だが、特徴のない物質の微小片が時間の中をどちらむきに動いているかを、どうやって知ることができるのか? 時間の矢はすべてエントロピーの増加からのみ来るものだとされている。孤立した粒子はだんだん乱雑に なったりはできない。砕け散る石と、ひとりでに集まってきてもとの形に戻る破片の違いのような派手さはないけれども、符号を変化させる波は、二種類の区別できる光源が──少なくとも、そのふたつがあまり急速に動いていないときには区別できる光源が──あることを意味している。ひとつは〝正〟で、ひとつは〝負〟。

 列車がズーグマに入ったときには、夕方になっていた。口喧嘩の絶えない就寝時間のチビども四人と顔を合わせる元気はなかったので、ヤルダはしばらく街の中心部をぶらついて、四人がまちがいなく眠ったころまで時間をつぶした。

 ようやく勇を鼓して部屋に戻ったヤルダは、闇に覆われた居間にリディアがすわりこんでいるのを見て驚いた。

「仕事に行っていると思っていたわ」ヤルダはいった。「シフトが変わったの?──それとも、育児ヘルパーになにか問題が?」エウセビオに報酬を払ってくれるよう頼んだのは、自分のかわりに子どもたちの面倒を見てくれる人を雇うためにほかならなかった。

「ヘルパーはいい人よ」リディアがいった。「でも、今夜は彼女に来てもらわなくていいの」

「あなたが朝のシフトに戻ったということ?」

「違うわ、わたしは失業したの」

「まあ」ヤルダはリディアの隣にすわった。「なにがあったの?」

「職場の新しい管理者のことは話したっけ?」

「双に逃げられた自分の兄の代理双になれ、とあなたに要求しつづけた馬鹿のこと?」リディアが自分自身の双を殺したという噂をヤルダは信じていなかったが、より多くの人がそれを本気にしてくれたほうが役に立つかもしれない場合もある。

 リディアがいった。「二日前、あの男がそれまでと違うことをいいだした。トゥリアの子どもたちをあの男の兄に譲り渡せ、さもなくば染料を盗んでいることを工場主にいうぞ、って」

「だけど、あなたは廃棄される不良品の瓶しか持ってきたことがない。そんなこと、みんなやっているんでしょ!」

「そうよ」リディアが答えた。「でもあの男は、わたしが使いものになる瓶も持ちだしていると工場主に報告した。いかにもそれらしい在庫目録の書類もでっちあげてね。それで工場主はあの男のいうことを信じた」

「なんてひどいやつ」ヤルダはリディアの肩に腕をまわした。「心配しないで、あなたならもっといい仕事を見つけられるわ」

「もううんざり」リディアはいいながら身震いした。「いまごろにはあらゆることが違っているだろう、と昔は考えていた──わたしがこの歳になるまでには。でも、なにが変わったというの? 女の市議会議員すらいないのよ」

「そうね」

「あなたのお友だちのエウセビオが、この件でなにかしてくれてもいいんじゃない?」リディアが問いつめる。

「エウセビオを責めないで」ヤルダはかばうようにいった。「いまでも議会で、一ダースの別々の方面で論争を繰りひろげているんだから」

 リディアはだからなんなのといいたげに、「市議会の新しいメンバーになることの意味は、長老たちと戦って、実益のあるなにかを達成することにこそある。でも、権力を分かちあう ことを優先している人は、だれひとりとしていないみたい」

「そう思うと愕然とするわね」

「エウセビオのロケットでは、無料でホリンが提供されるの?」リディアが訊いた。「だとしたら、わたしにはそれだけでも参加する理由になるけれど」

 ヤルダは答えた。「無料ホリンの件はもちろんよ。じつをいうと、乗員は単者と出奔者だけで構成されることになりそうなの。いまのところそれぞれがひとりずつ、この部屋と同じくらいの広さのロケットに乗る」

「だんだん魅力的な話には思えなくなってきた」

 ヤルダは立ちあがった。「仕事のことは残念に思うわ。勤め口の心当たりがある人がいないか、聞いてまわってみる……」

「うん、ありがとう」リディアは両腕で頭をかかえこんだ。

 部屋を歩いていったヤルダは、窓の脇の床に輪郭のはっきりした光の長方形ができているのを目にとめた。疾走星の散乱光がこんな風に見えることはない。それはまるで、近所のだれかが大公会堂からスポットライトを盗んできて、自室のバルコニーに据えつけたかのようだった。

 ヤルダは窓に近寄って、外を見た。近所の人たちに責任はなかった。光は近隣の塔よりはるかに高いところから来ていた。青みを帯びたひとつの点が動くことなく空にあって、目で見えるかぎりでは色の尾も引いていない。

 リディアも光に気がついた。窓際でヤルダと並ぶ。

「あれはなに?」

 ヤルダは突然気がついた。夕方、列車の駅を出たとき、東の空高くにこれと同じ物体を自分が目にしていたことを──だがそのときには、はるかに色が淡くて、あらためて気にとめることもなかった。「ジェンマよ」ヤルダはいった。「あるいはジェンモ」肉眼で両者を分離して見ることは不可能なので、変化をこうむ ったのが双子惑星のどちらかを推測するのは無意味だった。

 リディアがカッとなってうなり声を出した。からかわれて我慢できる気分ではないのだ。「わたしは天文学者じゃないかもしれないけど」リディアがいった。「馬鹿でもないわ。あの双子惑星がどんな風に見えるかも、どっちもあんなに明るくないのも知っているのよ」

「その片方が、いまではこうなの」暗くて生物のいない、かつては太陽光の反射で輝いているだけだった惑星が、いまヤルダたちの目の前で恒星に変わりつつある。

 リディアは窓枠にもたれて体を支えた。ヤルダの言葉の意味を把握したのだ。「疾走星が衝突したの? そしてこれがその結果なの ?」

「どうやらそうみたい」ヤルダは自分がとても冷静な気分であることに驚いていた。じゅうぶんな大きさのある疾走星は惑星を発火させることができるというのは、トゥリアがずっといっていたことだ。暗い世界、生物のいる世界、恒星。そのすべてが同じ種類の岩でできていて、それに区別をつけているのは、単なる運と来歴の問題にすぎない。

 リディアがいった。「このことで、なにかいい知らせはないの」

 いい知らせ? ジェンマとジェンモははるか遠くにあって、太陽よりずっと小さいから、少なくとも新しい恒星がこの世界に耐えがたいような熱をもたらすことはない。

 じっさい、双子惑星は太陽から非常に離れているので、惑星近傍の太陽風の密度は、太陽にもっと近い惑星の周囲での値のわずか数分の一だと考えられている──そして、これまでこんな遠方で目撃された疾走星がなかったことは、ガスとの摩擦が石の破片を燃えあがらせているという説と一致していた。けれど、疾走星につきものの宇宙花火がなかったにもかかわらず、この予想外の衝突は起こった。

 疾走星は、目に見えるか見えないかに関係なく、あらゆる場所にあるのだ──そして太陽風のみにその原因を押しつけるルドヴィコの馬鹿げた説明は、いまやまったく擁護のしようがなかった。ルドヴィコが自説を撤回するとはヤルダは思わないが、観測所問題でエウセビオの提案に反対投票をした人々は、ルドヴィコ陣営についたとはいえ彼と同レベルのプライドをそこに賭けているわけではない。

 新しい恒星は疾走星群それ自体以上にエキゾチックなものではないかもしれないが、その意味を読みとるのはずっとかんたんだった。自分たちが住むこの惑星にこれまであんなことが起こらなかった理由はただひとつ、運がよかったからだ。昼だろうが夜だろうが、この世界もまたいつでも、同じ道をたどることがありうる。

「いい知らせはね」ヤルダはいった。「これでついに、わたしたちは空飛ぶ山を手に入れただろうということよ」