大早川美鶴
勝負を終えた小鞠は立ち上がる気力すら湧かないのか、コートの上に大の字で倒れていた。私は勝負が終わったタイミングで作っておいた麦茶を小鞠と牝鹿ちゃんに渡す。
小鞠はずいぶんと晴れやかな表情で麦茶を受け取る。
彼女は寝転んだまま、麦茶を飲み、一息つくと同時に口を開いた。
「先輩、ごめん。勝てなかった」
「負けた割にすっげぇ楽しそうだったけどな」
私の言葉に引かれ、余韻に耽るように、小鞠はその目を閉じた。
「うん。すごい楽しかった。でも……やっぱり、負けたのは、メチャクチャ悔しい」
悔しいな。
もう一度そう呟いて、小鞠は隠すようにして片腕で顔を覆った。
小さく上下する彼女の胸元、そして漏れ出る嗚咽、それはストレートな悔し涙だった。
「だってもう、今日の牝鹿に勝てる日は……一生こないんだもん。牝鹿はバスケを辞めちゃって、私だけが前に進み続けるから……だから、もう、こういう対等な勝負はできないから」
だからこそ勝てなかったのが悔しい。
そう彼女は口々に呟いて、か細い嗚咽を漏らし続けていた。
つい先ほどまで、互いのことであんなにやきもきしていたのに、勝負が終わってみれば敗北に悔しくなって泣けてしまうのだから、子どもみたいに単純な精神構造だと思う。だけど、
「でも、さっきのお前はかっこよかったし、今のお前だって最高にかっこいいぞ」
それは嫌味でもなんでもなく、彼女たちの熱に浮かされて湧きでた、私の本心だった。
だって私には、そんな彼女たちが、羨ましく思えていたのだから。
――私と花鶏も、こんなふうに笑い合える日がくんのかな。
今はそんな光景、想像すらできず、悪い冗談かなにかにしか思えない。
だけど小鞠と牝鹿ちゃんだって、勝負を始めるまでは、互いに笑顔を向けている自分の姿など思い浮かべることもできなかっただろう。ならば私たちだって、奇跡にしか思えないようなことが起きたって不思議ではないのかもしれない。なぜなら私たちだって、昔は四六時中、行動を共にしていた、どこに出したって恥ずかしくない双子の姉妹に違いないのだから。なにより彼女たちを『羨ましい』と思ってしまった時点で私のすべきことは決まっていた。
――だから覚悟を決めることにしよう。
だれかに追われる覚悟を。
だれかを追いかける覚悟を。
そして足を止めず、動かし続け、苦汁と辛酸を舐め続ける覚悟を決めてやる。その先に、私が探し求めていた『どうしてバスケをやるのか』の答えがある気がしたのだ。
麦茶を飲み干し、タオルで首筋を拭っていた牝鹿ちゃんへと歩み寄る。
「どうかしましたか?」
私の接近に気づいた牝鹿ちゃんが顔を上げる。その顔は汗に塗れてはいたが、昨日や今朝見たときとは別人のように晴ればれとした表情を浮かべていた。
「なあ、牝鹿ちゃん。連戦で悪いんだけど、ちょっと私とも勝負してくれねぇか?」
「勝負……って、一対一のことですか?」
私の提案の意図が掴めないのか、牝鹿ちゃんは心持ち怪訝そうな表情を浮かべる。
「そうそう。ふたりの勝負を見てたら体がうずいちまってさ」
「いいですけど……」
ちらりと牝鹿ちゃんは時計を見やる。
他の部員の動向を気にしているのかもしれない。
時刻はまだ八時すぎだ。
うちの部員の中には、まだ寝てるやつすらいるかもしれないレベルである。
「うちの部員たちは不真面目だからな。まともに集まり始めるのは九時すぎてからだよ。だから時間は気にしなくてオッケー。今から一〇分休憩挟んで、それからでいいか?」
「はい。それなら大丈夫です」
互いに頷きあった私たちは、おのおのが一対一の準備をし始める。
私は立ちっぱなしで固まっていた体をほぐすためにストレッチを始め、牝鹿ちゃんは休憩で疲労が出ないように、緩やかな足取りで体育館の中を歩きだす。
ちょうどストレッチを終えて、シュート練習を始めたところで、小鞠が歩み寄ってきた。
「先輩……牝鹿と一対一って、その……どうして」
疲労のせいか混乱のせいか、それともまだ感情が高ぶっているのか。
ぶつ切りになった単語で、小鞠がそう尋ねてくる。
「今のお前に目標を失われて、宙ぶらりんになられたら私が困るんだよ」
「いや、先輩……それってどういう――」
まだ頭が回っていないのか、それとも私の説明が不足していたのか。
小鞠は目を白黒させながら、戸惑いの言葉を口にするばかり。
「まあ、お前は黙って私のことを見てればいいんだよ」
顔に疑問符を浮かべ、まだなにか言いたげだった小鞠を無視して私は練習を再開する。
これは私の自己満で、他に告げるべき言葉もなかったからだ。
そして予定していた一〇分はあっという間に過ぎ去って、私と牝鹿ちゃんは対峙する。
「ルールはさっきと同じで大丈夫か?」
「そうですね。問題ないと思います。先攻後攻はどうします?」
「可愛い後輩にゆずってやりたいところだが……今回は私が先行でいいか?」
「次回があるとは思えませんけど……それで大丈夫ですよ。じゃあ、お願いします」
運動部時代の名残か、やけにキレのいい礼をしてから、牝鹿ちゃんは位置についた。
そんな彼女とパスのやりとりをして、戻ってきたボールを掴んで、一拍の間を置く。
疲れが残っていたせいで負けたなんて、くだらない言い訳をされてはつまらない。
そんな些末な点など力技で握り潰す――たとえ万全の状態であったとしても、勝利など万にひとつも有り得なかったと、そう、このふたりに思い知らせてやる必要があった。
だから不意を突くようなマネは論外で、彼女の準備が完全に整うのを待つ。
その隙間のようなわずかな時間に私の心臓が何度も鋭く脈打ったような気がした。
――そういや、小鞠の前で本気を出すのは初めてか。
本気を出すのはいつだって怖かった。自分の出せるすべての力を出し切った上で花鶏に完膚無きまでに叩きのめされるのは、まるで自分のすべてを否定されたかのような、悔しさすら湧いてこない、無感動の地獄に突き落とされることに違いなかったから。
だけど今は――それとは異なる理由で、本気を出すのが怖かった。
今まで対等の立場の先輩としてやってきた。
私は今まで、自分が持ってる才能をドブに捨てて、手加減の真似事をしてきたのだ。もしも私が今まで加減をしながら接していたのだと知ったら、小鞠はどんな顔をするだろう。
それを考えてしまったら、一瞬、心が縮みそうになる。
ちらりと彼女の顔を見やる。
小鞠は心配そうな表情で私と牝鹿ちゃんのことを見つめていた。その表情を見て頭に思い浮かぶのは、どういうことか、先ほどまでの晴ればれとした彼女の笑顔だった。
どうやら私は小鞠に、自分にもあんな笑顔を向けて欲しいと、そう願っているらしい。ならば私も先ほどのふたりみたいに本気を出して、すべてをさらけ出すしかないはずだ。
――見てろよ、小鞠。
ふっと浮かんだ笑みを噛み殺し、私は牝鹿ちゃんへと対峙する。
そして私はただ自分の持てる全力の力でドライブをしかけたのだった。