、ヤルダは光と物質との相互作用にまつわるネレオのアイデアを追求したくて仕方がなかった。

「三年前」とヴァレリア。「あたしが大学に通いはじめたばかりのころ、あなたがその方程式の説明をしてくれた。そしてただひとつの点──〝輝素〟からなる光源の解を見せてくれた」

「覚えているわ」ヤルダは、その問題について知られていることがいまだにどれほど少ないかをヴァレリアに伝えようとする一方で、まだ広げられるかもしれない無知の裂け目をちらりと見せてやったのだった。

「あのあとまもなく」ヴァレリアは言葉を続けた。「あたしたちは重力を学んだ。そして、ヴィットリオがただ一点に集中された質量の位置エネルギーを推測したあとにまずやったことは、その質量を球殻状に並べた場合にどうなるか計算することだったと聞いたの」

「なるほど」ヤルダは紙をじっくりと見直し、誇らしさと喜びで胸がいっぱいになった。「するとこれは等価物なのね、光の場の」

「ええ」

 ヤルダは結果を吟味した。「あなたの描いたこのサイズは、それぞれの殻の半径なの?」

 ヴァレリアが答えた。「ええ。ヴィットリオによれば、殻の外側では、重力の位置エネルギーは、単にすべての質量が中心に集中している場合とまったく同じだから、光の場も同じ法則に従うだろうと思ったの。でもそれは従わなかったので、あたしは自分が過ちをおかしたと考え、クロスチェックとして使える別のテクニックを習得するまで待たなければならなかった」

 ヤルダは目にしているものの含意をいまだに吸収しようとしていた。「あるサイズの殻にとって……外の場は完全に消失する の?」

「そのとおりよ」ヴァレリアがヤルダの言葉を裏づけた。「半径が最小波長の半分の倍数だと、いつでもそうなるの。そして四分の奇数波長だと、内側の場が消える」

 無数の点光源から生まれる波打つ場が、少しでも幅を持つような領域でぴったりと相殺できるとは、ヤルダには思いもよらなかった──無限のそれはいうまでもなく、しかもそれほど単純な幾何学から。ヴァレリアが最初の計算を疑ったのも無理はない。それはまるでだれかが、一グロスの鳴り響く鐘は、正しいサイズぴったりの円内に配置するだけで聞こえないようにできると主張したようなものだ。

「ゾシモとジョルジョには見せたの?」

 ヴァレリアはいった。「あなたに最初に見てもらいたかった」

 ヤルダは紙片を脇にやり、ヴァレリアを抱きしめた。「すてきな贈り物よ。ありがとう」(あなたのお母さんは、ここにいてこれを見るべきだった)ヤルダは思った。しかし、その言葉は異様すぎて、声にはできなかった。

 リディアがいった。「おふたりの邪魔はしたくないけど……そのなにかの絵は本物なの?」

 ヤルダは、ネレオが輝素と名づけた仮説上の粒子のまわりにできる光の場について、そしてヴァレリアが殻の中に配置された無数の輝素が作る場をどのようにして足しあわせたかの説明をはじめた。しかし、リディアがそれを黙らせて、「わたしは、それがだれの目にも見えて、触ることのできる物なのかって訊いたの」

 ヤルダはしばらく考えた。輝素はふつう、光の場の溝に囲まれているけれど、正しく配置されれば、その周囲の地形がまっ平らになりうるということは、なにを意味するのだろう?

 ヤルダはいった。「触ることはできるけれど、見えないっていうのはどう?」

「なに、薄い空気のこと?」リディアがジョークを飛ばした。

「そのとおりよ」ヤルダはヴァレリアと目配せを交わした。ヴァレリアは一瞬とまどったようだったが、すぐに理解した。

「物質のあらゆる性質は、光の場に原因があるのかもしれない──ネレオはそう思ったのよ」ヤルダは説明した。「燃料が燃えたり、花びらが光ったりすることだけじゃなく、どうやって岩がボロボロと崩れるのではなく結合していたり、つぶれて粒にならずにいたりするのかも。土埃はネバネバしていて、細かい土埃はもっとネバネバしているのに……だれもがいちばん細かい土埃だと考える空気のような不活性ガスは、なぜどんな物にもくっつかず、それ自体にさえくっつかないのか」

「で、この絵が答えなの?」リディアは困惑した。

「すべての答えではないわ」とヤルダ。「でも、ひょっとしたら、最後の謎に関する手掛かりになるかもしれない。固体 がどうすれば輝素からできるのか、調べるのはむずかしくないわ。粒子はたがいの作るギザギザになった場の溝の中にあって、そのために粒子どうしは一定の距離を保ってある種の配列をなす。地面から拾ったふたつの石は、くっつき合おうとしない──たとえ平らに磨いたとしても──なぜなら、それほどおびただしい数の粒子の場合、むきのそろった単一の完全な配列になることは望めないから。でも、土埃の粒はもっと軽いし、じゅうぶん小さいから、内部の幾何学はそんなに雑多な寄せ集めにはならない。なにもかもが一列に並んで、ふたつの粒がくっつく見こみは増えるのよ。従って、もしガスも輝素からできているなら──そして目に見えないほど細かいのなら──なぜもっと強くくっつき合わないのか?」

 リディアにはやはりお手上げだった。ヤルダは手助けをしてやれとヴァレリアに目配せした。

「ちょうどいい大きさの球殻内に輝素を並べるとしましょう」とヴァレリア。「そうすると、輝素の規則的な配列のほとんどを引っつきやすくしている力は、殻の外で消えてしまう。そういう殻はどんな物にもくっつかない──だから、もしかしたら、ガスはそれでできているのかもしれない」ヴァレリアはためらってから、ヤルダのほうをむいた。「もっとも、それでうまくいくとは思わない。もし外側の場が消える殻の端で位置エネルギーの曲線を見れば、外むきの力を生みだすような仕方でつねに傾斜する──だったら、殻そのものを引き裂いてしまわないかしら?」

 ヤルダは図をチェックして、「ほんと、そのとおりよ」といった。「そうすると、もっと微妙な力が働いているに違いないわ」

「なるほど、ここに答えはないのね」ダリアがジョークを飛ばした。「〈孤絶〉に出かけてもらって、わたしたちの代わりに答えを取ってきてもらわないと」

「でも、これは惜しいところまでいっている」ヤルダはこだわった。「もし説明のすべてでなくても、やっぱり有力なヒントよ」

 ヤルダは光学についてヴァレリアとひと晩じゅうでも話していられたが、それでは別れがむずかしくなるだけだろう。「最近あなたのお兄さんに会った?」ヤルダは尋ねた。

「二日前に」ヴァレリアが答えた。「彼が工場へ行っているあいだ、子どもたちの世話をしたわ」

「でも、あなたは勉強しないと!」小言をいうつもりはなかったが、ヴァレリアが自らのチャンスをつぶそうとしていると思うと、ヤルダは我慢できなかった。「そんなことをずっとしている余裕はないでしょう」とつけ加える。

「してないわ。ヴァレリオも手伝ってくれる。それにアメリオにもほかの友だちがいるし」ヴァレリアは見るからに話したくなさそうになってきていた。ヤルダはその話を取りさげることにした。もしアメリオが許せば、リディアとダリアが子どもたちの世話を手伝っただろう。しかし、彼とアメリアに遅らせるよう説得しようとしたふたりに対して、アメリオはいまだに腹を立てていた。ヤルダがトゥリアの孫に会うことは決してないだろう。しかし、アメリオが最後には怒りを解き、別の名義上のおばたちとの仲違いを解消するかどうかも怪しかった。

 リディアがいった。「スピーチを聞き逃してよかった。でも、食べ物にまったくありつけないのは願い下げよ」ヤルダが先に立って屋内へ入ると、ジョルジョの子どもたちが相変わらず食料貯蔵室とのあいだを走って往復して、全員に食べ物を配っていた。

 ヤルダは会話が厳粛になりすぎないように努めた。友人のひとりひとりに真面目な宣言のようなものをしたり、まるで相手が勘定を清算するビジネス・パートナーであるかのように、たがいのあいだにあったいっさいを総括し、正そうとしたりするつもりはなかった。ヤルダはこれまで、子どもたちを育てるという重荷を過分に負ってくれたリディアにしばしば謝ってきたし、何度となく助けてもらうたびにジョルジョとダリアに感謝してきたし、受けいれてもらえそうなときはいつでもヴァレリアとヴァレリオを励ましてきた。あわただしいふた言三言で伝えられそうなことはもうないし、ヤルダがいちばんしたくないことは、死の床で償いをしているように思われることだった。

 真夜中に近いころ、招待客たちがいとまを告げはじめた。大学や〈単者クラブ〉から来た数ダースの人々──ヤルダがいっしょにダイスを振ったり、哲学や物理学のなんらかの問題を論じあった知り合いたち──は、飛行の無事を祈ってから、それ以上のしゆうたん はなしに去っていった。

 家が空っぽに近くなると、ジョルジョが近寄ってきた。

「駅で見送ってもいいかな?」ジョルジョが尋ねた。

「もちろんです」

 ヤルダには荷物がなかった。所有物はすでにひとつ残らずベースタウンにあるし、これから必要になるものは、いっさいが山そのものの中にある。六人はそろって、ひっそりした通りを歩いていき、頭上高くでジェンマが道を照らしていた。

 プラットフォームで、出発まであと一分隔ラプス になったとき、ヴァレリオがうなりをあげてむせび泣きをはじめた。ヤルダは困惑した。ヴァレリオが三つのときから、ふたりは親しくなかったからだ。ヤルダは身をかがめて彼を抱きしめ、ほかの人たちが泣きはじめないうちに静かにさせようとした。

「わたしはまだ死んでいないわ!」とジョークを飛ばし、「一年と一日待って。そうしたら、わたしを悼んでもいいわ。でも、そのときまでわたしが長生きしたはずだということを忘れないで」

 ヴァレリオはなにをいわれているのかじつはわからなかったが、落ちつきを取りもどした。「ごめんなさい、おばさん。旅の無事を祈ってます」

「お兄さんの世話をしてね」ヤルダはいった。(そして彼の真似はしないように)

 ヤルダの後眼に、こちらをにらんでいる車掌が映っていた。エンジンはすでに動いており、火花が宙に立ちのぼっている。ヤルダがヴァレリオを放し、ほかの人たちに手をあげて、がらんとした客車に飛び乗ると同時に、列車が動きだした。

 ヤルダは床にすわりこみ、目を閉じると、手足を切断されるようなショックに備えた。


 遠目に見る〈孤絶山〉は、もとの状態からほとんど変わっていなかった。列車が近づいていくあいだ、ヤルダは山頂をはじめて目にしたとき以来、わずかに植生が薄くなった以上のなにかを必死に見つけようとした。拡幅され、延長された山道は、いまも地上からは見えない。そして新しい溝から掘りだされた荒石の山さえ靄の中に消えていた。

 ベースタウンが路線の終点だった。ヤルダが駅から出ると、大広場は人けがなかった。ほんの二ステイント 前には市場が立っていた場所には、剝きだしの埃っぽい地面があった。建設作業員も交易商人もひとり残らず去っており、おそらくエウセビオの関係者がまだ数ダース残っていて、最後の片づけをしているのだろうが、オフィスへの途中で出会ったのは、仲間の搭乗者たちだけだった。このことは、自分たち以外の世界とはすでに縁を切ってしまったという不気味な感覚を呼びおこすばかりか、応募者の最終リストに載っている六グロスほどのうち、ごくわずかしか名前を覚えていないという問題も引き起こした。

「こんにちは、ヤルダ!」通りの反対側から女が声をかけてきた。

「こんにちは!」女の顔を知っていることは、気まずい思いを募らせただけだった。

「もうじきですね」女は陽気にいった。

「ええ」ヤルダは「あなたの双に望遠鏡の買い時だと教えてあげなさい!」といいたくなる気持ちを抑えた。それが適切な助言で歓迎される確率は高いものの、双といっしょに乗り組みにきている人を離反させるリスクをおかしてまでいうほどのことではない。

 エウセビオはオフィスにいて、アマンドとシルヴィオとともに報告書を熟読していた。ヤルダは彼らの邪魔をしなかった。彼女自身のデスクは空っぽも同然だった。ヤルダはここを立ち去る前に、もし予想外の障害に遭遇したら、〈孤絶〉が実行しなければならない操縦に関する計算をダブル・チェックしていた。ヤルダたちはどうやら、航宙のための完璧な針路──宇宙空間を突きぬける空っぽの回廊で、正しい方向にあり、ひとつの星にも近づかずに通り抜けるのに一エイジ かかるほど長い──を発見できたように思われるが、しかしひとたび大気圏の上に出れば、新たな観測の結果、よけなければならない障害物が明らかになる可能性はある。

 ヤルダはもういちど細部を検討した。もし障害物が大きすぎなければ、迂回しても、まだ無限の速度に達することができる──たとえあとの旅のための燃料が、当初の計画よりは残り少なくなったとしても。〈孤絶〉の凱旋を保証する方法はないが、もし搭乗者たちが直交する軌道を獲得できず、疾走星を手なずけて母星での時間経過を停止させることに失敗すれば、利点はまったく残らないだろう。

 助手たちが立ち去ると、エウセビオがヤルダに近づいてきた。「ズーグマの友人たちとはうまくいきましたか?」彼は尋ねた。

「申し分なく」ヤルダはエウセビオに無理して気づかってほしくなかった。お気持ちはよくわかります、といってほしくなかった。ヤルダはいった。「名札が必要だと思うわ」

「名札ですか?」

「搭乗者用に。全員が首飾りにつけられる物。だれがだれかわかるように」

 エウセビオが困った顔をした。ヤルダはいった。「わたしが自分で手配するわ──心配しないで」

「作業場はどこも空っぽです」エウセビオは腕を広げ、ゴースト・タウン全体をかかえこもうとした。「人々だけじゃなく、道具や材料も」

「〈孤絶〉の中は違うんじゃないかしら」

 その言葉にエウセビオは意表を突かれたようだったが、すぐに反対する根拠がないことに気づき、「なるほど、そうですね」壁の計画表をチェックして、「七番作業場はどうです?」

「いいわ」

 ヤルダは応募者リストの予備を見つけた。エウセビオとふたりで、志願者を募るためにはじめて出かけたときには、一ダースの紙が名前で埋まるとは想像もできなかった。だが、この最終的な総数でさえ、ヤルダの故郷である村の人口には及ばないのだ。

 ベースタウンと〈孤絶〉とのあいだを毎 往復するトラックはまだあったが、もはや需要は高くなかった。ヤルダのほかにはよく知らない運転手が乗っているだけだったので、彼女は後部にひとりきりですわり、靄の中へ遠のいていく街を見守った。エウセビオのところへ行って、「気が変わった。残るわ」といったらどうなるだろう、と疑問が湧いた。自分に期待されていることは、すべて代わりが務まる技能を備えた人々がほかにいる。プロジェクトがすぐに瓦解することはないだろう。しかし、とても多くの他人に仕掛けた罠に自分自身がはまっていることに、ヤルダは気づいた。自分がいるかいないかで成功か失敗かが決まるかもしれないと信じるほどには、うぬぼれているのだ。それに、〈孤絶〉を見捨てて、留守のあいだの四年間、世界の問題がよそで解決されるのを地上で待つという職務放棄は、空想するだけならぞくぞくしなくもないが、もし実行に移したら、その期待の四年間の結末に沈黙が待っている可能性のほうが、宇宙空間を抜ける旅をすることよりもよほど恐ろしい、とヤルダには思えた。

 トラックはいちばん近い歩道橋でヤルダをおろした。山を取り巻く風隙は、ズーグマを分断する裂け目クレバス よりも幅があったが、ロープと木でできたこのまにあわせの構造物は、〈大橋〉にはほど遠い代物だった。ヤルダは手すり代わりのロープをしっかりと握り、揺れる板の上をそろそろと歩きはじめた。

 北風が、掘りだされた土砂の山から土埃をまともに運んできて、ヤルダの目と肌を刺す。途中で麻痺したようになって、ヤルダは立ち止まった。これよりも風が強いとき橋を渡ったことは何度かあったが、その過去の試練を思いだしても助けにはならなかった。

 打ち上げは五日後だ。作業場までのぼるのは一日がかりで、すべての名札を作るのに少なくとも二日はかかるだろう。そのころには、搭乗者全員が合流してきて、ベースタウンの最後の立ち退きがはじまっているはずだ。いま山に入れば、二度と出てこないことになる。

 ヤルダは静かにハミングしながら、トゥリアがかたわらにいて、自分を元気づけようとしているところを思い描こうとした。なにを恐れているの ? 死はどこにいても襲いかかってくるだろう。世界に安全な場所は残っていない。旅の危険と放浪の辛苦のことを長々と考えつづけることはできる──あるいは、これをほぼ完璧な聖域へ導いてくれる計算ずみのギャンブルとして扱うこともできる。聖域とは、脅威を追い払い、帰郷する方法を見つけるのに必要な期間を、何世代もが考えたり学んだり、計画を立てたり実験したり、自分たちのアイデアをテストしたり、方法を洗練させたりできる場所のことだ。

 もし〈孤絶〉が砂漠の中の都市──学者の都市、無料ホリンの都市、ヤルダの腕を融合させたり、ヤルダを投獄したりできる、ナイフをふるう凶徒のいない都市──にすぎなかったら、その城壁の内側をさまよって二度と出てこない、ということはなかったのではないか? ここがわたしの死に場所なの とうれしげに宣言することもなかったのではないか?

 ヤルダは気を取りなおし、橋を渡っていった。


 議場は〈孤絶〉の現在の人口の二倍を収容できる設計だった。もっとも、優雅な段になった床がのちのち──つまり、重力のない状態で──どれほどうまく機能するか、ヤルダにはよくわからなかったが。ヤルダは入口に立ち、ぞろぞろと入ってくる人々に挨拶しながら、十二個のバケツに分けて入れておいた名札を取りだし、別の容器から出した首飾りといっしょに手渡していた。搭乗者たちは落ちつきはらっているように思えた。ひとりひとりと長く言葉を交わす時間はなかったが、ズーグマでの勧誘のときは、もっと不安げな表情を目にしていた。

 予定の時刻には、引き取り手のいない名札は二ダースに満たず、遅刻しただけの人が何人かいるという可能性もまだあった。ヤルダは大いに驚いていた。心変わりして約束を取り消した志願者は、三ダースにひとりだけだったのだ。もし一年前に、脱落者が何人出るか賭けるかといわれたら、三人にひとりに賭けただろう。

 エウセビオが演壇の脇で待っていた。時計をチェックし、ヤルダのもとまで歩いてくる。

「はじめますか?」

「遅れてくる人にあと一鳴隔チヤイム あげて」ヤルダはいってみた。「ベビーシッターの残業代を心配するような人は、ここにいないみたいだから」

 エウセビオはひるんだ。ズーグマでの自由討論会のひとつに出席した男が、まさにそれを根拠にふたりを追いつめ、支払いを要求したのだ。「思いださせないでください」エウセビオがいった。「二ステイント のうちに、ぼくは大公会堂の巡回に戻って、火災監視員の募集活動をします」

「募集活動ですって?」ヤルダは驚いた。「あなたが引き受けなければならないの? プロジェクトにはほかにも支援者がたくさんいると思っていたわ」

「言葉を広める人々はたくさんいますよ」エウセビオは同意した。「でも、支援をさらに積みあげる必要がまだまだあります。さもなければ、監視する地域が隙間だらけで、じっさいにうまく機能する見こみがなくなります」

 エウセビオの新しい目標に幸運を祈り、話を切りあげるべきだろうかとヤルダは思ったが、すぐに失うものはないのだと判断した。

「わたしたちに加わる気はないの?」ヤルダは尋ねた。「これを最後まで見届けられる人はいないけれど、もうしばらく〈孤絶〉を監督できるわよ」

 落ちつかなげな表情がエウセビオの顔をさっとよぎり、守りを固めるかのように強ばった。「ぼくは自分の役割がなにか、つねにはっきりさせてきました。ロケットを作る以上のことは、いちども約束していません」

「わかっているわ」ヤルダは穏やかにいった。

「そうしなければならないのなら、子どもたちを置いていけます」エウセビオは認めた。「あの子たちを育てているのは、ぼくよりは父です。それに、ほかの人々が火災監視の闘士として働くだろうということも確かです」そこで言葉は途切れた。

 ヤルダは沈黙を埋めたいという衝動と闘った。あなたの選択は理解できるし、それを責める理由などないのだといってやりたい衝動と。エウセビオを傷つけたり、バツの悪い思いをさせたくなかった。しかし、彼の答えを最後まで聞きたかった。

「もしぼくがいっしょに乗って」エウセビオがいった。「〈孤絶〉が失敗したら……そうなったら、ほかのだれかが同じことをもういちど試みる気になるでしょうか。そのときも、この世界を守る本物のチャンスはこれしかないでしょうが、ほとんどの人々は、その考えを一から十まで信用できないものだと見なすでしょう。だからぼくは残るんです。ぼくはこれを達成するために闘える状態でいなくてはなりません」──周囲の山を身振りで示し──「もしそうすることが必要になったときには、また一から」

 ヤルダはエウセビオの論法に欠点を見つけられなかったが、彼の描いている見通しには背すじが寒くなった。ここは、あとに残していく人々に第二の機会があたえられるのだと思って、喜ぶべきところなのだろう。しかし、結局は〈孤絶〉さえ替えが効くのだという考えは、ヤルダ自身の選択を正当化する役にはあまり立たなかった。

 ヤルダは返答しなくてもよくなった。ある年配の男が申しわけなさそうな顔をして近づいてきたのだ。「曲がるところをまちがえた」男は説明した。「ここはまるっきり迷宮だよ」

「お名前をお聞かせ願えますか?」

「マカリオ」

 ヤルダがマカリオの名札を取りにいくと、エウセビオはそこから離れて演壇にあがった。遅れてきた男が首飾りをかけたときには、議場は静まりかえっていた。

「〈孤絶〉へお帰りなさい」エウセビオはそういってはじめた。「わたしが友人で教師のヤルダに近づき、疾走星についてなにができるかを話しあってから、かれこれ七年近く経ちました。当時は、自分たちの身を守るチャンスは大してないように思われました。自分たちが直面しているものを、ろくに理解していなかったのです──そして知っていたことの大部分は、無力感を募らせるものばかりでした。しかし、いま、われわれには答えのはじまりがあります。この世界全体で、〈孤絶〉とその搭乗者たちは、希望をいだく理由なのです」

 議場全体でランプが点いていて、それを消したり、演壇にスポットライトを投じたりする照明技師はいなかった。ヤルダが後視線を聴衆に注ぐ中、エウセビオが聴衆の勇気と献身に礼を述べた。危惧をいだいているしるしが議場のあちこちに見てとれた──不安げに背中を丸めたり、目を伏せたり──だが、ほとんどの人々の気持ちは揺らぐことなく、自分の決断と折り合いがついているようすだった。

「同僚とわたしは、みなさんの旅が確実に安全で心地よくはじまるよう、力のかぎり働いてきました。しかし、過去においてみなさんに噓をついたことはありませんし、いまも噓をつくつもりはありません。われわれには、みなさんになにかを約束する力はありません。最善を尽くしたにもかかわらず、すでに七名が死亡しています。六名の建設作業員と、飛行試験をおこなった一名の志願者が。二日のうちに、この山全体が荒石と炎に変わらないと保証することはできません。そんなことは起きるはずがないと信じるかたがこの議場にいらっしゃれば、立ち去って、故郷へ帰ってください。なぜなら、誤った前提のもとにここにいることになるからです。

 同僚とわたしは、〈孤絶〉が宇宙空間を旅するあいだ、みなさんと、みなさんの子どもたちが生き延びて繁栄するために必要となる物を予想しようともしてきました。しかし、その旅をした人はこれまでおりません。この件に関して知識の一覧表はないのです。行く手に横たわる領域に関する専門家はおりません。もしこの点を誤解なさっておられるなら──もし一ダース世代のあいだ生活の必需品は保証されているとお考えのかたがいらっしゃれば──その人も立ち去り、そういう確実性をよそで探してください。なぜなら、〈孤絶〉にそういうものは存在しないからです」

 エウセビオが率直に語る必要性は理解できたが、やりすぎではないだろうか、とヤルダは思った。いまや多くの人々が明らかに居心地悪げにしているし、目に見えて興奮している者もちらほらいる。新しいことを知らされているわけではないが、同じ飲みこみにくい真実と対処するのにも、各人それぞれの流儀があるのだ。

「万事が順調なら、あと二日で、みなさんはこの世界をあとにするでしょう」エウセビオは言葉を続けた。「そのとき、みなさんの運命は、わたしの手中ではなく、みなさんの手中にあります。しかし、〈孤絶〉は複雑な機械であり、みなさんはひとり残らず自分自身の任務に関してはできるかぎり徹底的に訓練を受けているものの、機械全体を理解している人はごくわずかにすぎません。教育の過程は続けられるでしょう──そして一世代か二世代のうちに、〈孤絶〉の中で暮らす成人の全員が、わたし自身よりもしっかりとその複雑さを把握するよう願っています。とはいえ、さしあたり、この機械をどのように動かし、危機をどのように切りぬけ、不和をどのように解消し、次々と持ちあがる困難や論争にどのように対処するかを決めるのは、ヤルダの役目です。ヤルダと、その代理人フリドと、彼女が助手や助言者に任命するほかの者はだれであれ、みなさんを安全に保つことに責任を負います。そしてその人々の決断が、最終的なものでなければなりません。来たるべきエラ に〈孤絶〉がどのように自らを律するかを語るのは、わたしの役割ではありませんが、この瞬間に関しては──そして彼女が適切と見なす期間は──ヤルダが唯一の権威でなければなりません。ヤルダに絶対の忠誠と服従を約束できないのなら、いま出ていってください。なぜなら、その人はここにいる全員にとって危険だからです」

 この宣言に応じてむきを変え、ヤルダを値踏みするようにじろじろ見るほど不作法な人は、ほんのひと握りだった。そしてヤルダは、これまでのところ、この取り決めにいちばん満足していない搭乗者は自分ではないだろうかと思った。しかし、ヤルダの全能には委任の権力も含まれているのだから、いちばんだまされたと感じてしかるべきなのは、おそらくフリドなのだろう。

「今夜、わたしが歩み去るように説得したみなさんには」エウセビオがいった。「すでにわたしの感謝と敬意を獲得しており、ご自分の立場を再評価しても、それを失いはしないのだと申しあげます。しかし、警告と、意気をくじく話は、これでおしまいです。とどまることを選ばれたかたすべてに対して──行く手にある危険と困苦に目をひらかれているのですから──わたしのメッセージは、約束のそれです。力を合わせて、われわれはこの美しい、複雑精緻な種子を作りあげました。それを宇宙空間へ放りこむ準備をしているいま、それが生存のための回復力だけではなく、驚くべき新文明へと成長する能力も備えていると信じます。みなさんの勇気と不屈の闘志にはすでに感服していますが、みなさんの子孫の業績は、あらゆる時代を通じての驚異になるだろうという希望をいだいて、わたしはこれでみなさんとお別れします。幸運を──そしてみなさんの故郷へようこそ」

 聴衆が拍手喝采をはじめる中、エウセビオの判断は結局正しかったのだ、とヤルダは結論づけた。もし搭乗者たちが直面するリスクについて触れずにすませば、エウセビオの称賛は空虚なお世辞のように聞こえただろう。たとえひと握りの者が出ていったとしても、いまや残った人々は、自分たちの決意がいまいちどテストに合格したという事実から力を得ることができる。

 エウセビオがフリドを壇上に呼んだ。「打ち上げのときの持ち場はだれもが承知していると思いますが」フリドはいった。「ここでお待ちいただき、わたしか、リナか、ラヴィニアの確認を受けるようお願いしなければなりません──彼女たちはまもなくわたしの右側に立ちます。まず第一に、立ち去られるかたは、どうか進み出て、名札をお返しください」

 数人がおずおずと演壇にむかって動きはじめた。エウセビオはフリドと短く言葉を交わしてから、彼を抱きしめた。自分が加わる気になったのは、孫たちを見たからだ、とフリドはヤルダにいったことがある。このプロジェクトで働けてじゅうぶんにお金をもらったので孫たちは不自由なく暮らせるが、疾走星の火災を消す見こみがどうあれ、迫り来る直交星群に対処する希望をさしだしてくれるのは〈孤絶〉だけだ、と。

 フリドと別れると、エウセビオはヤルダに近づいてきた。「そろそろ行かないと」エウセビオがいった。「立ち退きの予定はギリギリです。いっしょに歩いていきませんか?」

 ヤルダの打ち上げ時の持ち場は、議場の三街離ストロール 下、ほぼ地上階にあった。ふたりはいっしょに移動し、追憶にふけり、最後の考えを交換して一日をすごすこともできる。

「ここに残って、何人を失ったのか確かめないと」ヤルダはいった。

「フリドとスタッフで、仕事の配分はやり直せます」エウセビオが答えた。「彼らを信用して、そういうことはまかせないといけません」

「万全の信頼を置いているわ」とヤルダ。「でも、わたしもいっしょにここにいるべきなのよ、なにもかも片づくまで」

「わかりました」エウセビオはヤルダの決断に困惑しているようだったが、これほど多くの見物人の前でいい争うつもりはなかった。「では、道中ご無事で」エウセビオはいった。

「あなたもね」ヤルダは静かにブンブンと音を立てた。「わたしたちふたりにとって長い四年になるでしょう。わたしの子孫が戻ってきたとき、太陽が三つ見つかったなんてことにならないようにして」

「最善を尽くします」エウセビオはヤルダと目を合わせ、ふたりの仲がどういう状況か見極めようとした。ヤルダは、単なる友情と、別れに対する抑えた悲しみだけを顔に浮かべた。感情はそれしか見せない。いまとなっては、それ以外の感情を明かすことさえ無意味だった。ややあって、エウセビオはそれ以上のものを探すのをやめた。

「幸運を」エウセビオがいった。目を伏せ、ヤルダの脇を通りすぎて、議場から出ていく。

 ヤルダは、新しい隣人たちが先を争うようにフリドと助手たちのもとへ殺到するのを見守った。どこからともなく、ダリアに対する怒りがいきなりこみあげてきた。もう責任を負うべき相手もいなければ、退職もまぎわだというのに、なぜここへ来て教師役を務めることができないのか?

 若い単者が人混みの端に立っていた。ベネデッタの死を目撃した応募者のひとりだ。あのときの見学者のうち、プロジェクトに残ることを選んだのはふたりだけだった。

 ヤルダは彼女のもとまで足を運んだ。「ファティマ?」

「こんにちは」少女は恥ずかしそうに返事をした。ふたりは前にも会っているが、エウセビオがヤルダの権力を宣言したいまでは、おそらく近寄りがたいとても尊大な評議官に見えているのだろう。

「あなたの仕事は?」ヤルダは尋ねた。「知っているべきなんだけれど、あなたの配属先を忘れてしまって」

「薬草園です。草むしり」ファティマはがっかりした声を出したが、自分の運命を甘受していた。

「でも、まだ授業を受けられるわ。興味があれば、わたしが教えてあげる」

「光について教えてもらえますか?」

「ええ」

 ファティマはためらってから、大胆になってこうつけ加えた。「あなたが知っているなにもかも?」

「もちろんよ」ヤルダは約束した。「そうでなかったら、どうやってわたしの二倍の知識を身につけるの? でも、とりあえず、あなたといっしょに薬草園で働くほかの人々を探してみてから、みんなで下におりていきましょう」