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「わたしのそばを離れないで!」トンネルの曲がり目に近づいたとき、ヤルダは見学者たちの集団に声をかけた。「吐き気のする人はいますか? 疲れた人は? 目まいのする人は?」

 うんざりしたような否定の返事が、いっせいに返ってきた。質問されるのに飽き飽きしているのだ。ヤルダは見学のペースを慎重に定めてきた──それに、山の内部は外部よりも気圧が高く維持されている──だが、新陳代謝はひとりひとり違うので、緊急事態が起こるよりは、うるさがれるほうをヤルダは選んでいた。この搭乗員候補者たちがひとりでも、この場所を気分の悪さと結びつけることがないようにしておきたい。「さて、もうじき最上層のエンジン給剤機のひとつに着きます」この数区離ソーンター のあいだ、トンネルは壁に貼りついた赤い苔に照らされているだけだったが、もっと色とりどりの花畑から発する光が、曲がり目のむこうからこぼれているのがすでに見えていた。

 曲がり目をまわったとたん、丸天井をいただく広大な空洞が正面にあらわれた。幅半街離ストロール 、高さ二通離ストレツチ に近い円盤形である。三年前、圧縮空気を動力とする携帯用削岩機を用いて岩石をくり抜いたものだ。太陽石が剝きだしになっているところでは、エンジンもランプも使えない。おなじみのくすんだ赤褐色の苔と、黄色い花をつける丈夫な蔓植物が丸天井を覆っているが、支柱どうしのあいだの床は、ありとあらゆる色相の冷たい光を発する花壇の迷路になっていた。植物の多くはでたらめに配置されているか、ごく狭い範囲で整然と植えられているかだが、ぱっくりと口をあける黒いボーリング穴を囲む花畑から花畑へと、空色と翡翠色の長いすじが、曲がりくねって伸びているのが見てとれた。

「ここは最初からこんなにカラフルだったわけじゃありません」ヤルダは思い起こした。「でも、建設作業員たちが、長年にわたり、いろいろな植物を持ちこんできたんです」

「エンジンを使用するとき、花畑をそのままにしておくんですか?」ニノが尋ねる。

「いいえ──それでは機械装置の邪魔になってしまう。それに長い目で見れば、植物の根が外装板にダメージをあたえることだってありうるし。でも、この植物が死滅するわけではありません。もっと上の常設庭園に移されることになります」

 ヤルダは一ダースの見学者を引率して、いちばん近いボーリング穴の縁まで行き、薄闇の奥を見おろすよう一同を促した。空洞のはるか下方では、一面の暗闇に緑色と黄色の光からなる四つの斑点が浮かんでいた。縦穴のてっぺんから底まで延びているなわ 梯子ばしご にしがみついて、蔓植物を体に巻きつけた作業員たちが、周囲の太陽石に沿って並ぶ硬石製外装板を点検している。

「エンジンが作動しているとき」ヤルダは説明した。「この穴は埋めもどされているはずだけれど、解放剤が縁のまわりに落とされています。もし外装板に隙間があれば、燃料が不適切な場所で燃えはじめるかもしれません」

「ここはロケットの最上層なんですよね?」ドロテオが尋ねた。

「そうです」

「そうすると、この先かなり長いあいだ使われることはない」ドロテオは指摘した。

「そのとおり。それに、点火の前にもういちど点検されるのは確かです」とヤルダ。「でも、だからといって、いまその仕事をおろそかにしていい理由にはなりません」理想をいえば、搭乗者たちが望むなら、いつでも引き返して無事に帰還できるよう、〈孤絶〉のありとあらゆる機構の準備ができていてほしい──画期的な新機軸はいうまでもなく、新たな建造作業も不必要な状態で。しかし、太陽石の現在の効率では、この最上層の燃料も、じっさいには旅の半ば、減速と反転段階のいつかの時点で燃えつきるだろう。現状の技術や設備で旅を完遂できると考えることは、選択肢にはない。

 ヤルダは見学者たちを、部屋の縁にある階段吹き抜けに連れていった。一同は苔に照らされた高みに目を凝らした。ピンと張った縄梯子が四つ、中心に垂れていた──建設の初期段階に設置され、無重力状態を見越して、そのままにしてある──しかし、いまのところは、もっと便利な上昇の方法があった。奥行き三歩離ストライド の溝が螺旋状に壁に刻まれており、底面が積み重なって、螺旋階段となっているのだ。

「ここで四区離ソーンター のぼります」ヤルダは見学者たちに警告した。「どうか、気をつけてのぼって、必要なら遠慮なく休んでください」

 ファティマがいった。「疲れた気はしませんが、お腹が きました」

「じきにお昼にします」ヤルダは約束した。ファティマは単者で、九歳になるかならないか。その少女を見るたびに、ヤルダは心配になる。娘にひとりきりで荒野を渡らせ、宇宙空間への片道旅行に進んで参加させるとは、いったいどんな父親なのか? だが、ひょっとしたら、少女はここへ来るため、父親に噓をついたのかもしれない。ひょっとしたら、父親は娘がズーグマで代理双を探していると思っているのかもしれない。

 見学者は、連れだって来ている双と、単身で来ている人が、半々だった。単身者は全員が女で、例外はニノだけ。ヤルダはニノの背景を聞きとっていなかったが、あの稀にしかいない恥ずべきもの、男性の出奔者だと直感していた。

 一行はゆっくりと階段をのぼりはじめた。勾配は、その気になる人が出るといけないので、走る気を ぐ角度をつけられているように見えた。一行の足音と、前方にいるアッスンタとアッスントがささやき交わすジョークが、頭上の階段の裏側から多重のこだまとなって返ってきた。自分たちの立てる音以外に、もっと上の層から流れてくる奇妙な打撃音や、軋みや、つぶやきの寄せ集めがヤルダには聞こえた。山の内部での労働人口は、ピーク時をはるかに下まわっている。だが、それでも約一大グロスを数え、いまやその活動の大半は、エンジンより高い居住区でおこなわれていた。

「搭乗者は星を見られるんですか?」ヤルダの二歩あとを歩きながら、ファティマが尋ねた。

「もちろんよ!」ヤルダは請けあい、〈孤絶〉が空飛ぶ地下牢のごとく感じられるようになるという考えを払拭しようとした。「透明石の窓がついた観測室があるわ──それに、短いあいだなら、外へだって出られる」

「宇宙空間に立つんですか?」ファティマが疑わしげな声でいった。まるでそれが、太陽の上を歩くのと同じくらい突拍子もないことであるかのように。

 ヤルダはいった。「わたしは減圧室に入ったことがある。ポンプに生みだせるかぎり、ゼロ気圧に近い状態で。ちょっと……ピリピリするけれど、痛くはないし、長居をしなければ害はないわ」

「ふーん」ファティマはしぶしぶ感心した。「じゃあ空にあるのは──あたしたちがいま見ている星々なんですか、それとも直交星群なんですか?」

「旅の段階によるわ。両方とも見えるときもあるでしょう。でも、その話はあとでみんなにします」苔に照らされた階段は、四空間ダイヤグラムを見せはじめるのに適した場所ではない。

 階段吹き抜けから出ると、幅広い水平のトンネルになっていた。このトンネルは山をぐるっと一周しているが、最寄りの交差点は、歩いてすぐのところにあった。角を曲がったところになにがあるか、ヤルダは前もって教えなかった。光が多少の手掛かりになるが、はじめて見る人は決まって、意外な光景に驚いた。

 その空洞は下の空洞よりも幅があるわけではない。だが、高さは六倍もあり──丸天井を支える太い石柱が、木々に飲みこまれそうになっていた。一行の頭上高く、だが樹冠よりははるか下方で、巨大なスミレ色の花々が、断片的な天蓋を形作る蔓植物の網をよぎって垂れており、森を垂直に分けていた。活動を導く陽光が射さないので、この花々は時間のズレた日周に従うふたつの群れに分かれ、片方のグループがひらいているあいだ、もう片方は閉じている。垂れさがって眠っている花と花との隙間越しに、頭上の石に跳ね返った弱い紫色の光線が、渦巻く埃や、舞いおりる昆虫の群れを照らしだしていた。ここでは空気の動きさえ違っていた。植生から生じる複雑な温度勾配に応じて動くのだろう。

 ヤルダは部屋の縁にぐるっと植えられた灌木を搔きわけて前進した。そこでは天井が低すぎて、樹木は育たない。「ここは風変わりな道楽に見えるかもしれません」ヤルダは認めた。「農場や、人造林や、薬草園があるのに、どうして未開地がなければならないのか? 確かにわたしたちは、自分たちの生存に関わるひと握りの植物については、すでに定期的に収穫できる程度の知識がありますが、この場所には光と化学について、これまでに書かれた本を合わせたよりも多くの知識が暗号として存在しています。生きとし生けるものは、わたしたちが理解しはじめたばかりである物質の安定性とエネルギーの操作に関する問題を解いてきました。従って、できるかぎり多種多様な植物と動物を連れていくのは、賢明といえるのです」

「どんな動物ですか?」レオニアが尋ねた。多くの動物たちと〈孤絶〉を共有するという見通しが、あまりうれしくないようだ。

「いま、ここには昆虫、トカゲ、ハタネズミ、トガリネズミがいます。もうじき二、三体の樹精も加わるでしょう」ヤルダは後眼で見学者たちの反応を見守った。とうとうエルネストがこういった。「樹精は危険じゃないんですか?」

「それは樹精が身の危険を感じたときだけです」ヤルダは自信たっぷりにいい切った。「樹精にまつわる話の大部分は誇張されています。とにかく、あの動物はわたしたちにいちばん近いいとこです。もしテストしなければならない医療措置があっても、ハタネズミからでは大したことは学べません」こうした主張の大部分はダリアの受け売りだった──興行主が吹聴する、その生き物の獰猛さから富の半分を築いたのも、そのダリアなのだが。

 ファティマがいった。「重力がなくなると、なにが起きるんですか? なにもかもが……ばらばらにならないんですか?」

 ヤルダはしゃがみこみ、土の一部を取りのけて、その上にかぶさっている網の層をあらわにした。「これは一定の間隔を置いて、とげ で岩にくっついているの。根の組織が土をくっつけ合わせてもいるし──それに土そのものが、じつはすごくネバネバしている。ひと握りの土は、指の隙間からあっさりとパラパラ落ちてしまうけれど、重力がなくなっても、なにもかもが逆さまになるわけではないわ。わたしの予想では、ここや、農場の空気は土埃でもや がかかったみたいになるでしょう。でも、そのうち釣り合いが取れて、土埃が土本体からばらけるのと同じ割合で、またくっつくようになるはずよ」

 一行は階段をのぼって農場のひとつまで行き、そこで穫れた穀物から作った昼食をとった。小麦は日照のない状態にうまく適応していた。ジェンマが夜をふたたび追放したも同然のいま、外部の農場よりもここのほうが生長が速いのだ。第二の太陽が原因で生じる混乱は、季節や年によってまちまちだった──そしてジェンマがもとの太陽のそばでのぼったり沈んだりして、ほぼ正常に復する時期もある──だが、ヤルダがこの前ルシオに聞いたところでは、ルシオとヤルダのいとこたちは、複雑な周期に合わせようとするのをあきらめ、畑全体に天蓋を被せているだけだという。

 そのあとは倉庫、作業場と工場、学校、議場、宿舎へと進んだ。その日の締めくくりは、山頂近くの観測室だった。そこで太陽がふもとの平原に沈み、東から射す競争相手の光を浴びて山の影がくっきりとあらわれるのを見守った。

 その部屋のかたわらに食堂があった。建設作業員で混みあう中、ヤルダは床の空いている一画を見つけて全員をすわらせた。ここまであがると、太陽石からじゅうぶんに離れているので、ランプが使えた。そこはズーグマや赤塔市のにぎわう施設であっても不思議はなかった。

 ヤルダは人員募集の宣伝をやめて、見学者たちに食事をさせた。聞こえるのは、炎石のパチパチいう音と、まわりで食事をしている人たちのおしゃべりだけ。いまでは〈孤絶〉の全貌ではないものの、そこにおさまっているあらゆるものの少なくとも一例を見学者たちは目にしていた。この山の内部で人生を送るとはどういうことか、想像可能な地点に達しているということだ。

 レオニアは、見学のあいだ緊張しっぱなしだったが、いまはほとんど落ちついているように見えた。野生動物の仲間になって宇宙空間へ逃げこむよりは、双を避けるもっとかんたんな方法を見つけようと心を決めたのだろう、とヤルダは推測した。ニノはなにかに取り憑かれたような顔をしていたが、その正反対の選択をする決意を固めたようだった。いまにして思えば、ニノの質問は些末なことに関するものばかりだった、とヤルダは気づいた。まるで礼儀として熱意のあるところを見せたいが、はじめから考えは固まっているので、決意がぐらつくような問題には深入りしない選択をしたかのように。

 ほかの人たちについては、なんともいえなかった。搭乗者たちが直面する問題を控え目にいうのは、強調しすぎるのと同じくらいかんたんだ。見学の終わりに、このプロジェクトは絶望的なまでにひどい計画だと信じるようになった人は皆、歩み去るだろう──しかし一方、〈孤絶〉はかならず凱旋すると納得した人も皆、乗員に加わる動機が弱まっただろう。子孫に無期限の流浪を宣告するよりは、〈孤絶〉の帰還を待つわずか四年の歳月を選ぶほうがよくはないか。そうすれば、故郷から遠く離れて死ぬ代わりに、望めるかぎり最強の味方がたちまち到着するのだ。もちろん、その前に疾走星がこの世界を灰に変えるかもしれない。だが、ジェンマの発火から五年が経つのだから、同じ幸運があと五年続くと想像するのはむずかしくない。

 その両極端のあいだにスイートスポットがあり、飛行任務ミツシヨン が秘める可能性に疑問の余地はないが、成功は保証されているとはとうていいえない──迷っている応募者に、自分たちの寄与が天秤を傾けるところを想像させる余地がある。ヤルダは応募者がそういう気分になることを明白に狙いとしていて、そうすることにもはや後ろめたさや、ごまかしをしている気分を覚えなかった。じつをいえば、彼女とエウセビオは、まちがいなく必要だとわかっている仕事分の人員はすでに全部埋めたのだが、人数をさらに増やすこと──搭乗者のあいだで技術や気質や背景の幅を広げること──に、やりすぎはない。農場だけでなく森も運んでいくようなものだ。〈孤絶〉は全員の使い道を見つけるに違いない。たとえそれがどういうものか、いまのヤルダたちにはわからないにしても。


「ひとつ帰ってきました!」メイン・オフィスとトラック駐車場とのあいだに広がる砂地を走ってきたベネデッタが、感極まった声で叫んだ。その手には丸められた紙が握られていた。「ヤルダ! ひとつ帰ってきました !」

 ヤルダは身振りで見学者たちに待つようにいった。打ち上げのデモンストレーションを見学するため、一行を試射場へ連れていこうとしているところだったが、ベネデッタの不可解な興奮ぶりの理由がヤルダの思っているとおりなら、遅らせる価値がある。

 ヤルダは小走りに彼女を出迎えた。「探査機のひとつが帰ってきたの?」

「そうです!」

「ほんとうなのね?」

「ほんとうに決まっています! これが探査機の撮った画像です!」

 ベネデッタは皺になった紙を広げた。

 跳ね散った黒い斑点の意味をヤルダがはかりかねていると、ベネデッタが紙を裏返し、反対側を示した。そこには赤い染料で三つの署名が記されていた。ベネデッタの署名、アマンドの署名、ヤルダの署名。それに加えて通し番号、画像撮影装置の方位を確定するため隅に記された矢印……そして戻ってきた探査機を見つけた人に対する指示。

 感光側の画像を別にすれば、ヤルダは確かにその紙に見覚えがあった。二年半前、それが本物であると保証するため、ベネデッタに請われて署名した一グロスのうちの一枚だ。

「だれがこれを送ってきたの?」

「〈休止山〉近くの小さな村にいる男です」とベネデッタ。「あなたの認可をもらって、その男に報酬を支払わないと」

「探査機本体がどういう状態なのかわかる?」

「手紙によると、フレームからぶら下がった二、三のはめば歯車くらいしか残ってないようです。それでも重すぎて、こちらへ送る金銭的余裕はない、と」

「報酬に運賃を加えて、丸ごと届くようにして」ヤルダは紙をベネデッタから受けとった。「わたしなんか八分裂すればいい」ヤルダはつぶやいた。「あなたとアマンドはほんとうにやったのね」顔をあげ、「アマンドにはもう話したの?」

「彼はズーグマでエウセビオの手伝いをしています」

「うまくいくとはまるで思っていなかった」ヤルダは認めた。

 ベネデッタは上機嫌で甲高い音を立てた。「知っていましたよ! だから、この結果はますますすばらしいんです!」

 ヤルダはいまだに信じかねていた。自分が手にしているのは、この世界をあとにして、疾走星以外のなによりも速く宇宙空間を渡り、まわれ右して戻ってきて……そのあと〈休止山〉からここまで郵送されてきた紙切れなのだ。

「どの段階で撮られたものなの?」ヤルダは尋ねた。

 ベネデッタは通し番号を指さした。

「ということは……?」ヤルダは数字が意味するものを忘れてしまっていた。

「奇数は旅の第一段階をあらわしている。つまり、探査機がわたしたちから遠ざかっていたときです」

「なるほど」ヤルダは痺れたような声でかろうじて答えを返した。しばらく考えて、「こっちへ来て、わたしの応募者たちに、あなたの発見を話してやってもらえないかしら」

「喜んで」

 ヤルダは見学者たちにベネデッタを紹介してから、問題の背景をかいつまんで述べた。何年も前、自分は疾走星の光の軌跡にわずかな非対称があることをなんとか突きとめ、それらの来歴がこの世界の来歴と正確には直交していないことを論証した。おかげで、疾走星の光がどの方向から来ているのか、ようやくわかるようになった。そのときまで、疾走星の軌跡は空のどちらの方向へ飛ぶ燃える小石のしるし でもありえたのだ。しかし、疾走星自体の時の矢については、なにも明らかにならなかった。

 ドロテオは混乱した。「なぜ疾走星の時の矢は、光源から目的地を指すだけじゃすまないんですか?」

 ヤルダが答えた。「線路の踏切へむかって車を走らせるとしましょう。そしてレールが、走っている道とは完全な直角になっていないことに気づいたとしましょう。踏切に近づくにつれ、それは左側から入ってきます。レールの〝起点〟は、背後の左側にある駅だと思えるかもしれません──でも、このレールが一方向にしか使われないと仮定すれば、列車が じっさいに左から右へ走っていると信じる理由は、相変わらずありません」

 ドロテオはこのアナロジーに取りくんだ。「そうすると……四空間を飛ぶ疾走星の来歴の幾何学は特徴のない線として描けるけれど、それに矢印はつけられませんね。あなたの発見した傾きが、疾走星の矢がわずかにぼくらの未来のほうを指している意味だと決めてかかることはできません。わずかにぼくらの過去のほうを指していたって、ちっともおかしくないんですから」

「そのとおり」とヤルダ。「あるいは少なくとも、いままではそういう風でした」

 ベネデッタは知らない人たちを前にしてはにかんでいたが、ヤルダに励まされて話を引き継いだ。

 探査機は二年半前に打ちあげられた。山の掘削で出た太陽石を燃料とする六ダースのロケットが、同一の計測器を積んだ上で、渡りブヨの群れのように送りだされたのだ。そのうちの一機が任務を完了し、帰り道を見つけるだろうという希望のもとに。探査機の飛行計画は、〈孤絶〉のそれほどには野心的なものではなかった。青い光の速さのちょうど五分の四に達したところで減速と反転に移り、途中、文字どおり二 きっかりを自由落下状態ですごす。圧縮空気、エンジンのタイミングを制御する機械仕掛けとカム、さらには機体を回転させる必要を避けるため設計に組みこまれた、何対かの対向する姿勢制御ロケット。プロジェクトの狙いは、画像撮影装置を疾走星の経路と平行に、まずは一方へ、ついで反対方向へ、できるだけ速く動かすことにあった。

「この紙は紫外線、つまり青い光の約一・五倍の速さがある光に感光するようになっていました」長旅でよれよれになった紙を掲げてベネデッタは説明した。「直交星群は、すべてわたしたちの未来にありますから、それを目にしたり、通常の条件下で画像を撮ったりすることは期待できません。しかし、〝過去〟と〝未来〟の意味全体は、人が動いている状態によります」

 ベネデッタは関連する来歴を胸に描きだした。