『ハムレット』(シェイクスピア著)を読んで  笹葉 更紗

〝To be, or not to be, that is the question.〟


『生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ』

 という翻訳はあまりにも有名だけれども実際には少し過剰な翻訳で、本来は『やるべきか、それともやらざるべきか』くらいの表現が適切だろう。

『ハムレット』は『リア王』『オセロー』『マクベス』と並んでシェイクスピアの四大悲劇と言われる作品で、おそらく最も有名な話だ。

 王である父の死後、王弟であるクローディアスが王となり、ハムレットの母ガートルードとあっさり結婚してしまうことにハムレットは腹を立てる。

 そしてハムレットの目の前に現れる父の幽霊。父王はクローディアスによって殺されたと告げ、どうか母(王の妻)を許してやってほしいという。

 ハムレットは父のふくしゆうを誓い、一計を企てる。


 この物語、なにが悲劇かと言えば男はあまりにも純情であるにもかかわらず、女はあまりにしたたかだということだ。

 ガートルードは永遠の愛を誓った夫が亡くなってすぐに別の男と結婚する。

 純情な男、ハムレットはそれが許せない。

 さらにひどいことに父王は自分を裏切った妻をどうか許してやってくれという。

 まったく。女というのは本当に嫌な生き物だ。

 ウチだってそう。紛れもなくそんな女のひとりで、付き合い始めた男を簡単に捨て、はじめから別の男のことが好きだったなんて言うのだ。

 裏切られた男も男で、すべては自分が悪かったと言ってウチのことを許そうとするのだ。

 だからこそ自分自身を許すことができないでいる。

 もういっそ、ウチは尼寺にでも行くべきなのだろうか。


 夏休みの一件が尾を引き、新学期の初日の朝に皆と顔を合わせるのが急に怖くなってそのままサボタージュしてしまった。本の畑に逃げだしたウチを捕まえてくれたのはたけひさだ。明日からはちゃんと学校に行くと言ったものの、やはり何事もなかったようにというのはむつかしい。普通に接しようと思っても今にして思えば何が普通で何が普通でなかったのかもよくわからない。

 午前の授業が終わり昼休み。今まで通りであるならば竹久とくろさき君と三人で食堂に向かう。しかし、今はそれが怖い。授業が終わると同時に廊下側の席のウチは逃げるように教室を出ていった。

 行き場を無くしたウチはひとり新校舎(特進コースの教室があるのは四棟の内、一番新しい校舎)の屋上に上がり、あたりを見回して誰もいないことを確認する。そしてまるで何かから隠れるように給水塔の陰に座り込み、空を眺めて深いため息をつく。

 まだまだ終わりそうにもない生暖かい夏の風が湿気を含んで重く緩やかにのしかかる。

 夏草のにおいに混じって、焦げたような匂いを感じた。

 違和感を覚え、給水塔から顔をのぞかせて風上の方を見る。すると給水塔のちょうど反対側から同じようにこちらをのぞきこむ視線とぶつかった。

 背が高くて顔立ちの整った男子生徒だ。ネクタイが緑色なので一つ年上の二年生だということがわかる。相手もここにウチがいるなんて思っていなかったらしく、慌てた様子で手に持っていたものを給水塔の陰に隠す。

 気まずくなり、すぐに目をらして立ち上がって階段の方へと歩いていく。

「なあ、待てよ」

「はい……」

 恐ろしくてうしろは振り返れない。

「なにも、見てないよな?」

「……なにも、見ていません」

「……なら、いいさ」

 ウチは逃げるようにその場を立ち去った。

 やっぱりウチに、居場所なんてどこにもない。


 午後のホームルームで、月末に控えた学園祭の話があった。各クラスから一人ずつ実行委員を選出することになっていて、実行委員は放課後毎日居残って打ち合わせに参加しなければならないらしい。青春時代の貴重な時間をそんなことに注ぎ込みたいなんて思う人はどこにもいない。

 ウチは、実行委員に立候補した。

 知らない人からすれば、それは内申書の点数稼ぎに見えるのかもしれない。でもウチの本音は放課後の時間をどうにかして潰したいから。

 以前は放課後に黒崎君とデートをしたり、や竹久と連れだってどこかに出かけたりなんかしていた。でも竹久は部活動を始め、黒崎君とは別れた。瀬奈はそんな竹久に付きまとったり、ほかにもいろいろとしているようだ。瀬奈は友達が多くて時間をもてあますことはない。

 対してウチは部活動もしていなければこれといってやることもない。ましてや帰り道で黒崎君と鉢合わせになっても気まずいだけだ。


 実行委員会は早速今日から召集された。

 各クラスから集められた委員を前に、生徒会長のほし先輩が司会進行を務める。

 正直、会はグダグダだと言わざるを得ない状態だ。ほとんどのクラスの代表者は無理やりに委員を押し付けられて仕方なしに集まっているものばかりで、生徒会長の星野先輩もまるでみんなをまとめる気はない。銀縁眼鏡のまじめそうな人相ではあるが、その表情は冷めていてどこか他人を見下している感がある。うわさによるとどうやら両親がこの学園に多額の寄付なんかもしているらしく、教師陣も彼の行動に口出しはしづらいらしい。

 挙句、集まった皆を前に身の上話や無駄話(それはほとんど自慢のような話)をする始末で、集まって二時間余り何も決まらないままに時間は過ぎて行った。まったくこれでは先が思いやられる。自ら立候補したもののはやくも後悔し始めてしまった。


「ねえ、サラサ! どっかあそびにいこーよ!」

 なれない委員会の仕事に追われた平日が終わり、ようやく気が休まると思っていた土曜日の朝、目覚まし時計代わりにスマホのアラームを鳴らしたのは瀬奈だった。

 正直、もう少し寝ていたいと思っていた。

 今朝は少し寝坊できるとタカをくくって昨夜は明け方近くまで本を読んでいた。

『あやかし学園の事件ちよう』というライトノベルだ。先日ちょっとした出来事から作者に会った。前に一度読んだことのある本だけれども、作者に会う前と会った後ではまた違った内容に見えてくるのが面白い。つい夢中になって夜更かしをしてしまった。夜更かしは乙女のお肌にとって天敵だと瀬奈が教えてくれた。瀬奈は本当によく食べてよく寝る。

 煩わしいけれど、休みの日でもちゃんとお化粧をしておしゃれをして家を出る。そうしないと瀬奈が怒る。寝不足の肌は化粧のノリが悪いので少し手間取った。


 駅前の噴水の近くにある桃太郎像の前のベンチで待ち合わせ。自分で時間を決めておきながら遅刻してくるのはいつものことだ。一時間近く遅れて瀬奈が到着するまでに三人の男が声をかけてきた。

「ねえ、ひとり? ヒマなの?」

 待ち合わせをしているだけだし、当然ヒマでもない。しかしヘタに受け答えをすると余計にしつこく誘ってくるから無視するのが一番だ。たぶんそれが一番早くどこかに行ってくれる。

 でも、時折去り際に暴言を吐いてくる男もいる。

「はん、調子に乗ってんじゃねーぞ。このビッチが!」

 思い通りにいかないからといって手のひらを返すような男は最低だ。それにウチはビッチじゃない。少し前に恋人もいたが、期間も短かったしまだしょ……いや、その話はいい。

「ごめーん、まったー?」

「そうね、約束の時間通りに来たから結構待ったわ」

 女同士の待ち合わせなら「ううん、わたしも今来たばかり」なんていううそは言わなくてもいい。というか、今来たばかりならウチも大概遅刻だ。だから瀬奈にはちょっぴりいやを混ぜた返事をする。

「あはは、それじゃあ半分はサラサが悪いよね」

 瀬奈の言っている言葉の意味はよくわからない。

 ウチの隣に腰かけた瀬奈は脚をぶらぶらと揺らしながら「ねー、どこいこーかー」と聞いてくる。

 そしてなんの意見を言うでもなく鼻歌を歌いだす。

 人前で、というか駅前の桃太郎像前という不特定多数の人が通り過ぎるような場所で鼻歌が歌える人間というのは実にすごいと思う。きっと生きていることに幸せを感じているんだろうなと思う。あるいは自分にすごく自信があるかだ。

 瀬奈の鼻歌はウチの知らない曲。でも、最近彼女はよくこの曲を鼻歌で歌っているのでなんとなくおぼえてきてしまっている。

「あッ、アタシおなかすいたな! どっかごはんでも食べに行こうか!」

「え、瀬奈。アンタまだご飯食べていなかったの?」

 もう、昼過ぎだ。ウチは当然済ませてきた。

「え、アタシもちゃんと食べてきたよ。でも、やっぱりお腹はくじゃない。ほら、育ち盛りだし」

 その理屈はよくわからない。瀬奈は本当によく食べるしよく眠る子だけど、そんなに育ってはいない。身長も平均よりはかなり低い方だし、痩せている。それに比べて頑張って我慢しているウチの方が明らかに育っている。身長も、ほかにもいろいろだ。

「仕方ないわね。じゃあどこかで軽く食べる? ウチはコーヒーくらいなら付き合うけれど」

「あ、じゃさ。カラオケいこっか!」

「どういう成り行きでそうなるのよ」

「え、だってカラオケならゴハンだって食べられるし、それに歌えばきっとサラサもお腹が減るよ」

 それもいまいちよくわからない理屈だけれども、もちろんウチにそれを断る理由もない。この数日間委員会の進行の段取りが悪すぎる生徒会長にイライラしていたし、うっぷん晴らしに大声を出すのも悪くない。案外瀬奈もそれに気づいた上で今日誘ってくれたのかもしれない。


 駅から歩いてすぐのカラオケ屋に到着するなり瀬奈はご飯をたくさん注文する。普通に考えて食べきれない量の品々を目の前に「サラサの分もあるから」と言うが、あいにくウチはまだお腹なんて空いていない。それに今はダイエット中だ。

 ダイエットの意味も込めてまずはカロリーを消費しなくてはならない。なるべく大きな声を出すような曲を歌ってみるが、あいにくウチは瀬奈のように大きな声が出せない。おかしいな、お腹の肉は瀬奈よりもたくさんついているはずなのに……

 しばらくして、瀬奈がひとりトイレに行くと言って席を立った。その間ウチはひとりきりの個室でひとりで歌を歌う。曲が終わり、次に瀬奈の入れていた曲が流れ出す。しかし依然として瀬奈は帰ってこない。流れ出したのはメジャーな曲なので知っている。瀬奈が帰ってくるまでと思いながらそのままウチが歌った。

 それでも瀬奈は帰ってこない。

 また、ウチがひとりで歌う。追加で注文していた飲み物を店員さんが持ってきたので歌うのをやめる。

 店員さんが去った後も、なんだかむなしくなって歌うのをやめた。部屋にはひとりきりしかいないのだ。仕方なしにテーブルの上に広げられている食べ物に手を出す。ダイエットは無事失敗だ。

 歌を歌わずにひとりきりで過ごすカラオケの部屋には、他の部屋の歌声がけっこう聞こえてくるものだ。こんなにはっきりと聞こえているなんて歌っていれば気づかないものだが、気づいてしまえばなんだか恥ずかしくもなってくる。

 どこかの部屋から流れてくる音楽、その曲をウチは知っていた。曲のタイトルも歌っているアーティスト名もわからないけれど、さっき瀬奈が鼻歌で歌っていた曲だ。そういえば、ウチが知っているのは瀬奈の鼻歌ばかりでちゃんと聞いたことなんてなかったかもしれない。そう思いながらその曲に耳を澄ます……って、アレ? 今この歌を歌っている声って瀬奈の声?

 トイレに行くと言ったきり帰ってこない瀬奈はおそらくどこかほかの部屋でこの曲を歌っているのだ。

「まったく……あのこったら……よその部屋に勝手に入り込んで……」

 あまり迷惑をかけてもいけないと瀬奈の歌声を頼りにさまよう。三つほど離れた部屋から瀬奈の声を確認して、おそるおそるドアを開けてみる。

「あ、あのう……」

「あっ、サラサ! こっちこっち!」

「ん、もう! なにがこっちよ!」

 のぞき込んだ部屋の人達が一斉にこっちを見た。同世代くらいの男性ばかりが四人。お世辞にもあまりあかけているとは言い難い面子メンツばかりだ。それぞれが楽器を手にしている。ギター、ベース、キーボード。それに驚くことにドラムもだ。さすがにドラムはトレーニング用のものらしくシンプルな作りで音も小さい。

 彼らに囲まれた状態でマイクを握った瀬奈が歌うのをめると同時に、皆も演奏を中止した。皆、ウチの方を見ながら「さ、さささらだ……」と、まるで物珍しいものを見つけてしまったかのような反応を示す。

「あ、あの……な、なんでウチの名前……」

「だ、だってうちの学校じゃ有名人じゃないですか……」

「ほ、ホンモノだぜ、ム、ムナカタさんもササバさんも……」

 もちろん、ホンモノに決まっている。むしろウチのニセモノなんてどこにいるのかこっちが聞きたいくらいだ。そして、その口ぶりから、どうやらうちの学校の生徒らしいことは察しが付く。だけど、瀬奈はともかくとしてウチは一体どんなことで有名だというのだろうか。とてもじゃないが怖くて聞けない。

「ねえ、サラサ! この人たちすごいんだよ! 本物のフラッパーズだよ!」

「フラッパーズ?」

「あ、あの……僕たちのやっているバンドの名前なんです……」

 瀬奈との会話に、ベースギターを抱えた男性が補足してくれる。しかし、そうなると少しに落ちないことがある。

「え、でも……今の曲って……」

「そう! そうなのよ! アタシがネットでたまたま見つけた曲! 気に入ってダウンロードして聞いていたんだけど、まさかうちのガッコの生徒だったなんて驚きだよね!」

 興奮気味に瀬奈が言う。


 彼らの話を簡単にまとめるとこういうことになる。

 彼ら、フラッパーズは今年の四月にげいぶんかん高校に入学したばかりの生徒、すなわちウチらとは同級生になる。

 元々バンドをやっていたわけでもない彼らは主にスマホのゲームなどで音楽に興味を持つようになったらしい。高校に入学するやいなや彼らは軽音楽部に入部しようと試みた。聞くところによると軽音楽部というやつは、放課後にティータイムを楽しみ、ドキドキキラキラを味わいながら音楽活動にいそしむことができるらしいのだ。

 しかし、あいにくこの芸文館高校に軽音楽部は存在しなかった。そこで学校のネット掲示板で募集をかけて集まったのがこの四人。見事にそろいもそろって同じような境遇で、音楽未経験者ではあったがどういうわけか皆コンピューターの扱いには慣れていた。

 彼らは楽器こそ演奏できないものの、打ち込みとかいう方法で作曲をするまでに至った。そして出来上がった曲をコンピューターのヴォーカルに歌わせることでネット上に公開した。

 それをたまたま見つけた瀬奈が見事にとりこになってしまったらしく、ダウンロードして聞いていたらしいのだ。

 たぶん。おそらくだけど彼らの創った曲は高校に入って新生活を始める意気込みを歌にしたものだ。同じ年齢で同じ学校に通う者同士、互いの環境に共通性を感じるその曲に瀬奈は必要以上に共感することになったのだろう。ウチが聴く限り、それほど素晴らしい音楽というわけでは無いように感じる。

 しかし、人というものは妙なところがあるもので、彼らフラッパーズは自らが作曲したその音楽を、機械が完璧に演奏することに不満を感じ始めたというのだ。

 下手でもいい。自分の手で演奏したいと思い始めたフラッパーズは本物の楽器を手に取り、部室を持たない彼らは日々こうしてカラオケルームに楽器を持ち込んで練習していたのだそうだ。

 そこに、たまたま瀬奈が通りかかった。瀬奈は驚いた。まだメジャーデビューもしていない、ネット上でもそれほど注目されていないはずの音楽がカラオケルームの中から聞こえてくるのだ。瀬奈は持ち前の人懐っこさを武器に部屋に飛び込み、すっかり仲良くなって一緒に歌いだしてしまったという始末だ。

 ちなみに、バンド名のフラッパーズというのは飛行機の可変翼のフラップからきているらしい。大空を自由に羽ばたくための必需品なのだとキーボード担当が得意気に説明してくれたが、ウチの知る限りではフラッパーズというのはジャズ・エイジと呼ばれるアメリカの1920年代ごろに流行はやった前衛的な女性。いわゆるおてんば娘のことを指す言葉だ。『グレート・ギャッツビー』に書かれているデイジーが印象的だ。


 週が明け、けだるい一週間が始まる。放課後は毎日委員会で遅くなるが、生徒会長の進行が悪すぎてあまりにも何も決まらないまま日々は過ぎていく。クラス代表の実行委員の誰かが新たな提案をすると生徒会長は「残念だけどそれはできない」と一蹴してしまう。規則と地域住民への配慮という二つの点において不可能であると言っては結局自分の決めた方向に持って行ってしまう。いや、自分のというよりは去年の学園祭で行ったことをそのまま行うように進めているだけだ。

 結局何を言っても意味がないのだと悟り始めた実行委員はやがて話に参加しなくなり、机の下でスマホをいじりだす人も少なくなかった。

 ウチもその例外ではない。瀬奈が LINE で『どこにいるの?』と聞いてくる。『学園祭の実行委員会 視聴覚室』と生徒会長に見られないように手早く打つ。

 それからしばらく会長のつまらない自慢話が続いているなか、誰に遠慮することもなく大きな音を立ててドアが開放され、突如瀬奈が入ってきた。教室を見渡し、後ろのほうに座っていたウチに微笑ほほえみながら手を振った。

「誰だい? 君は? 今は委員会の途中なんだが?」

 高圧的な態度で瀬奈に迫る生徒会長。

「あ、アタシ……一年F組の……さいとうはるです!」

 ウチの斜め前に座っていた瀬奈と同じクラスの斎藤さんは驚いた様子で何も言えないまま口が半開きになった。

 名簿を確認した生徒会長は「斎藤さん、遅刻じゃないか。次からは急いでくれたまえ」と一言。瀬奈は「すいませーん」と言いながらウチの隣に座り、不思議そうにこちらに振り向く本物の斎藤さんへと、立てた食指を口の前においてウインクする。

「ねえ、アタシを探してたって聞いたけど、なにかあった?」

 ひそひそ声で聞いてくる瀬奈。

「別に探してないわよ。委員会あるんだし。それに用があったら LINE でもするし」

「ああ、そーなんだ。まあいっか」

 そう言って黒板に書かれた先ほどの議題を目にした瀬奈が大きな声で言う。

「ああ、キャンプファイヤーいいわね! アタシやってみたかったのよね。キャンプファイヤーの前でフォークダンス!」と言いながら、その下に書いてある『不可』という文字に目をやる。「でも、なんでだめなのー?」

 眉間にしわを寄せた生徒会長が答える。

「斎藤君。君は遅刻してきて聞いていないだろうからもう一度言ってあげるよ。キャンプファイヤーは火を使うから危険なんだ。だから許可できない。同じ理由でクラスごとの模擬店でも火の使用は禁止しているはずだろ? それに、校庭でのキャンプファイヤーは近隣住民に迷惑がかかる。よってこれは認められないんだ。わかるね?」

 先ほど提案があったときと同じく高圧的に一蹴する。しかし瀬奈はくじけない。

「でもさ、クラスごとの模擬店の火気使用は禁止って言うけれど、アタシたちのクラスは学食で堂々と火を使用してるんだよね。まあそれは調理科の教師が全員防火管理者の資格を持っているからなんだけど、例えばキャンプファイヤーを学園祭の後夜祭のみに行うとかに限定して、その時間帯に資格を持った調理科の教師に立ち会ってもらうとかじゃダメなのかな? そこのところ、ちゃんと確認は取った? まだならアタシから掛け合ってみてもいいよ。それに地域住民に対する配慮だとかいってもこんな山の中の学校でそんなに影響あるかしら? もし、必要ならアタシその地域住民の家に理解と許可を求めて回ってもいいけどな。せっかくの学園祭であれもできない、これもできないっていうのはつまらないじゃん」

「くっ……」生徒会長はみしながら「それは僕の方で掛け合ってみるよ。君がやらなくてもいい。僕は生徒会長だからね」と言い、黒板に書かれた『不可』を消して『審議』と書き換えた。

 瀬奈の登場で空気が変わった。それまでと違い会長の独断で一蹴しにくくなったことで実行委員の発言は積極的になった。

 しばらくして美術家の生徒が立ち上がり発言した。

「美術科で作製した作品を販売したいという意見が出ています。ウチのクラスで行う模擬店はそれを踏まえた画廊喫茶をしたいと思うのですが……」

 この発言は、ウチのデジャヴでなければ先ほど全く同じ提案をして会長に一蹴されたはずだ。

「何を言っているんだ君は! 学園祭とは日頃の学業の過程を披露する行事であって、決して営利を目的とした行為は行うべきではないとさっき言っただろう!」

 瀬奈は立ち上がる。

「アタシさあ。思うんだけど、模擬店なんてどれも営利目的じゃん? そりゃあガッツリもうけようなんて意志もなくて、それなりに良心的な価格設定で行うことで社会的な商業活動の演習として認めてるっていうのはわかるけどさあ。別に美術科で作った作品を売るってこともおんなじことで、それをやっちゃあいけないってのはおかしくないかな。

 調理科のアタシたちもそうだけどさ、美術科のみんなだって将来的には自分の作った作品を売って生計を立てるってことを目的として学校に来てるわけじゃん? だからそれが模擬店とはいえ誰かに買ってもらえるってことはそれだけでアガるでしょ。それに芸大なんかでは普通に生徒の作品が買えるわけだし、なら価格設定に営利目的とはならない程度の上限を設定するとかして、それでどうにか実現できるように努力するのが実行委員の仕事なんじゃないのかな?」

 多分一度却下された提案をもう一度言ったのは瀬奈のこれを期待したのだろう。

 さすがにこの瀬奈の発言を一蹴するということは自らの仕事を放棄していると言っているようなものだ。

「わかった。掛け合ってみるよ」

 瀬奈の圧倒的な勝利だった。

「すごいわね瀬奈は……」

 つぶやきながら隣の瀬奈に目をやると、彼女は余裕どころか、机の下の下半身はガタガタと震えていた。そして周りから見えるであろう上半身だけをウチに向けて言う。

「ふふ、ちょっとユウの真似まねしてみたくなっただけ。アイツ、いつもこんなふうに誰彼かまわず食って掛かるじゃん?」

 目を細めて微笑む。

「でも、それはきっと竹久のことを買いかぶりすぎているわね」

 ちょっとした嫉妬から出た言葉だ。

「でもさ、キャンプファイヤーやりたくない? アタシさ、できたかもしれないことをなにもやらないであきらめるっていうのは嫌なのよね」

 彼女にとって、やるべきかやらないべきかは問題ではないのだ。問題なのは、できるかもしれないことを挑戦しないでおくこと。


 瀬奈の登場で少しは建設的な話ができるようになったのはいいが、そのことで委員会の進行はさらに遅れることになった。クラス代表の委員は学園祭当日はそれぞれどこかのエリアを担当することになる。

「本来なら話し合いとくじ引きでもして担当エリアを決めたかったのだが、今日は少し話し合いが長引いてしまったので、こちらで指名していくことにするよ」

 生徒会長のそんな言葉は、瀬奈が余計なことを言うからいけないのだと責任を押し付けようとしているようにも見える。なんて器の小さい男だろう。

 ウチと瀬奈は体育館のステージ担当になった。これは彼なりの嫌がらせだろうと思った。体育館のステージは当日各部活動による催事が行われる。吹奏楽部の演奏や各バンドの出演、演劇部による舞台などやることが多い。少なくとも学園祭自体が未経験の一年生二人にその仕事を押し付けるのはあまりに無能な指示だと言える。もしそこで何らかのミスやトラブルが生じた場合生徒会長のミスだと言えなくもないだろうが、おそらく彼にとっては重要なことではないのだろう。しかしそのことで文句を言うのも格好悪いし、できることならばそれを難なくこなすことで見返してやりたいと思う。

 その日の委員会はそれでいったん終わったのだけれど、なるべく早いうちに体育館ステージの備品や設備に不備がないかだけでもチェックしておきたかった。後になって不備を見つけても当日までに対処してもらえない場合だってありうる。

 会が終わり瀬奈は真っ先に本物の斎藤春奈さんのところに行って謝っていた。成り行きで斎藤と名乗ってしまった瀬奈は生徒会長の星野先輩に斎藤として名前をおぼえられてしまい、なおかつ目の敵にされてしまった。一方本物の斎藤さんは名前すら憶えられていなかったわけで、なおかつ本当は実行委員なんてやりたくないと思っていたらしい。誰も立候補者がいなくて勝手に推薦されてしまったのだそうだ。そこで瀬奈はきゆうきよ斎藤と名乗って実行委員の代理を行うということで落ち着いた。


 体育倉庫は演劇部の部室と兼用のスペースだ。設備の点検をしに中に入ると演劇部員と共に竹久がいた。どうやら竹久たちは演劇部と一緒に劇をするらしい。詳しく聞きたいところだが今は目の前にある作業が優先。瀬奈が話を聞いているので後で瀬奈から聞けばいいだろう。一階は現在取り込んでいるようなので二階から始めることにする。

 しかし、これは思いがけないぎようこうかもしれない。竹久たちが演劇をするというのならば何としてもそれを見たいところ。しかし実行委員としての仕事があるならそうそう持ち場を離れるわけにもいかず、見られなくなってしまうところだけれど、担当場所が体育館ステージであるウチは堂々と仕事をしながら劇を見ることだってできるだろう。


 二階の設備点検はすぐに終わる。どうやら夏休みの間に体育館の改修工事が行われていたらしく、照明や空調などの設備が新品同様になっている。しかし一階に降りようとしたところで黒崎君の姿を発見してしまう。竹久が演劇に出るというのだから黒崎君も一緒に出演するというのは十分にあり得ることだ。

 夏のひと時彼とは恋人同士になり、そのあとすぐに別れてしまったことで引いた線を、まだ少し引きずっている。息をひそめ、耳をそばだてて話を聞き、彼らが帰った後で瀬奈と一緒に一階の点検をして帰った。


 翌日もまた、委員会が終わったのはもう日が傾きかけた時間。校内の生徒はもうほとんど学校を離れ、おそくまで部活動に精を出している生徒がわずかにいるくらいだ。

 教室に残してあった荷物を取りに行ってあとは帰宅するだけだ。廊下はもちろん教室にも誰もいないだろう。人のいない廊下で隣にいる瀬奈は鼻歌を口ずさんでいた。

『フライングマイガール』

 先日カラオケ店で出会った軽音楽部──いや、軽音楽同好会のオリジナルソングだ。瀬奈はなりゆきで彼らのバンドのヴォーカル役を引き受けることになったのだ。今年の学園祭での演奏を目指しているらしい。散々練習に付き合わされているうちにすっかり耳になじんでしまい、気が付くと時々ウチも口ずさんでしまうことがある。いざ聞きなれてしまうと愛着もわき、案外いい曲なんじゃないかと思えてきた。

 教室に入るとまだ竹久がいた。

「竹久、まだいたの?」

「笹葉さんお疲れ。こんな時間まで委員会?」

「うん……でも、ほとんど意味のない話し合いだけでなんにも決まっていないわ。このままで学園祭、間に合うのかしら」

「ごめんね。なんか押し付けちゃったみたいで」

「ううん、そんなこと……ウチが自分でやるって言い出しただけのことだから」

 押し付けられたわけでは無い。黒崎君や竹久から逃げるために自ら買って出たのだ。

「あれ、ユウ。まだいたんだ」

 瀬奈が遅れて顔を出す。

 竹久も今から帰るところらしく駅まで一緒に帰ろうと思ったが、瀬奈は「アタシ今からちょっと用事あるんだ。ゴメンね」と立ち去ってしまい、流れ的にウチが竹久と二人で帰ることに。そんなことで別に気持ちがうわずったりなんかしない。だって竹久はいなくなってしまった瀬奈に「フラれちゃったかな」とつぶやく。はじめから瀬奈のことしか見ていないのだ。

 どうやら竹久は瀬奈がバンドをすることを知らないらしい。あえて秘密にしておいて当日驚かせようとでもしているのだろうか。ならばウチの口から言うべきことではない。それに竹久にしても思いを寄せている瀬奈が毎日別の男たちと一緒に過ごしているなんていう話を聞かされて良い気がしないだろう。

 二人きりでの帰り道、竹久は演劇の舞台脚本を見せてくれた。

『リア王』をモチーフにしたその物語。

 自分の気持ちに素直になれないリア王がその場の成り行きで意中の相手とは別の人と結婚してしまうというはじまりだ。

 ──このリア王はウチのことだ。

 その衝撃的な感想に気が動転してしまい、思わずにぶつかりそうになってしまった。さすがに歩きながら読むのはいけないことだと脚本を閉じた。

 家に帰ってその日の夜。竹久は脚本のデータをメールで送ってくれた。感想を聞かせてほしいのだという。お風呂から出た後リラックスした状態で、改めて脚本に目を通す。


 急死してしまった父王の後を継いで王に即位した若きリアは結婚相手を選ぶことになる。母親はリアの結婚相手として、同じモンタギュー家の従妹いとこ、王弟の娘であるゴネリルを推す。しかしリア王にはおもいを寄せる相手があった。モンタギュー家とは仲が悪く、国家転覆をもくろんでいるとうわさのキャピュレット家の令嬢コーデリアだ。その事情を知るリア王の側近ケント伯は国家の安定をはかるためにもコーデリアを王妃として迎え、永く続く両家の確執を取り払うべきだと進言する。そこでリア王は形だけでも取り繕うため直接二人の女性を呼び寄せ、自分に対する想いの強い方と結婚すると言い出した。

 当然、リア王の心づもりは初めから決まっている。二人が何と言おうとコーデリアを選ぶつもりだった。しかしリアに優しく想いを寄せてくれるゴネリルと、あまりにも自分に対してそっけないコーデリア。腹を立てたリア王は勢いでゴネリルと結婚してしまう。

 ──リア王の自分勝手な行動はまさにウチそのものだ。

 物語はその後、『ロミオとジュリエット』『ハムレット』の世界観が混合されてくる。コーデリアがリア王に対しそっけない態度をとるのは、コーデリアの兄であるティボルトのかんけいによるものだった。

「本当にリアがお前のことを愛しているのならば、お前が何と言おうとリアはお前のことを選ぶはずだ」

 ティボルトのその言葉に従ったコーデリアの思惑は外れ、悲しみに打ちひしがれる。

 一方、王弟であると共にリア王の義父となったクローディアスはその権力を一層強め、リア王の意見はないがしろにされるようになる。クローディアスはキャピュレット家の弾圧を強め、リア王はティボルトと決闘して毒をぬった剣でティボルトを突く。死の際にあるティボルトにコーデリアのそっけない態度が本心ではなかったと知らされたリア王はキャピュレット家の窓の下でコーデリアに愛をささやき、すべてを捨てて駆け落ちをしようと持ちかける。

 コーデリアとの駆け落ちを実行する日、リア王のもとに現れたのは父王の幽霊だった。父王の死の原因が母ガートルードと王弟クローディアスによる暗殺であったと聞かされる。怒りに燃えるリア王は急ぎ王弟クローディアスの寝室へ駆けつける。そこで王弟と母の不義を知り、リア王は母とクローディアスを殺してしまう。

 王家の混乱を招いたのはまぎれもなくリア王であり、その罪はたとえ王であっても免れることはならない。側近ケント伯は「処刑台を王家の血で染めるようなことはあってはならない」と主張し、リア王は王位をはくだつされ国を追放される。

 ひとり取り残され、別の人との結婚を強引に決められてしまったコーデリアのもとにケント伯がやってくる。

 手には一つの薬瓶がある。この薬を飲めば一時だけ仮死状態になるので、その間に葬儀を行い、遺体を町はずれのれいびように安置する。そして薬の効果が切れてよみがえった後、町を離れて暮らすリアと一緒になればいいと提案する。

 予定通りにコーデリアの葬儀は執り行われるが、ケント伯の遣いと入れ違いになったリアはコーデリアの訃報を聞いて霊廟へと駆けつける。

 霊廟の中で冷たくなって横たわるコーデリアの前でリア王が自害しようとする……

 という結末は『ロミオとジュリエット』の通りだ。しかし、この物語は最後が変更されている。

『ロミオとジュリエット』の物語では、生き返り、ロミオの死を知ったジュリエットが短剣を胸に刺して悲劇的な結末になるのだが、この舞台の脚本では最後に自害しようとするリア王を前に意識を取り戻したコーデリアがリア王の自害を止め、ハッピーエンドとなっている。

 もちろん、都合の良すぎる結末なのかもしれないが、あまりに悲劇的な結末というのも学園祭の劇としては後味が悪いかもしれないので、これはこれでいいのだろう。


 翌日の実行委員会の時、瀬奈が相談をもちかける。

「昨日さ、ユウに演劇を手伝ってくれないかって頼まれちゃったんだよね。どうすればいいかな?」

 聞けば昨晩、例の脚本は瀬奈のところにも送られていたらしく、瀬奈にはゴネリルの役をやってもらえないかと頼まれたらしい。

「どうすればいいかなって、瀬奈、そんな時間あるの?」

「うん、それなんだよね。演劇を手伝いたいっていう気持ちはあるんだけど、実行委員もあるし、バンドもやらないといけないんだよね」

「瀬奈、竹久にバンドのことまだ言っていないの?」

「うん。本当は当日に驚かせたいっていうのはあったんだけど、さすがに黙っておくのは無理みたい」

「まあね。竹久もバンドをやるっていうことを知っていれば無理に手伝ってほしいとは言わないだろうけれど」

「せめてもう少しセリフの少ない役ならねえ。このゴネリルって、ほとんど準ヒロインっていう立場じゃない?」

「そうね、あの脚本ではリーガンは出てこないから女性キャラクターはメインがコーデリアでゴネリルが準ヒロインね。後は、リア王の母親役のガートルードくらいかしら? これは『ハムレット』の登場人物ね」

「せめてそのガーターベルトくらいのセリフなら覚えられなくもないんだけどね」

「ガートルードね。でも、瀬奈には役不足にも感じるわ。不倫をして夫を殺す役なんて」

「役不足……。アタシって信頼ないんだ。確かにアタシはシェイクスピアのことはよく知らないけど……」

「あ、瀬奈。役不足っていう言葉の意味、瀬奈は少し勘違いしているかも」

「勘違い?」

「うん、役不足っていうのは演者に対して役のほうが不足しているという意味で、つまり瀬奈ならもっと重要な役を任せたほうがいいという意味。瀬奈は信頼されているっていうことなのよ」

「あは? なんだ、やっぱりそうなんだ! うーん、でもそう言ってもらえるのはありがたいんだけどさ、やっぱりゴネリルっていう役はセリフが多いよ。それにさ、なんかよくない? 愛のためならどんな悪事でもやってしまうような女」

「殺されちゃう役よ?」

「肝心なのは生きるか死ぬかってことじゃないよ。そこは大した問題じゃない。要は自分の意志を貫いたかどうかっていうことなの」

「生きるか死ぬかは問題じゃない?」

「そうよ。ほら、例えば好きな人がいるでしょ。その場合やっぱり告白する以外の選択肢はないわけ。成功するかしないか。つまり生きるか死ぬかが問題なんじゃなく、告白することもなく、ずっと内に秘めていたんじゃいつまでたっても浄化されないでしょ。きっとずっとしなかったことを後悔するのであって、どのみち負けが確定しているわけ」

「そう。つまり瀬奈は好きな人がいれば迷わず告白するってわけね」

「それはもちろんそうよ……」

「すごいわね。まるで告白すれば必ず成功する自信を持っているみたい」

「成功するかどうかは別にして、その人のことを好きだっていう気持ちは誰にも負けないという自信はあるわ。少なくともユウの書いたこの脚本のゴネリルはそう考えていると思うの。勝つか負けるかなんてはじめからこだわっていない。ただ、リア王のことが好きだからその想いを伝えておく、みたいな?」

「でも、セリフは長いからやりたくない?」

「半分はうそ。本当は負けヒロインなんてやりたくないっていうのもあるかな。それにやっぱりセリフが多いから練習もしなくちゃならないだろうけど、バンドの練習もしなきゃだし」

「それに実行委員の方もね。少なくとも瀬奈は斎藤さんの代わりにここにいるわけだし、斎藤さんに負けないくらいの仕事はしないといけないのよ。それに、あんたはどんどんと実行委員の仕事も増やしているみたいだし」

「だってえ、せっかくだからキャンプファイヤーやりたいじゃーん」

「はいはい。しっかりやりましょうね」

「うーん。あ、そうだ。ゴネリル役、サラサがやればいいんじゃない?」

「ウチだって実行委員の仕事があるのよ」

「でも、バンドはやらないでしょ?」

「瀬奈を基準に考えないでよ。普通の人はそんなにあれやこれやはできないのよ」

「でも、ユウはサラサがやってくれるっていうなら喜ぶと思うなあ」

「簡単に言わないでよ」

「サラサなら、ゴネリル役が似合うと思うんだけどなあ」

「なあに? それはウチには負けヒロインがお似合いって言いたいわけ?」

「あは?」

「そもそも生徒会長がなんて言うかしら? 本来ステージ上の管理をしなければならないウチらが実際にステージに立つなんて許してくれるかしら?」

「あー、アタシ。どのみちバンドで立つんだけどね。まあ、実行委員は斎藤名義でバンドをするのはむなかた名義だから多分ばれないと思うけど」



「いいじゃないか。せっかくなんだからステージで演劇をやるといいさ」

 許可は出ないんじゃないかと思いながら生徒会長に相談したところ、すかさず了承してくれた。しかも──。

「当日はぼくもステージの管理を担当するつもりだ」

「え、会長もですか?」

「だってそうだろう。ステージの管理は実行委員の仕事の中でも最も大変な仕事だ。やる気のある君たちのことだからきっとうまくやってくれるだろうと任命したが、さすがにぼくも責任者として立ち会うようにしてある。だから君たち二人が演劇に出演するというのならば、その間は大船に乗ったつもりでぼくに任せておいてくれたまえ」

 もしかすると、ウチはこの生徒会長星野という人物の評価を改める必要があるのかもしれない。

 よし、ならばやってやろうじゃないか負けヒロイン役! 戦わずして負けるよりはずっとましだ。

 その夜、竹久に演劇の配役について聞いてみた。瀬奈はすでにゴネリル役が無理だと言ってガートルード役なら参加してもいいということを伝えていた。ゴネリルは、誰かほかの人にやってほしいと言われて頭を抱えていたそうだ。

「ねえ、ゴネリルの役、ウチでよければやってもいいのだけれど……」

「え、笹葉さんが?」

「ウチではだめかしら?」

「い、いや、そういう訳ではなくて……」

 竹久は言葉を濁す。考えてみればウチなんて初めからお呼びではなかったのかもしれない。そもそもあまり社交的ではなく瀬奈のように通った声が出せるわけでもない。ウチなんかが参加したいだなんて言うのはおこがましいことだったのかもしれない。

「うん、わかった。笹葉さんがそう言うのならばぜひお願いしたい。その……もしゴネリル役のセリフであまり言いたくないようなものがあったら遠慮なく言ってくれ。舞台に支障が出ない範囲でなら書き換えるようにするから」

「わかったわ。ありがとう」

 言ったからにはもう逃げるわけにはいかない。何がなんでもうまくやって見せる必要がある。


 ウチが参加することでキャスティングはおおよそ決まった。舞台の主演となるリア王役が黒崎君。叔父のクローディアスがわき先輩、敵役のティボルトが部長のひらさわ先輩だ。特にこの三人はのシーンがあるため経験者以外が演じるのが難しい。二人の演劇部員はともかく黒崎君は演技の経験はないのだけれど、きっと彼なら大丈夫だろう。なにをやらせてもとても器用にこなすことはもちろん、努力は人一倍怠らない人だ。リア王の忠実な側近ケント役は竹久が演じる。

 女性陣はメインヒロインとなるコーデリアをあおい先輩。負けヒロインのゴネリル役がウチで、リア王の母のガートルード役を瀬奈が担当。その他父王や遣いなどの端役は、そのタイミングで舞台に上がっていない誰かが演じるという方法でどうにかなりそうだという話だ。なにしろ、人がいないのでしょうがない。誰か一人でも欠ければきっと幕は上がらなくなってしまうだろう。


 学園祭までは残り三週間ほどの期間しかなく、メンバーのほとんどが素人同然。放課後は毎日閉校時間ギリギリまで猛練習が行われた……らしい。

 ウチと瀬奈は、毎日の実行委員会が閉校時間ギリギリまで長引いて練習には参加できない日々が続く。委員会全体の打ち合わせも、そして体育館ステージのエリア担当の打ち合わせも共に生徒会長である星野先輩が取り仕切る。しかし相変わらずこの人は自分の話ばかりをして何も決められないまま時間を溝に捨ててしまわなければならないという問題を抱えている。

 日によっては閉校時間を過ぎてなお場所を校外の喫茶店などに移して意味のない延長戦を繰り広げなければならないこともある。ウチも色々と無理を聞き入れてもらっているという負い目もあって、なかなか断ることもできない。

 結果、みんなと一緒に練習に参加することはままならない。みんなは気を遣って気にすることはないと言ってくれているが、みんなと合わせて練習できないということはあきらかに迷惑をかけている。瀬奈は相変わらずなんでも器用にこなし、短い練習時間でガートルード役をほぼ完璧にこなしていく。対してウチは発声すらままならない状態だ。元々が大きい声を出すこと自体にあまり慣れてはいない。瀬奈のように人前で大きな声を出して歌うなんて到底できないことだ。はっきり言って演劇というものを甘く見すぎていた。明らかに自分がみんなの足を引っ張っていることを自認する。

 最低限、発声練習だけでもしておかなければならない。しかし世の中に意外と大きな声を出していい場所というのは少ないのだ。ひとの行きかう路上はもちろん、団地である自宅もまた大きな声を出して許される場所ではない。夜中の公園などひとけのないところに行ったとしても、そんなところで演劇用のセリフ(ましてやリア王への愛の告白)など大きな声で言っていたとしたら警察に通報されてもおかしくはない。いや、通報されなかったとしても誰かに聞かれてしまっているかもと思うだけでゾッとしてしまう。

 では、校内ではどうだろう。放課後の旧校舎では皆がそろって練習しているわけだが、あいにくウチはその時間に委員会に出席していなくてはならない。昼休みの時間にでもどこかひとりになれる場所がないだろうかと考えた挙句、一か所だけ人の来ない場所が頭をよぎった。

 校舎の屋上踊り場に上がり、ドアを開けてあたりを見渡す。案の定誰もいない様子だ。万が一に備え、唯一の出入り口であるドアに背をあずけ、隠し持っていた脚本を開いてゴネリルのセリフを指でなぞる。

 まずは開幕のシーン。リア王に呼ばれたゴネリルとコーデリアとが順番にリア王に愛の告白をするシーンだ。先にゴネリルが告白し、そのあとでコーデリアがそっけない態度を示す。

 ゴネリルが告白する時点で彼女は望みが薄いと知りながらも、精いっぱいおもいを伝えなければならないのだ。


〝ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ。あなたという存在を知ってしまったこの瞳は、もはや虹を見てもその色を感じず、星のまたたきを見ても胸躍らせることもありません〟


 思った以上に声は出ない。それどころかおびえるあまり声は震えているし、声量を探るあまり声はセリフの途中で大きくなったり小さくなったりしている。

 安易な気持ちで演劇をやるなんて引き受けてしまったことを少しだけ後悔する。

 大きくひとつ深呼吸して、脚本のセリフのはじめをもう一度指でなぞる。

「ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ──」

 そこまで言いかけたところで、「オレもだよ」という声が響き渡る。

 びくっとしてセリフを止め、声のする方向、屋上の給水塔の奥に目をやる。

 いぶしたような匂いが風に乗って届く。そのにおいだけで、そこにいるのが誰だかわかったような気がする。

 給水塔の裏からひょっこりと、とても目鼻立ちの整った顔がのぞく。ネクタイは緑色で二年生のものだとわかる。彼とは以前にもここで会ったことがある。ウチとは別の理由でこのひとけのない屋上をお気に入りの場所にしているらしい。

 整った顔でウチのことを少しの間見つめ、「奇遇だな。オレも初めてあんたを見た時からとりこなんだよ」と、まじめな顔で言い終わると、急にくしゃっと顔をゆがめて「はははは」とバカにしたように笑う。

 顔を一瞬にして赤くしてしまったウチは逃げ出すように扉を開けて屋上から立ち去った。

 ひとりになれる場所なんて、意外と少ないものだ。

 ましてや、大きな声を出して誰にも聞かれないような場所なんて……


 その日の放課後、委員会は比較的早くに終わった。少しは演劇の練習に参加できるかと思っていたのだが……

「アタシ、今日のうちにちょっとでも回っておくわ」

 瀬奈が言った言葉に「どういうこと?」と問いただすと、

「うん、自分で言いだしたことだしね。今日のうちに校内でのキャンプファイヤーの開催について少しでも近隣住民の理解を得ようと思って……」

 聞けば星野会長からは近隣の住民からの理解が得られるのならばOKという返事をもらったらしい。校内の防火管理については星野会長が動いてくれていたようだ。

「──待って。それならウチも一緒に行くわ」

 気づけば誰もが自分に与えられた任務を一生懸命にこなしているのに、ウチだけが何もせずにいることが許せなかった。瀬奈の仕事にウチ一人がついていったところでなんの役に立つかもわからないけれど、瀬奈の「うん。助かる」と微笑ほほえんで言ってくれる言葉だけで少しだけ報われる自分がいる。そんなの、たいして価値のあるものじゃないけど……


 近隣住民の反応は上々だった。反対したり不服を言うものは誰一人としてなく、皆が皆口をそろえて「頑張ってね」と優しい声を掛けてくれる。それは近隣住民の理解があるというよりも、ひとえに瀬奈の社交的な物言いのたまものだろう。もしウチが先陣を切って話していたならば一律真面目で辛気臭い言い方をして、近隣住民に「火を使うなんてそんな危ないことを──」などとつまらない心配を与えてしまったかもしれない。しかし瀬奈は、時には明るく元気に、時には真面目で丁寧な言葉遣いで、そして時には弱者が相手に物乞いをするようなまなざしで協力をお願いする。相手に余計な不安を与えないように世間話をしたりする。相手の性格を瞬時に判断して自分のありようを変えて見せているようでもあった。しかし本人は、そのことについて一向に自覚がないというのだ。

 ある家に訪問したときのことだ。学園祭の後夜祭でキャンプファイヤーを開催したいことの説明を受けた四、五十代の女性は言った。

「あら、でもそれって少し縁起が悪くないかしら? ねえ、だってほら。ねえ、お母さん」

 女性は玄関先の隣の和室にいた母親らしき老齢の女性に声を掛けた。老齢の女性は曲がった腰を引きずりながら玄関まで出てきて昔話をしてくれた。

「そりゃあ、若い子なんかは知りゃあせんじゃろうけどなあ。かなやま(ウチの学校がある山の名前)には昔神様がおる言われとってなあ。昔は神の山と書いてカナヤマじゃった。山の上にはお堂があってな、そこには村から若い娘が一人として選出されてな、一生を一人でそのお堂で暮らしながら村を見守るっちゅう風習があったんじゃ。そんで年老いて巫女ができんようになったら山を下りて、また別の娘が巫女として選ばれるという風習じゃ。

 じゃけどな、そりゃあ年ごろにもなると恋のひとつやふたつするわな。村の若い男とな、巫女が恋仲になってしもうて男は夜な夜な山の上のお堂に忍び込んどったちゅう話じゃ。それを知った村のもんはどうにかしてその二人を引き離そうと必死になってな。最後には二人お堂に火をつけて心中してしもうたんじゃ。それ以来、金山の巫女の風習はなくなってしもうたんじゃけどな、そのお堂の後に建てられたんがアンタらの学校という訳じゃ」

 そんな話は一度も耳にしたことがなくて、それは多分瀬奈にしても同じだろう。ましてや、その話をはじめから知っていたなんて思えない。

 丁寧に語ってくれた山の伝説に、ウチは確かに縁起が悪いような気がした。しかし瀬奈は違った。

「だからこそなんです!」

 老齢の女性をまじまじと見つめた瀬奈は思いもよらぬことを言い出した。

「山の巫女の魂は今もあの場所で街を見守っていると思うんです。だからこそ、私たちは毎年学園祭を無事に終えることができた感謝のいのりをささげるためにキャンプファイヤーをすることで、鎮魂の儀式にしたいと思っているんです!」

 思い付きの口から出まかせ。それを真に受けたおやは納得してキャンプファイヤーの開催を承諾してくれた。最近瀬奈のそういうところが竹久に似てきているように感じる。

 そして帰り道で瀬奈はそっとつぶやいた。

「うん、今の話。使えるわね」


 放課後の学校に戻るが、演劇部の練習も終わり解散してしまった様子。まともに演劇なんてやったことの無いウチはまったくの我流でなんとなくの練習をしてこそいるが、せめて誰かに聞いてもらってどうすればいいかのアドバイスくらいは欲しかった。いまだにろくな発声すらできないでいる。もう帰ってしまった竹久を呼び出したりするなんて申し訳なくてとてもできないし、瀬奈もバンドの練習をすると言ってカラオケルームに行ってしまった。

 ──ん? カラオケルーム?

 たしかにその場所ならば誰かに気を遣うこともなく大きな声を出すことができる。


 カラオケ店のエントランスをくぐるとが沈みかけてあたりは暗くなり始めているというのに多くの人達がにぎやかに活動をしていた。いや、むしろこれからがお店がにぎわう時間なのだろう。どこの部屋かはわからないが人気の曲をふざけた替え歌にしてはしゃぐ男の声が響く。ちょっと筆舌に尽くしがたいわいな言葉を叫んでいる。きっとこれほどまでに声が漏れていることなど本人は気づいていないのだろう。それを考えると果たしてカラオケルームは本当に人のことを気にしなくてもいいのかどうか疑問に思う。

 受付の前に立つと、ギャルメイクの店員が「何名様ですか」と抑揚の欠いた声で質問してくる。その返事に少しだけ戸惑った。

 ひとりカラオケはアリかナシかについて話をしているのを聞いたことがある。「カラオケは歌を歌うという目的よりもみんなで盛り上がりたいという目的の方が大きいから、一人で行っても面白くない」という意見に対し「むしろみんなで行くときのためにひとりで練習しに行くのだ」という意見。それに「いや、そもそも一人で行った方が同じ時間でたくさん歌えるし、大勢で行った方が一部屋あたりの値段が高くなるというのは理屈が合わない」という意見などさまざまだったが、ウチの考えはそのどれよりもつまらないものだ。

 そもそも、ひとりでカラオケには行かない。行かないというよりは行けないのだ。

「何名様ですか」なんてそんなことわざわざ聞かなくたって、見ればひとりだということくらいわかりそうなものだ。それをあえて何人かだなんて聞かれるのは、まるで自分は友達がいなくてひとりでさびしくやってきたのですと自己申告をさせる辱めを受けているように思えてしまうのだ。

 今日自分には明確に演劇の練習をするという意志があってここまで来て、それを忘れていたが、店員の質問で思いだし、急に恥ずかしくなって硬直してしまった。

「ふたりです」

 ウチの頭上で透き通った声が響いた。

 振り返るとそこにはあの学校の屋上で出会った一つ先輩の男子生徒がいた。同じ学校の制服を着ているし、店員は自分とこの先輩とが同じひとつのグループなのだろうと誤解したのだと気づいた。しかし、どう見ても先輩はひとりで、『ふたりです』と言ったその相手がどこにいるのかわからなかった。

「327号室です」

 抑揚を欠いた声とともに差し出されたリモコンとおしぼりの入った籠を受け取った先輩は、「だってさ」と言いながらウチに目配せしてそそくさとエレベーターホールの方へ一人で歩いて行った。

 先輩のもうひとりが自分なのだと気づき、自分がどうしてよいのかもわからないままとりあえず急いで先輩を追った。

 もしかすると恥ずかしがってちゆうちよしていたウチを見かねて救いの手を差し伸べてくれたのかもしれない。沈黙に沈む二人きりのエレベーターで「あの……ありがとう……ございます」と小さくつぶやいた。

「はん?」

 先輩はなんのことを言っているのかわからない様子でひとことだけつぶやいた。

 327という表札の部屋に入る。

「あの……ありがとうございます。あとは、その……大丈夫なので……」

 先輩はウチの言葉を聞き入れることもなくそのままソファーに腰をおろし、れた手つきでリモコンを操作する。音楽が流れ出す。流行には疎いウチでも知っているような有名なヒット曲だ。

 臆することなく歌い始めた先輩の歌はお世辞を抜きにしてかなりうまい。というよりも、むしろ響きのあるその声は聞いているだけで心地が良くなる。ウチも思わずソファーに腰かけ、一曲が終わるまで聞きほれてしまった。

「はい、じゃあ」

 先輩がウチに向けてリモコンを差し出す。そこで、ようやく我に返り何かが間違ってしまっていることに気づく。

「あ、あの……すいません。ウチは……今日、カラオケを歌いに来たわけじゃないんです。その……勘違いさせてしまったのならごめんなさい」

「っんだよ」軽く舌打ちをした先輩は今度は黙ってウチの目をのぞき込む。息をのむような鋭い眼光だ。

「じゃあ……演劇の練習でもしに来たのかな?」

 そう言って、今度はまるで別人のようににっこりと笑って見せた。あまい表情に、思わずうっとりとしてしまう……と、いうか、

「な、なんでそのことしっているんですか!」

「なんでって、今日の昼休み屋上で練習してたじゃん。あれ、リア王? やめとけよ。あんな演劇部、どうせ手伝ってやったってロクな演技なんてできやしないんだ。なにもアンタまで一緒に恥をかく必要なんてないだろ? そんなことよりさあ、オレと……」

 冷笑したような態度に思わず気持ちが沸点に達してしまう。先輩ではあると理解しつつもいつしか声を荒らげてしまっていた。

「どうしてそういうこと言うんですか! 人がせっかく一生懸命やっていることを部外者が偉そうなこと言わないでください! あなたに何の権限があってそんなことを!」

「はあ? 何の権限だって? そりゃあアンタ……え? もしかしてアンタ、オレのこと誰だかわかってない?」

「え? あなたが誰かなんて、まだ名前だって聞かされた覚えもないわ」

「ハッ、まいったな。オレくらいのいい男、みんな知ってると思っていたんだけどな」

「あいにく、ウチの周りにはいい男というのが間に合ってるもので」

「ふーん、あの、黒崎とかいうやつか?」

「そう、有名なのね黒崎君……」

「オレほどじゃないだろうけどな」

「そう……でも、それだけじゃないわ」

「あん? ほかに、オレくらいのいい男なんていたっけかな?」

「いるわよ……そのくらい」

 ──もちろん。それが誰かなんて言わない。それにたぶん、その人の名前を出したところでこの人は納得なんてしないだろうし……

「──まあいいさ。俺の名前はしろだ。城井、まさひこ

「……シロイ? マサヒコ…………

 たしかにその名前には聞き覚えがあった。二年生で演劇部のエース。たしか平澤先輩が衣装を燃やしてしまうという失態をさらしたことにより、怒って部をやめると言い出した張本人だ。

「なんだ。やっぱり知ってたのか。オレのこと」

「ええ、それは……だって、演劇部を窮地に追いやった張本人じゃないですか」

「ふっ、オレが悪者かよ……。ま、確かにそうかもしれないけどな」

 くされた城井先輩は、脇に置いていたかばんをがさごそとやり、奥の方から手の平サイズの箱を取り出した。その中から一本取り出して口にくわえ、箱を投げ捨てるようにテーブルの上に置いた。ポケットから使い捨てのライターを取り出し、火をつけようとする。

「ちょ、ちょっとやめて下さい。こんな狭いところでそんなもの!」

「んだよ、うるせえな」

「だってそうでしょ! 国の法律だって──」

 いいながら、ふと気が付いてしまった。今回の演劇部の崩壊に関する出来事の真相……

 ウチは一瞬にしてクールダウンし、あえて冷たい口調で言った。

「やっぱり……悪者は城井先輩なんじゃないですか……。あの騒ぎは、平澤先輩が犯人なんかじゃないわ」

 その言葉を聞き、城井先輩は何も言わずウチの方へと視線を流した。それ以上は言うなと言っているのがわかるが、もちろんウチはそんなことに躊躇なんてしない。

「先日、おかしいなって思ったんです。ウチは学園祭の実行委員で体育館の担当だったから、会場の設営のため寸法を測りに行ったんです。そしたら、なんだか以前よりも体育館全体が白っぽいなあと思ったんです。それで、少ししてわかったんです。あの体育館の照明、全部LEDライトに替わっていたんです。生徒会長に言って資料を見せてもらったら、たしかに夏休みのはじめに体育館全ての照明がLEDに付け替えられていたんです。

 おかしいですよね?

 平澤先輩が小火を起こしたっていうのは七月の終わりのころの話なんです。LEDの照明でしゆうれん現象なんて起きますか? 本当の火事の原因は、もっと直接的なものだったんじゃないでしょうか。もっと確実に、引火してしまうような火元がそこにあったんじゃないですか?」

 真剣に迫るウチの表情を見て、城井先輩は笑った。そして罪を認めるでもなく謝るでもなく意外なことを言い出した。

「さあ、演劇の練習を始めようか」

「ちょ、ちょっと待ってください。何でそういうことになるんですか」

「オレが直々にお前の演劇のコーチになってやんよ。今日、アンタはここに演劇の練習をしに来たんじゃなかったのか?」

「もしかして、口止め料ってことですか?」

「ちげーよ。そんなんじゃない。アンタには素質があるって言ってんだよ。だから、オレが直々にコーチしてやる」

「い、言ってる意味が……」


 ともあれ、演劇部のエースである城井先輩が直々に指導してくれるというのは、あまりみんなと一緒に練習のできないウチにとって悪い話ではなかった。

「このことは他の連中には絶対に秘密にしておいてくれ」

 という彼の言葉の裏には、もしかすると自分の罪を認めながらもそれを言い出せない気持ちがあるのかもしれない。だからウチに対してコーチ役を買って出ることがせめてもの罪滅ぼしだと考えているのだろうか。

 知ってしまった真実を誰かに言うべきか、言わざるべきか、それはきっとたいした問題ではないだろう。今更事実を知ったところできっと誰もが自分の次にとるべき行動に迷ってしまうだけで、なんら根本的な解決にはならないだろうし、そもそもウチはそんな役回りのキャラではない。


 そして秘密が守られたことによりそのまま何事もなく時は過ぎ、学園祭前日を迎えた。正直、自分の演技力は格段に向上したと思う。皆の足を引っ張らないで済むくらいにはきっとなれただろう。

 学園祭の前日は多くの生徒が準備のために遅くまで学校に残り、学校側もそれをやむなしと認めている。夜の八時を過ぎると九月末の空はすっかり真っ暗に染まり、冷たい風が山の中腹の校舎を通り抜けるようになる。

 日中の暑さしか経験のない生徒たちは上着を持たないままに夜の作業をこなしつつ「さむいさむい」と愚痴をこぼしながらも、それはどこかお祭り騒ぎの延長のように楽しんでいるようにも見える。

 委員会の仕事を終えてから演劇の準備に合流し、ようやく一段落ついて解散しようとなったのはもう夜の九時を回っていた。ウチと黒崎君と竹久の三人で、クラスの出し物のコスプレ喫茶用に装飾された教室に荷物を取りに寄る。教室を出ようとするとき、ウチはかねてからの計画通りに竹久を呼び止めた。

「あ、ごめん竹久、今日のうちに確認しておきたいことがあったんだけど、ちょっといいかな」

 白々しくも演劇用の脚本を取り出して見せるウチ。

「ああ、それじゃあ俺、先に行っとくわ」

 黒崎君が教室を出て行き、夜の教室に竹久と二人きりになる。

「どうしたの?」

 あっさりとした口調でウチのそばに寄ってくる竹久。きっとあなたは、ウチのこの胸の高鳴りなんて気づいてもいないのでしょう。

 本当はこんなこと、やるべきかやらざるべきか随分迷ったのだけれども……



 シェイクスピアの物語は、不義を働く女性を許さない傾向があると思う。

『ハムレット』のガートルードは父の遺志とは別に殺されてしまうし、リア王に辛辣な言葉を言ったコーデリアも死んでしまう。『オセロー』のデズデモーナに関しては不義の疑いだけで殺されてしまうのだ。

 だとしたら、やはりウチなんて生きてはいられないのだろう。万死に値する行為だったと言ってもいい。だけれどもはやこのおもいは、生きるだとか死ぬだとかそういうことはもはや問題ではないのだ。シェイクスピアの劇に登場するヒロインたちだって、皆そんなことを気にしてなどいない。自分の信じたことをやり遂げるだけのことなのだ。



 ウチは脚本を開き、ゴネリルの最初のシーンのセリフを指で指す。リア王の従妹いとこにあたるゴネリルが愛を告白するシーンだ。

 そのセリフを指でなぞりながら言ってみる。

「ああ、リア王様。初めてお会いした時からわたしはあなたのとりこ──」

「うん」

 竹久が小さくうなずく。

「これ、少し変じゃないかな?」

「そう……かな?」

「ほら、だってゴネリルはリア王の従妹という設定なわけだし、きっと幼いころから何度も会っているはずよね? なのに初めてお会いした時から──というのは少し変じゃないかしら?」

「──ああ、たしかにそうだな。どうしよう」

「ウチね、差し出がましいようなんだけど差し替えのセリフを考えてみたのよ」

「さすがだね。で、どんな?」

「うん、それでね、ちょっと……本番のための練習がしたいの。少しだけ付き合ってくれないかな」

「もちろん」

「じゃあ、リア王役をお願い」

「うん、わかった」

 ──なんてウチはざかしいのだろう。つまらない茶番の演出に自身であきかえってもいるが、それでもこれはこれで自分自身必死でもあるのだ。

 ウチの正面に立った竹久は、手に脚本を持たずにじっとウチの方を見つめてリア王のセリフを言う。少し恥ずかしいが、きっとその方が都合がいい。もちろんウチもカンニングペーパーは持っていないし、必要もない。自分の心の内を言えばいいだけのことなのだから……

「ではゴネリル。君の気持ちを言ってくれ。君はわたしのことをどう思っているのだ?」

 緊張が背筋をう。軽く深呼吸をしてリア王を、いや、竹久を見つめる。

「はい、リア王様。あなたはお気づきになんてならなかったかもしれませんが、わたしはずっと以前からあなたのことを見つめていました。しかしそれを恋だと気づくには少しばかり時間がかかってしまったかもしれません。

 相手の身分を問わず等しく皆に気づかいのできる、そんな優しさを持ったあなたにかれていったのかもしれません。

 あなたはお笑いになるかしら? 今もこうしているわたしの胸があなたに焦がれる思いで張り裂けそうになっていることを?

 いいえ、わかっております。あなたには想いを寄せている人が別にいることくらい。

 それでも、こうしてこの想いを打ち明ける機会を与えて下さったことに、心より感謝をしているんです」

 そう言って、静かにうつむいて両手でスカートのすそをつまみ、ひざを軽く曲げてお辞儀をする。

「……どう、かしら?」

 聞いておきながら、顔はうつむいたままだ。ウチの表情は演技をしているという建前があるにもかかわらず真っ赤に紅潮してしまって誰にも見せられない状態になっている。

「……いい。すごくいいよ! そう、そうなんだよ。この言葉があるから、この言葉があった後だからこそ冷たいコーデリアの態度に落胆してゴネリルを選ぶんだ。さすがだよ笹葉さん」

 竹久の賞賛の言葉が素直にうれしい。たとえそれが演劇上のセリフに対するものであっても十分だ。

「ありがとう。でも、これは本番のための練習。本番は、きっともっとうまくやって見せるから」

「ああ、期待しているよ」


 ──今のウチにはこれが精いっぱい。

 果たしてその本番がいつ来るのかなんて今はわからないけれども、いつかは来なくてはならない。


 ──to be or not to be.


 するべきかしないべきかは問題じゃない。しなければ幕は上がらないし、幕も下りない。

 いつかは必ずしなければ、この気持ちはどこにもやることができないのだ。


 つまりはそれがいつなのか、そこが問題だ──。