ヤルダが体の上に描けるような種類の波では、最大で二、三ダースの振動しか描ききれないので、解はひと握りしかないだろう──それは、光はほんのひと握りの異なる速度でしか移動できないといっているのと同じことだ。その速度は光の空間と時間における周波数の比に等しい。だが現実の、宇宙規模の、四次元の場合には、二乗の和はとてつもなく巨大で、独房ひとつにある砂粒の数よりもたくさんのかたちであらわすことができ、周波数の比は、それが連続的に分布していないことがわからないくらいに数が多くて、間隔が狭いだろう。

 正方形を渡る波の数を毎回選ぶ際には、それぞれの方向の波が端でゼロからスタートするか、波の頂点の値からスタートするかも選ぶことができる。この追加された融通性によって、完全な一般解──それがどんなに複雑で奇妙であっても──はつねに、さまざまな係数をかけた基本解の和としてあらわすことが可能だった。

 その係数を見つけて波全体を──環状体宇宙での光の来歴全体を──復元するのに必要なデータは、なにか? 球面調和関数とは違って、そうした基本解の痕跡は、どこかの極にむかって集中したりしない。基本解の寄与を評価するには、正方形のひとつの縁全体に沿って波がなにをしているかを──選択した縁沿いの値がゼロであるような波についても知るために、その値だけでなく、直交方向での変化率も──知る必要がある。

 こうした必要条件は、物理学者のお気に入りである弾かれた弦の場合と、ほぼ正確に同じだった。弦の初期の形と運動を設定すると、方程式がそのあとどうなるかを教えてくれる。唯一の違いは、こちらの 方程式は波の速さに制限がないので、同じ情報を遠く彼方から集める必要があることだ──可能性としては、宇宙の全幅をも横断して。これは、まさにトゥリアのいっていた「ある一瞬の時間において、あなたに対して秘密にできることはどこにもない」という状況だが、もう指数関数的増大によって役立たずになることはない。

 環状体宇宙では、予測は理にかなった 行為になる。ごく周囲の状況がわかれば、じゅうぶん遅い波に直近の未来になにが起きるかを予測できる。予測などさっぱりお手あげということもないが、馬鹿げた全知全能になるのでもない。対応を準備する暇もないほど速い波もつねに存在して、不意を突かれることになる──なにもないところから出現する疾走星のように──からだが、そういう波が存在しなければ、物事は予想されたとおりに進行していくだろう。

 円環を四次元的な等価物と置き換えれば、そうした仮定のルールに従う光は、現実世界でとまったく同じようにふるまいはじめることになる。

 ヤルダは頭を下げて、ふたたび両腕を休ませようとしたが、両肩が疲労で熱を持っていた。そこの筋肉にも休みを取らせることができずにいる。それを可能にする動作には最初から最後まで、両腕を完全に引き離していることが必要だった。

 少なくとも、ヤルダはいま、トゥリア宛ての伝言にどういう言葉を使えばいいかがわかった。「この罰金を払うのに手を貸してもらえないときは、いま、わたしの身体がとっている形状について、よーく考えてみてもらえれば、それでいいです」


 十一日目、ランプを持ったふたりの看守がヤルダの独房に入ってきて、壁から鎖を外した。いったいどういうことなのか、とはヤルダは訊かなかった。もし判事がヤルダの出廷の日取りを数日早めたのなら、それはとにかくいいことだ。

 上の階に来たヤルダは、まぶしくて目が眩みそうだった。前回とは違う部屋に連れてこられたことに気づいたのは、看守のひとりがヤルダをひざまずかせて、ヤルダの顔の前になにかを掲げたときだった。看守がその物体を裏返すと、ちらちら光る反射した日光がヤルダの目に刺さった。

「準備はいいか?」看守が急かすように尋ねた。

「なんの準備?」ヤルダは不安と困惑とで訊いた。

「おまえの罰金を払ったやつがいる」看守がいった。「これからおまえを切り離して、釈放する」

 ヤルダは両手のあいだの皮膚を固くして、親指大の突起になるまで縮めた。切り離しを自分でおこなうか、それどころか歯で皮膚を引きちぎることさえ夢想していたのだが、少なくとも肉を切断されずにすむ点は、看守にやられてもかわりがない。

 看守はヤルダに、両腕を木製の作業台の上に置くよう指示した。切り離し作業は速やかで、痛みは皆無ではなかったけれど、最初の融合時よりはるかに小さかった。看守が鎖を片腕からするりと引き抜くと、ヤルダは苛酷な目に遭わされていた肢を完全に体内に再吸収した。立ちあがって一歩後ろに下がり、肩をまわして、胴体の中の肉の半分を再配置しながら恍惚となって歓喜の声をあげる。ふたつの小さな傷口は、移動して背中の左右に落ちついた。

 看守がいらついた声でいった。「身づくろいは外に出てからにしてもらえるか?」

「喜んで」時間がもったいないので、だれが罰金を払ったのかは看守に尋ねなかった。〈単者クラブ〉に来る女性実業家のだれがヤルダを気の毒がってくれたかは、トゥリアが知っているだろうし、そのことへの感謝の意を示す適切な方法も、アドバイスしてくれるだろう。

 ヤルダは建物の入口を示すまぶしい長方形の光にむかって、ゆっくりと廊下を進んでいった。牢獄で一年耐えることなど、とうてい無理だったろう、といまのヤルダは認めることができた。一ダースステイント のうちに、死ぬか正気を失うかしていたに違いない。機会がありしだい化学科に出かけて、この忌まわしい場所を瓦礫の山に変えてくれるようななにか不安定な物質を手に入れなくては。

 ヤルダは空の下に足を踏みだすと、身震いして、ひとりで静かにハミングした。一瞬、トゥリアが建物の外で待っていてヤルダが自由の身に戻ったのを喜んでくれる、という期待が外れたことにがっかりしたが、そんなことを思うのは心が狭すぎる。世界は歩みを止めたわけではなく、トゥリアは自分の生計を立てなくてはならない。ヤルダは新たな腕を二本成形して目の上にかざすと、自分のいる場所を確認しようとして周囲を見まわした。

「ヤルダ?」明るさにかすむ風景の中を、男性が近寄ってきた。

「エウセビオ?」私的講師が全部で何回中止になったのか、ヤルダはわからなくなっていた。最初はヤルダが〈孤絶山〉に滞在した三ステイント 間分、そして今度のこの、なんの説明もなしの休講。「ごめんなさい、あなたに連絡することができなくて──」

 エウセビオはヤルダのすぐそばまで来ていて、その顔に浮かんだ決まり悪げな表情が見てとれた。もちろん、ヤルダの身になにがあったかは、全部耳にしているのだろう。

「いっしょに歩いてもいいですか?」エウセビオがいった。

「もちろん」ヤルダはエウセビオに道を決めてもらった。まだ方向感覚が戻っていなかったし、なにより、どこに行きたいかが決められなかった。

 エウセビオはしばらく無言で、視線を地面にむけていた。「もしあなたが私的講師をやめるという選択をしても」エウセビオがようやく話しはじめた。「無理もないと思います。その場合でも、年度末までの授業料はお支払いします」

 ヤルダは必死で、このわけのわからない提案の意味をつかもうとした。ヤルダの恥ずべきおこないのせいで自分も肩身が狭いので、もう彼女の生徒でいたくない、とエウセビオはいおうとしているのか──だが、自分から解雇を告げて嫌な思いをしたくないので、ヤルダの側から いいだしてほしい、と?

「じっさいには、わたしはあなたの私的講師を続けたいと思っているわ」ヤルダは冷ややかにいった。もしエウセビオがヤルダをお払い箱にしたいなら、それをきちんと言葉にする勇気を持つべきだ。

 エウセビオは体を震わせて、嫌悪よりは面目なさを感じさせる音でうなった。「あなたがもっと怒っていて当然だと思っていました」驚きが声に出ていた。「ぼくが悪かったんです。あなたに警告しておくべきでした」

 ヤルダは足を止めた。「わたしに警告すべきことなんて、なにがあったの?」

「アシリオのことですよ、もちろん。あいつら全員──でも最悪なのはアシリオです」

 ヤルダには話がさっぱりわからなくなっていた。「アシリオがわたしに石を投げようとするなんてこと、あなたには知りようがなかったでしょう?」宇宙が結局は球で、エウセビオがある晩、自室にすわって全宇宙の調和振動を読んでいたというなら別だが。

「そのとおりです」エウセビオは答えた。「それはまったくの偶然だったのかもしれません。けれど、あなたがだれなのかを、ぼくとつながりがあるということを知ったあいつは……」

 ヤルダはこの話を飲みこもうと苦労した。「あいつがあの莫大な賠償金を要求したのは、あなたを 困らせるためだった、といっているの?」

 エウセビオがいった。「そうです。あなたに恥をかかされたのは確かだから、あいつはあなたがどれだけ害をこうむ ろうと気にかけないでしょうが、罰金はぼくに思い知らせるために取られた手段です」

 罰金を払ってヤルダを釈放してくれたのは、エウセビオだったのだ。だが、ヤルダが一生を独房で送る可能性とむきあうことになったのは、エウセビオとアシリオとのあいだのなにか子どもじみたいざこざが、そもそもの、そして唯一の理由だったのだ。

 さらに、こうした事情を知らずにいたのはヤルダだけだった。判事がヤルダに、自分の手持ちの札を再考する よう促したのは、きっと、私的講師を依頼されている大金持ちに援助を請うだろうと思っていることをほのめかしていたのだ。

「それで?」ヤルダは辛辣にいった。「あなたはわたしをお金で買って、わたしを所有しているといいたいの?」

 エウセビオは悲しげにたじろいだ。「ぼくの敵についてあなたに警告しなかったのは不注意でしたが、敬意をいだかずにあなたに接したことはいちどもありません」

 それには反論のしようがなかった。「ひどいこといってごめんなさい」ヤルダはいった。

「アシリオなんて、ぼくにとってはどうでもいいやつなんです!」エウセビオはきっぱりといった。「あいつと争いたいわけじゃない! でも、あいつのお祖父さんとぼくの祖父が、商売敵なんです。それはもううんざりするような話で、ほかの人々の人生を害することさえなければ、ただの退屈な古い冗談ですむんですが。ぼくの望みは、きちんと教育を受けて、自力で成功したいということだけです。ですが、ぼくに近づく人を片っぱしから格好の攻撃対象だと思うような敵がぼくにいることは、あなたに警告しておくべきでした」

「前もって聞かされていれば、違っていたでしょうね」ヤルダは同意した。

「あとでそいつらの名前を教えて、似顔絵も見せます」エウセビオは約束した。「あなたが避けるべき相手を全員」

「わたしは本気で……だれも怪我させないよう、注意しなくちゃね」ヤルダはいった。

 エウセビオがいった。「どいつも、行列で出くわすのも避けたい連中です」

「なるほど」ヤルダはいまの状況について考えてみた。「この件はこれで終わったの? それともアシリオは、これからもわたしになにか仕掛けてくるつもりだと思う?」エウセビオが破産するまで、監獄を出たり入ったりを繰りかえすことになるのはごめんだった。エウセビオの敵の馬鹿どもが、無意味な運まかせのゲームでたがいを破滅させることで満足するようになってはくれないものだろうか?

「あいつは同じ手を二度使うことはないでしょう」エウセビオが考えつついった。「利用できる機会は利用するという考えかたもありますが、ぼくを攻撃するためにあなたを再度使ったら、むしろお粗末な手口だと思われるでしょうね」

「なら、それでひと安心ね。維持されるべき基準があってくれて、うれしいわ」

 エウセビオはヤルダと目を合わせた。こんな事態になったことをエウセビオはまだ面目なく思っていたが、その償いとしてできることはすべてやってくれていた。「それで、ぼくたちの授業のことですが?」

「わたしは続けたいと思っている」ヤルダはいった。「ズーグマの支配階級の気まぐれの中で無事に暮らすための手引きを描いてちょうだい。そのあとで、ほんとうに大事なことを再開しましょう」


 看守たちは警察がヤルダのポケットから取っていった硬貨を返してくれなかったが、ヤルダは銀行にいくらか預けてあった。行員は疑わしそうな顔で、ヤルダが胸に浮かべた署名と、紙にそれを写したものを比較してから、契約時にヤルダが決めた三つの秘密の質問にも答えてもらわなければならないといい張った。

「一グロスの八乗足す五グロスの二乗足す十一の最大の真約数は?」ヤルダが答えようとすると、行員が割りこんだ。「こんなものが質問なんですか?」

「かんたんすぎますか?」ヤルダは驚いた。「かもしれませんが」

 市場でパンを買って、アントニアの露店があった場所の前を通りすぎる。

 大学に顔を出す気にはまだなれなかった。ひっそりした公園に夕方まですわっていて、それからトゥリアの部屋にむかった。

 トゥリアは心底驚いている顔で、ヤルダを出迎えた。「なにがあったの? とんでもない額の罰金の噂は聞いたけれど、監獄に行ってもなにも聞かせてくれないの。あなたが伝言を送ってくるのを待っていたのよ!」トゥリアはヤルダを部屋の中に入れた。部屋の照明は植物だけに戻っていたが、監獄生活のせいでヤルダの目は天文学者並みになっていたので、部屋の中の紙一枚一枚がくっきりと浮きだして見えた。

 ヤルダはエウセビオに聞かされた話を説明した。トゥリアがいった。「次にわたしが私的講師をしている学生について文句をいったら、頭を引っぱたいてくれていいわよ」

「アントニアがどうなったかはわかりますか?」

「三日前に会ったわ」という答えが返ってきた。「市場で、彼女の双もいっしょにね。アントニアは、あくまでも自分の意志で双といっしょにいるのだといっていた。双のほうは、アントニアが強制的になにかをさせられることはない、の一点張り」

「双のいうことを信じたんですか?」

「わたしがなにを信じるかで、なにかが変わる? もうわたしたちにできることはなにもないわ」

「わたしがどうしようもない馬鹿でした」ヤルダは語気荒くいった。「警察はアントニアを捜してもいなかったのに──」

「それより問題はエウセビオよ!」

「エウセビオがどう問題なんです?」ヤルダは自分自身の軽率さが原因のことで、彼を責める気はなかった。「あの晩、わたしに喧嘩を売る可能性は、どこの馬鹿にでもありました。エウセビオからアシリオについて警告されていたとしても、ほかのだれかと同じことになっていたかもしれません」

 トゥリアは植物のひとつのところへ行くと、指を細くして土を掘り、やがて薬瓶を取りだした。

「警察はあなたのホリンを見つけたんですか?」

「ただの一個も。あなたはいますぐ何個か飲まないといけないわ。相当な回数、飲みそこねたんだから」

「わたしはアントニアと同い年ですよ」ヤルダはいった。「そしてアントニアは、自発分裂のことはまるで心配していませんでした」

「じっさいには、アントニアはここにいたあいだ、ホリンを飲んでいた」トゥリアが言葉を返す。「わたしがそうさせたから。決心のついていない出奔者と同居するよりひどいことがひとつあるとすれば、それは、帰宅したらその出奔者が四人の泣き叫ぶ赤ん坊に入れ替わっていることよ」トゥリアはヤルダに緑色の角剤二個を手渡した。ヤルダはこれ以上議論をしたくなかったので、それを飲みくだした。

 ヤルダは床にすわって、両手に顔をうずめた。「じゃあこれで、いつもどおりの生活に戻るわけですか?」

「ありとあらゆる闘いに勝つことはできない」トゥリアがきっぱりといった。「でも、いい知らせが聞きたいなら……ルフィノとゾシモも、それぞれ独自に疾走星を観測していたわ。さらに、不思議な話だけれど、三日後にも別の疾走星が出たの」

また別のやつがですか ?」

「ここからは見えなかったけれど、赤塔市で観測された」

 ヤルダは混乱した。「そのことは 、なにを教えてくれるんでしょう?」

「疾走星がランダムな事象だということかしら?」トゥリアが考えを述べる。「これは、エネルギーを再充塡して次の弾を発射するのに数年かかる、宇宙規模のパチンコみたいなものとは違う。タイミングが完全にランダムだとしたら、たまに連続することがありえない、という理由はない」

「まったく同じ方向から来るのに、ですか?」人々のあわただしい観測をもとに特定されたかぎりでは、過去すべての疾走星の軌跡はおよそのところ平行だった。「時間的にはランダムなのに、空間的にはそうではないのはなぜでしょう?」

 トゥリアは考えてから、「疾走星の側から見れば、空間的にランダム なのよ。わたしたちに疾走星どうしの時間の間隔と見えているものが、疾走星側では距離にあたる」

「頭痛がしてきました」

「あなたが投獄されたと聞かされても、ジョルジョがあなたの講演を中止にしなかったのは、知っていた?」トゥリアの声には驚きがこもっていた。「わたしも、それほど信頼してくれる指導教官につきたかったわ。わたしたちにはどうしても予測問題を解決できなかったという話を、わたしはジョルジョに伝えようかと思っていたところで──」ヤルダの表情を読んだトゥリアは、言葉を切った。「解決したの?」

「指数関数的爆発はありません」ヤルダは高らかに宣言した。「そして、砂粒という砂粒の中に宇宙全部が見えることもありません」

「理由は?」トゥリアは高揚して先を促した。

 一瞬おじけづいたように、ヤルダは身震いした。その発見を説明するとき、獄中生活と皮膚の融合を追体験せずにはいられないだろうと気づいたのだ。そして闇の中に十一日間放置されていたあとでは、市場の地下におりて、彼女が生きていようが死んでいようが気にしない見知らぬ人々に囲まれて眠る気にはなれなかった。

 ヤルダはいった。「もっとそばに来てください、答えはあなたの皮膚に描書しますから」