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「判事の前に出たら」トゥリアがささやき声でいった。「なにひとつ反論しちゃダメよ。罰金も受諾、条件も受諾、そうすればもう二、三日もすればここから出られるから」
ヤルダは自分自身の体を鎖の最後の輪にされて、独房の壁につながれていた。両腕が融合してできた環に体をくぐらせたので、腕が体の前側にあるのが、ここに来てからのささやかな改善点だ。独房は壁も床も剝きだしで、窓はなく、夜も昼も変わりなく暗い。何者かが、姿を見られずに入ってきたことが、二度あった。一度目のやつはヤルダを殴りつけにきて、二度目のやつは腐った小麦を床にばらまきにきた。ほかの独房で肉が材木でバシッと打たれ、哀れなうなり声があがるのが、聞こえてくるいちばん大きな音だった。
だが、意図的にではなしにヤルダにあたえられた救いが、ふたつあった。まず、床は本物の土で、これはヤルダのお気に入りの寝床だ。もっと清潔好きの囚人なら長虫に嫌悪を感じただろうが、ヤルダは単になじみの場所にいる気分になれた。もうひとつは、トゥリアの隣の独房に入れられたことで、多孔性の壁の石を通して小声で話しあうことができた。この会話がなかったら、ヤルダは気が狂っていただろう。
「わたしに対する告発は、出奔者を匿 ったことと、もし発見されていればだけれど、部屋にホリンがあったことになると思う」トゥリアが説明する。こうしたことはすべて経験ずみのようだ。「数ダースピースの罰金を科せられて、罪を繰りかえさないと宣誓させられる。あなたの罰金はたぶんもっと高額だけれど、心配しなくていいわ。それを支払う助けになるような人と連絡を取る機会をもらえるから。わたしのほうが先に出られると思うから、ダリアや〈単者クラブ〉のほかの人たちに話をしておく。あなたに必要なだけのお金を、わたしたちが用立てる」
「あいつが 石を投げてきたんですよ!」ヤルダは反論するようにいった。「一ピースも払う必要はありません! あの下衆野郎のことも暴行で告発させないと」
「その男に不利な証人を一ダース集められる?」
「たぶん無理です」
「なら、そいつがじっさいなにをしていようと、問題じゃない。それは問題なんだと自分にいい聞かせるのはやめなさい。でないと、あなたはあれもこれもむずかしくするだけよ」
ヤルダには受けいれられない忠告だった。自分が自制すべきだったことはよくわかっている。鋭くて重いと認識していた丸石を、投げ返すのは思いとどまるべきだった。だが、自分を攻撃したやつが自分の横で投獄され、罰として殴られ、罰金を払わされ、面目を失い、暴力的な気質を矯正すると誓うよう強要されるのを見たい、という気分もまだ強くあった。
自分の行動がアントニアの人生を犠牲にさせたことも、ヤルダはわかっていた。数年あるいは数旬 にわたってアントニアが双と交渉できたかもしれない機会は、ヤルダがトゥリアの部屋に警察を招き寄せた時点で失われていた。それが ヤルダのしでかした最悪なことで、アントニアのためだったら、ヤルダは自分を責める相手に片っぱしから、自分が考えなしだったことを喜んで認める気になった。だが、ヤルダ自身が有罪だからといって、ほかのだれかの罪を許していいわけではない。子どもを切望しているだけのアントニオにも、単者をからかったにすぎない議員の息子にも、単に職務をこなした警官たちにも、ヤルダの横にずらりと並んで、それぞれの罰を受けてもらわなくては。
さもなくば、全員を八分裂させてやる。
トゥリアはその話題に飽きてきて、何度も念を押して忠告すると、会話を別の方向へ持っていった。
「何時 隔 か、こんなくさい牢獄からいっしょに離れましょう」トゥリアは頼みこむようにヤルダにいった。「こんなときこそ知的活動に従事しなかったら、知的活動をしている意味がないでしょ?」
「ここで寝そべって、疾走星の幻覚を見るんですか? それはとても元気が出そうですね」
「最後にようすを見たときには、あなたはもっと差し迫った問題をかかえていたようだったけれど」とトゥリアが話を振った。
「ふたりで指数関数的爆発を解決しようっていうんですか、ここで ?」
「もっといい時間の使い道がある? 市議会議員の息子たちの手足をもぎ取る計画でも練る?」
じっさいにはヤルダも気晴らしがほしくてたまらなかったし、トゥリアの自制心と意志の強さを自分も持っていればと思った。だがヤルダのかかえている問題は、この投獄同様、どうにかしようがあるとは思えない。「ジョルジョのいったとおり」とヤルダは話しはじめた。「わたしが発見した方程式には指数関数的な解があります。もしそれを減衰させようとしたら──そうした解をなくすために方程式に新しい項を加えたら──本来の解が失われるだけです」
「波動方程式としては異色よね」トゥリアも同意する。「弦の波動方程式のいいところは、初期条件を設定して、それが進展していくのを観察できること。弦を引っぱって好きなようにどんな形にすることも、どんな種類の運動をあたえることもできるし、その方程式から、未来のどの時間の弦の形もわかる。さらに、初期設定の測定値に小さな誤差があっても、まずいことにはならない。予測値に生じる誤差も、同程度に小さいから。
でもあなたの光方程式は、波動方程式よりも固体内の温度分布の方程式に似ている。あなたが、そうね……薄い石板のあらゆる場所の温度を知りたいと思ったら、信頼度の高い結果を得るには、石板じゅうの境界の温度を特定する必要がある。ひとつの端での温度と、そこから石板内部への勾配だけを手掛かりにしようとしたら、あらゆるわずかなデータの誤差が、石板のほかの部分へと進むにつれて指数関数的に爆発する。あなたの方程式のふるまいも、それと同様」
ヤルダは闇の中で考えこんだ。「そのアナロジーを続ければ、ある特定の場所での、ある期間の光のふるまいを計算するには……その四次元の領域の縁全体で光がなにをしているかを知らなくてはどうにもならない、ということですか? 最初になにをしていたかだけでなく、縁で起きているあらゆることと、さらには 最終的にそのすべてがどうなったかも?」
「まさしく」トゥリアはいった。「あなたが考えついた方程式は、光のふるまいを支配する というべきものだけれど、実用的には予測には役立たない。方程式が告げるあらゆることは、あとになってから検証はできるけれど、物語 の中間を信頼の置けるかたちで〝予測する〟には、物語がどのように終わるかを前もって知っている必要がある」
ヤルダはいった。「一本の弦が持てる波の速度はひとつだけです。しかしわたしたちは、紫色の光が赤い光よりも速く移動できるのを知っています──わたしたちの感知能力の範囲外に、もっと速い色相があるというのも、信じがたいことではありません。それなら、次に起きることを予測するにはたった一カ所の光の状態を知るだけでじゅうぶんだ、と考えていいものでしょうか? わたしたちがまだ把握していない──わたしたちの知る領域の縁のすぐむこうにある──ほかの波が、つねに、いまにもぶつかってきて予測を無効にしようとしている可能性はあります」
「いい指摘ね」それを聞いてトゥリアがいった。「じゃあ、あなたの好きなだけ速く動く光が存在する可能性を、受けいれるとしましょう……そのかわりに、現時点であなたの好きなだけ遠くに 存在する波という波を、わたしがあなたに教えてあげられることにする。そうすればあなたは、これ以上は望みようのない警告を受けとることができる。あなたのデータの範囲外の場所から速い波が来て衝突した、と文句をいうことはできない。そして、もし宇宙が永遠に続くのだとすれば、あなたは無限の現在を丸ごと知らなければならない。ある一瞬の時間において、あなたに対して秘密にできることはどこにもない」
「その先まで話を進めてください!」ヤルダはせっついた。「その仮説なら、わたしのかかえている問題は排除できることになりますよね?」
「そうじゃないわ!」トゥリアの声には、ヤルダがいまの話をじっくり考えることなく、まんまと罠にかかったことへの、いらだちと満足感がともにこもっていた。「あなたの方程式は依然として、些細な測定まちがいから指数関数的に増大しうる解を含んでいる。あなたには依然として 、次の数停隔 に目の前でなにが起きるかを予測することはできない。それは光の物理学のあるべき姿としてあなたの直観が告げるものと、ほんとうに一致しているの?」
「いいえ」ヤルダは認めた。姿勢を直してから小さく悪態をつき、肉が裂ける音に対して心の準備をする。いずれ釈放されるときに負う傷が少しでもマシになるのではと思って、ヤルダは一体化した皮膚の内側から両腕を数微離 引き離して隙間を作るようにしていた。だがヤルダの体は体で、自分が状況をいちばんわきまえていると思っていて、ヤルダはうとうとしたり、注意がよそへ行くたびに、肢の両端のあいだにできた新たな筋繊維の塊を引き剝がす必要があった。
その作業を終えたヤルダは、トゥリアの議論をあらためて順を追って考えてみた。「もし宇宙が永遠には続かないとしたら?」ヤルダはいった。「空間的に、あるいは時間的に?」
「その場合も、あなたはその境界でなにが起きているかを知る必要がある」トゥリアが答えた。「石板の場合と同様に。すべての端でなにが進行しているかを知る必要がある」
そこから生じる可能性をヤルダは考えた。宇宙の境界はなんらかの特別なルールに従っている──たとえばだが、波は単にそこではゼロでなければならない、だとか──と断言してしまえば、たぶん境界の内側では爆発させずにおけるだろう。だがそれは不細工な解決策で、なんの根拠もないし、より深い理解ももたらさない恣意的な制約でしかない。
「もし、端がないとしたら どうでしょう?」ヤルダは考えを述べた。「もし宇宙がこの星の表面のようなものだったら──有限だけれど、境界がなかったら?」
トゥリアが長いこと沈黙したので、ヤルダは心配になってきた。ヤルダは自由に動かせる新しい腕を成形して、壁を叩いた。「だいじょうぶですか?」
「もちろん! いま考えているところ !」トゥリアの声は幸せそうといってもいいほどで、まるでヤルダがとうとう、ほんとうに気晴らしになる斬新な案を提出したかのようだった。
やがてトゥリアが断言した。「それで指数関数的爆発が解決されると、確信を持っていえるわ。一周して自分自身となめらかにつながる振動で、球面のまわりを包むことはできる──でも指数関数的に増大する曲線は、以前の値には二度と戻らないから不可能よ」
ヤルダははしゃぎ声をあげた。「では、もし宇宙が球面の四次元バージョンだとしたら?」
「それでも物事がとても奇妙であることに変わりはないわ」トゥリアが警告するようにいった。「予測問題は、それまでとは反対の極端に飛び移っただけよ」
「どういうことですか?」
「二次元バージョンを考えてみて」トゥリアがいった。「ズーグマの周囲に円を描いたとしたら、その円の上にあるデータは、あなたの方程式と組みあわせて、市内で起きているあらゆることを教えてくれる。境界に関する情報が、内部に関する情報をあたえてくれる」
「でも、それは別に新しい話ではありません。なにが問題なんですか?」
「ズーグマの周囲の円は」とトゥリアが答える。「この世界のほかのあらゆるもの の周囲の円でもある。市の境界は、同時に、市の彼方にあるあらゆるものの境界でもあるのだから。だから、そのひとつの円上のデータからは、あなたの方程式の全球面上での解も見つかることになる」
「そうか……」
トゥリアはダメ押しするように、「四次元バージョンでいえば、それは光を幅数微離 、時間二停隔 間の小さな領域で測定すれば……宇宙の歴史すべてを通して光について知るべきありとあらゆることがわかる、と主張するようなものよ。あなたのちっぽけな領域の境界は、ほかのあらゆるものの境界でもあるわけだから」
ヤルダは皮肉っぽくブンブン音を立てた。「それが 、わたしの直観の告げる光の物理学と一致するとは、いえませんね」
「わたしの直観ともご同様」トゥリアの熱狂的な高ぶりは去っていたが、声に落胆を出さないよう、最善を尽くしていた。
「わたしたちはがんばったんです」ヤルダはいった。「がんばっただけの価値はあったと思います」
ふたりはしばらくのあいだ牢獄にいることを忘れられたが、たとえ自由になっても、これはかんたんに解ける問題ではない。
独房が静まっていると、市の時計塔のひとつで鳴る時 鐘 が耳に届く。雑音のせいで、あるいは寝ていて、あるいは不注意から、ヤルダは数回聞き逃していたが、時間の経過がわからなくなるほどの回数ということは決してなかった。だから、看守が来てトゥリアを連れていったのが三日目の午前半ばだと、ヤルダにはわかった。
判事による審問に違いない。ヤルダはいらつくまいとしながら、トゥリアが戻るのを待った。毎回の審問はつねに大人数の囚人を取り扱う必要があり、一回につき一、二時 隔 はかかる、とトゥリアに聞かされていた。
夕方になっても、トゥリアは戻らなかった。釈放されたか、罰金を支払う手配をするあいだ、ほかの独房に移されたかだ。
トゥリアは自由の身になったのだ、とヤルダは信じることにした。トゥリアは逮捕に抵抗しなかったし、ここの仕組みをよく知っているから審問でも適切な答えができる。罰金が少額なら、現金が判事の手もとに届くまで待たされることなく、約束手形を書かされて釈放されたはずだ。トゥリアはいまごろ〈単者クラブ〉で自分が解放されたのを祝うとともに、友人を助ける手立てを探っているのだろう。
ヤルダは隣の囚人たちの哀れなうなり声を心から締めだした。同情はするが、彼らの窮状に関わりあっていられるほど強い心は持っていない。判事の前に連れだされる順番がもうすぐ来るはずで、ヤルダはそのときにいうことを考えておく必要があった。
翌朝、看守たちがやってきたとき、彼らのランプの明かりでヤルダは目がつぶれかけた。彼女の鎖を壁から外すときに使われる道具を盗み見てやるつもりでいたのだが、すべては痛みを伴う明るさに覆い隠されてしまった。看守たちに鎖を引っぱられて独房から引きずりだされるとき、ヤルダはすばやく腕の一方を伸ばしてもう一方を縮め、力が中身の詰まった肉にかかるようにした。その肉と皮膚のあいだにヤルダはつねに隙間を作っておこうと苦心しているので、皮膚はたるんだ筒状になっていて、そこに力がかかるのは避けたかった。
よろめきながら広い階段をのぼった先は、焼けつくような日光に満ちた廊下で、鎖を後ろに引っぱって看守たちを怒らせたくなかったヤルダは、目を細くして廊下を足早に進んだ。囚人たちでいっぱいの部屋に入ると、また壁につなぎ留められた。ヤルダは用心しながら視線をあげた。一ダース以上の男と女が彼女の脇に鎖でつながれていて、大半の者は肢を融合されている。そのだれもがヤルダ同様、不幸そうで不安げだった。
ヤルダは自分が身震いしているのに気づいた。ここでは手助けをしてくれる友人を呼ぶことはできない。だれにもアドバイスや弁護をしてはもらえない。ヤルダの手引きとなるのは、聞かされたときには激しく反発したとはいえ、トゥリアの忠言だけだ。
判事が部屋に入ってくると──部下たちのとよく似たベルトを締めているが、少なくとも四本のナイフで飾りたてられている──堂々たる安定石のデスクのむこうにまわって自分の席に着いた。新しい染料のにおいがする紙の山を、助手が運んでくる。少しのあいだ、そのにおいに心が安らいだ。
最初の審問のあいだ、ヤルダは手順に注意を集中して、覚えられるかぎりのことを覚えようとした。告発は、若い男がパンを盗んで、警察から逃げたというものだった。男は否認しなかった。
判事は男に一ダースピースの罰金を申し渡した。「支払いの当ては?」判事は尋ねた。
「兄が助けてくれると思います」その低い声からは、男が恥じているのがわかる。
「この男の件の詳細を伝令に伝えろ。おまえは独房で待っているように」看守が男の鎖をつかんで、部屋から連れだした。
次の囚人も若い男で、個人の庭園に侵入したのだった。なにかを盗んだという告発はなかったが、罰金はさっきの窃盗犯の三倍だった。
審問の過程のことごとくが屈辱的なものだったが、ヤルダは自尊心を押し殺す覚悟ができていた。トゥリアは罰金の用立てを手助けすると申しでてくれていた。たぶんダリアが数ダースピースを貸してくれる気になるだろう。ヤルダがそれらしく謙虚になって改悛しているように見えさえすれば、日が暮れるまでにはここを出られるだろう。また、アントニアの運命に関してどれだけの責任が自分にあるにしても、そのことでいざこざを起こしてもなにか成果があがるわけでもなかった。その件とは無関係な暴力行為について、太った単者がひとりで警察に異議を申し立てたからといって、出奔者に関する法律の廃止を求めて議会に楯突く人が出てくるはずもない。
ヤルダの順番が来て、看守が壁から鎖を外し、判事のデスクの前にヤルダを連れだした。
「おまえはヴィトの娘のヤルダだな?」
「そうです、サー」父の名前を聞いて、胸がチクリとした。父がこの件を目にすることなど、絶対にあってほしくなかった。
判事はデスク上の書類をざっと眺めた。「おまえに対する告発は、まず第一に、自然界の理法と公共の利益に反する物質を所有していたことだ。この告発に異議はあるか?」
「ありません、サー」独房の闇の中でヤルダは、父親のいない子どもを世界からなくす薬を禁止することの愚を訴える演説を練習し、自分の完全無欠な論理の力がもっとも敵対的な聴き手の心さえ動かす光景を夢想していた。
「この告発に関して、一ダースピースの罰金を科す」
「ありがとうございます、サー」
判事はいらだたしげにちらりと目をあげてヤルダを見た。ヤルダが不安で顔を引きつらせているのを、罰金が軽すぎるという証拠として受けとめたかのように。「告発の第二は、四夜前、大公会堂前広場における、アシリオの子息であるアシリオの身体への過激な暴力行為だ。六人の証人から、おまえが投げつけた尖った石がアシリオに当たって、重傷を負わせた旨の供述がなされている。この告発に異議はあるか?」
「ありません、サー」
「罰金を軽減すべきなんらかの事情はあるか?」
ヤルダは躊躇した。いくらなんでも、正直な答えが権威への反抗や異議申し立てと見なされたりはしないのではないか? 真実を聞く気がないなら、罰金の減額について尋ねたりするだろうか?
「サー、わたしがアシリオに石をぶつける前に、彼がわたしに石を投げつけてきたのです。石はわたしに軽く当たっただけでしたが、わたしが石を手にすることになった経緯はそのようなものでした」
判事はデスク上の書類を見直してから、それを脇にどけると、冷ややかにヤルダを見あげた。「その告発の証人としてだれを申請する?」
「だれもおりません、サー」ヤルダは認めた。「ほとんどの人が空に目を奪われていました」説明を続ける。「また、わたしの友人がいたのは、広場の反対側でした」
「では、無根拠かつ卑劣な中傷に対して二ダースピースの罰金を科す」判事はいった。「さらに、わたしの時間を無駄にしたことで一ダースピース追加だ」
ヤルダの皮膚が震えた。ヤルダが謎の虫けらに肉を囓りとられつづけていて、それを追い払うにはこうすればいい、と体が信じているかのように。
「暴力行為に対しては」判事が続ける。「告発人は賠償金として一大グロスピースの支払いを要求しており、わたしもこれに同意する。加えて、ズーグマ市民に成りかわって、一グロスピースを科す。罰金の総額は、一大グロスと一グロス四ダースピースである。支払いの当ては?」
ヤルダは言葉を失っていた。公開解剖で入場料を取っているダリアでさえ、一年かかってもそんな額は稼げないだろう。トゥリアやリディアにとっては生涯賃金だ。
「支払いの当ては?」判事がせっつくように繰りかえす。
「ありません」ヤルダはいった。「そんなお金はどこにもありません」
判事は呆れたようにうなった。「おまえのポケットからそれだけの現金が出てくるなどとは思っておらんわ、この馬鹿者が。おまえのために金を用意できる者の名前を、伝令に伝えればよいのだ」
「それが可能な知り合いはいません」ヤルダは声を強めた。一大グロス ピース? そんな現実離れした要求をトゥリアに押しつけることはできない。友人すべてを返済不能な借金に埋もれさせるわけにはいかなかった。「賠償金の……額の大きさを再考していただけないでしょうか?」ヤルダは懇願した。
「わたしにできるのは」からかうように人の善さそうな声になって、判事はいった。「おまえを一旬 間、独房に戻して、おまえが 自分の手持ちの札 を再考できるようにすることだ」そして看守に合図をした。
地下室へ連れもどされる途中、ヤルダは何度も階段で足を踏みはずしかけた。姿勢を整えなおすまで、看守は待っていてくれた。たぶん、とんでもない罰金の額に驚いて、これ以上苛酷な目に遭わせる必要はないと思うようになったのだろう。
看守がいった。「闘う相手は慎重に選ぶべきだったな」
ヤルダはいった。「相手がだれかさえ、わたしは知らなかったのよ」
看守は笑い混じりにブンブンいった。「これでよくわかったわけだ」
最初、ヤルダは事態が見かけどおりであることを信じるのを拒んだ。一大グロスピース? そんなのは残酷なジョーク、ヤルダの〝卑劣な中傷〟に対するお仕置きに違いない。一日か二日もすれば、ふたたび判事の前に引っぱりだされて、ほんとうの罰金の額を聞かされるのだろう。
だが、牢獄での六日目の終わりを告げる時 鐘 を耳にしたとき──その少し前に床に撒かれた腐った小麦を、最初は蹴飛ばしたが、そのあと手探りで搔き集め、完全に平らげたときに──一瞬、頭が澄みわたった。ヤルダは自分の心の一部が、おかしな仮定を前提にしてものを考えていたことに気づいた。その仮定とは、ヤルダを釈放する権限を持つ人々が、彼女の運命に思いをめぐらせながら日々を送り、彼女の苦難に心を痛め、彼女の受けている罰の厳しさを問いなおしている、というものだ。そして、感情をまったく欠く人などいないのだから……ヤルダにとってどうしても耐えがたいことは、つまるところ、その人たちにも耐えがたいだろう。ヤルダの心を押しつぶしかねないこんな不当な処遇は、結局、それを科す側の人々の決心も、摩耗させるはずだ。
しかし、現実はまったくそんな風ではないのだ。判事も、看守たちも、市議会も、告発人も、たがいの行動を容認し支えあって、ヤルダの拘禁という重責を等分に負っているので、それは重責でもなんでもなくなっている。個人としては、だれひとり として、一体となっておこなったヤルダに対する仕打ちに責任はない。ヤルダはこの独房で死を迎えるかもしれず、そのとき連中のだれひとりとして、わずかでも心の痛みを感じて悩むことはないだろう。
いまヤルダにできるのは、一旬 間待ってみてから、自分の状況を正直に説明した伝言をトゥリアに送ることだけだ。ヤルダは友人たちに借金をさせてまでお金を集めてもらおうとは思わないが、友人たちが〈単者クラブ〉で片っぱしからヤルダの話をしてまわれば、たぶん客のうちの裕福な何人かが、ヤルダの窮状に同情してくれるだろう。たぶん一年か二年かければ、罰金の額のお金が集まるだろう。
筒状にした両腕のあいだに、また新たな細い肉の橋ができていた。ヤルダは怒りをこめて筋繊維を引っぱり、最後の一本がぷっつりと切れるまで引き裂いていった。どれだけ長くここにいても、看守たちがヤルダを釈放してくれるわけではない。
投獄八日目の朝、目ざめたヤルダが足を動かすと、すでに床の上に固いものがあった。両手がいっぱいになるまで小麦を一粒ずつ拾ってから、手を傾けて中身を注意深く口の中に落とす。
いったいなぜ食物が必要なのだろう ? なぜ単に光を作りだして、必要なエネルギーを無料で入手しないのか? いまのヤルダは、子どもと違って成長してはいない。新しい物質を体に加える必要はないはずだ。
けれど、いまヤルダの体にある物質は、無秩序になりつつある。彼女の肉を構成する顕微鏡レベルの基礎単位は配列が乱れていく。植物にとっての土、動物にとっての食物は、成長と修復のための物質を提供しているにとどまらない。それは低エントロピー の源でもあるのだ。土を生じさせる岩は、高度に秩序化されている。そして秩序なきところでは、人をひとつの方向と別の方向に同時に押すようなもので、エネルギーは無駄になる。生命は、世界のゆっくりとした崩壊から生じる時の矢に乗っている。
だが、体の中の秩序が少ないいま、それでどうやっていけばいいのだろう? ヤルダをここに捕らえている連中は、彼女を飢え死にさせはしないだろうが、正気を保っているにはどうしたらいいのか?
「わかったわ、トゥリア」ヤルダはささやき声でいった。「知的活動ってやつをやってみせてあげる」
トゥリアは、もし宇宙が球面と似ているとしたら、ヤルダの方程式は森羅万象を不条理なほど予測可能なものに変えるだろう、といっていた。トゥリアの議論はもっともらしかったが、ヤルダは自分のアイデアを丸ごと放棄する前に、問題点をもっと深く理解したかった。
球面上では、自分の方程式の基本解が球面調和関数 になることにヤルダは気づいた。以前、地震学の講義でいちどだけお目にかかったことのある種類の波形だ。球面全体で成りたつどんなに複雑な解でも、それぞれの調和振動にその寄与をあらわす適切な係数をかけて足しあわせることで表現できる。
ヤルダは闇の中で皮膚に方程式を浮かべながら、順に計算を進めていった。まず、物理的パラメーターを固定する。球の半径と、波面の間隔。その場合、波の経度方向の振動数が上昇すると、緯度方向の振動数が低下する。赤道とあらゆる子午線を整数個の波で包む必要があるので、可能な波の種類は有限個しかなく、考慮すべき調和振動はその有限個だけになる。
ヤルダは計算を触知できるものにするために、二、三の例を皮膚にスケッチした。北半球と南半球は同一なので、ヤルダは半球分だけを扱うことにして、波がいちばん強くなるさまざまな緯度の円沿いに、波を描いた。
等緯度を通るあらゆる円に沿って──どんなに大きくても小さくても──ある特定の調和振動は同じ周期の数だけ変動し、弾かれた弦の調和振動と同じようにそれぞれをはっきり区別することができる。だから、方程式に従うどんな波 でも、どの円 でもいいからその上での値がわかれば、それぞれの調和振動に分解し各振動の相対的な強さを決定でき、それによって全球面での解を得られる。さらに、この方法において〝極〟をどこにするかは完全に任意だ。原理的には、どこであろうとも同じ解析をおこなうことができる。
だがそれは、原理的には 、にすぎないのでは? たとえば、宇宙の赤道を進んでいる波が、すでに一微離 あたり六大グロスという高密度になっていたら、幅わずか一、二歩離 の円の、その大きさに比例して細かい波の数を測ることなど、望むべくもないだろう。そして問題をさらに厄介にしているのは、高次の調和振動ほど、極に近づくにつれてその強さは急速に減衰して、調和振動と関連した波面は測定不能なほどたがいに近すぎるのと同時に、とてつもなく弱くなる。
こうなると、トゥリアの反論は純粋に哲学的なものでしかない。この世界のどの場所の小さい円にも宇宙の光の全歴史が書いてあるというのは、とてもつきあっていられたものではない発想だ──野心的な占い師にとってだけは例外かもしれないが、まったく使いものにならない。ヤルダは不安な思いを脇に置いて、理論の残りの部分が自分をどこに導くかを考えてみる覚悟を固めた。ジョルジョの最初の批判のように、ほかの物理学者たちがやすやすとこの理論の致命的欠陥を見つけるかもしれないが。ヤルダ自身でさえ半信半疑だとしたら、半分だけ正しくてもなんになる? ヤルダはほかの科学者たちに、このアイデアを追求してもらう必要があった。投獄されていようが自由の身だろうが、ヤルダひとりでは、この理論から派生する問題のすべてを探究しようにも手のつけようがない。
ヤルダは前かがみになって、痛む両腕が作る輪に頭を載せた。肢の中の疲れきった筋肉を胸まで引きずり戻して、じゅうぶん休みをとった肉と入れ替えたかったが、その一連の肉の移動を安全かつ無痛でおこなう手引きになるような本能も経験も持ちあわせがなかったので、この願いはかなえられそうにない。子どものときからたくさんの姿形を試してきたが、皮膚の位相幾何学が変化するという経験は今回がはじめてだった。
両腕の肉と皮膚とのあいだに隙間を作っている部分に頭頂部を割りこませて、肉どうしが触れあわないようにしておいて、少しのあいだ緊張を解く。肉を弛緩させていられる気分はすばらしかったが、この姿勢をやめてほんの一、二分隔 もすれば、両腕がズルズルと融合をはじめるのはわかっている。
隙間のまわりのたるんだ皮膚が折り重なるように皺になって、頭頂部をなでた。気晴らしにその皺を前後に動かして、頭頂部をマッサージする。面白いことに、皺が自然のうちに等間隔の〝波〟を形成していくことにヤルダは気づいた。数ダースの振動が筒状になった皮膚を周回している。ヤルダは球面調和関数に命を吹きこんだようなものになっていた──いまのヤルダは、どう大ざっぱにいっても球ではない、という点を別にして。いまのヤルダは、むしろ円環だった。
球ではなく 、円環 。
それはなにを変えることになるだろうか ?
円環もまた、指数関数的爆発を防ぐことができる──球の場合と同様、指数関数的に増大する曲線で円環を包むことはできない──が、基本解は異なるだろう。
ヤルダは頭をあげて闇の中を見つめた。円環は曲がっている必要さえない。数学的には、円環を切りひらいて平らに広げ、長方形や正方形に変えることもできる。全体が容易にもとどおりに組みたてられるよう、正方形のそれぞれの端での波の値が反対の端と一致することさえ保証できればいい。
基本解は、正方形をどちらの方向に横切っても、きっちり周期の整数倍だけ変動しもとの値に戻る波になるはずだ。そのふたつの整数の二乗の和は、定数と等しくなくてはならない──宇宙の大きさと、波面の間隔との関係を固定するために。
ヤルダはいくつかの例をすばやくスケッチした。図が描ける程度に小さいが、複数の方法で二乗の和に分解できるだけ大きい定数を選ぶ。