エウセビオがいった。「数学的にはいまあなたが説明した話が成りたつのは、理解できます。でもこれは、いいかたに凝っているだけなんじゃありませんか──運動エネルギーは保存されず、変化する……そして二、三の単純なケースにおいては、原因となる力がよくわかっているので、変化の経過を追うことができる、ということを?」
「それは、確かに」ヤルダは認めた。「これは会計で帳尻を合わせるみたいなものよ。そして、会計を見くびってはいけない。それは強力なツールだから。弾性位置エネルギーは、パチンコから弾が発射される速さを教えてくれる。重力位置エネルギーは、弾がどれだけの高さまであがるかを教えてくれる」
エウセビオはあまり納得しなかった。行進する人形を指し示す。三体のうち二体はぜんまいがほどけて止まり、もう一体はあおむけにひっくり返ってしまい、むなしく脚を蹴りだしていた。「現実世界では、エネルギーは保存されません」エウセビオはいった。「それは食べ物や燃える燃料から出てきて、摩擦として消滅する」
「それがベストの説明に聞こえるわね」とヤルダ。「でも、そうしたプロセスも、いままさに議論してきたことの、もっと複雑な例でしかないの。摩擦は動きを熱エネルギーに変え、それは物体の構成物質の運動エネルギーのこと。化学エネルギーは位置エネルギーの一形態だと考えられている」
「熱が、目に見えない動きの一種なのは理解できます」エウセビオがいった。「でも、燃える燃料 がこの説明にどう当てはまるんです?」
ヤルダはいった。「燃料の粒子の意味を理解するには、何本ものバネがきつく結ばれてできたボールが、さらに紐で縛られているのを想像すればいい。解放剤の働きは、その紐を切るようなもの。吹っ飛ぶようにすべてがばらばらになる。ただ、ばらばらになるときの音といたるところに飛んでいくバネのかわりに、燃料からは光と熱いガスが得られるわけ」
エウセビオは困惑していた。「それはイメージとしては楽しいですが、現実の場でなにかの役に立つようには思えません」
「あら、そんなことないわ!」ヤルダは力説した。「密封した容器の中で各種の化学物質を反応させることで──容器はすべての生成物を閉じこめ、すべての光を熱に変える──異なる物質がたがいに対してどれだけの位置エネルギーを持つかを示す一覧表が作られてきた。燃料と解放剤はこの塔の十一階にあるなにかのようなもので、両者が作りだすガスは一階にある。化学エネルギーの差は圧力と熱としてあらわれるけれど、これは本をその高さから落としたとき、重力エネルギーの差が本の速度としてあらわれるのとまったく同じ」
エウセビオはしだいに興味を引かれていた。「そうやってすべてがうまくつながるんですか? 化学エネルギーは一種の会計のようなもの、これはそういう単純な話なんですか?」
ヤルダは自分が、わずかばかりだけれど、この考えをいいものに思わせすぎたかもしれないと気づいた。「原理上はうまくつながるはずだけれど、じっさいには、正確なデータを得るのはむずかしい。現在進行形の研究だと考えておいて。でも、もしあなたが化学科に出かければ──」
エウセビオは面白げにブンブン音を立てた。「ぼくは自殺したくはありませんよ!」
「あそこの学科の人たちが実験するのを、防護壁の後ろから見ていればいいのよ」
「年に三、四回も再建する必要がある〝防護壁〟のことですか?」
じつのところ、化学科がある〈切断小路〉は、ヤルダ自身もいちどしか訪れたことがなかった。ヤルダはいった。「それもそうね……遠くから恩恵を得るだけで満足しておきましょう」
「現在進行形の研究だといいましたよね」エウセビオが考えこみながらいった。「破滅的な爆発は別にして、なにが障害になっているんですか?」
「化学の方法論のことはくわしく知らないけれど」とヤルダは断って、「温度と圧力を計測するとき、誤差が入りこむ余地があるのだと思う。あと、すべての光を閉じこめるのもむずかしいでしょうね。熱のかたちでのエネルギーは計測できるけれど、もし放出されている光があったら、それをどう計算に取りいれたらいいかはわからない」
「なら、化学科の人たちがまちがいをおかしているとは、いい切れないのでは?」エウセビオが追及する。「化学科のデータがまちがっているという根拠はなんです?」
「それはね」ヤルダはエウセビオを幻滅させるのは嫌だったが、問題の重要性については正直である必要があった。「化学科が発表した最後の一覧表の数値を間接的に使うと、純粋な、粉末にした炎石とその解放剤は、それが作りだすガスよりもわずかに大きい化学エネルギーしか含まない──それでは、ガスの高温を説明するのにはまったく足りない──という結果が導かれる、ということを示した人がいるの。でも、その不足分の熱エネルギーは、空から降ってくるわけじゃない。化学エネルギーの変化から生じる必要がある。しかもそれは、光が運び去るエネルギーについて考えるより、さらに前の段階の話なの」
「なるほど」エウセビオが冷笑的にいった。「つまり、〝化学エネルギー〟は理論としては美しかった……でも、危険と苦労に満ちた研究のあげくの結果は、それがじっさいにはたわごとだった、と?」
ヤルダは別の解釈をしたかった。「四階の窓から石が落ちるのを友だちの友だちが見た、とわたしがあなたにいったとしましょう。でもあなたは、その問題の石が地面に落ちたときに大音響を立て、二歩離 の深さの穴 を作ったことを知っている 。そのときあなたは、エネルギーの保存という考えを丸ごと放棄するかしら……それとも、石が落ちてきた高さについての、わたしの伝聞の伝聞の話のほうを疑う?」
ヤルダが階段教室に体を押しこんだのは、来賓講演者のネレオが演壇にあがりかけていた、ちょうどそのときだった。聴衆は四ダースほどだけだったが、この部屋が選ばれたのは収容能力ではなく設備が理由で、ここを割りあてられている光学のクラスには、ふだんはほんの二ダースの学生しか集まらなかった。遅れて入ってきたヤルダを何人かが非難がましくにらんだが、少なくとも身長があるおかげで、ヤルダは場所の取り合いをする必要はなかった──さらに、自分が後ろにいる若い男の視界をさえぎっていると気づいたヤルダは、すぐに彼と場所を替わった。
「今日、ここで話をするよう、寛大にもご招待くださったズーグマの科学者のみなさんに感謝いたします」ネレオが話をはじめた。「わたしの新しい研究について論じるこの機会をいただけたことは、わたしの喜びとするところです」ネレオは赤塔市に住んでいて、裕福なパトロンに援助されて研究をしている。赤塔市には大学がないので、周囲には異論を唱えたり励ましてくれたりする同僚がいないが、金持ちの産業資本家の気まぐれを相手にするほうが、ズーグマで学内政治をするよりもたぶん気楽だろう。
「今日の聴衆のみなさんは」ネレオが先を続ける。「学識があり、光の性質に関する対立しあう学説についても熟知されていることはまちがいありませんから、ふたつの学説のすぐれた点と弱い点の要約に時間を費やすつもりはありません。波動説が粒子説を上まわる人気になったのは、一年以上前のことでした。われわれの同僚、ジョルジョ教授が、不透明な仕切り板に空いたふたつの細い隙間 を単色の光で照らすと、明るい部分と暗い部分が交互になったパターンが投影されることを示したのです。それはまるで、ふたつのスリットから出てきた波は、たがいに波形が一致したりしなかったりを繰りかえしているかのようでした。このパターンの幾何学は、光の波長を推定する手段をあたえてくれました──そして測定の結果、赤い光の波長は紫色の光の波長の約二倍であると推定されました」
ヤルダはぐるりと見まわして、彼女の指導教官のジョルジョを探した。聴衆の最前列近くに立っている。ヤルダはジョルジョの実験を説得力があると思ったが、長年の粒子説支持者たちの多くは、立場を変えなかった。なぜ〝波長〟などという突飛な概念を持ちだす必要があるのか、と粒子説側は主張した、星をちらりと見あげたことのあるどんな子どもにでも、光の色のひとつを別の色と区別するのは、単にその移動速度だということがわかるのに。
「ですが、わが同僚に最大限の敬意を表した上で申しあげますと」ネレオはいった。「二重スリットパターンは、しばしば扱いが困難であることを否めません。パターンはぼやけていて、正確に位置を特定したいと思う特徴は不明瞭であり、その結果、測定はきわめて不確実なものになっています。わたしはこの問題を改善したく思い、ジョルジョのアイデアの自然な延長線上にある研究をおこないました。
ある同一の振動を発するものを多数、入手して、それを規則的に、振動自体の波長とおおよそ同じですが、それより大きな間隔で一直線に並べたとします」
イメージがネレオの胸にあらわれた。
「その振動源すべてからの波面が、どの方向で なら一致するかを問うならば」ネレオがいう。「振動源が置かれた直線からそれに直交する方向に遠ざかる場合に一致する、というのがまず第一の答えです。しかしながら、それは唯一のケースではありません。波面はもうひとつ、別の角度でも一致します。中心方向に対して左右どちらかの側へ特定の角度で傾いた場合です。
ですが、最初の方向の場合とは違って、この角度は振動の波長によって変わります。波長が大きくなると、中心からの角度も大きくなります。
波長 と角度 の正確な関係は単純な三角法の公式で、それはここにおいでのみなさんすべてが、ジョルジョ教授の研究からよくご存じでしょう。ジョルジョはふたつの振動源を扱い、わたしは単にそのアイデアを拡張しただけです。けれど、振動源の数の増加は、すばらしい好結果を生むことになりました。より多くの光が通過することによって、より明るく、より明瞭なパターンがもたらされたのです」
ネレオが助手に合図すると、天窓を覆うブラインドの操作棒が引っぱられて、教室が闇に包まれた。ヤルダの目が順応する間もないうちに、三つの明るい光の小片が、いまは見えなくなった講演者の後ろのスクリーンにあらわれた。ヤルダは中央のひとつが、教室の屋根のヘリオスタット(日光を反射して一定方向に送る機械仕掛けの回転鏡) が捉えた太陽の映像ほぼそのままであることに気づいた。その左右それぞれにあるまばゆい多色のすじは、最初の映像の歪んだ投影だ。スクリーンの中央にいちばん近い内側の縁は深紫色で、鮮明なスペクトルでずっと変化していって赤になる。星の尾の太陽版という感じだった。
闇の中でネレオが話を続けた。「わたしのパトロンのところでいちばん優秀な機械工の助けを借りて、安定石の細片に正確な間隔で隙間を彫ることのできる写図器 装置を組みたてました。一微離 につき二大グロス(一大グロス=十二グロス=百四十四ダース) の隙間を。その隙間を彫られた装置、光学櫛を用いた計測は、紫色の光の振動が一微離 あたり六大グロス、いちばん赤い光が約三大グロス半であることを示しました」これはジョルジョの測定結果と大まかに一致する。それを否定するのではなく、補強する結果だ。
ヤルダはこれまで何度も、透明石のプリズムで作りだされた同様の派手な現象を見てきたが、それよりもくっきりしたネレオの映像が持つ、純粋な美しさを超えた重要性が理解できた。プリズムが光を個々の色に分解する根本的なプロセスの詳細はだれにも説明できず、それゆえ透明石の板から異なる色相が出てくるときの角度からは、光そのものについてはなにもわからなかった。だが、ネレオの光学櫛にあいまいなところはなかった。あらゆる隙間の位置がネレオにはわかっているし、あらゆる顕微鏡レベルの細部は、ネレオがそのように設計したからそこにある。光は結局のところ振動かもしれないという説は、常識に反している──星々のあいだの虚空に、振動する なにがあるというのか?──が、ここには、その説に対する説得力ある証拠のみならず、あらゆる色相の波長を特定する明快で明白な方法がある。
ブラインドがふたたびひらかれた。ヤルダは聴衆からの質問がほとんど耳に入っていなかった。ネレオに尋ねたいことはひとつだけ、次はいつ、こうした新たな驚異をおこなうことができるかだ。ルドヴィコ教授が、ネレオの実験を光粒子説と両立させる〝明白な〟可能性についてだらだらとしゃべっているあいだ、ヤルダは写図器について空想にふけっていた。もしネレオから光学櫛を提供してもらえなかったら、大学は自前でそれを作れるだろうか?
講演が終わると、ヤルダは教室の最前列に急いだ。ジョルジョの学生のひとりとして、客人をもてなすのを手伝うのは義務だ。すでにルフィノとゾシモがネレオを食堂に案内しようと、そばをうろうろしている。だが、ふたりの大物実験科学者が談笑しているうちに、ネレオの後視線がヤルダにとまった。彼女ほどの体格の人にはだれだって気づく。ネレオと視線が合ったヤルダは、その機会を逃さなかった。
「失礼します、サー、先ほど質問し忘れたことがあるのですが」ヤルダはいった。
ジョルジョはいい顔をしなかったが、ネレオはヤルダの好きにさせてくれた。「かまいませんよ」
「星の尾の中での光の位置は、その速度で決まります」ヤルダは質問をはじめた。「星の尾の光を順番に切りとって、あなたの装置に供給したら、その結果形成される詳細な映像は、波長と速度にどのような関係があるかを示すものになるのではないでしょうか?」ネレオがすぐには返事をしなかったので、ヤルダは助言的にいい足した。「〈孤絶山〉に大学のすばらしい観測所があります。その設備とあなたの装置を組みあわせた共同研究で──」
ネレオが話をさえぎった。「光の速度を特定できるほど細い星の尾の細片を使ったら、それは光源としては明るさが不足するでしょう。波長の情報を持つ回折像は、目に見えないほど薄暗くなるはずです」
ネレオはまたジョルジョのほうをむいた。ヤルダは声には出さずに自分を罵 った。実地的な問題を考え抜かないうちに話をしてしまった。
五人で階段教室を出て、丸石を敷きつめた構内を横切るあいだ、ヤルダは自分の提案を救いだす手立てを必死で探していた。化学者たちはずっと前から、じゅうぶんに長く露光すれば星々の望遠鏡映像を記録できる、紙用の感光被覆剤を発明できるといっている。だが、現在までに提供されたのは、狭い色の帯域にしか反応しないものがせいぜいで、しかも自然発火しがちだった。
一行が食堂に着くと、ルドヴィコ教授が入口を入ったすぐのところで待ちかまえていた。ゾシモがあっぱれなことに一行から離れてそちらに近づいていくと、ルドヴィコの注意を逸らすために講演の報酬に関する運営上のでたらめな問題をその場ででっちあげた。波動説と粒子説それぞれのすぐれた点についての議論はだれもが歓迎だったが、先ほどのルドヴィコは一線を越えて偏執的な領域に入っていた。
ヤルダはルフィノと食料品室に食べ物を取りにいった。「かすかな星の光の波長を計測しようと本気で考えるなんて」とルフィノがからかう。「ヤルダ、おまえはよっぽど敏感な目をしているんだな」
「方法は絶対あるわ」ヤルダはいい返すと、客人に供するのがズーグマの慣習である調味パン六個を選ぶために、新たな腕をひと組成形した。
食堂は混んでいなかった。ほとんどの人はもっとあと、三コマ目を昼食時間にしている。ネレオとジョルジョがすわって食事をするあいだ、ヤルダとルフィノは脇に立って熱心に話を聞いていた。ゾシモの姿はどこにも見えず、きっと先ほどでっちあげた話をまくし立てたあげく、学科の経理担当者であるルドヴィコに、教授室へ戻って支払い調書を確かめるからいっしょに来いといわせるにいたったに違いない。
ネレオの驚異的装置の建造に投じられたに違いない努力と技能に考えをめぐらせたヤルダは、大学が自前の光学櫛を作れるだけの設備を開発するには何年もかかるだろうと気づいた。要求される精密さは、いまこの大学が持つ能力をはるかに超えたものだ。大学との共同研究への同意がないままネレオが帰っていったら、ヤルダたちのもとに残されるのは、主観的に決定されたさまざまな色相に波長を割りあてた一覧表だけで、だがどのみち、ネレオがそれを近いうちに公表することは疑いの余地がなかった。〝赤〟や〝黄色〟や〝緑色〟の光の一微離 あたりの振動数がいくつかを他人から教えてもらうことが、まったく役に立たないとはいわないが、光学ワークベンチ上でじっさいに光線の波長を測ることができるのと比較したら、見るも哀れな次善の策でしかない。そして、光というものを理解する希望が持てるとすれば、それにはきちんとした数字が必要だ。数学は音の振動や、固体の振動や、かき鳴らされた弦の振動を理解するのに用いられる──そうした異なる種類の波動の特性を、その波動を維持する媒体の特性と結びつけて。光を維持する媒体はなによりも捉えどころのないものだが、数で波動そのものをくるみこむことができたなら、この不思議な物質でさえ、いずれ理解の範疇に持ちこめるだろう。
ネレオが立ちあがって、学生たちに声をかけた。「すばらしい食事でした。ありがとう」
やけになったヤルダは、頭の奥に無言で潜んでいたアイデアをぶちまけた。「サー、お許しください、あの……星の尾全体を あなたの装置に供給するというのはどうでしょう? きちんと焦点を合わせれば、分散していた光が再結合して、目に見える明るさの映像になるのではないでしょうか?」
ジョルジョがいった。「よしたまえ! お客さまはお疲れなんだ!」
ネレオは片手をあげて、ジョルジョに寛容を求めてから、ヤルダに答えた。「可逆性の原則からいえば、答えはイエスです──けれど、大学の観測所とわたしの装置で色の分配のされかたが正確に一致した場合に限っての話で、それは無理ではないかと思いますね」
ヤルダの皮膚は興奮でうずいた。もし色の再結合が、光を集める方法の細かい部分に左右されるなら、これはうまくいく 。
「もし星の尾に、曲げられる鏡で焦点を合わせたとしたらどうです?」ヤルダは意見をいった。「星の尾の全長にわたって、色が届く角度を変えていけるように調節できる帯状の鏡。観測所とあなたの装置を結合させたシステムが、ひとつきりのくっきりした星の映像を結ぶまで鏡の形を変えたら……最終的に狙いどおり得られた形は、波長と速度の関係に関する情報を具体化したものになるのでは?」
ネレオは無言で考えこんだ。ルフィノは当惑して床を見つめている。ジョルジョはまっすぐヤルダを凝視していた。彼がじつのところ、ヤルダが提案を持ちだす要領の悪さはともかく、その提案のとんでもない図々しさにほとほと感心しているのがわかる。
ネレオが話しはじめた。「それはうまくいくように思います。さらに、星の映像の中央を──いちばん明るい部分を──さえぎれば、残ったかさ の部分のより弱い明るさに目が適応するので、鏡を調節してかさ がいちばん暗くなったときを判定するのがよりかんたんになります」
ヤルダは一瞬言葉が出なかった。いまの話が、ヤルダが示した方法を改良する手段の提案だとしたら、ネレオはこのすべてを真剣に受けとめてくれていることになる。
「では、この実験は実施する価値があると思われるのですね?」ヤルダは尋ねた。
「もちろんです」ネレオは断言した。「そして、〈孤絶山〉に行くのは、わたしよりあなたのほうがいい! わたしの体は堕落的な快適さをもたらすあれやこれや、たとえば空気とかの存在に慣れすぎていますから」
ジョルジョが面白がってブンブン音を立てた。
ヤルダは観測所にはいちども行ったことがなかったが、それがどんな苦難を伴うことでも気にならなかった。「光学櫛をわたしたちに貸していただけますか、サー?」ネレオのパトロンの比類なき富によって手に入った、波長の秘密を解く輝かしい鍵を、山の斜面を運びあげて、星の光と出会わせる……ヤルダ自身の手で ?
「八鳴隔 間、お貸ししましょう」というのがネレオの返事だった。「いまから、列車にまにあうようここを出発するまでのあいだ。それだけあれば、この大学で最高のプリズムを、光学櫛に合わせて較 正 できるでしょう」
「プリズム? そうじゃなくて──」
ネレオがいった。「あなたの考えた方法は、星の尾を再結合するのに使われたプリズムでおこなっても、まったく同じようにうまくいくはずです。それをおこなう価値のあるものにするためには、同じ色相が異なる装置から出てくる角度を相互に変換するための換算表さえあればいい。わたしが出発するまでに、あなたはそれを作りあげることができそうですか?」
光学作業室では、ひとりの若い学生がヘリオスタットを偏光実験で使用中だったが、早めの昼食にいってもらえないかとヤルダがいうと、彼は一瞬のためらいもなくそのとおりにした。
倉庫室から、ヤルダは前に使ったことのあるプリズムを持ってきた。各面は磨きあげられてほぼ完全な平面で、欠けや引っ搔き傷ひとつない。その一方、このプリズムがそこからカットされた透明石内部にも、傷ひとつないのは明白だ。このプリズムが、いかにしてかは謎めいているけれど、色をなめらかに分離するのをヤルダは知っていた。
屋根に設置された機械仕掛けの鏡からもたらされる太陽光線が当たる場所にプリズムを置いて、ヤルダはプリズムから出てくる色の扇の中を自在に回転できる台に、プリズムの光の狭い範囲を選択するためのスリットといっしょに、ネレオの光学櫛を固定した。だが、スリットはそれ自体が光線を回折してしまわないよう、あまり細くすることはできない。
ヤルダは白いスクリーンを光学櫛の後方半歩離 のところに置いて、連続する色相についてひと組ずつの角度を記録しはじめた。光がプリズムによって曲げられる角度と、それがそのあと続けて光学櫛によって曲げられる角度の組だ。
ヤルダは細心の注意を払って作業を進めたが、しばらくすると作業過程は機械的かつ自動的になっていった。ワークベンチから外した数個の偏光器をちらりと見る。粉砕丘で産出した特殊な種類の透明石の平板。そのひとつに光線を通すと、光線の明るさは三分の一減じる。最初の板と同じむきでもうひとつの板を直線上に並べてもなんの変化もないが、ふたつの板が〝十文字に〟置かれると──それぞれの光軸がたがいに直角をなすように配置すると──明るさはさらに減って最初の三分の一になる。
ジョルジョはこの現象を、波動説の観点から説明しようとしていた。弾性固体は剪断波 を伝達することができ、そのとき媒体は波の方向に対して直角をなす歪みを被 る。ジョルジョの論じるところでは、偏光器は、光においてそうした波に相当するものが石の特殊な光軸と一列に並んだときに、それを抑制する。水平に置かれた偏光器は、日光から左右の振動を取り除き、垂直に配列された二番目は、上下に振動するすべての波を取り除く。
それでも謎は残る。剪断波とともに、あらゆる固体は圧力波 を伝え、これは空気中の音波ととてもよく似ている。二種類の波の速度は、物質それぞれの特性で決まり、圧力波はつねに剪断波よりも早く伝わる。まったくもって奇妙な物質および 馬鹿げた偶然の両方がそろわなければ、ふたつの波が同じ速さを持つことはないだろう。
十文字に重ねられたふたつの偏光器が星の尾にむけられたとき、もし、偏光器から出てくる光が、さえぎられた光とは違う速さで星から旅してきたのならば、尾の広がりは速度の違いによって生じているのだから、尾のある部分は残りの部分よりも偏光器を通過しやすいはずだ。だがじっさいには、尾の全体がまったく一様に薄暗くなるのが観察される。偏光器から出てくる極性を欠いた光波──おそらく固体の圧力波に相当するもの──は、偏光器でさえぎられた残りよりも少しも速くも遅くもない。
これが偶然の一致──弾性率の完全な陰謀──だとは、ヤルダは思わなかった。むしろそれが示唆するのは、この類比が丸ごと成りたたないということだ。星々のあいだに光を伝えるなんらかのものは、じっさいは圧縮されたり、引き伸ばされたり、剪断されたりはしない。ネレオは光の波長それぞれの周期が繰りかえされる間隔を特定したが、じつはまだだれひとり、ある問いへの答えを持っていないのだった。それはなんの周期なのか ?
色相全体にわたって測定を終えると、ヤルダは数値を浮かべた胸に染料を振りまいて紙に写しとり、それを三組作った。ひとつはジョルジョに、ひとつはネレオに──その数字は特定の透明石の板とのみ関連しているのだから、彼にはほとんど使い道がないが、感謝を示す適切な行為に違いはない──そしてもうひとつは、作業室でプリズムのそばに保管しておく。
ネレオは大学の南門で待っていた。華麗な石造りのアーチには、日光の中でも花をひらかせているよう品種改良された蔓植物が、紫色の花を咲かせて巻きついている。ヤルダはネレオに惜しみなくお礼をいい、駅まで旅行鞄を運びましょうと申しでそうになったが、すでにルフィノとゾシモがそれぞれに鞄をつかんでいた。身体的優位を無用に見せつけて彼らのプライドを傷つけないほうがいいことを、ヤルダは学習ずみだった。
ネレオたち三人が駅にむけて出発したあと、ジョルジョ教授はヤルダを厳しく叱責してから、しぶしぶ認めた。「最終的には時間をかけただけの結果が出るだろう。きみの外交手腕はからっきしだが、これは興味深い結果をもたらすかもしれない」
控え目な評価は侮辱に感じられたが、ヤルダは調子に乗らずに、「そう願っています」といった。
ジョルジョはうんざり気味だが好意的な目でヤルダを見た。「そしてわたしはきみが、もう少し如才なさを見せるよう心がけてくれるのを願っている」
「もちろんです!」といったヤルダは、本気で反省していた。「次にお客さまがいらしたときには、きっと──」
ジョルジョがいらだたしげにうなった。「次の客などどうでもいい! きみは望遠鏡を使いたいんだろう?」
「そうです」ヤルダはまごついた。次の来賓講演者が来るときには、ヤルダはたぶん山の上にいるから、なんの問題も起こせない、といいたいのだろうか?
そのとき、ヤルダは話の意味を察した。
「観測所の使用割当が未定の次の枠は、七旬 後からだ」ジョルジョがいった。「その枠をきみの波長計測に使いたかったら、だれのところに行かなくてはならないかは、わかるだろう」
ルドヴィコ教授の部屋の外の壁には、絡みあうふたつの螺旋のモチーフが彫られている。曲線があらわしているのは、ジェンマとジェンモの運動。この双子惑星は、共通の中心の周囲を十一日五時 隔 九鳴隔 七分隔 でまわっている。もちろん、ふたつの惑星は太陽のまわりも動いていて、六年かけて軌道を一周するあいだに、この世界との距離はかなり大きく変動する。ヤルダがまだ生まれる前にルドヴィコは、ジェンマとジェンモがこの世界から遠ざかっていくにつれて、時計仕掛けのように正確なふたつの惑星どうしの周回が、ごくわずかだが遅くなっていくことに気づいた。一方の惑星がもう一方の前を横切るときの観測時間が、天体力学の予測よりも徐々に遅くなっている。だがルドヴィコには、重力の法則がまちがっているのではないことがわかった。光が届くまでに、少し長くかかっているのだ。この洞察を得て、ルドヴィコは観測結果から、色全体を平均した光の速さの信頼できる数値を、はじめて計算で求めた。
ルドヴィコがヤルダを部屋に呼び入れたときには、太陽は沈んでいた。炎石のランプに火がついて、紙の散らばった大きなデスクの片隅でパチパチ、シューシューと音を立てている。ヤルダはルドヴィコの前に立って、敬意のしるしにうつむきながら、自分の提案を手短に説明した。星の尾の中で光が分離する角度と、透明石のプリズムが作りだす屈折の角度の関連を調べるのが目的です、とヤルダは言明した。ネレオの装置に言及する必要はまったくなかった。「プリズムの作用を光の速度と結びつける公式を発見できたら、それは色が屈折する仕組みについての、なんらかの洞察にもつながるでしょう」じっさい、ヤルダが集めたデータはその目的にぴったりのはずだ。決していいかげんなことをいっているのではない。
ヤルダがしゃべり終えると、ルドヴィコはうんざりするような試練がようやく終わったといわんばかりの音調で、押し殺したうなりをあげた。
「わたしはこれまで、おまえを相手にする時間をほとんど取らずにきた、ヤルダ」ルドヴィコがいった。「それはおまえが文化の遅れた東の片田舎の出で、おかしな訛りや風変わりな習慣を引きずっているからではない。それは魅力になることもあるし、正すことさえできるだろう。また、おまえが女だからでもない──というより、ほとんど女、あるいは自然が適切な道をたどったなら女になっていたかもしれないなにか、というべきか」
ヤルダは啞然として顔をあげた。こんな子どもじみたいいかたで侮辱されたのは、村の学校を卒業して以来のことだ。
「そうではなく、わたしが好ましからざることだと思うのは、おまえが傲慢で、あまりにも移り気なことだ。ある実験の話を聞いたり、なにかの研究のことを読んだりすると、おまえは過去に支持していたアイデアを窓から放りだしてしまう。決して過ちをおかさない自分自身の推理力が真実に導いてくれると信じこんで、あっちへふらふらこっちへふらふらする」ルドヴィコは片手をあげて、ジグザグに動かしてみせた。「さて、わたしはおまえとまったく同じ実験の話を聞き、まったく同じ研究のことを読んできた。だが、おまえの不遜さを共有していないのはまちがいない──なぜなら、おまえと同じみっともない一連の自己矛盾した宣言をしたり、忠誠を誓う先を果てしなく変えたりする気は、起きなかったからだ」
ヤルダはなにもいわずに、自分はこんな激しい非難を受けるようななにをしたというのか、懸命に思いだそうとしていた。ルドヴィコも審査員のひとりだった入学前の面接で、ヤルダは正直に、粒子説を若干支持しているというようなことを少しいった。それはジョルジョが二重スリット実験をする以前のことだ。けれど、半年前のディベートでは、ヤルダは波動説の側に立ち、対立する側の意見の欠陥を、とても効果的に述べたてた。当然ではないか? 証拠は積みあげられていて、ヤルダにはどんどん疑いようのないものに思えていた。だがどうも、自分ごときの低レベルな推理力を信じてその結論にいたるのは、一種の傲慢であったらしい。
ルドヴィコはデスクの下の棚に手を伸ばして、分厚い紙の束を持ちあげた。じっさいには本であることにヤルダは気づいたが、製本はひどい状態だった。
「発光微粒子理論に関するメコニオの本は読んでいるかね?」ルドヴィコが尋ねた。
「いいえ、サー」ヤルダは認めた。メコニオは第九期 の思想家だ。修辞学の研究にはいくつか些細な貢献があったが、自然現象の理解についてはなんら印象的なところのない人物だ、とヤルダは聞いていた。
「もし 、これから二旬 以内に、メコニオについて多少なりとも洞察力のある三ダースページの小論文を書けたなら、観測所の使用を許可しよう」
ルドヴィコはぼろぼろの本をさしだした。ヤルダは手を伸ばして、慎重にそれを受けとった。「真に偉大な知性と少しでもむきあえれば、おまえにもようやく謙虚さのかけらがもたらされるかもしれん」
「ありがとうございます、サー。全力で取りくみます」
ルドヴィコはいらだたしげにうなった。「わたしが注意をむけるに足る論評をひねり出せなかったときは、わたしの助手に本を渡して、二度とわたしの時間を無駄にすることがないようにしたまえ」
ルドヴィコの部屋を出たヤルダは、重い足取りで暗い廊下を建物の出口にむかった。二時 隔 前、ヤルダは多幸感に包まれていた。いまはひたすら絶望している。あの男はヤルダに、実行不可能な課題をあたえた。たとえメコニオの大著がそこかしこに絶賛に値する輝かしい洞察の出てくる代物だったとしても、古くさいにもほどがある第九期 の言葉をこつこつ読み進んだ上で、締切にまにあうようにメコニオの考えについてなにかしら気の利いたことを書くのは、ヤルダには絶対に不可能だろう。
「あなた、だいじょうぶ?」
ヤルダはびっくりして振りかえった。明かりのついていない、廊下に面した部屋のひとつから、だれかが出てきたところだ。声は近くから聞こえたが、ヤルダに見えるのは闇の中のぼんやりした体の線だけだった。
「花のスペクトルを測っていたの」とその女は説明した──植物の発光がよりよく観察できるので、夜、ランプなしでするのがいちばんいい作業だ。「わたしはトゥリア」
「ヤルダです。お会いできてうれしいです」声にどうしても意気消沈していることが出てしまったが、ヤルダがひと言も発しないうちに、トゥリアは気づかう言葉をかけてきたのだった。「わたし、だいじょうぶじゃなさそうに見え──?」
「あなたがルド案件のひとつをかかえているとわかったから」トゥリアが打ちあけるようにいう。ヤルダの目が薄闇に慣れるにつれて、トゥリアの輪郭がはっきりしてきた。「廊下を歩いてくる人の足取りに、ほんとうにはっきりした特徴が出るの。サディスティックにこき下ろすのがあいつの十八番 で、どんな気分にさせられるかはよくわかる。でも、あいつのせいで落ちこみそうになったら、思いだして。あいつのいうことはなにもかも、肛門を遡ったところから出てきているんだって」
ルドヴィコの部屋まで音が響いていかないよう、ヤルダはあわてて自分の反応を抑えこんだ。「あの歳の人がそんなことをするには、よほど体が柔軟でないと」ヤルダはいった。
「柔軟ていうのは、ルドじじいには当てはまらない 言葉ね」トゥリアが応じる。「あいつの振動膜は数ダース年もあそこに張りつきっぱなしだと思うわ。道具を取ってくるから待っていて」
トゥリアが作業室にちょっと戻ってから、ふたりはいっしょに夜の中に出た。星に照らされた中庭を歩きながらトゥリアがいった。「あいつはお気に入りの読書物件を渡したようね」
「二旬 のあいだにこの本について小論文を書かなくちゃならないんです」ヤルダは嘆き声をあげた。
「ああ、メコニオね!」トゥリアは小馬鹿にしたように甲高い声をあげた。「世界に関する一見学術的な断定の数々を、そのひとつとして検証する手間などかけずにおこなうことで五グロスページを埋めることが可能である 、と証明した人。まあ心配しないで、わたしたちはみんなその小論文を書かされたんだから。昔書かれたやつのひとつに、別物に見える程度に手を入れて、渡してあげるわ」
呆然とすればいいのか感謝すればいいのか、ヤルダはわからなかった。「そんなことをしてくださるんですか?」
「もちろん。したらいけない?」トゥリアがからかうようにいった。ヤルダの声に非難の響きを聞きとったのだ。「大事なテストであなたがインチキをするのを手伝うというわけじゃない。ルドじじいがいつもの好き放題をしているだけ。だから……機会あるごとにあいつを八分裂させてやるのが、わたしのポリシーなの。ところであなたは、あいつからなんのお許しを得る必要があるの?」
ヤルダは自分の波長-速度プロジェクトについて説明した。
「エレガントなアイデアだわ」トゥリアは即座にいった。「でも、山の上はしんどい。いくつか助言することがあるから、出発前に声をかけてね。むこうでは高体温になりやすい、だとか」
「観測所に行ったことがあるんですね?」
「六回」
ヤルダは感心した──相手の身体的なスタミナにだけではない。「あなたはなんの研究をされているんですか?」
「ほかの世界の生命を探している」トゥリアの語調はその試みがどこを取っても実際的なもので、小麦畑で雑草を探すのとなんの違いもないかのように感じさせた。
「スペクトルの中にそのしるしが見つかると?」ヤルダは懐疑的ではあったが、その発想は魅力的だった。
「当然」トゥリアが答える。「もしわたしたちの世界を遠くから観測している人がいたら、その光の尾はほかのどんな恒星のものとも大きく異なっているはず。植物は多種多様な色を作りだし、それは不連続な色相として見えるでしょう。岩が燃えるとき、燃料自体もそれ特有の色を放出するけれど、熱いガスが出すスペクトルは連続的になる」
「でも、ほかの世界の植物がどんなものかなんて、どうしてわかるんです?」
「光化学的な細部は違うでしょうね」トゥリアは認めた。「それでも、生命が不連続な色の帯というかたちで存在をあらわすことは、絶対に確か。だって、途中で光を発生させることなく岩からエネルギーを取りだす方法を、なにか知っている? それに、もしその方法が段階的で制御されたものではない としたら、もしそれが特定の経路に制限された、植物のようなやりかたでなかったとしたら……世界が燃えあがるわ。それが恒星なのよ」
ヤルダは会話に夢中になっていたので、大学の外に出たことに気づいていなかった。あたりを見て、自分の居場所を確認する。
トゥリアがいった。「これから友人たちに会いに南地区へ行くの。もしよければ、いっしょに来ない?」
「かまわないんですか?」
「全然」
ふたりは、〈大橋〉にむかって南に延びる大通りに曲がった。ヤルダはズーグマの晩方が好きだ。飲食店や個室の窓からこぼれた光が丸石に反射しているが、星々の尾もはっきりと見える。行き交う家族連れやカップルはそれぞれの関心事に没頭して、ヤルダの巨体に再度目をむける人はいない。もしトゥリアと出くわしていなかったら、ヤルダはいまごろ、街路と空の美しさがルドヴィコの指導者ぶった痛罵への怒りを圧倒してくれるまで、街なかをひとりで歩きまわっていただろう。遅ればせながら、ヤルダはポケットを作って、メコニオの学術書をそこに保管した。もしこの本そのものを紛失したら、メコニオの天才に対する最大級の媚びへつらった讃辞をもってしても、ヤルダが救われることはないだろう。
〈大橋〉を途中まで渡ったところで、ふたりは立ち止まって、都市を二分している大地の黒い裂け目 を見おろした。数期 前、この土地は炎石でいっぱいだった。最初の集落は、浅い鉱床のまわりに発達した。やがて、複雑なトンネル網が、鉱石の奥深くへと張りめぐらされた。だが、十一期 初期、鉱坑で事故が起きて、鉱床が全部丸ごと発火した。街の半分が壊滅し、燃料は跡かたも残さず燃えつきた。残ったのはこのギザギザの深淵だけで、それはふつうとは逆の意味を持つ皮肉な地質化学的地図だった。これが 、おまえたちが手に入れられたはずだがいまは消え去ってしまったものだ 。
「あらゆる世界は最初、たぶんほとんど同じ鉱物の混合物だった、とわたしは考えている」トゥリアがいった。「もしかすると、何累代 も前には、そのすべてがひとつの、始源世界の一部だったのかもしれない。でも、その起源がなんにせよ、ある世界に起こることは三つしかないんじゃないかと思う。ジェンマとジェンモのように暗いままでいるか。太陽や星々のように、燃えだすか。あるいは、生命が出現して、同じ種類の化学現象を、もっと制御されたかたちで起こすか」
ヤルダは〈大発火〉があとに残した穴をじっと覗きこんだ。「ここを見ていると、そうした可能性が並立することもあると思えます」
「そうなのよ」トゥリアが応じた。「事実、それは普遍的真理であるらしい。もしかすると、星々は急に爆発して光になったのではないかもしれない。最初は植物に覆われた世界で、その植物が自分たちの必要以上に生産的になりすぎた、ということもありうる。これまでに発見された解放剤は、すべてが植物から抽出されているわけだしね。それに、同じことがこの世界でも起こるのは、時間の問題にすぎないということだってありうる──植物が引き起こすか、化学科のだれかがその栄誉を担うかはともかく」
「だんだん心配になってきました」とヤルダはいったが、冗談は半分止まりだった。「安定石を発火させられる人がいるとしたら、化学者ですね」
ふたりは橋を先に進んで、南地区に入った。「前にあのレストランで働いていたの」トゥリアがいって、人でにぎわう脇道にある明るく照らされた建物を指さした。「学生のころ」
「これからあそこに行くんですか?」
「あなたが放火したくなる場所に立ち寄りたいならね」
「なんだか懐かしそうですね」
「常連客はほとんどが議員の息子や取り巻きだったの」トゥリアがいった。「懐かしい想い出があって当然でしょ?」
トゥリアは別のレストランにヤルダを連れていき、そこはヤルダがこれまで何回も前を通った店だったが、ふたりは正面入口を入るのではなく、厨房の裏手を通る曲がりくねった路地にすべりこんだ。トゥリアが建物の中で働く女と大声で挨拶を交わし、ヤルダにはちらりとしかその姿が見えなかったが、ふたりはそのまま路地を進み、明かりのない階段の下に出た。ヤルダは自分がいまいる場所を確かめるのにちょっとかかった。階段はレストランの建物の三階に通じていた。
「ご友人のみなさんは、ほかのお客さんといっしょに食事をするんじゃないんですか?」ヤルダは当惑するとともに、少々不安になってきた。なぜ自分たちは闇の中をこんな風にこそこそ歩いているんだろう?
トゥリアは階段の途中で立ち止まった。「ここは忌 憚 なく話ができる場所なの、だれかに聞かれることを気にしたりせずに」トゥリアは説明した。「わたしたちはここを〈単者クラブ〉と呼んでいる──といっても、純粋な単者は数人しかいないけれど。双が死んだ人もいるし、出奔者もいるし、絆を切ろうと考えているだけの人もいる」
ヤルダは出奔者のことは耳にしていた──そしてたいていの場合は、完全に是認していた──が、この階段をのぼった数歩離 先に急進派が大勢集まっていると聞かされるのは、話が別だった。
ヤルダはいった。「もし市警察が──」
「警察がここに来ることはないわ」トゥリアは断言した。「手出しをしないほうが身のためな場所になるよう、手を打っているから」
ヤルダは気を落ちつかせた。これまでズーグマで出会った女と友人になったことが滅多にないのは、相手と自分が期待するものの違いが理由のひとつだった。これは、確実に迫りくる出産を中心に人生が動いていない数人と出会える、ようやく訪れたチャンスだ。法に反する立場の人がその中にいるからというだけでそれをふいにするとは、臆病すぎるのではないか?
ヤルダはいった。「あなたのご友人のみなさんにお会いしたいです」
階段は暗かったが、あがったところのカーテンは左右に分かれていて、階下のレストランと同じくらい明るい部屋の中が見えた。だれひとり、ついたての陰に隠れて扇動的なことをささやいたりはしていなかった。少人数のグループでランプや料理を囲んで床にすわり、大学の食堂の学生たちとそっくりに、しゃべったり、ブンブンいったり、歓声をあげたりしている。
あるグループのひとりの女がこちらをむいて、トゥリアに声をかけた。いっしょにそばにいくと、トゥリアが引きあわせてくれた。
「ダリア、アントニア、リディア、こちらはヤルダ。数鳴隔 前に会ったばかりだけれど、光学の輝かしい秘密に本気で取りくんでいるので、彼女は知っておくべきだと思ったの」
「どうぞすわって」ダリアがいった。なにかの図がダリアの胸に浮かんでいたが、ヤルダにはそれがなにを意味するのか、一瞥 しただけではまったくわからなかった。
ふたりがすわると、トゥリアがその図について尋ねた。
「ちょうど西 低 木 ハタネズミの話をしていたの」ダリアがいった。「仔は生まれてから半年間、世話が必要だけれど、その世話を提供する不妊の個体はいない。かわりに、同腹の仔の片方が生殖を一シーズン遅らせる。先に生殖をした母の仔たちは、遅れて生殖をするおばに世話をされる。遅れて生殖をした母の仔たちは──おばが 先に生殖をすることになるわけだけれど──そのおばの、遅れて生殖をする子に世話をされる」