第十七話 推しと握手をした。


 翌日。良く晴れた土曜日。

 午前中だけの授業を終えて、放課後になった現在──俺は一人で、何かと因縁のある場所、校舎裏にやって来ていた。

 辺りを見回して、少しだけ思い出す……そういえば、俺がはなふさの本性を初めて知ったのは、この場所でのことだった。

『家に帰ったら絶対に、プリン食べる』

 そう言いながら、屋外用の大きなゴミ箱を蹴りつける、花房の姿が脳裏に浮かぶ。見やれば、ゴミ箱の側面にはいまだ、彼女がつけたへこみがくっきりと残っていた。

 あの時、俺は本当に、彼女に幻滅した……俺の中にあった理想の『まんさきのU‐Ka』とは似ても似つかない彼女を見て、だまされた気分になったのだ。

 だっていうのに、俺はどうして曲がりなりにも、そんな彼女とこれまで一緒にいられたんだろうな……いや、俺は別に、花房と一緒にいるために我慢や努力をしてきた訳じゃないか。むしろ、一緒にいる努力をしてくれていたのは──。

…………

 そんなことを考えながら花房の到着を待っていたら、がさり、と草を踏む音が聞こえてきた。なのでそちらに視線をやると、校舎の角から彼女が現れる。

「……あ、あはは。どうも……」

 どこか力なくそんな挨拶をしてくる花房に、俺は「おう」と、努めていつも通りみたいな返事をした。

 そうして花房は、少し距離を取って俺の正面に立つと、ほのかにはかなげな表情を浮かべたのち、顔を俯ける。──彼女は何も喋らない。どうにも気まずそうに両手をんで、俺の顔をちらちら見つめるだけだった。なので俺は仕方なく、俺の方から彼女に話しかける。

「デモ音源、持ってきてくれたのか?」

「……うん」

 一つ頷いて、花房は肩にかけていた学生カバンを下ろすと、そこから白いCD‐Rを取り出した。薄いCDケースに入ったそれには、『まんさき デモ音源』とだけサインペンで書かれている。

 俺は差し出されたそれを見つめながら、彼女に言った。

「ありがとう」

「……ううん。約束、だったから……」

「それでも、ありがとな。大切に聴かせてもらうわ」

 花房との関係も今日で終わりだと思うと、素直な言葉がすらすらと出た。……こういう時にしか素直になれないのがどうにも俺らしくて、そんな自分が少しだけ嫌いだった。

 思いつつ、俺は花房の差し出したデモ音源を、そっと手に取った。

 しかし、手に取ったそれを学生カバンに仕舞おうとしたら、ぐっ、と。CDをつかんでいる右手が何かに引き戻されるのを感じた。なので、そちらを見やれば──花房が何故か、俺に差し出したCDを未だに握り続けていた。

 それを受け、俺はそのCDを優しく取り上げようとするものの、花房は俺にあらがうようにデモ音源を手放さない。──俺がぐいっ、とCDを引っ張れば、花房がぐいっ、とそれを自分の方に引き戻す。それはまるで、綱引きをするみたいに。俺と彼女は無言を貫いたまま、そんな謎の攻防を数度繰り返した。

「……あの、手、放してくれるか? じゃないと、受け取れないんだけど……」

…………

 そのうち、しびれを切らした俺がそう言うと、花房は無言のまま顔を俯ける。だけどそれでも、彼女はCDを強く摑んだまま、一向に手放そうとはしなかった。……な、なんで? 今更になってこれを俺にあげるのが惜しくなったとか、そういうことか?

 俺がそう不思議に思っていたら、ふいに顔を上げた花房が、ぽつり、と──不安げに瞳を揺らしながら、こんな言葉を漏らした。

「こ、これで、終わりとか……そういう訳じゃ、ないよね……?」

「え……?」

ゆうちゃんが、このデモ音源をあんたに渡したら、それで……もう、私とあんたの関係は終わりとか……そんなこと、考えてないよね……?」

…………

 何を言ってるんだこいつは、と。俺はそう思った。

 そんなの、ちょっと考えればわかるだろ──これで終わりだ。

 花房と俺の間にあった、デモ音源の契約を履行することで、俺達の間にあるものを全て清算して、関係をちゃんと終わらす……このCD受け渡しが持っている本当の意味は、そういうものだった。それを、花房本人がわかっていない筈はないのに……。

 俺はそこまで考えたのち、彼女が投げかけてきた質問に、正面から答えた。

「いや、これで終わりだ」

────

 俺の発言を受け、驚いたように目を見開く花房。……どうして、そんなリアクションなんだよ。俺もそう内心で驚いていると、花房は固く目をつぶった。それから、ゆっくりとまぶたを押し上げ、こちらをじっと見やる。──敵視するような視線が、俺を射抜いていた。

 すると、次の瞬間。

 花房は突然、空いていた左手で、どんっ、と俺の胸を突いた。それに驚き「なっ?」と声を出す俺。そんな俺をなおもにらみつけながら、彼女は言った。

「なら駄目。これは、あんたにはあげられない」

「は……? な、なんで……」

「なんでって、そんなの当たり前じゃん。あんたにこれをあげたら、もう終わりなんでしょ? ──じゃあ、無理だから。そんな、憂花ちゃんに得が一個もないこと、誰がするかっての。やっぱ、この約束はなしね」

「はあああ? ……お、お前、ふざけてんのかよ? 俺は今日、お前からデモ音源を受け取るために、ここに来たんだぞ。お前だって、俺にデモ音源を渡すために、ここに来たんだろ? それがなんで、どうして……やっぱそれは嫌だって話になるんだよ」

「だって……これを渡したら終わりだって、あんたが言うから……」

「そんなの、お前が一番わかってたんじゃないのかよ」

…………

 わかりやすくしゅんとなって、顔をうつむける花房。……あまりにも意味不明だった。

 そもそも彼女は今日、俺と決別するために俺を呼び出したんじゃないのか? もしそうじゃないのならそれこそ、いままで俺を遠ざけてきた意味がわからなくなる……こいつは一体、何を考えてるんだ? 結局、俺をどうしたいんだよ。訳わかんねえよ。

 俺は思いつつ、花房の手から無理やり奪い取るように、CDを思いっきり引っ張った。

「や、やめっ……やだあ!」

 そうすると同時、彼女は必死になって俺の腕にすがりついてくる。それにドキリとした俺は、「ちょ──わ、わかったから!」と、慌ててCDを手放し、それを取り落とした。すると花房は、地面に落ちたデモ音源をすぐさま、両手で拾い上げる──。


 そうして、俺が手放してしまったCDを、花房はいとおしそうに、自分の胸元でぎゅっと抱いた。そうしながら彼女は、固く目を瞑って、「やっぱ、だめ……」とつぶやくのだった。


「わ、訳わかんねえよ、お前……それを俺に渡さないで、一体どうしたいんだ? ──そもそも花房さんは、俺から距離を取りたかったんだろ? だから部室に来なくなったし、俺の前でも仮面をかぶるようになったんじゃないのか? そして今日はついに、こうやってまんさきのデモ音源のコピーを渡して、ちゃんと終わらせようとした──そういうことじゃなかったのかよ? いまお前、行動が矛盾してるぞ……」

 俺のそんな言葉を受けて、花房は潤んだ瞳で俺を睨みつける。唇を強くみ、いまにも泣き出しそうな顔をして、だけど涙は見せぬまま……やっぱり胸元には、まんさきのデモ音源が入ったCD‐Rを、強く、きつく抱いていた。

 それから、どれくらいの時間がっただろうか……長い静寂があったのち、花房は顔を俯けると、耳をほんのり赤らめつつ、話し始めた。

 それは、彼女がこれまで語ってこなかった、彼女の弱い部分についての話だった。

「……憂花ちゃんはこれまで、一人で生きてきたの。誰かに愚痴を吐いたりせず、誰かに助けを求めたりもしないで──まあ実際には、憂花ちゃん一人で生きるなんてこと、全然できなかったけどね。でも、そうしようとはしたんだよ。自分から、誰かに寄りかかろうとは、しなかった……」

…………

「それなのに、あんたと出会って……憂花ちゃんの素顔を知ってる、あんたにだけは……自分から、寄りかかっちゃった。だから憂花ちゃんは、あんたと一緒にいられなくなったの……これ以上一緒にいちゃいけないって、そう思ったんだよ……」

 そこら辺は何となく、花房の在り方として、予想がついていた部分だった。

 他人に、自分の『心のり所』を見つけたくない。自分一人で立っているのがしんどい時に、誰かに寄りかかることを覚えてしまいたくない──それは、その『誰か』がいなくなった時、一人で立てなくなる原因になってしまうから。

 花房がそういう価値観を持っているのは、俺も薄々感じていた。だから、花房はやっぱり、俺を嫌いになったから俺を避けていた訳じゃなかったとわかって、少しほっとしてしまったけど……結局のところ。

 どうして花房はいま、そういう理由で離れようとした俺との関係が終わることを、怖がっているんだろうか──。

 俺がそう考えていると、真っ赤になった顔を上げた花房は、一瞬だけ俺を見つめたのち……くされたような表情でそっぽを向きつつ、こう言うのだった。

「でも、だけど……だからって……あんたの方から、離れようとしないでよ……」

…………は?」

「だ、だから! ──憂花ちゃんからあんたに対して距離を取るのは良いけど、あんたが勝手に、憂花ちゃんから離れようとするなって言ってるの! 確かに、憂花ちゃんはあんたと一緒にいたらいけないって、そう思っちゃったけど──だからこそあんたはむしろ、そんな憂花ちゃんと一緒にいるために、自分から努力してよ!」

「……はああああああ?」

 怒りというよりはあきれの感情の方が多い声が、俺の口から漏れ出た。……こいつ、マジで何言ってんだ? 花房自身の性格的な問題で、彼女の方から俺と距離を取ったっていうのに、だからって俺が俺の意思で離れていくのは我慢できない? ──こうして要約してみても、いまだに何言ってんのかわかんないんですけど?

 俺がそう、彼女の発言を一ミリも理解できないでいると、花房は「だ! か! ら!」と、そんな俺に対して怒り心頭といった様子で怒鳴り、それから続けた。

「憂花ちゃんは別に、あんたと無関係になりたかった訳じゃないの! 憂花ちゃんは、あんたと距離を置いて、適切な関係でいたかっただけで……それが、どうしてこの関係は終わりって話になるのよ! そんなの、憂花ちゃんがやなんだってば!」

「えええええええ……お前から俺を避け始めたのに?」

「つか、あれだってそうだから! 別に憂花ちゃん、こうすけを拒絶した訳じゃなくて、ああやって自分から光助とからまなかったら、光助の方から来てくれるかな……それだったら憂花ちゃんも、光助と絡むのもやぶさかではないかな──みたいなこと思ってたら、三週間も放置されたし! どんだけ意気地なしなのあんた!」

「はあああああ!? 俺のせいかよ!?

「そうだよ! 昨日だって、久々にあんたと会うってなった憂花ちゃんが、光助に近づき過ぎないために仮面を被って行ったら、めっちゃマジのトーンでキレてくるから、あんなんなっちゃったし! ……別に、光助を幻滅させるつもりなんて、なかったんだよ? 私はただ、ああやって仮面を被ってでも、あんたと一緒にいたかったっていうか──憂花ちゃんはそう思ってたのに、そしたらあんた、本気で憂花ちゃんを見限っちゃうし……」

「……そ、それは……」

「だから今日、無理やり約束を取り付けて、再会したら……これで終わりとか、言い出すしさ……ほんと、なんなのよ、あんた……違うの……違うんだってば……憂花ちゃんはただ、あんたとにせものの関係でもいいから、一緒にいたかっただけで、光助と無関係になりたかった訳じゃないんだよ……あんたのこと、嫌いになんか全然なってない。むしろ私は、あんたのことが、本当に────……だから……こんな風に、終わりたくないよ……」

…………

 くしゃり、と。膝をすりむき泣き出す寸前の子供みたいに表情をゆがませながら、花房は俺を見つめた。──まつ毛が震える。潤んだ瞳が揺らぐ。唇も固く引き結ばれた。それでも、いまにも泣きそうな顔を無理やり笑顔に作り変えると、花房はそんな、したたかな微笑と共に、どこか悪戯いたずらめいたささやき声で、こう言うのだった。


「憂花ちゃんが、あんたから離れようとするのは、いいの。──でも、あんたから憂花ちゃんを諦めようとするなんて、そんなの、憂花ちゃんが許さないから……」


────

 こいつは本当にとんでもない女だと、ただそう思った。

 だって要約すると、自分勝手な理由で俺を遠ざけたり、偽りの仮面を被って俺と一緒にいようとした花房は、いま──自分はあなたを遠ざけたけど、それでも、そんな私をあなたが追いかけてきてくれなかったことが、私は許せないと……そんな、めちゃくちゃめんどくせえことを言っているのだから!

「お、お前は、マジで……ほんとに……」

 俺の視点から見たら、この女は矛盾だらけだった。自分から遠ざけておいて、それなのに俺がこの関係を終わらそうとしたら、それに対して怒るなんて……思考回路がショートしてるとしか思えない。

 ただ、彼女に振り回されている俺自身はそう感じるけど──花房視点で彼女の感情を考えた時、そこに一応の整合性はあるのだと思う。

 まず、俺という人間に寄りかかってると感じた彼女は、俺から距離を置くために、部室に行くのをやめたり、俺の前でも仮面を被ったりし始めた──しかし、俺を本気で嫌っている訳ではなかった花房は、それを受けて彼女との関係継続を諦め、「この関係を解消しよう」と申し出てきた俺に対し、こう思ったのだ。

『こいつと距離を取ろうとは思ってたけど、無関係にはなりたくない! というか、何でこいつはこんなに可愛かわいい憂花ちゃんのことを、そんなにあっさり諦められるのよ!』

 そうして、そう思った彼女の口から出たのが、先の発言という訳だ。

 ……もちろん、こんなのは俺がいま立てた予想であって、だから完璧な正解では絶対にないんだけど、たぶん大きく外れてもいないんじゃねえかな……。

 それから、感情を吐き出し終えた花房は、一つ息を吐くと──「ごめんなさい」とちゃんと口にしながら、深々と頭を下げた。……そうなんだよな。彼女、こういう時に謝れる子ではあるんだよな……俺がそう思っていたら、どこか遠慮がちに頭を上げた花房は、照れくさそうに笑って続けた。

「こんな、めんどくさい憂花ちゃんで、ごめんね……三週間もほったらかしにして、本当にごめん……」

「い、いや、それを謝られても……」

「まあ、光助も三週間、憂花ちゃんのことをほったらかしにしてたから、そこはおあいこかもしんないけど……憂花ちゃんがあんたを振り回しちゃってるのは、わかってるから。自分でも、憂花ちゃんってちょっとめんどい女かも、って思うからね……」

「自覚症状があって良かった。……でも、『ちょっと』なんだな」

「うん。憂花ちゃんはちょっとめんどくさい女の子。そんなところも可愛いでしょ?」

「他人から言われたならまだしも、自分から開き直ってんじゃねえよ」

 俺のそんなツッコミに、乾いた声であははと笑う花房。次いで、彼女はふいに真剣な顔になると、改めて俺に向き直った。「すぅー、はぁー……」と一つ深呼吸をしたのち、手に持っていたCDを、俺の方にそっと差し出す。そうしながら、彼女は笑った。

 それはどこか、悪戯っぽい、悪びれるような笑みで……どこまでも彼女らしい、だからこそ愛らしい笑顔だった。

「いまの憂花ちゃんの話を聞いたうえで、まだこれが欲しいなら……いいよ、あげる。それでも欲しいってなっちゃったら、もう……しょうがないもんね。──でも憂花ちゃん、さっきみたいに、最後の抵抗はするから。その時は、憂花ちゃんから力ずくで奪ってね」

…………

「それで、どうする? ……デモ音源、いる?」

 たぶん彼女は、これがどういう結果になるか、もうわかっていた。

 でも、花房はそれをわかったうえで、俺にそう尋ねるのだ──これを手に取るの? 取らないの? と。……何というか、どこまでもこうかつで、とにかくめんどくさくて、何より女の子らしい女の子だと思った。

 可愛いだけじゃない。憎たらしいだけじゃない。

 すっげえ憎たらしくて、どこまでも可愛い女の子だった。

 ふとした瞬間に狡猾さを見せたかと思えば、彼女にしかわからないタイミングで感情的にもなる。花房憂花はそんな、どこを切り取ったって彼女らしい、あまりにも複雑怪奇な精神構造の、でも……どこにでもいる女の子だった。

「ははっ……」


 ──きっと俺は、花房が俺の推しじゃなかったら、彼女に恋をしていた。


 いつもならもっとひねくれた結論になるはずの俺の感情が、素直にそう認めた。こんなこと、あまり自覚したくはなかったけど……彼女の一筋縄ではいかない魅力を知ることによって、この感情はもはや、そう認めざるを得ない大きさになっていた。

 花房憂花は俺が理想としていた、まんさきのU‐Kaじゃない。それはわかってる。

 でも俺はいま、それをわかったうえで──こんなめんどくさい、だからこそ女の子らしい花房のことを、恋愛感情を抱く一歩手前ぐらいの熱量で、好きになってしまっていた。

 ……ただ俺は、花房を女の子として意識している以上に──まんさきのU‐Kaを死ぬほど愛してる、こじらせオタクだから。自分からは決して、彼女に対するよこしまな感情を、これ以上膨らませる気はなかったけれど……それは、それとして。

 いま、彼女に問われてる選択──まんさきのデモ音源を受け取るか、受け取らないか、に関しては、どうしたって素直になるしかなかった。

 俺は頭の中でそう感情を整理しつつ、改めて花房へと向き直る。

 ……きっと、彼女はわかっていた。俺がこういう人間で、「どっちにする?」とちゃんと問われないと、自分が望む方向に行くことができないひねくれ者だということを。

 だから俺は、花房の魂胆に乗っかって、自分の望む方を選択する。

 いつの間にか、そのイケメンじゃない顔に、キモいであろう笑みを浮かべてしまいながら……震える手でCD‐Rを差し出してくる花房に対して、俺は言うのだった。

「ま、まあ、別に? お前が、そこまで言うんだったら? ……この、まんさきのデモ音源はまだ、く、くくくくれなくても、いいわ……」

────っ

 俺がそう言った、次の瞬間。花房は手にあったCDを地面に放り出すと、正面からいきなり──がばっ、と。勢いよく俺に抱き着いてきた。

「な……え、ええええええ!?

 な、何してんだよこいつ!?

 何で急に、こんなことを──あ、彼女の髪から謎のいい匂いがする! ラノベとかでよく描写されてるのを見る、女の子特有のいい匂いがする! つかやばい、体と体が触れあう温かさがやばい! ドキドキがすごい!

 俺はそう内心で騒ぎつつ、花房に抱き締められる。彼女の両腕が俺の腰に回され、ぎゅっと、すがるようにこの体を締めつけた。彼女の髪が俺の頰をぜる。俺の左肩に、彼女のあごが乗っていた。少しでも動けば頰と頰がくっついてしまいそうで、だから俺はただただ気をつけの姿勢のまま、身じろぎ一つせずに心臓をバクバクさせるしかなかった。

 そのうち、「うっ、ううっ……!」という、花房のすすり泣くような声が聞こえてくる。それに驚いた俺はつい、思ったことを口にしてしまった。

「え……泣いてんの?」

「ううっ……泣いてないっ!」

「いや、子供が泣いてる時の強がり方されても……」

「うっさい! 黙れ! 死ね!」

「あの、照れ隠しに怒り過ぎでは?」

「ごめん、死ねは言い過ぎた……死なないで……」

「……そこは冷静に謝れるんだな」

「でも、ほんと黙ってて。いまだけでいいから、黙ってろ……」

 花房はそれだけ言うと、俺を強く抱き締めながら泣いた。俺の左肩が、少しずつ涙のしずくれ始める。……お母さんにブレザーの洗濯を頼む時、何て言ったらいいのか、ちょっとだけ考えてしまった。

 そうして俺は「ううっ……」とすすり泣く花房を、直立不動のまま受け止めた。──ここで抱き締め返すのは、絶対にあり得ない。花房のこの抱擁も、俺に拒絶されなかったあん感に起因するもので、俺に対する好意のそれでないことは、わかっているしな。

 何より、俺が彼女を抱き締め返したら、その瞬間──まんさきのファンだった筈の俺という人間が、『U‐Kaとつながりたいだけのクソ野郎』に堕落するのは、わかっていたから。たとえ抱き締め返したい気持ちがあるとしても、そんなことはできないのだった。

 ただ、そういう理由で俺からは何もしないけど、さっきからやっばいわこれ……どうして俺も花房も制服を着てるというのに、こんなにも女の子の体の柔らかさが俺に伝わってきちゃうの……? 特に胸のあたり、彼女の豊満なおっぱいの感触が制服越しでも感じられるの、ほんとやめて欲しい……もしかしなくても女の子って、全身スライムでできているのでは? 俺の推しが転生したスライムだった件……。

 そうやって脳内でふざけることで、花房の体の柔らかさを意識しないように努めていると──しばらくして。ふいに泣きんだ花房が、ようやく俺の体を解放してくれた。

 変な安堵感から、俺が深く息を吐いていると……花房は赤くなってしまった目元を手のひらでぐしぐしこすりながら、とげのある口調でこう言った。

「別に、いまのに、意味とかないから……」

「ああ、わかってる……」

「……なんか、そうやって大人な態度を取られんのもすっげームカつくんだけど。余裕ぶってんなよ」

「じゃあどう言えばよかったんだよ」

「それは、わかんないけど……だっていまのは、女子がたまにやる、なに言っても結局怒られるやつだし……」

「どの選択肢を選んでも好感度が下がるとか、現実クソゲー過ぎない?」

 俺がそう言うと、ふふっ、と小さく笑う花房。それから彼女はふいに、俺に向かって右手を差し出してきた。……それがどういう意味なのかわからずに、ぼーっと彼女の手を見つめていたら、何故なぜか優しげに花房はほほみながら、こう言った。

「仲直りの握手、しよ?」

「……俺達って、けんしてたんだっけ?」

「さあ? まあでも、たぶん喧嘩みたいなもんじゃない? だから──ほら」

…………

 差し出された右手を再度見つめながら、俺はちゅうちょする。……なにも変なことじゃない。喧嘩をしていた男女がこうして仲直りの握手をするのは、至極当然の流れであって──だから俺は、この手を取っていいんだよな? この行為は決して、邪なものじゃないよな?

 そんな風に俺がしゅんじゅんしていたら、悪戯いたずらっぽく笑った花房が、小さくささやいた。

「もし理由が必要なら、手書きの握手券でも作って、あんたに渡すけど?」

「……そうしてもらおうかな」

「や、冗談だから……これくらい、理由なんかなくたって、握ってよ」

 花房とそんな会話を交わしたのち、俺は覚悟を決める。制服のズボンで右手の手のひらをごしごしと擦ってから、俺はゆっくりと、彼女が差し伸べてくれている手に、自身の右手を重ねた。──それはちゃんと、憧れのアーティストと、そのファンが握手をするように。俺と彼女はお互いの右手を、ぎゅっと握り合った。

 柔らかな感触をこの手に得る。それと同時、不必要に胸が高鳴った。……今更ながら、手汗をズボンで拭くという行為自体がキモくなかったか、少し不安になってしまった。

 そうして、俺と握手をしながら、花房はまた微笑する。泣きはらして赤くなった目を俺に向けながら、彼女は弾むような声で言うのだった。

「これからも、ちょっとだけ面倒で、だけどすっごい美人で、頭も悪くなくて、運動神経が抜群な、何より歌がめちゃくちゃ上手な憂花ちゃんを、よろしくね!」

「ああ……お前はめちゃくちゃ面倒な女の子だけど、歌がすっげえ上手うまいから……これからも、推してやるよ」

 俺のそんな言葉を受けて、楽しげに笑う花房。それから彼女は、「憂花ちゃんのファンのくせに生意気ー」と言いながら、満面の笑みを浮かべる──。

 こうして俺は、花房憂花とのきょくせつを経た結果……俺の大好きな推しと、握手券も無しに握手することができたのだった。