ヤルダは大公会堂の外でトゥリアと待ちあわせた。ダリアの講演は『獣の解剖』と題されていて、それを宣伝するけばけばしい色のポスターには、恐ろしげな生き物が木の枝に立ち、片手に哀れなトカゲを握りしめ、もう一方の手を、別の逃げそこなった餌に伸ばしているところが描かれている。西低木ハタネズミの育児話は、あまりズーグマの金持ち階級の気を引くテーマではないらしい。

 トゥリアがチケット販売係を長々と説得して無料入場者リストをチェックさせた結果、トゥリアとヤルダのふたりとも名前がそこに載っていることが判明した。「そうだろうと思っていたわ!」トゥリアはヤルダにそういって、ふたりはチケット販売の列から、同じくらい長い入場者の列へ移動した。「わたしは〈単者クラブ〉でのダリアの食事代を、彼女の残りの一生、手術代をタダにさせるくらいは立て替えてきたんだから」

 大公会堂の中に入ったヤルダの目に映ったのは、小さいけれど本物らしいたくさんの木で飾られた舞台で、組みあわせた大小の枝が、密生した林冠という印象を念入りに強調していた。舞台係数人が建物の中を動きまわって壁のランプを消していくと、観客は見せ物用に集められた夜行性の野生動物の一団が、この急造の偽ジャングルに姿をあらわすのを期待するかのようにざわついた。

 薄闇の中、木の上で花をひらいた青白いつぼみ も二、三あったが、明るい照明が上から舞台にむけられると、すぐにふたたび閉じた。ヤルダが目を上にむけると、ひとりの少女が細いレールに腰かけて、透明石のレンズの後ろに燃える太陽石を置いた扱いにくそうな仕掛けを必死で操作しているのがちらりと見えた。

 この会の主宰者が舞台に歩みでて、今夜の公開実験で解剖する動物をつかまえるために輝き谷への危険な遠征がおこなわれたという口上をまくし立てた。「自然の状態のこの生き物は、市内に持ちこむのが許されるどころではないほど獰猛です。市議会の許可は絶対におりないでしょう! しかしながら──市境から安全な距離を取った留置檻で六日間、この獣を麻酔薬漬けにした結果、ズーグマ史上はじめて、われらが野生の、文化を持たぬいとこをご覧いただけることになりました。樹精です!」

 押されてきた荷車カート の上に二本の支柱が立てられ、そのあいだに太い枝が渡されている。樹精の両手両足はロープで枝に縛りつけられていた。樹精自身はなにかを握れる状態ではない。頭はだらりと垂れさがり、目はひらいているが、どんよりして視線は固定されている。ヤルダはそれを雄だと思ったが、自信はなかった。これまでこの動物については、スケッチを見たことしかない。ヤルダよりも小柄なのは確かだった。

「あれがもう死んでいたらいいんですけど」ヤルダはささやいた。

 トゥリアがいった。「あら、同情しているの?」

「わたしたちの見せ物になるために、あれが苦痛を感じる理由なんてありません」

「あれが森で楽して生きてきたと思う?」

 ヤルダはいらだちを感じた。「いいえ、でも、そういう話じゃないんです。自然はあなたの 体を四分裂させて、あなたの脳をどろどろにしたがっている。わたしたちはそれより高い目標を持つべきです」

 ふたりの前の席の男が振りかえって、シーッといった。

「こんな獣を扱う身体的な力を持てるのは」主宰者がしゃべりつづけていた。「女しかいません。そして幸運なことに、力だけでなく 、この危険な領域への案内役となる専門知識をもお持ちの女のかたを、見つけることができました。ご紹介しましょう、ズーグマ大学のドクター・ダリアです!」

 観客が爆発的な喝采を送る中、トゥリアがささやいた。「心配しないで、流行は変わるから。わたしたちがプリズムやレンズを持って、あの舞台にあがる日が来るわ。そして同じくらいボロ儲けするの」

 ヤルダはいった。「あなたが空を見あげて探している森に、ほかの世界の樹精がいれば、ですけどね」

 待ちかまえていたスポットライトの中に歩みいったダリアは、三本目の腕を胸の中央から発芽させていた。手にしたまるのこ は、舞台袖まで延びる長いチューブにつながれている。

「ご安心ください」ダリアがいった。「今夜、わたしたちの身に危険はありません」観客によく見えるよう、丸鋸を掲げ持つ。「この道具は圧縮空気を動力とし、毎瞬隔フリツカー 一大グロス回転します。万一、樹精がどういうわけか麻痺状態から抜けだすことがあっても、わたしは即座にその頭を切断できます」ダリアがスイッチを押しこむと、丸鋸の刃は甲高い音を立てる石の残像と化した。

「ですが、まず、わたしたちの野生のいとこに、彼のほんとうに最後の食事をあたえる時間です」助手がバケツを舞台に運んできた。ダリアがそれを持って、樹精に近づく。バケツに突っこまれていたしやく で、ダリアはバケツの中身──大粒の粉にした穀類に似ているが、どうやったのか、ぎょっとするほどあざやかな赤に染められている──を掬うと、だらしなくひらいた樹精の口に流しこんだ。

 樹精の喉のまわりの筋肉が動きはじめるのを、ヤルダは不快な魅力を感じながら見つめた。それは生きていて、そして、薬漬けだろうがなんだろうが、まだ物を飲みこむことができる。

「みなさんは、われらが不運なお客の食事がおかしな色をしていることにお気づきでしょう」ダリアが指摘する。「じつは、過去六日間、彼の食べ物には毎回の食事ごとに異なる色の染料が混ぜられていました」とダリアが話すかたわらで、樹精はこぼれ落ちる穀物を機械的に飲みこみつづけていた。

 生き物がそれ以上の食べ物を受けつけそうになくなると、ダリアはバケツを脇に置いて、丸鋸のスイッチを入れた。観客の声援を受けて、ダリアは樹精に近づくと、脇腹を切りひらきはじめた。

 犠牲者が音を立てていたとしても、機械の音のほうがそれを打ち消す大きさだった。ヤルダには、樹精の体がしばらくのあいだ見るも哀れにぴくぴく動くのがわかったが、ダリアが脇にどいて、手仕事の結果を披露したときには、引き付けはおさまっていた。

 丸鋸は樹精の体のほぼ全長にわたって、皮膚と筋肉を長方形の板状に広く切りとっていた。不必要に残酷なこの手法にヤルダは吐き気を覚えたが、目を背けられなかった。

 赤く染められた食べ物は、すでに驚くほどの距離を移動していた──生き物の喉から四、五指離スパン くらい先まで──が、ほんとうに啓示的なのは過去に食べたものの痕跡だった。六つの色の帯が、ごまかしのない消化と排泄の経緯を色で示している。前日の橙色の食べ物は、食道の先のメインの消化管から分岐したもっと小さな数ダースの管に押しこまれ、黄色はさらにずっと細い無数の小管に進んでいる。樹精の肉の内部では緑色の染料が入り組んだ曲面を示していて、巨大なタール塗りカバーを縮尺を変えつつ何度も何度も折り畳んで最小限度の容積に詰めこんだかのよう。緑色の染料も、この距離から識別するには細すぎる管の網で運ばれたのだろうか、とヤルダは思った。ちょうどダリアが、緑色の層は実質的に体じゅうの筋肉という筋肉に届くにいたった食べ物だと説明した。

 もっと以前に食べたものについては、同様のプロセスが逆のかたちで観察された。細い導管が食べ物の使われなかった部分を、代謝の排泄物の塊とともに集めて、しだいに太くなる導管の中を運んでいく。ぞっとするような領域の終端には、紫色の糞便が排出されるのを待っていた。

「口から肛門まで六日間──半ステイント ──です」ダリアは驚きを声にこめた。「こんな短い距離を通るために、こんな長い時間がかかっている。とはいえ、食べ物のほとんどは、体の中で細かい粉にされる必要があります──あらゆる接合部分の筋肉によって砕かれることを繰りかえして──そして栄養はその過程で、これっぽっちも余さずに抽出される必要があります。

 ですが、みなさんはひとつの疑問を感じておいででしょう。生命維持に必要な栄養物が体を通過するのにそんなに長い時間がかかるなら、意思はどうやって 脳から肢まで一瞬で伝わっているのか? 食べ物の移動がわけ あって遅いのはほんとうである一方、わたしたちの知る化学物質の中に、ここで必要な時間内に固体や樹脂を通り抜けて拡散できるものはないし、筋収縮では、体内の管を通ってなにかの物質をじゅうぶんな迅速さで運ぶことはできません」

 舞台が薄暗くなり、助手が押してきたカートに新しい道具が載っていた。小さな太陽石ランプで、激しく炎をあげて燃えているが、覆いをかけられて、そこから細い光線だけが漏れだすようになっている。ダリアは樹精の剝きだしの肉に光線をむけ、少し時間をかけて慎重に狙いを定めた。たぶん特定の構造を目立たせたいのだろうが、なにをなぜ選んだかの説明はしなかった。

 次に、ダリアはナイフを手にして、樹精が吊されている木の枝にその腕の一本を拘束していたロープを切った。不安げなざわめきが観客のあいだに広がったが、自由になった腕は、生き物の肩から長い肉の袋のように垂れさがっただけだった。

 ダリアがいった。「思想家や解剖学者の中には、空気そのものと似ていなくもない気体が体全体で拡散したり圧縮されたりして、動けという意思を伝えるのだ、と推測している人もいます。ところが、わたしの研究が示した答えは、もっと単純かつ驚くべきものでした。筋肉に情報を伝えるのは……これです 」ダリアはランプ脇の皿から微粉を少々つまむと、ランプの炎の中に振りまいた。その物質が燃えあがると、強い黄色の光がひらめき──そして、垂れさがっていた樹精の腕が、その位置から跳ねあがってぴくぴくと引きつってから、ふたたびだらりと垂れた。

 観客は大声でわめき、足を踏みならして称賛を送った。トゥリアがヤルダのほうに体を傾けて、ささやいた。「ダリアがあれに、宙返りをさせるくらいで終わりにしてくれるといいんだけど。でないと、本格的な暴動が起きかねないわ」

 ダリアは喝采に愛想よく対応してから、身振りで静粛を求めた。公開実験はまだ終わってはいない。「正しい色相の光は、筋肉を刺激して、ある動作をさせます。ですが、体の中でのその役割は、それだけなのでしょうか。わたしはそうは思いません」

 舞台はさらに薄暗くなり、ついに完璧な闇になった。舞台を飾っていた木々が青白い花を再度ひらいたが、花びらがかろうじて見えるか見えないかだった。闇の中から、ダリアの丸鋸が回転する金属音が響く。その音がやむと、ダリアが舞台を数歩横切るのが聞こえた。

 ダリアが脇に寄ると、陰になっていたゆらめく黄色い光の点があらわになった。光は脈打ち、波のように移動している。ヤルダは、死にかけた祖父にたかっていたダニの群れを思いだして不快になった。しかし、舞台の上の光る点々は空気中に逃げだしたりはしなかった。哀れな虫の群れが樹精を餌にしているのではない。ダリアが樹精の頭骨を切りひらき、この生き物の最後の思考がヤルダたちの眼前で演じられているところなのだ。突風が枯草だらけの庭をカサカサと揺らすのにも似た、弱まりゆく冷光の悲しいダンス。

 樹精の脳にちらつく輝きがすっかり消え果てると、明かりがついて、ダリアが両腕を広げて実験の終了を示した。観客がそれぞれに称賛を返す。ヤルダは、ダリアの演出の才能には感心しないわけにいかなかったが、見せ物全体としては心乱されていた。

 トゥリアでさえ言葉たくみに楽屋へ入りこむには時間がかかり、ヤルダはそのあとに付き従った。ダリアは豪華な白い砂の寝床でくつろいでいた。

「ショーは気に入ってくれた?」ダリアがふたりに尋ねた。

「ヤルダは、獣を切り刻む前に殺しておくべきだったと思っているわ」トゥリアが勝手にバラした。

「そんなことをしたら、わたしが頭骨をあける前に、脳の光は見えなくなっていたでしょうね」それを聞いてダリアがいった。「噓偽りなく、わたしたちはあれに大量の薬を投与した。えん は反射作用よ。少しでも意識があったとは思わない」

 ヤルダは完全には納得できなかったが、その話題は蒸しかえさなかった。じっさいがどうでも、物的証拠はなにもない。

「ホリンを渡すと約束していたっけ」ダリアが思いだした。寝床から出て、部屋の隅の戸棚をかきまわすと、小さな透明石の瓶を持って戻ってきた。「朝食といっしょに二摘重スクラツグ 飲んで、毎日」ダリアはヤルダに瓶を渡した。緑色をした薄片状の物質が、小さな立方体の塊にまとめられている。「一年かそこらしたら、服用量を増やす必要がある」

「いくらぐらい払えばいいんでしょうか?」ヤルダは尋ねた。

「気にしないで」ダリアは砂の寝床に戻りながらそう答えた。「出世払いでいいから」トゥリアのほうをむいて、「これから〈単者クラブ〉に行く?」

「今夜は行かない」

「そう、まあまたすぐにふたりとも会えるわね」

 ヤルダは礼をいって、その場を去ろうとした。ダリアがいった。「薬は安全な場所に隠して、一回でも飲み忘れちゃダメよ。あなたは確かにまだ若いけれど、それは失うものがその分多いということですからね」

「ご忠告どおりにします」ヤルダは約束して、部屋を出る前に瓶をポケットにしまった。

 通りに出ると、ヤルダはトゥリアに訊いた。「前にいっていたメコニオについての小論文を、渡してもらうことはできますか? 少し時間をかけて、わたし自身の文章でリライトしたほうがいいと思うので」

「いい考えね」トゥリアがいった。「わたしの部屋に一種類置いてあったと思う」

 街の深い傷口の上に架かる〈大橋〉を渡りながら、ヤルダの考えは祖父が亡くなった夜に繰りかえし戻っていった。生きているものはすべて、光を作る必要があるが、すべての化学反応と同じく、それは危険を伴う事柄だ。一線を越えてしまう可能性がつねにある。

 トゥリアに心ここにあらずすぎだといわれたヤルダは、森への旅と、それがどんな結末を迎えたかを話した。

「それはつらすぎる」トゥリアがいった。「そんなに若い子どもが、人の死に立ち会うべきではないわ」

「人が死ぬところを見たことがありますか?」

「ここ数年で、友だちがふたり。でも人が光になるのはいちども見たことがない」トゥリアはためらってから、「わたしの双は、生まれて数ステイント で死んだのだけれど、そのときのことはなにも覚えがないの」

「それもつらいですね」

 トゥリアは両腕を広げて、思いやりは無用だと示した。「双のこともなにも覚えていないんだから。ほとんど単者として生きてきたのと同じよ」

「ご一族はまだ、代理双を見つけろとせっつきますか?」

「父は死んでいる」トゥリアが答えた。「兄といとこたちは、そうできればうるさくいうだろうけれど、わたしがいまどこで暮らしているかも知らないから」

「ああ」ヤルダには、オーレリオやクラウディオが、そしてもちろん小さなルシオが、どう生きるべきかを彼女に命じる責任があると考えることなど、想像もしがたかった。だが、人は変わっていく。自分たち自身が子どもを持つ大人になって、隣人たちから「ヤルダはどうしたんだ?」と訊かれつづけたら、世間が受けいれるような答えを返すのが義務というものだと考えはじめるかもしれない。

 ふたりはトゥリアが住んでいる塔に着いた。トゥリアの部屋は十二階──この建物でこの階がいちばん安い、とトゥリアが教えてくれた。これだけの階段をのぼる気になる人はそうそういないからだが、最上階は例外で、天窓があるおかげで賃料が高い。ふたたび星々の下で眠ることに焦がれるヤルダには、納得のいく話だった。

 トゥリアの部屋にはランプがひとつもないかわりに、色を基準にそろえた小さな鉢植え植物が長い棚に載っていた。植物の輝きと窓から射す星明かりとで、トゥリアが紙の山をかきまわして目当てのものを探すのにじゅうぶんな明るさがあった。

 しばらくして、トゥリアがいった。「ここにはないわね。ほかのだれかに複写を渡したあと、新しいのを作るのをさぼっていたんだわ、きっと」

 ヤルダはいった。「その複写はどこから作ったんですか?」

「ああ、それならいまもここに ある」トゥリアは拳で胸を叩いた。「いちど書いたものを、わたしは絶対に忘れないの。でもいまここには染料がないし、それをいえば白紙も足りない。あなたは接触記憶が得意?」

「わたしがなんですって?」

 トゥリアは手を伸ばして、ヤルダの右手を取った。「なにも考えようとせずに、これを記憶してみて。読むのもダメだし、心の中で言葉にするのもダメで、形の感触を保とうとだけするの」

「わかりました」

 トゥリアは自分の掌をヤルダの掌に押しつけると、短い文章をふたりの皮膚の両方に 描書した。ヤルダは自分の筋肉が、そこにむかって突きだす湾曲した隆起から伝わる圧力パターンと自然に一致するようにした。すると原因と結果が奇妙に逆転して、すぐにあらゆる線を自分自身が作りだしているように感じられてきた。二、三のシンボルが心の中に漂ってきたが、それを締めだして、意味を意識せずにおいた。

「さあ、いまのをわたしに返してみて」トゥリアはヤルダの右手を放して、左手を握った。「細かい部分のことは考えずに、記憶にある感触を呼び戻すだけでいいの」

 ヤルダはさっきの形を呼びおこし、はっきりと触知できるけれど視覚化はしないまま、それを左の掌に押しだした。トゥリアが祝うように歓声をあげた。「完璧!」

 ヤルダは手を引っこめた。「もう読んでもいいですか?」

「もちろん」

 掌を確かめる必要はなくて、ヤルダは筋肉という筋肉に直接、文字配列を感じることができた。「メコニオが」ヤルダは文章を声に出した。「第九エイジ のもっとも偉大な知性であったことは疑う余地がない」文字が、自分がいつも皮膚に浮かべるのとは裏返しの鏡像になっていることに、ヤルダは気づいた。

「内容について考えなくてかまわなければ、なんだって描書できるというのは、すごいと思わない?」トゥリアが感嘆したようにいう。「ましてや信じてなんかいなくてもよければ」

「わたしは恥ずべきことをしようとしているんでしょうか?」ヤルダは迷っていた。「これがルドヴィコの職権濫用なのはわかっていますが、それでも守るべき道義はあります。たとえば、観測所の使用割当の担当者を替えるよう、働きかけてみるべきなのでは?」

 トゥリアはいらだちを見せて壁にもたれかかった。「理想的世界でなら、もちろんそのとおり! でも、それにどれだけ時間がかかるかはわかるでしょ。あなたが急死する前に──あるいはもっとひどいことになる前に──波長のデータを集めたいと本気で思っているなら、ルドのご機嫌を取るしかない。なにもかもを非の打ちどころなくやっていくには、人生は短すぎるの」

「それはわかります」

「小論文丸ごとがほしい?」

 ためらいつつ、ヤルダは首を縦に振った。

「そばに寄って」

 トゥリアはヤルダの腰に手をかけると、ヤルダの体をまわして背中が壁をむくようにした。それからヤルダにむかって足を進めて、全身を近寄らせた。本能的に、ヤルダは片手をあげてそれを止めた。

「掌どうしではひと晩じゅうかかるわ」トゥリアがいった。「このほうが速い。なにを怖がっているの? わたしにはあなたを傷つけたりできない。男じゃないんだから」

「単に妙な気分だというだけです」だが、誘発できるのは男だけだというのは、ほんとうだろうか? もし女が、どんなときでも出産することがありうるとしたら──完全に独力でも、当人の意思に反してでも──ヤルダはなにを信じたらいいのかまるでわからなかった。もしかすると、あらゆる怖いおとぎばなしは、あらゆる教訓話は、あらゆる魔法めいた天罰の噂は、じっさいに冷厳な事実に基づくものなのかもしれない。もしかするとヤルダも、階段でつまずいたり、トラックから転げ落ちたりしたら、四人の子どもに分裂するのかもしれない。

「あなたしだいよ」トゥリアがいった。「明日、染料を手に入れて、論文全部をわたしが紙に転写してから、あなたが午後いっぱいかけてそれを読んでもいいんだし」

 ヤルダはそうすることを考えてみてから、不安を抑えこんだ。ふたりの命を危険にさらすようなことを、トゥリアがするわけがないではないか?

「いえ、さっきのあなたのやりかたで」ヤルダはいった。「そのほうがかんたんですから」

 ヤルダが手をだらりと垂らすと、トゥリアが自分の体の皮膚をヤルダの皮膚に押しつけた。トゥリアの頭はヤルダの胸の半分の高さにも届かなくて、まったく皮膚が触れあわない途切れ目があちこちにできている。ヤルダは片手をトゥリアの背中の中央にまわすと、トゥリアをそっと前に引き寄せた。トゥリアのむこう側では、部屋いっぱいに列をなす花々が、ありえないほど動きの速い星が引く尾のように輝いていた。

 トゥリアが描書を開始した。体はふたつ、皮膚はひとつ。ヤルダは言葉は読まずにいた。小論文のひどい内容は、あとでひとりで楽しめばいい。いまはただ、形が皮膚から記憶に流れこむにまかせ、異なるレベルでのこれは適切だという感覚を味わう。各シンボルそれ自体の洗練された造型、各ページの美しい構成。ルドヴィコにお望みの空虚なご機嫌取りをしてやるのは言葉にまかせて、ヤルダとトゥリアは彼を素通りする真の意味をひそかに楽しむ。

 トゥリアが後ろに下がった。

「これだけですか?」ヤルダは驚いた。

「三ダースページ。あいつが決まって要求する分量」

「あっという間でした」

 トゥリアは面白がっているように、「物足りなかったら、植物スペクトルに関するわたしの全論文をあげるわ」

 ヤルダは当惑して目を逸らした。いままで知らなかったこの快楽について、なにも警告されたことがないのは仕方ないが、それがなにを意味していて、どんな義務を伴うか、ヤルダはなにもわかっていなかった。

「地下室暮らしはやめたほうがいいわ」トゥリアがいった。「ここでわたしといっしょに暮らしましょう」

「そういわれても」ヤルダは代理双を探すつもりはなかった、男性でも女性でも。「わたしは地下室が好きなんです。ほんとうに」

「よく考えて」

 だれかが入口で呼び鈴を鳴らした。トゥリアは歩いていって、カーテンをあけた。薄明かりのせいで、訪問者が声を出すまで、ヤルダはそれがアントニアだとわからなかった。

 トゥリアはアントニアを部屋に招きいれた。アントニアはうろたえていた。「ごめんなさい、ほかに行く当てがなくて」

「かまわないわ」トゥリアがいった。「すわって、なにがあったか聞かせてちょうだい」三人は冷たい石の床に腰をおろした。

「わたしの双が店を閉じたの」としゃべりはじめたときのアントニアはとても冷静だったが、そこで話をやめて、震えはじめた。

「あなたのお店を?」ヤルダは先を促すように訊いた。「市場の? 彼はあなたの露店を解約したの?」

「そうなの」アントニアは懸命に平静を取りもどそうとした。「アントニオは市場の人たちに、わたしが来ることはもうないといった。そのあと、彼が父と打ち合わせをしているのを聞いたわ。ふたりのどちらがいつ子どもたちの面倒を見るかについて」

 それを聞いて、ヤルダ自身の皮膚がざわついた。

「わたしの準備ができているかどうか、アントニオはいちども尋ねさえしなかった」アントニアがいった。「やりたかったことを、わたしが全部やり終えているかも、わたしが自分自身の予定にケリをつけているかどうかも」

 トゥリアがきっぱりといった。「それをないがしろにした彼は、あなたを永久に失ったのよ。彼が子どもをほしいなら、自分で石から彫りださせればいい」

 アントニアはそこまで確信を持てないようで、「アントニオのもとを離れたら、その先どうなるんだろう? わたしの子どもたちはだれが世話してくれるの?」

 トゥリアがいった。「結局、あなたはどうしたいの?」

「わからない」アントニアは認めた。「でも、いろいろなことをよく考えてみるまで、しばらくアントニオから離れている必要はある。そうしたらもしかして、アントニオは自分のほうの考えを変える必要があると理解してくれるかもしれない」

「とにかくあなたしだいよ」トゥリアがいった。「そうしたければ、ここで暮らしてもらってかまわないわ」

「ありがとう」

 ヤルダはほっとした。追いつめられた来客のおかげで、ヤルダ自身がここに移ってこない口実を考える必要はなくなりそうだ。

「わたしは子どもを作りたいの !」アントニアが熱をこめて断言した。「そして子どもたちには、恵まれた生活を送ってほしい。わたしが働いてきたのは子どもたちのため だし、子どもたちのために お金を貯めてきた。わたしはただ、タイミングを選びたいだけ。それはわたしが決めるべきことでしょう?」

「当然よ」ヤルダは静かにいいながら、リディアの楽観的な議論を思いだしてみた。そして政治とホリンがどうやったら、このひどい状況を正せるかを考えてみようとした。

 三人ですわりこんだまま半 ほど話を続けてから、ヤルダは全員がどうしようもなく疲れていることに気づいた。ずいぶん前から、話が支離滅裂になっている。

 ヤルダは友人たちにお休みの挨拶をして、地下室へ戻っていった。アントニアの悲惨な状況が頭を離れなかったが、一夜にして世界をよくすることは、だれにもできない。