インタールード


 扉を閉める手が乱暴にならなくて良かったと、そう思った。

 そのまま私は、箱へと足を向ける。……彼は追いかけてこないと、わかっていたけど。それでも私は、つい早足になってしまいながら──彼から逃げるように、人気の絶えた廊下を歩いていた。


 本当は、肩こりなんかじゃないって、わかっていた。


 でも、それはいいのだ。これから私は、肩こりじゃない、この厄介でいとおしい感情と向き合っていかなきゃならないらしい。──上等。やってやる。憂花ちゃんはいままで、そうやって一人で戦ってきたんだから。肩こりじゃない『それ』とだって、上手うまく付き合っていけるという自信が、私にはちゃんとあった。

 ……でも、私はもしかしたら、そんな自信を持っていただけだったのかもしれない。

 彼のことをおもうのは構わない。いけないのは、そんな彼に夢中になること。

 彼と親密になるのだって大歓迎。いけないのは、そんな彼に頼ってしまうこと。

 ──誰にも寄りかからないで、生きてきた。

 私は、まんさきのU‐Kaとしての仮面をかぶったあの日から、まんさきのU‐Kaとしてあるために、誰にも寄りかかろうとはせずに生きてきた。

 もちろん、それは他人を排斥するってことじゃない。

 仕事で大人の人に助けてもらったことなんて山ほどあるし、衣食住についても家族にはお世話になりっぱなしだ。それに、一緒にいてくれる友人達のことも大好きで、彼女達には精神的に助けられている。

 それでも、できるだけ自分一人の力で立つのだけは意識して、やってきた。

 愚痴を漏らさない。

 弱音を吐かない。

 自分からは助けを求めない。

 それは、周囲の大人から見たら、つまらないプライドに映るのかもしれないけど……女で、しかもまだ高校生でしかない私が、曲がりなりにも『まんげつよるきたい』というアーティストのボーカルであり続けるためには、とても大事な強がりだった。

 私は、誰に寄りかからなくたって、頑張っていける。

 そんな、ちっぽけな意地を張り続けることで、私は前に進んできたのだ。

 だから……だからこそ、私はさっきの出来事を、許容することができなかった。

「……ばいばいなんて、やだなあ……」

 つい、そんな本音が口を滑る。

 正直、これからどうするのか、自分の中でもはっきりとは決まっていなかった……ただ一つだけ、確実に言えることがあるとするなら──このまま、彼と居心地のいい関係を続けてはいけないと、それだけはわかっていた。


 だからたぶん、無理やりにでも続けるなら、偽りの関係しかない。


 それはきっと、上辺だけの、薄っぺらい、くだらない関係……今日までのあの楽しい、幸せな時間なんて、もう望むべくもない。

 ただ、それでもいいから私は、彼との関係が欲しいと、そう思ってしまっていた。

 ……そうして、私がそんな結論を出すと同時に、心の奥底に閉じ込められ、声の出し方を忘れていたはずの『私』が、やかましく騒ぎ出した。

 私はそんなの、絶対に嫌。

 私は私として、彼と一緒にいたい。

 彼の前でだけは、仮面なんかつけたくない!

 ああもう、本当にしょうもない女! 私はそう考えて、私が大嫌いな『私』の声を、鼓膜から閉め出す。そうしながら、私は思った──結局、仮面を脱いだ私と一緒にいてくれた彼も、いま私が拒絶した、もう一人の『私』には気づいてくれなかったな、と。

 まんさきのU‐Kaとして、仮面を被っている私。

 その仮面を脱いで、性悪な素の自分をさらけ出している私。

 そのどっちもがうそじゃなかったけど、そんな私にはもう一人、普段は心の奥底に閉じ込めている、私ですらあまり向き合おうとしない『私』が、存在していた。

 別に、多重人格という訳じゃない。ただ、私にはまだ……心の奥よりも、更に深い場所にある扉──その扉を開けたそこに、ちっぽけなプライドを支えにして、それでも必死に頑張っている、誰にも見せられない、カッコ悪い『私』が存在していた。

 ……彼なら、見つけてくれるんじゃないかって、思っていた。

 そしてたぶん、もっと時間さえかければ、見つけてくれると思っている。

 それでも、もう終わりだ……だって、気づいてしまった。こんな単純なこと、もっと早くに気づくべきだったのかもしれないけど、私は今更になって、気づいたのだ。


 本当の『私』を見つけて欲しいと──そんな期待を彼に抱いていることがもう、私が彼に寄りかかってしまっている、何よりの証拠だということに。


 だから私は、「ばいばい」をした。

 彼と築いてきた本物の関係にも。

 見つけて欲しいという願望にも。

 いつの間にか、こいねがうように口にしていた、再会の約束を捨て去って。そうやって彼から距離を取ることで、私はもう一度、一人で歩き始めるのだ──。

 だって『私』は、そうすることでしか、私として在れないのだから。

「……ちっ。止まれっての……ううっ……」

 こうして私は……とても大切で、どこまでもあまっぱくて、見ているだけで胸がキュンキュンしてしまうような、まだ始まっていなかった何かを、扉の中に閉じ込める。

 それから、もう一緒にはいられない彼と、偽りの関係を始めるために──これまで彼の前ではつけてこなかった分厚い仮面を、そっと手に取るのだった。