十二歳の誕生日の翌日、ヤルダは夜明け前に眠りからさめると、冷たい土の誘惑に眠りへと引き戻される前に、無理やり目をひらいた。見あげた低い天井を縦横に走る蔓に、小さな黄色の花がぽつぽつと咲いている。店の準備をする露店商たちが立てるドシンとかズルズルとかいう音が、市場の床から漏れてくる。

 ズーグマ市の公共寝床は人気が高く、ヤルダは夜間勤務ナイトシフト 労働者たちが下りてきて、場所を空けろとぶつぶついいながらつついてまわるようになる前に立ち去りたかった。立ちあがって、まわりで寝ている人たちのあいだを縫って進みながら、静かに近くを動いているほかの人影を意識する。ほっそりした蔓の放つ光で、行く手はちょうど見えたが、眠っている人を踏んづけたり、出口へむかうほかの人とぶつからないようにするには、注意と慣れが必要だった。

 階段を駆けあがって市場に抜けだすと、パンを買い、通りに出たときには、青白い空がすっかり消し去る前の星々を目にするのにまにあった。ズーグマでは、野外で眠るという選択肢があるのは、もっとも裕福で壁に囲まれた私的な庭を持つ住民だけだ。公園の花の脇に寝床の窪みを掘ったら、市の財産を傷つけた罪で鞭打たれるだろう。けれどヤルダは、お金を浪費して塔の個室で眠るよりも、市場の地下で夜を送るほうが好きだった。塔の個室の寝床にはずっと下の地面に埋められて熱を排出している円柱状の安定石製熱導管が延びてきていて、いちばん高くにあるそうした陰鬱な檻を冷やしている。

 エウセビオとの約束の時間までにはまだ五鳴隔チヤイム あったが、ヤルダはしっかりと準備をして、私的講師の時間が予定をはみ出すことのないようにしておきたかった。今日は、光学の新展開についての来賓科学者による午前の講演があって、ヤルダはそれを聞き逃したくなかった。というわけで、ヤルダは市場と大学のあいだの小きたない道々をゆっくり歩きながら、細部まで授業の計画を立て、歩きながら図表を作った。道を歩いている人は多くはなく、すれ違う人がいても、ヤルダの皮膚の上で奇妙な形が形成されたり変形したりするのを見て驚いたりはしなかった。大学人の中には、貴重きわまる自分の思考内容を隠すために、大変な苦労をして、心の中だけで下書きをしたり、体の上にあらわれるものを確実に掌規模にとどめられるようにしたりすることを覚える人もいるが、ヤルダはそうしたこそこそしたふるまいを身につける必要を感じたことはなかった。

 ヤルダが街を歩きまわったタイミングは完璧だった。エウセビオの住む石造の塔に入ったちょうどそのとき、大学の時計が悲しげなチヤイム を鳴らした。すばやく階段をのぼる。約束の時間ぴったりに着くのは不作法だが、時間厳守するヤルダの堅物ぶりも、五階までの全力疾走でやわらげられるだろう。

 エウセビオの部屋に着くと、入口に掛かったカーテンは、すでにヤルダを迎えるためにひらかれていた。「ヤルダよ!」と声をかけて、入口を通り抜ける。部屋は染料と紙のにおいがした。壁際に何ダースもの教科書が積みあげられ、エウセビオ自身のノートもそれに匹敵するほど大量にあった。商人の息子で、列車運送事業への参入を望んでいるエウセビオは、工学技術の学習と真剣に取りくんでいた。本の山のひとつの脇を行ったり来たり行進している三体のぜんまい人形でさえ、彼にとっては遊び事もまた、なにをする機械なら作れて、なになら作れないかというテーマと関係したものになるという証拠だった。

「おはようございます、いらっしゃい!」エウセビオは部屋の片隅の床にすわって、綴じられていないノートのページを目の前に広げていた。エウセビオは男にしては体が大きく、けれど機敏でないということは全然なかった。ヤルダは、自分がそうだったように、彼も子どものころから、体格の小さい同年代の一族の器用さに負けないよう努力してきたのではないかと思っていた。

 ヤルダはエウセビオとむきあって、あぐらをかいてすわり、さっそく本題に入った。エウセビオが昨日受けた講義でなにを聞かされたか、ヤルダは正確に知っていた。四年前、ヤルダ自身が受講して以来、入門物理学の講義は、ただのひと言ですら変化していない。

「エネルギーと運動量の保存」ヤルダはいった。「どれくらい理解できた?」

「たぶん半分くらい」エウセビオは正直にいった。けれどエウセビオは、軽々しく理解したという言葉は使わない。講義には完璧についていけたが、より深く主題について把握したがっているのだろうとヤルダは思った。

「単純なところからはじめましょう」ヤルダはいった。「ある物体が、摩擦なしに自由に動けたとする。最初は静止していて、そこに一定の力を加えていく。ある時間が経過したあとの、力と、時間と、物体の速度の関係をいってみて」

 エウセビオは答えた。「力は質量かける加速度に等しい。加速度かける時間で速度が出る。ゆえに、時間 の積は、その物体の質量と速度の積に等しい──これは〝運動量〟とも呼ばれる」

 ヤルダは、よくできましたというように目を大きく広げた。「では、物体が静止しているところからはじまるとは限らない、一般的な状況においては? 物体にあたえられた力と時間の積は……」

「物体の運動量を変化 させる」エウセビオは計算を書いた紙をひらひらさせた。「それは確認しました」

「よろしい。では、ふたつの物体が相互作用したら──近づいてくる列車に子どもが石を投げて、それが先頭車輌に当たって跳ね返ったら──ふたつの運動量にはなにが起きる?」

「石に対する列車の力は、列車に対する石の力と、等しくかつ逆むきになる」エウセビオが答える。「そしてどちらの力も同じ量の時間のあいだ作用するから、等しくて逆むきの運動量の変化をもたらす。石の運動量が──列車が動く方向について測った場合──増加する分、列車の運動量が減少する」

 ヤルダはいった。「ゆえに、全体は、すなわちふたつの運動量の和は、変化しない。こんな単純な話がある?」

「運動量はとても単純です」エウセビオが同意する。「でも、エネルギーは?」

「エネルギーもほとんど同じよ!」ヤルダは力づけるようにいった。「力と時間の積の代わりに、力と移動距離の積を使うというだけのこと。力と時間の積を、力と移動距離の積にかんたんに変える方法は?」

 エウセビオは少し考えてから、「距離割る時間、つまり平均速度 をかけることです。静止状態から動きはじめてなめらかに加速する物体の場合、それはその物体が到達する終速の半分になる。ゆえに、力と移動距離の積は、運動量と速度の半分の積になる……あるいは、質量の半分かける速度の二乗。運動エネルギー」

「大正解」ヤルダはいった。

 エウセビオはそうした計算をじゅうぶんに理解していたが、もっと大きな見地についてはあまり満足していなかった。「エネルギーの話になると、〝保存則〟は例外の長いリストだらけになるんですよ」エウセビオがぼやいた。

「そうかもしれないわね。その例外というのをあげてみて」

「重力! そこの窓から本を落としたら、その運動エネルギーは同じままではいないはずです。この世界が本を引っぱりおろすのと同じ力で、本がこの世界をそれにむけて引っぱりあげているという事実も、助けになりません。それは運動量の釣り合いは保ちますが、運動エネルギーについてはそうではない」

「そのとおり」ヤルダは、練習しておいた図表のひとつを胸に浮かべた。