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祖父の死に続く春、ヤルダはいとこやおじや父に加わって、収穫作業を初体験した。ルシアとルシオが──前の年にヤルダがやっていたように──こぼれた実を拾い集めたり、集積地点のあいだに手押し小麦荷車 を転がしたりと駆けずりまわっているあいだ、収穫作業をする人々のほうは小麦の列のあいだを黙々と行きつ戻りつしていた。
ふたつの手を同時に使って、ヤルダは自分の左右にある茎から種囊をもぎ取り、ぽんと弾けるまで握りしめて、自分の体に作った体袋 に中身を空けてから、種囊を地面に落とす。それは貯蔵穴を掘るような重労働ではなかったが、まったく単純な反復作業ゆえのつらさがあった。ヤルダは種囊をこじあけるために指を堅いくさび形にしていたが、しばらくすると圧力で指が変形してきたので、作業を中断し、指を再形成する必要があった。また、腕や手が凝って作業が続けられなくなったときは、新しいひと組を押しだして、それまで使っていた筋肉を休ませるほかはなかった。ヤルダはまだ、収穫作業の経験豊富な人の耐久力を身につけてはいなかったけれど、体の大きさ自体が利点になった。彼女の男のいとこたちはふた組の腕を順に使い、クラウディアとオーレリア、それに大人の男たちは三組を使っていたが、ヤルダは午後の中ごろには五組目を使っていて、作業開始当初の最初の腕を形成していた肉はまだ胸の奥深くにしまいこまれて力を回復中だった。
ヤルダは列の終わりに来るごとに、列の端を通る小道沿いに兄と姉が徐々に移動させている小麦カートに体袋の中身を空けてから、次の列にとって返して同じ作業を再開した。作業初日が終わったら、ヤルダの体は作業がもっと楽になるように体形を調整するはずだ、とジューストおじから聞かされていたが、それより前にその方法をだれかが教えても無駄だともいわれていた。調整の仕方は各人それぞれで、模倣ではなく本能で達成したほうがうまくいく。
日暮れどきには、ヤルダはへとへとになっていたが、カートに積みあげられた黄色い小麦の山の高さには満足感を覚えた。ルシオを手伝って、商人のトラックが置いていった大型貯蔵タンクのところに、カートの一台を押していく。
「来年、ぼくが収穫に加わったら」ルシオが尋ねてきた。「だれがカートを担当するんだろう?」
「わたしたちが交替しながら担当するのよ」と答えたヤルダは精いっぱい、その推測が根拠のあるものに聞こえるようにしようとした。質問というのは、説明を求める価値がある人にむかってするものだ。いっしょに生まれた兄姉ではなく、年上のいとこにむかって。だがどうやら、収穫作業を割りふられたこともそうだが、ヤルダの体の大きさ自体が、じっさいの年齢よりも意味を持ってきているらしい。
夕食は、全員が巨大な貯蔵タンクにもたれるようにすわりこんで食べた。ヤルダは暗くなっていく空を見あげながら、父とおじが小麦の収穫高と品質の話に熱中するのに耳を傾けた。オーレリアはクラウディオをからかって彼の腕を繰りかえし殴り、仕返しされても平然としている。ヤルダは平和な気分だった。祖父がいないのはいまもさびしく思うが、祖父はきっと豊作を喜んだだろう。
夜が更けていって、ほかの子どもたちがあわただしく寝床にもぐりこんだとき、ヤルダは小麦カートのひとつが、中身を満載したまま収穫ずみの列の端に置かれているのを目にとめた。ルシアに声をかけて片づけさせようかと思ったが、体の大きさゆえに年上のようなふるまいができることを知ったばかりとはいえ、自分を自らの姉よりも上に置きたくはなかった。ヤルダは自分でカートを押しにいった。
カートを貯蔵タンクの上に続く傾斜路の上がり口まで運んだところで、ヤルダは車輪の位置を直そうと立ち止まった。「優秀な働き手をそんなことで失うのはごめんだ!」おじが文句をいっている。こちらとはタンクの反対側にいるが、おじの声ははっきり聞こえた。
「収穫期には、あの子はここに戻ってきてくれるだろう」言葉を返したのはヤルダの父だった。
「一年に数日だけだぞ! それも、何年そうしてくれる?」
父がいった。「わたしはあの子の母親に約束した。子どもたちの中に、教育を受けることが恩恵となる気配を見せる子がいたら、最善を尽くして学校に行かせると」
「彼女はあの子が畑で働くところを見たわけじゃない!」おじがいい返す。「わたしたちになにをあきらめろといっていることになるかを知っていたら、彼女もそこまでこだわったとは思えない」
父は動じなかった。「彼女は自分の子どもたちひとりひとりが、可能なかぎりの最良の人生を送ることを望んだだろう」
「わたしがあの子に、英雄譚 を暗誦できるよう教えるよ」おじがいい切った。「それであの子もほかのことを考える暇がなくなるだろう」ヤルダはぞっとした。祖父が話してくれた物語は楽しいものだったが、おじは、一ダースの退屈な英雄たちの魅力的でない功績を長々と列挙して、夜の半分をつぶしかねない人だ。
「これは、あの子がそのうち農作業に飽きるだろうというだけのことじゃないんだ」父がいう。「ここでぶらぶらしていたら、あの子は絶対に代理双を見つけられない」
「それがどうかしたのか?」おじの返事はとまどい混じりだった。「あの子の働きぶりはほかの子どもの四人分だ。それにあの子が、おまえが孫を持てる唯一の可能性というわけじゃないだろう」
ヤルダは騒々しく傾斜路をのぼって、カートの中身をタンクに空けた。小麦の落ちる音が静まったとき、会話は終わっていた。
ヤルダが寝床にもぐりこんだときには、オーレリアでさえ眠りこんでいた。いつもなら大人たちが寝床に着く前まで冗談や皮肉をささやきかわすところだが、それには疲れすぎていたらしい。ヤルダは横になって、天を翔 る星々を見つめた──誇張や虚勢で飾られることのない歴史の尾を引いて、ヤルダがその解読方法を学ぶのを待っている。
学校に行けるという可能性にはぞくぞくした。それは知識の貯蔵庫に、ヤルダが懸命に取りくんできたあらゆる疑問に答えをあたえてくれる場所に、まっすぐ入っていくということだ。学校に行けば、星はどのようにして輝くのか、肉はどんな風にして形を変えるのか、植物はどうやって夜と昼を区別しているのかがわかるだろう。
だが、単に好奇心を満たすために学校に行く人はいない。自分の一族からはあたえてもらえない新しい技能を学びにいくのだ。学校で勉強した農家の子どもが、農場にとどまることはない。世の中に出ていって、古い生活はあとに残していく。
収穫の最終日の晩、小麦を運んでいくために商人のトラックが戻ってきた。ヤルダが見守る中、父とおじ、それにトラック運転手のシルヴァナが、収穫者たちが貯蔵タンクに中身を入れるために使っていた傾斜路を、新しい用途のために移動させた。タンクそれ自体をトラックの後部に引きあげるのだ。
トラックのウィンチに巻かれていた数本の鎖がほどかれて、タンクの端に引っかけられる。エンジンがガタガタと音を立て、ウィンチがまわりはじめると、トラックの煙突から薄闇の中に火花が漂いだし、それは森で祖父の皮膚を咬んでから上にのぼっていったダニを思わせた。
タンクが傾斜路のてっぺんから突きだしていき、いまにも傾いてトラックの荷台に平らに落ちつきそうなときに、エンジンがいきなり止まった。シルヴァナが運転台から飛びだして、トラック側面のハッチをぐいと引っぱってあける。
ヤルダはうっとりして機械の迷宮を見つめた。そんな彼女に気づいたシルヴァナは、もっと近くに来るよう、愛想よく手招きした。「これが燃料」シルヴァナがいって、橙色の粉末でいっぱいの漏斗状容器 の蓋を取った。「そしてこれが解放剤」もうひとつの小さめのホッパーが、細かな灰色の粉剤を正面から送りこんでいる。「燃料は光になりたがっているが、単独ではなれない。だが燃料を解放剤と混ぜると……」シルヴァナは両手を合わせてから、すばやく引き離した。「両方が、光と熱いガスになる。ガスはピストンを押しあげ、それがクランク軸をまわす。そしてギアがその動きを、前部の車輪かウィンチに連結する」
ヤルダは知らない人を質問で困らせてはいけないといわれていたが、この女の心の広さと熱意に力づけられて、「どうして動かなくなったんですか?」
「パイプが詰まっただけだろう」シルヴァナはふたつのホッパーの下の、もっと小さなアクセスハッチをあけると、一本のパイプを端から軽く叩いていった。「聞いてわかるんだよ、詰まったときには。ああ、やっぱり」同じ場所を繰りかえし叩いて鈍い音を聞かせてから、運転台からハンマーを取ってきて、だいじょうぶなのかと思うほど強くパイプを叩く。トラックの車体の奥深くで痙攣したような震えが起こり、ふたたび煙突から火花があがったが、エンジンはまだ本格的にはかからなかった。いまのは、途中に引っかかっていた燃料が、運命を全うしただけらしい。
「あの火花はなんなんですか?」ヤルダは尋ねた。
「混合がきっちり正確でないと」シルヴァナが答えた。「燃料の一部はまだ燃えたまま、ガスといっしょに出てくるんだ」燃料ホッパーの下のノブを少しずつ動かして、ほとんどわからない程度だけまわす。「こうやって燃料タンクからの出口をコントロールする。パイプはだんだん詰まってくるから、調節してやる必要があるのさ」
シルヴァナは運転台に戻ってエンジンをかけ、貯蔵タンクを所定の位置におろし、ジューストおじが手伝ってそれをしっかり固定した。
トラックが走り去ると、ジューストおじは自分の兄に近寄った。「まったく無駄なことをするもんだ、あんな仕事のために女を訓練するとは」おじはいい放った。「数年もすれば、別のだれかが必要になるだけなのに」
父は返事をしなかった。ヤルダはドクター・リヴィアのことを思った。村で聞いたところでは、彼女は出産して、患者はすべて彼女の父親が引き継いだという。森から戻ったときのヤルダは、祖父に対するドクター・リヴィアの勧告は役立たずだったと決めつけていたが、その後、森への旅を提案したのは、死にかけた男の一族が被 る危険を小さくするためで、しかし予測される事態を率直に話しても一族には受けいれられないだろうから、というのがほんとうの理由だったのではないかと考えはじめていた。
ルシオとルシアがパンを運んできて夕食になった。遅い時間で、だれもが疲れていて、貯蔵タンクが置かれて平らに均 された地面に寝転がって食べた。明日は一族全員がお祝いに繰りだして、収穫がもたらしたお金を少々使うだろう。ヤルダは自分が果たした役割を誇りに思っていたが、それが終わってしまったのが残念で、妙な具合に胸が痛くもあった。収穫作業はヤルダの体がちょうど慣れてきたところで終わりを迎えていた。
前触れもなく、ひとすじの光が空を駆け抜けた。それはほっそりと長く、目が眩むほど明るくて極彩色で、驚いたヤルダが叫び声を発する間もなく、地平線のむこうに消えた。
最初に言葉を発したのはクラウディアだった。「あれはなんだったの?」
「流星だ」ジューストおじが答えた。「流星だが、速くて低かった!」
ヤルダは父がそれを正すのを待った。父はヤルダに何度も流星を指し示してくれたことがあって、どれもいまのとはまったく違っていた。目を閉じて、いま出現したものの記憶を呼び戻そうとする。光の線は一瞬にしてあらわれて消えたが、線の中の場所によってはっきりと色が違っていたのはまちがいなかった──星が引いているのと同じような尾だが、はるかに長い。流星は、この世界の通り道に偶然入りこんで、空気の中を落ちてくる岩の塊だ。光の色が分かれるほど速くは動かない。流星の尾は、ひと呼吸かふた呼吸で空を通りすぎるあいだ、空気中で燃えつづける火でしかなかった。
父が黙ったままなので、ヤルダは我慢していられなくなった。「あれは流星じゃなかった」ヤルダはいった。「速すぎたわ」
「どうしてそうだとわかる?」おじが問いただした。「わたしたちのすぐ上を通過したとすれば、どうだ?」おじは面白がっているふりをしようとしていたが、じっさいは自分のまちがいを正そうとする子どもがいることに腹を立てているのが、ヤルダにはわかった。おじは立ちあがってヤルダに数歩近づくと、大きな弧を描いて腕を振り、もう少しで彼女を打つところだった。「わたしの手でさえ、じゅうぶんおまえの近くを動けば、おまえがどきっとする前に、空の端から端まで動いたように見える」
ヤルダは色の尾のことをいってやりたかったが、あの奇妙な物体が見えなくなるのはあっという間だった。ヤルダが目にしたパターンに、もしほかのだれも気づいていなかったとしたら?
「それにあれが流星でなかったなら」おじは勝ち誇ったように話を締めくくった。「なんだったんだ ?」
ヤルダには答えの持ちあわせがなかった。地平線から地平線まで一瞬で駆け抜け、空の三分の一に及んで色をまき散らすなにかを、名づけることも、説明することもできなかったからだ。
エンジンの中で毎日、光を作りだしているシルヴァナなら、答えを知っていたかもしれない。クララはきっと知っていただろうし、友だちであるヴィタに教えていただろう。けれど、もし母ヴィタが、光についてのいくつかの秘密を父には隠しておくことを選んでいたとしても、ヤルダには母を責められなかった。
ヤルダはうつむいて、おじの知恵を敬い、意見を受けいれたのだと思わせておいた。辛抱しなくてはならない。学校に行けば、あらゆることを知ることができる。
授業の初日、父がヤルダといっしょに村まで歩いた。父は片づけなくてはならない用事があるからだといっていたが、そうでなくても付き添っていただろうとヤルダは思った。
「昔は」トラックがガタガタと脇を通りすぎたあと、父は考えこむようにいった。「男の子どもに学校教育をするのは無駄だといわれたものだ。母親が持っている知識が、誕生時から彼女の子どもたちを形成し、一方、父親が子どもたちに伝えようとするものは、表面的にしか伝わらない。女の子どもに教育をするのは、未来のあらゆる世代に投資することだった。男の子どもへの教育は、富を無価値な藁屑に変えることだった」
そんな考えかたは、ヤルダには初耳だった。祖父が若かったころよりも古い時代の話に違いない。「父さんはそれがほんとうだと思う?」
父が答えた。「教育を真剣に受ける者にとって、それは無駄ではないと信じている、男の子どもでも女の子どもでも」
「じゃあ、母親の知識は子どもたちに伝わっていると思うの?」
父がいう。「おまえは賢い子どもだが、わたし経由で伝わったもの以外で、おまえが母さんの言葉を話すのを聞いた覚えはないな」
ふたりは南東の角から村に入ったが、混雑した市場は避けて、やや静かな並木道を選んで歩いていった。小さな公園をいくつか横切り、そのほとんどは人の姿がなかったが、ヤルダの視線は木々にむけられつづけていた。森への旅以来ヤルダは、トカゲが小走りに枝を渡っていくのを、前よりもずっと容易に気づけるようになっていた。
学校は小枝の密生した厚い垣根で囲われていたが、ヤルダには楽々中が覗けた。垣根の内側には正方形をした広い剝きだしの地面があって、同じような仕切りで四分割されていた。学級 は四つある、と父が説明した。いちばん年下の生徒たちが集まっている一角へ、父はヤルダを連れていった。
「だれになにをいわれても、自信を失うんじゃないぞ」父がいった。
ヤルダはジューストおじの言葉をさんざん聞いていたので、父のいおうとしていることがわかった。「だいじょうぶ」ヤルダは父に約束した。
父はヤルダを残して去り、ヤルダは垣根の途切れたところから中に入った。
正方形のこの部分には、四ダース近くの子どもが集まっていた。たぶん半分はひとりきりの男の子で、あとは双のペアのようだ。ヤルダは連れのいない女の子がきっとほかにもいるはずだと見まわしてから、くよくよするのはやめるよう自分にいい聞かせた。すぐ前で少人数の集団でおしゃべりしている生徒たちと視線を合わせようとしたが、ヤルダに気づく子はいなかったし、会話に割りこむにはヤルダは内気すぎた。
先生がやってきて、静かにするよう子どもたちに呼びかけてから、アンジェロと名乗った。彼は子どもたちを垣根から離れたところに密集したかたちで集めると、すわって、自分をよく見ているようにといった。
ヤルダは隣の子どもたちをちらりと見た。両隣とも男の子で、ヤルダの半分くらいの大きさだ。「ぼくはフルヴィオだ」右隣の男の子がささやいた。
「わたしはヤルダ」
「今日は」アンジェロ先生が話しはじめた。「シンボルとその名前を勉強します」まだ先生が来ていないほかのクラスのおしゃべりが騒々しかったけれど、ヤルダは必死で集中した。
アンジェロ先生は胸の上に、すばやく、くっきりした円を形作った。体に車輪を押しつけて、刻みつけたかのようだった。「これは『太陽』と呼ばれています」先生がいった。ヤルダは先生が生徒たちに、各人の皮膚の上にそのシンボルと同じものを作るようにいうと思っていたが、先生はシンボルの名前を数回繰りかえすと、あっさりと花に進んだ。いまやっているのは形と名前を記憶に残すのが目的で、生徒たち自身がなにかを描書する授業ではないのだ。
先生が十ダースのシンボルを順々に示していくのを、ヤルダはおとなしく聞いていた。シンボルがこんなにたくさんあるとは、ヤルダは全然知らなかった。先生が最後まで示し終えたときには、お昼に近くなっていて、先生は何人かの子どもたちに、貯蔵穴からパンを取ってきて配るように頼んだ。
食事中、先生は生徒のあいだを歩きまわって、本人と父親の名前を尋ねた。先生が近づいてくるとき、ヤルダは自分が授業を受ける権利に疑問が持たれるのではないかというような、奇妙な胸騒ぎを感じたが、先生はヤルダの返事を聞くと、それ以上なにもいわずに先へ進んでいった。教育を受けるに値するのはだれかという世間一般の考えがどんな風に変化しているにせよ、ヤルダの父は収穫で得たお金のいくらかをこの男に支払ったのはまちがいなく、ヤルダが授業に出るのを許可されるには、それでじゅうぶんだった。
「きみの双はどこ?」フルヴィオがヤルダに尋ね、しゃべりながら口からこぼれたパン屑が彼の振動膜で跳ね返った。
「あなたのは?」ヤルダは強い声で訊き返した。
「働いている」フルヴィオが答えた。
「こいつは自分の双を食ったんだ」左隣の男の子がいった。ヤルダはこの子が先生に、ロベルトと名前を告げるのを聞いていた。「そうでなきゃ、こんなにでかくなれるわけないだろ?」
「そのとおりよ、わたしは彼を食べたの」ヤルダは認めた。「でも、まだときどき、彼は外に出てきて遊びたがるんだけど」そして胸の中央に、あの物語のアマトのような、頭の形の塊を盛りあげかけてみせた。ロベルトはおじけづいて、跳ねるように立ちあがると、クラスのいちばん遠くまで逃げていった。
フルヴィオが手を伸ばして、ヤルダの胸の塊を指の一本でつつくと、楽しげに叫んだ。「やりかたを教えてくれる?」
「どうして? だれもあなたがお兄さんを食べたなんて信じないのに」
「年下のいとこならどう?」
「それならありかも」ヤルダは仕方なく認めた。
「じゃあ、きみは単者なの?」
「なにがいいたいの?」ヤルダは偽物の頭を再吸収した。ほかの子どもたちがこちらを見つめはじめていたからだ。
「別に。ただ、単者に会うのははじめてだから」フルヴィオが正直にいった。「きみはほんとうにお兄さんもお姉さんもいないの?」
ヤルダはこの男の子に短気を起こさないようにしようと思った。隣人たちにはいちいち説明しなくていいが、それは彼女のことをもう知っているというだけのことだ。「兄と姉がいるわ、ルシオとルシア。母は三人の子どもを生んだの」
「そうか」フルヴィオはほっとしたように大きく目を見ひらいた。「なら、そんなにひどいことはないね。ひとりしか生まなかったら、さびしかっただろうから」
ヤルダはいらだって、女が子どもをひとりだけ 生むのは不可能だといってやりそうになったが、そこで不意に、それがほんとうかどうか完全な確信がないことに気づいた。「わたしは四人のいとこともいっしょに暮らしている」ヤルダはいった。「だから全然さびしくなんかない、といっておくわ」
アンジェロ先生がクラスに静かにするよう命じ、シンボルをもういちど最初から示していったが、今回は生徒たちを促して、形が自分の皮膚にあらわれたときにその名前を大声でいわせた。ヤルダはすでに、シンボルの半分を忘れていた。いくつかのシンボルはこの世界のなにとも似ていないように見えたし、その名前も同じくらいにとまどうようなものだった。それでも、生徒たちの反応が、耳が聞こえなくなりそうな大合唱から、おずおずしたささやきに急降下したときでも、答えを知っている子どもがかならず三、四人はいた。
先生が、今日の授業はここまでと告げたとき、ヤルダはいらだちを感じた。自分がほかのすべてに先立って、読みかたと描書を学ぶことが必要だとわかったし、その旅の第一歩をうまく終えることさえできていない。
「どこに住んでいるの?」ふたりで校庭を出ていくとき、フルヴィオが訊いた。
「うちの農場に、村の東の。あなたは?」
「村の西側だ」フルヴィオが答えた。「父が精製所を持っていて、ぼくらはそのすぐ隣に住んでいる」
「なんの精製所?」
「トラック燃料の」
ヤルダは興味をそそられたが、好奇心を抑えこんだ。一族のことを尋ねたほうが、会話としては礼儀正しい。「あなたのいとこたちは?」
「すぐそばに住んでいる。おじの一家も、同じ仕事をしているんだ」
父と来た道を引き返すと、新しい友だちとすぐ別れることになるが、それは嫌だったので、ヤルダは中間の道を進むことにした。おしゃべりしながら真南に進んでいるうちに、ふたりは村の中央近くに出た。
「市場を通っていかない?」ヤルダはいった。お金は持っていなかったが、露店をぶらぶらしながら、めずらしい食べ物の材料や、見慣れない小間物の出所を想像するだけでも楽しかった。
「いいよ」フルヴィオが答えた。
人混みに入りこむが早いか、ヤルダが見つけだした露店は、なんらかの磨きあげられた半透明の石でできた造花でいっぱいだった。夜には本物の花とあまり似ていないかもしれないとヤルダは思ったが、午後の太陽を捉えているようすは、花びらの輝きとほんとうにそっくりだ。これほど繊細で正確なものを、いったいどうやって作りだせるのだろう? その露店の横を通りすぎながら、ヤルダは後視線をきらめく逸品からなかなか引き離せなかったが、今度は、前方の染料ホイールが目にとまった。さまざまな色相のあざやかな粉末で満たされた木製の円盤の周囲に、窪みが配列されている。露店商の女が、そのあざやかさを客に実演していた。自分の掌に装飾的な模様をいくつか浮きださせてから、異なる染料を模様のそれぞれに振りかけて、正方形の紙に押しつける。
「落花生はどう?」フルヴィオが訊いた。
「落花生がなに?」ヤルダが振りむいたときには、フルヴィオはもう買い物をすませていて、円錐形 に巻かれた花びらいっぱいの高価なごちそうを、ヤルダに手渡した。
「でも──」
「だいじょうぶ、ふたつ買ったから」フルヴィオはほかの手を見せた。
「ありがとう」ヤルダは相手の浪費ぶりに閉口したが、不作法な真似はしたくなかった。落花生を食べてみる。風味は強くてなじみのないものだったが、少しすると、これはおいしいと思った。
ヤルダはいった。「このへんで穫れたものじゃないよね」
フルヴィオは内緒話をするようにブンブン音を立てた。「輝き谷から運ばれてきたんだ、三大旅離 彼方の。つまり事実上、この世界の反対側だ」
「へえ」
「〈休止山〉から列車で翡翠市や赤塔市に運ばれて、そこからトラックで粉砕丘や太陽石市へ、そしてここへ」フルヴィオは自信たっぷりで、荷物といっしょに自分もその旅をしたことがあるかのようだった。ヤルダは驚きが目に出ていたに違いなく、彼は説明するようにいい足した。「ぼくはトラック運転手たちが話すのをしょっちゅう聞いているんだ、彼らが燃料を買いに来たときに」
「わたしはトラック運転手になりたい」ヤルダはいった。
「ほんとに?」フルヴィオの声にはヤルダの選択への驚きがあったが、見下げたような語調ではなかった。
「あなたはなんのために勉強しているの?」
「父のやっている仕事をするためだ」
「お父さんが自分で教えることはできないの?」
「父は、自分の知っていることなら教えてくれる」フルヴィオがいう。「でも父はぼくに、いまの仕事のやりかたを変えられるように、必要なときには違うことができるようになってほしがっている」
「どんな風に?」
「そんなことはわからないさ」とフルヴィオは答えた。「たぶん、いままでだれも聞いたこともなかった風に、かな」
フルヴィオと別れたあと、ヤルダは彼にもらった落花生のコーンを、落ちつかない気持ちで見つめた。まだ半分残っている中身を、一族のほかの人たちと分かちあうべきだろうか。けれど人数が多いので、ひとりひと口あるかないかだし、気前のよすぎる贈り物を見せるのは気が進まなかった。東への道にむかって公園を横切るとき、ヤルダは残りの落花生をあわただしく口に放りこんで、空 になった花びらを地面に捨てた。
ヤルダが農場に着いたときにはまだ明るかった。オーレリアが開拓地で小麦を挽いてパンを作っていた。「手伝おうか?」ヤルダは尋ねた。
オーレリアが刺 々 しくいった。「もう農場の仕事はしないんだと思っていたわ」
ヤルダはいとこの横にしゃがんで、挽き臼を手にした。取っ手をまわすときの抵抗感が送ってくる活力の波は、一日じゅうじっとすわっていて感覚が鈍っていたヤルダの両腕の筋肉にとってはありがたかった。
「あなた、変なにおいがする」オーレリアが文句をいった。
「昼食になんだか変なものが出たの」ヤルダはいった。「長虫が入っていたんだと思う」ヤルダが挽き臼を返すと、オーレリアはあらかじめ切っておいた芳香低木の枝から親指大の樹脂を絞って、小麦粉に混ぜはじめた。
その夜、ベッドに入ってから、ヤルダはオーレリアに、昼間受けてきた授業の話をした。どんな子どもでも十二個の基本的なシンボルは知っているが、全部でその十倍もあると学んだのは、啓示的だった。そしてクララが授業内容をヴィタと共有したのと同じように、ヤルダは自分が学んだあらゆることをオーレリアに伝えようと決めていた。
けれど、ヤルダが新しいシンボルをほんの三つ説明したところで、オーレリアはいらだたしげにいった。「もう寝なさい。わたし、興味ないから」
翌日、アンジェロ先生は自分のクラスに描書のやりかたを教えはじめた。生徒たちはペアを組んで、ヤルダの父が森で教えてくれたのと同じ方法を使った。尖らせた指でパートナーをつついて、本能的な皮膚のぴくぴくした動きを制御できるようにさせていく。ヤルダがこの技能を入口だけ経験していたのは少し役立ったが、彼女とフルヴィオがいちばん単純なシンボルを正確に形成して、それを望むかぎりのあいだ保持できるようになるには、やはり二、三日の練習が必要だった。ヤルダは登校するとき、染料を振りかけて紙に記録する価値があるものを自分が胸に描書できるようになるときが来るのを想像しながら、皮膚の上にいろいろな形をちらちら浮かびあがらせていた。
授業がはじまって三旬 目の最終日になるはずの日、クラスの生徒が集まっているところへ、ほかの先生のひとりが連絡事項を伝えにきた。アンジェロ先生が病気になった。重い病気ではなく、すぐ復帰する予定だが、今日はこのクラスはこのままそれぞれの一族のところに帰ってください、と。
ヤルダはがっかりした。十一日登校して一日休みという決まった繰りかえしに慣れてきていて、二日連続で農場の仕事をすることを考えると、いまではうんざりした気分になる。元気なくのろのろと校庭を出ていくヤルダに、フルヴィオが声をかけた。「うちの精製所を見にこないか?」
ヤルダはその誘いについて考えてみたが、断る理由は見つからなかった。
村を西へ通り抜けていくにつれ、市場の露店だの、公園や庭園だのは、倉庫や工場に場所を譲っていった。トラックがひっきりなしに行き来している。ヤルダはこんなにたくさんのトラックをいちどに見たのは、はじめてだった。
「これでよく眠れるわね?」ヤルダはフルヴィオにいった。相手はぽかんとした顔で彼女を見た。「もしかして、夜にはこの騒音が止まるの?」トラックだけではない。ほとんどの工場が、ガチャガチャとかドシンドシンとかいう音を立てている。
「止まらないよ」フルヴィオがいった。「でもぼくは好きだ。聞いてると落ちつく。急に音が止まったら、ぼくは目をさましちゃうだろうな。音がしないのは、なにかが壊れたということだから」
ふたりのまわりじゅうの材木や石でできた建物は、ヤルダの身長の二倍かもっと高さがあった。小ぎれいなものもあればみすぼらしいものもあったが、道を別にすると、剝きだしのままの地面は一歩離 もなかった。ある種の製造業に埃よけや風よけが必要なのはヤルダも理解していたが、具体的な業種を半ダースあげろといわれたら、困り果てただろう。ヤルダは自分自身の村のことをほとんど知らなかったし、もっと広い世界についてはなおさらだった。
「あそこが精製所だ」フルヴィオが前方に大きく広がる石造りの建物を指さした。トラックが一台、少し離れたところに停まっていて、そのウィンチがつながれた複雑な滑車装置が、茶色い鉱石で満杯のタンクを、建物の中に続く長い斜路 に運びあげている。
「なぜあんな複雑なことをするの?」ヤルダは疑問を声にした。「トラックが必要とされている場所で荷物を直接下ろせばいいじゃない?」シュートが精製所に入りこんでいる場所を指し示す。
「トラックは距離を取っておく必要があるんだ」フルヴィオが説明した。「トラックが使っている解放剤はとても細かい粉になっていなくてはならなくて、だからあらゆるものから漏れだしてしまう。そのことはトラックそのものにとってもとても困るけれど、もし解放剤が精製所の生産ラインに入りこんだら、たぶん人が死ぬ」
「えっ」ヤルダはそれまで浮き浮きと足を運んでいたが、それを聞いて歩調を落とした。
「心配しなくていいよ、注意は怠りないから」フルヴィオが安心させるようにいった。「それに解放剤工場はずっと、ずっと遠くだ」
ふたりが近づいていくと、周期性のない不協和音が大きくなっていって、車の往来の音やほかの工場からの騒音を圧した。フルヴィオはヤルダを、鉱石シュートとは建物の反対側にある入口に連れていった。中に足を踏みいれたヤルダは、前方の薄暗がりをじっと覗きこんだ。空気は埃っぽくて、汚れた天窓から斜めに射しこむ青白い光の柱の列の中でちらちら光っている。
目が慣れてきたヤルダが見てとったのは、順々に連結しあった底の浅いトレイが、長い列になって洞窟のような空間をジグザグに走っているようすだった。トレイの脇に立った人々が、ハンマーで鉱石の塊を強打し、小さくなった岩を精妙な歯のある篩 でこすって、熟練した機敏な指で塵状の鉱石の山から燃料を選りわけている。全部で四ダースはいるだろう工員が、騒音と埃にまみれて働いていた。
ヤルダはかすかに嘆きのうなりを漏らした。収穫は楽な仕事ではないが、たった六日で終わる。ここでの仕事は、果てしない拷問のようなものに見えた。
フルヴィオはヤルダの不快感に気づいたに違いなかった。「三交替制 なんだ」彼はいった。「だから、じっさいはそんなにひどくはない。学校に行くようになる前は、ぼくも手伝いをしていた。兄も、姉も、双も、みんなまだここで働いている」
ヤルダはフルヴィオがその人たちを紹介してくれるのを待ったが、彼は鉱石がしだいに細かくなり、厄介な不純物を減らしながらトレイからトレイへと移っていく妨げになるようなことはなにもする気がないのだと、やがて気づいた。
「あなたの双もここで働いているの?」ヤルダは尋ねた?「フルヴィア?」
フルヴィオは篩を持って前かがみになっている女の子を身振りで示した。「そしてあれが兄のベニグノ」ほっそりした男の子が、こぼれ落ちたわずかな燃料とふつうの塵を注意深く分けながら、床に散らばった橙色の埃を格子蓋に掃きこんでいる。フルヴィオが見ているのに気づいていたとしても、その子はそんなようすはまったく見せなかった。「ベニグナはあとのシフトだ。いとこたちも」
「お父さんはどこにいるの?」
「おじとオフィスにいるよ。あの人たちの邪魔はしないほうがいい」
ヤルダは日射しの中へ引き返した。あとを追ってきたフルヴィオが、「なんでそんなに動揺してるのかわからないよ!」といった。「きみのお兄さんやお姉さんはいまも農場で働いているんだろう?」
「ええ」
「みんななにかをしなくちゃいけない」フルヴィオが強い声でいった。「でなければ、飢え死にするしかない」
「それはわかっている」ヤルダは相手のいうことを認めつつ、「でも、いまのあなたとわたしは、ものすごく楽な生活をしていない?」
「きみとぼくは、ほかの種類の仕事をするために勉強しているところなんだ。そのことで後ろめたく感じる必要なんてないだろう?」
ヤルダはどう答えを返したらいいかわからなかった。しばらくしてから、「岩を砕くのに、エンジンを利用すればいいんじゃない?」
「鉱山ではエンジンを使っているよ」フルヴィオがいった。「でも、鉱石が一定のサイズより小さくなってしまうと、そばに少しでも解放剤があるのは危険すぎるんだ」
「人がハンマーを使ってやるのよりもいい方法があるはずよ」
フルヴィオは両腕を広げた。「そうかもしれない。そして、教育を受けた結果、ぼくがそれを見つけるかもしれない」
ヤルダはいった。「わたし、もう家に帰っているはずの時間かも」
「村に戻るところまでいっしょに行くよ」フルヴィオはきっぱりといった。「道に迷わないようにね」
ヤルダは逆らわなかった。ふたりで歩きながら、自分は精製所でなにを見ることになると思っていたんだろう、つらい仕事をしている子どもたちの姿でないとすれば、とヤルダは思った。目くるめく光の秘密がなにか明かされるとか? 小麦花がなぜ輝くのかをヤルダが知らないのと同様に、フルヴィオと彼の一族は燃料が光になる仕組みを知らない。人々の目の前で起きている事柄の半分は、いちばん遠い星々と同じくらいに謎のままだ。
村が近くなったとき、フルヴィオがヤルダのほうをむいた。
「もう計画はあるの?」フルヴィオはいった。「きみの子どもたちについて?」
「なにいってるの?」ヤルダはまじまじと相手を見つめた。
「子どもたちについての計画のことだよ。だれが育てて、だれが養うのか?」
ヤルダは皮膚がぞわぞわと動くのを感じた。そうすれば、わずらわしいダニ同様に、彼の言葉を追い払えるかのように。「そんなのはずっと未来の話よ」ヤルダはいった。
「もちろんそうだ」フルヴィオは同意した。「きみがなにか考えていることがあるのかなと思っただけさ」
ヤルダはいった。「精製所を見せてくれてありがとう。じゃあまた学校で」
人けのない東への道まで来ると、ヤルダはひとりで静かにうなりはじめた。ヤルダは自分がクララのようになれるのだと思っていた、母が生きていたころについての父の話に出てきた、あの謎めいた知識と友情の化身のように。だが、結局クララはどうなったのだろうか? ヤルダはこれまで、あえてそれを尋ねたことはなかった。
ジューストおじは、ヤルダが男と同じ生きかたをすると決めるまでは、彼女の体力を農場につなぎ留めておきたがっている──だが、その運命から逃れた結果が、早くも代理双になったつもりの男の子が工場使用人として彼女の子どもたちに目星をつけている世界に入りこむことだというのでは、逃れた意味があるのだろうか?
農場へ戻る脇道に着いたが、ヤルダはまっすぐ歩きつづけた。隣人の畑の静かな一角に、だれにも邪魔されずにすみそうな場所を見つける。
芳香低木の脇の地面にひざまずいて、一本の鋭い小枝が皮膚に押しいってくるような位置で姿勢を低くし、その侵入地点のまわりの筋肉全体が棘 をなんとか押しだそうとして動きまわるようにする。
二ダースと三個目のシンボルは、いちばんむずかしいもののひとつだった。脚が二本、腕四本で、ひとりきりの人物の全身像。落ちついて、自制心があり、道具はなにも持っていない。四本腕はバランスを取るためか、美しさのためだ。
ヤルダは低木に体を押しつけてひざまずいた姿勢のまま、いくらやってもそのシンボルがみっともない落書きにしかならないことへのいらだちに叫んだ。教師と描書のパートナーがいれば、もっとかんたんにできただろう。休憩して、指導を受け、励まされれば、もっとかんたんにできただろう。
それでも、太陽が空を半分横切ったとき、記憶どおりの全身像が、ヤルダの胸の上にあった。不完全だが読みとりやすく、ヤルダの意のままにできた。