〈孤絶山〉という名前は、移動範囲が限られていた時代に単純な無知からつけられたものなのか、それとも、このレッテルは、どんなライバルの主張も退けようとしての空威張りなのか、ヤルダにはわからなかった。いずれにせよ、信頼の置ける測量士たちが、〈荘厳山〉はふもとから頂上まで高さ五街離ストロール 十一区離ソーンター で、対する〈孤絶山〉は五街離ストロール 区離ソーンター しかない、と確定したのはずいぶん昔のことだ。

 惑星の中心からより離れているという意味でなら〈孤絶山〉の頂上のほうが高い のだ、といまだに主張する人も若干いる。だが、この問題に完全な決着をつけるには、測地学はあまりに不正確な技術にとどまっていたし、局地気候が気圧にあたえる影響はその基準を同様に役立たずなものにした。どちらの山頂がより星々に近いかは、だれにも判定できなかった。

 いまヤルダにはっきりわかるのは、垂直方向を指す場合には、街離 はまったく別の、もっとお気楽でない呼び名をあたえられるべきだということだった。ズーグマの平らな道でなら、ヤルダは一 に七街離ストロール は楽に歩ける──しかし、〈孤絶山〉の斜面の曲がりくねった道をじりじりとのぼってヤルダを運んできたトラックは、丸一日以上必死に走って、その距離の半分をのぼるのがやっとだった。その地点で道幅が急に狭くなり、トラックは進みようがなくなってしまう。

 ヤルダが消耗品を小さなカートに詰めるのを、運転手のフォスコが手伝ってくれた。ヤルダほどの体格でも、必要なものをなにもかも、体袋やポケットに収めることはできない。予定では、フォスコはここで待機していて、ヤルダと交替する観測者のレナトを、ズーグマまで乗せて帰ることになっている。

「こんなところで平気ですか?」ヤルダは訊いた。明確な目的がある自分自身の登山よりも、長い待機のほうが、より孤独で、精神的に疲れる仕事に思える。

「おれはこの交替に何ダース回も関わってきたよ」フォスコが力強くいった。「あんたは自分自身の健康のことを考えるべきだ。体が温かくて気分が悪くなりはじめたら、即座に──」

「手近でいちばん固まっていない土に横になる」ヤルダが言葉を引きとった。「そして体温が平常に戻るまで起きあがってはいけない」トゥリアはその点を力説していた。体を冷やすのには、空気が重要な役割を果たしているが、ヤルダが〈孤絶山〉の頂上に着くまでには、ふだんよりもずっとゆっくりとしか熱を運び去らなくなっている。ヤルダの体の代謝で増えていく熱エネルギーを除去するには、太古からのひんやりしたこの世界の深遠と直接、しっかりとつながる以外にない。

 朝の太陽がまだ低いうちに、ヤルダはフォスコに別れの挨拶をして、狭い山道をのぼりはじめた。フォスコが視界から外れると、ヤルダはダリアにもらった小瓶を体のポケットから取りだして、ホリン角剤二個を飲みこんだ。口に広がる苦味を味わう。結局、ヤルダが、セイタカアワダチソウの花びらをおいしいごちそうだとしてきた何世代もの女たちの末裔だからといって、その植物から抽出される抗分裂剤の効能がかならずしも保証されるわけではないのだ。

 ヤルダは前方の道を見渡した。細長い木が小道沿いに並び、岩の割れ目という割れ目から低木が生えでている。植物は空気が薄くても平気なようだったが、山の頂上の建物内ではいっさいの植物を、鉢植えであろうと育てないよう、ヤルダは警告されていた。のぼりを再開したヤルダは、木々に目を走らせてトカゲを探した。ゆさゆさと揺れる枝は、動物もこの高さで元気に育つことができるという、心強いしるしだ。

 小道がむきを変えて、斜面の端に近づいた。木々のあいだに、ズーグマからの途中で横断してきた平野が垣間見える。この高さからだと、トラックで延々と通り抜けてきた砂塵のもや が、取るに足らない限られた範囲のもので、はるか眼下で薄まって消えているのが見てとれた。低木がまばらに生えた平らな茶色の土地は、風が刻んだ網目状の浅い溝で飾りたてられている。長い年月にわたって、平野は風と砂塵にすり減らされてより平らに、より低くなる一方、もっと耐久性のある岩と草木による保護という適切な組み合わせが、山を同じ運命から救ってきたことに、疑問の余地はない。ヤルダに想像困難なのは、その過程全体の起点だった。誕生時のこの世界の表面は、なめらかだったのだろうか、ごつごつしていたのだろうか? 〈孤絶山〉は、のっぺらぼうの石板から彫りだされた像のように、大地が刻まれてこの世に生まれたのだろうか、それとも、それは最初からそこにあって、太古の周囲の土地にそびえ立ち、その最初に持っていた利点を維持ないし増強してきたのだろうか?

 トゥリアは、かつて巨大な始源世界が存在し、惑星という惑星、星という星は、それが破壊されたあとに残った破片だと信じている。ヤルダはそれほど確信がなかった。非常に凝集した物質の引力は、途方もないものだったはずだ。原始惑星を深部まで貫く太陽石の巨大な鉱脈をなめつくす規模の炎でさえ、惑星を破砕して、その結果生じた世界を宇宙空間にばらまくことができたとはとうてい信じがたい。とはいえ、過去に燃えあがった岩と比べたら、太陽石も大したものではないのかもしれない。かつて多くの世界をまき散らしたような種類の岩が、現在まで存続しているほどに、まして存在を確認して研究できるほどに、安定したものだなどと期待するのは、自分自身の母親と会うことを望むくらいに純朴なことなのだろう。


 午後も半ば、ヤルダはうんざりした気分になっていた。のぼりはじめたときには、小道が急傾斜なのは迅速な行程を約束してくれているように感じられた。目的地へむかってのぼるのが速ければ、その分望ましい。だが、休みを入れずに果てしなくのぼっているうちに、ヤルダは腹が立ってきた。

 強情さだけがヤルダを前進させていて、だがそのせいで休まずに進む時間が長くなりすぎてしまった。吐き気と震えを感じて立ち止まらざるをえなくなったとき、ヤルダはようやく、自分が自分にしでかしたことに気づいた。いろいろな徴候をふつうの疲労のあらわれとして軽視し、強い不屈の精神で克服できると自分にいい聞かせていたのだ。

 自分の愚かさを呪いながら、ヤルダは小道に寝転んで、割れ目のあるでこぼこな岩の地面で体を冷やそうとした。土の寝床が望ましいのだが、体に力が入らず気分も悪くて、とても探しにいけない。肉の中を熱が移動するのが感じられ、チクチク痛む塊が出口を探しもとめる様は、罠にかかった寄生虫の群れのようだった。ここで死ぬのかという考えにとらわれる。忠告はされていたのだから、いいわけはできない。解剖されたヤルダの死体を勝ち誇ったように指さしながら、ルドヴィコは女が観測所を使うのをすべて禁止するだろう。「この膨れあがった生き物がどれほど大きかったことか! 質量に対する表面積の割合が男の半分以下 なのに、こんな苛酷な高度で彼女に生き延びようがあっただろうか?」

 夜になって、ヤルダは立ちあがろうとしてみた。三度目の挑戦で成功した。まだ吐き気がするし、震えもおさまっていない。カートからこて を出して、小道を外れる。土が剝きだしのところはなかったが、低木の茂みがあって、そこなら掘りかえせるはずだと思った。健康なときなら指だけでできただろう作業だが、いまヤルダが木の根沿いに地中に押しだした指は、根を引き抜くには力不足だった。こてで木を叩き切るようにして、土の浅い層を取り除けるくらいまで木々の幹を切断する。そこに横になると前後に転がって、長虫を押しつぶしたり、千切れた根で皮膚をこすったりしながら、体に触れる土の面積を最大にしようとした。

 しばらくすると頭が澄んできたのが感じられ、木々の隙間から星々を見あげた。幻覚の名残がつきまとう。すでに観測所に着いていて、器具を調整しながら、星の尾の色が混ざりあわないのはなぜだと考えていたのを覚えている。頭上で輝く花を、光学機器の欠陥だとも思った。ガタガタ揺れるトラックで運ばれたせいで表面が傷ついて、迷光をいたるところにまき散らしているのだと。

 花々の冷たい輝きについて考えていたヤルダは、なぜ自然はもっとかんたんに彼女の体から熱を取り除く方法と出くわさなかったのだろうと思った。熱エネルギーを単純に光に変えて、宙に放りだすわけにはいかないのだろうか? 植物は土から抽出した化学エネルギーを、光と、少量の熱と、新しい化学エネルギーに変え、最後のものは種子やほかの組織に、より利用しやすいかたちで蓄えているものと考えられている。動物は、その二次的燃料を燃やし、そのエネルギーを使って筋肉を動かしたり、体を治したり、わずかな光を作って体内信号に使ったりしている──だが残りは、処理が厄介な熱として浪費される。そうするかわりに、その熱をもっと光に変えることがなぜできないのか? ほかのあらゆる生物の場合は、花のように輝くことができたら、きっともっと楽に生きられるのに、なぜヤルダの祖父の輝く皮膚は致命的な病状を意味していたのだろうか?

 ヤルダはやっとのことで立ちあがると、小道に引き返した。心にはまだ少し歪みがあって、カートがそんなに長いあいだ、だれにも邪魔されずにそこに置き去りになっていたのは変だと思った。だれかが偶然見つけて、持ち主を探しに来ても──でなければ貴重品を漁りまわっても──いいくらいの時間が経ったはずではないのか?

(なにを考えているの)

 カートからパンを出して、地面に腰をおろし、半分食べた。その時点で体が突然、もうじゅうぶんに食べたというしるしを示した。食べたものが落ちつくまで一、二分隔ラプス 休んでから、のぼりを再開したが、今度はゆっくり歩いて、危険の徴候に注意を怠らなかった。


 太陽が眼下の平野の彼方に沈みかけて、埃っぽい茶色の溝に影が伸びるころ、ヤルダは観測所にようやく近づいた。レナトが建物の外にすわっていた。自分と入れ替わりにだれが来るのかをレナトは知らなかったが、日程は知っていて、ヤルダはそれに遅れた。

 ヤルダは思わずレナトに大声で挨拶したが、自分自身にさえそれはくぐもっている上にひずんで聞こえた。そういえば、話しかけた相手に声が届かないことも忠告されていたのだった。近くまで行くと、レナトの胸に言葉が浮かんでいるのが見えた。『ずいぶん時間がかかったじゃないか?』

『景色を味わうために立ち止まりすぎました』とヤルダは返答した。

『今夜じゅうになにもかもをきみに見せる必要がある』ヤルダがそれを読んだという合図をするのを待ってから、レナトは言葉を書きかえた。『ぼくは朝には発たなくてはならない』予定の時間ちょうどに姿を見せなかったからといって、フォスコがレナトを置き去りにするとは思えなかったが、遅れが生じたのはヤルダのせいであり、レナトに下りの道を急がせるような圧力を少しでもかけるのは、不公平というものだろう。

 レナトは最初に、居住区画をヤルダに見せた。あとでヤルダがカートから中身を補充することになるだろう食料貯蔵室、雑草を取り除くのが楽そうだとヤルダも認めるほかはない屋内寝床、ランプや燃料、各種道具類がしまってある倉庫。『トイレはない』レナトが描書した。『申しわけないが』

『農場育ちですから』ヤルダは返事をした。

 研究室には、紙と染料の在庫がまだじゅうぶんにあった。ヤルダはどちらも少ししか持ってこなかった。下書きやメモや概算は自分の皮膚でして、紙は最終の洗練された結果用に節約する習慣がついている。

 望遠鏡そのものは建物内にはなかった。十歩離ストライド 長の箱の適切な位置に透明石の分厚いレンズ数枚が められ、箱の側面は支柱と桁で構成され、散乱光が光学装置に入りこむのをさえぎるよう計算された位置に数枚の細長い板が配置されているだけだ。望遠鏡の台座を動かす機械類と観測者席は、望遠鏡基部の一種の旋回する小部屋の内部に設置されていた。

 ふたりはその小部屋に入った。弱まっていく太陽の光の中で、レナトはメンテナンス日程を記した紙を指さした。ヤルダはズーグマでその写しを読んできたと答えた。知っておく必要のあることの大半はトゥリアからすでに聞かされていたが、恐ろしくなるほど大量の鏡石の歯車やぜんまいを持った追跡駆動装置を目の前にするのは、なにか違った体験だった。もしそれが壊れたら修理しなくてはならないことを考えると、ダリアに切り刻まれた樹精の一体を生き返らせようとするくらいに気力をくじかれた。

 小部屋の中にはランプがなく、それでもレナトは自信に満ちて動きまわり、ヤルダの皮膚を読みとることもできるようだった。天文学者は皆、トゥリアのような視力を持つようになるものなのかもしれない。ぼんやりした灰色の染みがレナトの胸にあらわれたとき、ヤルダは触らないとそれを読みとれないことをおずおずと身振りで伝え、レナトは両腕を広げて許可をあたえた。ヤルダはレナトの体の上で掌をすばやく動かした。『望遠鏡をどれかの星にむけて、それを追跡してみせてくれないか』とレナトは描書していた。『きみが操作方法をわかっていれば、ぼくは心置きなくここを離れられる』

 ヤルダが大学で使っていたのはこれよりずっと小さな望遠鏡だったが、原理に違いはなかった。観測者用ベンチの脇に立って、手探りで時計をチェックする。シーサが地平線のずっと上にのぼっている時間だった。ヤルダは暗記していたこの星の天球座標から、ふたつの別の時間、次のチヤイム とその次のチヤイム の高度と方位角を走り書きで求めた。クランクをまわして望遠鏡を動かし、最初の位置にむける。望遠鏡はきちんと調整されていて、驚くほどなめらかに動いたが、ヤルダが力をこめて方位ハンドルをまわすと小部屋の壁もレールの上で回転するのは、なんとなくシュールなものがあった。続いてヤルダは、連続するチヤイム のあいだに星の位置に生じるふたつの角度の変化を計算し、追跡駆動装置にその数字を設定した。

 駆動装置のぜんまいを巻き、ベンチを下げて自分が入れる余裕を作ってから、ヤルダは望遠鏡の下に寝そべった。接眼レンズひとそろいが脇のラックに入っている。シーサの尾がすべていちどに目に入るような倍率のレンズを選んで、ホルダーに塡めた。

 三つの目をつむって望遠鏡を覗きこみ、焦点を合わせる。日没のほんとうに直後で、空のほとんどは灰色にしか見えなかったが、ヤルダの予想だとシーサの尾はすでに視界に少しだけあらわれているはずだった。もういちど時間を確認し、いくつか計算をする。なにかが見えていなくてはおかしい。手探りして方位ハンドルをつかむ。その動きに少し遊びがあって、ヤルダが慎重に調整した精密な刻印を大ざっぱな目印程度のものにしてしまっていた。神経を集中させて、ハンドルをわずかだけ前後に動かすうちに、赤と橙色の細いすじが視界の片隅にあらわれた。時間はどんどん迫っている。尾の全体が見えるようになるまで、ヤルダは調整を続けた。

 時計が鳴ったチヤイム 。ヤルダは追跡駆動装置の歯止めを外した。機械装置は星が天の極を中心にまわるのを無期限に追いつづけられるような高性能なものではなかったが、望遠鏡は現在の位置から予測された位置まで一定の動きをするので、観測者は一鳴隔チヤイム 間、負担の大半から解放され、星の尾を中央に捉えつづけるためにほんの二、三の微修正を加える余裕ができる。

 骨の折れる仕事が終わって、ヤルダはようやく緊張を解くと、あらためて望遠鏡の能力に驚嘆した。灰色の薄暮の中でさえ、シーサの尾はすでに明るく鮮明だ。もっとも明るい星々は距離の近さが明るさの理由で、それゆえに決まって尾は短い。太陽に近い隣人が高速で通過することは滅多にない。だがシーサは例外で、色を幅広くまき散らすくらいに速い、明るく輝く変わり種だ。ヤルダはシーサを最初に観測するつもりだった。

 ヤルダは望遠鏡の下から体を押しだして、自分の努力の結果をレナトにチェックしてもらった。レナトが接眼レンズに目をつけるには、ベンチの上に支えを置いて体を持ちあげる必要があった。レナトはまちがいなく一分隔ラプス 間は、その姿勢でぴたりと静止していた。それからベンチから下りると、ヤルダの肩に手をかけた。

 レナトは掌に描書していた。『お見事。きっとうまくやれるだろう』


 レナトは自分が外で眠って、ヤルダには岩屑のない居住区画の寝床を使ってもらうといって譲らなかった。ヤルダは屋内寝床をレナトといっしょに使ってもまったくかまわなかったのだが、相手も同じように感じていると思うのは無遠慮だと判断した。清潔な白い砂は独特のつるつるした肌触りだったが、石の基部は確実に砂を冷たく保っていて、疲れきっていたヤルダはその贅沢な環境にたちまち屈した。

 ヤルダは夜明け前に目をさまし、カートの中身を出して、下山するレナトが自分のノートや器具を詰められるようにした。レナトが出発したとき、薄い空気の中に響くくぐもった足音は、異様に遠くからのように聞こえた。ヤルダが次に人と顔を合わせるのは、三ステイント 後になるはずだ。ルドヴィコはせいぜいで二ステイント しか認めないだろうと思って、ヤルダは四ステイント を申請したのだが、ヤルダのメコニオ小論文になぜかどこかで見たような感じがするのを、ルドヴィコは自分自身の考えと純粋に響きあうなにかがあるからだと勘違いにしたに違いない。でなければ、ルドヴィコはインチキにしっかり気づいていて、自分の気まぐれを満足させようとして人々がどたばたするのを単純に楽しんでいるのだろう。

 ヤルダは自分の器具を観測部屋に設置すると、朝の時間をそのテストと調整に費やした。この作業には、日中にやったほうが明らかに楽にできる部分がある。午後は無理をして睡眠を取った。夜型の生活に体をだんだんと持っていく必要があったが、最初の観測をほんの数 後に控えて、リラックスしろといわれてもむずかしい。

 ヤルダは日没のころに目をさまして、パンを半分食べ、まだ明るいうちに観測部屋に入った。いずれは感触と記憶だけを頼りに望遠鏡の機械装置を操作できるようになりたいと思っているが、現時点ではまわりがはっきり見えるうちに毎回の観測をはじめて、それをここになじむ機会に利用したほうがいい。

 ヤルダ独自のかさばる装置を望遠鏡の接眼レンズホルダーにクランプ留めすると、観測ベンチを入れるスペースがなくなった。ベンチは部屋から出して、研究室に置くことにした。ヤルダはシーサを探しだし、映像をチェックするために、光を通常の接眼レンズに迂回させている鏡を下にむけた。昨夜やったように光の尾を中央に持ってくるのに、あまり時間はかからなかった。それから鏡を上にむけて、その光をヤルダの目的用に作られた光学装置に送りこむ。床の上で体をすべらせて、ヤルダは二番目の接眼レンズを覗きこんだ。こちらで見ると、尾は幅の広い楕円形のにじみに置き換わっていた──最初に見ていた長いすじよりずっとコンパクトだが、まだ多色に分かれていて、点にはほど遠い。

 ヤルダは装置の側面に手を伸ばして、ふたつのレンズの間隔を調整しはじめた。原理はきわめて単純だ。透明石のプリズムが細い白色光線を分散させて色の扇を作るなら、その同じ扇がプリズムを逆むきに通れば、一本の鋭い光線になって出てくるはずだ。白色光が作るものとの完全な一致からは遠いけれど、シーサの尾をその扇として使う。数枚のレンズからなる装置で星の尾の端から端までの角度幅を拡大し、そのあと曲げられる鏡で、色の帯全体にわたって細かい変化を微調整する。ヤルダの最初の課題は、尾の角度幅を正しくすることだった。倍率のみを変化させて、にじんだ楕円を可能なところまで縮める。それから、鏡の形状をいじって、変換を完成させる。

 というのが計画だった。現実はそんなに単純ではなかった。鏡を歪めるネジを動かしはじめたヤルダは、自分が色の尾全体の長さもいっしょに変えてしまっていることに気づいた。理論上は、二種類の調整を独立しておこなうことが可能なはずだったが、現実にはそのようなかたちの調整をおこなう機構がないので、理想をいっても無意味だった。

 ヤルダは数停隔ポーズ のあいだ自分の愚かさを罵ってから、体を後ろに反らして、レンズの調整に戻った。楕円形は少しだけ幅が減っていたが、同時に別の方向に厚みを増していた。時計が鳴った。追跡パラメーターを変える時間だ。

 改善は嫌になるほどゆっくりとしか進まなかった。シーサが地平線に近づきすぎて追跡できなくなったとき──夜明けの一 以上前──ヤルダはまだ結果に満足していなかった。別の星を選んで、一から作業をやり直すよりも、ヤルダは今夜はここまでにしておくことに決めた。そうすれば、今夜おこなったシーサに特化した調整のすべてを保持して、さらなる段階の改良に利用できる。

 居住区画に重い足を運ぶ途中、ヤルダは立ち止まって空を見あげた。燃えさかる幾多の世界が空を翔るのを。シーサはこの信じがたいほどの数がある中の、一時的な隣人のひとつにすぎない。星々を数学でくるみこんで、自分たちの心の中に引きこむことなど、だれに望めるだろう? ヤルダは、不細工なおもちゃをいじりまわして、それが魔法の力をあたえてくれるというふりをしている子どもで、そのあいだもこの巨大で荘厳な行進は、ヤルダの夢想になどまったく気づくことなく、進みつづけているのだった。


 ヤルダは午後の中ごろまで眠ってから、研究室に腰を据えて新しい戦略を練った。鏡を変形させるときには、つねに対で変化させ、それは色の扇全体に広がるそれぞれの影響をほとんど打ち消しあうようなかたちにする、という原則を厳守する──そうすれば、不必要なレンズの調整をする手間がいくらか省けるだろう。

 二 後、観測部屋の床に転がって皮膚をこすりつけ、指を痙攣させながら、ヤルダは恥も外聞もなく成功を祝って歓声をあげ、声が歪んでいるのも気にしなかった。シーサの尾がとうとう、ほぼ円形の光の点にまで縮んだのだった。片方が反対側よりもほんのわずかに青みがかってはいるけれど。

 ネレオが提案してくれた手段を用いる段階が来た。ヤルダは光の通り道に、映像の中央をさえぎる遮蔽板を挿しこんで、明るい中心部を取り巻くぼんやりしたかさハロー だけが残るようにした。ずっと薄暗い部分的な映像に目が慣れるにつれて、鏡のネジをわずかに動かしたときにそれぞれ起こる変化を見てとるのが、容易になっていった。

 半鳴隔チヤイム 後、ひとつの微細な調整で、視界は完全な闇で埋まった。ヤルダは有頂天になった。シーサの映像は、いまやそれをさえぎっている遮蔽板よりも小さい!

 だが遮蔽板を取り去ると、ちっぽけで完璧な光の円盤が見えるという予想に反して、視界全体がまっ黒のままだった。ヤルダが体のどこかを望遠鏡にぶつけてしまったのだろう。望遠鏡はもうまったくシーサを指していなかった。

 ヤルダはもういちど星を探しだしたが、暗順応した目をそのままに保ちつつ、星を長時間、中央に位置しつづけさせるのは大変な作業だった。追跡トラツキング を修正するために遮蔽板を取り去らなくてはならないときにはいちいち左目に切りかえて、かさハロー を縮める作業を再開するときには右目に戻したりもしてみたが、ふたつの目は共謀しているかのようで、片方だけが眩んでいるときでさえ、瞳孔はいっしょに縮んだ。しまいにヤルダは、胸を下にして床に寝転んで、明るい光は後眼のひとつで見るようにしてみた。驚いたことに、それはうまくいった。前眼は暗順応した感度を維持していた。

 ふたたびシーサが追跡できない範囲に沈んだとき、ヤルダはここ三鳴隔チヤイム 間、なんの進展もできなかったことに気づいた。些細な調整をいくつかして、それをもとに戻しただけだ。けれど、かさハロー はいまではごくかすかになっていて、完全に消し去ることを考えるのは非現実的だった。シーサに関しては、これでできるかぎりのことをやったのだ。

 そしてヤルダは、最初のひと組のデータを収集していた。


 ヤルダは早い時間に起きだして、鏡のネジ二ダースの位置を、波長と速度の数値の組に翻訳する作業に取りかかった。その計算は複雑だった。計算と各過程の二重チェックを完了するのに、午後遅くまでかかった。方眼を引いておいた紙に、数値に従って点を記入していく。処理の中には、自分の皮膚の上でおこなうにはむずかしすぎるものが、いくつか存在する。

 データはグラフの右上に下むきの曲線を描いていた。速度が増加すると、波長は減少する。この一般的傾向は目新しいことではなかったが、いまはじめて、そのくわしい形状がおぼろげに見えてきた。数学的関係の厳密な形式についてヤルダはいくつかの可能性を考えてみたが、時期尚早なのはわかっていた。ほかの星も同様の曲線を描くか、知る必要がある。

 次に調べた星はサラックで、シーサと同じくらい明るいが、尾は半分以下の長さだった。ゼントはもっと速くて、もっと遠かった。ヤルダはなにがうまくいって、なにがそうでないかを学びとり、色付きの楕円を鮮明な白い円盤に縮めていくのに必要な、本能的な調整のセンスを身につけていった。観測をはじめて六夜目には、夜明け前にジューラとミーナ、ふたつの別々の星に合わせてネジを調整することができた。

 手間はかかったが、ヤルダはそれぞれの星の点をグラフに書きくわえた。ヤルダがサンプリングした光の速度はグラフ上で密集していたが、それは大きな成果ではまったくなかった。それは調整ネジが塡められている穴の定位置を反映したものにすぎない。だが、対応する波長の散らばりかたも広すぎはしなかった。ヤルダの手法はどの星でも、同じパターンを生じさせつづけた。

 明るい星をひととおり標的にしてしまうと、観測は難度を増した。三夜連続でいらだちを募らせていったあと、ネジの設定を大きく変えても映像になんの変化も認められなくて、ヤルダはシーロのデータを標的にするのをあきらめた。自分は疲労のあまり病気になりかけているのだろうかとヤルダは思った。シーロの尾を見失い、闇を埋める光の染みの幻覚を見ているだけではないかと。

 ヤルダは二日間、作業を休んだ。食べて、眠って、ここへのぼってくる小道で短い散歩をする以外はなにもしない。トゥリアには、自分を駆りたてないようにとも警告されていた。熱ショックを免れることは、だれにもできない。のぼってくるときに問題を起こしたのだから、もっと用心してしかるべきだった。

 別の星、レパトを観測してみた。丸ひと晩かかったが、ヤルダの頭はもうはっきりしていて、夜が明けるころには、レパトのかすかな尾に合わせて鏡の形を調整しおえていた。星の光は見かけほどかすかでも、捉えにくくもない。じゅうぶんな根気があれば、それと似たものを、石や木にさえ見出すことができる。


〈孤絶山〉に来てから一ステイント と七日が経ち、ヤルダは一ダースの星のデータを取った。そろそろ、集めた結果に意味を求めようとしてもいいだろう。研究室に移動させた観測ベンチの上で体を丸くして、グラフ上の傾斜した曲線をじっと見つめる。