第十五話 推しの曲を聴けなかった。


 ぴぴぴ、ぴぴぴ、というやかましい電子音に起こされ、俺はまぶたを押し上げた。

 スマホを手に取り、アラーム音を消す。あくびを一つかましながら、自室を出てリビングに降りた。「おはよう」「おはよ」「おはよう」家族と朝の挨拶を交わしたのち、洗面所で顔を洗って、それから朝食に手を合わせる。目玉焼きとご飯という質素な朝飯を平らげると、のろのろと支度を始め、午前八時十分ごろに「いってきます」と言って家を出た。

 自転車にまたがり、学校までの道を行く。朝は寝ぼけててマジで危ないので、車と接触しないよう細心の注意を払いつつ、ペダルをいだ。途中、コンビニに立ち寄って昼食用のパンを買い、またママチャリで走り出す。坂道を上ってる時に、『弱虫ペダル』に出てくるまきしま先輩のスパイダーヒルクライムをやったけど、全然上手く上れなくてすぐやめた。あれをしながらめちゃくちゃ速く上れる巻ちゃんすげえぜ……。

 そんなこんなで学校に到着。自分の席──窓側から二列目の最後尾に座ると、スマホを取り出す。がやがやとした教室のけんそうに紛れるように、俺は一人、大好きなゲーム実況者のゲーム実況動画を見始めた。そうして時間を潰していたら、ホームルームの時間になったのでスマホを仕舞う。こうして、俺の代わり映えしない一日がまた始まった。

 今日の時間割は一時間目から順に──古文、数学A、化学、現代文。昼休みを挟んで体育、英語という具合。……せっかく必死に勉強して高校に受かったってのに、いまだに週五か週六でこんなに勉強させられてんのおかしくない? このペースで勉強してたら俺、頭よくなっちゃうよ……(中間テストの数学Aの点数が四十六点だった男子の独白)。

 そんなことを考えながら授業を聞き流していたら、時刻は午後十二時二十分。昼休みの時間だ。チャイムの音が鳴ると同時、まだお昼を手に入れていない弱者共が、大慌てで購買にパンを買いに走る。俺はそんなやつらを下に見ながら、ゆうゆうとコンビニの総菜パンを学生カバンから取り出した。まあ、なんつうか、お前らとは人としてのランクが違うっていうかね……あの、パンを持ってる程度のことで優越感に浸り過ぎでは?

 そうしてパンを食べ終えたのち、俺は自席で本を開く。いま読んでるのは『クリムゾンの迷宮』という一般小説で……こういう、導入から全力で面白い小説、本当にしゅき。

 ちなみに、俺はオタクだけど、学校ではラノベを読まない派の人間だった。……一回、『ゲーマーズ!』の五巻を読んでる時につい爆笑してしまったら、クラスメイトから白い目で見られたので、それ以降ラノベは禁止にしたのだ。みんなも気をつけてね。

 そうして本を夢中になって読んでいたら、昼休み終了五分前の予鈴が鳴った。すると、女子が着替えのために教室を出始める。次の時間は体育だった。

 俺は今日も今日とて、ヒョロガリ男子のかじうらくんとペアになって準備体操をする。この梶浦くんは、いつも彼を含めたオタク友達三人でつるんでいる子で、体育の時だけペアにあぶれてしまうので、仕方なく俺と準備体操をしているフシがあり──端的に言えば俺のことを下に見てる感じがして、気に食わない野郎だった。俺が小説を書くなら、梶浦が第一犠牲者になるミステリーを書いてやろうと思ってる。覚えとけよ梶浦。

 そんなこんなで体育をやっつけ、英語を寝て過ごし、放課後。俺はそそくさと職員室に行き、西にしざか先生から鍵を受け取ると、文芸部の部室へと向かった。階段を一段、また一段と上っていく。──彼女が来ないことは、わかっていた。それでも俺は、部室へと足を向ける。いつしか平日は毎日通うようになってしまった部屋の鍵を開け、中に入った。

 ホコリっぽい空気が立ち込めていたので、窓を開ける。それからパソコンの電源を入れた。ぶいいいん、とやかましい音が響き渡る。そうしていつもの席に座り、ひとまずブログを確認してみると、ブログの常連である豪傑丸さんからこんなコメントが届いていた。

『あの、、、ここ最近、管理人さんの文章がどこかやさぐれている気がしますけど、、、何かあったんですか? 管理人さんが心配です。。。』

 特にやさぐれていたつもりはなかったけど、常連さんにだけわかる何かがあるのだろうか……思いつつ、俺はコメ返しをするために、キーボードを打鍵した。

『豪傑丸さん。いつもコメ、ありがとうございます! やさぐれている、というのはわからないですけど、心配して下さってありがとうございます! というか管理人、精神的にも身体的にもめちゃんこ元気なので、心配しないでくださいませwww』

 それから俺は、ブログ記事を書こうとして、それをやっぱやめたり、自分がいま推してるVtuberの動画を見たり、各ラノベレーベルの新刊をチェックしたり、ツイッターで情報収集をしたり、ブログを書こうとしてやっぱやめたりした。いやブログ書けや。

 そうして時間を空費しているうちに、時刻は午後五時過ぎ。俺はパソコンの電源を落とすと……一度だけ部屋の扉を見て、余計なことを考えたのち、文芸部の部室を出た。

 部室の鍵を閉め、職員室に鍵を預け、駐輪場へと急ぐ。今日はチャリンコが横倒しになっていたりはしなかったので、無駄に偽善的な行為をすることもなく、家路につこうとしたけど……まだ夕飯まで時間があると思った俺は、帰路をちょっとれ、大宮駅近くの駐輪場に自転車をめる。そこから少し歩いたのち、行きつけのCDショップに入った。

 暇さえあればついのぞいてしまう店内を、いつものように巡回する。店に流れる流行歌に耳を澄ませながら、俺は……とあるアーティストの特設コーナーには足を向けずに、アーティスト名が『た』行の棚を見やった。するとそこには、たにまちピーさんがまんさきを始める前に個人名義でリリースしたアルバムがざっと並べられていた。

 この頃の谷町さんは今よりとがりまくってて、これはこれで最高だったから、またボカロで曲書いてくんねえかな……──うわ、いまの俺、懐古ちゅうっぽかった? やだわあ……昔は良かった、って騒ぐ、変化を受け入れられないファンにだけはなりたくないのに。

 思いつつ、俺は一枚のアルバムを手に取る。『エンド・ワールドエンド』というタイトルを冠したこのアルバムは、俺が小学五年生の頃、親にねだって初めて買ってもらったCDで……俺にとっては何よりも思い出深い一枚だった。

 家に帰るとお母さんのスマホでYouTubeをるのが大好きだったこうすけ少年が、初めて衝撃を受けた音楽が、このアルバムに入っている『ワンダーランドループ』という曲だった。最初、広告でそのMVを観た時、何が何だかわからなかった。これまで耳を素通りしてきた音楽と何が違うのか全然わからなくて、だからもう一回聴いた。それでもわからなかったからもう一回。やっぱりわからなくてもう一回。もう一回。もう一回──。

 気づいた時には、「いつまで聴いてるの!」とお母さんに怒られて、スマホを取り上げられていた。

 ……たぶん、これが俺の原風景。音楽にハマって、ボーカロイドにハマって、谷町P太というアーティストにハマった瞬間で、あとはもう、雪山を転げ落ちるようにあれよあれよとオタク沼ですよ。雪山なのに沼とは、これいかに?

 そうやって一つの物を好きになってからは、俺は早かった。ボカロを好きになって、ボカロのMVに出てくる可愛かわいいキャラクターを好きになった。はつミク。……恥ずかしながらあの頃の俺は、二次元の女の子に本気で恋をしていた。そのうち、二次元の女の子が動くアニメを観たら、それも楽しくて。それの原作になった漫画を読んで、それからライトノベルにも出会って──こうして、こじらせオタクが完成したのでした。BAD END

 とか、そうやってふざけて自分を卑下してみたけど、実のところ、俺はオタクな自分が全然嫌いじゃなくて、むしろ……もしあの頃に戻って人生をやり直すチャンスを手に入れたとしても、俺はもう一度、オタクになる道を選ぶと思う。それは確信に近かった。

 学校でぼっちでも構わない。オタクとして生きられないのなら、学校に友達がいっぱいいてもしょうがない。もちろん、そんな生き方も楽しいとは思うけど、他の誰に否定されようが、俺はそう思う。そう思えてしまうくらい、俺はオタクを拗らせていた。

…………

 だから。

 だからこそ、俺はいま……オタクとして推している『とあるユニット』と向き合えていない現状に、いらちや、もどかしさや、やるせなさや、寂しさや──そんな色んな感情がごちゃ混ぜになった思いを抱いていた。

 俺はちらりと、とあるアーティストのCDが並べられた一角を、一瞬だけ見やる。そうして考えるのは、推しについて。推しとファンの在り方についてだった。……こうして時間ができてから、よく考える。果たして俺は、ファンとして正しかったんだろうかと。

 推しが、こちらの『こうあって欲しい』という理想から、かけ離れた姿をしていた。

 それを知った時、「ふざけるな!」と怒るのは、正しいファンだろうか。

 推しを心底愛していたからこそ、その愛が転じて怒りに変わった──それは愛憎という名前のついた、人間らしい感情だ。俺は実際、そういう感情に飲み込まれた。……彼女を心から推していたからこそ、彼女の裏の顔を知った時に、大きく落胆したのだ。

 それは、一人の人間としては確かに正しい感情だけれど、でも……推しを愛するファンとしては、正しかったのだろうか。

 推しというのは多かれ少なかれ、偶像をはらんでる。あのアイドルには彼氏がいるかもしれないし、あの女性歌手はゴミしきに住んでるかもしれない。そういう可能性を捨てきれない中で、それでも推しを作るのなら──俺達ファンは、推しにどれだけ裏切られようが、それでも推しを愛し続ける覚悟を持たなくちゃいけないんじゃないだろうか。

 つまるところ、俺達ファンが推しにささげるべきは、金でも愛でもなくて……自分だけは何があろうと推しの味方で在り続けるという、揺るがぬ信念なのかもしれない。そこまでできて初めて、俺達ファンは自分の推しを、推しきれたと言えるんじゃないだろうか。

 そう考えるとやっぱり、俺の、はなふさに対する思いは────

 やめよう。余計なことを考え過ぎだ。わざわざ考えなくていいことまで、無理やり考えようとしなくていいってのに……まったく、これだから考察オタクは……。

 でも、考察オタクとして青春ラブコメとかを読むの、超楽しいよな! そうしてキャラクター達の心情を考え続けた末に手に入れた解答をドヤ顔でブログ記事にした瞬間なんか、脳汁ドバドバですよ! これだからオタクはやめらんねえぜ、コポォwww

 そんな風に色々と思案したのち、何も買わずに店を出た俺は、今度こそ自転車で帰路を急いだ。──自宅の駐輪場にチャリを停め、「ただいまー」と言いつつ家にあがる。手洗いうがいをしたのち、自室に引っ込みスマホをいじる。そのうち「ご飯よー」という母親の声が聞こえてきたので、下に降りて家族で夕飯を取った。ちなみに、うちの夕ご飯は早めなので、帰りの遅いお父さんはあとで一人きりの夕飯を取る予定だ。可哀想かわいそう

 どうでもいい会話を家族でしたのち、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。自室に戻ってごろごろしていると、妹のひかりがニンテンドースイッチを片手に「お兄ちゃん、『APEX』一緒にやろー」と部屋に入ってきた。「……いや俺、FPSすげー下手だからやらねえっつっただろ」「大丈夫! 私がお兄ちゃんをチャンピオンにしてあげるから」「妹にキャリーされる兄っていったい……」「いいから早くやろ!」

 そう言いつつ、俺の部屋にあるPS4を勝手に起動する我が妹。そうしてひかりがてきぱきと準備してしまったので、俺がPS4を、ひかりがニンテンドースイッチを使い、俺達は一緒にAPEXを始めた。……案の定、すぐダウンした。「待っててお兄ちゃん!」ひかりはそう言うと、俺のそばにいた敵二人をショットガンで瞬殺したのち──「よみがえれ、我がお兄ちゃん!」と言いながら俺をせいした。なにこの妹、頼りになり過ぎる。

 そんなこんなで数試合。マジで妹にキャリーされる形でプレイを続けていると、ひかりはふいに「飽きた。もう終わり」と宣言した。「急だなおい」「だって飽きたから。いい加減、お兄ちゃんの介護もしんどくなってきたし」「介護言うな」「これでちょっとは元気出た?」「……妹とゲームしたくらいで元気になるかよ」「明日はなんのゲームやる?」「いいから。俺ラノベ読みてえから早く出てけよ」「はいはい」

 そうして、ひかりは俺の部屋からそそくさと出ていく。……彼女なりに気を遣ってくれたんだろうか。俺はそんなことを考えつつ、俺の机の一角にある積み本ゾーンから、まだ読んでいる途中のラノベを手に取った。いま読んでいるのは『とらドラ!』の八巻で、七巻がガン泣きするくらい良かったから、あれからどうなるのかが楽しみな作品だった。

 ベッドにうつ伏せの状態で寝転び、本を開いた。文字を読む。場面を想像する。キャラクター達の会話ににやりとする。──楽しい。ライトノベルはどうしてこんなに楽しいんだろうか。オタクっていうのは、どうしてこうも楽しいんだろうか。

 大好きなアニメがある。大好きな漫画がある。大好きなラノベがある。──それだけじゃない。俺は洋画好きなお父さんの影響で、洋画だってたまに見るし、音楽だってボカロ以外には邦楽ロックなんかも大好きだ。ゲームだって大好きで、対人ゲームはかなり弱いけど、それでもゲーム自体が大好きだった。俺の世界にはそういった、大好きなものがあふれている。そんな大好きなものに囲まれている日々が、俺は大好きで──。


 だっていうのに、どうして俺の胸にはいま、ぽっかりと穴が空いているんだろうか。


…………くそっ……」

 意識したら急に、ライトノベルを読めなくなった。しおりを挟んだのち、『とらドラ!』の八巻をベッドの端に置く。……なんというか、悔しかった。俺はラノベが大好きで、だからラノベを読んでるこの時間が大好きなのに、それでも──俺の大好きなもので、この胸の穴を埋められないことが、本当に悔しかった。

 原因はわかってる。

 それは、あの日から数えてもう三週間も、花房が文芸部の部室に来ていないからだ。

『ああ、そっか。私、もう寄りかかってたんだ』

 そう言った彼女の心情を、俺みたいなただのファンが、完璧に推し量ることはできなかったけど……ここ数週間考え続けて、ぼんやりとした予想は立てられた。

 たぶん花房は、他人と関わることで、自分が弱い人間になるのを怖がっているのだ。

 だから彼女はこれまで、素の自分を見せてこなかった──それはきっと、俺にもだ。

 俺はてっきり、仮面を脱いだ性悪な彼女こそが、花房の本性だと思っていたけど……それでもまだ、彼女の本質には届いていなかったのだと思う。花房はたぶん、そこから更にもう一枚奥にこそ、本当の『素顔』を隠し持っているんじゃないだろうか。

「……どんだけ底知れない女なんだよ、お前……」

 というか、誤解を恐れずに言わせてもらえれば、超絶めんどくさい女だと思った。

 普段は仮面をかぶっていて、その裏側に性悪な自分がいて、それだけでもめんどいのに、じゃあその性悪な彼女が花房の本質なんだと思ったら、そういう訳でもないとか……まるでミルフィーユみたいな女の子だった。

 だってそうだろ? 一層、二層、三層と……彼女を知っていけば知っていくほど、彼女という人間にはまだ奥の層があるんだと、驚かされるんだから。

 ……まったく、花房ゆうという在り方が何層にも折り重なって、それら全てを理解しなくちゃ彼女を理解したとは言えないなんて──女の子は難しい、を体現したみたいな女だなおい。

 だから、そんな彼女が一体どういう理由で俺から離れていったのか、ちゃんとはわからなかったけど……そんな俺でもわかっていることがあるとするなら、それは──花房と会えずに寂しがっている、自分自身のくだらねえ感情だけだった。

「……なんだよそれ。俺は推しとつながりたい勢じゃないんじゃ、なかったのかよ……」

 ファンとして正しい感情じゃないのはわかってる。でも、それでも……こうして、ふとした瞬間に、自分の大好きなラノベを楽しめなくなってしまうくらいには、花房に避けられているという事実は、俺の胸に確かな風穴を空けていた。

 ──俺はこんな、何でもない日常が、嫌いじゃなかったのに。

 そんな今日が、いまはこんなにもいろせて見えるのが、本当に悔しかった。

「……話を、するしかないか……」

 それはもちろん、花房と部室でくだらない話ばかりしていたあの日々を、取り戻すために──という訳じゃない。

 確かに俺はいま、推しに抱くべきじゃない感情の種を持ってしまっているけれど……彼女のファンとしてはそんなもの、決して大事にしてはいけないから。

 だから、俺から花房に対して、また仲良くして欲しいと言うことはなかったけど……区切りは、つけたいと思った。

 花房がどうして、俺を避け始めたのか──その理由を知って、俺達はもう無関係だと俺自身にわからせ、くだらねえ未練を断ち切ることで……俺の大好きなラノベを、漫画を、アニメを。またちゃんと楽しめる精神状態に戻りたいと、そう思ったのだ。

 だから、花房ともう一度、近づくためじゃない──そんな不純な理由ならいらない。

 俺は、俺のために……俺の大好きな二次元を、また昔のように楽しむために。

 俺が嫌いじゃなかった日常を取り戻すために、彼女に会いたいと思っていた。

「……とりあえず、音楽でも聴くか……」

 ラノベを読めなかった俺はそうつぶやき、スマホを手に取る。

 ワイヤレスイヤホンをスマホに接続したのち、自身の耳に装着して、それからアーティストを選び始めた。……大好きなアーティストが山ほど並んだその中から、ひどく個人的な理由でとあるアーティストを飛ばすと、俺はヨルシカを選び、再生する。

 選んだその曲のタイトルは『心に穴が空いた』というもので──いまの俺には少しばかり刺さり過ぎて、だからつい感傷に浸ってしまった。

…………

 ヨルシカの曲を聴きながら、そっと目を閉じる。

 ちなみに、さっき飛ばしたアーティストの名前は、『まんげつよるきたい』で……俺はそのアーティストが大好きなのに、だけど、大好きだからこそ──いまだけはそれを、素直に再生することができないのだった。