南羽小鞠

 

 対人戦――とくに球技において等しく重要視されるもののひとつに『緩急』という概念がある。バスケではとくにチェンジオブペースという名称で知られている。

 緩やかな動きと素早い動きを組み合わせることで相手を揺さぶるテクニックなのだが、その落差が激しいほど、揺さぶれる度合いは大きくなる。極端な話をすれば、停止した状態から一気に最高速に至ることができれば、それが究極の緩急だという話になる。

 私はその理想論を突きつけられていた。

 立ち止まっていたはずの先輩が次の瞬間には牝鹿の隣にいて、さらに数秒後にはドリブルシュートを打っていた。私が最初に牝鹿に行ったあれは完全なる不意打ちだったが、先輩は牝鹿の準備が万全になるのを待った上で、それを行った。そして牝鹿は為す術なく抜き去られた。

 攻防が入れ替わり、牝鹿にオフェンスの手番が回る。

 緩と急の差の大きさはそのまま、ディフェンスの反応速度にも影響する。

 見てから反応して、体が相手についてゆくまでの時間が縮まるからだ。先輩は牝鹿に密着し、ジャンプシュートを封じた上で、あらゆるドリブルとフェイントに対応しきってみせた。

 先輩にボールを奪われるまでもなく、追いこまれた牝鹿が自滅して、手番が終わる。

 続く先輩のオフェンス。

 牝鹿は先輩から腕一本と半分ほどの距離を取る。それだけの距離を開けなければ、ドリブルの急加速に反応することができないと踏んだのだろう。私もただしい判断だと思う。

 先輩は今、スリーポイントラインから二歩ほど離れた位置に立っている。

 ロングシュートを狙うなら最低限、牝鹿の立っている位置まで攻めこまなければ厳しいはずだ。そういう意味でも牝鹿が立っている位置は、だれしもが選ぶ模範解答だった。

 ――なのにどうして、こんなにイヤな予感がするんだろうな。

 先輩はボールを持ったまま半身はんみになる。

 そして先ほどと同様に鋭いドリブルをしかける。

 ボールが床に叩きつけられる地鳴りめいた音が響き、先輩は一瞬で最高速度に達する。

 牝鹿はそれに反応するため跳ぶようにして大きく、足を動かさざるを得なくなる。

 牝鹿が先輩を先回りするために半歩ほど身を引いたその瞬間、先輩が跳んだ。

 前でも横でもなく――真後ろに、だ。

 着地した位置は先輩が最初立っていた位置で、そこで先輩はジャンプシュートを打った。

 牝鹿の目が驚き見開かれ、その視線はボールの軌跡を追う。

 彼女はひどくマヌケな顔をしていたが、きっと私も似たような顔をしていた。

 ボールはかなり高い位置で頂点を迎えると重力に引かれて落下する。

 私たちの予想通り、ボールは網にも触れぬまま、リングの内側に吸いこまれた。

 だむっ……だむ、だむだむ……と弾むボールから視線を外さぬまま、牝鹿はがしがしと頭を掻く。どうやら今度ばかりは彼女の闘志も削がれてしまったらしい。

「ごめんなさい、もう勘弁してください。さすがにこれ以上ボコられる元気はないです」

 降参の意を示すように、牝鹿は両手を挙げる。

 それから責めるような目つきで私をにらんできた。

 こんなに強いなら一言くらい忠告しろと、そう言いたいんだと思う。

 だけど私が責められるのはあんまりだ。

 だって先ほどの一対一に驚いているのは、牝鹿だけではなく私も同様だったんだから。

「ごめんな、牝鹿ちゃん。騙し討ちみたいなマネしちまって。それと、小鞠はべつに黙ってたってわけじゃないから、そんなふうに見るのはやめてあげてくれな」

 そうと告げる先輩は言い訳をする子どもみたいな顔をしていた。

 彼女はその子どもみたいな顔のまま、叱られるのを待つような調子で私を見つめた。

「先輩……さっきの、どういうことですか」

 戸惑いのせいか自然と責めるような声色になってしまう。

 先輩は私から視線を逸らさぬまま、言い淀むこともなく口を開いた。

「私も自分を偽るのはやめにする。今のが私の本気だよ。今までは……手を抜いてたんだ」

 どうして? そう尋ねていいものなのか、私にはわからなかった。

 どうして今まで本気を出してこなかったのか。

 どうして今になって本気を出そうと思ったのか。

 そう口から出かけた言葉を、結局私は飲みこんだ。

 だって私は言葉の無力さをありありと知っていたから。

 そして先輩がそれをうまく口にできないのもわかった。

 だからこそ先輩は牝鹿に勝負をしかけて、言葉にならない想いを行動で示そうとした。そんな先輩の顔を見たら、『どうして』なんて言葉、不要に思えてしまったのだ。

「なあ小鞠、私がお前の目標になってやるよ」

「目標……?」

「小鞠はずっと……牝鹿ちゃんの背中を見てプレイしてたんだろ? その目標がなくなっちまったら、お前はしばらく、バスケを続ける理由がわからなくなるんじゃないかって、そう思ったんだ。だから、お前は私のことを見てればいい。必死で私のこと追いかけてこいよ」

 それが不器用な先輩の優しさであることに私はすぐに気づく。

 同時にそれは先輩なりのケジメのつけ方なのかもしれないと、そう思った。

 わけもわからぬまま胸が感情の荒波に支配され、散った飛沫が目に染みる。

 嬉しいとか、悲しいとか、そんな感情に関係なく。

 強すぎる想いは涙を流させるのだと、私は知った。

「そう……ですね。牝鹿は倒せなかったけど、牝鹿に圧倒した先輩に勝てたら、牝鹿に勝ったようなものですもんね。わかりました。私……必死で先輩を追いかけることにします」

「ありがとう……ありがとな、小鞠」

 私の言葉に対して先輩が口にしたのは礼の言葉だった。

 涙を堪えるような、喜びに悶えるような、そんな顔で、先輩は礼を言った。

 私は『黙っていること』それ自体を悪だと思っていた。事実、今までの私は自分の感情をひた隠しにして、そこから逃げ回ろうと必死になっていたのだ。だけど黙っていることと、自分の想いから逃げることはイコールじゃない。たとえ言葉がたりなくても、自分の想いと向き合う勇気さえあれば、行動や手段でそれを相手に伝えることは可能なのだ。

 先輩の想いは、そのまま私の胸に伝わった。

 先輩が言葉にできなかったそれを、私が言語化することはできないけど。

 それでも胸に湧き起こる温かな感情だけで充分なのだと――そう思えた。

 こうして私と牝鹿の約一ヶ月に渡るケンカは幕を下ろしたのだった。

 

 

 私たちの感情が落ち着いたのは、時計の針が八時半を刻んだころだった。

 ……これからバスケ部の練習があんのか。

 なんて柄にもなく憂うつになっていると、美鶴先輩がにやにやしながら口を開いた。

「なあ小鞠。今日は部活、サボっちまわねぇか。あんなに全力で体動かしたのなんてひさしぶりだからよ。どうにもバキバキしちまって、練習って気分にはなれねぇんだよな」

「まあ……疲れてるのは、私も同じですけど」

 練習という気分になれないのも一緒だった。

「そうだろ? 今やってる練習に参加する価値があるとは思えねぇからな。だったら仲直りついでに、これから三人でフラジールにでも行こうぜ。ああ見えて、たぶん那月さんも木実も、けっこう心配してくれてたはずだからよ」

「しれっと私が参加すること決まってるんですね」

「そりゃあ一対一して体をぶつけ合った仲だからな。仲間みたいなもんだろ」

「今どき少年漫画だってもう少しまともな理由づけすると思いますけど……いいですよ」

 語尾を濁らせながら、牝鹿はなぜかこちらを見た。

 先輩のペースに巻きこまれたことが不服――というわけではないようだった。

「でも少し確認しときたいことがあって」

「確認……って、私になんかあんのか?」

 どうやら牝鹿が懸念を抱いているのは、先輩ではなく私らしかった。

「うん。放送部の先輩も連れて行っていいかなって。呼んだら、来てくれると思うから」

 深刻そうな顔をしていたから身構えてしまったが、そんなことかと緊張が解ける。

「いいんじゃねぇのか。私も牝鹿の恋人がどんなやつなのか、興味あるしな」

 すっと肯定の言葉を返せて、自分でも驚くと同時に安堵する。

 しかし私が賛成したにもかかわらず、なぜか牝鹿は浮かない顔をしていた。

「あー……んー……でもやめたほうがいいかなぁ……あんな雰囲気の喫茶店なんかに連れてって、しかも初対面のひとを何人も紹介したら、先輩、死んじゃうような気がするし」

「なんなんだよ、そいつ」

 いったい牝鹿はなにと付き合ってるんだ。

「いっそ死んでもいいから連れてこいよ」

「いやいや、冗談じゃなくホントに死にかねないから」

 俄然がぜん興味が湧いてきた私は絶対に連れて来いと牝鹿に念を押す。

「と言うか小鞠、もともと口悪かったけど、口調まで乱雑になってない?」

「そうか……?」

 指摘されても、そこまで自分の口調が変化した自覚は湧かなかった。でも身近で私より口の悪い人間なんてひとりしかいないから、影響を受けるとしたら彼女以外いなかった。

 ……なんか、そう言われるとむず痒いな。

 多少の気恥ずかしさがあった私は、少し口調に気をつけようと心に決めた。

「お前ら、そういうのは学校出てからにしろよ。さすがに、そろそろ部員が来てもおかしくないからな。べつに見られたってどうってことねぇけど、来る前に退散しちまおうぜ」

「あ、そうでした」

 つい練習終わりの気分になって雑談を楽しんでいたが、本当の練習はこれから始まるのだ。先輩の言う通り、他の部員にどう思われようが構いはしなかったが、バツが悪いのはイヤだった。私たちは自分たちの荷物だけを片づけ、逃げるようにして体育館から走りだす。

「この一ヶ月、私らが片づけてたんだ。一回くらい押しつけたって文句は言われねぇだろ」

 と先輩が笑いながら吐き捨てたので、私も心の底から同意を示しておいた。

 昇降口で靴を履き替える。

 牝鹿とはクラスが違うから距離が離れていたが、会話ができないほどでもない。

 そして、この距離感だからこそ、口にできる話題もある。

「牝鹿……こないだはごめんな。あんな酷いこと言ってさ」

「私も早く言ってれば良かったし、今までの遅刻チャラにしてくれればそれでいいよ」

「それはムリだろ」

「なんでさ!?

 牝鹿と並んで昇降口を出て、自転車置き場へと向かう。

 先輩は気でも遣っているつもりなのか、それとも本当にそれが目的なのか、スマホでだれかに電話をかけているようだった。話の流れ的に木実さんにでも連絡しているのかもしれない。

「私は……これからも、牝鹿の友だちでいてもいいのかな」

 だから先輩がいては気恥ずかしくて聞けないことを、このタイミングで聞いておく。

「当たり前じゃん。これからも私と小鞠はずっと親友だから」

 牝鹿は笑いもしないで、大真面目な表情をしながらそう言った。先に気恥ずかしさに負けた私は、それをごまかすように笑ってしまう。牝鹿も笑って、私たちは少しだけ温かくなった。

 先輩が電話を終えるのを待って、私たちは自転車で校門を出た。

 そのとき、さっと視界が開けたような気がした。

 来るときは自分の外側に意識を向ける余裕なんてなかったから気づかなかったけど、校門を出た私たちを迎えたのは、頭上を覆い尽くす圧倒的な薄桃色――満開の桜だった。

 私は気づくと足を止めていて、横の牝鹿も立ち止まって桜を見あげていた。

「あっ、そうだ」

 桜の感想でも呟くのかと思っていたのに、牝鹿が口にしたのは間の抜けた言葉だった。

「なんだよ……腹でも減ったのか?」

「いや違うし。あ、おなかは減ってるけどさ」

「減ってんじゃねぇか。で、なにが『あ、そうだ』なんだよ」

「私がどうしてバスケ始めたのか思いだした」

「なんだそれ。ずいぶんと突然だな」

「なんか、ずっと気になってたんだ。自分がバスケを始めた理由。すごく大事なことな気がしたから。この一ヶ月、ずっと悩んでて。だけど……やっと思いだせた」

 呟き、感慨にでも耽るように牝鹿は黙りこんでしまう。

 結局、その理由ってのはなんなんだよと私が尋ねるまで、彼女は桜を見あげていた。

「公園でシュートの練習してる小鞠を私が見つけたんだ」

「そんなことあったか……?」

 しらばくれているわけではなく、本当に記憶になかった。

 それに、その記憶をこのタイミングで思いだす意味も、いまいちわからなかった。

「あったよ。公園で小鞠はひとりで泣きながら練習してたんだ。私がどうして泣きながらシュートなんて打ってるのって聞いたら『わかんない。わかんないけど、とにかく悔しいから!』って言うんだよ。ちょうど、今日の小鞠みたいな感じでさ。で、どうしてそうなったのか覚えてないんだけど、一緒に練習してるうちに、私はバスケが楽しくて、好きになってたんだよ。でもそれはたぶん、バスケだったからじゃなくて、小鞠が一緒だったからなんだ。だから……私は始めからそういう人間だったんだ。『なに』がじゃなくて『だれと』が大事だったんだ」

 最後の呟きは私ではなく、きっと自分自身に向けて呟いていたのだと思う。

 その意味合いを掴むことはできなかったが、彼女はひとりで納得してしまっていた。

「そのときがちょうどゴールデンウィークで桜が咲いてたんだよ。だからいま思いだした」

「小学生のころ、ゴールデンウィークで、桜で、バスケ」

 牝鹿の呟いた単語を復唱しながら追憶を試みると、沸々とそのときの光景が蘇る。

 私は昔から背が低かった。それでも運動神経は悪いほうではなかったから、体育ではそれなりに活躍していたし、そのぶんプライドだってムダに高い生意気な子どもだった。

 そんな私が身長という才能に完膚無きまでに打ちのめされたのがバスケだった。

 だから小学生のころの私は、必死になってシュートの練習をしていたのだろう。

 相手がどれだけ背が高くとも、それすら凌駕するような完璧で最強のシュートを。

 涙でぐちゃぐちゃになった視界で、必死にシュートを打っていた。

 そのときの『ぐちゃぐちゃ』をありありと思いだすことができた。

 そのぐちゃぐちゃの中心に私を打ちのめしたのっぽよりも、さらに背の高い棒じみたものがにゅっと現れた。目をごしごしと擦ってそいつの顔を見ると、マヌケ面が立っていた。

 それが他ならぬ、今この瞬間、目の前に立っている女だった。

 それからなにがどうなったのか。

 人懐っこい牝鹿は私とバスケに等しく興味を持ち、一緒に練習をするようになった。彼女はどこまでもバスケにのめり込み、最終的にミニバスのチームに入団するまでになった。

 そして彼女は私に、笑顔を向けて、

『いっしょにバスケ頑張ろうね!』

 そんなことを言ってのけたのだった。

 そのときの私はまだ、ミニバスに入団するかどうかも決めかねていたにもかかわらずだ。結局、牝鹿の勧誘がきっかけとなって私も本格的にバスケを始めて、今日に至るというわけだ。

「なにそれ」

 私はずっとその思い出をひとり抱えて生きてきて、これからもそうなのだと思っていた。

 ……でも牝鹿だって、私と同じ光景が原因で、バスケを始めて、続けてきていたのか。

 私だって思い出の全体像は忘れていたのだ。

 もしも牝鹿に言われなければ、絶対に桜のことなど思いだせはしなかっただろう。それを牝鹿のほうが先に思いだしてくれたという、それだけの事実が、私には無性に嬉しかった。

 あらためて桜を見あげると、そのときの記憶と想い――ぐちゃぐちゃのそれが蘇る。

 当時は辛酸でしかなかったはずのその想いは、こうして思い返してみると、どうにも甘酸っぱくて、むず痒くて、それでいて涙が出そうになるほどほろ苦い味わいをまとっていた。

 ――あのときの私たちより、今の私たちは大人ってことなのかね。

 そしてそれは、今日の出来事だって同じなのだ。

 桜を見るたびに私たちは今日のことを思いだす。

 そしてただ思うのだ。私はあのときより大人になれているのだろうか、と。

 だから今日の私は――こないだより少しだけ苦いコーヒーを飲んでみる。