「そのとおりですね」ヤルダはいった。「こんなことがあるなんて」この世界と、太陽を取り巻くガス体が共有している時の矢は、疾走星の時の矢とは非常に違っていて、トゥリアの仮説上の旅行者は、光の爆発の一部分を、自分にむかって集束するものとして見ることになるだろう──エントロピー増大の法則を破っているという点で、部屋いっぱいの煙が一カ所に集束していって燃料に戻るようなものだ。明らかにエントロピーは、四空間のあらゆる方向に同時に増加することができない のだが、奇妙な不一致の実例が目の前にぶら下がっているのは、どうにも落ちつかなかった。
ヤルダは、話を複雑にする問題を脇に押しやった。光方程式から指数関数的爆発を追いだそうとするだけでも、難題山積なのだ。ヤルダはあと二旬 もしないうちに、自分の仮説の要約を自然科学部集会で発表する予定になっているが、ジョルジョが見つけた不備に対する納得のいく解決策を提示できなければ、ジョルジョは講演を中止にするだろう。
トゥリアの部屋に入ると、アントニアが染料と紙を脇に置いて、床にすわりこんでいた。炎石のランプが上の棚でパチパチと音を立てて、頼りない光を投げかけている。アントニアはたぶんアントニオ宛ての新たな手紙を書こうとしていたのだろうが、ヤルダとトゥリアがそばに行って挨拶したとき、彼女の皮膚から文字は消えていた。ヤルダは助言か励ましをあたえてあげたかったが、アントニアが直面しているような選択について、いったい単者になにがいえるだろう?
「マジックショーはどうだった?」無理のある陽気な声でアントニアが訊いた。
「もうすっかり場をさらわれたわ」トゥリアは答えて、ショーの終演後に展開された天空の鏡のトリックの説明をした。
「通りが騒がしいなとは思ったの」アントニアはいった。「それで窓から外を見たんだけど、そのときにはもう終わっていたみたいね」
「染料を使わせてもらってもかまわない?」ヤルダは尋ねた。疾走星の観測報告を一刻も早く仕上げて、夜明けにほかの都市へむけて発つ配達人に渡せるようにしたい。
「全然かまわない」アントニアは染料の瓶に蓋をすると、ヤルダのほうにすべらせてよこした。「まだ考えをまとめているところだから。朝までは使わないわ」
ヤルダは部屋の入口のカーテンが左右に分かれるのを見た。体ごと振りむいて顔をそちらにむけたところで、侵入者たちのひとりが叫びたてた。「床にうつ伏せになれ! おまえら全員だ !」そのときには四人の男が縦列で部屋に入りこんできていて、さらに後続が控えていた。男たちは警察のベルトを締めていて、ナイフを鞘から抜いていた。
アントニアが泣き言をいいはじめた。「ごめんなさい! トゥリア、わたしが悪いの! きっとだれかが──」
トゥリアがいった。「黙っていなさい、あなたはなにも知らな──」警官のひとりがナイフを突きだして、トゥリアに近づいた。
「うつ伏せだ、さもないと体を切り裂くぞ!」
トゥリアはひざまずいてから、胸を下にして床に伏せた。ヤルダは助言がほしくてトゥリアの後眼と視線を合わせたが、仮にそれがなにかを伝えようとしていたとしても、ヤルダには読みとれなかった。
ヤルダはいった。「アントニア、わたしの後ろに隠れて」そしてトゥリアを脅した警官のほうへ進んだ。その男は小柄だった。もしナイフがなければ、ヤルダは相手を好きなように扱えただろう。「窓から出ていきたいの?」ヤルダは男をからかった。「ここにはなんの用もないでしょ。弱いものいじめならよそでやって」
男が自信に満ちてナイフを振りかざしたのは、それが服従を促す力を持つことを当然としているからに相違なかった。ヤルダは止まることなく、男にむかって前進した。この対決のために新しい肢を成形する必要もあるまい。両手でこいつをつかまえれば、その途中で腕を一本失っても、残った一本ではるか下の通りに叩きつけてやれる。
「お願い、ヤルダ、やめて!」すがるようにいったアントニアは、取り乱していた。「わたしは家に戻るから! あなたが騒ぎを起こす必要はないわ!」
ヤルダはそれを無視した。この考えなしどもに、他人の人生の邪魔をするなんの権利があるというのだ? こいつらのひとりが通りの丸石に脳をぶちまけたら、ほかのやつらはなにを優先すべきか考えなおすだろう。
トゥリアが冷静に呼びかけてきた。「ヤルダ、もしあなたが抵抗したら、わたしたち三人ともが殴られる。もしあなたが、こいつらにひとりでも危害を加えたら、わたしたちは三人とも殺される」
ヤルダは正面の男を凝視していたが、男の勝ち誇ったような嘲笑から無理やり目を離して、そいつの仲間たちが後ろに長い列をなして待機し、ナイフをかまえているのを見やった。取り押さえられるまでに三人か四人は片づけられるだろうが──トゥリアのいうことが正しければ、引きあう成果とはいえない。
ヤルダは膝をついて、床に腹ばいになりながら、激しい怒りを押し殺していた。身体の力が強くても無意味だ。動機の正当性も無意味だ。市議会はこの男たちに、出奔者をつかまえて連れもどす権限をあたえていた。アントニアがどんな人生の計画を立てていようと、問題にはされない。
ヤルダと対峙していた警官が片足を彼女の背中にのせ、両腕をつかんで後ろ手にさせると、ほかの警官から硬石の長い鎖を受けとった。警官は輪になった鎖の一端をヤルダの腕の片方にするりとくぐらせると、ベルトから小瓶を取って、まっ赤な樹脂を数滴、ヤルダの掌に振りかけた。すさまじい激痛が走ったが、ヤルダはわめき散らしそうになるのを必死でこらえた。警官がヤルダの掌どうしを押しつけあう。皮膚と皮膚がぴったり貼りつき、それ自体はそれほど耐えがたくもないのだが、樹脂のせいでヤルダの体は、ごくふつうの皮膚表面を、体内にまちがってできた隔壁、壊す必要がある一種の病気として扱った。
ヤルダはしばらく目を閉じて、意識を失うまいと抗 った。いま自分の体に起きていることは、これまで決して知らなかったことではない。両腕を融合させられてズーグマ市中を引きずられていく囚人を、これまで何人見かけたことか? そのときのヤルダは、ほかのみんなといっしょに目を逸らしていた。人殺しや盗っ人が相応の報いを受けているだけだ、と。
警官はヤルダの皮膚にナイフの切っ先を手順どおりに走らせていき、やがて明らかにポケットの存在を示唆するひだを見つけた。
「ここを切りひらいてやろうか?」男はいった。
ヤルダはポケットをひらいた。男はそこに手を突っこんで、ひと握りの硬貨と、ヤルダの分の角剤が入ったホリンの小瓶を取りだした。
部屋の片隅で、アントニアが彼女を取り押さえた警官に懇願していた。アントニアは両手をロープで縛りあわされていたが、彼女とトゥリアが融合樹脂を使われずにすんだのは、疑問の余地なく、命令にすぐ従ったことへの見返りだった。このあと通りに連れだされてしまえば、アントニアはあんないいかげんな束縛からあっさり抜けだして、すばやく逃げだせるだろう、とヤルダは思った。
ヤルダを痛めつけていた警官が、アントニアのところへ行った。「おまえは出奔者なのか?」
「そうです、サー」
「だが、双のところに戻る意思があるんだな?」
「そうです、サー。でも、この友人たちは知らなかったんです。わたしは自分の双は死んだと、この人たちに話していましたから。わたしは自分から双のところに戻りますから、友人たちは放してあげてください」
アントニアが取り引きをしようとするのを、警官は面白そうに聞いていたが、「このパトロール隊はおまえを捜しにきたのではない」といった。「自分から正直に申しでてくれたのはありがたいことだが。もともと用があったのは、その太ったやつ、単者だ。こいつは市議会議員のご子息に暴行を加えた」
警官はヤルダのところに戻ってくると、彼女の振動膜を蹴りつけた。
部屋が砕け散り、壁が崩れ落ちて瓦礫になった。ヤルダは身をよじって絶叫し、喧噪と苦痛の破片の中に埋もれていった。