ヤルダはもうすぐ三歳になろうというころ、彼女の祖父を療養のために森へ運んでいくという大役をまかされた。

 祖父のダリオは数日にわたって衰弱して大儀そうで、一族が寝起きしている花壇から移動しようとしなかった。祖父がこんな状態になるのを、ヤルダは以前も見たことはあるが、これほど長く続いたことはなかった。ヤルダの父が村に伝言を送ると、ドクター・リヴィアが農場に来て祖父を診察し、その処置のようすをヤルダといとこたち、クラウディアとクラウディオはずっとそばで見ていた。

 たいていの人が一日に使うのよりもたくさんの手を使って老人の全身を押しつぶしたりつついたりしてから、ドクター・リヴィアは診断を告げた。「深刻な光欠乏症ね。ここの作物は実質的に単色で、あなたの体はもっと広いスペクトルの明かりイルミネーシヨン を必要としている」

「日光というものをご存じかね?」と祖父は皮肉で応じた。

「日光は青すぎる」ドクター・リヴィアが反論する。「速すぎて体がつかまえられない。一方、畑の光はあまりに遅い赤ばかり。あなたに不足しているものは、その両極端のあいだにある。あなたの年代の男には、赤褐色や黄橙色、濃黄色や鮮黄色ゴールデンロツド 、翡翠色や青緑色が必要なの」

「そういう色相なら全部ここにある! これほど見事な色相の場所を、いままでに見たことがあるか?」祖父は無肢状態で休んでいたが、胸のまん中から指を一本だけ発芽させて、周囲の庭を示した。花壇の世話はヤルダの役目だったので、誇りで体が温かくなったが、祖父が称賛している花々はその日はもう閉じていて、発光する花びらは巻きあがって不活性になっていた。

「ああいう植物は飾りにしかならない」ドクター・リヴィアの返事はすげなかった。「あなたには自然光の全域が、はるかに大きな強度で必要よ。四夜か五夜を森ですごす必要があるわ」

 ドクターが帰ったあと、ヤルダの父のヴィトと、おじのジューストが、祖父とその問題を話しあった。

「いかさま療法としか思えん」と祖父はいい放って、地面の自分用の窪みにもっと深く身を沈めた。「『赤褐色や黄橙色』だと! おれは日光と小麦光、それにわずかな花の添加光で、二ダースと七年のあいだ生きてきたんだ。農場暮らしほど健康なものなどない」

「だれだって体の調子は変化する」ヴィトが慎重に言葉をはさんだ。「父さんがこんなに疲れているのには、なにか理由があるはずなんだ」

「長年、熱心に働いてきたからじゃないか?」と祖父。「だからこうして休みを取っているんだとは思わんか?」

 おじがいった。「父さんが夜、黄色く輝いているのを見たよ。もしその色相を体からだんだん失っているとしたら、どうやってその分を補充できる?」

「ヤルダがもっと鮮黄色のセイタカアワダチソウゴールデンロツド を植えていればよかったんだ!」クラウディオが非難がましく声をあげた。おじは黙れと叱りつけたが、クラウディアとクラウディオは知ったかぶった視線を交わして、まるでいまや自分たちがドクターで、ついに問題の根源を暴いてやったといわんばかりだ。ヤルダは、大人からの説諭以外はじっさいはなんの意味もないのだと自分にいい聞かせたが、それでも、ヤルダが失敗をやらかしたと決めつけて年上のいとこたちがざまあみろと思っているのには心が痛んだ。

 ヴィトがいった。「わたしも父さんといっしょに森に行くよ。もしドクターのいうことが正しければ、それで父さんは健康を取りもどせる。もし彼女がまちがっていたとしても、それでなんの害がある?」

「なんの害がある、だと?」祖父は信じられないという声で、「おれにはあそこまでの距離の十二分の一を旅する体力もないし、おまえがおれを半分の距離も運べるとは思えん。そんなことをしたら、おれたちふたりともくたばっちまうだろうさ!」

 ヴィトの振動膜が不快そうに硬直したが、ヤルダには祖父が正しいように思えた。ヤルダの父は力持ちだが、祖父のほうがつねに体重が重く、病気になってもそれは変わっていない。ヤルダは森をちらっと目にしたことさえいちどもないけれど、そこが村よりも遠くて、自分が行ったことのあるどこよりも遠くにあることは知っていた。もしトラックに乗せていってもらえる見こみがあるなら、だれかがその可能性を話に出していただろうが、森への道路が使われることはごくごく稀だったので、それはとうてい期待薄だった。

 気づまりな沈黙が続く中で、ジューストおじの後視線がヤルダにむいた。少しのあいだヤルダは、おじはそこにいる自分をやさしい目で見ているだけだと思っていたが、やがて、この真剣な、大人の話し合いのまっただ中で、なぜ自分がいきなり注目に値する存在になったかを理解した。

「あなたを運べるやつならいるよ、父さん!」おじは上機嫌で告げた。「まったくなんの問題もなく、森まで往復できるやつが」


 翌日、一族全員が夜明け前に起きて、三人の旅支度を手伝った。周囲の畑の柔らかな赤い光の中で、ヤルダの姉と兄、ルシアとルシオが貯蔵穴とのあいだを矢のように往復して、父のヴィトが両体側に次々と形成する体袋パウチ に、旅の糧食を詰めこんでいく。いとこのクラウディアとクラウディオは祖父の世話係で、祖父が起きあがって朝食を食べるのを手伝い、それから両肩を支えて開拓地を歩きまわらせ、長時間背負われていくのに体を備えさせた。

 ヤルダの別のいとこたち、オーレリアとオーレリオを乗客の代役にして、ヤルダはおじから四足歩行の姿態を指導された。「前脚を少し長めにするんだ」とおじ。「お祖父さんは頭をもたれさせる場所が必要になるから、おまえの背中が高く傾斜していると都合がいい」ヤルダは二本の前肢にもっと肉を押しだした。一瞬、いとこたちの重みで脚がぐらついたが、体勢が崩れる前に、脚を硬くすることができた。脚の芯が固まり、古い関節が固定化したのを感じるまで待ってから、前よりも高い位置にひと組の新しい膝を生みだして、そのまわりの筋肉を再編成する。この最後の部分が、ヤルダにはいちばん謎めいていた。ヤルダに意識できるのは、圧覚が肢を下って移動しながら秩序を作りだしていくことだけで、それはまるで自分の肉が、櫛の歯を通ってもつれをほどかれていくあし の束であるかのようだった。けれど、ヤルダの筋肉はそれによってまっすぐピンと伸びただけではない。新しい環境の意味を理解して、自分たちに求められるだろう新しい課題への準備をはじめていた。

 おじがいった。「さあ、二、三歩歩いてみろ」

 ヤルダはそろそろと前進してから、いきなり遅めのだく足 に移った。オーレリアがヤルダの体側を蹴って、大声で叫ぶ。「ヤー! ヤー!」

「蹴るのをやめないと振り落とす!」ヤルダは彼女に警告した。

 オーレリオもいっしょになって、自分の双を責めた。「そうだ、やめろ! ぼくが 運転手だ」

「いいえ、違うわ」オーレリアがいい返す。「わたしが前にすわっているんだから!」

「なら、ぼくが前にすわるべきってことだ」オーレリオはオーレリアにつかみかかると、場所を入れ替わろうとした。ヤルダはいとこたちがごそごそ動くのにいらだったが、その気持ちを抑えて、これは全部いい練習になると思うことにした。もし、背中に乗っている間抜けたちが腕を何本も生やして取っ組みあう以外になにもしていないあいだ、足場を保っていることができたなら、ヤルダは病んだ祖父がどんなことをしても対応できるに違いない。

「よし、うまいぞ、ヤルダ」おじが励ましの声をかける。

「デカブツの の坊にしてはね」オーレリアがささやいた。

「ひどいことをいうんじゃない!」とオーレリオはいって、双の首を絞めた。

 ヤルダは無言だった。たぶんヤルダは、二歳年上のオーレリアと比べたら──あるいは、ヤルダ自身の兄や姉と比較してさえも──野暮ったいだろうが、彼女は一族のだれよりも力持ちで、祖父を森へ運んでいけるのは彼女しかいないのだ。

 ヤルダは速足で駆けて、小麦花が閉じはじめている開拓地の端に行った。太陽そのものはまだ見えないが、東の空に輝きが広がりつつある。夜明けは数多くの変化をいちどにもたらす。だからヤルダは、花々が巻きあがっていくようすをこれまで何度か観察してきてようやく、花々は日中をすごす丸まった姿になったときに、日光のほうが明るいので目立たなくなるだけではなく、じっさいに花びら自体の光が弱まっているのだ、と確信を持てた。

「花はどうやって、光を作るのをやめるときになったとわかるんだろう?」ヤルダは疑問を声にした。

 オーレリアが気晴らしにブンブン音を立てた。「太陽がのぼってくるからじゃないの?」

「でも、それをわかるのは どうやって?」ヤルダは問いを重ねた。「植物には目なんかないでしょ?」

「きっと熱を感じているんだ」オーレリオが意見をいう。

 気温がそこまで急上昇しているとは、ヤルダには思えなかった。けれど、こうして話しているあいだにも畑全体が光を失いつつあり、夜の壮麗な赤い花々が、茎からだらりと垂れさがる薄暗い灰色ののう と化していた。

 疑問に思いをめぐらせたままのヤルダは、おじのところまで歩いて戻ってしまい、新しい体の構造にすっかりなじんだことを示すために走りっぱなしで戻るはずだったのを思いだしたときには、もう遅かった。父のヴィトがやはり四本脚で近づいてきた。ルシアとルシオが、父のいくつもの体袋に荷物を均等に詰めようと大騒ぎしている。

「旅の準備はできたと思う」ヴィトがいった。「さっさとおりろ、おまえたちふたり!」オーレリオがヤルダの背中から飛びおり、地面にぶつかるときに硬い球状に丸まった。そのあとに続いたオーレリオの双は、勝ち誇ったように叫びながら彼の上におりた。

 祖父ダリオはまだ介助なしでは歩けず、介助者相手にぶつぶつと、全員が地面の中に這いもどって今日は安息日ということにするとかなんとかいっている。そのようすを見ても、ヤルダは心乱されなかった。ヤルダに安全に運んでもらえると思っていないとしても、祖父は立とうともしなかっただろうし、ましてや以前ならできた程度に協力するのも無理だ。クラウディアとクラウディオが祖父を運んできたので、ヤルダは後脚の膝をついて、祖父が背中にあがれるようにした。以前の祖父は腕を生やすのを面倒くさがっていたが、いまは三対の腕を突きだしている。六本の粘着性の腕が伸びてヤルダを取り巻くにつれ、丸々と太った祖父の胴は目に見えて細くなっていった。ヤルダは祖父の皮膚の見た目に魅せられた。その大部分は彼女自身の皮膚同様にしなやかだが、なめらかに広がる皮膚のあちこちに、硬くなって弾性をなくした無数の小さな斑点が散らばっている。その周囲の皮膚は平らには広がれず、皺が寄ってひだができていた。

「居心地はどう?」父が祖父に訊いた。祖父は短く単調にうなって、運ばれていく荷物として不満のないことを伝えた。父はヤルダのほうをむいて、「おまえはどうだ?」

「全然問題なし!」ヤルダは高らかにいうと、立ちあがって、集まっていた一族のまわりを歩きまわってみせた。祖父は孫ふたり分より重かったが、ヤルダはこの荷物になんの困難も感じなかったし、自分の新しい姿での足運びにもどんどん慣れていった。おじはヤルダにいい体形を選んでくれていた。ヤルダが見おろしていると、祖父は頭を下げて、彼女の両肩のあいだにもたれかかった。たとえ祖父がヤルダの体を握る力がゆるんだとしても、居眠りをしていてさえ落下することはたぶんないだろうが、ヤルダは道中一歩ごとに祖父のようすを確かめることにした。

 ルシアが声をかけてきた。「その調子よ、ヤルダ!」

 一瞬遅れて、ルシオもいった。「うん、その調子だ!」

 なじみのない、快くてぞくっとする感じがヤルダの体を駆け抜けた。自分はもう、子どもふたり分の食事をして、半分の年齢の幼児並みに不器用な、役立たずの木偶の坊ではない。祖父のためにこのかんたんな作業をこなすことができたなら、ついに、一族の中での居場所を得られるだろう。


 太陽が地平線を離れていき、冷たいそよ風が東から吹いてくる中、ヤルダは父のあとについて、畑のあいだを南に走る狭い小道を下っていった。小麦は夜間の輝きをなくしていたが、大人たちはいつも、作物の花の光の繊細な色相よりも、茎の先端近くの太い黄色の種囊に関心を示した──じっさい、ハタ ネズミの巣穴に毒餌どくえ を撒きに出てきていた隣人のふたり、マッシマとマッシモにばったり出会ったときも、話題は種囊のことばかりだった。大人たちが来たるべき収穫への期待を声に出しているあいだ、ヤルダはだれからも無視されたまま、たかってくる虫を追い払うために体を震わせる以外は辛抱強くじっとしていた。

 ヤルダたち三人が先に進みはじめると、祖父が非難がましく意見をいった。「いまだに子どもがいないとは! あのふたりはどうなっているんだ?」

「わたしたちには関係のないことです」父が返事をする。

「あれは不自然だ!」

 父はしばらく黙っていた。それから言葉を発した。「たぶん、彼はまだ彼女のことを思っているんです」

「男は自分の子どものことを思うべきだ」祖父が言葉を返した。

「そして女は?」

「女も自分の子どものことを思うべきだ」祖父は、ヤルダの後視線が自分にむいているのに気づいた。「おまえは足もとに集中していろ!」それで会話が内密なものになるかのように、祖父は命じた。

 ヤルダは命令どおり視線を逸らして、祖父があまりまわりを気にしないようにすると、陰口の続きを待った。

 けれど、父がぴしゃりといった。「この話は終わりだ! わたしたちが気にすることじゃない」

 小道は交差点で終わっていた。右に曲がると、道路はまっすぐ村につながっているが、ヤルダたちは反対側に曲がった。

 ヤルダは道路をこちらの方向に歩いたことは、これまで何度もあった──遊び、探検、友だちのところへ行く──けれど、遠くまで行ったことはいちどもなかった。右に曲がって西に行ったときには、変化に気づくまでに時間はかからない。まもなく、脇道がしだいに短い間隔で合流し、ほかの人たちが彼女の脇を通りすぎ、トラックがエンジン音を立てて畑のあいだを進むのが、たとえ姿は見えないとしても、聞こえる。歓迎するようなにぎわいは村の外まで広がっていて、じっさいにそこに着くずっと前から感じとれる。東への旅は、それとは違っていた。旅をはじめたときと同じ静けさとさびしさが、まちがいなく永遠に先まで続いている。もしヤルダがひとりきりだったら、丸一日歩いて、なじみ深いありとあらゆる人の気配から遠ざかることを考えただけで、おび えてしまっただろう。そしてじっさい、前方からのぼってくる太陽を目にした彼女は、それが沈むときにも自分はまだ同じ方向にむかって進んでいるだろうと気づいて、見捨てられたように心が痛んだ。

 ヤルダは父のほうを見た。父はなにもいわなかったが、ヤルダの視線をしっかりと受けとめて、彼女の不安を鎮めてくれた。ヤルダは祖父に視線を落としたが、祖父の目は閉じていて、すでに眠りの世界に戻っていた。

 朝のあいだ、ヤルダたちは農地の中をとぼとぼと進んでいった。あまりにそっくりな畑に囲まれているので、ヤルダは自分たちがほんとうに前進していることを確認しようとして、道端の小石の並びかたに同じパターンを探しはじめてさえいた。自分たちが道に迷って、円を描いてもとの地点に戻っているのかもしれないという考えは非現実的ではあったが──道路はまっすぐだし、ずっと太陽にむかって歩いている──そうした個人的な目印を見つけるのは、ありがたい気晴らしになった。

 正午ごろ、父が祖父を起こした。一行は道路を外れて、よその畑の端に置かれた藁にすわった。ヤルダに聞こえるのは、作物のあいだを吹き抜けていく風と、虫たちのかすかな羽音だけ。父がパンを三つ取りだし、ヤルダは背中に乗ったままの祖父にひとつを渡した。一瞬、祖父はそのために新しい肢を作る準備をしているようすだったが、結局、肩の仮芽は姿を消し、祖父はすでにある手のひとつで食べ物を受けとった。

「前にも森に入ったことがあるの?」ヤルダは祖父に尋ねた。

「ずっと昔だ」

「なぜ森に入ったの? だれかが病気になったから?」

「違う!」祖父は嘲笑うようにいった。祖父がドクター・リヴィアの意見に同意したふりをする気になったのは、一族を幸せな気分にさせておくためにすぎない。昔ならだれひとり、あんな馬鹿げた考えを支持はしなかっただろう。「そのころは森はもっと近かったのだ」

「近かった?」ヤルダにはどういうことかわからなかった。

「もっと大きかった」祖父が説明する。「いまある畑の中には、その当時は畑でなかったところもある。自分の仕事が忙しくないとき、おれたちは森の外れに新しい畑を切り拓くのを手伝いにいったもんだ」

 ヤルダは父のほうをむいて、「父さんも手伝いにいったの?」

「いいや」と父は答えた。

 祖父がいった。「おまえの父さんは、そのころはまだいなかった。これはおまえのお祖母さんのころの話だ」

「まあ」ヤルダは、強壮な若い男だったころの祖父を想像しようとした。祖父が地面から木々を引っこ抜き、その横で祖母も働いている。「じゃあ、森はいまわたしたちがいるところまで広がっていたの?」

「少なくとも、このへんまでは」と祖父。「午前の半分もあれば、森の外れまで来られた。だがそのときには、背中にだれかを運んではいなかったからな」

 三人はパンを食べ終えた。太陽は中天をすぎていた。ヤルダは自分たちの影が東のほうに傾いているのがわかった。父がいった。「さあ、移動再開だ」

 また道路を進みはじめてから、ヤルダは後眼を祖父にずっとむけたままで、祖父の握る力が弱まらないか確かめていた。必要ならいつでも、ヤルダは祖父を腕にくるむことができる。けれど、食事のあと、祖父は少し眠たげだったが、目はひらいたままだった。

「昔の森は、いまとは違っていた」祖父がいった。「もっと荒々しかった。もっと危険だった」

 ヤルダは興味を引かれた。「危険?」

 父がいった。「その子を怖がらせないで」

 祖父ははねつけるようにブンブン音を立てた。「いまはもう、怖れるものなどなにもない。もう何年も、樹精一匹見た人はおらんし」

「樹精ってなに?」ヤルダは訊いた。

 祖父がいった。「アマタとアマトの物語を覚えているか?」

「それは聞いたことがないわ」ヤルダは答えた。「お祖父さんはわたしにその話をしてくれたことはない」

「そうだったか? なら、おまえのいとこたちに話したのだろうな」

 祖父が自分をからかっているのか、じっさいに混乱しているのか、ヤルダにはわからなかった。黙っていると、祖父が悪意なさげに尋ねてきた。「では、その話を聞きたいか?」

「もちろん!」

 父がうなり声で割りこんで反対したが、ヤルダが訴えるような目で見つめていると、その声は不承不承の黙認のつぶやきに変わっていった。いとこたちが聞かされた物語を聞くにはヤルダはまだ若すぎる、などということがあるだろうか、その物語の語り手を森へ運んでいるのは、いとこたちではなく、彼女だというのに?

「第七エイジ の終わりのことだ」祖父は話しはじめた。「世界は大飢饉のまっただ中にあった。作物は発芽せず、食料があまりに乏しかったので、どの一族も四人ではなく、ふたりの子どもしか持たなかった。

 アマタとアマトのふたりはそんな子どもたちで、それゆえに、ふたりの父親、アゼリオにとっては二倍大切だった。アゼリオがなんとか手に入れられた食べ物は片っぱしから、まっ先に子どもたちのところに行って、アゼリオは、子どもたちがほんとうに満腹だと誓わなければ、自分では食べようとしなかった。

 アゼリオはそういう立派な男だったが、そのために高い代価を支払うことになった。ある朝、目ざめると、彼は失明していた。子どもたちを食べさせるために、彼の視力が犠牲になったわけだが、これからはどうやって子どもたちに食べ物を見つければいいのだろう?

 彼の娘のアマタはなにが起きたかに気づくと、アゼリオに休んでいるようにといった。そして彼女はこういった。『わたしが双と森に入って、わたしたちみんなにじゅうぶんなだけのたね を持ってかえってくるわ』子どもたちはまだ若かったし、アゼリオは彼らと引き離されたくなかったが、ほかにどうしようもなかった。

 森は遠くはなかったが、森の外れにいちばん近いあたりの草木は、とっくに丸裸にされていた。アマタとアマトは、ほかのだれの手も届いていない食べ物を探して、どんどん森の奥に踏みこんでいった。

 六日後、ふたりは、これまでどんな男も、女も、訪れたことのない場所に来た。木々の枝が近づきすぎていて太陽を見ることもできず、花は昼も夜も休みなく輝いている。天然小麦がそこではまだ育っていて、アマタとアマトは体袋を種でいっぱいにし、自分たちの力を保つのにじゅうぶんなだけ食べた上に、父親の視力を回復させるのに足りるだけの食べ物を持ちかえることに決めた。

 ふたりの頭上の木々の中で、樹精がじっと見つめていた。彼はふたりのような生き物をそれまでいちども目にしたことがなく、そいつらが彼の庭に入りこんで、彼の食べ物を盗むのを見て、激しい怒りに満たされた。

 アマタとアマトは運べそうなだけのありったけの種を集めたが、旅で弱っていたので、農場へむかって戻る前に休むことにした。ふたりは土に窪みを掘ると、そこに横たわって眠った。

 まわりの花々と同じく、樹精は眠ることがなかったので、彼にはしばらく、侵入者たちがどうなっているのか理解できなかった。けれどとうとう、相手が世界に目を閉ざしていることに気づくと、樹精はふたりの真上の枝に這いのぼって、伸ばした両腕をアマタに巻きつけた。

 けれど、怒りのあまり、樹精は自分の力の判断を誤っていて、彼女を持ちあげるのは楽ではなかった。木々の中に引きずりこまれる途中でアマタは目をさまし、樹精のつかむ力が弱まった。アマタは樹精と争って、拘束から抜けだし、地面に落下した。

 地面にぶつかったアマタは衝撃がひどくて動けなかったが、双にむかって、逃げろと叫んだ。アマトは立ちあがって走りはじめたが、樹精のほうが速く、アマトの頭上を枝から枝へと飛び移った。そしてアマトが木の根につまずくと、樹精は手を伸ばして、彼をさら った。アマタと違い、少年は軽くて、楽に持ちあげることができた……そして小さくて、ひと口で飲みこむことができた」

 祖父は言葉を切った。「この話、怖すぎないか?」彼はヤルダに尋ねた。

 内心、祖父が語った場面に身がよじれそうだったヤルダだが、祖父はヤルダを気づかう父をあざけ りたいだけではないかと思った。できるかぎり平然と祖父を見おろして、答える。「ちっとも。その先を聞かせて」

「アマタは悲しみで気も狂わんばかりだった」祖父は話を続けた。「だが、彼女にできることはなにもなかった。アマタは森を駆け抜けながら、父親にどう話をするか、考えようとした。父親はアマタたちを生かすために視力を失った。この知らせを聞いたら、死んでしまうだろう。

 そのとき、落ちていた大枝に行く手をさえぎられたアマタは、あるアイデアを思いついた。ふたつの岩をぶつけあって、木材を削れるくらいに鋭い破片を作る。そして、大枝をアマトの形に彫りあげた。

 農場にたどり着くと、アマタは集めてきた種を全部、父親の前の地面に落とし、父親のアゼリオはその音を聞いて喜んだ。そして、アマタは父親にいった。『アマトは旅のあいだに病気になったの。父さんが視力を失ったように、アマトはしゃべる力を失った。でもいずれ、休みと食事を取れば、ふたりとも回復するわ』

 アゼリオは悲しみに満たされたが、息子の肩に触れてみると、少年はいまも強健そうだったので、希望は捨てまいとした。

 それに続く日々、彼らは種の半分を存分に食べ、自分が食べる前に子どもたちはふたりとも満腹しているというアマタの言葉を、アゼリオは信じた。アマタは残りの種を畑に蒔き、それは育ちはじめた。体力が回復したアマタは、森の外れからさらに食べ物を取ってくる手立てを見つけだし、親子ふたりは飢饉を生き延びた。

 アゼリオの視力は戻らなかったが、彼はそのこととは折り合いをつけた。受けいれられないのは、アマトの完全な沈黙だった。

 数年がすぎ、とうとうアゼリオはいった。『そろそろわたしも孫を持つころだ』息子からの反応を呼ぶことを期待して、さらにいう。『そうなるようにする力はあるか、アマト? それとも、おまえの双が全部をひとりでやることになるのか?』

 もちろん返事などなく、アマタはどうしたら父親から真実を隠しつづけられるか、わからなかった。

 十二日間、アマタはあくせくと働いて、父親が一年間生きていけるくらいの蓄えになるまで、貯蔵穴という貯蔵穴を食べ物でいっぱいにした。そして、父親が眠っているあいだに、アマタは農場を離れた。彼女は森で、ひとりきりで暮らそうと決心していて、貯蔵穴を補充するときだけこっそり戻ってくるつもりだった」

 ヤルダは自分を抑えられなかった。苦悶で全身が震える。双が死んだのはアマタの責任ではない。彼女の身に起きたことは、あまりに不公平だった。

「森でのある夜」祖父の話は続く。「木々を見あげていたアマタは、樹精が枝から枝へと飛び移るのを見た。アマタはたくましい女性に成長していて、彼女の双を食った恐ろしい生き物は、あのときよりずっと弱々しくて、脆弱に見えた。

 昼も夜も、彼女は樹精を見張り、その行動を観察した。樹精も彼女に気づいていたが、そいつが見かけたときには彼女が復讐をするようすがなかったので、だんだん気にかけなくなっていた。

 しばらくして、アマタは計画を立てた。地面に寝床を掘って、そこに四つの小さな、木彫りの人形を詰めこむ。そして寝床のそばに隠れて、待った。

 樹精が寝床を目にしたとき、そいつの頭に浮かんだのはアマタの子どもたちがそこにいるということで、体が勝手に動いていた。寝床の中のひとつを引っつかんで木々の中に持ち去ろうと、手を伸ばす。だが、アマタは土の下に埋めた重い岩に人形を縛りつけ、さらにそれをネバネバした樹脂で覆っていた。樹精は罠にかかり、地面にむけて伸ばしたそいつ自身の二本の腕で、木の枝に釘づけにされた。

 アマタは木の上にのぼって、人形を彫るのに使った石片で樹精の両腕を切り落とした。彼女と闘うために新しい肢を生やそうとしているそいつに飛びかかって、アマタは口を大きく広げると、そいつを丸ごと飲みこんだ。そいつが彼女の双を丸飲みしたのとそっくりに。

 地面に飛びおりたとき、アマタは吐き気を催したが、樹精を体内にとどめておこうと自分に鞭打った。横になって眠ろうとしたが、体は熱にさいな まれ、身震いがした。しばらくすると、体形の制御ができなくなった。肉があっちこっちに流れ、目の前で奇妙な新しい肢が生えたり引っこんだりする。アマタは樹精が体内で彼女と闘っているのに違いないと思い、石片をまた探しだして、そいつの頭が姿を見せたら即座に切り落とそうと待ちかまえた。

 そしてじっさい、胸から頭が発芽して、四つの目をひらいた。アマタは石片を掲げて振りおろしかけたが、そのとき、声がした。『ぼくのことがわからないの?』その頭はアマトのものだった。彼はこれまでのあいだずっと樹精の体内で生き延びていて、闘って外に出られるほど強くなるのを待っていたのだ。

 アマタは気を落ちつけ、持てる力すべてを集中して、双の肉を自分の体の片側に押しやり、指よりも細い皮膚の管だけでふたりがつながっている状態にしていった。それから、石片を振りおろして、その管を切断し、アマトを自由の身にした。

 ふたりは森を出て農場に戻り、そこでアゼリオに、じっさいに起きていた出来事を説明した。アゼリオは息子の声を聞いて喜び、娘が彼に噓をついていたことを許した。

 そののち、アゼリオは四人の孫に恵まれ、視力が回復することはついになかったけれど、孫たちを育てるのにできるだけの手伝いをして、そのお返しに孫たちは、歳取ったアゼリオが安楽に暮らせるようにしてやった」

 祖父が黙りこんだとき、ヤルダは心を鎮めるのに必死だった。背中に乗った祖父に、足並みの乱れを感じさせないのは無理だったが、父に対してはまだ、この心張り裂ける物語を動揺せずに受けとめられたようすを見せて、冷静なふりをしていられる可能性があった。

 祖父が話した物語は、ヤルダに自分たちがこれから行く場所への怖れをいだかせはしなかった。森に入ったら警戒を怠らない心構えはできていたが、万一いまもまだ生きている樹精が森にいるとしても、ふつうの少女を持ちあげるのにも苦労するような生き物に、デカブツの木偶の坊を攫える見こみは皆無だろう。

 そんなことよりもヤルダを心騒がせたのは、こういう疑問だ。もしアマトが救いだされなかったら、どうなっていただろう ? もしアマタが、ひとりきりのままだったら ? 物語の中には、すべてを解決する魔法の手段が存在したが、ヤルダは考えずにはいられなかった。アマタはどんな人生を送っていただろうか、もし、彼女の双がほんとうに死んでいて、呼び戻せなかったとしたら?


 午後遅く、一行は村を目ざすふたりの若い農民、ブルーナとブルーノに出会った。一族でこのふたりと以前会ったことのある人はいなかったけれど、少しやりとりをしたあとで、祖父ダリオが、ふたりの祖父の兄を知っていることに気がついた。長距離の旅をするふたりを、ヤルダはうらやましくは思わなかった。こんな遠くまで歩いてくるのは、時たまの冒険としてはいいが、毎回決まった必需品を取りにいくのが目的では、すぐに飽き飽きしてしまうだろう。もし、トラックが数日おきに道路を端から端まで、村と森を往復して走っていれば、あらゆる人の暮らしがもっと容易になるはずだ。けれど、トラックがここまで来るのは、収穫物を集めるときだけだ。

 一行は日没直前に、ふたたび立ち止まって食事をした。いまも周囲にはヤルダの目の届くかぎり小麦畑が広がっているが、旅のはじめから歩いてきた道路はわずかに蛇行しはじめていたし、その表面はだんだんでこぼこになってきていた。そのため、この道路を進みはじめたときにヤルダの気を遠くさせた、同じところをぐるぐるまわっている感じはなくなったが、いずれ畑が終わりになることも、自分たちがほんとうに野生の地にむかっていることも、信じがたいのは相変わらずだった。

「もうそんなに距離はない」父が請けあった。「ここで止まって眠ってもいいが、それだと森でのひと晩分を損することになると思う」ヤルダには、父のいいたいことがわかった。いちばん重要なのは、祖父に野生の植物の光という恩恵をあたえることなのだから、森への到着を朝まで延ばすのは、どうしようもない無駄になる。

 一行が道に戻ると、祖父はすぐに居眠りをはじめた。祖父が自分にしっかりとつかまっているのを確認すると、ヤルダは後視線を上にむけて、星々が出てくるのを眺めた。あらわれたのは、それぞれの星が引く光の尾で、それは多色の長虫のよう。その長虫たちは、深まりゆく闇一面で闘っているかのようだったが──ゆるやかな渦を描いて空をなめつくすけれど、目的地にはまったく近づかないその闘いは、むなしいものに見えた。

「星々がとても遠くにあって」ヤルダはいった。「だから赤い光は紫色の光のあとでここに届くのなら……なぜ星の尾は全部が違う方向をむいているの?」

「星が全部、違う方向に動いているからだ」父が答えた。

「でもそうじゃない!」ヤルダはいい返した。「星は全部、東からのぼって、西に沈むわ」

「ふむ」父はおかしがっていると同時に喜んでもいる声を出してみせた──ヤルダの質問が馬鹿げていて、それでもなお願ってもないものであるかのように。「星々がのぼったり沈んだりするのは、この世界が回転しているからであって、星々自体が動いているのではない」

「知ってる」父は以前ヤルダに、世界の回転について説明してくれていて、ヤルダはそれを忘れていなかった。「でも、だからどうだというの? もし、紫色の光が最初にここに届いて……それからわたしたちが赤い光が追いついてくるのを待っているあいだに、世界が回転したら……だったら 空じゅうにいろんな色が散らばるはずでしょう?」

 父がいった。「おまえは自分で自分の質問に答えたと思うよ。星の尾が東から西へ整列していないのを、おまえはわかっているんだから」

「つまり、わたしはなんにも理解していないのね」ヤルダはしょんぼりした声で認めた。

 娘の芝居がかった自己評価を、父はやさしくブンブン音を立てて否定した。「おまえはたくさんのことを理解できている」父はいった。「ただほんの少し、物事をもっと注意深く考える必要があるだけだ」

 励まされて、ヤルダはもっと手掛かりを探して空を見まわしたが、なにか啓示的な洞察を得るかわりに、別の当惑の種を思いだしただけだった。「太陽には尾がないわ」ヤルダはグチるようにつぶやいた。

「そのとおり!」父がそれに答えた。「つまり、尾が生じるのは世界が回転しているからではないということだ。もしそうなら、太陽にも尾があるはずだからね」

 ヤルダは後眼をつむって、なにがどうなっているか思い浮かべてみた。いまは星々のことは置いておこう。もし赤い光がとても遅いなら、太陽はなぜその通り跡に、もっと速い緑色や青に永遠に遅れを取る赤い染みを残すことなく 空を横切れるのだろう?「ドクター・リヴィアは、日光は青すぎるといっていた。そこには赤や緑色は全然入っていないということ?」

「いや、日光にもそういう色はある」父は断言した。「青は日光の中でいちばん強いが、ほかの星と同じくらいのほかの色も、日光は含んでいる」

「うーん」ヤルダの想像の中で、太陽は燃えたつような青白い円盤になり、この世界は片隅でゆっくりと回転する冷たい灰色の になった。「光が太陽から飛びだすとき、仮に赤と紫色のふたつの色だけを持っているとして、ふたつの色はいっしょに旅をはじめる。でも、かけっこをしたらルシアがルシオをまちがいなく負かすように、紫色の光が最初にこの世界にぶつかる──そのあと、この世界が少しだけ回転して、太陽に空を横切らせてから、赤い光が到着する。ならどうしてふたつの色は散らばらないの ?」

 父がいう。「おまえが話しているのは、太陽から離れた閃光のひとつについてだけだ。だが、太陽は閃光を放っているのではない、だろう? 太陽は絶え間なく輝いている」

 いらだったヤルダは、突然叫んだ。「じゃあいったいどういう仕組みでこうなっているの? これにどうすじが通るの?」

 父がいった。「星の尾をひとつ選んで、おまえの見たとおりを話してごらん」

 ヤルダは後眼をひらいてその言葉に従い、冷静に話すよう自分に強いた。「かすかな光の線が見える。片方の端が紫色で、順に青、緑色、黄色と変わっていって、もう一方の端が赤」

「それぞれの色は別々のときに見えるのかな」父が問いを重ねる。「それとも、全部が同時に見えている?」

「全部同時によ。そうか !」父の単純な問いが、ヤルダがこれまで内心でいだいていたイメージをぐちゃぐちゃにした。ヤルダは赤と紫色の光が別々のときに到着するようすを思い浮かべてはいたが、両者が到着する間に太陽が空を横切るという理屈はわかっていたのに、タイミングというものをまったく無視した結果、ふたつの色の到着を、同じ瞬間に見えるはずのものとごっちゃに考えてしまっていた。「わたしが考えるべきなのは、ある瞬間に自分が見ている ものについてなんだ」ヤルダは声に出していった。「ある瞬間に太陽から離れる光についてじゃなくて」

「そうだ」父がいった。「続けて」

「でも、それでなにがどう変わるの?」ヤルダは考えた。「もしわたしが、赤い光と紫色の光を同時に見ているとすると……そのときは、遅いほうの、赤い光は先に太陽を離れたものに違いない」

「そのとおり。そのことは、おまえが見ているものにどう影響する?」

 ヤルダは必死でそれを思い描こうとした。「太陽が空のどこにいるかは、光が太陽を離れたときではなく、光が到着したときに この世界がどの面を太陽のほうにむけているかで決まる。赤い光が離れるのが先だけれど、それでなにかが変わるわけじゃない──わたしたちは、自分が見ているときに届いたものを見ているだけ。だから、太陽のすべての色は尾を引いて散らばらずに、同じ場所に見える」

 父は称賛のしるしに後眼を大きくひらいた。「そんなにむずかしいことじゃなかっただろう?」

 ヤルダは自信が持てたが、あらゆることが意味をなすという確信からは、まだほど遠かった。「じゃあ星々は? 星々が全然違うのはなぜ?」

「星々はじっさいに動いているんだ」父はヤルダに思いださせた。「この世界の回転によってのぼったり沈んだりしているだけではなくて。いまわたしたちが見ている赤い光が ある星を離れるときと、いまわたしたちが見ている紫色の光が それに続くあいだに、その星はとても大きな距離を動くので、わたしたちには違う色が違う方向から来るように見える。わたしたちが太陽を見るとき、赤い光が先に旅をはじめてはいるけれど、紫色の光と赤い光は同じ道をたどる。星を見るときには、紫色の光は赤い光とは別の場所から出発して、別の経路を通ってわたしたちのところに来るんだ」

 ヤルダはいまの話をよく考えてみた。「もし星々がじっさいに動いているなら」彼女はいった。「なぜわたしたちにはそれが動いているのが見えないの?」多色の長虫はすべてが変化のない黒い空にピン留めされていて、この世界側の視点の移動が原因である架空の動きは見せるが、それを超えて動くことは決してない。なぜ星々はそれぞれの尾に沿って先へ進み、星座から抜けだして毎晩別々の新しいパターンを形作らないのだろう?

 父がいった。「星々は速く動いているのだが、とても遠くにある。たとえ鋭い眼力と完璧な記憶力を持っていても、人がなにか変化があったと気づくには、一生分の長い時間が必要だろう。だが幸運なことに、わたしたちはそんなに長く待つ必要はない。いくつかの光の尾はひと目見ただけで、数世代ジエネレーシヨン にわたって起きたことをわたしたちに見せてくれるから」


 周囲の畑の赤い光が、いまでは道を照らしていた。なじみ深い輝きにヤルダは眠気を催したが、肢にはじゅうぶんな力をかけていることができた。祖父がまどろんでいるあいだも彼女にしがみついていられれば、自覚がなくても握る力をゆるめることがないよう祖父が訓練していたならば、もしかしてヤルダも自分の目を閉じて、夢中歩行で道を進んでもだいじょうぶだったかもしれない。もし父がロープを持っていてそれをヤルダの両肩にかけ、彼女の歩みを誘導することさえできたなら、それは悪い考えではなかっただろう。

 あふれかえるような色の集まりが前方に見えたとき、ヤルダは自分がちゃんと目ざめているのだろうかと思った。父の体が視野の一部をさえぎっていたので、奇妙な幻影はふたりの足取りのリズムと道の起伏に合わせて、父の周囲で踊るようにあらわれたり隠れたりした。

 やがて道が終わった。一行は低木地を歩いていき、そこに散在する雑草や低い灌木は、ヤルダがふだんの日々の大半を、それを引っこ抜いてすごしている種類のものだった。植物の小さな花々が足もとからヤルダを照らし、農場では小麦の純粋な光を損なう厄介な傷のしるしである茶色や黄色が、ここではまったく違ったものに感じられた。隣人の作物を踏みつけたりしないのと同様、そうした花々を押しつぶす気にはなれず、ヤルダは足もとに注意してそれを避けて歩いた。

 いちばん近くの木々は背が高くなく、なじみのない場所では確かなことがいえないけれど、ヤルダはそうした木々と似たものが農場の隅の未開墾の場所に生えていたり、村の通り沿いに並んでいるのを見た覚えがあった。藪の植物の同類シスター だろう。くすんだ色がほぼ同じだ。けれどそうした木々の背後には、エキゾチックな巨木の影がぼんやりと見えていて、ありとあらゆる色相の花々がその表面に散らばっていた。

 祖父が身じろぎして、目をひらいた。いかさま療法のためにこんな遠くまではるばるやってきたことについて、祖父がぶつぶつ文句をいうかとヤルダは思ったが、祖父はそうはせずに、思いにふけるように黙ったまま、光を見あげていた。たぶん、祖母ダリアとの若き日の冒険の記憶に引き戻されて、夢想に浸っているのだろう。

 ヤルダは父のあとについて森に入っていった。下生えはすぐに密になって、ヤルダは小さな植物を踏みつけずには歩けなくなったし、小石が散らばる道を歩いていたときと同じように、足裏をずっと硬くしておかざるをえなかった。もし花壇で作業をしているときのように足を柔らかくしたら、たちまち鋭い茎が皮膚をずたずたに切り裂くだろう。

 ヤルダは前視線を地面にむけたままにして、一歩一歩を慎重に進んでいたが、しばらくすると自信が深まってきたので、後眼を祖父から離して、花綱で飾られた頭上の枝にむけた。ヤルダの肩幅よりも大きな花々が輝いて闇の中に浮かびあがり、紫色の花びらを網状の支え蔓に垂れかけている。ヤルダは花の光を直接見ることはできなかったが、花びらそれぞれの下側から漏れだしてくる輝きは、影を落とすほど明るかった。そうした化け物じみた花々のまわりで、橙色や緑色や黄色のもっと小さな花々が、大枝という大枝、小枝という小枝に群がっていた。

 ダニの群れの中を通ったとき、祖父は体を震わせて毒づいた。ヤルダ自身はほとんど考えるまでもなく虫を振るい落とせたが、祖父の皮膚は虫を引き剝がせるほど速く震えられなかったのだ。祖父はヤルダの胴に巻きつけていた腕のうち二本をほどくと、両手をしっかり組みあわせていた短く太い指を伸ばして、不愉快の原因を掃き捨てるのにより適した幅広の扇状にすると、それを振りまわしはじめた。

 木々のあいだを縫って歩いていくと、頭上の紫色の巨大な花は、少しだけ小さないとこのようなものに場所を譲っていき、同時にそれまでは剝きだしだった蔓が濃緑色の花をつけるようになった。その花の中には、下生えのほうに表面をむけて、旅人たちの目をくら ませるものもあった。ほかの花は天をむいている。木々のはるか上から森がどんな風に見えるか、ヤルダは想像しようとした。落ちついた赤い色の小麦畑の脇にある、巨人の花壇。

 父が立ち止まって、まわりを見た。一行がやってきたこの小さな空き地は、ドクター・リヴィアの注文どおりに花々が明るくて多様な一方、木々の間隔は近すぎず、下生えももつれすぎていなかった。夜をすごすのにもっといい場所が森にあるとしても、夜明けまで探しても見つかるまい。

 父が自分の父に声をかけた。「どう思います?」

「ここでいいだろう」祖父はヤルダのほうをむいて、「ここには樹精はいないぞ、保証する」

「そんなもの怖くないわ」ヤルダはいった。

 祖父が背中からおりると、ヤルダは長い前脚の上半分を再吸収しはじめた。疲れすぎていて、自分の体形について注意深く考えられなかったけれど、もとの姿態に戻るときいちばん大変だったのは、旅のあいだに──通常のくつろいだ状態に戻ると祖父を道に投げだすことになってしまうので──育んだ慎重さを、無理やり捨て去ることだった。

 父が体袋の中身を地面に空けて、自分も二本脚になり、それから父とヤルダはいっしょに、三人が眠るための窪みを掘った。植物の根は深くまで張っていて、ヤルダは三、四回、指を二叉に分けて、根の脇の土にもぐりこませ、 の要領で根を丸ごと持ちあげる必要があった。それでも、父が手伝ってくれたので、これはそれほどうんざりするような作業ではなかった。ヤルダに巣を壊された長虫は、彼女が農場で見慣れているものより太っていて攻撃的で、単に彼女の指から逃れようとしているのではないと気づいてからは、ヤルダはそいつらを空き地のむこうに投げ捨てるようにした。

 三つの窪みが準備できたときには、ヤルダはほとんど立ったまま眠っていた。祖父は二本の短い脚で──いま発芽させている肢はそれだけだ──自分の寝床にむかう途中、ヤルダのほうをむいて、いった。「ここまで運んできてくれてありがとう、ヴィタ。いい仕事をしてくれた」

 ヤルダは祖父のまちがいを正さなかった。心の中をなにがよぎっているにせよ、祖父は心からのものに聞こえる声で讃辞をいっていた。父ヴィトはヤルダに目配せをしてみせ、それは父も祖父と同じ気持ちであることを、もう少し軽い調子で伝えているのだとヤルダは受けとった。それから父はヤルダにお休みの挨拶をした。

 ヤルダはへとへとだったが、しばらく祖父の横に立って、眠っているその姿を見おろしていた。おじは、祖父の体が夜中に黄色く輝いていたといった。ドクター・リヴィアの療法の有効性を判断しようと思ったら、この症状について、いまと、農場に戻ってからとをチェックする必要があるのではないか? ヤルダは自分がたくさんの影を落としていることに気づいて、その影の中に入れれば、祖父の体がどんなようすかわかるのではないかと考えていた。だが残念ながら、ヤルダのどの影も、祖父の体から──少しでも光が出ているとして──どんな光が出ているのかがわかるほど濃くはなかった。ヤルダがどこに立っても、祖父をありとあらゆる花からいちどにさえぎって、祖父の体の発光だけを観察することはできなかった。

 ヤルダはがっかりしたが、あきらめて寝床にもぐりこみながら、明るい面を考えた。もし祖父の皮膚から出ている光が、森の輝きでわからなくなるほどかすかだとしたら、そのことはまちがいなく、農場で祖父が失った色相がなんであるにせよ、いまはそれが体から漏れだすよりも速く、補充されていることを意味する。

 ヤルダは身をくねらせて、先ほど彼女の排除の手を逃れた数匹の長虫を押しつぶしながら冷たい土のもっと深くにもぐりこむと、紫色の逆光をじっと見あげた。樹精のことが思い浮かんだが──どこかの枝にこっそり隠れて、長虫よりも怒っている──そいつに夜のあいだに襲いかかられても、不意打ちにはならない。そしてもしそいつが、ヤルダよりも小さな食い物である男たちを攫っていったとしても、ヤルダはアマタの経験した罪悪感と救出の紆余曲折の歴史は回避して、朝一番に男たちを自由の身にしているだろう。


 昼間の森には、祖父の物語で語られたとおりの部分があって、ヤルダは喜んだ。下生えの中の小さな花々の多くは、枝の作る天蓋に日光をさえぎられて、ほんとうに輝きを保っていた。

 だが空き地の大半は、完全には空から隠されていなかった。紫色の花々が巻きあがってしわくちゃの袋になるとともに、それまで花びらが延び広がっていたのを支えていた網状の蔓を抜けて日光がこぼれ落ち、地面をまだら状に明るくする。

 朝食のあと、ヤルダは持ってきたパンをしまう貯蔵穴を掘り、夜寝るときにくるまっていた地表の花の花びらを父が穴の内張りにした。ヤルダにはこのへんの長虫が通常の原則に従うとはとても思えなかったが、父は刺激臭はどんな害虫も遠ざけると請けあった。

 その作業が終わってしまうと、ヤルダはすることがなにもなくて、森を眺めているほかなかった。それはなじみのない状況だった。もしヤルダが農場でぶらぶら歩きまわっていたら、父がたちまち仕事を見つけてあてがっただろうし、もし仕事がなにもなければ、いつも騒々しいエネルギーに満ちたいとこたちや兄姉が、なにかのゲームなりなんなりに引っぱりこんだだろう。

 お昼に父は、またパンを三つ出した。祖父は半分地面に埋まったままで食べ、気取りのないはしゃぎ声をあげた。ヤルダはまわりの枝のかすかな動きを見守って、それぞれの原因を突きとめようとした。朝のあいだにヤルダは、たくさんの枝で同時に起こる、風が引き起こす揺れと、小さなトカゲが走り抜けたときに一本の枝だけが揺れるのとを、区別できるようになった。トカゲが枝から跳んで別の枝に着地したことで起こる連続した反動を特定できたことさえ、何度かあった。

「トカゲはなにを食べているの?」ヤルダは父に尋ねた。

「昆虫だろう、たぶん」父は答えた。「よくはわからないが」

 ヤルダは父の答えの後半の部分について考えこんだ。よくわからないなどということがありうるのか? 世界について、大人たちが知らないことがあるのだろうか? 祖父はトカゲの餌についてはなにも答えをくれず、だがそれは、そんなことに気をまわしていられないほどなにかに気を取られていたからかもしれないが、ヤルダは自分が重要な事柄について誤解していたのではないかと思いはじめていた。これまでヤルダは、大人はだれもが子どもたちに物事を教えたり、子どもたちの質問に答えたりするのが役割で、やがて子どもたちは知るべきことをすべて知る──そしてそのときには子どもたちも大人になっている、と思っていた。だが、世代から世代へ伝えられてきたのではない答えがあるとすると、その答えはどこから来たのだろう?

 本人の聞いているところで祖父の知識の範囲について探りを入れるのは不作法だと判断して、ヤルダは祖父がまた眠りこむまで待った。

「父さんに星々のことを教えたのは、だれだったの?」ヤルダは父に訊いた。「ゆうべ、わたしにいろいろ話してくれたようなことを?」祖父が色の尾の原因について話すのを、ヤルダは聞いたことがなかった。

 父がいった。「わたしはそのことを、おまえの母さんから教わった」

「へえ!」ヤルダはびっくりした。自分と同い年のだれかから、なにかを教わることができるのだろうか?「じゃあ、母さんにそれを教えたのはだれ?」

「母さんには友だちがいた、クララという名前の少女だ」その話題を取りあげるには、なにか特別な努力を必要とするかのように、父はゆっくりとしゃべった。「クララは学校に通っていた。彼女は自分が学んだことをおまえの母さんに話し、そしておまえの母さんがわたしにそれを説明してくれたんだ」

 ヤルダは村に学校があるのは知っていたが、そこはそれまで知らなかった仕事ができるようになるため人々を訓練する場所で、星々についての質問に答えてくれる場所ではないとばかり思っていた。

「彼女に会えたらよかったのに」ヤルダはいった。

「クララにか?」

「母さんに」

 父は苦々しげにいった。「それは、空を飛べたらよかったのにと思うようなものだ」

 ヤルダは前にもそのいいまわしを聞いたことがあったが、成就不可能なことをいいあらわすにしては奇妙な例を選んだものだと、このとき思った。「もしダニの羽みたいに、両腕を幅広く伸ばしたら飛べるんじゃない?」

「それはもう試した人がいる」父がヤルダに教えた。「わたしたちは重すぎるし、弱すぎる。それではうまくいかないんだ」

「そう」ヤルダは母親の話に戻った。「母さんはほかになにを父さんに教えたの?」

 父は答える前に考える必要があった。「描書を少しだけ。だが、どれだけ覚えているかわからない」

「やってみせて、お願い!」ヤルダは描書というのが要するになんなのかよくわからなかったが、自分の父が複雑精妙な技を演じるところを見るという期待感には、抵抗できなかった。

 父の拒否は、そう長くは続かなかった。「やってみよう」父はいった。「だが、うまくいかなくても文句をいわないでくれよ」

 父はしばらくのあいだ、黙ったまま動かずに立っていた。それから父の胸の皮膚が、昆虫を追い払おうとしているかのように震えはじめ、ヤルダはそこにいくつかの奇妙な、湾曲した隆起があらわれはじめていることに気づいた。だが、隆起はじっとしてはいなくて、父の体を横切って移動した。隆起をその場にとどめておこうと父が必死なのはわかったが、うまくいっていなかった。

 父は緊張を解いて、皮膚をなめらかにした。それから、もういちど挑戦した。今度は、胸の中心近くにひとつだけ、短い隆起が形作られ、それはわずかに震えてはいたけれど、ほぼその場にとどまっていた。そしてヤルダが見つめていると、隆起は曲がって丸まっていき、とうとう不格好な円になった。

「太陽だ!」ヤルダはいった。

「さて、次のができるかどうか」父が集中すると振動膜がピンと張り、同時に隆起が大きく広がって変形し、絡みあって広がる五つの輪になった。

「花ね!」

「もうひとつ」花がばらばらに引き裂かれ、花びらを形成していた線が柔らかくなったが、そこから断片が新しい配置で寄り集まって、数本の隆起がふたたび鋭く、明瞭になった。

「目!」

「さあどうだ、シンボルが三つ、これでじゅうぶんだろう!」父の肩はだらりと下がっていた。

「やりかたを教えて!」ヤルダは懇願した。

「かんたんにはできない」父がいう。「たくさん練習する必要がある」

「ここではほかにすることがないわ」ヤルダは指摘した。森を探検しにいってよければ喜んでそうして、トカゲのあとを追ってなにを食べているか調べだしていただろうが、祖父を置いていくことはできない。

「まず、ひとつのシンボルに挑戦してみようか」父が仕方なさそうにいった。

 父の手振りに従ってヤルダはひざまずき、父の身長と同じくらいの高さになった。父は一本の指を尖らせて、ヤルダの胸を、同じ小さな一点からまったく動かすことなく、そっと引っかきはじめた。すぐに、父の指先は、なにかの昆虫がそこにいるのを感じるときと同様に、いらだたしいものになった。

 ヤルダは身もだえした。皮膚は震えているが、いらだちはちっとも解消しない。ダニならたちまち振るい落とされただろうが、このつついてくる指は押しのけるのには重すぎた。

「肩を動かすな!」父が叱りつける。「皮膚だけを使うんだ。おまえがもう一日何ダース回もやっていることだが、それをもっと精密に制御することを学ばなくてはならない」

「まだなんの形も見えてこない」ヤルダは泣き言をいった。

 父が、「焦るな! まず最初に、おまえの皮膚の下でなにが起きているかを自覚できるようになれ。その次は、それが起きている場所を移動させようとしてみる番だ」

 それは姿態を変えるのよりもむずかしく、手を変形させるのよりもむずかしく、これまで自分の体について試みたどんなことよりもむずかしかった。ほとんどの変形にはなんらかの努力が必要だが、ひとたび肉を押しだせば、あとは本能が引き継いでくれる。だがこれは違っていた。本能はただひたすら、ヤルダにこの無駄な身震いで時間を浪費するのをやめて、不快の原因を手であっさり追い払ってほしがっていた。

 だがヤルダはがんばった。母は友だちに教わってこのやりかたを学び、それからこの技能を父に伝えた。ありえようがありえまいが、いまヤルダをつついているのは母の指 であり、皮膚の下の小さな筋肉の群れを手なずける努力を続けるよう駆りたてていた。

 空き地に薄闇が落ち、頭上の紫色の花々が網状の蔓一面に花びらを広げるころには、ヤルダは自分の皮膚の上に描書した、自前の太陽を作りだしていた。ヤルダが自分の胸をじっと見おろしていると、暗い円は自分の尾に嚙みつく長虫のようにのたくって、そしてばらばらになった。

 父はこの努力で、ヤルダよりも疲れたように見えた。「よくやった」父はいった。

「お祖父さんにやってみせていい?」祖父はあっけにとられるだろうとヤルダは思った。一日も学校に行っていないのに、これこのとおり、ヤルダは描書をしている!

 父がいった。「お祖父さんは疲れているんだ。このことで騒がせないでおこう」


 ヤルダは目ざめ、空き地の明るさに一瞬混乱した。まだ朝ではない。ヤルダが眠りから目ざめたのは、祖父が苦しげにうなっているせいだ。

 ヤルダは祖父のほうに体をむけ、もっとよく見えるよう立ちあがった。最初思ったのは、強い風が森を吹き抜けて、木々から花びらをむしりとり、眠っている祖父の体の上にばらまいたに違いないということだった。だが輝く黄色の斑点は、祖父の皮膚だった。

 ヤルダは祖父の寝床の脇にひざまずいた。祖父の目は閉じていたが、左右に転げまわっている。祖父のまわりじゅうをダニが行き来しているのが感じでわかった。ヤルダは手を振りまわして追い払おうとしたが、ダニはしつこかった。

 ヤルダは父を呼んだ。「父さん! 助けて!」

 父が身じろぎするとともに、ヤルダの眠気がさめて視界が晴れてきて、ダニの大群がよりはっきり見えるようになった。祖父の体にむかっておりていっているダニは、まったくふつうどおりの外見だが、祖父を咬んでからふたたび森へのぼっていくダニは、不思議な黄色い光のわずかな分け前で体を染めていた。これと似たようなことを、ヤルダはこれまでまったく見たことがなかった。花を食べた昆虫は、花と同じ輝きを帯びたりはしない。

 顔をあげると、父が祖父の寝床のむかい側に立っていた。「痛がっているわ」ヤルダはいった。「ダニのせいだと思う」ヤルダは手の幅を広くして、一心不乱にダニを叩き落としながら、父もいっしょにやってくれないかと思った。

「熱い!」祖父がつらそうに訴えた。「出産はこんな感じなのか? これがおれへの罰なのか?」祖父の目は固く閉じたままだ。自分がどこにいて、だれに介抱されているのか、祖父がわかっているようにはヤルダには思えなかった。

 父は無言だったが、ひざまずいて自分でもダニを叩き落としはじめた。ふたりの努力で少しでも苦しみから楽になったようすを祖父が見せるのを期待して、ヤルダは祖父をじっと見つめた。新しい輝く斑点があらわれていて、そのちらつく黄色の染みは祖父の皮膚の裂け目から漏れだしてきたように見えた。想像を超えた柔らかい樹脂でできているかのように、それは恐ろしい速さで広がっている。いちばん細かい塵を別にすると、それほど自在に動くものをヤルダはこれまで見たことがなかった──だが、絶え間なく微風が吹いているのに、それは塵のように散ったりはしない。

「これはなに?」

「わからない。なにかの……液体 だ」

 父は最後の単語をうろたえた声でいったが、それがどういう意味かをヤルダが尋ねる暇もなく、空き地全体が昼間よりも明るく照らされた。ヤルダは本能的に目をつむっていた。また目をあけたときには光は消えていたが、太陽を見つめたあとのように、なにもかもが前より暗く見えた。

「ふたりでこの空き地を出るぞ」父が唐突にいい放った。

えっ ?」

「お祖父さんは死にかけている。もう助けようがない」

 ヤルダは啞然とした。「置き去りにはできないわ」

 父がいった。「よく聞くんだ。わたしたちにはお祖父さんを助けられないし、いっしょにいるのも安全ではない」

 息子の非情な裁断が、押し寄せる苦痛と混乱越しに祖父に届いたようすはなかった。父の言葉を信じる気にはなれずとも指示に従うよう自分に強いて、ヤルダが立ちあがったとき、前方彼方に浮かんでいた光の点が、爆発するように痛いほどのまばゆい輝きと化した。両前眼を腕で覆いながら、ヤルダは思った。あれはダニだ 。さっきの光もいまのも、祖父の皮膚を咬んで光を盗んだダニたちが燃えあがったもので、ちっぽけな炎のそれぞれが太陽よりも明るかったのだ。

 半分目が眩んだまま、ヤルダはよろよろと祖父の寝床をまわりこんで、父のところにむかった。「これから森を出るの?」

「そうだ」

「食べ物は持っていく?」

「そんな時間はない」

 父はかがんで自分の父になにかをささやいてから、立ちあがると先に立って空き地を出る道を進んでいった。ヤルダは祖父をひと目盗み見てから、しぶしぶその場を離れた。ヤルダは祖父の運命が決してしまったとは認めたくなかったので、さよならをいう気にはなれなかった。

「後眼を閉じておけ」父が厳しい声で命じた。「わたしのそばを離れず、後ろは見るな」

 ヤルダはいわれたとおりにした。空き地のほうで三つ目の光の爆発が起きた──いまではヤルダの背後になっているのに、前方の頭上の枝から反射する輝きにさえ、目が眩んだ。ヤルダの視界からは暗い痕跡が消えようとせず、影のような第二の森が本来の森の上に焼きついて、なにもかもを困難にした。

「どういうことなの!」ヤルダはいった。「ここの光はお祖父さんの具合をよくすると思っていたのに!」父にドクター・リヴィアの見解を思いださせ、そしてそれをいま目にしているものと結びつけさせることができれば、もしかすると父は考えを変えて、引き返すかもしれない。

「試してはみたんだ」父は打ちひしがれていた。「だが、癒しようのないこともある」

 ヤルダは視覚よりも触覚に頼りながら、怒りに駆られたまま枝を押しわけて進んだ。次々と生じる閃光をヤルダはいちいち気にしてはいなかったが、残像は増えつづけて、ついにはぼんやりと浮かびあがる障害物のどれが本物なのかわからなくなった。病がひどくても、祖父のヤルダへのぶっきらぼうな愛情は変わらなかった。どうしてその祖父のもとから立ち去るなどという真似ができるのか?

 森を抜けだしたふたりは、道を目ざして進んだ。もしかすると、ダニはじっさいは役に立っていて、祖父の体から毒を吸いだしているのかもしれない。そして祖父のかわりに死んでいる 。休憩のために足を止めることがあったら、父が寝ているあいだにこっそり引き返そう、とヤルダは決めた。そして自己犠牲的な昆虫の治療のおかげで祖父が助かっていたら、ヤルダは祖父を運びだして、彼の息子と再会させられるだろう。

 前方の地面が耐えがたいほどに輝き、それから突風がヤルダをなぎ倒した。大声で呼びかけようとしたが、振動膜は動かず、ヤルダはしゃべることも聞くこともできなくなっていた。ヤルダは雑草の上を這った。雑草は命のない抜け殻のように見えたが、それがほんとうに死んでしまっているのか、それとも自分の視覚が最低限の機能以外奪われてしまったのか、ヤルダにはわからなかった。あたりを手探りしながら、きっと父はそばにいると思い、けれど視線をあげて探すのは怖くてできない。そのとき、父が伸ばしてきた手が触れて、ふたりはしっかりと握りしめあった。

 ふたりはその場を動かず、地面の上で体を寄せあった。父に抱きしめられても、ヤルダは安心した気持ちになれなかったが、いまはそれしかなかった。


 ヤルダが目ざめると空が明るみつつあり、昆虫たちが音を立てていた。父は目ざめて、ヤルダの脇にうずくまっていたが、昨夜起きたことを調べようとヤルダが立ちあがっても、無言のままだった。

 森はまだそこにあったが、もっとも近い部分は、巨人が腕を振りおろして殴りまくったかのように、まばらになったり傷ついたりしているのが見てとれた。ヤルダたちの周囲の低木は死んでいた。動くと皮膚に痛みが走る。

「お祖父さんは死んだ」ヤルダはいった。この破壊の中心にいて、祖父が生き延びたということはありえない──ましてや、その破壊の原因となったのに、生き延びたなどということは。

「そうだ」父は立ちあがって、慰めるように一本の腕をヤルダの体にまわした。「お祖父さんを亡くしたのは悲しいことだが、あの人が長い人生を送ったことを忘れてはいけない。それに、ほとんどの男は藁のように朽ち果てて土になる。光になる人は、ほんのわずかだ」

「これでよかったの?」ヤルダは祖父が最期にどれほど苦痛を感じていたかを目にしていたが、比較する対象がなかった。

「わたしたちがお祖父さんのもとを去るのがまにあったのは、よかった」父がいったが、ヤルダの問いに対する答えははぐらかしていた。「わたしたちを巻き添えにしていたほうが、あの人が幸せに感じたということはないだろうから」

「そうね」ヤルダは自分の全身が、知らぬ間に悲しみのうなりを立てて震えているのに気づいた。父はヤルダがまた静まるまで抱きしめた。

「そろそろ歩きはじめたほうがいい」父がやさしく促した。「夜になる前に農場に着ければ、それがいちばんいいからな」

 ヤルダは、見る影もなくなった森の外れに後眼をむけた。

「わたしが歳を取ったとき」彼女はいった。「わたしにはなにが起こるの?」

「つまらんことを考えるな」父がいった。「ああなるのは男だけだ。わたしの娘は、ひとりも死んだりはしない」