「探査機が青い光の五分の四の速さで飛ぶと、直交星群から出た赤外線は、四空間内で探査機の過去方向から来る紫外線に相当する角度で到達するでしょう」ベネデッタは証拠をふたたび掲げた。「そこで、直交星群の画像を──わたしたちにとっては依然として完全に未来にあるわけですが──なんとか記録できました。星々の来歴の一部を探査機の過去に置くような速度を、探査機にあたえることによって」

 ファティマがいった。「どうしてそれが通常の星々じゃなくて、直交星群の画像だとわかるんですか?」

 ベネデッタは身振りで自分の胸を示し、「光と、通常の星々の来歴との角度を見てください。通常の星々にとって、光は時間を遡っているんです! それを発することができたのは、直交星群だけです」

 ヤルダがつけ加えた。「それに、もし直交星群の未来が反対側をむいていたら、探査機が反転してこちらへ戻ってくるようになってからでないと、画像を撮影できなかったはずよ。だから、いまは矢印のむきがわかるわ──疾走星そのものではなく、疾走星と起源を共有する星々の光から」これでようやくベネデッタが前からいだいていた不安がおさまった。〈孤絶〉が直交星群団クラスター の過去へまっしぐらにむかっているので、ロケットを周囲のエントロピーの矢に対抗させつつ作動させる必要があるかもしれない、という不安が。旅の復路まで、その挑戦には応じなくてすむことが、これではっきりしたのだ。

「じゃあ、どれくらい遠いんですか?」ファティマが尋ねた。「その直交星群は」

 ベネデッタは画像を見おろした。「はっきりしません。どれくらい明るいのかわからないから。でも、わたしたちの星と同じくらいの明るさだとすれば、いちばん近い星は、せいぜい一ダース年といったところでしょう」

 見学者たちは沈黙したままこの新事実を吸収した。五つの疾走星がのろのろと朝空に広がりつつあった。そしてジェンマ本体が地平線より下にある一方で、その世界を火だるまにした小球よりもはるかに大きな侵入者が、ここには約束されていた。

 迷っていた人たちの中には、その明確な新たな脅威を理由に参加を決めた人がいるかもしれない、とヤルダが考えはじめたちょうどそのとき、レオニアがその雰囲気を破った。「六ダースの探査機が出ていって」レオニアはいった。「回収されたのはこれひとつなんですか? なにがあったんです? ほかのはひとつ残らず地面にクレーター をあけて終わったんですか?」

「そうかもしれません」ベネデッタは認めた。「着陸を自動化するのは困難です。でも、ほんとうの問題は、それほど遠いところから探査機をこのちっぽけな岩のかけらに帰還させることでした。この世界は非常に小さな標的です。姿勢と噴射の制御に許容される誤差は、実現可能な限界ギリギリだとだれもが思うようなものでした。ひとつでも帰ってきたのは幸運でした」

「でも、〈孤絶〉はずっと速く飛ぶことになるんですよね」セラフィナが不安げにいう。

「操縦する人が乗っているから」ヤルダは答えた。「帰還を機械仕掛けまかせにすることはありません」

 レオニアは動じなかった。「でも、そうだとしても、あなたがたの大計画を──はるかに小さなスケールで──リハーサルしたとき、六ダースのうちひとつしか成功しなかった。それなのに、ハタネズミをお手玉すれば 、わたしたちを感心させられると思っていたんですね!」

 ヤルダがお膳立てした打ち上げのデモンストレーションは、六匹の動物を大気圏より上へ運んでから、連れおろすことになっていた──願わくは生きたままで。〈孤絶〉の飛行の代わりにならないのは明らかだが、取るに足らない業績ではない──そしてエウセビオのロケットがもはや打ち上げ時に爆発したり、エンジンの熱で乗員を蒸し焼きにしたりしないとわかれば、心安まる人もいるはずだ。

「それなら、どうすれば納得してもらえるの?」ヤルダはいらだたしげに尋ねた。「フルスケールの予行演習として、樹精の乗員を乗せた〈荘厳山〉を打ちあげればいいのかしら?」

 レオニアは、この皮肉っぽい壮大な申し出に、はるかに慎ましい代案で応じた。「ハタネズミの代わりに、あなた自身が行くなら、考えないでもありません」

 ヤルダが答えるいとま もなく、ベネデッタがいった。「わたしが行きます」

 ファティマが心配そうに低い音を発し、「本気なの?」

 ベネデッタはファティマにむき直り、「本気も本気よ! ロケットを点検し、新しい重量に合わせて調節しなおすため、二、三日もらえればいいわ」

 ヤルダがいった。「この件は話しあう必要が──」

「それならハタネズミよりはるかに説得力がある!」アッスントが勢いこんでいった。彼の双が同意し、「あたしの手くらいの大きさの動物が、飛行のリスクについてなにを教えてくれるっていうの?」と不平をいった。「あたしたちの体は、まったく別物なのに」

 ヤルダがなすすべもなく見つめる中、見学者たちはベネデッタの申し出について話しあった。まもなく大多数は、それ以下のレベルのテストには興味が持てないという見解に達した。ファティマだけは、それほどリスクの大きい離れ業を見るのは気が進まず、一方、ニノはどちらでもかまわないという外見を取りつくろおうとしていた。

 ヤルダは全員の前でこの件をベネデッタと議論するつもりはなかった。応募者たちをベースタウンの市場へ送りだし、時間つぶしをさせることにする。

 ベネデッタはすでに深く悔いていた。「あれはまずい判断でした」彼女は認めた。「藪から棒にいいだすべきじゃなかった」

 ヤルダはいった。「タイミングのことはどうでもいいわ」応募者たちの前で面目を失ったのは、いちばん些細なことだ。「そもそも、なぜそんなことをしなければならないと思うの?」

「この話は何年もしてきました」ベネデッタは答えた。「あなた、エウセビオ、アマンド……だれかを上へ送りだすのはいい考えだと意見は一致する──でも、いつも先送り。〈孤絶〉の打ち上げまで、あとどれくらいあります?」

「一年以下、だといいわね」

「それなのに、まだ人をひとりもロケットに乗せていないんですよ!」

「肉は肉よ」ヤルダはきっぱりといった。「ハタネズミはなんでできているの──石から? 〈孤絶〉についていえば、心配しなければならないのは、姿勢制御と冷却よ──わたしたちは、その両方とも芸術の域にまで高めてきた。過去四ダースの打ち上げ試験で、ロケットは申し分なく作動したわ。失敗したのは着陸だけよ」

「それも三回だけです」ベネデッタが指摘した。「だから、わたしが直面する賭け率は悪くない」

 ヤルダはいった。「確かに……でも、そんなことをして、じっさいになにがわかるというの? あなたが生きて戻って来るにしろ、来ないにしろ、〈孤絶〉がより安全になるかどうかと、それがどう関係するの?」

 ベネデッタはそれに対する答えを持ちあわせていなかった。「なにひとつ指摘できません」とうとう彼女はいった。「でも、少なくともわたしたちのひとりがまずそこへ行かないで、ひとつの街に匹敵する人口を打ちあげようとするのは、わたしにはやっぱりまちがっているように感じられます。たとえ宣伝行為にすぎなくても、人々の不安を鎮め、わたしたちにもう何人か応募者を勝ちとらせ、敵の何人かを黙らせる宣伝行為です」

 ヤルダはベネデッタの顔を探った。「でも、なぜいまなの? 未来の画像を──それが決定ずみである証拠を──目にしたから、急に自分の命を運命にゆだねる申し出をしているの?」

 ベネデッタはその言外の意味を面白がって、ブンブン音を立てた。探査機からの紙を掲げ、「もしわたしがこれをじっくり眺めていたら、直交星群のあいだで幸せに暮らしている自分を見つけるかもしれない、と思うんですか?」

 ヤルダはいった。「わたしが未来を見たら、ハタネズミばかりだった、といったらどうなるの?」

 ベネデッタは市場のほうを身振りで示した。「それなら自信を持って予言できますよ、あの応募者たちの大部分が二日のうちにいなくなるだろう、とね」


 シルヴィオがヤルダのオフィスの出入口に立ち、「この新しいキャンプを見てもらわないと」といった。「街の郊外の」

 ヤルダは、ベネデッタが提出した、変更を加えられた打ち上げ試験に関する計算を見おろした。何度もチェックを重ねたが、飛行を認めるか認めないか、依然として最終決断を下せないでいた。

「問題があるのは確かなの?」ヤルダは尋ねた。交易商たちがときどきやってきて、不便な場所にキャンプを張るが、ふつうは二、三日もすれば、ベースタウンにいるほうがいいことを悟る。

 シルヴィオは返事をしなかった。助言をしたのだから、それを繰りかえすつもりはないらしい。給料を払っているのはエウセビオであり、もしシルヴィオが留守のあいだにエウセビオがヤルダをプロジェクトの責任者に据えたのなら、ある程度の礼儀は尽くさなければならない──だが、あくまでもある程度だ。

 ヤルダはいった。「わかったわ、行ってみましょう」

 シルヴィオの運転で、ベースタウンから使われていない山の入口のひとつまで延びている未舗装道路を数街離ストロール 北上した。シルヴィオがそこでいったいなにをしていたのか、ヤルダは知らなかった。エウセビオにいわれてそのあたりをパトロールしていたのだろうか。

 放棄された建設キャンプには五台のトラックがあった。その大部分は土砂と農機具を積んでいた。二ダースの人々が、埃っぽい地面を掘っているのが見えた。いくつかの点で、そこが農作に適さない場所ではないことに、ヤルダは気づいた。山の影がジェンマの光をじゅうぶんな時間さえぎってくれるので、扱いにくい日よけの必要なしに、作物は従来のリズムを保ってくれるだろう。土砂をトラックで運ぶ必要があるのは将来性の点で問題だが、いったん作物が育てば、植物の根と、そのあいだに棲んでいる長虫が、その下の岩を壊しはじめるかもしれない。

 ヤルダは運転台からおり、農民たちに近づいた。

「こんにちは」と陽気に声をかける。「だれか一、二分隔ラプス ほど話につきあってもらえない?」

 ヤルダは、数人が目を逸らすのに気づいた。単者に話しかけられたと悟ってまごついているのだろう。だが、ひとりの男がシャベルを置き、ヤルダのところまで歩いてきた。

「ヴィットリオだ」男はいった。「ようこそ」

「ヤルダよ」男と同名の有名人についてジョークを飛ばしたい気持ちを抑える。そういわれるのにうんざりしているか、こちらがなにをいっているのか見当もつかないかのどちらかだろう。「わたしはズーグマから来てエウセビオといっしょに働いている──ここの鉱山を所有している男と」ロケット・プロジェクトに触れるときは、遠まわしにそういうことが通例になっていた。山の内部でなにが、なぜおこなわれているのか、だれもが正確なところを知っているが、このエウセビオの事業全体について懐疑的な人々の中には、それを露骨に持ちだされなければ敵意を減らしてくれる者がいるのだ。

「その男は、ここの土地は所有していないと思うんだがな」ヴィットリオはいいわけがましく答えた。

「ええ、していないわ」ヤルダはできるだけ親しげな語調を保とうとした。「でも、彼の作業員たちと交易したいと思っているなら、あなたがたの入植を歓迎してくれる街がひとつ、ここのすぐ南にあるわ」もしここの人々が理にかなった条件で同意書にサインすれば、ここで使っているのとまったく同じだけの土地を耕作し、まったく費用をかけずに生産品を市場で売ったり、ベースタウンの工場へ持ちこんだりできるようになる。

「おれたちはこの場所を念入りに選んだんだ」ヴィットリオが請けあった。

「ほんとうに? ベースタウン以外のどこからも遠く離れているし、そのベースタウンでさえ近いとはいえないわ」

 ヴィットリオは身振りでどうでもいいと伝えた。コミュニティのほかのメンバーが、控え目にふたりを見つめていたが、ヤルダは肉体的な危険はとくに感じなかった。彼女の口出しに憤っているという雰囲気だけだ。

「正直に話さないといけないわね」ヤルダはいった。「一年以内に、この土地はもう農作には適さなくなるわ」思いつけるもっとも悪意のない状況を、ヤルダはまず考えてみようとした──この人たちは、空の大混乱のせいで自分たちの土地から追いだされ、確実に一日のある時間、闇がおりる場所を探しに出た。そして、もうしばらくすれば〈孤絶山〉がその都合のいい影を落とさなくなるのを、まったく知らずにいるのだ、と。

「おれたちを脅迫してるのか?」ヴィットリオの態度は完全に喧嘩腰だった。

 ヤルダはいった。「とんでもない。でも、わたしがなんの話をしているのか、わかっているんでしょう。作物のための影がなくなるのは、いちばん些細なことなのよ」

「ほう、それじゃ、あんたのご主人さまのエウセビオは、おれたちみんなを火あぶりにしようっていうのか?」ヴィットリオはもう蔑みを隠そうともしなかった。「知っての上で、このコミュニティを皆殺しにしようっていうのか?」

「メロドラマじみたことはいわないで」ヤルダは懇願した。「あなたがたはまだ畑を耕しはじめていないも同然。そしていまや危険を知らされたのだから、ここに根を張ろうとして時間を無駄にしないで。だれも火あぶりに ならなくてすむわ」

「それなら、ジェンマの運命は気にならないのか?」

 ヤルダはとまどった。「ジェンマは、この惑星の半分がエウセビオの努力に賛同する理由よ」

ジェンマ は」ヴィットリオはいい返した。「世界全体が炎に飲みこまれることがある、とおれたち目のついている者に教えてくれた。でも、あんたのご主人さまはなにも学ばなかったし、無知だから、この世界にも無闇に点火するだろう」

 ヤルダは〝ご主人さま〟云々にいらだってきていたが、いつもエウセビオを代理双扱いされていることからすれば目先が変わったといえる。トラックのほうにちらっと視線を走らせる。シルヴィオは居眠りしているふりをしていた。

「ロケットが世界に点火すると思うの?」もしこの男が心からそう信じているのなら、迫り来る大火災に対して生きている盾になろうと決めたことを称賛するほかはないが、まずオフィスに立ち寄っていくつか質問してくれてもよさそうなものだ。「ジェンマに点火したのは疾走星だった。この世界に同じことをするにも、疾走星が必要よ」ヤルダはきっぱりといった。

「疾走星しかないって?」ヴィットリオはブンブン音を立てた。ヤルダの論法を面白がっているのだ。「どうしてそんなことがわかる?」

 ヤルダはいった。「それだけ にしかできないかどうかはわからない──でも、このロケットがなにをして、なにをしないかはわかっている。山の下、太陽石の下に、安定石の岩層がある。そこへ行ったことがあるし、この手で触ったことがある。組み合わせをテストして、重ねあわせて燃やしてみたわ。打ち上げ時にくっついているよりもはるかに、はるかに長いあいだ。安定石は炎で一部蒸発するけれど、その場を越えて広がる持続反応は起きない。安定石が純粋であることはありそうにないと抗議をはじめる前にいっておくけれど、ほかの何ダースもの岩も同じようにテストしたわ」

「それで、あんたの炎はどれくらいの大きさだったんだ?」ヴィットリオが尋ねた。「山の大きさか?」

「いいえ。でも、それは問題じゃない」ヤルダは説明した。「テストの際に長いこと炎をその場にとどめておけば、幅が数歩離ストライド ある石板の中と同一の条件を達成できるから」

 ヴィットリオはこれを受けいれようとしなかった。「あんたたちは子どもじみた花火をもてあそんで、なにかを証明したと思ってる。証拠は空にある」

「もしジェンマの例がそれほど印象的だったのなら、ここでそれをそっくり再演する疾走星をどうやって避けるというの?」ヤルダは問いただした。「エウセビオの邪魔をしても、それを免れることにはならないわ」

 ヴィットリオはひるまなかった。「ジェンマに人がいたと思うか?」

「いいえ」だんだん現実離れしてきた。「それでなんの違いがあるの?」

がいれば小さな火を消せる」ヴィットリオは答えた。「一種類の石が燃えているなら、別の種類の砂を取ってきて火を消せる。ジェンマに人がいたのなら、彼らはそうしただろうし、あの世界は炎に飲みこまれはしなかっただろう」

 ヤルダはこれにどう答えていいのかわからなかった。すばやい判断とバケツ一杯の砂で疾走星を打ち負かせると望むことは馬鹿げている……しかし、もし当番で見張る観測者のチームを村という村に配置し、トラックに満載した不活性鉱物を準備するといった組織的なものに規模を拡大すれば、じっさいに小さな衝突の効果を抑えられるかもしれない

「疾走星の大きさはどれくらいだ?」ヴィットリオが尋ねた。二本の指を一微離スキヤント ほど離して掲げ、「これくらいか? もっと大きいのか? 小さいのか?」

「だいたいそれくらいよ」ヤルダは認めた。

「それなら、小石から起きる火事と、こいつ から起きる火事のどっちを選ぶかってことだ」ヴィットリオはむきを変え、身振りで山を示した。「大きいほうのリスクを選ぶのは愚か者だけだ」


 ロケットのてっぺんからは、平原から風に巻きあげられた茶色い土埃が、風の渦や流れをなぞっているのが見てとれた。「まだ考えなおしてもいいのよ」ヤルダはいった。

「でも、すでに旅は終わっていますから」ベネデッタが落ちつきはらっていった。「時間は円環をなしている。それは起きて、終わっているんです。選択の余地はありません」

 ヤルダとしては、この運命論者風のたわごとでベネデッタが自分をからかっているだけでいてほしかったが、いまはそれについて論じても仕方がなかった。ちっぽけなキャビンを見学させるために連れてきた応募者のうち最後の三名が、地上へむかって梯子をおりている。ベネデッタは、もとの設計ではハタネズミの檻の棚があった場所に設置されているベンチに安全ベルトでくくりつけられていた。これまでの打ち上げで、動物を高体温から無事に守ったのと同じ冷却ガスが、彼女の体に吹きつけるだろう。エンジンやパラシュート放出のタイミングを制御する周囲の複雑精緻な機械仕掛けは、三度も点検されていた。フリドによって、ヤルダによって、そして最終的にはベネデッタ本人によって。ハタネズミは二回調べてもらっただけだった。

「それなら、幸運を祈るとはいわない。必要ないんだから」ヤルダはベネデッタにいった。

「そのとおりです」

 ヤルダはそのまま立ち去ることはできなかった。ベンチのかたわらにしゃがみこみ、「ねえ、このおかげで有名になったら、あなたの双が探しに来るかもしれないわね」

「だれの双が?」ベネデッタはいい返した。「わたしの生まれたときの名前を知っている者は、ここにはいません」

「ええ。でも、あなたくらい頭のおかしな人が、いったい何人翡翠市で生まれるっていうの?」

 ベネデッタは面白がった。「わたしが翡翠市出身だと思っているんですか?」

「そうじゃないの?」ベネデッタの身の上話のその部分を、ヤルダは疑ったことがなかった。「あなたの訛りは本物らしく聞こえるけれど」

「わたしがほかに六つの方言で話せるのを聞くべきでしたね」

 ヤルダはベネデッタの肩をぎゅっと握った。「またあとで」背すじを伸ばして、キャビンの外へ出る。梯子の上の張り出しに腰かけると、ハッチをしっかりと所定の位置にすべりこませた。窓ごしに、ベネデッタが機器を使用可能にするレバーのほうを身振りで示してから、四本指の手を一本生やすのが見えた。ベンチのかたわらにある時計の四度目のチヤイム で、ベネデッタはロケットを発進させることになっている。これは通常の手続きだが、ハタネズミとは違って、ベネデッタは自分自身でそのプロセスを開始しなければならない。

 ヤルダはふだんなら高いところは苦手ではないが、梯子をおりる途中、キャビンがまもなく達する高度を思って、わがことのように一種の目まいに襲われた。

 地上に着くと、梯子を引っぱって外し、片側へ落ちるにまかせた。応募者たちはいまや静まりかえっていた。一同が待避壕のほうへ歩きだしたとき、レオニアさえおとなしくしていた。

 一陣の風が巻きおこって、チクチク刺す土埃を一同の顔に吹きつけた。ファティマがいった。「圧縮空気で走るトラックをだれかに作ってもらわないと」

「そうしてもらわないとね」ヤルダは同意した。おそらくその件はある時点で議論されたが、やがて予定表からすべり落ちたのだろう。そういうことは多くの名案に起きていた。プロジェクトのとんでもない複雑さという問題を倍加させることに関して、エウセビオの投資家仲間の中には、自分たちの資金は直接ロケットにしか使ってはならないと主張する者がいたのだ。搭乗者たちの子孫が戻ってきたとき、自分たちがただの脇役に見られないようにするために。そういう選択をすれば、まちがいなくプロジェクトの究極の収穫にあずかれると信じる人がいる、ということがヤルダには面白かった。もし宇宙空間で一エイジ をすごしたあと、〈孤絶〉が──疾走星や、そのあと脅威となるものを片っぱしから打ち負かせるようなテクノロジーを引っさげて──ほんとうに戻ってきたら、搭乗者たちの子孫は自分たちが望む条件で、自分たちの好きなだれとでも取り引きするだろう。望めるのは、せいぜい遠いいとこたちに対するある程度の哀れみくらいだ。とっくの昔に死んだ祖先の結んだ契約が実直に守られるという見通しは、エウセビオが助長した幻想にすぎない──大金持ちたちが、じっさいは公益のために使われるという恐るべき現実に直面する必要なく、莫大な金を手放せるように。

 フリドが待避壕の脇で待っていた。「彼女の調子は?」と不安げに訊く。

「落ちついているわ」とヤルダ。「わたしにジョークをいっていた」

 フリドは平原のむこう側にじっと目を凝らした。宇宙的決定論をほんとうに味わっているのは自分たちだ、とヤルダは思った。ロケットを打ちあげるか中止するか、ベネデッタはまだ決めることができる。だが、ベネデッタのふたりの友人がいまなにをしても、彼女の選択に影響をあたえることはできない。

 全員が待避壕にもぐりこんだ。ロケットが打ち上げ時に爆発してから、もう何年も経っていたが、こうした予防措置はつらいものではなかったし、こちらでは土埃がさらにひどいものの、風を避けられるのはさいわいだった。

 ヤルダはフリドとファティマとのあいだに横たわり、鏡に映る地平線を見つめた。ロケットは茶色い靄に飲みこまれそうになっていた。時計にちらっと視線を走らせる。打ち上げまであと三分隔ラプス

 レオニアがいった。「彼女が考えなおして、それからまた考えなおしたらどうなるの? あたしたちが待避壕から出て、あれが発進したら──」

「そんなことは起きないわ」ヤルダは答えた。「ベネデッタは所定の時間に発進するか、まったくしないかよ」

「もしエンジン給剤機の内部でなにかが詰まったらどうなります?」エルネスタが尋ねる。「いつなんどき詰まりがとれて、エンジンが点火しても不思議はないのに、どうしたらあれから安全に歩いて遠ざかれるんです?」

 ヤルダは答えた。「解放剤タンクを閉じるバックアップ・システムがあるわ。もしそれが働かなくても、ベネデッタはエンジン給剤機全体をばらばらにする方法を知っている」(つべこべいわずに、黙って見ていられないの?)ヤルダは目を閉じた。頭がズキズキしていた。

 沈黙のうちに時間がすぎた。ファティマが彼女の腕におそるおそる触った。ヤルダは目をあけ、時計を見た。フリドが小声でカウントする。「三。二。一」

 燃える太陽石の輝きが靄を突きぬけて炸裂し、平原を照らしだした。ベネデッタはひるまなかった。チヤイム から一瞬隔フリツカー も待たなかったのだ。ロケットがするすると空へのぼるにつれ、待避壕の壁が震えたが、そっと小突かれたのと大差なかった。ヤルダの胸にわがことのような喜びがこみあげてきた。あの勇気ある女はレバーを押し、ロケットが彼女の命令に従ったのだ。涼風が彼女の肌をなでて流れているだろう。彼女の体重は通常の一・五倍は超えていないだろう。そして彼女の振動膜は硬くなり、エンジンの騒音はあまり彼女をわずらわせないだろう。同じように体を突っ張っているヤルダは、打ち上げの音が届いても、ろくに気づかなかった。

 ロケットが鏡の縁から出ていくと、ヤルダは待避壕から飛びだし、上昇するそれを目で追った。フリドがヤルダに続く。そして応募者たちになんの指示もあたえなかったものの、全員がじきにふたりに合流した。

 一鳴隔チヤイム と経たないうちに、ベネデッタは地上から四小旅離スログ の上空に達するだろう──〈孤絶山〉の高さの九倍近くだ。ベネデッタはベンチから窓の外を覗いて、地平線がぐんぐん広がるのを見守るだろう。より壮大な旅のこの前触れ──世界と永久に別れるという苦渋なしに、上昇して戻ってくること──を思って、ヤルダの肌がわがことのようにチリチリした。

 フリドは待避壕のかたわらに立てた三脚に経緯儀を設置していた。だが、ヤルダは肉眼を使い、ふたりの背後にある時計で時間をチェックするだけで満足だった。距離が広がり、まもなくロケットはかすかな白い点となったが、それほど青白くはなかったので、エンジンが止まり、姿がすっかり消えるときははっきりとわかった。いまやベネデッタは無重力状態にあるだろう。まるでほかにはなにも知らない世代に属す、子孫のひとりの皮膚の中へ踏みこんだかのように。

 ロケットはさらに二小旅離スログ 上昇してから、重力に停止させられるだろう。五分隔ラプス が経過するあいだ、それが減速し、頂点へ近づいていくところをヤルダは思い描いた。ベネデッタ自身の時計の数値を別にすれば、旅の中間点にたどり着いたことを知る方法が、ベネデッタにはあるのだろうか? 唯一の手掛かりとなる風景がこれほど隔たっているのに、自分の速さをどの程度まで判断できるだろう? ヤルダは頂点からの眺めを想像しようとしたが、その仕事は手にあまった。この旅をした本人の言葉を聞くまで待つしかないだろう。

 さらに五分隔ラプス のあいだ、ロケットは自由落下し、ついでエンジンがふたたび始動して、上昇中よりも激しく燃焼し、パラシュートがあとを引き継いで落下の勢いを殺げるところまで、ロケットを減速するはずだ。ヤルダは後眼を時計にむけたまま、疾走星に気を逸らされないように努めながら、前視線を天頂まであげた。

 光の点はどこ ? ヤルダはフリドをちらっと見たが、彼も見つけていなかった。ヤルダは無理やり気を落ちつかせた。風が四方から土埃を吹きつけてきていたし、ロケットがふたたび輝いたときその姿を捉えるよりは、ロケットが燃焼を終えるまでその跡を追うほうがいつだってかんたんだ。

 あそこだ ! ヤルダが見ていたところよりも低く、西寄りだし、かすかだが、まちがいない。横風を受けたロケットは、予想外に水平方向に押されて、軌道を正確にたどり直せずにいるのだ──そしてヤルダは、視線を固定していたつもりだったけれど、じっさいはゆっくり動く星を視線で追っていたために少し方向がズレたかもと疑っていた。

 フリドが静かにいった。その言葉はヤルダだけにむけられていた。「なにかおかしい。降下速度が速すぎる」

 ヤルダは同意できなかった。フリドのほうが数多くの打ち上げを見てはいるが、今回はヤルダ以上に心配してもいた。フリドの見方には歪みが生じている。

 炎が近づいてきて、そのまばゆさに目が痛くなった。ヤルダは心の目で、発射場からほんの数街離ストロール の地点までそれを追っていった。ベネデッタは平原の途中で自分たちと出会うだろう。勝ち誇ったように手を振り、叫びながら。

 ヤルダは炎が消えるのを待った。その瞬間が近づくあいだ、時計から目を離さずに。だが、その瞬間がすぎても、エンジンはまだ噴射していた。

「なにかおかしい」フリドが小声で繰りかえした。「燃焼の開始が遅れたに違いない」

 フリドがそういっているうちに炎が消えた。ヤルダは時計の数字を心に書きとめた。予定時刻から六停隔ポーズ 後。もし燃焼全体が六停隔ポーズ 遅れたのだとしたら、意図していたよりも毎停隔ポーズ 十ダース歩離ストライド 以上速くロケットが動いている状態で、エンジンが切られてパラシュートがひらいたはずだ。予定より速く、より低い高度で。

「なにが見えるの?」ヤルダは尋ねた。応募者たちがふたりのひそひそ話に気づきはじめていたが、ヤルダはそれを無視して、経緯儀の小さな望遠鏡で空を探るフリドを見守った。点火していないロケット本体は、この距離では見分けられないだろうが、もしパラシュートがひらいていれば、白い織物は陽光を捉えるだろう。

 ヤルダのほうが先に気づいた──彼女の視界のほうが広いし、望遠鏡はいらなかった。布に日射しが当たってちらついたのではなく、燃える太陽石のギラギラした光がふたたびあらわれたのだ。ヤルダはフリドの肩に触れた。フリドは顔をあげ、驚きのあまり悪態をついた。

「彼女はなにをしてるんだ?」呆然としてフリドが訊く。

「制御してるのよ」とヤルダ。エンジンには手動操縦の用意がないが、ベネデッタは無用の長物となったタイミング機構を外して、自分自身で解放剤の給剤機をまたひらいたに違いない。

 ファティマが近づいてきて、「なにがなんだかわからない」と不平をこぼした。

 ヤルダは応募者たちに話しかけ、なにが起きているか、自分の信ずるところを説明した。ロケットが自由落下状態にあるうちに、タイマーが二、三停隔ポーズ のあいだ動かなくなったに違いない。従って、そのあとのいっさいが遅れたのだ。パラシュートは、速すぎるスピードでひらいたとき、千切り取られてしまったに違いない。いまやロケットの降下を減速させる方法は、エンジンによるものしかない。ベネデッタは一連の燃焼を実行して、無事に地上へおりようとするだろう。

 ヤルダはそれ以上はなにもいわなかった。いまできるのは、見守り、祈ることだけだ。しかし、完璧な知識があり、完璧な制御をしたとしても、動力着陸は妥協でしかない。最終的にエンジンを切る前に、できるだけ低いところにいて、落下の衝撃をやわらげなければならない──だが、低くおりればおりるほど、下の地面はロケットの排気の熱を蓄えることになる。

 そしてベネデッタに完璧な知識はない。自分自身の体重の感覚でエンジンの推力を測り、斜めに見える風景から高さと速さを判断するしかないのだ。ヤルダが見ていると、ロケットの落下を遅らせるための燃焼は長く続きすぎた。目を射るような光が、つかのま平原の上空高くにかかったかと思うと、また空へのぼっていった。

 炎が消え、ロケットはまた見えなくなった。ヤルダはキャビンへ戻る方法を考え、打ち上げの瞬間に覚えた共感を取りもどそうとした。ベネデッタはすでに頭の回転の速さと不屈の闘志を見せている。だが、ベネデッタにいちばん必要なのは情報なのだ。

 エンジンがいまいちど生き返り、先ほどよりはるかに低いところにロケットが姿を見せた。ヤルダは地平線へ近づいていくロケットを目で追いながら、減速の勢いが足りないのではないかと心配したが、それが土埃の靄に入り、さざ波打つ光と影の矢を平原に送りだしたとたん、天にものぼる心地となった。いまではその軌跡はかんたんに判別することができ、ヤルダに望めるかぎりの完璧に近いように見えたのだ。もしベネデッタが最下点でエンジンを切ったのなら、墜落しても生き延びられるかもしれない。

 炎がわずかに暗くなったが、消えはしなかった。ヤルダは土埃とギラギラする光の奥に目を凝らし、なんとか動くものを見分けようとした。フリドが手を伸ばし、ヤルダの腕に触った。フリドは経緯儀越しに見ていた。「彼女はもっと下がろうとしている」フリドがいった。「近いのはわかっているが、まだ足りないと考えているんだ」

「足りているの?」

 フリドが、「そう思う」と答えた。

(それならエンジンを切って)ヤルダは懇願した。(エンジンを切って、落下して)

 光が明るくなったが、その場にとどまった。ヤルダは混乱したが、すぐにピンときた。ベネデッタが推力を増やしたわけではない。だが、ロケットはいまやあまりにも低いので、下の地面を白熱するまで熱しているのだ。

 フリドが狼狽のあまりブンブンいう音を漏らした。「あがれ!」と懇願する。「チャンスを失ってしまう。冷える時間をやれ」

 光がパッと輝き、散らばった。風むきが変わり、靄が晴れたので、ヤルダにはなにが起きているか正確に見てとれた。地面が燃えあがっており、一方ロケットは炎を注ぎながら、そちらへじりじりとむかっているのだ。

 ヤルダは「伏せて!」と叫び、なんとかファティマを待避壕のほうへ押しやった。次の瞬間、光が目も眩むほど強くなり、ヤルダはよろめいた。顔を土に埋め、一本の腕で後眼をかばいながら、倒れた場所にうつ伏せのままでいる。

 地面が揺れたが、大きな爆発ではなかった。太陽石と解放剤の大部分は、すでに使い切られていたのだ。残骸が飛んでくるのを待ったが、飛び散ったものは全部、もっと手前に落ちた。振動膜をゆるめると、聞こえるのは風の音だけだった。

 ヤルダは起きあがり、あたりを見まわした。フリドがかたわらでうずくまって、頭をかかえていた。ニノは立っていた。怪我はないらしい。ほかの応募者たちは、まだ起きあがろうとしているところだった。ファティマが、嘆きのあまりブーンと静かな音を立てながら、待避壕から覗いていた。

 遠くでは、青白い炎の斑点が、地上を小刻みに動きまわっていた。こぼれた燃料が燃えているのか、それとも平原そのものの土埃や岩なのかはわからない。炎が消え去るまで、ヤルダは無言で見つめていた。


「ベネデッタが画像撮影探査機を打ちあげたがったとき」エウセビオが思い起こした。「ぼくに粘り勝ちしたんです。彼女は六ダースの打ち上げを望み、六ダースを打ちあげた。もしぼくが飛行試験に立ち会ったとしても、同じことになったでしょう。ぼくがなにを心配しようと、ベネデッタはぼくを説き伏せたはずですから」

 ヤルダがいった。「彼女の一族と連絡を取る方法があればいいのに。せめて、どこかの友人と。彼女が伝えてほしかっただれかがいるに違いないわ」

 エウセビオがお手上げの仕草をして、「ベネデッタは出奔者でした。どんな別れの言葉をいえたにしろ、とっくの昔にいってしまったんです」

 それを聞いてヤルダの胸に怒りがこみあげてきたが、それがなぜなのかさえよくわからなかった。エウセビオは、双から逃げる人々を利用するために助けているのだろうか? 逃げ道を提供することは、そこになにがついてまわるかを隠しだてしたりしないかぎりは犯罪ではない。

 掘っ立て小屋の照明は、床に置かれたランプひとつきりだった。エウセビオががらんとした部屋を値踏みするように見まわし、ひと言いいそうになったが控えた。ヤルダはこの十日をここですごしてきた。ベネデッタの無意味な死からなにかを救いだす方法を必死に見つけようとして。

 ヤルダはいった。「わたしたちは、なにをするにしても、もっと慎重にならなければ。つねに最悪の可能性を考えるようにするべきよ」

 エウセビオがそっけなく低い声でいった。「そういうことはいくらでもあります。もっと特定してもらえますか?」

「この惑星に点火すること」

「ああ、ジェンマ症候群ですか」エウセビオはうんざりした声を出した。「噴射地域に作物を植えにきた農民たちが、自分でそれを考えついたと思いますか? アシリオが人々にその考えを広めさせて、金を払って移住させているんです」

「あなたに意趣返しするだけにしては、大変な力の入れようね」ヤルダはいった。「もしかしたら、リスクがあると本気で信じているのかもしれないわ」

なにと比べての リスクです?」エウセビオがいい返した。「なにもしないまま直交星群団クラスター にぶつかるのを待つことに比べてですか? 探査機が撮った画像を見ました。もう当てずっぽうじゃありません。確実なことです」

「最悪の事態は」ヤルダは食いさがった。「〈孤絶〉のエンジンが、山を上昇させるのに必要な推力を出せないかたちで不調に陥ることよ。そして何鳴隔チヤイム も何鳴隔チヤイム も、そのままでいること──もしエンジンを停止させられる人がひとり残らず死んだら、ひょっとして に次ぐ 、日に次ぐ日になるかもしれない。そして、いつかの 時点で、疾走星がジェンマにしたなにかが、ここでも起きる。もし万事が順調にいけば、それを防ぐためのテストはできる──でも、もっとも極端な場合はテストできない。太陽石の山が何日ものあいだ丸ごと動かず、下から燃やされるときなにが起きるか、教えてくれる縮尺模型はないのよ」

 エウセビオは目をこすった。「わかりました。もしぼくがすべてを用意立てるとしたら……なにを提案します?」

「山を取り巻く風隙ね」

「風隙というと?」

「細長い溝よ」ヤルダは説明した。「いちばん低いエンジンと同じ深さで、幅は一街離ストロール くらい。それからエンジンの下に溝を掘って、すべての排気ガスが自由に逃げられるようにするの。岩にたまる熱にとっては大きな違いになるわ、もしエンジンがしかるべきかたちで作動しつづければ」

幅一街離 ですって?」エウセビオは目を閉じ、後ろに体を揺らして、不作法な言葉を使うのを思いとどまった。

 ヤルダがいった。「こういう見方をして。それだけ幅のある溝を掘れば、あのわずらわしい農民たちをひとり残らず追い払えるでしょう──あの人たちには反論のしようがない理由で。アシリオにだって資金援助を頼めるでしょう、彼が防火性をそれほど熱望しているというのなら」

 エウセビオは目をあけて、哀れみの眼差しでヤルダを見た。「そうでしょうね、理にかなっていて一貫した立場を取る必要性が、アシリオをたちまち納得させることでしょうよ」

「ダメなの?」

「だれもが自分なりの虚栄心を持っています」エウセビオがいった。「あなたとぼくは正しくある ことに喜びを覚えます。ぼくたちは世界が働く仕組みを理解し、それから敵の推測がまちがっていることを証明して、恥をかかせてやりたいと思います。ちょうど……あなたとルドヴィコの場合のように」

「うーん」ルドヴィコは二年前に亡くなっていたが、疾走星の性質について、彼を論破して大いに溜飲を下げたことをヤルダは否定できなかった。

「アシリオはそういう性格ではありません」エウセビオは言葉を続けた。「それに、あいつがそういう風に育てられなかったのは確かです。アシリオの一族から見れば、歴史上もっとも重要な事件は、ぼくの祖父に欺かれ、自分たちが享受する権利があると信じていた商売の機会を奪われたこと。そしていま一族の名誉は、ぼくをはずかし めることにかかっている。そのためなら、アシリオはどんなことについても正しい 必要はない。あいつは、ぼくの失敗を見られさえすればいいんです」

 ヤルダは愚かな反目全体にうんざりしていたが、もしアシリオが障害を作ることに精を出しているのなら、こちらはそれを迂回する道を見つけるだけだ。ヤルダはいった。「もしかしたら、パオロが溝の資金を出してくれるかもしれない」

 エウセビオが立ちあがった。「考えさせてください」

「わたしたちがしなければならないことは、もっとあるわ」ヤルダは警告した。

「もちろん、あります」エウセビオはまた腰をおろした。

 ヤルダはいった。「計画がいるわ、〈孤絶〉が留守にしているあいだに、疾走星の衝突を生き延びるチャンスを人々にあたえるための。村という村に見張りを置いて、火事を消すのに使える機材を……」

 ヤルダは言葉を切った。エウセビオがぶるぶる震えていたのだ。ヤルダは近寄ってかたわらにしゃがむと、一本の腕をエウセビオの肩にまわした。

「どうしたの?」さらに費用がかさみ、さらに仕事があるという怖れだけではない。エウセビオはとっくの昔に、そうしたことには慣れていたのだから。

「ぼくの双が出産しました」エウセビオがいった。必死に言葉を絞りだし、「だからズーグマにいたんです。子どもたちに会うために」

「彼女は──」

「ぼく抜きで」エウセビオはいった。「自分から進んでではなく。もし彼女が望んだのなら、ぼくたちはいっしょにやったでしょう。でも、ぼくたちは待ち、ぼくがそばにいなかったので、彼女の体が……体それ自体が決定を下してしまったんです」

「お気の毒に」ヤルダはどう慰めればいいのかわからなかった。自分も同じようなショックを切りぬけたのだ、といってやりたかったが、トゥリアとの比較はエウセビオを不快にさせるだけだろう。

「ぼくがあまりにも頻繁に留守にしていたからだ、と父にはいわれました」とエウセビオ。「もしぼくが彼女のそばから離れなければ、彼女の体は、ぼくたちが正しい時を待っているのを理解しただろう、と。でも、双がいなかったので、子どもたちが父親を持てるという望みを捨てたんです」

 ヤルダはいまの話がほんとうの生物学なのか、それとも古い民間信仰と、ホリンの話を広めないようにする試みのごた混ぜにすぎないのか、よくわからなかった。エウセビオはその薬が乗員の手に入るようにしたが、自分の家族内でそれを使うのを認めることはどうしてもできなかった。

「その子どもたちには、ちゃんと父親がいるわ」ヤルダはいった。

「いいえ、いません」エウセビオはぼんやりと答えた。「もちろん、まだあの子たちを愛しています。でも、あの子たちにとってぼくはいなくてもいいんです。あの子たちに会っても……」エウセビオは拳で自分の胸を打った。

 ヤルダには理解できた。彼女はトゥリアの子どもたちにできるかぎりの世話をしたが、あの子たちがいてくれて純粋な喜びを覚える瞬間があるにもかかわらず、それが、自分に対して自分の父親が感じていた愛情と同じものでないことは、わかっていた。

 エウセビオが立ち去ると、ヤルダはランプを消し、暗闇の中にすわった。ひとつだけ確かなものは、ヤルダが牢獄で体に作った筒の皺のように宇宙をくるんでいる波とともにある。その波と、波が作りだしたものすべてはもとの状態に一致して円環をなすだろう。ほかにはなにも当てにならない。だれひとり、自らの体を完全には制御していない。この世界の最小の部分を支配している者はいない。

 それでも……あらゆる人の本性として、自らの意志と、自らの行為と、その結果とが調和しうる ことは、確かなのだ。絶対確実とはいえないが、意味のない笑劇としてかんたんに片づけられるほど稀でもない。意志と肉体と世界を完璧に連携させることはできないが、知識はその三本の り糸をもっとしっかりと結びあわせることができる。正しい知識があれば、トゥリアとエウセビアは、自分の体をもっと思いどおりにできただろう。正しい知識があれば、ベネデッタは無事に地上へおりられただろう。

 ヤルダは嘆くのに飽いていた。死者や出産で分裂した者たちのためにできることは、もうないのだ。その人たちの思い出を正当に取り扱うには、続く世代が同じリスクと不安なしで生きられるようにする知識を見つけるしかないのである。