9
トラックは村でヤルダをおろし、午前半ばの暑さの中、ヤルダは農場までの残りの道を歩いた。三日かけてズーグマから移動してきたあと、旅の最後の部分はあっという間に終わるだろうと思っていたヤルダだが、その道を歩いた過去の記憶は大幅に編集されたもので、いくつかの顕著な特徴──丘のひとつ、木の一本、辻が一カ所──だけが強調されて、その途中の変化なく道が続く部分はすべて削除されていたことに、すぐ気づくことになった。農場まで半分のあたりで、道端に並ぶ小石がたまたま作りだした形の中に、自分が子どものころからそのままだと誓っていえるものがあることに気づきはじめた。
農場につながる小道に折れて北に歩いていると、はじめて見る少女が近づいてきた。
「あなたがヤルダ?」少女が尋ねた。
「そうよ。あなたは?」
「エイダよ」
「どうぞよろしくね」ヤルダはいった。
ふたりは小道をいっしょに歩いていった。ヤルダは村を出発してからずっと、ダニを追い払うために皮膚をピクピクさせていたのだが、道連れができたいま、虫を一匹追い払うたびに描書の断片がでたらめに皮膚に浮かばないよう、いっそう努力をした。
「あなたが来るころだから見てこいって父さんにいわれたの」エイダが説明する。
「あなたのお父さんはだれ?」
そんなことを尋ねる必要がある人がいるのを、エイダは面白がった。「オーレリオよ!」
まとわりついていた懐旧の念を、これでヤルダは完全に振り捨てた。「あなたにいとこはいる?」
「もちろん。ロレンザとロレンゾとウルファとウルフォ」ヤルダがほんとうになにも知らないということをよく考えてから、エイダは説明しのこしたことがないようにつけ加えた。「四人のお父さんはクラウディオ。そしてわたしの姉さんの名前はフラヴィア」
「あなたとお姉さんにも、双はいる?」
エイダはブンブンいってはしゃいだ。「双のいない人なんていないわ!」
「ほんとうに?」
「ほんとうよ」エイダはいい切った。「知ってるわ、あなたの双はズーグマっていう街に住んでるんでしょう、でも彼はあなたといっしょに生まれたんじゃなくて、だからうちには訪ねてこないの」
「あなたはわたしのことをたくさん知っているのね、さっきはじめて会ったばかりにしては」
「あなたはわたしの父さんのいとこよ」エイダはいった。ヤルダの人生をこの子の前にひらかれた本同然にするには、それでじゅうぶんだというように。
ヤルダはいった。「わたしの兄さんのことを聞かせてくれる?」
「ルシオのこと? ルシオとルシアは、自分たちの農場に引っ越したわ。ヴィト大おじさんもいっしょに。でもいまは……」話していいこととそうでないことがよくわからなくなって、エイダのおしゃべりはそこで止まった。
「父さんのことは知っているわ」ヤルダはやさしく声をかけた。オーレリアの、そしてクラウディアの人生が終わりを迎えたときには、だれも知らせを寄越してはくれなかった。ヴィトの死去だけが、悼むに値する死として扱われた。
ふたりで開拓地に足を踏みいれたところで、ヤルダは悲しみに圧倒された。八人の元気な新しい子どもたちも、二度と会えない三つの顔の埋め合わせにはなれない。
ヤルダが農場の全員と抱きあったとき、ジューストおじがいった。「おまえの代理双もいっしょに来れば、大歓迎されたのにな」
ヤルダは思わず声を漏らし、それがおじの言葉に漠然と感謝を示した程度に思われることを願った。自分がズーグマへ行ったのは、代理双を探すことも学問の探究と同じくらい大きな目的だった、という人々の思いこみをヤルダはいちども正そうとしたことがなかったが、じっさいにその件で噓をついたり、代理双を見つけたといったりしたこともなかった。
ジューストおじは開拓地の一角に掘られた墓穴に、ヤルダを連れていった。ヤルダは穴を見おろした。死体は花びらで覆われて、だれであっても不思議はなかった。ヤルダは沈みこむように膝をついて、深い悲しみにうなりながら身を震わせた。
落ちつきを取りもどしてから、ヤルダはおじのほうをむいた。「父は善き人でした」ヤルダのためにつねに努力を惜しまない父親だった。ヤルダのいまの人生も、心と頭が健全なのも、この父親あってのことだ。
「もちろんだ」おじはおずおずとヤルダの肩を抱きしめた。
「どんな風だったんですか?」
「静かな最期だった」おじがいった。「眠ったまま逝った。二、三日具合を悪くしていたあとで」
ダニが墓のまわりに群がっていた。ヤルダはいった。「わたしも──?」
「ああ、やりなさい。ほかのみんなもやった。村から来たみんなも」
ヤルダは両腕をスコップの形にした。おじも膝をついて、ヤルダが土を穴に戻すのを手伝った。ヤルダはオーレリアとクラウディアのことも尋ねたかった──少なくとも、子どもたちが何歳かは知りたかった──が、いま訊くのは適切ではない。出産は、死のように残念がられるべきこととは違う。両者を並べて考えているかのように少しでも思われたら、一種の錯乱扱いを受けるだろう。
ヤルダは昼食の準備を手伝うといったが、すでに手は足りすぎているくらいで、各人に毎度の分担が決まっていた。オーレリオとクラウディオが騒々しい子どもたちに愛情をこめて指図し、ひどい口喧嘩に割ってはいって、どちらかの味方をしたり怒ったりすることなしに丸くおさめるのを、ヤルダは見守った。非の打ちどころがないほど有能で愛情深い父親たちだ。だが、ヤルダには子どもたちの母親がどんな望みを持っていたかを知ることはもうできなかったが、ヤルダ自身が取ったような選択をオーレリアとクラウディアが許されなかったことは、まちがいなかった。
昼食がすむと、ジューストおじがヤルダを脇へ連れだした。
「おまえの代理双のことを聞かせてくれ」おじがいった。「職業はなんだ? 姪の息子がどんな仕事を受け継ぐのか、知っておかねばならん」
「受け継ぐ仕事なんてありません」ヤルダはいった。「わたしは大学で研究をしているんです。私的講師をして自力で生活を支えています。それがわたしの暮らしです。仕事と勉学。代理双はいません」
おじの顔にはなんの驚きもあらわれていなかった。「ひとりで暮らしているのか? それはいい知らせだ! おまえがだれの縛りも受けていないとわかって、うれしいよ」
「認めてくれるんですか?」ヤルダはとまどった。
おじがいった。「代理双のことを気にしなくていいなら、おまえは新しい農場で父親の代わりを務められるじゃないか。おまえの兄はひとりではとても農場を切り盛りできないからな、子どもたちが幼いあいだは」
「幼い子どもたち ?」ヤルダは開拓地をぐるりと手で示した。「ここではもう、子どもは足りているでしょう?」
「今度はルシオの番だ」とおじ。「どれだけあいつは待たねばならんというのだ? 農場はもう買った。ヴィトが死んで、予定が滞っているだけだ」
ヤルダはいった。「こうすればいいわ。新しい農場を二、三年、賃貸して、おじさんの孫たちがもう少し大きくなったら、オーレリオの家族かクラウディオの家族が、ルシアとルシオといっしょになって引き継ぐの」
おじはブンブンいって嘲笑った。「世代をごちゃ混ぜにする気か? おまえは自分の兄にとても年老いてから子どもができて、その子たちの世話をいとこの子どもたちに 見てもらうようにさせたいのか?」
「ルシオとルシアがどうするかは、ふたりが決めることよ」ヤルダは反論した。「ともかく、わたしは新しい農場で働く気はありません」
おじは怒りを募らせていた。「おまえは自分の家族のことなどどうでもいいというんだな?」
「わたしがいなくても家族はやっていけます」ヤルダは冷静にいった。「新しい農場を運営していく方法は、さっき話したとおりです」
「その農場で父親の代わりをすることが、おまえの義務だ」
「父さんだったら、そんなことはいわなかったと思う」
「いったいおまえはズーグマでなにをしているというんだ?」おじが問いただした。「おまえの人生のほかのすべてをうっちゃれるほど、なにがそんなに重要なのか、聞かせてほしいもんだ」
「わたしは光の研究をしています」ヤルダはいった。「星の尾。疾走星」
「疾走星?」
「流星とちょっと似たものです。わたしたちはここで何年も前に、いちど見たことが──」
おじは気短にヤルダの話をさえぎった。「わたしはオーレリオとクラウディオに英雄譚 の暗誦を教えた。おまえにも同じことをしてやっていい。おまえがほんとうの教育を受けたければ、六期 分の学問からはじめるべきだ」
「そのすべてが少なくとも六期 分は時代遅れよ」ヤルダはいい返した。
おじはヤルダをまじまじと見つめ、その目つきは彼女の頭がおかしくなったと思っているかのようだった。ヤルダにいえるのは、おじの考える学問 とは、偉大な詩人や思想家によって遠い過去に完成された不変のなにかがそのすべてだ、ということだ。そこから受け継がれてきたもののみが必要な真実で、新たに発見されるべきことなど存在しない。
「わたしはズーグマから帰ってきたりしないわ」ヤルダはいった。「光について完全に理解できた人はまだいなくて、人々はそれを目標に研究を続けている──ズーグマでも、赤塔市でも、ほかの街でも。わたしにそこから離れろなんて、あなたにいう資格はない! いまの世界でこれほどわくわくさせられることはないわ。そしてわたしはその一部なの」
おじは呆れ果てたようにそっぽをむいた。「それがおまえの父親のそもそものまちがいだ」
「なにがまちがいですって?」ヤルダは気色ばんで問いつめた。
「おまえを誉めそやかしたことだ」おじが答えた。「双がいないことの埋め合わせで自分にはなにか特別なところがある、とおまえに思わせた。それと、おまえを学校に行かせたこともだ」
ヤルダはすぐに眠りにつけるとは思っていなかったが、開拓地でふたたび寝そべって、土を下に、星空を上にしていると、これこそがほんとうなんだという気分になった。オーレリアの寝床だった場所をいまはエイダが使っていたが、昔使っていた窪みにヤルダがもぐりこむずっと前にエイダは眠ってしまっていた。眠っている一族のまわりに植えられた花があらゆる色相で柔らかく輝いているが、ヤルダが少し頭をあげれば、そのむこうに小麦光が見えるだろう。
夜明けのかなり前に目ざめたヤルダは、時 鐘 を聞いていないことに気づいて一瞬混乱したが、それでもいまの時間はちゃんとわかった。立ちあがってルシアの寝床まで足を運び、そこでしゃがんで姉の肩に手を触れる。
ルシアが目をひらいた。ヤルダは振動膜の前で片手をじっとさせるという動作で、声を立てないようにと知らせた。ルシアは起きあがって、開拓地の端までヤルダのあとについてきた。
「もう行くわ」ヤルダはいった。「トラックは朝早くに村を出発するから」
「どうしても? もう二、三日いてくれると思っていたんだけど」ルシアは残念そうだったが、あまり驚いてはいないようだった。
「いっしょにいらっしゃいよ」ヤルダは誘った。
「ズーグマに?」
「別に悪くないでしょ?」
ルシアは笑いさざめくように静かにブンブンいった。「むこうでわたしがなにをするというの?」
「なんでもやりたいことを」ヤルダは答えた。「まわりを見て、自分にふさわしいものを選べばいい。仕事が見つかるまでは、わたしが面倒を見るから」
「でも、ここにはわたしのする作業があるの。新しい仕事はいらないわ」
ヤルダはいった。「ここだけじゃない世界をもっと見たくはないの?」
「それも悪くないかもね」ルシアは認めた。「でも、みんなのことが懐かしくなると思う」
「会いに戻ってこられるわ、いつでも」ヤルダはいった。
ルシアはしばらく考えていたが、「ルシオを起こしてくる」と数歩踏みだしたところで、ヤルダが腕をつかんで引きとめた。
「ダメ! そんなことをしたら──」
「ルシオもいっしょに誘うんじゃないの?」
「違うわ」
「なに馬鹿なこといっているの?」ルシアは当惑していた。「どうしてズーグマに行くのに、ルシオを置いていくのよ?」
「それこそがここを出ていく理由なの!」ヤルダはいらだってきた。「ひとりで行けば、気にかける必要がないでしょ」
「なにを気にかけるの?」
「出産よ」
ルシアがいった。「わたしたちは少なくともあと四年は子どもを持つつもりはないわ。わたしたちがあなたといっしょにズーグマに行っても、そのことに変わりはない」
「四年?」
「ええ」
体を震わせながら地面にすわりこんだヤルダは、ルシアの言葉を信じていいのかどうかわからなかった。「オーレリアは遅らせられなかった 。クラウディアも遅らせられなかった 」
「でも、わたしはオーレリアじゃない」
「ふたりがいなくなって、さびしくないの?」
「さびしいに決まっているでしょ」ルシアが答えた。「そんなにふたりのことを思っていたなら」ルシアは当てつけるように言葉を続けた。「あなたはもっとたびたび戻ってくればよかったのよ」
ヤルダは恥ずかしくなった。「こんなに早く機会がなくなるなんて思わなかったから」姉の顔を探って、一族に隠し事があるならはっきりさせようと決心する。「なにがあったの? おじさんが強制したの?」
「おじさんはうるさく口を出した 」ルシアがいった。「でも、いとこたちは自分たちの考えがあってやったことだから、全部がおじさんの責任というわけじゃない」
「そしてあなたは、四年もおじさんが待ってくれると思っている」
「決めるのはおじさんじゃないのよ、ヤルダ! ルシオとわたしは細かく計画を立てているわ。ふたりでいっしょに新しい農場に取りくんで、できるだけたくさんお金を貯める。そしてその時になったら、ルシオは人を雇って農場の手伝いをしてもらいながら、二年くらい子どもたちの面倒を見る。若いいとこの子どもたちのだれかが手伝ってくれるならありがたいけれど、わたしたちはそれを当てにしてはいないの」
ヤルダはいった。「でも、もしあなたの気が変わったら? もし、もっと遅らせたくなったら?」
「そのときはそうするでしょうね」ルシアは物静かにいった。「ルシオはわたしに強制しない」
「どうしてそんなに確信が持てるの?」
「ルシオはわたしの双よ! 生まれてからずっと、よく知っているわ」
「男は子どもを持ちたくてたまらなくなるものなの」ヤルダはいった。「本来的にそういう性質があって、逆らえない」ダリアはどういう言葉を使っていただろう?「男はそのために自然が作りだしたの。雄の昆虫はいないし、雄のトカゲもいない──なぜなら、そうした動物の子どもは、生まれたときから自分の面倒を見られるから。男が存在する 唯一の理由は、子どもを育てられるように、ということなのよ」
ルシアがいった。「女も子どもを持ちたくてたまらなくなるわ。オーレリアの出産を見たとき、自分もしたいという気持ちがこみあげなかったと思う? でもわたしが我慢できるなら、ルシオにもできる。わたしたちのどちらも、自分をどうにもできないなんてことにはならない」
「でも、自分の命を支払うのは、あなたのほうだけよ」
「ええ」ルシアは認めた。「でもそれはルシオが悪いんじゃない。ルシオがどうにかできることじゃないし、それをいえばだれにもできない。ルシオがどんなにわたしのことを思ってくれていても、わたしの代わりはできない──それは不可能だというだけの話」
ヤルダはすわりこんだまましばらく黙っていた。星々が消えはじめている。あとわずかで出発しなくてはならない。
「ルシオを起こして、意見を聞いてみる?」もしルシアとルシオふたりの前でズーグマでの生活がどんなものかを話したら──ふたりともになんらかの新しい可能性を示せたら──それはやってみる価値があるかもしれない。
ルシアがいった。「こういうことは性急に決断すべきじゃない。ふたりでこれから数日かけて話しあってみる。もしわたしたちが行く気になったら、あなたのあとを追うわ」
「わかった」
ヤルダは立ちあがって、ルシアを抱きしめた。「ジューストおじさんの圧力に屈しないでね」ヤルダは念を押すようにいった。
「だいじょうぶ」ルシアは約束した。「父さんがあなた以外の子どもたちにはなにも教えなかったと思う?」薄い灰色の隆起がルシアの胸にあらわれた。最初はかろうじて見えるか見えないかだったが、やがてくっきりしたものになって広がっていき、皮膚の上で弧を描いて、不安定ながらも一連のシンボルを綴りあげた。『旅の安全を祈るわ、姉さん』
「ズーグマでならその技能を活かせるのよ」ヤルダは勢いこんでいった。
ルシアがいった。「かもね。ほかのだれかが起きてきて、こっそりここから立ち去ろうとしている理由を説明するハメにならないうちに、トラックをつかまえにいきなさい」
「ズーグマに来る気になったら、手紙で知らせてね」ヤルダはいった。
「もちろん」
ヤルダはルシアに背中をむけて、歩きだした。最初は後眼にルシアが映っていたが、やがてたがいの姿は、畑で消えゆく赤い光の彼方に見えなくなった。
「きみに贈り物があるんだ」コーネリオがもったいぶって告げた。
「贈り物?」コーネリオからの化学科への招待に応じたのは、好奇心からと同じくらい礼儀としてだったとはいえ、この訪問には先日の講演を表彰かなにかしてもらえる以上のことがある、と期待していたのだが。「あなたが研究で成功をおさめてくれれば、それがなによりの贈り物よ」ヤルダは実験室に並ぶ棚に載った大小さまざまのきらめく瓶に後視線をむけながら、この建物の屋根が最後に吹き飛んでからどれくらい経つかを思いだそうとしていた。
「その言葉はかたじけないけれど」コーネリオがいう。「自分がなにを頼んだか、忘れたの?」
怒るよりは面白がっている招待主を前に、ヤルダは懸命に記憶を探った。自然科学部集会での講演の一、二鳴隔 後、ヤルダはコーネリオと話をしたが、そのとき議論したことは数多くて、十旬 経ったいま、やりとりのすべてを思いだすのは無理だった。
「ぼくはきみに、なにがいちばんうれしいかと尋ねたんだ」コーネリオが思いださせた。「もしあの講演のお礼に、ぼくたちから実用的なものをあげるとしたら、とね」
その質問をあのときの自分がどれくらい真面目に受けとったかはよく覚えていないが、なんと答えたかは思いだした。「それであなたは、もうその約束を果たしたというの?」
「まだ完璧じゃない」コーネリオは認めた。「でも、役に立つとは思ってもらえるはずだ──まだ完璧でなくても、持っていてよかったと」
「それはまちがいないわ」ヤルダは不安を脇に押しやった。彼女が頼んだものをコーネリオがほんとうに作りだしたなら、化学科の建物にいる危険をおかす価値はじゅうぶんにある。
「じゃあ、見てもらおう」コーネリオはヤルダを実験室の側面にある作業台に案内した。機械仕掛けの回転鏡 の代わりに、コーネリオは手動で調節可能な一対の鏡を設置し、それが日光を部屋の中に導きいれてから、幅約三指離 の箱の中にむかわせていた。
コーネリオが箱の側面をひらくと、そこにはプリズムが塡めこまれていて、光線を分光して下部の白いスクリーンにスペクトルを投げ落としていた。「できたら、いくつかの色の位置を覚えておいてくれ」コーネリオがヤルダに促した。
「覚えたわ」ズーグマ上空で三つの疾走星を目撃していたヤルダは、さまざまな色が順に並んでいるようすを、背景に関係なく一瞬で記憶できるようになっていた。
箱の中への日光の入口になっている孔を、コーネリオがそれよりはるかに小さい穴のあいた薄板で覆った。スペクトルはまだ見えてはいたが、ずっと薄暗くなった。続いてコーネリオは、完全に不透明な別の薄板を、最初の薄板と平行になるように溝に挿しこんで、光を完全に遮断した。
次にコーネリオは、作業台の下の棚から一枚の堅い紙らしきものを取りだして、スペクトルが映っていたスクリーンの上に固定した。それから小瓶を取りだし、それは一部分がふたつに仕切られて、片方の半分には橙色の粉末が、もう片方には緑色の樹脂が入っていた。瓶を紐で縛り、箱の上面をくぐらせて中にぶら下げる。
コーネリオは箱の側面を閉じ、縁に隙間がないことを慎重に確認した。「箱の中は光が完全に遮断されている必要がある」とコーネリオ。「ひびひとつ許されない」
ヤルダは相手の真剣さに驚いたが、その分、先に期待が持てた。「なるほど」
「まず、瓶を揺する」コーネリオは説明しながら、箱の上面から突きだした紐をつかんで、それを小さく揺らした。「これで材料が反応を起こして、生じたガスが紙を活性化する」
「活性化?」
「紙が光に対して敏感になるんだ。ただし、ガスが分散するまでのほんの数停隔 のあいだだけのことだから、ぐすぐずしてはいられない──」
コーネリオは不透明な薄板を溝の端近くまで引き抜いてから、即座に押し戻した。
「なにかまずいことが?」ヤルダは尋ねた。
「いや、なにも」コーネリオはあっさりといった。「いまのは必要な露光だよ。約一瞬隔 間」
さっき薄板の小さな穴が映したスペクトルはかろうじて見てとれる程度だったが、反応を起こす長さとして一瞬隔間 でじゅうぶんなのか?
コーネリオがいった。「ガスはこのくらいの時間が経ったらひとりでに分散しているはずだけれど、完全に排出されるように、ふいごを取りつけるつもりだ。いまは念のためにもう数停隔 待ったほうがいいと思う、きみがかまわなければ」
「だいじょうぶ、忍耐力の出番はまだ来ていないから」ヤルダはこれと同じアイデアのもっと初期のバージョンの公開実験を見学したことがあり、それはもっとも明るい星の尾を写すのにさえ、最低でも三時隔 の露光を必要とした──そしてそのあと紙を樹脂で処理する必要があり、この樹脂が原因で、しばしば紙が燃えてしまうのだった。
「きっとうまく……」コーネリオは留め金をもたもたといじりまわして、箱の側面をあけた。いちど覗きこんでから脇にどいて、ヤルダに中を見させる。
紙は非常にはっきりと、三カ所で黒ずんでいた。三本の細く黒い縞は──ヤルダの記憶にまちがいがなければ──赤、黄色、青の色があった位置を印している。スペクトル全体を写しとってはいないが、これがすべての色に感光する無差別な反応ではない 分、むしろいっそう価値があった。星の尾なり疾走星なりの全体に相当する黒い染みでは役に立たない。三つの特定の色相の正確な位置を一瞬で写しとることのできるこの装置によって、いままでは一瞬の主観的な印象でしかなかった疾走星の細部を、量的に扱うことがついに可能になる。
「すばらしいわ!」ヤルダは有頂天で声をあげた。
「ご希望にかなってうれしいよ」コーネリオが控え目にいった。
「紙がまた……」
「燃えたりはしないか? それはない。これは以前のものとはまったく異なる反応なんだ」
「だったら、完璧ね。言葉が見つからないわ」
コーネリオは、処理ずみの紙をひと箱にぎっしりと、活性化薬の瓶を詰めたラックを準備してあった。「これはきみのものだ。もっと必要になったら、連絡をくれればいい」
「ありがとう」
ヤルダは早くも、疾走星のデータを捕捉するにはどんな装置を組みたてればいいかを思い描いていたが、この気前のいい贈り物を引っつかんで即刻立ち去るのは失礼というものだろう。
ヤルダはいった。「もしかして光記録器にかかりきりになってくれたのかもしれないけれど、あなたのほかの研究の進行状況もちょっと聞いてみたいわ」
「ぼくは理論的な研究にも取りくんでいる」コーネリオが答えた。「きみの回転物理学は、これまで測定してきた化学エネルギーの差が正しいことを立証してくれた。でも、回転物理学が含意するものは、もっと深く掘りさげる必要がある。じつのところ、ぼくたちは熱力学の大半を再発明する必要に迫られているんだ」
ヤルダは驚いた。「それはちょっと大げさな気がするけれど」
コーネリオがいった。「もし、きみの理論は、この部屋の中にあるあらゆるものが無限の熱さよりも熱い ことを示唆している、といったら、教科書を丸ごと書きかえるだけの根拠になる?」
「無限はわたしがいちばん好きじゃない温度よ」ヤルダは白状した。「あなたが本気でいっているなら、わたしは自説を撤回する必要があるかもしれない」
コーネリオは静かにブンブンいった。「じゃあそれを、負の温度と呼ぼう。そうしても形式上はまちがいじゃない。もっとも、無限の熱さよりも熱いという最初のいいかたをすることにも、意味はあるんだけれど」
ヤルダには、負の温度といういいかたのほうがずっと好ましかった。「真のエネルギーは運動エネルギーとは正反対のむきを持つから、矛盾がないようにするには、すべての温度は負だと言明するほかない。熱い気体が持つ真のエネルギーは冷たい気体より少ないから、温度はもっと……違うの?」
コーネリオはいらついた表情でヤルダを見つめていたが、心の中をそのままぶちまけるほど不作法ではなかった。
「わたしは物理学者なんだから、少しは大目に見てよ!」ヤルダは音 をあげた。「熱力学はあなたの専門よ。わたしがその分野で勉強したことがあるのは、理想気体の方程式だけだから」
「温度はエネルギーの同義語ではない 」コーネリオはおごそかにいった。「温度とは、エネルギーをある系から別の系へ渡す傾向に関することであって、どちらかの系が持っているエネルギー量のことではない」
「それは信じる気になれる」ヤルダはいった。「でも、そういう〝傾向〟をどうやって正確にするの?」
「まず」コーネリオがいった。「ある系が同じエネルギーを持つために取れる異なる方法の範囲を考える。最初は、古い物理学における単一の気体粒子から」
コーネリオは図表を胸に呼びだした。「粒子の運動エネルギーは、運動量の二乗に比例する。粒子が持ちうるエネルギーの例を二、三指定する。ただし厳密にではなくて、エネルギーはある小さな間隔のあいだにあるとする。左側のグラフから、それぞれのケースに対応する範囲の運動量の幅が読みとれる」
ヤルダは図表を検討した。「つまり、エネルギーに対応した水平な直線をたどって曲線にぶつかるまで横に行き、そして下に運動量の軸まで下がる?」