ヤルダは細かく隆起したコーネリオの皮膚を凝視しながら、ふさわしい罰を受けているような、あるいはだまされているような気分になった。それからあらためて、コーネリオがより単純なケースについて説明した手順をなぞって適用していくにつれ、奇妙な全体構成が、異様だが必然的なものとして浮かびあがってきた。
真のエネルギーと運動量はひとつの円で結びつけられていて、それぞれを単純に回転させたものが他方になる。粒子の運動量がゼロから増えていくにつれ、粒子の真のエネルギーは減りはじめる──そして最初の時点では、すべてが前の計算とそっくりに、ただし単に上下逆の図表にしたようにふるまう。
だが、粒子の動きがもっと速くなっていくと、運動量は際限なしに増加できなくなる。運動量の変化がなくなると、運動量空間の球殻はそれほどすばやく大きくならなくなるだけでなく、ずっと薄くなる。最大全エネルギーの約三分の二の地点で、球殻は体積の頂点に達して、縮みはじめる。
その地点で、粒子に対してひらかれた可能性の数に、エネルギーの変化があたえる影響が、逆転する。ゆっくり動いている粒子は、少しだけ速度をあげることで選択肢を得る……しかし、もしじゅうぶん速く動いている粒子が速度をあげたら、選択肢を失う だろう。運動量の上限のため、物事は上側で締めつけられる。
同じことが温度でも起こり、球殻の体積が最大になったとき、正負の符号が入れ替わる。そして負の温度だけなら、おかしな約束事を選んだ結果にすぎないということもありうるが、コーネリオの図表は、負と正の両方ともが現実の可能性であることを明確にしていた。定義をいじりまわせば、正負の符号はいつでも入れ替えられるが、区別自体を消し去ることはできない。
ヤルダはいった。「もしこの部屋のあらゆるものが負の温度を持っているとしたら、正の温度のものはどこにあるの?」
「太陽の表面にある」コーネリオが答えた。「それから、この星で燃えている石の中に」
「なるほどね」燃えている石は周囲を熱して運動エネルギーをあたえるので、真のエネルギーは反対方向へ流れるはずで、それは炎の中へということだ。これは意味をなすだろうか? コーネリオにさっき忠告されたように、エネルギーは温度の高いほうから低いほうに流れるが、それは両方の符号が同じ場合だ。
けれど、符号が混在しているケースでも、理解するのはむずかしいことではない。正の温度の系は、エネルギーを得たときに 可能性も得る。負の温度の系は、エネルギーを失ったときに 可能性を得る。ふたつをいっしょに考えれば、もはや微妙な相殺取り引き はなくなる──これは両者に有利な シチュエーションだ。両方の系が同じ取り引きによって運動量空間で体積を得る。
ということは、負の温度を持つあらゆる系が、正の温度を持つあらゆる系に対して真のエネルギーを失うことになる。だからコーネリオは、通常の物体を〝無限の熱さよりも熱い〟と呼ぶことに意味を見出していたのだ。燃えている太陽石の正の温度がどれだけ高くても、〝無限の熱さよりも熱い〟冷たい微風は、そこに真のエネルギーをさらにいくらでもあたえることができる。
ヤルダはいった。「でも、なにかが正の温度を持っていることを──そしてそれが単に大きな負の温度でないことを──確実に知る方法はあるの? 物が従来のかたちで〝熱い〟だけでないことが、どうやってわかるの?」
「光だ」というのがコーネリオの答えだった。「ある系が自由に──花のような秩序立ったかたちではなく、炎のような混沌としたかたちで──光を作りだしているときには、それは真のエネルギーを、それ以前には存在しなかったなにかに変えて、新しい可能性をひらいているということだ。それは正の温度の定義にほかならない」
「じゃあ、負の温度を持つ通常の系が、ひとたび光を作りだしはじめたら」ヤルダはあえて思いつきを言葉にした。「その温度の符号は変化しなければならない ということ? その間に無限を横断して?」
「まさにそのとおり」コーネリオがいった。「負の温度を持つ通常の系が光を作りだしはじめたら、それはもはや通常の世界のものではなくなる」
ヤルダはふたたび、この実験室が収蔵するエネルギー的に不安定な混合物のほうを盗み見ずにはいられなかった。棚の上の天井には、まだ最近の修繕跡が残っている。
「最終的には」コーネリオが断言した。「森羅万象が光と熱と化す。ぼくたちの力では、それを止めることはできない。ぼくたちにできるのは、それを少しだけ遅らせて、それまでの時間を楽しもうとすることだけだ」
ヤルダは結局、日暮れまで化学科ですごし、それからコーネリオと彼の五人の学生といっしょに科のトラックに乗せてもらって、市街地の大学キャンパスに戻った。トラックが埃っぽい平原を走るあいだ、コーネリオは気体の温度が符号を変えるときに気体の圧力が正のままでいられたり、温度が無限を横断するときに圧力が有限のままでいられたりするのはどうしてかを説明していた。古い理想気体の法則──圧力かける体積は 、温度かける気体の量に比例する ──にさようなら。それはふつうのランプの炎についてさえ、正しくなかった。
トラックの後部には空の眺めをさえぎる覆いがなく、おかげでヤルダは疾走星の紫色の先端が北からトラックのほうへ迫ってくるのを見ることができたが、そこで運転手がパニックを起こして急ブレーキをかけ、トラックは傾いて横すべりした。完全に停止したとき、ヤルダに思いだせるのは、回転する星々の半球を色の渦が横切るところだけだった。
全員がトラックから這いおりて、各人怪我がないか確かめていたが、すぐに全員無事であることがはっきりした。ヤルダは、コーネリオにもらった光記録用の備品をひしと抱きしめたままだった。星明かりの中で箱の中身を点検したが、コーネリオがすべてを注意深く梱包していたので、薬瓶はひとつも損なわれていないようだった。ヤルダは観測の機会を逃したことを悔やんで時間を浪費したりはせず、数人の学生がトラックを道に押し戻すのを手伝った。最近の割合でいくと、二旬 もすればズーグマ上空に次の疾走星があらわれる。
「疾走星ってなんだと思う?」トラックがよろよろとふたたび走りはじめると、ヤルダはコーネリオに訊いた。
「大きな爆発の破片だろう」コーネリオが答えた。「破片の速度のほんの小さな差でさえ到着時期を数年間にわたらせることになるほどの、非常に遠くのものが爆発したんだ。ぼくの予感だと、これ以降に続く破片は、もっとゆっくり動いていると証明されるんじゃないかな」
「それは興味深い発想ね」ヤルダは感謝の意をこめて贈り物の箱を軽く叩いた。「きっともうすぐ、わたしがそれを調べられるわ」ある一瞬に記録された疾走星の光の尾の鮮明な映像を使って、ヤルダがその非対称性を測定し、物体の速さを数値化することがついに可能になるだろう。
街に着いたときには暗くなっていた。大学でヤルダはコーネリオと別れの挨拶をして、新しく自分のものになった備品を光学作業室にしまってから、トゥリアがまだ残っていないか確かめるために、あえて学科のルドヴィコが君臨する棟に足をむけた。だが建物に人けはなかった。トゥリアはたぶんさっきの疾走星の観測結果を受けとって、それから自分の部屋か〈単者クラブ〉にむかったのだろう。
ヤルダが〈単者クラブ〉に行くと、ダリアとリディアがいた。ふたりともトゥリアの姿は見ていないといい、ヤルダにサイコロ六個 でいっしょに遊ぶことをうんといわせた。だれもが驚いたことにヤルダが勝ちをおさめ、ヤルダはもうひとゲームつきあうことになった。今度はリディアがヤルダを負かしたが、僅差だった。
ヤルダはもうくたびれていたが、トゥリアの部屋には立ち寄る価値があると判断した。〈切断小路〉訪問の大成果を知ってもらうのは意味があることだ。トゥリアは数旬 後に〈孤絶山〉にのぼる予定でいる。トゥリアはあそこで、コーネリオの発明を有効活用できるだろう。
トゥリアの部屋の前まで来ると、入口の横木は外れているが、カーテンは閉じられていた。ヤルダは小さな声で二、三度呼びかけたが、返事はなかった。トゥリアはふだん、こんな早い時間には寝ないのだが、多忙な一日のあとでうとうとしているのだとしたら、起こしては悪い。
ヤルダは踵 を返して階段のほうにむかいかけたが、そこで気が変わった。そっと忍びこんで、なにも問題はないか確かめても、害にはなるまい。引き返して、カーテンを左右に分け、部屋に足を踏みいれる。
トゥリアが窓のそばの床に横たわっていた。ヤルダが名前を呼んでも、なんの反応もない。ヤルダはようすを見ようとして、トゥリアに近づいてしゃがんだ。トゥリアの体には肢がなく、皮膚に見慣れない輝きがあらわれていた。ヤルダは一瞬、祖父のことを思い浮かべてパニックを起こしたが、そのとき、いま見ている光の斑点は、棚に載った花々の歪んだ反射にすぎないことに気づいた。
ヤルダは友人の肩に手をかけて、そっと揺すった。皮膚は奇妙な感触で──張りつめて、硬直しているといってもいいくらい──触れてもトゥリアはまったく反応しなかった。胸のまん中を縦に溝が走っていた。深くて細い亀裂で、トゥリアが自分から進んで描こうとしたのでは絶対にないシンボルの、最初の線。
「嫌よ」ヤルダはささやいた。「そんなことが起きるはずがない」ヤルダは自分のポケットを引っかきまわしてホリンの瓶を探した。もしトゥリアが飲んでいる角剤が効力の弱いものだったとしたら、いまから効き目の強い薬をあたえれば手遅れではないかもしれない。ヤルダは小さな緑の角剤三個を掌に振りだして、トゥリアの口もとに持っていこうとした。
だが、トゥリアには口がなかった。唇のあったところは、いまも色が濃く見えていたが、なめらかに途切れなく続く皮膚の一部分がその色と形をしているだけだった。ヤルダはホリンを取り落として、指でトゥリアの顔をまさぐり、目のひとつにそっと触った。まぶたはまだ識別できたが、上下が融合していた。口の下の振動膜は硬直している。トゥリアの体は、種囊のように硬くてつるんとしたものになりつつあった。
ヤルダはガクガク震えていた。無理やりその震えを止める。どうしたらいいか知っているのはだれ? ダリアだ、まちがいなく。窓から身を乗りだしたヤルダは、通りに少年がいるのを目にとめた。彼にむかって硬貨を投げて注意を引いてから、〈単者クラブ〉の階下のレストランまで走って、シェフに『ダリアを寄越して、至急、ヤルダのところへ』と伝言してくれと頼みこんだ。もう二ピースの硬貨と、戻ってきたとき二ピース追加という約束が、功を奏した。
ふたたびひざまずいたヤルダの影がトゥリアに落ちて、トゥリアの体がかすかに輝いている のがわかった──だがそれはヤルダの祖父に苦痛をもたらしたものとは違って、体表が輝いているのではなかった。この光は体の奥深くから発していて、絶えず明滅して揺らいでいた。いまや激しい光の明滅は強烈で、途中にある肉をすべて通しても外から見えていた。
ヤルダはトゥリアの額をなでた。「わたしたちで治してあげるからね」ヤルダは約束した。「きっとだいじょうぶ」もしダリアが融合樹脂を入手できれば、溝の両側をくっつけ合わせて、境目を作っている壁をトゥリア自身の体に攻撃させることができる。さらに、公開講演で使った太陽石ランプをダリアがだれかに取ってこさせれば、実験で樹精の筋肉を引きつらせたのと同種類の閃光を使って、トゥリアの分裂を司っている信号を妨害できるかもしれない。ヤルダたちの打てる手はいくらでもある。トゥリアは病気でも、高齢でも、虚弱体質でもない。短気な双のいいなりにさせられているのでもない。トゥリアは自立した女で、面倒を見る友人たちがいた。
溝はトゥリアの胴体のいちばん上に達すると、今度は振動膜を分割しはじめた。ヤルダはその割れ目をつかんで全力で引っぱりあわせようとした。「これ以上は広げさせない」ヤルダはいった。「この手が疲れても、まだ出番を待っている十本があるんだから」だがじっさいには、ヤルダの干渉に抵抗する大きな力はなく、振動膜の下にある肉がバネのような弾力をかすかに感じさせるだけだった。
トゥリアは生き延びるだろう。ヤルダはいまではそのことを確信していた。トゥリアは生き延びて、元気でやっていく。これからも一ダース年以上、教え子たちを啓発し、友人たちを楽しませる。遠い星の世界に、森が放つ光を発見するだろう。
割れ目自体は延びるのをやめたが、皮膚が硬い壁のようになった部分が、ヤルダがつまみあわせている箇所よりも先に広がって、トゥリアの口があった場所にむかって進んでいることにヤルダは気づいた。視力を失った目がわずかに凸面状になっていたのが、いまではもうわからなくなっている。視覚器官は再吸収され、まぶたは周囲の特徴のない皮膚に同化されていた。
足音が聞こえ、カーテンが分かたれた。ダリアが急ぎ足で入ってきて、リディアがそれに続いた。
「あなた、どこかの男の子に、わたしが四ピース払ってくれると保証したの?」ダリアが腹立たしげに訊いた。「それだけ大事なことなんでしょうね?」
自分がなぜ呼ばれたかダリアが見てとれるように脇にどきながら、最初の溝と交わる横方向の溝ができつつあるのをヤルダは見た。トゥリアの左右の半身それぞれが二分割の危機にさらされている。「融合樹脂を持っていませんか?」ヤルダはダリアに尋ねた。「それとも、裂け目を縫いあわせたほうがいいですか? わたしは手で押しつけたんですけど、効果がなかったんです」
リディアが近くに来た。「わたしたちにはどうにもできないわ」リディアがヤルダにやさしく告げた。「どんな樹脂でも、どんな薬でも、どんな手術でも──ここまで来たらそういうものは、子どもたちを殺すだけよ」
ヤルダはダリアのほうを見た。「そんなことありませんよね」
ダリアがいった。「分割がはじまってしまったら、それは不可逆なの」
リディアがヤルダの肩に手を置いた。「彼女を見守りましょう」
ヤルダはリディアに顔をむけた。「どういうこと──トゥリアが死ぬのを見守れっていうの?」
「もはやそれ以外に選択のしようがない」ダリアが悲しげに説明した。「彼女の体を抱きしめたければ、好きなだけしっかりそうしてあげていいけれど、脳はもうばらばらになっている」
「脳がもう壊れている?」ヤルダは目も口もなくなったトゥリアの顔をまじまじと見おろした。「これを引き起こしているのは、トゥリアの脳じゃないんですか? 信号を送りだして指示しているんでしょう? それがもうばらばらになっているはずがありません」
ダリアがつかつかと近づいてきて、ヤルダの横にしゃがんだ。「ヤルダ、彼女は死んだの。死んだのは、あなたが見つけるずっと前だったと思う」
「嫌、嫌、嫌」途中で終わらされる人生は、もうたくさんだ。クラウディアとオーレリアは遠すぎてヤルダの手が届かなかったが、トゥリアは違う。
ヤルダはリディアにむき直って、懇願した。「なにをしたらいいの? 教えて!」
リディアがいった。「もうわたしたちにできるのは、彼女を忘れずにいることだけよ」
ヤルダはトゥリアの体の裂け目に手を走らせた。溝はいまや脳天にまで達していた。「できることが絶対ある」
ダリアが今度は厳しい声を出した。「ヤルダ、これはもう変えようのないことなの。彼女はわたしたちの友だちだったし、わたしたちは彼女を愛していたけれど、彼女の心は消えてしまった。墓の中の男たちと同じ意味で、彼女はもう、わたしたちの前にはいないの。今夜わたしたちにできるのは、彼女を悼むことだけよ」
ヤルダは自分が体を震わせて、うなり声を出しているのに気づいた。ダリアの言葉を信じてはいないが、心の中にいる裏切り者が、その言葉が真実であるかのようにふるまおうと決めていた。
「そして朝になったら」ダリアが続けていった。「彼女の子どもたちをわたしたちでどうやって育てるか、相談する必要があるわ」