『ヴェニスの商人』(シェイクスピア著)を読んで  竹久 優真

〝シェイクスピアにはゴーストライターがいる〟

 そしてその正体は外交官ヘンリー・ネヴィルであったり、オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーであったり、フランシス・ベーコンであったり、劇作家のクリストファー・マーロウであったり等と様々な説がある。

 昔から偉大な人物であればあるほどに別人説や影武者説というのが付いて回る。日本国内の歴史においてもそれは例外なく発生している。

 聖徳太子、源義経、徳川家康……。挙げればきりがない。もはや影武者をささやかれるのが偉人のステータスだと言ってもいい。



 夏休みが明けて九月一日となった。夏に読んだライトノベルのせいで、ひょっとしてこのまま夏休みが終わらずに繰り返すことになるんじゃないか、という不安は、どうやら解消されたらしい。もしかすると今の僕が知らないだけで実は昨日までの夏休みが15498回ほど繰り返されていたかもしれないけれど、今の僕が知らないならばそれはなかったこととして考えてもいいだろう。

 新学期に気分を一新して早起きし、朝から優雅に喫茶店でコーヒーを飲んでいたら思わず遅刻しそうになり、駆け足で心臓破りの坂道を上り始業のチャイムにギリギリで滑りこむ。

 新学期早々の遅刻を免れ、教室を入って奥の窓際、後ろから二番目の自分の席に座り教室を眺める。


 そこに、さささらはいなかった。


 見た目がギャル風であるにもかかわらずおそろしく真面目な彼女が遅刻するなんて、普通はあり得ない。

 後ろの席に座るイケメンの友人くろさきたいに聞いてみる。

「今日、笹葉さんは?」


 その瞬間、脳裏に嫌な予感が走った。

「──笹葉さんって誰だ?」

 ふと、大我がそんなことを言い出すのではないかと考えてしまった。いつの間にか書き換えられた世界の中で、僕はきっと文芸部の部室で眼鏡姿にショートヘアのしおりさんの力を借りて世界をもとの形に戻さなければならない、なんて想像をしてしまったのは、きっと夏に読んだライトノベルの影響だ。

 いや。むしろそのほうが気持ちが楽だったのかもしれない。この世界は紛れもない現実で、なかったことにできない夏の出来事の延長線上に僕らはいるのだ。


「今日は、一緒に来てないんだ……。やっぱり、俺のせいかな……」

 それが黒崎大我の口から発せられた現実世界の言葉だ。


 黒崎大我と笹葉更紗は恋人同士だった。誰もがうらやむ美男美女のカップルで僕としてもその二人の友人であるというだけで鼻が高かった。

 しかし、夏と共にその恋は終わりを告げた。そのことが原因でこうして新学期から一緒に登校しなくなったのだろう。


 始業式ということもあり、その日の学校は午前のうちに終了した。

 笹葉さんは来ないままだった。


「大我が気にすることじゃないよ」

 あからさまに気にしている様子の友人の肩をたたく。

「おれはこれから部室のほうに顔を出すつもりだけど──」

「ああ、それなら俺も……」

「いや、今日のところはおれだけで行くよ。しおりさんとの過去の話を聞く限りじゃあ、いきなり大我を連れて行くよりもまずおれが声を掛けてからのほうがいいと思う」

「ああ、確かにそれはそうだな……。じゃあ、今日のところはよろしく頼む」

「ああ、まかせておけ」

 男同士で、握りこぶしを軽くぶつけ合う。こういうな行動にも最近ようやく慣れてきた。さみしそうに一人教室を後にする大我の背中を見送り、僕は校内の外れ、丘の上にある旧校舎へと向かう。

 山の斜面に沿って建てられているこの学園の中央を貫く長い階段。それを上り詰めると正面に食堂があり、左手の奥に体育館がある。その裏手にある赤さびだらけの格子扉から更に坂の上に行ったところに旧校舎があり、そこはあまり大きく活動をしていない部活動の部室として使われている。木造二階建ての建物でその上には小さな時計台があり、随分前から時計は止まったままである……と、思っていたのだがいつのまにか動き出している様子だ。夏休みに入る前、長い間紛失していた時計台の鍵が見つかったので、おそらく夏休みの間に修理がなされたのだろう。

 きしむ廊下を歩き、一階の『文芸部』の表札のかかった教室に入る。古い書架が立ち並ぶ静かな部室にはショートヘアで黒縁の眼鏡をかけた少女が一人漫画を描いている。部長のあおい栞さんだ。ここは彼女を部長とした『漫画研究部』の部室で、表札の『文芸部』は漫画研究部発足前に部員不足でなくなってしまった『文芸部』のまま放置されているとのことだ。そしてまた、この漫画研究部も部員不足で存続を危ぶまれている。

 十月の生徒会総会までに部員が三名に満たない部活動は廃部となる。現在漫画研究部の部員は僕と栞さんの二人だけだ。

 僕の姿に気づいた彼女は眼鏡をはずして僕のほうを見つめる。黙ってさえいれば美しい大きな瞳に思わずドキッとしながらも、教室に僕たち二人以外に誰もいないことを確認する。

「残念だけどいとしのせなちーなら今日は来ないよ。さっき連絡があった。なんでも今日は外せない用事があるらしい」

は律儀ですね。元々部員じゃないのにわざわざ連絡をよこすなんて」

「まあ、半分部員みたいなもんだろう。何なら無理やりにでも部員として引き込んでもいい」

 どうやって話を切り出そうかとも考えていたが、いの一番そんな話の流れになってこっちとしては好都合だ。瀬奈が今日は来ないというのもちょうどいい。

「ああ、そのことで話があるんですよ──」栞さんが漫画原稿を描いている向かいに余っている椅子を引っ張ってきて座る。「──入部希望者を見つけてきました」

「ほう、それは……。あーしが納得するような人物なんだろうねえ」

「ええ、それはまあ。たしか、BL漫画のモデルにできそうなイケメンが希望でしたっけ? それに関して言えばこれ以上の人物はいないくらいには……」

 おそろしく知恵の回る栞さんのことだ。これだけ言えばいったい誰のことを指しているのかわからないということはないだろう。

 僕のクラスメイトで親友の黒崎大我のことだ。夏休みに話をしてわかったことなのだが、イケメンにしてリア充の王様黒崎大我は中学生時代に栞さんのことが好きだったらしい。彼女を追うようにこの学校へ入学するも、一度彼女に拒絶され、笹葉更紗と交際することに。しかし、栞さんへのおもいが忘れられず二人は破局してしまった。

 だからこうして友人の僕がおせっかいをしているのだ。

「ならば一度入部テストをしなくちゃいけないねえ」

「入部テスト……ですか? そんな悠長なこと言っている場合ですか? 早くしないとこの部は廃部になっちゃうんですよ」

「あーしの気に入らないメンバーを増やすよりは廃部になったほうがマシだよ」

「僕は、そんな試験受けてませんけど?」

「たけぴーは合格しているんだよ。君はいつもあーしを気持ちよくしてくれるから」

「誰かが聞いて誤解するような言い方しないでくださいね」

「大丈夫、今日はせなちーいないから。ふ・た・り・き・り」

 ネクタイをするっとほどき、シャツのボタンをはずしながらそのふくよかな胸を僕に近づけてくる。多分瀬奈なら栞さんのこういう態度にも慣れているから問題ない。しかし、こういう仕草を大我のいる前でするのだけはやめてほしい。

「で、入部テストって何をするつもりですか?」

「ああ、いやまあ簡単なことだよ。とりあえずは仮入部として、この部で必要な人間かどうかを判定するまでさ。くれぐれも、あーしの機嫌を損ねないようにね。たけぴーも」

 ネクタイを外し、胸元を少しばかりはだけた栞さんはその谷間に風を送るように下敷きで仰ぐ。めるような上目遣いの栞さんから僕は視線をはずす。

「ええ、まあ。それはもちろん……」

 たぶん僕は、将来誰かと結婚したならその妻の尻に上手に敷かれる自信がある。


 さて、必要な話は済ませた。瀬奈も今日は来ないという話だしこのまま帰ってもよかったのだが、やはりそれは少ししつけだろう。今、僕が栞さんの機嫌を損ねるわけにもいかない。ひとまず座っていつもの通り読書でもしようかと思ったところで、栞さんが描きかけの漫画原稿を差し出す。

「ねえ、ちょっとこれの感想を聞かせてくれないかな」

 正直なところ専門外だが、断ることで機嫌を損ねかねない。手渡された漫画原稿のタイトルは『●ニスの笑人』とある。

 借金の担保として●んぽをかけていたがお金を返せなくなってしまった主人公は●ニスを奪われそうになる。しかし気の利いた裁判官が、確かに●ニスは借金のカタに持って行ってもよいが、証文には精液について書かれてはいない、よって自分のものにしても一滴の精液もヌイてはならない、と判決を下す、というくだらない話だ。

 栞さんはいわゆる薄い本の漫画家である。基本的にBLを中心に書いていてその分野ではそれなりに名が通っているらしい。『壁作家』と言うらしいが彼女自身は僕の見る限り立派な山を持っている。話をするときによく腕を組んでいるがおそらく相当に重いのだろう。組んだ腕でその山を下から支えるようにする仕草に僕はいつも目をそらしがちになる。

 言わずもがなこの話のモチーフはシェイクスピアの『ヴェニスの商人』だ。


『ヴェニスの商人』はシェイクスピアの代表作の一つであり、後半の人肉裁判はあまりにも有名だ。主人公のバサーニオはポーシャという女性に求婚するための旅費を友人のアントーニオから借りる。手元にお金のなかったアントーニオは不本意ながら嫌いなユダヤ人のシャイロックからお金を借りることに。

 バサーニオは無事ポーシャの出す問題、三つの箱の中から正しい箱を選ぶことに成功し、無事ポーシャと結ばれることになる。しかしそのころ、アントーニオの財産を積んだ船がことごとく行方知れずに。アントーニオは借金のカタに1ポンドの肉を差し出すと証文に書いていたせいで、その命が危険にさらされる。

 そこにバサーニオの妻となったポーシャが男装し、裁判官として登場する。証文の通りにと強く主張するシャイロックに証文の通り、1ポンドの肉を切り取ることを許可する。しかし、証文には血液については記されてはおらず、一滴の血液さえ流すことは許さないと戒めたうえ、キリスト教徒の命を危険にさらした罰として財産を没収。さらにキリスト教への改宗を命令する。

 裁判の後、友の命を救った裁判官に対しお礼をしたいと言うバサーニオ。裁判官は妻からもらった指輪を要求する。大切なものだと一度は断るも友の命を救ったものへの礼として差し出す。変装を解いて元の女性に戻ったポーシャは指輪をなくした夫に激怒。バサーニオは平謝りで、妻に頭が上がらなくなって物語は終わる。


 さて、BL漫画についてまったくの門外漢である僕には漫画に対する評価なんてできるはずもなく、話を原作のヴェニスの商人にすり替える。

「ヴェニスの商人って、最近の演劇ではやたらとシャイロックを持ち上げてまるで悲劇の主人公みたいにしているものが目立ちますけど、やっぱり脚本を書いたシェイクスピアはシャイロックを純然たる悪役として描いていると思うんですよね。当時のイングランドの平均的な価値観としてはユダヤ人はやはり嫌われていて、だからこそ欲深いユダヤ人であるシャイロックが最後に不幸のどん底にたたとされる物語は受けが良かったんだと思う。だけど、そんな物語の中でも無神経なユダヤ人批判や理不尽なぼうをぶつけることに対する批判的な意見はちゃんと取り入れられている。だからこそこの物語のキャラクターに陰影が出ているのだと僕は思います。そのうえで、やはりシャイロックは悪人であるし、結末のロレンゾとジェシカの掛け合いは美しく感じる……でも──」

「でも?」

「やっぱりこの物語の主な登場人物たちもなかなかのクソ野郎ぞろいなんじゃないかなと僕は思う訳ですよ。だってそうでしょう? アントーニオはさんざんシャイロックを馬鹿にしておいてそのうえで金を借りる。しかも借りるくせに上から目線だ。

 バサーニオにしたって家が落ちぶれてしまって金が無くなったにもかかわらず浪費癖が直らず、借金を抱えていたところにお金持ちのポーシャが結婚相手を探していると聞き、そこに行く金を貸せと友人にせびる。

 ポーシャにしてもヒドイ。次々に訪れる求婚者に対しヒドイ暴言を吐きまくっている。しかもそのほとんどが男性の外見についてだ。そこに現れたバサーニオ。おそらく相当なイケメンだったんだろう。あからさまに正解の箱が選べるようにヒントを出しまくる。にもかかわらず自分のやっている箱選びの答えが『外見にだまされてはいけない』という意味で金や銀の箱ではなく鉛の箱を選ぶことだというのだからお笑い以外の何物でもない。

 人肉裁判に至っては譲歩しないシャイロックが悪いにしても財産を没収してさらに改宗までさせてしまうというのはいくらなんでもやりすぎだ。

 そして最後の指輪を要求する件。自分で仕掛けておいてキレるなんて悪質すぎる。いや、そもそも当時のキリスト教、特にカトリックにおいて女性が男装するというのは割と禁忌だったはずだ。そのあたりを考えてみればこの物語、割と悪党だらけの物語のように僕は感じるんだけど」

「ふふ、なるほど。実にたけぴーらしいね。実にひねくれている」

 不敵に笑う栞さんの笑みにまたやってしまったと反省する。つい好きな話となると我を忘れて一人しゃべり続けるのは、他者からの印象が良くない。わかっちゃあいるけれど、この癖が抜けないのは中学時代にしろ、今にしろ、それを認めてくれる人が周りにいすぎるせいかもしれない。

「あーしはさ」と栞さん。「この物語、いくらなんでも都合が良すぎるとは思うんだよね。アントーニオは返せなくなる事態なんて想定していなかったからシャイロックから金を借りていたわけだし、それなのに不運なことに船は次々と難破してしまう。

 シャイロックにしてもそうじゃないか? 普通ビジネスに成功しているはずのアントーニオが借りた金を返せなくなるなんてことは考えにくいにもかかわらず、利息を取るでもなく人肉を要求している。それじゃあ悪口を言われながらに金を貸しても利息すらもらえなくなるのが普通じゃないのかな?」

「──ああ、なるほど。栞さんの言いたいことはわかりましたよ。つまり、シャイロックは初めからアントーニオが金を借りたら返せなくなることを知っていたんじゃないか、ということですね」

「そういうことだね。アントーニオの商船の乗員は金銭などを受け取って船が一時的に難破したように見せかけるよう指示されていたんじゃないかっていうことさ。物語の結末で難破していたと思われていた商船は何事もなかったように無事にアントーニオの財産を運んで港に帰ってくる。これはどう考えてもおかしいよね」

 ああ、確かにそうだ……。

 今日は大我の入部希望があったことだけを伝えてすぐに帰るつもりだったのだが、そのことが気になってしまい、部室の書架に置いてある『ヴェニスの商人』を手に取る。ふくつねありの訳書だ。あらすじ自体は何度も読んでいるので飛ばすように読み進んでいく。いつの間にか栞さんが僕の専用マグカップにインスタントのコーヒーをれておいてくれた。彼女にしては気が利きすぎているようだ。

 ざっくりと目を通していくつかのところが気になってきた。

 まず、ポーシャの小間使いであるネリサはバサーニオのことを以前から知っている様子だ。そして、バサーニオの求婚が成功した直後にバサーニオの友人グラシャーノーとネリサは結婚することを決め、さらにその直後にアントーニオの友人サレアリオー達がやってきてアントーニオの船がすべて座礁してその身に危険が迫っていると言うのだ。

 たしかに、いくらなんでもこの物語のタイミングというやつはご都合主義すぎている。こんなにも物語にとって都合の良いことが起きるというのならば、誰かが裏で暗躍しているのだと考えるほうが自然だろう。

 まず、犯人として考えたのはシャイロック自身だ。アントーニオが金を貸してほしいと言い出した時に、彼の財産を運んだ船が帰ってこられないようにするか、あるいは一時的に足止めして座礁したという情報さえ流せば憎きアントーニオの命を合法的に奪うことができると計画した。

 悪くない考えだが、シャイロックが金に卑しい人物であるとした場合、そんなことまでするのはカネの無駄だと思わないだろうか?

 初めからとんでもない延滞利息で金を貸す証文を書かせたほうが得なように感じる。

 次に容疑者として浮かび上がってくるのはポーシャだ。夫となったばかりのバサーニオの恩人アントーニオのピンチにさっそうと駆け付け、窮地から救い恩を売る。おまけにバサーニオには指輪を手放させ、妻に対し頭の上がらない状態にしてしまうという飼いならしぶり。資産も潤沢に持っており一連のたくらみを行うだけの予算も組めるだろうしそれ相応のメリットもある。

 しかし、問題はポーシャ自身、求婚に来たバサーニオとは初対面の様子だったということだ。あらかじめ十分な根回しの必要な計画においてバサーニオのことを知らなかったというのであれば話にならない。

 ──つまり。


「この事件を裏で操っていたのはポーシャの小間使いであるネリサだよ」

 僕は栞さんに宣言する。

 少し冷めかかったコーヒーを口に含み軽く潤す。

「ポーシャの性格をよく知っているであろうネリサは、知人であるバサーニオがきっと好みのタイプであることを理解していただろう。そしてもちろんバサーニオの好みについてもだ。おそらく初めからバサーニオの友人グラシャーノーとは恋仲で、彼もまたバサーニオがポーシャに求婚するように仕向けたりするなどの協力をしていたのかもしれない。

 予定通りにバサーニオとポーシャの結婚が決まるとネリサもまたグラシャーノーと結婚することを告げる。次の段階として、呼び寄せていたサレアリオー達にアントーニオがピンチだと告げさせ、バサーニオが急いでヴェニスに戻った直後、ネリサはポーシャに提案する。裁判官にふんそうして見事人肉裁判で勝利し、アントーニオとバサーニオに恩を売るという計画だ。

 もちろんこの計画はうまくいく。シャイロックもまたネリサの協力者に過ぎない。

 そしてポーシャと同じ方法でネリサも自身の夫グラシャーノーから指輪を奪い取り、夫に対しイニシアティブをとるという訳さ。そして一通りの事件が解決した後、アントーニオの船は何事もなかったように港に到着する」

「なるほど。確かにネリサがすべてを仕組んだというのなら様々なタイミングの良さには説明がつく。だけど小間使いのネリサにそれを仕込むだけの資金があったのかな? シャイロックが協力するにしても彼にとってデメリットしかないその計画に乗る理由がないのではないかな?」

「それに関してもある程度の説明がつきますよ。その計画に必要な資金は、バサーニオが結婚に成功してお金持ちになったのならその時に仲介したお礼として差し出すように言っていたのかもしれないし、シャイロック自らがその資金を準備したとも考えられる」

「シャイロック自身が? 彼は金銭にどん欲なユダヤ人という設定では?」

「物語全体を通してみればシャイロックがそれほど悪人でないということは十分理解できる。言っていることに筋は通っているし娘のジェシカのことも愛している。人肉裁判自体がネリサの計画したヤラセであるならばシャイロックはいたってまっとうな善人だ。

 しかし、彼はユダヤ教徒で娘のジェシカはキリスト教徒のロレンゾとの結婚を望んでいる。父親としてそれを祝福してやりたいとは思うが、ユダヤ教徒としてそれを認めてしまうにはメンツの問題がある。そこでネリサと共謀して人肉裁判を起こし、わざと負けることでキリスト教に改宗、財産も娘に譲渡しなければならないという判決を受けるのだ。

 これならばユダヤ教徒としてのメンツを守りながら娘の結婚をキリスト教徒として祝福し、財産を残すこともできる。自分の資産を使ってでもこの茶番を演じることに意味があるのではないだろうか……」

 どうだと言わんばかりに弁舌を終え、すっかり冷めたコーヒーを口に含みながらさすがにそれはないなと考える。かのシェイクスピアがまさかこんな茶番劇を描いていたはずがないだろう。

 そしてタイミングが良すぎることに、それこそご都合主義と言わんばかりのタイミングでこの漫画研究部に来訪者があった。

 ガラガラッと引き戸を開けて、見慣れない男子生徒が僕にいちべつを投げながら栞さんのほうへと歩いていく。

「あ、あの……葵さん……。いいかな?」

 いかにも気弱そうな男子生徒。ネクタイは赤なので三年生に間違いないだろう。

「ああなんだ、とべっちか」

 二年生である栞さんの〝とべっち〟という呼び名と三年生である男子生徒の〝葵さん〟という呼び名でパワーバランスが明白だ。

「あの……よかったら、これ……」

 とべっちと呼ばれた先輩から差し出された手にぶら下がっているのは、コンビニのビニール袋。中にはたくさんのおやつが入っている。

「おや、気が利くねえ」

 言いながら栞さんは袋を受け取り、机の隅にぽんと置く。

「で、今日はなんだい?」

 どうやら、大量のおやつは彼女に対する依頼料らしい。たかだかお菓子で依頼を受けてくれるのを良心的だととるのか、あるいは友人の頼みに報酬を受け取ることをあさましいと考えるかは人それぞれだろう。

「さ、捜してほしい人がいるんだ」

 とべっち先輩は、目をきょろきょろとさせながら、つぶやくように言った。

「捜してほしい? 行方不明かなにかかい?」

「い、いいいや、そ、そ、そうではなくて……」

「なんだいはっきりしないね。ちゃんと言いなよ」

「こ、こ、これを……」

 とべっち先輩が机の上に置いたのは一冊のライトノベル。表紙には現実世界ではありえない巨大なおっぱいを有した赤髪の美少女のイラストが描かれている。『あやかし学園の事件ちよう』というタイトルには聞き覚えがある。確か半年ほど前に某出版社の新人賞で佳作をとったのだった。さほど話題にもなっていないし、おそらくたいして売れてもいないが、記憶に残っているのには二つの理由がある。

 一つ目は、その出版社の新人賞には僕もいつかは挑戦してみたいと思っていた事。そしてもう一つは、その受賞者の年齢が十七歳と書かれていたことだ。僕が〝いつか〟〝そのうち〟と言っている賞におよそ同年代の高校生が投稿し、受賞したことに焦りを感じずにはいられなかった。読書好きを自負し、いつかは小説家になりたいと思っている僕はいまだかつて小説を一作、結末まで書ききったことは一度たりともない。

 しかし、僕はそのライトノベルのことが気になりつつもあえて話に興味が無いように取り繕い続けることにした。かばんから文庫本を取り出し読書をはじめ、自分はただここに居合わせているだけの他人だと主張する。


「これが?」と、栞さん。

「こ、この作者を捜してほしいんだ」

「この作者? 話が見えないね。まあ、そこに腰かけて、ゆっくり話を聞こうじゃないか」

「じ、実はこのライトノベルの作者、この学校の生徒じゃないかと思うんだ」

「この学校の生徒? 何か根拠はあるのかな?」

「こ、このラノベが発売されたのは先月の八月、今年の初めに新人賞を受賞した〝ひらさわかおり〟という作家が書いた作品で、巨乳の女子高生が学園に秘められた謎を解き明かす、ちょっとエッチなホラーミステリ小説なんです。で、この作品を読む限り、どうやら作中で舞台となっている学校、このげいぶんかんじゃないかと思うんです。学校だけじゃなく、周りの施設の名前とか、駅の名前とかも似ている名称が多くて、作者はおそらくこの学園の事情に詳しいものとみて間違いないんです。それに版元の丸川文庫の編集者のコメントでは〝平澤かおり〟は現役覆面美人女子高生と言っているんです。つまりはこの作者、うちの学校の生徒ってことになるんじゃないかと……」


 初めのうちはあれだけおどおどしていたとべっち先輩も好きなことを話し始めたせいか、いつの間にかりゆうちように、熱く語っていた。

「で、とべっちはその子を見つけてどうしたいんだ? 正体を黙っていてやるからなんかエッチなことをしてくれと要求するのかな?」

「そそそそそそんなことするわけないです。ただ……」

「ただ?」

「サ、サインをもらいたい。相手は覆面作家なんです。だからどこかでサイン会を開くこともないし、サインをもらうことなんて普通できやしないんです。ど、どうか力になってください……」

「えー、なんでもったいない。本当にサインだけでいいのかい? だってほら、美人覆面作家なんだよ。美人だよ美人。もう少しエッチな要求をするべきだと思うけどねえ。あーしとしては」

「そ、そんなとんでもないです。だ、だって彼女はきっと仕事も忙しいだろうし、願わくば彼女にとってできるだけ迷惑のかからないようにしておきたいんだ」

「ふーん、そうか……ま、とべっちがそう言うのなら仕方ないけどね。いやしっかし男っていうのは大概ロマンチストすぎて困るよね。男性向けのエロ漫画にしてもそう。大概肝心なところを美化しているんだよね。そのものをズバリ生々しく描くとグロテスクだなんて言って敬遠されちゃうんだよねー」

 ──と。そこで少しの沈黙が訪れる。栞さんが視線を僕の方へと向けているのは明白だ。しかしもちろん僕は面倒事には関わりあいたくないのでそれに気づかないふりをする。

「ねえ、たけぴーはどう思う?」

 急に話を振る栞さん。

「え? ──あ、すいません……」

 まるで今までの話を聞いていなかったかのように振る舞う。無論そんなことは無く、ガッツリ聞いてはいたがまるで興味が無いように文庫本に視線を向け、あたかも読書をしているふうにページまでめくっていた。当然読んではいない。しかし栞さんはそんな小細工が通用する相手ではない。

「えっと……どう思うか、でしたっけ?」

 軽くため息をつき、少し面倒くさそうに言ってみる。

「なんで、覆面作家なのに美人ってわかるんでしょうか?」

 生意気なくつをこねるのが僕の得意分野だ。無論、そんなだから恋人なんていない。

「まあ、美人っていうのは個人の主観によるものだからね。ほら、そこいらで見かけるブサイクカップルだって、彼らの主観では相手が美人に見えているのかもしれないよ」

「でも、そういう人に好きなタイプを芸能人で例えてもらうと、まあ決まって美男美女の名前が出てくるもんですけどね」

 栞さんの性格が悪いのはそうだが、おそらく僕も負けてはいない。

「まあ、この手の問題はあーしなんかよりきっとたけぴーの方が専門分野だろうからよろしく頼むよ」

「よろしくたのむ?」

 栞さんのそのひとことで、とべっち先輩は僕の方へと向き直る。机の上のライトノベルをスーッと僕の方へと押しやった。表紙には現実世界ではありえないくらいの巨乳の女子高生がかなりきわどいポーズで描かれている。最近のライトノベルの表紙は内容に関わりなくこうしたエロティックなイラストが多い。その方が売れるのだと言われると仕方がないようにも思えるが、いかんせん本屋でレジに持って行くのに抵抗を感じることもある。「いや、中身は決してそんな内容ではなく……」などと説明するのも甚だおかしい話ではあるし、事実読書をしない人の中にはライトノベルをエロ本のたぐいだと思っている人も少なくはない。

 さて、話を戻そう。ともかく結局こうやって、今回もまた面倒事を押し付けられるのだ。

 しかしまあ、僕自身も決してそれが嫌なわけでは無い。読書好きの僕からしても、このライトノベルの舞台が今自分の通っている学校で、その作者がこの学校にいるのだと聞かされて興味がわかないわけがない。

 僕はそれを手に取り、ぱらぱらとめくる。冒頭の書き出しを少しだけ読むかぎりでは、桜並木の長い坂道を登り、高校生活をスタートさせている。途中に花の咲かない桜の木が一本だけある。僕の記憶とは符合するし、学校の名前も明らかに似ている。

「──で、その作者の正体に心当たりはあるんですか?」

「ないということもないんです。ただ……これといった根拠もないんで……」

「わかりました。僕なんかでお役に立てるかどうかはわかりませんが、とりあえずやってみます」

 なんて言いながら、実は内心たかぶっていた。なんかこういうの、依頼を受ける名探偵みたいでいい。もしかすると栞さんは今日、とべっち先輩が来ることを予見したうえで僕にヴェニスの商人の話を振り足止めをしたんじゃないかとさえ勘ぐってしまう。栞さんはそういうことが平気でできる策略深い人間であることに最近気づきつつある。

 僕はライトノベルをとべっち先輩に返し、席を立った。

「じゃあ、僕は早速調査に出かけます」と探偵気取りで部室を後にした僕がまず向かったのは駅前の本屋だ。まずは参考資料としてそのライトノベルを購入する。おそらくとべっち先輩は先程参考資料として『あやかし学園の事件手帖』を差し出したのだろうが、あえて僕はそれを返した。それというのも自分の通う学園が舞台になっているかもしれない、同じ学校の生徒が書いたのかもしれない本を自分自身の手元に置いておかないという法はない。まずはちゃんと自分用のものを用意しておきたかったからだ。


 学校の最寄駅、ひがし西さいだい駅の南口というもはや方角のよくわからない場所のロータリーを挟んだ向かいにひっそりとたたずむ書店がある。店舗自体は某有名チェーン店の一支店でしかないが、元々本なんてどこの店で買っても同じものだ。ただし、その売り方は店舗によってまるで違う。いや、店舗というよりはその本屋で働いているスタッフ一人一人のやり方によってまるで違うと言っていい。ポップの書き方や本の配置の仕方は千差万別だ。どうも個人的にはネットの書店でカートに入れて配達を待つというのは味気なくて好きになれない。しかし昨今、どんどんと書店の数が減ってこういったポップが少なくなっていくのは残念でならない。特に、駅前にある書店では時間つぶしに立ち寄って思いがけない本との出会いがあったりするというのに。

 さて、話がそれてしまったので戻すことにしよう。


 駅前の書店は小さいながらにわりと繁盛している。田舎の電車の本数は一時間に一、二本程度しかなく時間をつぶすのにちょうどいいというのもあるが、近くに学校がいくつかあるというのもその理由の一つだろう。

 通いなれた書店の通路を、僕はまっすぐにライトノベルのコーナーへと向かう。普段ならあちこち物色してまわるところだが、そんなことをしているうちに時間を思いのほかかけてしまうので自制のためでもある。

 ライトノベルのコーナーに行き、目的の『あやかし学園の事件手帖』は簡単に見つかった。それほどヒットしているわけでもないその作品が現在アニメ放送されている作品群と並んで平積みされているのは、ひとえに書店員の努力のたまものだろう。

『地元作家のデビュー作』と書かれたポップには東西大寺駅周辺が物語の舞台になっていることが書かれている。都心部に住んでいる人ならばそんなことは慣れっこなのかもしれないが、田舎ではめったにありえないその宣伝文句の効果は絶大だ。

 さらには『レジカウンターにてサイン本販売中』とある。

 ──いや、ちょっと待て。だとしたら、そのサイン本を買えば今回の依頼は達成ということになるのではないだろうか。あるいはこの書店の書店員は作者と面識があるということではないだろうか。

〝事実は小説より奇なり〟という言葉もあるが、果たしてその言葉は好意的でない方向へと導くことだってある。せっかくの探偵ごっこに胸躍らせていたというのに、いとも簡単に、しかもとてもつまらない形で答えにたどり着いてしまう。もしこれが小説の中の出来事ならば、ちゃんとした道筋を立てて推理をした結果、大どんでん返し的に犯人にたどり着くというものだ。

 だから僕は、あえてサイン本も買わないし、書店員に平澤かおりなる作家の正体も聞かないことにする。

 だってそうだろう。それは推理小説を買って冒頭を読んだ後、中間をすっ飛ばしていきなり結末を読んで犯人を知るのと同じ行為だ。そんなことをやるやつなんてまずいないだろう。

 というわけで平積みされている文庫の上から二番目を手に取る。その瞬間、ふと嫌な視線を感じた。少し離れた棚のところに同じ高校の制服姿の女子生徒がいる。僕が手に取った『あやかし学園の事件ちよう』の表紙イラストはあまりにも性的すぎてパッと見エロ本にしか見えない。

 しまったと思い、ついそっちを見る。

 その女子生徒はまるで見てはいけないものを見てしまったかのように手に持っていたハードカバーの本で顔を覆い隠した。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

 僕は、ライ麦畑ならず、本の畑の中。一番見られたくない瞬間を一番見られたくない人物に見つかってしまった。

 ネクタイの色は僕と同じ青色、一年生だ。スカート丈は短くまっしろな脚がむき出しで少しビッチっぽい。顔を隠しているものの染髪されたストレートのきれいな髪のせいでその人物が誰であるかを推理する必要はない。ぶら下げているかばんについている鼻ひげを生やした猫『わがはいなつせんせい』のキーホルダーはレアな商品で、持っている人はそうそういるものではない。

 僕は彼女の方へと歩み寄る。

 合わせて、彼女はハードカバーで顔を隠したまま一歩、二歩後ずさりする。

「笹葉さん?」

 ──笹葉更紗。クラス一の美少女。入学当初の憧れの人。親友の元恋人。今日、学校をサボタージュした人。

 おそらく今日、学校へ来ようとはしたものの別れてしまった恋人黒崎大我とどう顔を合わせればいいのかに戸惑い、いまだもってこんなところでうじうじと時間をつぶしていたのだろう。実は今日一日彼女のことが気になっていたものの何の手掛かりもない僕が、ここで彼女とばったり会うなんていうのはこの上ないぎようこうである。

「学校をさぼってこんなところで何をしているのかな?」

 観念してハードカバーの本をずらすと、相変わらず美しい彼女の顔が少しだけしおらしさを含んでそこに現れた。本来どちらかと言えばM気質の僕ではあるが、そんな彼女の姿を見るとすこしだけSな気持ちが理解できそうになる。

「やっぱり、大我のこと気にしてる?」

「えっと、あ……」

 言葉に詰まり、こくりと小さくうなずく。

「笹葉さんが気にすることじゃないよ」

「で、でも……」

「でないと、おれも困るから。いろいろと……」

 笹葉さんは小さくため息をひとつつき、「そうよね」とだけつぶやいた。

 下へと落とした彼女の視線は、僕の手元でとまった。

「あ、それ……」

 笹葉さんの言葉に、僕は手に持ったままのライトノベルに気が付いた。知らない人からすれば、ただのエロ本にしか見えない表紙のライトノベル。

「あ、いや、違うんだ。これは……その、ちょっと頼まれごとを……」

 しどろもどろで言い訳をしようとする僕の横で、笹葉さんはひとりつぶやいた。

「その作者って、三年のふくさんなんでしょ。福間おりさん」

 ──と。

 さらりと聞きたくないことを聞いてしまった。

 もちろん笹葉さんに悪気があったわけでは無いだろうけれど、僕は推理小説の犯人の名を読む前からさらされることになってしまった。さらに笹葉さんの追い打ち。

「すぐそこの、喫茶店『ダディ』の娘」

 もう今更、探偵ごっこなんて意味はなくなった。さっさと依頼を完了させるのがより良い選択肢だろう。

「そ、そうなんだよ……。ちょっと人から頼まれてさ……。今からこの本をあそこの喫茶店に持って行って、それでサインを書いてもらおうとしていたんだよ……。ある先輩からの頼みで……」

「ふーん。そうなんだ」

 笹葉さんの目は少し冷たい。

 たぶん。『ひとから頼まれて』という部分を疑っているのだろう。そう思われるのは少しばかり恥ずかしい。だから、とつにあることを思いついた。サインを書いてもらう時、わざわざ『とべっちへ』と書き入れてもらうのだ。とべっち先輩を売ることにはなるが、はじめから口止めされていたわけじゃない。

「今からサインをもらいに行くつもりなんだけど、笹葉さんもよかったら一緒に……」

「え?」

「あ、ほら。喫茶店にサインもらいに行って何にも注文しないというのも悪いし、ひとりで行ってひとりで食べるのもなんだし……さ……」

「え、あ、うん……べ、べつに……そういうことなら……かまわないけれど……」


 喫茶店ダディはその書店のすぐ隣にあった。外観はいかにもノスタルジック。白い外壁の二階建ての建物で、おそらく二階部分は店主の住居となっていると思われる。しょっちゅうこの店の前を通っていたのに、今までここに喫茶店ダディがあったことに気が付かなかったのは、僕がいかに周りを見ていなかったかという証拠だ。

 店内は外観からのイメージとはうって変わり、アンティークを思わせるカントリー調。クラブサンドとコーラが似合いそうな内装だった。店内はそれほど広くはない。カウンター席と、ボックス席が三つあるくらい。流れているサイモン&ガーファンクルの曲は決してカントリー調とは言い難いが『コンドルは飛んで行く』というタイトルだけならカントリー風と言えなくもない。

 昼下がりということもあり、地元民であろうマダム達が空になったコーヒーカップをそのままにおしゃべりに夢中になっている。

 店の従業員は五十代くらいの中年の男性がひとりカウンターの中に立っている。カウボーイを意識しているのかと聞きたくなるような立派なはなひげを生やしているが、顔はいたって平均的な日本人顔で、服装も白いコック服にモスグリーンのエプロン姿。まかり間違ってもカウボーイらしさは出ていない。

 空いているテーブル席に笹葉さんと向かい合わせに座り、メニューを開く。

 ドリンクメニュー以外クラブサンドしか見当たらない。そのかわりクラブサンドにはいくつかの種類があった。笹葉さんはたまごのクラブサンドとコーラ、僕はハムカツとフライのクラブサンドとホットコーヒーに決め、マスターを呼ぼうと見上げると、いつの間にかマスターの姿は店内に見当たらなくなっていた。しばらくたっても誰もいないままだったので、やや控えめな声で「すいませーん」と呼んでみた。

「はーい」奥の方から若い女性の声が響いてきた。安心して待っていると、奥の方からエプロンを掛けながら、サンダルをカラカラと鳴らしてひとりの少女が出てきた。

 身長は随分小柄で140センチあるかないか、ゆるくウェーブした黒髪を後ろで一本にくくった格好だった。色は白く、たれ目で童顔。まるでチワワを連想させる彼女は一見中学一年生くらいに見えるが、モスグリーンのエプロンからのぞくその白いシャツとスカートは明らかに僕たちの通う芸文館高校の制服で、ネクタイは赤色。すなわち彼女は高校三年生で僕たちよりも二歳年上だということだ。

 状況から考えて、彼女がこの喫茶店ダディの娘。ライトノベル作家『平澤かおり』の正体、福間香織ということで間違いないだろう。

 さすがに僕も、出会いがしら一発目でサインをくれだなんてしつけなことは言わない。クラブサンドとドリンクを注文すると、福間香織はスタスタとカウンター越しのキッチンに入って行き手際よく料理を作り始めた。

 笹葉さんの話によると、福間先輩は調理科の生徒らしい。僕の通う芸文館は正直それ程偏差値の高い学校ではない。僕のいる名前だけの特進コースの他は栞さんたちの美術科クラスや音楽科クラス。それに福間先輩のいる、プロの調理師を目指す調理科クラスがある。福間先輩は将来的にこの店を継ぐつもりがあるのかもしれない。中年オヤジのマスターの代わりに料理をする手さばきはいわゆる〝お手伝い〟のレベルではなく、しっかりとしたプロの風格がある。

 出来上がったクラブサンドのボリュームは並ではなかった。具の量がハンパではない。具をトーストしたパンで挟むのがサンドイッチだと思っていたが、むしろこれは大量の具の両脇にパンが添えられているという感じだ。僕はあふれんばかりのたっぷりの具がこんがりとトーストされたパンの間からはみ出てしまうのを押さえ込みながら豪快にかじりつく。笹葉さんはさすがのボリュームに音をあげてとうとうクラブサンドを小分けにして食べるしかなかった。

 人は、食事をしている時に一番無防備になるものだ。だから、女性をデートに誘う時は食事をメインにするのがいい。それを応用し、笹葉さんと食事をしながら互いに好きな本の話をしたりして、大我と別れてしまったことでぎくしゃくしていた空気もいくらか和み、少しだけ訪れた沈黙の後にさりげなく、

「やっぱり、大我のことが許せない?」

 と、少し不躾な質問を投げかけてみた。このわずかな沈黙を、彼女がそのことに触れてほしくて作り出した沈黙に感じたからだ。

「黒崎君は悪くないわ。やっぱりたけひさは少し勘違いをしているみたい。ウチがひとりで勝手に毒虫になってしまっただけ」

 まるで用意していたかのようなそんな言葉をつぶやいた。

「毒虫? カフカの変身?」

 ──ある朝グレゴール・ザムザが目を覚ますと毒虫になっていた。という書き出しはとても有名。チェコの文豪フランツ・カフカの名著だ。

「ある朝、笹葉更紗が目を覚ますと毒虫になっていた──」僕は一言そうつぶやいてから「ところでさ、笹葉さん。笹葉さんはあのカフカの『変身』を読んで、どんな感想を持った?」と質問してみる。外見こそ派手なわりにあまり社交的でもなく周りに敬遠されがちな印象を与える彼女だが、実はものすごくまじめで心の純粋な文学乙女だ。本の話をしているときが一番元気で言いたいことをはっきりと言う。

「え? そ、そうね……。ウチはあの話を読み始めたとき、あまりに突拍子のない書き出しに、実際に虫になったわけではないと思ったの。毒虫とは比喩表現的な意味合いで、引きこもりと言うか、鬱病的な意味だと思ったの。これはあとで知ったことなのだけれど、カフカの書いた原文では Ungezieferウンゲツイーフアー となっていて、汚れてしまったもの、役に立たなくなってしまったものという意味を含む言葉で、必ずしも虫になったとは言い切れないらしいのね。

 物語の冒頭、家族の生活をひとりで支えなければならない存在である自分が仕事に行こうと起き上がろうとするもうまく立ち上がれなくてそのまま仕事を休み、部屋に引きこもっているうちにだんだんとその生活を快適に感じるようになっていく。

 一方で家計を支える働き手であるザムザがひきこもることで、ほかの家族は仕事をはじめ活力的になっていく。『変身』という言葉はザムザだけではなくその周りの登場人物にもかかる言葉なんじゃないかなって思う。

 最後にザムザは死んでしまって、残された家族は幸せそうになるのよ。

 ウチはひとり毒虫みたいになってゆくけれど、竹久たちはウチを残してどんどんと大人に成長する……ほら、ザムザとさらさ。なんか似ているでしょ」

「……え? 今、もしかして笑うところだった?」

「そ、そういうわけじゃなくて」

「まあ、仮名で三文字の回文になる人物名ということならザムザもカフカもサラサも共通だ」

「それにトマト」

「トマトは人の名前じゃないだろ」

「そんなことはないわ。『ティファニーで朝食を』の中にサリー・トマトという人物が出てくるわ」

「うーん、覚えてないなあ。あの話好きなんだけどなあ」

「あとは『あしながおじさん』に出てくるジョン・スミス」

「僕の中ではジョン・スミスはあしながおじさんではないんだよなあ。その話の中ではジョン・スミスはタイムリーパーで、タイムリーパーと言えばジョン・タイタ。タイタもやっぱり三文字で回文になっている。これらすべての共通点と言えば……みんな魅力的だということくらいかな? 何も笹葉さんが毒虫であると結びつけるような理由にはならない。それにしてもやっぱり笹葉さんは生粋の文学乙女だね。ザムザが鬱病の引きこもりのことだったとは僕も考えていなかったな」

「間違いだったけれどね。ちゃんと読んでいけば本当に『虫』に変わっているわけだし」

「いや、案外カフカはそういう意味も込めて書いているのかもしれないよ。それでさ、僕がカフカの変身を読んで思ったことなんだけど……。

 笹葉さんはさっきザムザが死んだって言っていたけど、僕が読む限りザムザが死んだなんて一言も書かれていないんだよね」

「え?」

「……うーん翻訳の仕方によるのかもしれないけれど、僕の読んだ限りでは黒く、硬くなって動かなくなった……。という文章だった」

「で、でもそれって結局は……」

「ねえ、笹葉さん」

「……」

「〝毒虫〟って言われてどんな虫を想像する?」

「そうね。硬い殻に覆われているカブトムシのような生き物かしら。ウチの読んだ本の表紙にはそんなイラストが描かれていたし」

「だよね。多分本当はそれが正解なんだと思う。だけど僕は初め『毒虫』という言葉を聞いて思い浮かべたのは毛虫だったんだ。だから頭の中ではずっと毛虫のような、芋虫のような生き物を想像していた。翻訳ではちゃんと『かぶとむし』と訳しているものもあるけれど、僕が読んだ本は毒虫としか書いていなかったので最後まで毛虫だと思って読み進めたんだ。そうすると物語の最後、黒く、硬くなり、動かなくなってしまうのは死んだからじゃあない」

「──あ」

「そうだよ、サナギだよ。『ささば』と『さなぎ』って似ているだろ」

「いや、それは似てないと思うのだけれど……もしかして、笑うところだったのかしら?」

「そうしていただけると助かるんだけど……いや、無理にとは言わないよ。余計に傷つくことになりそうだから……

 まあともかくさ。小さいことは気にしないで、とげとげしい毒虫が自分の殻にこもって固くその身をサナギの中に閉じ込めたら、あとはもう少し……もう少し頑張ればちようになるんじゃないかな。

 変身の物語がザムザの死で終わるというのはあまりにもいたたまれない。もし、あの話に続きがあって、それを自由に想像していいという事になったら、やがて立派な蝶に変身して大空に旅立っていくって結末はどうだろうか。つまり、笹葉さんもサナギになってそのあとは、蝶となって羽ばたくことができるんじゃないかな」

「ウチなんかが蝶に? なれるかしら?」

「蝶になって飛ぶか、飛ばないか。それが問題だね」

「相変わらず、竹久はバカみたいにロマンチックなことを時々言うのね」

 笹葉さんはその時、今日初めて小さくクスリと笑った。

 たぶん夏の一件以来彼女は夏休みという時間の中であまり人と触れ合うことなく一人ネガティブな感情をためこみ続けてしまっていたんだろう。凝り固まってしまった思考が彼女の学校へ行く勇気を鈍らせてしまった。今から思えば夏休みの間、僕は笹葉さんのことをもっと気にかけて連絡を取り続けるべきだったのだ。

 今日こうして馬鹿な話をすることで笹葉さんの感情が前向きなものへと変わってくれるならありがたいと思う。つらいから落ち込むのではなく落ち込んでいるからつらくなる。笑ってさえいればそれだけで楽しくなってくるのだということを僕も最近学んだばかりだ。


 さて、一通りおなかも満たされたのでレジに立つ。僕から笹葉さんを無理やりに誘ったということもあり、二人分の支払いをする。もちろん笹葉さんは遠慮しようとはするが、そこは僕が男気を出して断る。

 レジの前に立ち正面から向きあうと福間先輩は本当に小さい。仕事だというのもあるのだろうけれど、年下である僕たちにてんしんらんまんな笑顔で対応してくれるその姿にいくばくかの胸の高鳴りを感じずにはいられない。

「あの……」

 言いながら、先程書店で買ったばかりのライトノベルをかばんから取り出す。

 僕が差し出すまでもなく、そのライトノベルのタイトルを確認した彼女は、少し困った顔になった。

「ごめんなさい……その作者、わたしじゃないです。よく、勘違いされるみたいで……」

 僕が何も言わなくても、彼女はサインをせがまれることを理解していた。きっと、こんなことは初めてではないのだろう。少し、迷惑しているのかもしれない。

 無論、福間先輩の言う『わたしじゃない』はうそかもしれない。しかし、彼女がそう言う以上僕にその先へ踏み込む権利はない。少なくとも僕は彼女からサインをもらうことはできず、一見簡単そうなミッションはそう簡単には終わらない。

 サインを嫌がる彼女からサインをもらうという行為は、もはや探偵の仕事ではなく、詐欺師か女たらしの仕事だろう。

 僕には身近に最強の『女たらし』なる人物がいるが、まさかそいつがその仕事を受けてくれるとは到底思えない。

「ねえ、あなた笹葉さんでしょ?」不意に福間先輩に声を掛けられて笹葉さんは少し戸惑った。「瀬奈が探してたわよ。黒崎君だっけ? あのすごくかっこいい人と一緒に。あなた恋人なんでしょ?」

 そういえば瀬奈は福間先輩と同じ調理科だ。今日瀬奈が部室に来なかったのは学校に来なかった笹葉さんのことを心配して探していたのかもしれない。それに大我まで一緒になって探していたとは……。後でちゃんと連絡をしておかないといけない。

「すいません。ご迷惑をおかけしてしまって」

「うんうん。それはいいんだけど、大丈夫なの? 彼氏が必死に探している中別の男とデートなんかして? まあ、このことは秘密にしておいてあげるけど」

 デートをしている別の男というのはもしかして僕のことだろうか? それにしても校内のどこにいても人の目を引くような笹葉さんと大我の交際については周知の事実らしい。今ここでもう別れただとか言い出すのも煩わしいので、その場は黙って立ち去った。


 喫茶店を出て、目と鼻の先にある駅へと向かう。間もなく笹葉さんの乗る電車がやってくる頃だ。

「瀬奈や黒崎君にも謝っておかないといけないわね。みんなに心配かけてしまったみたいで……」

「まあ、心配はかけるものではなくて各々が勝手にするものだけどね。それでも一応謝っておいたほうがいいかな。大我にはおれから言っておくよ」

「ううん、それはダメ。ちゃんと自分の口で伝えておくわ」

「そうか……それならもう、大丈夫そうだね」

 二人の乗る電車は互いに逆方向。笹葉さんは陸橋を渡って駅のホームの向かい側に立った。遠くから、笹葉さんの乗る電車がってやってくる姿が見える。田舎の駅に僕たち以外は誰もいなかった。

 線路を挟んだ向かいのホームで笹葉さんが聞いてきた。

 少し上ずる声で、それでも少し離れた相手にちゃんと聞こえるであろうはっきりとした声で……

「竹久は……。瀬奈のことが好きなの?」

「……」

「……」

 電車が迫ってくる。

「それ……答えなきゃダメかな?」

「別にいいわよ。ほとんど答えているようなものだから……」

 直後に二人の間に電車が割込み、互いにどんな顔をしていたのかは見えなくなってしまった。それでいいと思う。


 家に帰り夕食を済ませ(その日の夕食はボリュームがたっぷりのハンバーグだった。しかし、思春期の男の子というものはいくらでも食べられる)自室にこもり、買って帰ったライトノベルを開いた。

 その日のうちに読み終わり、なるほどこの作者が芸文館の生徒だということの確信が持てる。校内の様子は一部、現実と違うところがある。ラノベの中に描かれている校舎は三棟、でも実際は四棟ある。それにこの学校には美術科だとか調理科だとか変わった科があるが、看護科なんてものはない。しかしそれ以外に関して言えばおおよその部分で一致する。物語のつじつまに合わせてそのくらい変えるのは普通のことだろうし、少なくとも部外者が想像で書いてここまで一致するとは考えにくい。

 ストーリー自体はおんみようの血を受け継ぐ赤毛の美少女が学園内で次々と起こる怪奇現象を追い、最後は学園内に渦巻く過去の因縁に根差した悪霊たちにバトルで勝利するという筋書きだ。いたるところにお色気シーンがちりばめられている。特に看護科で看護師を目指すドジッコ女子高生が、主人公の女の子に付き合ってもらって包帯巻きと注射器の練習をするシーンは、文章を読んでいる限り、まるで二人がレズビアン的性行為を行っていると勘違いしてしまいそうな描写だ。

 なるほどこれを現役女子高生が書いたというのであれば、その素性を隠したいというのもわからないでもない。

 だけどどこか……何かがに落ちない。そんな感じがする。どうしてこの物語には……


 翌朝教室に到着し、いつもの通りに後ろの入り口から入るとすぐのところに笹葉さんの席があり、元来まじめな性格の彼女は既に席に座っていた。

 僕はあえて少しテンションを高めに「おっはよー」と挨拶する。一瞬笑顔になった笹葉さんだが、すぐ後ろから入ってくる大我の姿に気づき、少し気まずそうな表情で控えめに「おはよう」と返す。続いてそれに応えるかのように大我も控えめな挨拶。

 そう簡単に元の通りの友達関係に戻れるとは思っていないが、たとえ仮初の仮面をつけたままでもいい。なるべく元の友達同士のふりくらいはしておいてほしい。でないと、こっちにとっても都合の悪くなることだってある。


 午前の授業が終わり昼休み。以前ならば大我と笹葉さんの三人で学食に向かうところだ。しかし大我は「わりい。今日はメシ買ってきたんだ。食堂へはお前たちだけで行ってきてくれ」と言った。

 確かに恋人同士でなくなった二人が一緒に昼食をとるというのも気まずいもの。だから大我は逃げ道を作ったのだろう。そしてそれは笹葉さんにしても同じことだ。振り返ると笹葉さんの姿はどこにもない。僕たちから食堂に誘われることを避けるためだろう。

 本当のことを言えば僕はわざわざ食堂に行く必要はない。毎朝わざわざ母親がちゃんと弁当を作って持たせてくれているのだ。だけど僕は友達付き合いを優先するため昼休みには食堂で皆と一緒に食事をし、弁当は放課後に部室で食べていた。

 だけど今までそれを黙っていたことをここで発表するのも気まずく、僕は一人教室を後にした。

 弁当の入ったカバンを持って僕が向かったのは食堂ではなく旧校舎の漫画研究部の部室だ。放課後に食べていた弁当を昼休みに食べればいいだけのことだ。

 しかし、そこには先客がいた。女の子らしいかわいらしさをアピールしたお弁当ではなく茶色の多い実用的なお弁当を広げて、ボッチめしを食べているのは部長の栞さんだ。

「あれ、なんで栞さんこんなとこにいるんですか」

「昼ご飯は昼休みに食べるべきだと言ったのは君じゃなかったっけ?」

「言ったかもしれませんが、大切なのは友達と食べたほうがいいというところです」

「それをたけぴーが言うのかい? 君だってここで一人ボッチめしをしようと来たんだろ?」

「まあ、いろいろとあるんですよ。僕にも」

「めんどくさいねえ、友達なんてやつは」

 栞さんの向かいに座りお弁当を広げる。もし誰かがこんな姿を見たら仲良くあいきでもしているように見えるのだろう。

「まあ、これはこれでアリですかね。しばらくはこういう状態が続きそうなのでよろしくお願いします」

「まあ、かわいい後輩がそう言うのなら昼飯くらいは付き合ってあげてもいい」

 そして栞さんは箸でつまみ上げた少し大きめのウインナーを持ち上げ、舌先でそれをめ上げながらに上目遣いで言う。

「ねえ、たけぴー。このウインナー。パッケージに〝おとなむけのウインナー〟って書いてあったんだよ。〝おとなむけ〟ってなかなかにわいな言葉だよね」

「はい。おめでとうございます」

 軽くあしらうも栞さんは箸でつまんだウインナーを僕の目の前に差し出し「はい、あーん」と言ってくる。

「もしかして栞さん。そういうのが好みなんですか?」

「あーしも愛に飢えているからね。このくらい付き合ってよ」

 少しやさぐれて言う姿にいくばくかの同情を感じ、誰も見ていないことだしこれくらいはいいかと口を開く。放り込まれたおとなむけなるウインナーはくんせいが強めでスパイシーだった。口の中でかみ砕きながら先ほど栞さんがこのウインナーを舐め上げていたことを思い出したが、大人である僕はそんなことでいちいち騒ぎ立てたりはしなかった。


 午後のホームルーム。九月末に行われる学園祭の実行委員に笹葉さんは自ら立候補した。

 本来ならば誰もやりたがらない仕事だ。これから先一か月近くもの間放課後残ってつまらない会議とやらをくりかえすのだ。まさかたった一度しかないという貴重な青春時代の放課後をそんなことに費やしたいと思うやつなんて普通はまずいない。しかし、彼女にとってその仕事は、放課後に恋人と一緒に過ごさなくなってもてあますであろう時間の埋め合わせとして、ちょうど都合がよかったのだろう。

 部活動をしていない大我はひとり帰路につき、僕は放課後の部室へ足を運ぶ。


 どうすれば福間先輩からサインがもらえるのか栞さんに相談したいというのもあったのだが、あいにく彼女は僕の報告にもまったく興味を示さない様子で漫画のネームを描いている。どうにも相談を持ち掛けにくい。

 仕方なしに椅子に座り、持っていた文庫本を取り出して読書に励む。

 数分もしないうち、静かな部室に「ちゃーおー」と元気な声が響く。

 くりいろのストレートヘアをなびかせながら健康的に日焼けした肌で、はくいろの光彩を放つ両目をきつねのように細めてVの字を形作っている。どこか『ししっ!』っと笑いながら言っているようでもある。

 むなかた瀬奈。

 暇な時によくこの部室に遊びにやってくる栞さんの親しい友人であり、笹葉さんの親友でもある。そして、僕と笹葉さんとの友好関係に溝が出来てしまうと少々僕にとっても都合が悪くなる理由でもある。

「ねえ、デートしようよ」

 開口一番、美少女からのデートの誘い。本来ならばうれしくないわけがないと言ったところだが、あいにく僕だってそれほどバカではない。これはきっと何かのわながあるに違いないととつに判断するには十分すぎるほどに、これまでの僕の人生は女性からモテてなどいない。

「いや、ちょっと忙しいので……」

 まるで興味が無いように本に視線を落とす。

「そんなことあるわけないでしょ!」

 そう言って僕の文庫本を取り上げ、まだしおりも挟んでいないのにぱたんと本を閉じる。

「あっ」

 思わず声を出してしまう僕を瀬奈はジト目で見下しながら冷淡に言う。

「へえー、そうなんだ。ふーちん先輩から聞いたよー。昨日サラサとはデートしておきながら、アタシとデートするのは嫌なんだ。へー」

 ふーちん先輩というのはおそらく喫茶店ダディの娘の福間先輩のことだろう。瀬奈と福間先輩は同じ調理科の生徒だ。

「あ、いや、あれはさ、そういう話じゃなくて……」

「しかも、ユウのオゴリだったんだって? へー」

 ──そういうことか。ようやく話が見えた。

 昨日僕が笹葉さんにサンドイッチをおごったという話を聞いた瀬奈は、自分にもおごれとせがんでいるのだ。しかも彼女は厄介なことに、その小さな体で普通の人の三倍は食べる。懐事情の乏しい僕からすればそれはあまりにもむごたらしい出来事だ。

 しかし、ものは考えようである。世の中には女子高生とお話をするだけで高いお金を取るというサービスだってあるのだ。それに比べれば比類なき程の美少女とお話ししながら食事ができるのに、たかだかサンドイッチ代をケチるというのはまさに愚の骨頂である。

 僕は美少女とのデートを快諾することにした。普段なら昼休みに昼食をとって放課後の時間は弁当を食べていたというのに、今日はもうその弁当は胃の中だ。育ち盛りの僕は少し小腹が減ってきたと言っても過言ではなかった。

 しかしそういえば福間先輩は笹葉さんと一緒にいたことを黙っていてくれると言っていなかっただろうか? いや、言ってないはずだ。きっと僕の勘違いだろう。


「ふーちん先輩、ちゃお!」

「ちゃ……ちゃお」

 喫茶店ダディで店番をしている福間先輩は瀬奈の呼びかけにぎこちなく応えた。

 カウンター席の隅に座りサンドイッチを注文する。福間先輩は注文を聞き終わると僕の耳元でそっとささやく。

「二日連続で別々の、しかもとびきり美少女とデートとは、君もなかなか隅に置けないね」

「あ、いや、これは……」

 言いかけて、やめておく。こういう時に言い訳をしても大概悪い方へと流れるものだ。

「パパー」という福間先輩の呼び声で奥から再び顔を出したマスターは、ぶすっとした表情でサンドイッチを手際よく作ってくれた。

 ボリュームのすごさは相変わらずだ。昨日読んだライトノベルにもおそらくこのお店がモデルであろうサンドイッチ屋が登場する。たしかにボリュームがあるとは書かれていたものの、実際はその表現以上。男勝りなヒロインキャラが大口を開けてクラブサンドに食らいつくシーンが印象的ではあったものの、いくらなんでもこんなサイズのサンドイッチにそのまま食らいつくヒロインなんてありえないだろうとツッコみたくなるが……

 隣でガリッ! と食らいつく音! まさか本当にこのサイズに丸ごと食らいつくヒロインなんてものが実在するとは思わなかった。

 瀬奈は目の前に鎮座した巨大なフランス産ベーコンとレタスのクラブサンドを両手でつかみ、見事な大口で食らいついていた。瀬奈ははっきり言って小柄。福間先輩を目の前にすると大きくも見えるが、彼女はたかだが150センチあるかどうかという小柄な体格。そんな彼女が大口でクラブサンドに食らいつく様は『星の王子様』で大蛇のボアが象をまるみにする姿を思い出させた。

 僕は負けじと自分のクラブサンドに食らいついた……しかしそれを全て食べきることができなかった。まだ昼食を終えて間もない時間だからだと言い訳する僕の横から伸びてきた、瀬奈の小さな手。

「ねえ、ユウ。食べないんならそれももらってもいい?」

 ──まったく。とんでもないヒロインだ。


「さて、おなかも満たされたことだし、そろそろはじめよっか」

 指先にこぼれおちたタルタルソースを舐めながら瀬奈が言う。

「始めるって、なにを?」

「撮影よ。さ・つ・え・い。今日ね、ふーちん先輩がね、お店のパンフレットを作るからアタシにモデルになってくれないかって言ってきたの。ほら、アタシってかわいいじゃない? だから是非パンフレットに載せる写真のモデルになってほしいって」

「え、じゃあ、今日ここに来たのって?」

「サンドイッチ二人前で引き受けたのよ」

 目を狐のように細めながらピースサインで答える。あるいはサンドイッチ〝二人前〟の意味かもしれない。

 つまり、はじめからデートなんかでもなく、僕にサンドイッチをおごれなんていう意味でも何でもなかった。むしろ、僕はサンドイッチをおごられた方だ。いや、おごってくれたのは福間先輩か?

 お店のパンフレットに使う写真の撮影はとても簡単なものだった。〝モデル〟とは言っても撮影に反射板や照明を使うでもなく、カメラも先輩のスマホのカメラ機能での撮影だ。まあ、個人経営の小さな喫茶店のパンフレットにそこまでお金をかけるわけにもいかないだろうけれども。

 店の隅の方で瀬奈はにこにこと笑った顔であったりサンドイッチにかじりついた顔であったりをカメラに向けている。さらにはグラスを手に持った物憂げな顔で窓の外を眺めているという意味不明なものだったり、さらになぜか狐のお面までとりだして半分顔を隠して笑っているという写真まで。撮影は二十分ほどで終わったが退屈はしなかった。いろんなポーズでカメラに収まる瀬奈を見ているだけで飽きることはない。やっぱりかわいい。今撮っている写真をできれば全部僕のスマホにデータ転送してもらいたいほどだったが、やはりそんなことを先輩に言い出すほどの勇気はない。

 撮影が終わり、喫茶店ダディを後にした瀬奈と二人で駅へと向かう。

 僕と瀬奈は逆方向の電車に乗って帰るのでここでお別れだが、田舎の電車はそう簡単にやってこない。会話の間を持たせるために結局僕は昨日の出来事の一切を語ってしまった。

 先輩という人の依頼で、そのライトノベルの作者からサインをもらおうとしている事、そしておそらくその作者が福間香織先輩ではないかと考えている事。


「なあ瀬奈。その……福間先輩と仲が良いんだったら、瀬奈から頼んで彼女のサインをもらうことってできないものかな?」

「うーん、でもさ。本人が自分じゃないって言うんならそれは無理なんじゃないかな。それに……」

「それに?」

「それに、ふーちん先輩が作者だって証拠があるわけでもないでしょ? ふーちん先輩、この間、現文赤点とって補習だったみたいだしさ、そんなんで小説なんて書けるのかなあ?」

 そんな話の流れで、僕は昨日読んだライトノベルで抱いた疑問を瀬奈に話した。

「そういえば、さあ……そのラノベ、僕も読んだんだけどちょっと思うところがあったんだよな」

「なに?」

「うん……うまく言えないけれど、現役女子高生が書いたにしては、少しばかりきれいごとが過ぎるような気がするんだよな」

「キレイゴト?」

「なんていうか、女性キャラクターがかわいすぎるんだよ。登場する女性キャラクターがみんな都合が良すぎるほどに魅力的なキャラばかりなんだ。

 女性が作者なら、普段の生活の中で女の嫌なところなんかもたくさん見ているからもう少しドロドロとした話を書きがちなんだけど、あのラノベに登場する女性キャラはみんな男の目から見てきれいなところだけを書いているように感じたんだ。まあ、ラノベなんてだいたいそんなものなんだろうけれど……」

「ねえ、それって、やっぱり作者はふーちん先輩じゃないってことなんじゃない? そもそも覆面女子高生って、実は女でも何でもないって可能性もあるわよね?」

 瀬奈はそう言って目をつぶり、平べったい胸の上で腕を組んでしばらく考え込む。

「あ! そうか!」

 瀬奈が思い立ったように目を開く。どこかで、〝チーン〟という音が鳴った気がする。

「アタシ、そのライトノベルの本当の作者がわかったかも!」

「本当の作者?」

「そう。アタシね、さっきからずっと気になってたんだ。その、戸部先輩って誰だろうって。多分、しおりんの知りあいってことは、演劇部の部長の〝平澤けん〟先輩のことだよね?」

「いや、そうじゃなくて、その人は戸部っていう……え? 平澤だって?」

「そう。その戸部っていう先輩、今は平澤健吾っていうんだよ」

「今は?」

「うん、なんかね、去年両親が離婚したらしくって、今は母親の旧姓の平澤になっているらしいんだけど、みんなずっと〝とべっち〟って呼んでるから、今更呼び名が変わっていないだけなんだよ」

「まったく。先輩の名前が戸部だったのか、戸部ではなかったのか。それが問題だったとは考えもしなかった。しかし、瀬奈はよく、そんなこと知ってるな」

「まあね、アタシ、こう見えても顔広いんだよ。意外と情報通でしょ」

「うん、素直にすごい」

「でね。つまりはこういうこと。

 その、ライトノベル作家〝平澤かおり〟の正体は、平澤健吾先輩。そして、言うまでもなく先輩が好きなのはふーちん先輩。ペンネームの〝平澤かおり〟は平澤先輩がふーちん先輩と結婚した場合の名前。

 つまりさ、ユウは実際の作者からの依頼を受けて、ふーちん先輩に自分の書いたライトノベルを読んでもらうきっかけをつくるために利用された。その本を読んで、その著者名を見れば平澤先輩がふーちん先輩を好きだということが一目瞭然。まったく。意気地のない男の茶番に付き合わされたってことなんだよ。ユウは……」


 ──なるほど。確かにそれはおもしろい考察の一つではある。乙女のおもい描くピンク色の妄想として、それはなかなかよくできた話なのかもしれない。でも……

「それでも、僕はそれは違うと思う。瀬奈はそのライトノベルを読んでいないからそう思うんだろうけれど、あのライトノベルは結構エッチな描写がたくさんあるんだ。あれを、好きな女の子に読ませることでラブレター代わりにしようっていうのならば、それはまた随分とお粗末な告白になると思う。間違いなく、嫌われるね」

「うーん、そうなのかあ。アタシもそれ、一回読んでみようかな?」

「おすすめは……できないけれどね」

 とか、なんとかいっても、笹葉さんはおそらく読んでいるわけだし、実際あの程度のエロ描写ではイマドキの女子高生はなんとも思わないのかもしれない。ちまたに出回っている腐女子たちのこう品はあんなレベルでは済まされないのだから。

 それに、今の話で僕にも、この物語の真犯人の目星がついた。

 それは、意外とすぐ近くに潜んでいたのだ。


 瀬奈の乗る、西行きの電車が到着する。

 彼女は立ち上がり、電車に乗り、閉じた車窓の内側から僕に向かって手を振る。

 声は聞こえないが、〝またあした、バイバイ〟と言っているのがわかる。目を細めて、まるできつねのように笑いながら『ししっ!』と言っているようにも見える。

 無論。そんなことは口に出してはいないのだろうけれど。


 翌日三限目が終わり、次の四限目が終われば昼休みになるという時間、僕はひそかに学校を抜け出した。四限目はサボタージュする予定だ。

 向かった先は駅前の喫茶店、ダディ。昼前ということもあり、店内にお客さんは僕以外誰一人としていなかった。ちょうど都合がいい。そろそろこの物語も幕引きをしなくてはならない頃あいだ。

 カウンター席に座った僕のところに、中年オヤジのマスターがやってくる。

「よう色男。すっかり常連だな」

 まったく。どういたところで、なるべくひいに考えたところでようやく平均点にたどり着くかどうかというレベルの僕に対し色男と呼ぶのはどうかと思うが、まあ、それも仕方がないだろう。なにしろ昨日、一昨日おとといと連続で目を見張るような美少女を連れてこの店を訪れた僕だ。そういう解釈も不思議ではないし、マスターにすっかり顔を覚えられてしまったのも仕方がないことだ。

「お前、まだ授業中の時間だろ? サボりか?」

「いや、まあ……なんていうんですかね。青春には、勉強よりもかえがたい大事な時間ってやつがあるものでしょう?」

「まったく下らんこと言うガキだな。くれぐれもうちの娘には近づくんじゃないぞ」

 冗談交じりの侮蔑を僕に放つマスターに、アイスコーヒーと持ち帰り用のサンドイッチを注文する。手早く出されたアイスコーヒーを黙って飲んでいるあいだ、れたマスターは手際よくクラブサンドをつくって僕に渡す。

「あと、それと……」

 僕は追加の注文をするかのように、かばんから一冊のライトノベルを取り出す。タイトルは『あやかし学園の事件ちよう』。

「これに、サインを書いてもらえませんか?」

「はあ? サインだと? お前、男のくせにおっさんのサインが欲しいのか?」

 マスターが笑いながら言う。

「いや、そういうわけじゃないですよ。なにせ、僕が欲しいのは覆面現役女子高生作家のサインなわけですから」

 僕の目は、めずらしくマジだ。当然マスターも、それにこたえて鋭い眼光で僕をにらみ付ける。

「いつから気づいていた?」

「そんなのもちろん。初めからですよ」

 もちろんうそだ。きのうの瀬奈との会話が無ければ、僕はいまだに『平澤かおり』の正体は福間香織だと思っていたかもしれない。

「……お前はおっさんのサインが欲しいのか?」

「欲しがっているのは僕じゃありません。僕は、ある人物に依頼を受けてやっているだけです」

「ふーん、そうか。だが、その依頼主ってのは〝平澤かおり〟がおっさんだということは知らんだろう」

「黙っておけばわからないでしょう?」

「教えないのか?」

「そりゃあね、教えない方がいいでしょう? 世の中、知らないことがある方が面白いと誰かが言っていました」

「チッ、しょうがねえなあ。なあ、何でオレだと気づいた?」

「そうですね……まずは文章の書き方ですかね。この文章は女性が書くにはあまりにもきれいごとすぎる。この世にじやかんねいが存在しないと信じている。いや、存在しないと信じようとしている文章ですね。女性作家はもっと生々しくグロテスクに書くんですよ」

「まいったな。そりゃあオレの力不足だとしか言いようがないな」

「そんなこともないですよ。読んでいてとても面白かったし、感動もしました。このストーリーであまりにも生々しいエロさやグロさは男性読者だと逆に引いてしまいます」

「でも、それだけではないんだろう?」

「そうですね。まず一つ目として僕たちの学校に看護科なんて存在しない。けれど、調べてみれば何年か前までは確かに看護科があったらしいんです。

 それと一番に気になったことといえば、あの物語に登場する学校の校舎、三棟あると書かれているんです。一番奥が一番古くて手前に行くほど新しい校舎だと書かれていました。でも実際の、僕たちの通う芸文館には四つの棟があります。同じように手前に行くほどに新しくなる棟が三つ。それともう一つ、学食よりもさらに上にある、今は使われていない旧校舎。僕は初め、この旧校舎のことは無視したんだと思っていました。実際あの学校の生徒のほとんどにとって無縁の存在です。生徒の中には旧校舎の存在すら知らない者だっているくらいです。

 事実とフィクションとは別だということはもちろんわかります。なにもすべてを正直に書く必要なんてない。ですが、このラノベ、ホラーミステリなんですよ。ホラーミステリを書くにもかかわらず、あの旧校舎の存在を無かったことにするなんてあまりにももったいない。僕はそう思ったんです。あの旧校舎は実際、少し前には幽霊騒動まであったんです」

「いったい何のことを言ってるんだ?」

「わからないですよね? わからないと思います。いったい僕が何の話をしているのか。

 僕は今日一日、ラノベの文章を読みながら校内を歩き回ってみました。

 そしたらわかりました。ちゃんとあの旧校舎は書かれていたんですね」

「だから、何の話なんだ?」

「このラノベに書かれていないのは今、僕が使っている教室のある、新校舎だったんです。さっき学校の資料室で調べていてわかりました。あの新校舎が建てられたのは今から二十年前、つまりマスターが在学時には存在していなかったんですよ。それに旧校舎も現役で教室として使われていた。マスターはその昔、自分が在学していたころの思い出をもとにあの小説を書いた。だから校舎は全部で三つ、これで間違っていない。現役で使われている校舎には幽霊のうわさなんて立ちやしないだろう。

 ああ、あとちなみに資料室からマスターの卒業写真もちゃんと発見しておきました。

 ───これでQED.」

「おい、お前最初っから気づいていたなんて言ってたが、今の話だと気づいたのは昨日今日のことじゃねえか」

「ああ、もう、そんな細かいこといちいち思い出さなくていいです。でも、僕が聞きたいのは、なぜ、マスターは現役女子高生作家なんてかたったのか? ということなんです。もちろん、あまり言いたいことではないのだろうとは思います。だけど僕もそれほど善人じゃないのではっきり言わせてもらいますと……『このことは黙っておいてやるから真実を教えろ』と、いったところですかね」

「チッ、クソガキが……。いいだろう、教えてやるよ。オレはな、その昔国語の教師をしていた。そのころに書いた小説がきっかけで一度文壇に立ったことがあるんだ。

 だがな、所詮は付け焼刃。二作目以降まともな作品を書くことができず、しばらくゴーストライターの仕事をやっていた」

「ゴーストライター?」

「ああ、そうだ。主にアイドルやら芸能人の代わりにエッセイや自伝小説を書いていた。もちろん本人のふりをしてな。時には政治家や会社の社長の成功哲学なんてのも書いていた。本人にいろいろインタビューして、本人が言いそうなことをわざわざ考えて書いてやるんだ。頭の悪いアイドルなんかの時にはわざと言葉の使い方を間違えて書いていたからな」

「大変そうな仕事ですね」

「ああ、つらいもんさ。印税だって大体3:7くらいだ。もちろんこっちが3。相手は家で寝ているだけで7だからな。まあ、しかしそういうもんさ。その人の名前が無けりゃあオレがいくらエッセイなんて書いたところでその三割だって売れることはないだろうしな」

「むしろこっちが名前をお借りしているといったところか……」

「特にあれだな、有名占い師の代わりに雑誌の占いコーナーを書いていたこともある。俺の占いは当たると評判だったんだぜ。何せいい加減な占い師とは違って、オレはちゃんと誰が読んでも自分の占いが当たっていると錯覚できるように気を遣って書いていたんだ。その内容を月ごとに入れ替えていく。占いなんてのはみんな自分の誕生月のところしか読んでいないからな、先週ほかの人にあてて書いたものを丸々写しても誰も気づかん」

「そりゃあ傑作ですね」

「ああ、オレはゴーストライターとしてはなかなかセンスがあるようでな。ところが肝心な自分の書く小説はというとこれがまったくのダメダメらしい。編集部はろくに取り扱ってもくれない。しかもオレは聞いちまったんだよ。編集部のやつらがオレのことを『アイツはもうだめだな。賞味期限が切れている。今更引っ張ってやってもあの年じゃあ将来性がない』って話をしているのをよ。それでよ、オレは考えてみたんだ。オレの得意分野はゴーストライターだ。だったら当時十五歳だった娘のゴーストライターとして小説を書いてやろうってな」

「それを新人賞に送ったと?」

「ああ、笑っちまうだろ。見事に受賞したよ。それが実力だったのか、それとも現役女子高生が書いたということが加点評価されたのかはわからねえ。だが、少なくともオレは受賞は辞退しようと思っていた。あの編集部のやつらにオレはまだ賞味期限が切れていないって言ってやれればそれでいいと思っていたんだ」

「じゃあ、なぜ?」

「まったくの取り越し苦労だったのかもな。編集部のやつらは現役女子高生の正体がオレだとわかって怒るどころか馬鹿笑いしていた。『もういい、このまま覆面女子高生作家で行こう』って話で落ち着いた。それが現状だ。だが、オレのゴーストぶりもそろそろ焼きが回ったかな。こんな一介の高校生に見破られるようじゃあな」

「まあ、誰が書いたところで作品は作品なんだし、べつに作者が本当はおっさんだからって大した問題じゃあないと思うんだけどな」

「だがな、世の中はそうはいかねえんだよ。何を書くかじゃなく、誰が書くかということはそれなりに重要なことなんだよ」

「そのために人は仮面をつける。か……」

「なあ、お前。ペンネームってそもそもが仮面みたいなもんだと思わねえか?」

「僕はいろんな仮面をつけて生きているけど、ペンネームという仮面はまだつけていないからなあ、そこは何とも言えないですね」

「作家ってのはなあ、大体のやつがペンネームで書いているんだ。そうやって自分とは別人の仮面をつけるからこそ自分の気持ちに正直な文章が書けるんだ」

「あ、でもちょっといいですか?」

「なんだ?」

「自分の気持ちを正直に書くためのペンネームなら、むしろペンネームの方が素顔に近いっていうことにならないかな」

「なるほどな。たしかにそうかもしれないな。世の中で普通に生きるにはなにがしかの仮面が必要なのだろうな」

 ひととおりの話を終えると、マスターはサインペンを取り出し、ラノベの表紙一ページをめくった。

「あ、『とべっちへ』でお願いします」

「チッ、めんどくせえな」

 思わず笑いがこみあげてくる。


 ───とべっちへ

平澤かおり───


 また、いいおっさんが可愛かわいらしい字体でサインを書くものだと感心した。さすがはゴーストライターといったところか。

 目的を果たしたラノベをかばんにしまい、席を立ちあがった。

「あ、最後にひとつだけ聞いていいですか?」

「なんだ?」

「まさかいまさら娘だなんて答えは聞きたくありません。あの主人公のモデルは誰ですか? 平澤かおりの名前の由来は?」

「質問はひとつじゃなかったのか?」

「回答はひとつかと思って」

「ひとつだ。〝平澤かおり〟はオレの初恋の人の名前だ」

「娘の名前を決めたのは父親?」

「質問はひとつだけだと言ったろ?」

「そうでした。しくじりましたね……それではまた。今日はどうもごちそうさまです」


 それから学校に戻ったのはちょうど午前の授業が終わり昼休みになったころ。そろそろ、エピローグに移る頃合いだ。

 まずは大我の席へ向かう。今まさにどこかで買ってきたであろうパンを取り出してかじろうとしているところだった。

「大我、今からメシか?」

「ああ、授業をサボってどこに行ってたんだ?」

「ちょっとこれを買いにね」喫茶店ダディで買ってきたサンドイッチの袋を差し出す。「差し入れだよ。まあ、ちょっとばかし有名なお店のサンドイッチだ。実は、これを買いに行くために四限目をさぼった」

「そんなにうまいのか?」

「まあ、それはどうだか知らないけれど……これをやるから、少し頼まれごとをしてくれないかな」

「俺に、できることか?」

「大我にしかできないことだよ。これを持ってさ、文芸部の部室へ行ってくれないか?」

「漫画研究部。だろ?」

「そんなことはどうでもいい。そこには多分ボッチめしをしている生徒がいるだろうから行って相伴してくれないかな?」

 ──さすがに、ここまで言って事の次第を理解できないほどに僕の友人はアホではない。

「……ああ、すまないな」

 サンドイッチを受け取る大我。

「いいか、大我。その子にちゃんと『あーん』てしてやるんだぞ」

「マジか?」

「マジだ。絶対それを望んでいる」

「わかった。俺に任せておけ」


 勇ましく立ち去る大我を見送った僕には最後にもうひとつ、やっておかなければならないことがある。

 こっそりとひとりで教室を抜け出そうとしている美少女を呼び止める。

「笹葉さん。よかったらお昼、一緒に学食に行かない?」

「え、あ……」

 警戒しながらあたりを見回す。

「大我は用事があるらしくあいにく僕一人なんだ。さすがに一人で飯を食うのはさみしいから、僕を助けると思って付き合ってくれないかな?」

「あ、え、えっと……」

 それでも少し戸惑う笹葉さん。こんなことでフラれたりしないようにちゃんとフォローを入れておく。

「この間の覆面作家の件、ようやく決着がついた。それで、その事の報告もしたいしさ」

「え、あ、じゃあ……うん……」

 上手うまく美少女とのランチタイムの約束を取り付けた。とか言いながら、笹葉さんとはおととい本当に二人きりでランチをしたのだけれども……


 一般的な学食に比べて、はるかに見栄えのする、それこそそれなりのレストランのようなたたずまいの学食に入り、調理科のコック服姿のスタッフに案内されてテーブルに着く。

 この学校には調理科という科がある。言うまでもなく将来的にコックになることを目指す生徒の通う科だ。調理科の生徒は昼休みにあたるこの時間、授業の一環としてこの学食の調理やサービスを行い、運営をするという仕組みになっている。

「ご注文は何になさいますか?」

 ややふてくされた様子の調理科の生徒がコック服姿で注文を聞きに来る。

 まったく。態度の悪いスタッフがいるものだ。後でクレームを入れておいてやることにしよう。

「ち、違うのよ瀬奈。こ、これには理由があって……」

 笹葉さんが、必死に調理科の給仕係に言い訳をしようとしている。

「笹葉さん。別に誰も疑ってもいないし誤解もしていないんだから、そんなに言い訳するとかえって怪しくなるから。別に、前から僕たちはこうして一緒に昼食をとっていたわけだし……ただ、今日は大我がいない、それだけだよ」

「そうよ。別にサラサが言い訳する必要なんてないのよ」

 給仕係が、やや不機嫌そうに言う。

 僕たちは日替わりメニューのパスタを二人前注文して、それからことのてんまつを全て話した。

 喫茶店ダディのマスターには「誰にも言わない」と言ったばかりだが、元よりうそつきな僕はそんな約束を気にすることもなく、ラノベ作家の正体が喫茶店ダディのマスターであることまで全て話した。

「つまりはゴーストライターだったというわけね……」

「なに? 幽霊が書いていたの?」

 笹葉さんの言葉に、いつの間にか僕たちのテーブルのすぐ横に立っていた瀬奈が言った。仕事をそっちのけで僕たちの会話を盗み聞きしながら、いてもたってもいられなくなったらしい。

「いいのいいの、今日はもうだいたい終わっちゃったし、休憩中なのよ」

 聞いてもいない言い訳をする。仕方なしに話を続ける。

「瀬奈、そんなわけないだろ。死んだ人間は何もできないよ。ゴーストライターっていうのは別の人が書いたっていうことだ。ほら、シェイクスピアの戯曲は実は別人が書いたんじゃないかって話もあるだろ」

「あ! それならアタシ知ってるよ。たしか、フランス産のベーコンだよね?」

「……たぶんそれはフランシス・ベーコンじゃないかな」笹葉さんが適切なツッコミを入れる。「貴族でも何でもないシェイクスピアが貴族の生活を事細かく描いたり、海外での出来事を正確に描けるのはその作者が実は貴族だったり、外交官だったりするからなんじゃないかという説がいろいろあるのよ。でもまあ、結局のところ誰が書いたかでその作品の価値が決まるわけじゃあないけれど」

「そうだな。たとえシェイクスピアの正体が誰であろうと、シェイクスピアの作品群はどれもずば抜けて素晴らしいものばかりだ。その作品価値は作者の年齢だとか、生い立ちによって左右されるものではない。まあ、現代においてそれが不変の事実かはさておきね」

 僕からの報告は以上だったが、乙女が二人いれば話はそれでは終わらない。

「ねえ、それはそうとしてやっぱりとべっちさんがふーちん先輩を好きなことには変わりないでしょ。もしかしてこれから先、二人が結婚して本当に『平澤かおり』が誕生するかもしれないのよね?」

「え、もしそうなったら親子そろって平澤かおりになるってことかしら? たしか戸部先輩のお母さんの名前って平澤かおりっていうのでしょ?」

「え、そうなの? じゃあさ、もし二人が将来結婚したら、戸部先輩の母親も合わせて三人の平澤かおりが誕生するってこと?」

「いや、ちょっと待って……マスターの初恋の人の名前が平澤かおりってことは、もしかしてマスターの初恋の相手ってとべっちさんのお母さんなんじゃない? たしか今は二人とも離婚しているはず。ひょっとするとこれから先に再会してそのまま再婚ってこともありうるんじゃないかしら? そうしたら平澤かおりと平澤かおりが結婚してとべっちさんとふーちん先輩が兄妹きようだいになるけどその後さらに結婚してやっぱり平澤かおりがもう一人増えて……」

「そうなると大変ね。おとうさんが作家の『平澤かおり』で、その奥さんが旧姓平澤かおり。息子が平澤健吾でその妻がふーちん先輩で平澤香織?」

「いったいどんな家族だよ。ややこしいったらないな。それにしても笹葉さんも瀬奈も、いくらなんでも妄想が暴走しすぎじゃないか? まったく。桃色の脳細胞を働かせすぎだよ」

「あら、乙女はいつでもロマンチストなのよ」

「まったく。結局みんなロマンチストなんだろうな……男も女も……」

 僕はそんなことをつぶやきながら窓の向こうの景色を眺め……ようとしたところで渦中の人物、平澤……いや、福間香織先輩と視線がぶつかった。チワワのような愛らしい視線……ではなく少しばかり怒っているようにも見える。

「こらっ! 瀬奈ちー。またこんなところで油売ってる! 忙しいんだからサボってないでちゃんと働きなさいよね!」

「あ、ご、ごめんなさい~」

 慌てて仕事に戻る瀬奈。それを見てくすりと笑う笹葉さん。少しは、元気になってくれただろうか。笹葉さんには、早く大我のことなんか忘れてもらって素直に笑えるようになってほしい。

 でないと、僕がおもいを寄せる笹葉さんの親友のこともあるし、さらに僕は笹葉さんを捨てた黒崎大我という全女子生徒の敵である男の恋のキューピッド役を買って出ようとしているのだ。その事で笹葉さんに後ろめたさを感じるのはごめんだ。


 放課後になって、僕は旧校舎の部室へと向かった。とべっち先輩に約束していたサイン入りラノベを渡すためにそこに来るように言っておいた。

 教室には、めずらしく栞先輩はまだ来ていなかった。あるいは彼女のことだ。あえてこの場に来るのを遅らせているという可能性もある。

 しばらくたってもやはり栞さんはやってこない。彼女のクラス、二年の美術科クラスの教室はこのすぐ近くで、僕の一年の特進コースはここから最も遠いところにある。そのためいつも栞さんが先に来ているので、この教室に僕がひとりっきりだというのは珍しい。

 そして、なんだか少しだけさびしくもある。

 ガラッ。と、入り口の引き戸が開けられる音がした。

「あ、栞さ……」

「あ、いや……ごめん」

 決してとべっち先輩に非はないにもかかわらず、なぜか彼は後輩の僕に向かって頭を下げた。

 早速僕はかばんから著者のサイン入りのライトノベルを取り出した。

「すいません。これ、頼まれていたものです」

「あ、そ、そうか……ありがとう」

 とべっち先輩は控えめな礼を一つして受け取る。もう少し喜んでもらえるのではないかと期待していたせいで、少し残念な気持ちになる。

「すいません。作者の方に、誰にも正体は明かさないでくれっていう条件でサインをもらいました。ですので、証拠はないのですが、そのサインはまぎれもなく作者本人のものですから」

 なんて、瀬奈や笹葉さんには何のちゆうちよもなくばらしてしまった作者の正体を、あえて本人に伝えなかったのは、その正体を知ってとべっち先輩が落胆しなくてもすむようにだ。現役覆面女子高生作家が、実は中年の男であるだなんて知りたくもない事実だ。

 しかし、とべっち先輩はそんな僕にニヒルな笑いをうかべて答える。

「いいんだ。いいんだよ……。実はね、ボクはこの『平澤かおり』というペンネームを持つ作家の正体を知ってしまったんだ」

 少し、諭すような優しい目つきで僕の方を見る。

「そう……ですか……」

「正直、ちょっとだけショックだったかな」

「すいません……」

「いいんだよ。実はね、ボクが初めてそのペンネームを発見した時、驚いてすぐに買ってしまったんだよ。なにせ母親と同じ名前なんだ。でも、するとどうだろう。その物語は明らかにこの学校が舞台になっていて、福間さんの家らしきサンドイッチ屋まで登場するんだ。

 ボクは有頂天になった。きっとこのライトノベルの作者、『平澤かおり』の正体は福間さんで間違いが無く、あえてそのペンネームを本名の福間ではなく、平澤としたのは……彼女が、ボクのことを好きだからに違いない……そう思ったんだよ」

 とべっち先輩はゆっくりと窓のそばにより、窓を開けて外を眺める。まだ暑さを含む風が教室に流れ込む。

「でもさ……自分からそんなこと、彼女に問いただせないじゃない? だからボクは葵さんを利用しようと考えたんだ。全部僕の勝手な思い込みだなんてまるで気づかずに……そしたら、小説のことなら君の方が詳しいからって、葵さんから君を紹介された。

 勘の鋭い葵さんのことだ。そんなボクのたくらみなんてすべてお見通しだったのかもしれないね。それであえてボクに君を紹介した。まったく。笑い話にもならないね」

「まったくです。作者が、本当は男だなんて、知りたくもなかったでしょう?」

「でも、まあいいさ。きっかけはともかく、ボクはこのライトノベルを読んで本当におもしろい話だと思ったんだよ。だから純粋にこの本のファンになったし、サインもうれしいと思っている。だから君も、そんなに遠慮なんかせず、ぜひ次回も面白い作品を書いてくれ」

「あ、はい……」

 ──場の流れでつい返事をしてしまったが、なにかがおかしい。

 頭の上に疑問符が浮かぶ僕の目の前で、とべっち先輩はスマホを取り出して操作する。表示された画面を僕に見せる。そこには、


〝今話題の覆面現役女子高生作家『平澤かおり』の素顔写真流出!〟


 そんな見出しのついたページには、見覚えのある写真が添付されている。

 衝撃的な見出しに添えられたのは中年のおっさんの写真なんかではない。間違いなく美人の女子高生が目をきつねのように細めて笑っている。顔のほとんどは添えられた狐のお面で隠されているが、それが誰だかわからないはずがない。目を狐のように細めている。どこか『ししっ!』と笑っているようだ。忘れもしない、瀬奈が二人分のサンドイッチと引き換えに引き受けたお店の広告用の写真。

「ボクにだって、この写真の彼女が平澤かおりの正体だなんて、ただのフェイクだってことくらい簡単に見抜けるさ。彼女、いつも君と一緒にいる子だよね。そして君は、随分と小説に詳しいときている」

「あ、いや……」

 どうやらとべっち先輩は平澤かおりの正体が僕なのだと勘違いしているらしい。僕は慌ててそれを否定しようとした。──が、

「すいません。だますつもりはなかったんです……」

「いいよ。気にしていない」


 真実は教えないことにした。

 きっとその方がとべっち先輩のためにもなるし、あの喫茶店のマスターのためにもなる。

 だからあえて僕は、『現役美人覆面女子高生作家』の仮面をかぶることにした。

 もともと、普段からいろんな仮面を使い分けている身だ。そんな新たな仮面が増えるのも悪い気はしない。

 そもそも、どんな仮面もつけることなく正々堂々と生きているやつなんて果たしているだろうか。

 こう見られたい自分。隠したい自分。さまざまな仮面をつけて人は生きている。

 ガラッ! と、入り口の引き戸の開く音がする。

「ちゃーお」

 と元気な声が響く。

「あれ? 今日しおりんいないね? まあいっか。ユウがいるし!」

 てんしんらんまんに笑う瀬奈。

 彼女は、彼女だけは仮面なんてものを必要としていないのかもしれない。いつでも自分の心に正直に生きている。だからこそ、多くの仮面を使い分けている僕がかれてしまうのかもしれない……なんて、実は彼女こそがものすごい仮面をつけて生きる人物で、僕なんかには到底見破ることができないだけなのかもしれない。