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 エウセビオといっしょに大公会堂の舞台にはじめて立った翌朝、ヤルダは早い時間に起きて、新聞各紙がどんなことを書いているか確認しに出かけた。

 近くの街角に〈街の皮膚〉紙を売っている少年がいたので一部買ったが、三回パラパラとページをめくった結果、世界の終わりはここでは掲載の価値ありと見なされなかったことが判明した。ヤルダは〈噂話〉紙を買おうとして少年のところに引き返したが、売り切れていたので、少年が胸に染料を振りかけて新たに一部作ってくれるのを、その場で待った。

「ニュースと娯楽のページだけ作ってくれれば、全ページ分の代金を払うわ」ヤルダは待ちきれずに提案した。

「それは許可されていません」少年はいって、次のページの記憶を胸に呼びだした。

「どうしてダメなの?」

「広告主が嫌がるからです」

 印刷が終わるとヤルダは全ページの束を受けとったが、建物の角を曲がると、金融アドバイスやレストラン・レビュー、列車時刻表を捨てた。残りのページを二度探しまわって、目当ての記事が見つかった。


『昨夜、わが紙の潜入員たちが赴いたのは大公会堂。無料で入場した(!)聴衆たちに供されたお楽しみは、超自然的にふくよかなヤルダ教授による目前に迫った文明崩壊の話だった。奇術の し物をぞっとするほど理解不能な幾何学と混ぜたパフォーマンスで、あっぱれな巨体の教授は、俊足の〈母なる時間〉なるものの脚を縛りつけてみせようとしたが、多くの観客にはなにがしたいのかさっぱりであった。

 教授の破滅のお告げに聴衆が納得しなかったとしても、そのあとのエウセビオ議員による〈空のむこうに旅しよう〉計画への支援者(あるいは志願者さえも!)を募ろうとする試みは、不信と嘲笑の大合唱に迎えられた。この大冒険を支持するつもりのある読者へ──当編集部の戸棚には〈機械の翼〉の設計図が埃を被ったまま眠っていて、あとはおめでたい投資家が手を出せば計画が始動します。

 こんな話をまともに受けとめていいものか、本紙に意見を求められたズーグマ大学のルドヴィコ教授は、昨夜の掛け合い漫才に見られる不安の原因となっている疾走星とは、〈太陽しよう の自発的励起〉以外のなにものでもないと語った。見た目こそ不安を呼ぶ現象だが、この星の大量の大気全体に〈瘴気〉が浸透することは不可能なので、なんの害も及ぼさないという。

 この空前の愚行はあと十夜続く。もし有料だったら、この陰気な悪徳公演はたちまち資金不足で打ち切りになっていただろうが、本紙は次善の結末が訪れるよう、強く訴えたい。ガラガラの会場を前にして、このペテン師たちが恥じ入って沈黙するという結末を』


 部屋に戻るとダリアが目ざめていたので、ヤルダはその記事を見せた。

「わたしなら、〈噂話〉になにを書かれても別にかまわない」ダリアは見下すようにいった。「文学サロンの取材を、ジャーナリズムの知的限界の拡張だと思っているような新聞なんか」

「文学サロンってなんですか?」

「読んだり論理的に考えたりできない連中が集まって、おたがいに相手が重要人物だと認めあう行事よ」

 ヤルダはいった。「でもこの記事を読んだ人は、わたしたちのやっていることをある種の……投資詐欺だと思いますよ!」

 ダリアは面白がっていた。「こんななにも理解していないでたらめを真剣に受けとるような人は、そもそも相手にしてもしようがない。〈孤絶〉を前進させる役に立つことは絶対にない人たちだし、ましてや乗員に志願するなんてことは」

「まあそうでしょうね」ヤルダは同意した。「でも──」

「でもあなたは、ズーグマのあらゆる人に、なにが危機に瀕しているかを理解してほしい?」ダリアがヤルダの言葉の先をいった。

「もちろんです。あらゆる人にその権利があると思いませんか?」

 ダリアがいった。「わたしはこういう商売を十年やってきたけれど、これよりはるかにひどい記事を何度も書かれたことがある。だから信じて、それでもほんとうに興味を持った人たちは、やって来るから」ダリアは新聞を器用に丸めて筒にしまうと、部屋のむこうに投げつけた。「もう忘れなさい」

 リディアは夜遅くのシフトから帰ってきて、まだ眠っていた。ダリアが子どもたちを学校へ連れていってくれることになった。ヤルダは精いっぱい、ダリアのアドバイスに従おうとしたが、大学に着くと、ジョルジョからさらに悪い知らせを聞かされた。学科の上級者会議の投票で、新しい観測所の資金を出すというエウセビオのオファーが否決されたのだ。そればかりか、現在そこを使用している大学へのエウセビオの干渉を禁止する命令を求めて、観測所の土地所有権をズーグマ市議会に引き渡そうとしていた。

 ジョルジョがいった。「もし望遠鏡を大気圏よりずっと高いところに持っていければ、観測の質は目に見えて向上するだろう。だからもしきみたちがそのへんをうまい言葉で……」

 ヤルダは冗談につきあう気分ではなかった。「先生はご友人たちが賛成投票をしてくれるよう、説得したんじゃなかったんですか! エウセビオのロケットのことをどう思おうが、いまより大きな望遠鏡は交換条件としてじゅうぶんでしょう、どう考えても」

「申しわけない」ジョルジョはいった。「ルドヴィコが賛同を求められる支持者のほうが、わたしより多かったんだ」

 ジョルジョが約束を守ったことを、ヤルダは疑ってはいなかった。だがジョルジョにはまだ、現実感を欠いているところがある。ヤルダ自身、その状態を抜けだすには長い時間がかかった。ヤルダと物理学を論じているときのジョルジョは、疾走星に関する直交星群団クラスター 理論がほかの説明よりも説得力があることを受けいれられる──けれど、自分の子どもたちを見て、この子たちが死んでしまうのだと想像するくらい深刻に脅威を受けとめるようには、なれずにいた。

 ヤルダは受け持ちの光学入門の講義をした。彼女が表示する薄レンズの法則に関する図表や方程式を学生たちが従順に記録しているのを見ながら、ヤルダは、猛威をふるう野火のきわ で安物の装身具をばらまいているような気分になった。けれど、講義中にエウセビオのプロジェクトの話をしたり、大学構内で参加者募集の集会をひらいたりするのは禁止されていた。もしこの聡明な若き男女の中に、この問題に関する真実を知りたいと望む人がいるなら、夜の悪徳公演に顔を出す努力をしてもらうほかない。

 昼食時間に食堂に来たヤルダは、ルドヴィコが食料品室から出てくるのを目にした。食事に同席する人たちのパンを腕にかかえている。ヤルダは顔を合わせるのを避けようとあとずさったが、ルドヴィコのほうがヤルダを見つけて近づいてくると、なるべく大勢の注意を引くように調節した轟き声で呼びかけてきた。

「ヤルダ教授! ここでお会いするとは驚きだ! わたしたちのところから見せ物商売に転職したのだと思っていたよ」

 ヤルダは散漫にブンブンいって調子を合わせてやったが、こういい足さずにはいられなかった。「近ごろはふたつの仕事を持つのが流行りのようですね。先生ご自身もジャーナリズムに進出されたのを拝見しました」

「わたしはジャーナリストから意見を求められた のだ」ルドヴィコはきまじめな言葉を返した。「疾走星に関する著名な権威としてであって、賃金雇用者としてではない」

 ヤルダはいった。「それは失礼しました、ですがわたしは、〈太陽瘴気の自発的励起〉に関する先生の学術的刊行物をすべて見逃してしまったに違いありません。そうした用語がいったいなにを意味するものか説明してくだされば、このテーマに関するわたしの無知を正していただけるかと思うのですが?」いまや食堂にいるだれもが、後眼でだったり前眼でだったりするが、ふたりに視線をむけていた。

 ルドヴィコがいった。「もちろんいいとも。太陽風のひとつの粒子は、高速の輝物質を押しだし、それは別の輝物質にぶつかって、それに同じことをさせる。それが繰りかえされていく。ほかの、もっと遅い光も太陽風の粒子から放射される。これこそが疾走星だ。高速の光の粒子に媒介されてガスそのものの内部で発生する活動の、長い連鎖」

 ヤルダは感謝のしるしに頭を下げてから、数停隔ポーズ 間、深く黙考しているふりをした──その黙考でも当惑を解消できなかったというように、「ですが、その〝活動の連鎖〟が、なぜたがいに平行になるのでしょう? なぜランダムな事象である〝自発的励起〟が、すべて正確に同じ方向に並ぶのでしょう?」

 ルドヴィコは躊躇することなく答えた。「それ自身で励起を引き起こすレベルの共振エネルギーを持たない、遠方にある高速の輝物質の発生源が、太陽風を輝かせ、粒子を軽く押して整列させる。ガスは自発的に光を発生させるが、そのときのむきはランダムにはならないのだ」

 恥というものをまったく知らないこの自己撞着的発想に恐れいって、ヤルダは一瞬言葉を失った。「意味をなさない話ですね」ヤルダは明るくいった。「そして自分でも意味をなさないとわかっている」

 ルドヴィコは平気な顔で尊大にいった。「なら、論破してみたまえ。わたしの理論の誤りを立証できる、おまえの綿密な観測結果を見せてみるがいい」いったん歩み去ろうとしたルドヴィコだが、立ち止まって、ヤルダとむきあった。「おっと、すまなかった、考えなしなことをいってしまった! 観測をするには、観測所 が必要だった……頭のおかしいおまえの代理双が粉々にするところを、おまえが見たがっている施設がね。では食事を楽しんでくれたまえ、ヤルダ教授」


 大公会堂の舞台に立ったヤルダは、今日直面した逆境の数々を頭から追いだして、発表に集中しようとした。彼女のあっぱれな巨体でさえ、そこに描書された文字や図表を後ろのほうの席の人が読みとるには小さすぎたので、ヤルダは会場の舞台装置家と協力して、印刷された映像を太陽石ランプとレンズを使って背後の大きなスクリーンに投影する装置を作りだした。

 聴衆の姿を隠している闇の中を覗きこむようにして、ヤルダは伝えるべきメッセージを研ぎすまし、それが単純なものであることを強調した。時間は空間におけるもうひとつの方向にすぎない。光のふるまいや、燃える燃料の持つ凶暴な力を説明できる方法は、ほかにない。そして光をおとなしくさせておくためには、時間は有限である必要がある──それはつまり、来歴が一周まわってきてそれ自身と出会うということであり、そのことは包みこむようにこの惑星に巻きついている道路網や列車網と同様に確かなことだ。けれど、隣りあう都市どうしの列車路線は両者が共同で計画するのに対して、複数の世界の来歴が交差するのは、偶然であり、コントロールされていない。疾走星は壮観ではあるが、この地図上では単なる踏み分け道だ。前方には過密な貨物線がある。

 エウセビオも説明に加わった。かつてエウセビオがヤルダに見せた単純なスケッチが、スクリーン上に再現される。まわり道をして、長くゆっくりしたジグザグの進路で未来へむかうことで時間を稼ぎ、その間に斬新な発想や発見を生む。それは危険な旅になるだろうし、考えただけでだれもがたじろぐだろうが、〈孤絶〉号はズーグマの人々に提供してもらえるあらゆるものを必要としている。宇宙空間を無事に航行することは、スタート地点にすぎない。搭乗者のコミュニティの活気と繁栄を維持するには、この街全体をあげてのひらめきと専門知識が必要とされるだろう。

 聴衆から質問を受けつけてはいけない、とダリアからヤルダたちふたりはアドバイスされていた。それは自己顕示欲の強い妨害者に機会をあたえるだけだから、と。そこで質問時間を取るかわりに、ふたりは大公会堂のホワイエの一角に机をふたつ用意して、壇上の説明のあと、穏やかに、一対一で話ができますと聴衆に呼びかけた。

 ヤルダは、〈噂話〉の敵意ある記事に煽られたぼう が殺到するのを覚悟していたが、全体としての聴衆は前夜より騒々しいということはなかったし、公演後にふたりのところへ個々に話しにきた人たちは、むしろいっそう礼儀正しく、心強い思いにさせてくれた。「ぼくはあなたの人騒がせなデマはひと言も信じないけれども」とにこやかにヤルダにいった若い男もいた。「あなたたちの幸運を祈っています」

「なぜデマだと思うの?」

「世界は何累代イーオン も滅ぶことなく続いてきたんです」男はいった。「歴史には、最近みたいな流星の話は出てこないかもしれませんが、世界はぼくたちよりずっと古くからの存在だ。地質学者によると、この惑星は以前も何度となく宇宙から石が降りそそいだそうです。もうあと二、三個、天から石が降ってきても、大惨事にはとうていならないでしょう。でも、あなたがたが宇宙空間の彼方にロケットを送りだして、無事に戻ってこさせることができたら、それは称賛に値することです」

「あなたに自分を搭乗者になる気にさせるのは無理かしら?」とヤルダがいったのは、からかっているわけではなかった。思慮深い温厚な懐疑派が搭乗者の中にいるのは、価値があることのはずだ。

 若者はいった。「ぼくの子どもたちが生き延びられる見こみは、しっかりした大地を踏みしめていたほうが大きいだろう、と思いますので」

 エウセビオが観測所紛争に関する顧問弁護士との打ち合わせに行く時間になった。ヤルダはもう少し残っていることにした。とはいえ、ホワイエはまだ無人になってはいないものの、居残っている人々は仲間内で話していて、ヤルダのところへ来るタイミングを見計らっているわけではないようだ。

 真夜中まで二鳴隔チヤイム を時計が告げたとき、ヤルダは用意してきた資料用小冊子を箱詰めしはじめた。前夜の七人に加えて、新たな登録者が五人いた。たとえその志願者たちが、山の内部の人工洞窟で作物の種蒔きをする以上のことをする気はまるでないとしても、それでもそれは成果のうちだ。

 ヤルダが机を置いた場所から立ち去ろうとしたとき、若い女がこちらにむかって足早にホワイエを横切ってきた。

「申しわけありません」その女はいった。「お話ししようかどうしようか迷っていて……」

 ヤルダは小冊子の箱を下ろした。「話したいことというのは?」

「あなたがたのロケットのことを考えていたんです。ひとつ不安なことがあって──」そこでいいやめて、すでに差し出がましすぎることをいったかもしれないと気づいて急に恥ずかしくなったかのように、視線を下げた。

「続けて」ヤルダは励ました。「不安なことがひとつしかないとしたら、あなたはわたしの一ダース倍は自信を持っていることになるわ」

 若い女はいった。「ロケットが方向転換して、わたしたちのほうへ戻ってくるとき……旅の前半分での搭乗者たちの視点からすると、それは時間を逆行していることになりませんか?」

「なるわ」ヤルダは肯定の返事をした。「まったくそのとおり」

「そして疾走星の、それからあなたがたがわたしたちと衝突すると考えている世界の側から見たら……やはり同じことがいえますか? 旅の後ろ半分では、ロケットは疾走星やむこうの世界の過去へむけても旅することになるんでしょうか?」

「そうよ」ヤルダは感心していた。それは観察に基づく単純な考察にすぎないが、これまでヤルダの前でその問題を持ちだしたのは、エウセビオとジョルジョだけだった。

 女は顔をあげ、不安で落ちつかないようすで、「それは……安全 ですか?」

「それはわからない」ヤルダは認めた。「ロケットがそれ自身の時の矢を、搭乗者や積み荷というかたちで実体化したそれを、どの程度まで運ぶのか、そして周囲の状況がその矢にどの程度まで影響をあたえるのか……わたしたちにはわかっていません」

「ではあなたがたは、搭乗者たちが外側へむかう旅のあいだに、内側への行程で自分たちを守れるような知識を身につける、と期待しているんですね?」女は確かめるように訊いた。

「そういうことになるわね」ヤルダは以前、まだ発明されていない推進手段を頼みにしているといってエウセビオを非難したが、じつのところ搭乗者たちに、旅が確実に伴うであろうありとあらゆる危険に前もって準備させておける望みは、まったくないのだった。

 勇気を得て、女はいった。「あなたがたが最低限、旅の開始時点ではロケットが疾走星の未来にむかって進むと確信を持てるなら、それでわたしは納得できます。衝突に備えるのに半エイジ かかるなら、それでもかまわない──でも、最初の最初から問題に直面しなくてはならないのでは、たまりませんから」

「納得できるというのは……この大事業に賛同するためにということ?」

「わたし自身が搭乗者になるために、です」

 ヤルダはいった。「お名前を聞かせてもらえますか?」

「ベネデッタです」

 ヤルダはベネデッタを机のところに連れていって、こまごましたことを聞きだしながら、ここまで真剣に問題点について考えている人はこれまでほかにいなかった──ここにいるヤルダ本人でさえ──と思わず漏らしてしまわないよう気をつけた。

「どこかの学校に通ったことはある?」ヤルダは尋ねた。〈孤絶〉搭乗者第一号は、職業を〝工場労働者〟と申告していた。

「翡翠市で」なぜかそれが恥ずかしいことであるかのように、ベネデッタはおずおずと認めた。「工学の勉強をしましたが、一年間だけです」

「それは別にかまわないわ、ちょっと聞いておきたかっただけ」自分が無理に明るい声を出しているように聞こえることにヤルダは気づいて、意識してふだんどおりにしゃべろうとした。あなたは出奔者ですかと質問したら、ベネデッタは震えあがって逃げてしまうかもしれない。それはヤルダたちがどこかの時点で──ベネデッタとプロジェクトを守るために──対処する必要がある問題ではあるが、いま、とにかく重要なのは、ベネデッタに熱意があり、問題の核心をたちまち見抜けるほど頭の回転が速いということだった。

 ホワイエからはほかの人影が消えていた。ヤルダはいった。「真夜中に清掃の人たちが来る前にここを出ることになっているのだけれど、あなたに用事がなければ、外に出てもう少し話しましょう」

「わたしに用がある人なんていません」ベネデッタが答えた。

 建物を出ると、街はひっそりとしていた。一ダースの遅い疾走星が空を横切って色を広げていた。ふたりで丸石を踏んで大公会堂から遠ざかりながら、ベネデッタがいった。「時間が閉じた環を作るとほんとうに信じているんですか?」

「確信はない」とヤルダは返事をした。「けれど、証拠はしっかりしていると思う」

「では、未来は過去とまるで違いがない?」

「ほんとうに違う点は、未来と過去のそれぞれについてわたしたちがなにを知っているかということ」ヤルダはいった。「その情報をわたしたちがかんたんに入手できるかどうか。わたしたちは未来よりも過去についてずっと多くを知ることができる、少なくとも、あまり昔まで振りかえろうとしなければ。でも、それは歴史の予測不能な変化の結果であって、絶対的な区別は存在しない」

「でもそれなら……過去のあらゆることと同様、これから起こることも決定ずみだ、と?」

「そうよ」

「ではなぜあなたがたは、未来を変えようとそんなに必死で努力しているんですか?」

 ヤルダはうれしくてブンブンいった。その質問は当然予想できていた。「〝変える〟は正しい言葉じゃない」ヤルダは示唆するようにいった。「悪い法律を〝変える〟ために努力することはできる──なぜなら、時代が違えば法律は違うものでありうるから。でも、疾走星群との遭遇は、それをわたしたちが生き延びられるか、生き延びられないかのどちらかしかない。そして結果がどうなるにせよ、だれにもそれは変えられない」

 ベネデッタはここまでを納得したが、さらに食いさがった。「なら、使うべき言葉はなんですか? 〝影響〟?」

「それは使える表現ね」ヤルダはいった。「わたしは懸命に未来に影響をあたえようとしているんだ、と認めましょう」

「でも、未来が過去と同様に決定ずみなら、どうやって影響をあたえられるんですか? 昨日起こったことに影響をあたえようとしてみたんですか?」

「いまはもうしない」ヤルダはいった。「けれど、まちがいなく一昨日には、昨日に影響をあたえようとしていた」

どうしてそんなことを ? 昨日起きたことはつねに 決定ずみだと信じているなら、一昨日そんなことをしても、どうせ結果は変わらないのでは?」ベネデッタはヤルダをからかっているのでも、レトリックのゲームをしているのでもなかった。彼女はその答えを心から必要としていた。

「ああ」ヤルダがこんな会話をするのは、トゥリアと言葉を交わしながらいくつもの長い夜を送って以来のことだった──そしてあのころは、役割が逆だった。「わたしは、人の行為が無意味だと主張する類の予定説は、信じていないの。だから、わたしがなにをしたところで昨日は同じ結果だっただろうとは、認めない」

「ですが、人の行為が無意味ではない としても、その行為を自由に選ぶことはできませんよね?」ベネデッタが問いつめる。「未来が決定ずみで、人の行為が未来に影響するとしたら……その行為それ自体が決定ずみでなくてはならず、そうでなければその行為はまちがった結果を導くことがありうる。それはつまり、じっさいには人の行為には選択肢がないということです。人は、自分ではコントロールできない力に動かされている操り人形でしかない」

 ヤルダはしばらく考えてから、「右手をあげて」

「なぜです?」

「やってみてよ、別にかまわないでしょ」

 ベネデッタはいわれたとおりにした。

「いま、手をあげるかあげないかは自由だったと感じた? あなたが望んだとおりにできた?」ヤルダはベネデッタに問いかけた。

「そう思います」

 ヤルダはいった。「じゃあ聞かせて、時間が環になっていて未来がほんとうは遠い過去であるか、そうでないかによって、いまの行動をなにか違う風に感じなくてはならない理由が、ある?」

 ベネデッタはその問いに考えこんだ。「もし、つねにいまの行動が起こることになっているとしたら──もし、ある意味ではすでに起こっていた としたら──自分がいま決定を下したとわたしが思ったとき、それは幻想にすぎなかったんです」

「その幻想というのは、なにと比較しての話?」ヤルダはさらに問いつめた。「教えてちょうだい、あなたをなんらかのかたちで〝もっと自由〟にするには、世界がどんな風に動いていればいいのかを──物理学はどんな風に機能していればいいのか、歴史はどんな風に形作られればいいのかを?」

「未来がひらかれていればいいんです」ベネデッタが答える。「自分がなにをするかをわたしたちが決めるまで、わたしたちの行為が決定されないのであれば」

「ではもし、現実がそういう風だとしたら」ヤルダはいった。「そのとき、あなたが手をあげるかあげないかを、なにが最終的に決めたことになるの?」

「わたしが決めました。わたしが選択したことです」

「でも、なぜあなたはその現実にやった選択をして、わたしのいったことを拒否しなかったの?」

 答えはすぐには返ってこなかった。「あなたの頼みかたが理由だった、と思います」ベネデッタはようやくいった。

「じゃあ、わたしが あなたの行為を決めたの?」

「いいえ、それがすべてではなくて。わたしの気分やわたしの精神状態も、そこに関わっていました」

 ヤルダはいった。「いまあなたがあげたことはひとつも世界から消滅しないわ、もし未来がひらかれているのではなくて決定ずみだとしても。決定ずみだとしても、わたしたちはふたりともここにいる。決定ずみだとしても、わたしたちの行為は、そうでない場合とまったく同じかたちでわたしたちの望みとつながっていて、その望みはわたしたち個人の気分や来歴とつながっていて、そしてそれは、という風に続けていける」

 ベネデッタは納得しなかった。「もし未来が決定ずみ なら、この会話にだってなにか意味があるんですか? わたしはこれから 、わたしがあなたにいうことになっているあれやこれやをいう、というのが変えられない事実だとしたら──まるでわたしたちが、台本に従っている役者でしかないかのように──おたがいの考えを変えるなんていうことが、わたしたちにはほんとうにできるんでしょうか? なにかを伝えるなんていうことができるんでしょうか?」

「わたしの出している声は、とくになんの理由もなく、ランダムな雑音を発生させているように聞こえる?」ヤルダは冗談をいった。

「いいえ」

「もし台本が存在するとしたら」ヤルダはいった。「わたしたちは役者であると同時に、脚本家でもある。わたしたちのセリフを書くことができる人は、ほかにだれもいない。ただひたすら、歴史があらかじめ定められた結末に到達するように、どたばた走りまわってあらゆることを調整し、わたしたちに自分の意志に逆らって行動したり、自分の本性に反する選択をおこなったりするよう強制している人形使い師なんて、どこにもいないの」

「だとしたら、世界はどういう風に動いているんですか?」ベネデッタが答えを迫った。「物事はどうやって、あるべきかたちになるんですか?」

 ヤルダはいった。「ここで大事なのは、英雄譚サーガ における運命みたいなものが作用していると考えるのをやめること。どこかのつまらない君主が逆境をひっくり返して重要な戦いに勝利するのは、すべての下っ端が歯車の歯にすぎなくて、そのあらゆる行動が運命に従属しているからだ、みたいに考えるのをね。現実はそれとはまったく逆。〝物事のあるべきかたち〟は、まったく見映えのするようなものではなくて、考えうる最低レベルで履行される。

 わたしたちはすべての種類の物質について詳細を知っているわけではないけれど、自由な光の場合、その基本的な構成要素は単なる循環する波よ。波が宇宙をぐるっと一周してきたら、どの方向にまわっても、それはきっちり整数回だけ変動するので、はじめの値にスムーズに戻ってくる。それだけのこと。それはすでに全うされた運命で……なぜなら、そういう波から構築されたものは、すべて自動的に同じ性質を共有しているから。どんなに複雑な光のパターンを作っても、一周まわって戻ってきたときに自分自身と矛盾することはない。それはもっとも基礎的なレベルの物理によって保証されている。うまく調整されたり、台本化されたり、なにかの手が入ったりする必要はない」

 ベネデッタは考えながらいった。「では、そういう世界の中で、〝わたしたち〟はどこにいるんでしょう? わたしたちを作りあげている物質もそれと同じ仕組みになっているのだとしたら、わたしたちが選択をする余地はどこにあるんです?」

「生物学レベルに」ヤルダは答えた。「わたしたちの欲求と行動には、脳と体の構造に根ざすある程度の一貫性があるのだと思う。あなたがなにを望むか、あなたがなにをするか、あなたが何者であるか……そうしたことは完全には調和していないだろうけれど、わたしたちは自分の体の中に閉じこめられた囚人で、その間に体のほうはわたしたちと無関係な計画に従っている、というわけじゃない」少なくとも、分裂する力が支配的になって、体を四分裂させるまでは、の話だが、ヤルダはそこに踏みこみたくなかった。

 ふたりで〈大橋〉を渡りはじめると、ベネデッタは黙りこんだ。ヤルダは、この問題についてのベネデッタの考えを変えられるとは思っていなかった。重要なのは、このプロジェクトの仲間たち相手にはどんな問題を持ちだしてもいいのだ、とベネデッタにわかってもらうことだった。山ひとつを無限の速度で宇宙空間に飛ばそうと計画しているときに、難解すぎて関心を持っていられないことなど存在しない。

 ようやくベネデッタが言葉を発した。「わたしはこれについて、もっと深く考えないといけません。あなたの議論には、確かにある程度の説得力があります」

 ヤルダはその声に、留保の響きを聞きとった。「けれども?」

 ベネデッタがいった。「抽象的な問題を議論することはできます。未来が決定ずみでもなにも違いはない、じっさいには自由はなにも失われない、それでもわたしたちの行為は同じかたちで決められるのだから、と。けれど、わたしたちは未来をひらかれたものだと考えることに慣れている 、というのもやはり事実です。わたしたちには自分の人生がそういう風に見えているし、わたしたちはふだん、そう感じている」

 ヤルダは立ち止まった。ふたりは橋を半分まで渡っていた。石造りの細いアーチが架かっているのは、裂け目クレバス の闇の上。ヤルダは背中の皮膚を震えが通り抜けるのを感じた。内気で熱心な新しい仲間が次になにをいおうとしているかがわかった、という奇妙な気分になったのだった。

「わたしたちの子孫たちが方向転換して、時間の中を戻ってくるときには」ベネデッタがいった。「子孫たちにはまだ、いまわたしたちがしているように、これを抽象的な問題として議論する余裕があるんでしょうか? 過去と未来がもはや明確でなくなってしまってもまだ、物事を古いやりかたで見つづけることは選択肢になるんでしょうか?」


 エウセビオがカウントする。「三。二。一」

 遠くで光の直線が、陽炎かげろう に揺らぎながら、空を二分した。一停隔ポーズ 後、えんぺいごう が震動した。砂を押しとどめている木材板が湾曲してガタガタ音を立て、空気に細かい砂埃が充満する。ヤルダと仲間たちは地面の一歩離ストライド 下であおむけに身を横たえていたが、地上に傾斜をつけて設置された鏡のおかげで、砂漠に足を踏みしめているのと変わらずに、上昇するロケットを見ることができたし、着色した透明石の板がまばゆい輝きから目を守ってくれた。

 ヤルダはシューッという大音響が来るのには備えができていたが、透明石板に突然、ギザギザの対角線が走ってまっぷたつになったときの、ビシッという音は不意打ちだった。それでもヤルダは、割れた板が枠から外れてだれかの首を切り落とす前に、手を伸ばして二枚になった板を支えることができた。

 アマンドが小声で悪態をつくと、手を伸ばしてヤルダを手伝った。エウセビオも同じことをしながらヤルダと目を見交わし、そこにはもっとひどいことにならなくてほっとしたという思いが浮かんでいた。ヤルダたちは鏡も透明石板も地面の震動に影響されないようにしておいたが、大気の衝撃波は被害を出すほどの強いものだった。ネレオはひるんではいなかった。まだ経緯儀でロケットを追跡しつづけていて、たぶん板が割れたことに気づいてもいない。

 赤塔市のジャーナリストのジュリオが、興奮して甲高い声をあげながら、エウセビオのほうをむいた。「正直いうと、地面で爆発して終わりだろうと思っていたんだ。でも、ほんとうにあそこにあがっている!」ジュリオは大迫力の打ち上げに圧倒されていて、もう少しで巨大な石の刃でふたつに叩き切られていたかもしれないことも気にならないようだった。

「それがロケットのすることですから」エウセビオが控え目に応じた。「上昇することが」

「落ちてくるのはいつ?」ジュリオが質問する。

「これは落ちてきません」エウセビオが予言した。

 ヤルダはそこまでの確信は持っていなかった。保護フィルター越しのロケットは、ほとんど見えないくらいにほの暗くなっていた。エウセビオの発言はロケットの上昇を目測してのものだろうが、専門の観測係であるネレオの精密な測定なしには、最終的な到達地点は確定できない。

 ジュリオが頭を起こして、あいだで横になっている人たちの体越しに、ネレオの作業を見ようとした。ネレオはアマンド特製の作業台に固定され、後眼を時計に据えたまま経緯儀でロケットを追えるようになっていた。ネレオの右腕の端から端まで、時間と角度が対になった数列が記入されているのを、ヤルダは見てとった。ヤルダが見守るあいだに、ネレオはもうひと組の数字を追加すると経緯儀から視線を外し、それまでの数列の隣に新しい列を記入しはじめた。ロケットの燃料はまだ燃えつづける──だからこの先、安定性を失って地面に逆戻りしてくる可能性はある──だが、じつは最後にはっきり観測した瞬間にエンジンがピタッと止まっていた、という仮定の事態以上に悪いことはもう起きないという前提でなら、ネレオはロケットの運命に暫定的な審判を下すことが可能だった。

「ロケットはこの世界の重力から脱出しました」ネレオが宣言した。「数ダース年の周期で太陽をまわるような離心軌道にむかっていると思います」

脱出した とはどういう意味です?」ジュリオが質問した。「重力が無視できる高さを、ロケットが越えたってことですか?」

 声に疑いがこもっているのは無理もないとしても、質問はまったくの的外れだった。ネレオがいった。「わたしが最後に観測した時点でロケットが到達していた高度では、重力はほぼまったく減少していません──けれどロケットがいま動いている速さでなら、この世界によって停止させられることは決してないだろうといってかまわないのです。ただし、太陽はまだロケットをつかんで離していませんが」

 ヤルダはアマンドに目をやると、ふたりで力を合わせて、かけらが人々に降りかかることがないようにしながら着色石板を脇にどけた。掩蔽壕にこもっていた五人は立ちあがると、地面と鏡のあいだをすり抜けて大急ぎで砂の上に出た。

 ヤルダは東の空高くを見あげた。今日は眺めを混乱させるほど疾走星は多くなく、家サイズのエウセビオの柱状ロケット以外のものではありえないかすかな灰色の染みを見ることができた──エンジンはまだ輝き、まだ速さを増している。太陽からの脱出速度は、この世界のそれの三倍の大きさでしかない。先日の出力実験の結果からすれば、もしロケットが全燃料を無事に燃焼したなら、最終的にはほんとうに太陽系を離れることができるはずだ。

 ジュリオがエウセビオに話しかけた。「あんたたち、赤塔市に来て、計画について話をするべきだよ。前にネレオさんが回転物理学についての公開講座をひらいたから、街の人たちにとって聞いたこともない発想というわけではないけれど、聴衆の予習になるよう、おれが〈赤塔報〉に何度か事前に記事を載せるから」

 赤塔市方面の穀物で、ズーグマの食卓にあがらないものはあったっけとヤルダは思った。

 エウセビオがいった。「それはありがたい」

 ヤルダはネレオに、参加してもらったお礼をいった。「こちらこそ」とネレオが答えた。「疾走星に関するあなたたちの推測が正しいかどうかはわかりませんが、そうした可能性を考えている人たちがいるのは、とてもうれしいことです」

「ご自分でロケットに乗ることを考えていただくのは無理ですか?」

 ネレオは陽気にブンブンと音を立てた。「わたしはむしろ安全な地上にとどまって、曾が一ダースつくあなたたちの孫が、自分たちの発見した驚異的科学の数々を教えてくれるのを待っていたいですね」

 ヤルダはいった。「みんなそういうんです」

 ヤルダはもっとネレオと話していたかったが、彼とジュリオは赤塔市に戻らなくてはならなかった。アマンドがトラックの一台を車庫から出してくると、客人たちを乗せて砂漠を走り去っていった。

 エウセビオがヤルダのほうをむいた。「いっしょに赤塔市に行く気はありますか? 巡業公演をしに?」

「大学から休みが取れればね」ヤルダはためらってから、「少しでいいからその分の報酬を払ってもらえる?」

「もちろんです」エウセビオは何度かヤルダに、自分のもとで働かないかと誘っていたが、ヤルダはこれまで断っていた。雇われ人ではないという立場を維持して、エウセビオに対していいたいことを好きにいえるようにしておきたかったのだ。

 ヤルダはすまなそうにつけ加えた。「学生を教えていないあいだは給料をもらえないし、なんの援助もしないでリディアとダリアにだけ子どもたちの世話をさせるのはフェアじゃないから」

「ふうむ」ヤルダたち三人のやっていることには賛成できないと、エウセビオは前からはっきりいっていた。ほかの分野でどんなに有能だとしても、自然は女を子育てをするようには形作っていない。目の色を変えて跡継ぎを探している男やもめがズーグマにはいくらでもいて、いつでもヤルダのところの子どもたちを自分自身の双の分身であるかのように遇してくれる。

 だがエウセビオは、ヤルダの家庭生活の問題よりも重要な案件をかかえていた。「赤塔市の一般市民にこの件を広めるだけでなく」エウセビオはいった。「あなたの友人のネレオに、彼のパトロンとぼくの会見を手配してはもらえないでしょうかね」

「あなたの力でも、パオロへの は作れないの?」ヤルダは面白がった。「お金持ちどうしの人脈をたどればいいじゃない」

「その脈は別々に 複数あるんです。全部がつながりあってはいないんですよ」

「どうしてパオロと話したいの?」

「金です」エウセビオの答えは身も蓋もなかった。「父はぼくのロケットへの出資に上限額を設定しました。もし乗り物全体を一から建造しなくてはならないとしたら──それは太陽石をすべて採掘して山から運びだし、人工の外殻の中に詰めこむということですが……〈孤絶山〉の規模でそれをする費用は、山そのものを打ちあげる場合の数グロス倍に膨らみますが、実用になる最小規模の代替案でさえ、ぼく個人の調達できる額をはるかに超えるんです」

「観測所についての投票権がある大学関係者全員を手なずけることは考えた?」ヤルダは提案してみた。「ピカピカの新しい望遠鏡だけじゃなくて──投票者たちが自分のポケットにしまえるお金を使って?」

 エウセビオは侮辱されたと思ったようで、「馬鹿にしないでください。いちばん最初に考えた案がそれですよ。でもアシリオが議会に大学の経理をこと細かに調べさせているし、あいつ自身も大学内にやたらたくさんの情報源スパイ を持っているから、ぼくがその種の手段を使ったらお咎めなしですむとは思えません」

 ヤルダは冗談でいった。「わたしはいつでもルドヴィコを殺す気があるわ、わずかなお金と引き換えで」

 エウセビオは気まずくなるほど長いあいだ、感情の読めない表情でヤルダを見つめていた。

「その気になるようなことをいわないでください」エウセビオはいった。


 列車が赤塔市に近づくにつれ、街の名前がいまも伊達ではないことに、ヤルダは驚いた。名前の由来となった色合いをした安定石の鉱床はとっくに掘り尽くされたとヤルダはなにかで読んでいたが、いま自分の目に映っている建物の輪郭は、まぎれもなく赤みを帯びていた。たぶん昔の建物が手間暇かけてそのまま保存されているのだろう。あるいは、昔の建物の建材が丸ごと、装飾用の化粧張りとして再利用されているかだ。

 ネレオが駅でヤルダを出迎えた──彼の四人の子どもたちも全員いっしょで、だれがヤルダの旅行鞄を運ぶというわくわくする役をするかで争いあっている。子どもたちがとても若いので、ネレオの双は自分の祖父と同じくらい長生きしたに違いないとヤルダは思った。ネレオ自身はいまも健康だし、たとえなにかの悲劇で急逝することがあったとしても、子どもたちが面倒を見てもらえるように手を打ってあることはまちがいなかった。

「ご友人のエウセビオは、もううちに来ています」ネレオがいった。

「彼は粉砕丘で商談があったので」ヤルダは説明した。「わたしたちは反対方向からここに来たわけです」

 ネレオは、壁で囲まれた彼のパトロンの敷地内で暮らしていた。敷地に入るとき、歩哨たちがナイフ・ベルトをしているのを見てヤルダは皮膚がざわついたが、子どもたちにとっては当たり前な光景だった。「単なる伝統ですよ」ヤルダが不快そうなのに気づいて、ネレオがいった。「パオロに敵はいません。あの武器が使われたことはいちどもないんです」

「それでも見張りは退屈しないんですか?」

 ネレオはいった。「もっとひどい仕事だってあります」

 エウセビオは客間で床にすわりこんで、〈赤塔報〉を読んでいた。ヤルダに挨拶してから、信じられないという声で、「あのジュリオという男は、ぼくが送った説明文書をちゃんと読んで、ひと言も余さずに理解していますよ。異議や懸念も提示していますが……それが全部、完全に理性的 なんです」

「じゃあ、この街を丸ごとロケットにくくりつけて、打ちあげちゃいましょう」ヤルダは応じた。「そして赤塔市を宇宙空間で一、二エイジ 、完璧な隔離状態で繁栄させれば、戻ってきてこの世界にどうやって生きたらいいかを教えてくれるかも」

 公演まではあと二 しかなかったので、ヤルダたちは建物の構造や設備を確認しておくために会場に赴いた。ズーグマで使っていた映像投影装置をヤルダは持ってくることができなかったが、同じ内容を紙に印刷したものをジュリオが手配してくれていて、入場時に聴衆に手渡されることになっていた。それは公演のあいだじゅう、一般照明を点けっぱなしにしておくということだった。

「会場じゅうの顔が見えたら緊張しちゃうわ」無人の会場正面の舞台上で、ヤルダはエウセビオにいった。

「心配いりません、あなたはもう経験豊富ですから」エウセビオは安心させるようにヤルダの肩を強く握った。

 時間が来て聴衆の前に歩みでるときになって、ヤルダは解決策を思いついた。聴衆に伝える内容はズーグマのときとまったく同じだったが、注意力を後眼のほうにまわして背後のなにもない壁に意識をむけることで、会場の人もみんな、自分ではなく白い壁を見つめて穏やかな気持ちになっているのだと思いこむことができた。

 エウセビオが自分の出番──山ひとつの大きさのロケットについて誇らしげに語っていた当初の話を、数カ所変更したもの──を終えて、質問時間になった。赤塔市に来てから話をした人はひとり残らず、会場からの質問を受けつけなくてはいけないという意見だった。それがこの街の慣習で、拒んだりしたら大目に見てはもらえない、と。ジュリオ──会場の使用料の半分は彼の働いている新聞が出していて、その条件は会場じゅうに目立つかたちで新聞名を掲示する権利だった──が司会役で舞台上のヤルダとエウセビオに加わった。

 ヤルダはありきたりな「なぜわたしは昨日へ歩いていけないのか?」ジョークや、あるいは一生つきまとう「あなたの双はどこ?」を訊かれることさえあるだろうと覚悟していた。

 ジュリオが選んだ最初の質問者は年配の男で、大声でこう尋ねた。「機械類の修繕体制はどうなっているのかね?」

 エウセビオが答えた。「あらゆる事態を想定した装備を持つ数カ所の作業室を、ロケット内に作ります」

 質問者はまるで満足しなかった。「工場もいくつも作るのか? 鉱山も? 森も ?」

「鉱物類は貯蔵していきます」エウセビオがいった。「各種材料および食料となる植物は、栽培用の区画を設けます」

「その貯蔵分で一エイジ 保たせる? 土が一エイジ 保つ? ひとつの塔の内部だけで? 無理だと思うね」

 ジュリオが別の質問者を選んだ。

「人口の制御はどうするんですか?」質問者の女がいった。

「現時点では、搭乗者は過剰というよりは不足している状態です」エウセビオが答えた。

「その人数が数ダース回、倍になったときには」質問者が話を進めた。「その人たちの居場所や食べ物の供給はどうするつもりですか?」

 エウセビオに動揺の気配が見えはじめた。答えはヤルダがいった。「ロケットでの死亡率も、現在の世界各地でのものと同じになるでしょう。現実に一世代で人口が倍になった 都市はありません」

「では、ロケットの中では医学はまったく進歩しないというんですね? どれだけエラ が経っても、搭乗者たちが関心を持つのは疾走星への対処法ただひとつだと……もはや疾走星は自分たちにとって脅威でもなんでもないのに?」

 ヤルダはいった。「医学の進歩は死亡率を低下させるのと同様、人口増加を抑制する結果にもなりうるでしょう」

なりうる ──でも、もしそうならなかったら?」

 質問はこの調子で続いた。厄介だが、核心を突いていることは否定できないものばかり。永遠がすぎたかと思われるころになって、ジュリオが終了を告げた。ヤルダは疲労困憊こんぱい のあまり、聴衆から熱狂的な喝采を送られていることに一瞬気づかなかった。

「成功だ」ジュリオがヤルダにささやいた。

「ほんとうに?」

「人々はあんたたちの話を真剣に受けとめた」ジュリオがいった。「それ以上のなにを望んでいたんだ?」

 ホワイエに設けた受付には、地上作業の志願者が三ダース以上来たが、搭乗者のほうはゼロだった。この街の人々は、疾走星に関するヤルダの説を、さらにあまり具体的とはいえない構想に支えられたエウセビオの解決策さえも、ズーグマの同胞たちとは比較にならないほど進んで受けいれてくれた──それでも、自分の孫たちに一生丸ごとを送らせてもいいと思える居住環境をエウセビオが築ける、と信じた人はだれもいなかったのだ。


 使用人はヤルダとネレオ、それにエウセビオを食事室に導きいれると、そのまま引きさがった。

 パオロは部屋の反対側に立って、分厚い紙束をパラパラめくっていた。ヤルダが予想していたより若い男で、たぶん二ダース歳を少し出たところだろう。パオロは紙束を棚に置くと、大きな輪を描いて床に置かれたクッションにむかって手を振りながら、こちらに歩いてきた。「わが家へようこそ! さあ、どうぞすわって!」

 ネレオがヤルダとエウセビオを紹介した。ヤルダは豪勢な部屋に萎縮すまいとした。壁は抽象的なモザイクで装飾され、目の前に途方に暮れるほどずらりと並べられた食べ物は、ほとんどどれひとつヤルダにはなじみがなかった。ヤルダの見たところ、最低でも一ダースの人が食べても余る──そのとき六人の若い男が部屋に入ってきたので、それならこの量でもまあ相応といえるかもと思いかけた──が、パオロの息子たちは父親の客に挨拶するために顔を出しただけで、同席はしないことがわかった。

 息子が六人 ! 何人かは養子なのだろうか、それとも代理双がふたりいるのか? どちらにしろ、それがここの家風だったら、この家はパオロの孫たちであふれかえることになるだろう。

 儀礼的なやりとりが終わると、パオロは客といっしょにすわって、食事をはじめるよう促した。ヤルダは逡巡しないように──料理をじっと見て、材料がなにかを当てようとしないように──心がけることにした。ここにはぞっとするようなものは出されていないはずだし、ましてや危険なものなどあるはずがないのだから、自分がなにを口に入れようとしているかまったくわからなくても、なんの問題もない、とヤルダは信じた。最初にいくつか口にした料理は、不思議な風味だったが嫌な味ではなかった。ヤルダは適度に楽しんでいるという表情を変えずにいることにして、食事のあいだじゅう、なんとかそれで通した。

 パオロがエウセビオに話しかけた。「きみのロケットの話は聞いている。桁外れの事業だ」

「ロケットは手はじめでしかありません」エウセビオが答えた。「人々を安全に宇宙空間に送りだすには、さらに何年もの研究が必要になるでしょう」

「きみの大胆な構想は感嘆すべきものだ」パオロがいった。「そしてわたしも、疾走星が確実に脅威になると判断している。だが、ロケット搭乗者たちが空っぽの空間からいったいなにを持ちかえってくると、きみは考えているのかね?」

「それは予想困難です」エウセビオは認めた。「ですが、想像してみてください、いまわたしたちの暮らしている都市が、第十一エイジ からの訪問者の目にどれほどすばらしいものに映るかを。当時はエンジンもなく、トラックもなく、列車もなかった。あったのは、ごく粗悪なレンズくらいです。当てになるような時計もなかった」

「だが、現在の先にはなにがある?」パオロが疑問を呈する。「いまより少しばかりなめらかに動くエンジン? 一年経ってもまったく遅れない時計? そうした改良は確かに洗練されたものといえるが、それが疾走星からわたしたちを守ってくれるというのか?」

 エウセビオがいった。「〈永遠の炎〉についてお聞きになったことはありますか?」

 ヤルダは、自分が先ほどから当たり障りのない無表情を取ると決めていてよかったと思った。

 パオロは愛想よくブンブンと音を立てた──客を馬鹿にしているのではないが、いまの言葉はあえて軽率な大ボラとしていわれたものだと思うほかはない、というかのように。

 エウセビオはどこまでも礼儀正しい声を崩さなかったが、いらだちがおもてに出るのを寸前でこらえているのが、ヤルダにはわかった。「〈永遠の炎〉をめぐる古い試みの数々は、細部の誤りのせいで失敗に終わってきました」エウセビオが話を続ける。「しかし、そのようなプロセスが現実に可能だと示唆するアイデアが、現在いくつか存在します」ネレオのほうをむいて、「ぼくはまちがったことをいっていますか?」

 ネレオは慎重に答えた。「エネルギーに関するわたしたちの従来の理解の仕方とは違って、回転物理学ではそれを即座に問題外扱いはしません」

 パオロが驚きの声をあげた。「ほんとうなのか?」嚙んでいたパンを下に置いて、「では、過去の浮世離れした錬金術師たちはどいつもこいつも、あきらめるのが早すぎただけだったと? ハッ!」パオロはネレオに咎めるような鋭い視線を投げたが、それは、自分の科学顧問がそのような興味深い事実を数年前にご注進に及んでいてもよかったのに、といっているかのようだった。

 エウセビオがいった。「サー、昨夜ぼくたちが、赤塔市の人々から非常に明白に受けとったひとつのメッセージを、お伝えしてもよろしいでしょうか?」

「無論だ」パオロが応じた。

「ぼくの計画している事業は、現状では、あまりにもささやかです」エウセビオは正直なところをいった。「たぶんこの敷地くらいの広さにしかならないだろう乗り物に乗った数ダースの人々が、そんな境遇から収穫をあげられるほど長生きできるとは、だれひとり信じていません。その人々の旅の長さに、軌道の基礎物理学による上限はありません──長年のあいだに、どれだけぼくたちより進歩することが可能かも、上限なしです。しかし、その人々の境遇から来る現実問題の数々が決定要因となります。頑強な社会が存在するには、人と資源の両面で、一定の規模が必要です。隔離された砂漠の野営地は、精選された物資を備えていれば、一、二世代ジエネレーシヨン は持ちこたえるでしょうが、一エイジ にわたって繁栄を続けるには、都市ひとつ丸ごとが必要になるんです」

 パオロがいった。「きみのいうことはわかった」そしてしばらく沈黙した。「だが、どれだけの規模のロケットなら、じゅうぶんな規模なのか? それはだれにもわからない。当て推量だけに基づいておかすリスクとしては、あまりにも大きい」

「もし、疾走星がぼくたちを滅ぼすのを、それが阻止できるなら」エウセビオはいった。「価値がないなんていえるでしょうか?」

「だがその判断は、ロケットの人々が目的を達成するかどうかにかかっているだけではなく」パオロが理詰めでいう。「ほかの解決策がないかどうかにもよる。同じ資源をこの地上で使うことで、もっと効率的に問題を解決できるかもしれない。他人がどういう意見を持つかは知らんが、わたしは自分の出した金には、監視可能な近場で効果を発揮してもらいたいと思う」

「わかりました、サー」エウセビオはうつむいた。これ以上はっきりした拒絶の言葉はない。

 パオロはネレオのほうをむいた。「ところで、〈永遠の炎〉は実現可能かもしれないんだな?」

「かもしれません」ネレオは不承不承認めた。「しかし、検討を要するあいまいな問題点が多数あり、その中には現在ほとんど理解できていないものもあります」

「一グロスの化学者たちを雇って砂漠へ赴かせ、ありとあらゆる成分の組み合わせをテストさせるというのは、どうだ? だれにも害を及ぼさない、どこか遠い土地で?」ネレオからの答えは即座には返ってこなかったが、パオロはすでに、自分の着想に熱が入っていた。「それぞれの実験は、選択した反応物によって地図上に位置を割りふった場所で、おこなわれるようにしておく。そうすれば、どの反応は決して二度と試されるべきでないかが、クレーター のできた場所によって明らかになる」

「いいアイデアです、サー」ネレオがそれに応じた。皮肉でいったのだろうが、パオロは額面どおりの言葉として聞くことにしたようだ。

「その評価は」パオロがいった。「客人にむけられるべきものだ。この思いつきをもたらしてくれたのだから」そしてエウセビオに一礼した。


 赤塔市での二度目の、そして最後の公演のあいだじゅう、エウセビオは見あげたプロ精神で楽観的な態度を維持しつづけていたが、ネレオの客間に戻ると、崩れるように壁にもたれかかった。

「もう無理だ」エウセビオの声は無気力だった。「これ以上、続けていられない」

「各地に志願者募集に行くのは、ほかの人を探して引き継いでもらえるわ」ヤルダはいってみた。

「志願者募集の話じゃない! プロジェクト全体が実現不能なんだ。ぼくはこんな愚行は断念して、列車事業に戻らなければならなくなる。疾走星を心配するのは、ほかの人にまかせて。どっちにしろ、最悪の事態が来る前に、たぶんぼくは死んでいる。気にしなくちゃいけない理由なんて、ないでしょう?」

 ヤルダはエウセビオのところに行って、安心させるように肩に触れた。「確かに、パオロはロケットに投資してくれそうにない。でも、この惑星の大富豪はあの人ひとりじゃないわ」

「けれど、赤塔市には好条件がそろっているんです」エウセビオがいった。「この街のジャーナリストは、ぼくたちの伝えたいことを完全に理解してくれた。人々はぼくたちの計画に耳を傾けて、知的で建設的な批判を返してくれた。だけど、この街のだれひとり、搭乗者に志願しようとはしないし、街の半分を支配している男は、自分の金が宇宙空間に消えていくのを見守るよりも、錬金術を復活させて、疾走星に対する武器にしたがっている」

「あれは時代錯誤ね」ヤルダも同意した。「でも、いますぐなにかを決断しないで。二、三日したら、物事が違って見えてくるかもしれない」

 エウセビオは納得したようすではなかったが、ヤルダの忠告を積極的に受けいれようとした。「心配しないでください」エウセビオはいった。「ぼくがここまでしてきたことすべてを一瞬で投げだすことは、たとえそうしたくても不可能ですから。明日だれかがぼくのところへやってきて、鉱業権の買い取りを提案してくれるわけでもあるまいし」


 ヤルダは夜中に目をさまし、自分がどこにいるのか、一瞬よくわからなかった。両肘をついて体を起こし、部屋を見まわす。スペクトルの多色にうっすら染まった縁のあいまいな影が、窓の下から床の上を伸びて、眠っているエウセビオの姿を縁取っていた。

 エウセビオは美しい、とヤルダは思った。背が高くてたくましく、眠りこんでいても姿形を完璧に整えている。なぜ自分はいままでそのことに気づかなかったのだろう?

 とはいえ、ヤルダが目をさましたのは、エウセビオのことを考えていたからだった。いま、ふたりが体を引き寄せあったら、まちがいなくエウセビオから約束を取りつけられる、とヤルダは思った。そうすればヤルダの肉は、死んで終わりになることはない。ヤルダは心と不安をしだいに消し去って、自分の子どもたちを献身的な保護者のもとに遺すことになる。エウセビオは、ヤルダが望みうるもっとも双に近い存在で、自分が彼に拒まれることがあるとは、とても思えなかった。ふたりきりのいまこの場所で、もしヤルダがせがめば、拒まれることはないだろう。

 ヤルダは立ちあがってエウセビオを見おろしながら、彼の皮膚が自分の皮膚に押しつけられるところを想像し、彼を説得できる言葉の予行演習をした。パオロが六人の息子を持てたなら、エウセビオが彼の息子をふたりに限らなくてはいけない理由はあるまい? エウセビオの双を悪くいうつもりはない。生涯をともにしてきた相手を裏切れと頼もうとしているのではなく、将来の家族の人数を増やしてもらいたいだけなのだ。

 エウセビオが目をひらいた。ヤルダがそこにいることを、彼女の視線を、彼が感じとったのがわかった。ヤルダは問いかけられるかと思ったが、彼はふたりのあいだのなにもかもをすでにはっきりわかっているかのように、無言のままだった。いま彼の隣に身を横たえたら、説得はほとんど不要だろう。ふたりともがこの慰めと、自分たちの子どもが生きていけるという保証を欲していた。

 だが、彼にむかって一歩踏みだしたとき、ヤルダは自分の心が冷たく澄みわたるのを感じた。自分が欲しているのは慰めだった──忘却ではなくて。そしてエウセビオがなにを欲しているにせよ、それはヤルダの子どもたちという厄介者が増えることではなかった。さっき思い描いた偽りの魅力的な未来像にはなにひとつ、ふたりのほんとうの計画や、ふたりがほんとうに必要としているものや、ふたりがほんとうに欲しているものと、少しでも結びついているところはない。ヤルダのいちばん古い部分は、こうすることで自らが生き延びられると信じていた──ヤルダの中で母親が生き延びているように──が、その無茶な希望でさえ的外れだった。空が直交星群で燃えあがったら、何累代イーオン 永続してきたものであろうが無に帰する。

 ヤルダはいった。「疾走星で目がさめたの。起こしちゃってごめんなさい」

 エウセビオがいった。「別にかまいませんよ、ヤルダ。気にせずに寝てください」そして目を閉じた。

 ヤルダは自分の寝床に戻ったが、夜明けになっても目をさましたままだった。


 朝食のあと、アマンドがトラックでやってきて、次の打ち上げ試験にエウセビオを連れていった。エウセビオは逆らわなかった。いちど走りだしたプロジェクトに備わった勢いは、いまもなにかの意味があった。少なくとも、資金が尽きるまでは。

 ネレオがヤルダを駅まで徒歩で送ってくれた。「あなたと光学の話をする機会がなくて残念です」ネレオがいった。「最近はあなたの光方程式をいじくりまわして、光源をつけ加える正しい方法を見つけようとしていたのでね」

「そうなんですか?」ヤルダは興味をそそられた。彼女が五年前に発見した方程式は、なにもない空間を光が通過するようすを記述するものだが、光の生成にはなにも触れていなかった。「現在までの成果は?」

「わたしは重力から若干のインスピレーションを得ました」ネレオが話しはじめた。「巨大な物質、たとえば惑星の位置エネルギーを考えてみましょう。物質外部では、位置エネルギーは、光方程式ととてもよく似た三次元方程式に従います。空間の三つの方向に沿って計算した二次の変化率を合計するとゼロになる。物質内部では、ゼロになるかわりに、その和は物質の密度に比例する」

「つまり、わたしが光方程式に同様の項を追加すれば、光源を表現できる、とお考えなのですか?」ヤルダはそれについて考えてみた。「けれど、光波は四つの成分を持つベクトルが関わっています。光源も同じ種類のものである必要があるでしょう」

 ネレオがいった。「光源の来歴に沿って未来をむいたベクトルで、その長さが光源の密度に比例するようなものはどうかな?」

「それが正しい種類のベクトルですね」ヤルダは譲歩した。「ですが、この〝密度〟とは、じっさいにはなにをあらわしているのでしょう?」ネレオがいっているのは質量のことではない。これはなにかまったくほかのものだ。

「物質が光を生成するのにどんな性質が必要であるにせよ」ネレオが答える。「それをあらわす言葉を、わたしたちはまだ持っていません。〝光源強度〟、とでもなるでしょうか? けれど、それに数値をあたえることができると仮定すれば、それがどの程度密集しているかをあらわす、いわば〝光源密度〟について議論することができます」

「ふうむ」駅に着いてからも、ヤルダはその含意を考えつづけた。「では、もっとも単純なケース、なにひとつ動くものがない状況では、方程式の時間成分だけがゼロでない値を持ち、それは重力の位置エネルギーと似たような解を持つのですね」

「しかし、完全に同じではありません」ネレオが強調した。「その場合の解は、空間を移動すると振動します

 ヤルダの列車は発車間近で、ふたりには議論をさらに深める余裕がなかった。ネレオがいった。「論文を書きあげたら、複写を送ります」


 ズーグマへ戻る車中で、ヤルダはネレオの方程式の解のひとつを、自力で発見することができた。動かない点状の質量の周囲の位置エネルギーと等価なものだ。