南羽小鞠

 

 自室のベッドでなにをするでもなく横になって天井を見つめていた。

 バスケの練習やトレーニングを禁じられてしまった今、私にできることはない。

 ……いや、そんなことねぇんだろうけどさ。

 やるべきことはたくさんある。取りあえずはゴールデンウィークに向けて出された数多あまたの課題を倒すべきなんだろうけど、腰が重くて、カバンから課題を取りだす気すら起きなかった。

 無為に時間を浪費している自覚だけが積み重なり、焦燥感ばかりが湧いてくる。

 そんなとき、すっと音もなく部屋のドアが開いた。

 休日のまっ昼間から部屋に引きこもっている娘を、家族のだれかが覗きにきたのかと思いイライラしながらそちらを見やると、ずいぶんと低い位置に、その侵入者の姿はあった。

「なんだ、あいすか」

 私が名前を呼びかけると、それを許可かなにかだと勘違いしたのか、あいすはピョンとベッドの上に跳びはね、尻尾をぶんぶんと振り回しながら、私の腋の下やら胸の上やらで暴れる。あいすは私が小学校低学年のとき――約十年前にうちにきたトイプードルだ。

「もうお婆ちゃんなのに、ずいぶんと元気だよな、あいすはさ」

 犬の年齢をきちんと調べたことはないが、一〇歳ともなれば立派なお婆ちゃんのはずだ。にもかかわらずあいすは老いを感じさせない溌剌ぶりで、昔と変わらない姿がそこにはあった。

 あいすを見ていると、自然と昔のことが思い起こされる。

 あいすはもともと『アリス』という名前だったらしいけど、子どもの私にはアリスという単語が発音できず、どうしても『あいす』になってしまい、アリスもアリスで一緒に遊んでくれる私によく懐き、最終的に『あいす』という呼び名に反応するようになったのだった。

「……あいすも牝鹿のこと大好きだったよな」

 牝鹿がうちにくるたびに、だれよりも喜んでいたのがあいすだった。

 あいすの落ち着きがない原因の一端は、間違いなく牝鹿にあると思う。だって小学生のときの牝鹿は毎朝早起きして、あいすの散歩につきあってくれていたのだから。いや、犬の散歩に付き合うというのは単なる方便で、あいつのほうが走り回りたかっただけな気もするけど。

 疲れを知らないトイプードルと、遊び盛りだった牝鹿の波長は妙に合っていた。そんな牝鹿が最後にうちを訪れたのは三月の下旬だから一ヶ月以上前の話になる。こんなに長いあいだ、牝鹿がうちに来なかったことはないから、あいすも寂しがってるのかもしれない。

「私も私で、最近かまってやれてなかったもんな。ほら、めいっぱい甘えろー」

 わしわしと頭やら喉元を撫でてやると、あいすは喜ぶように目を細める。

 そのまま湿っぽい鼻先やらあごやらに押しつけられて、むず痒くなってくる。

 ……あいすみたいに素直に自分を表現できたら、こんなことにならなかったのかな。

 もしくは那月さんの言っていた通り、言葉に頼らず――いや、最初から言葉なんてものが存在しなければ、こんな事態にはおちいっていなかったのかもしれなかった。

「だけどあいすみたいに甘えてる私か……」

 犬みたいに無邪気に尻尾を振って、かまってオーラを全開にして牝鹿の足に擦り寄っている自分の姿を想像して、さすがに人間をやめすぎだと自分にツッコミを入れてしまう。

 だが一度始まった想像はツッコミを入れた程度では止まってはくれず、そのまま牝鹿が私の頭をわしわしと撫でるシーンまでありありと想像してしまう。しかし――

 ――いや、これ先輩じゃん。

 思い起こされるのは、あの日、私の頭を撫でた先輩の手の感触だった。

「いやいや、だからあれは花鶏さんだったんだってば」

 口に出して自分にそう言い聞かせるが、容姿がほとんど同じせいで記憶がいいように改ざんされてしまっていた。言ってしまえば、記憶の中のそれは完全に美鶴先輩だった。

 そして、そのまま流れるように、先輩は私の額にキスをしてきて――

「ひあぁぁぁあ!」

 先輩の唇が額に触れたのと同時、枕元で爆音が鳴り響いて心の底から驚いてしまう。

 音の発信源はなぜか音量が最大になっていたスマホだった。

 その音で驚いたあいすはベッドから飛びおりると、ぐるるとスマホに威嚇する。

 私も心中ではまったく同じ心地だったから、彼女のビビりぶりを笑うことはできなかった。

 今もなお喧しく喚き続けるスマホは、どうやら着信を知らせているらしい。

 スマホを確認すると発信主は美鶴先輩だった。

 ……うう、よりによもよって先輩か。

 先ほどまでの自分の想像が思い起こされて、バツの悪さで頬が引き攣るのがわかる。

 だが私の私情を置いとくならば、彼女から私に連絡があるのは珍しいことだった。用事があるにしても、LINEのメッセージで終わらせてしまうのことがほとんどだから。

 だから私は多少不審に思いながら、ベッドの縁に座り直し着信ボタンを押した。

 なにか緊急の用でもできたのかと、そう思ったからだ。

「ど、どうしたんですか、先輩」

「いや……なにしてんのかなって思ってさ」

 先輩の声色は普段より低く、こちらを探るような色合いが強い。

 ……私がきちんと休んでるか、探りを入れようとしてるのかな。

 だけど先輩の声を聞くかぎり、そんな感じはせず、むしろ通話をかけてきたはずの先輩のほうが私より困惑しているようにすら感じられた。もしかして、また花鶏さんが先輩のフリをしてるんじゃないかって怪しんでしまいそうになるほど、先輩の声は不審げだった。

「なにって……」

 一瞬『あなたに撫でられているのを想像してました』というすっとんきょうな返答が思い浮かぶ。私はその珍妙な言葉をかぶりを振ることで頭から追い払い、代わりの言葉を探す。

「小鞠……?」

 返答に間があったせいで訝しんだらしい先輩が、心配げに私の名前を呼んでくる。

「あ、いや、ベッドで横になりながら、飼ってる犬と遊んでただけですよ」

 運動なんかしてなかったですよ、と慌ててつけ足して、今のはいらなかったなと反省する。そんな私に先輩は、そこは疑ってねぇよと言いながら、笑っていた。

「でも小鞠って犬なんて飼ってたのか」

「あいすっていうトイプードルです」

「小鞠が犬か。なんだか意外だな」

「……ペット飼うのに意外もなにもないような気がするんですけど」

「いや、小鞠はなんか……飼うなら猫っぽいなって、そう思ってよ」

「なんですかそれ。猫っぽいとか、そんなこと初めて言われました」

 やはり今の先輩は私以上に発言が奇妙ですっとんきょうだった。そんな彼女の発言と声音を聞いていると、なんとなく先輩が今、どんな顔をしてるのか想像できる気がした。

 たぶん先輩はすごく生真面目な顔をして、必死に話題を考えているのだ。

 隠せないくらい一生懸命になって、私を励まそうとしてくれているのだ。

 ……いつの日かの不器用な先輩みたいに。

 あのときの先輩の顔を思いだすと、自然と笑いがこぼれてしまう。

「……急に笑いだしてどうしたんだよ」

 奇しくもそれは先輩があの夜、私に告げた言葉と、まったく同じセリフだった。

「今の先輩、眉間にシワを寄せた生真面目で怖い顔してるんだろうなって思って」

「んだよ、それ。私が怒ってるって言いたいのか?」

「違いますよ。むしろその逆のことを言いたかったんです。先輩、私のことを考えて、たくさん心配して、居ても立ってもいられなって、電話してくれたんですよね」

 それもまたあの日の会話をなぞらえた軽口だった。

 そして先輩はムスッとふて腐れたような顔で『考えてねぇよ』って返事をするのだ。

 そう予想をしていた私だったけど、残念ながらその予想は裏切られることになった。

「……そうだな」

 先輩がやけに素直にそう呟いたから。

 軽口の応酬をするつもりだったのに。

 私は返答らしい返答ができなくなる。

 変化球を投げたら、ど真ん中ストレートで投げ返されたような気分――野球がそんなスポーツではないことぐらいわかってるんだけど――とにかく私は、混乱してしまっていたのだ。

「まあ、言っちまえばそれだけだよ。私は……小鞠――お前のことが心配だったから電話かけたんだ。意外と元気そうだったから、私の取り越し苦労だったみたいだけどな」

 なにか言い返さなきゃと思うものの、嬉しいやら気恥ずかしいやらで舌が回らない。

 違う。

 私はべつに元気でもなんでもなかった。

 ただ奇妙な想像のせいで、小さなパニックに襲われていただけ。

 もしも私が元気なように感じられたのなら、それはきっと――

 先輩――そう口を開きかけたところで、私より先に先輩が言葉を紡いだ。

「明日、頑張ろうな」

「それ、さっき聞きましたよ」

 先輩がボロを出してくれたおかげで、私はやっと会話の空気感を思いだせた。

 ただ、口にしかけていた本心は、どこかへ消えてしまったみたいだったけど。

「でも、ありがとうございます。先輩が電話してくれたおかげで安心しました。今日はゆっくり眠れる気がします。先輩がついてくれてますから……私、負ける気がしませんよ」

「……精々、小鞠の勝利の女神になれるように頑張るよ」

「先輩は女神って言うより、お父さんって感じですけど」

「……………………」

 私が叩いた軽口に、先輩は返答を寄越さなかった。

 今の軽口のどこかに先輩の気に障る部分があったらしい。

 ……えっ、お父さんって言われたのがイヤだったのかな。

 そう思って、謝ろうとしたところで、先輩が口を開いた。

「いや、女神とお父さんは横に並べたり、比べたりするもんじゃねぇだろ」

「えっ、あ、はい。すみません」

 タイミングがズレてしまったけど、口にしかけていた謝罪の言葉がこぼれ落ちた。

「まあいいよ。この際、女神でもお父さんでも、お前を勝利に導けるならよ」

 そう呟いて、先輩が苦笑をこぼすのがわかったので、私は安堵する。

 その後、通話の切り際を失ってしまった私たちは、これまた珍しく三〇分ほど――先輩が夕食の準備を始める時間まで無意味に近い会話を続けていた。今までバスケの話ばかりしてた私たちは、探りさぐりになりながら、それでも楽しいひとときを過ごすことができた。

 通話を切ったとき、スッと部屋に静寂が満ちる。

 無音に誘われて隙間風めいた寂しさが私の心を吹き抜ける。

 しかし通話の前に私を襲っていた虚無感は戻ってこない。

 通話相手を失ったスマホを握りしめたまま私は呟く。

「きっと先輩の電話のおかげで元気が出たんですよ」

 軽口の中に混ぜられた言葉を、先輩は軽く受け流した。だけどそれは紛うことなき真実で、その元気は残り火のようにちりちりと、私の胸を優しく焦がしてくれる。

 家の中をぐるぐると回ってきたらしいあいすが再び部屋の中へとやってくる。

 私は彼女を抱きあげ、目と目の高さを合わせてから、決意表明のようにして告げた。

「また牝鹿がうちに遊びに来れるようにするからさ。期待して待ってろよ」

 それと――そう言葉を継ぐ。

「新しい友だち……いや、先輩? まあ、とにかくさ。あいすに紹介したいひとがいるんだ。そのうち連れてくるから、あいすも、頭、いっぱい撫でて貰えばいいと思うぞ」

 私の言葉にあいすはこてりと首を傾げる。それからじっとしていることに飽きたのか、私の拘束から逃れると、せっせと部屋から逃げだしていってしまうのだった。

 先輩の言葉に影響を受けたわけではないが、ひさしぶりに夕食作りの手伝いでもしようと、そう思い、私もあいすのあとを追うようにして、部屋を出たのだった。

 

 

 朝の体育館は、室温や物音が存在しないかのように、冷たく静まり返っていた。

 広々とした体育館に私の足音だけが反響する感覚は、処女雪に足跡を残すのに似ていて、少しだけ病みつきになる。私はこの感覚に酔い痴れたいがために、だれよりも早起きをして、朝早くに体育館を訪れてるんじゃないかとすら感じてしまう程度には。荷物を更衣室に置き、ステージへと続く階段に腰かけ、バッシュの靴紐を根元から順に締めてゆく。きゅっきゅっと徐々に足が引き絞られる感覚が、そのまま緊張の糸と連結して精神がピンと張り詰められる。決して不快な感覚ではないが、指先にまとわりつくような緊張感は勝負の邪魔になる。高ぶりすぎた精神をほどよいバランスに整えるため、ストレッチをしながら深い呼吸をくり返す。そして準備運動もかね、ドリブルとシュートの練習を始めた。

 だむだむだむ。

 きゅっきゅっきゅっ。

 そんな何千、何万回と聞いた音に耳を傾けていると、次第に意識が集中の中に埋没する。

 三〇分ほど体を整える運動をしたところで、入り口のほうから足音が聞こえてきて、私の意識は浮上した。やって来たのは先輩だと思っていたから、振り返った私は凍りついた。

「……牝鹿」

 私が名前を呼ぶと、牝鹿は小走りでこちらへと駆け寄ってきた。

 体育館を駆ける彼女を見ていると、待ち合わせによく遅刻してきた彼女を思いだす。そしてそんな彼女を待っている時間が決して嫌いではなかった自分自身のことも思い起こされた。

 ――牝鹿との待ち合わせなら、何時間でも苦にならなかったからな。

 どんなふうに怒ってやろうとか、なにをさせてチャラにしてやろうとか。

 そういうことを考える時間が私は好きだったから。

「小鞠より早く来ようと思ったんだけど、相変わらず早いね」

 そう言って牝鹿は、中学時代を彷彿とさせる幼げで無防備な笑みを浮かべた。

 まるで中学時代に戻れたようだと、そんな情けないことを考える。

 なんだか無性に息苦しかった。

 胸の奥に閉じこめておいた想い――過去の私が、がりがりと、胸を内側からひっかいて自己主張をくり返す。その傷口から滲んだ哀愁のせいで、私はすぐに冷静さを失った。

「牝鹿……その、こないだはごめん。私、あんなひどいこと……」

 さらに言葉を重ねようとする私に、牝鹿は先ほどとは別の笑みをその顔に貼りつけた。

「いいよ。気にしてない――ってわけじゃないけど、今、こんな状態で謝られたって、話が宙に浮くだけだし。そういう話はさ、一体一が終わってから、落ち着いて話そうよ」

 私の知らない顔と表情で、牝鹿はそう言って、儚げな笑みを浮かべた。

「それじゃあ、私も準備、始めるから」

 牝鹿は私が使っていたゴールとは逆側のゴールを目指して歩く。

 開きかけになっていた口を閉じて、彼女の背中を見つめる。

視線の先で彼女は羽織っていたウィンドブレーカーを脱ぐ。中に着ていたバスケウェアは新品のものなのか、私には見覚えのないものだった。その姿を見て、妙な心地になってしまう。

 ……あの日まで、牝鹿はバスケ部に入るつもりだったんだもんな。

 バスケ部を見学して、その週の休みにはバッシュを買いにいく約束もしていたのだ。

 結局、私はバッシュを買い損なって、中学時代に使っていたものを継続して使っていた。

 べつにバッシュくらい、ひとりで買いにいけるんだけど、使い古してぼろぼろになったバッシュ――その傷や汚れのひとつひとつにも、思い出があるのだと考えると、どうしても買い換える気にはなれなかったのだ。それに約束と言えば――

 ――春先に牝鹿は私に聞いたよな。

 どうしてバスケ部に入ろうと思ったの? って。

 それこそ私と彼女が交わした約束が原因だった。

 ただ、それがどんな約束だったのか、私にも満足に思いだすことはできない。いや約束と呼べるのかも判然としないような、些末な会話の一部分にすぎなかったのかもしれない。

 記憶は風化とそれに伴う補填をくり返しているうち、都合のいい脚色にまみれていた。

 それでも私がバスケ部入ろうと思ったのは他ならぬ牝鹿が原因だった。

『いっしょにバスケ頑張ろうね!』

 牝鹿が発したそれだけの言葉に縛られて、私は今日までバスケを続けてきたのだ。

 ただ私は、彼女も同じ気持ちでいてくれてると、そう信じていた。

 だから彼女がバスケを辞めると言ったとき、まるで自分まで捨てられてしまったような、そんな恐怖に襲われたのだ。そして恐怖は絶望となって、冷たい氷柱つららが全身の血管を貫いた。

 そんな私に追い討ちをかけたのが、思いもしなかった方向から寄越された、牝鹿が放送部の先輩と付き合っているという情報だった。きっと牝鹿が直接私に、彼女ができたってことを言ってくれれば、私がこんなに面倒な気持ちにはならなかったんだと思う。

 だけど私がその事実を知ったとき、牝鹿の姿はどこにもなくて、行き場を失った私の混乱は内側で暴れ回り、勢いと鋭さを増した感情は、牝鹿の前で不意に暴発してしまった。彼女を祝福してやるべき立場にいたはずの私は、彼女を傷つけることしかできなかった。

 ――ああ、私はなんて愚かなんだろう。

 そんなことを考え、沈鬱に浸りかけていた私だったが、肩に触れられる感触で我に返る。

「小鞠、なに突っ立ってんだよ」

 その呆れたような声で現実に引き戻されるのは、ひどくひさしぶりのことに感じられた。振り返らずともそこにだれが立っているのかも、どんな表情をしてるのかもわかってしまう。

 それが無性に嬉しかった。

「なんでもないです。先輩、ちょっと……集中してただけですから」

 振り返ると予想通り、心配するような顔で私を見つめる美鶴先輩の顔があった。

 全身を貫いていた氷柱が陽光で溶かされるような、そんな心地さえしてしまう。

「おはようございます」

 先ほどまでの気持ちがウソのように明るい声が出て、自分でも戸惑う。

「見ててくださいね、私、今日は絶対に勝ってみせますから」

 その戸惑いをごまかすように継いだ言葉はどこか不自然で、さらにその不自然さをごまかすために、スッと――その場しのぎのジャンプシュートを打つ。ちぐはぐの気持ちとは裏腹に、全身は滑らかに指先へと力を伝え、ボールは綺麗にゴールの中へと吸いこまれてくれた。

「調子よさそうだな」

「先輩の忠告通り、昨日はしっかり休みましたから」

「なら心配しなくて大丈夫そうだな。私も荷物置いて、牝鹿ちゃんと話してくるわ」

 先輩は荷物を更衣室に置くと、牝鹿のもとへ向かう。

 ストレッチ中だった牝鹿と二言、三言会話をして、戻ってくる。

「勝負を始めるのは二〇分後の七時三〇分で大丈夫だよな?」

「はい。私のほうが早く来て準備してたんで、牝鹿がいいなら大丈夫です」

 私へと頷いた先輩は牝鹿へと了承の旨を伝えてから、私に向き直った。

「一応、今日の審判は私だからな。片方の選手に肩入れするのもなんだし、私も私で、空いてるゴールで適当にシュート練習でもやっとくから。なんかあったら声かけてくれ」

「先輩は私に肩入れしてくれないんですか?」

「……なに言ってんだよ。贔屓されてでも勝ちたいのか?」

 声のトーンを落として、困ったような笑みを浮かべながら先輩は尋ねた。

 そんな生真面目な先輩の返答を聞いて、私の心はほどよく満足してしまう。

「冗談ですよ。贔屓なんてされなくても、私は勝ちますから」

「冗談なんて言ってる余裕あるなら問題ねぇだろ」

 ふんっと鼻を鳴らして軽口の応酬を締めると、先輩は空いているゴールでシュート練習を始めた。相変わらずお手本みたいに綺麗なシュートだ。残念ながら入りはしなかったけど。

 そんな彼女を横目に私もシュートを打つ。

 ボールが手から離れた瞬間、私はシュートが決まったことを確信した。

 

 

 二〇分して、先輩が中央のゴール前に私たちを呼び寄せた。

 私と牝鹿は無言で互いの顔を見つめる。

 こうしてコートの上で向き合うと、あらためて牝鹿の大きさを痛感する。

 ……結局、一八〇センチには届かなかったみたいだけどな。

 それでも一七〇後半というタッパはそれだけで底知れない威圧感を放つものなのだと、敵として対峙した今日、初めて実感という形で思い知る。

 無言のやりとりを交わす私たちを、先輩は交互に観察してから、おもむろに口を開く。

「ルールはオフェンスとディフェンスを交互にやっていって、二点差をつけたほうが勝ち。もしも長引くようなら、五分ごとに三分休憩を挟むつもりだから、一応はそのつもりでな」

 わかりました。どちらともなくそう返事をして、私たちはスリーポイントラインの定位置へと向かう。先輩が投げ渡してきたボールを私が受け取ると同時、牝鹿が私に笑みを向けた。

「先行は小鞠からでいいよ」

 牝鹿は私の返事を聞かないまま、ディフェンス側に立って軽く姿勢を落とした。こんな場面でジャンケンというのもマヌケなような気がして、おとなしく彼女の言葉に従っておく。

「そういう一方的なとこ、なんも変わってないのな」

 ただおとなしく先行をゆずられるのも面白くなかったので小言を返しておく。

 そして牝鹿が口を開く前に、ワンバンのパスを渡す。

 彼女は目を細めるだけでなにも言わず、無言でボールを返してきた。

 私はボールを受け取ると同時に大きく跳ね、着地の勢いを殺さずにドリブルを開始する。ゆったりとした開始を想像していたのか、牝鹿は虚を突かれたらしく、棒立ちのまま私が優雅にドリブルシュートを決めるのを許してしまう。振り返ると牝鹿は目を丸くしてた。

「なに突っ立ってんだよ。もしかして、まだ準備できてなかったのか?」

 鼻で笑ってやるが、牝鹿は今しばらく驚きを引きずっていた。

「いや……小鞠がいきなりドライブしかけてくるとは思わなかったからさ」

「この一ヶ月、私がなにしてたと思ってんだよ。ほら、次は牝鹿の番だぞ」

 ゴールから落ちてきたボールをキャッチして牝鹿に投げ渡す。彼女はボールの感触を確かめるように、二、三回とドリブルをつきながら、私が位置につくのを見届けていた。

「そういう小鞠だって、思ってることぜんぜん口にしないじゃん」

 仕返しとばかりに牝鹿はパスを渡してくる。

 返すべき言葉を見つけられないまま、私は牝鹿にパスを返す。

 ボールを受け取った瞬間、彼女は私のプレイを真似たように、鋭いドリブルで攻めてくる。牝鹿の性格から、なんとなくではあるが、行動は読めていた。きっと私のプレイに触発され、同じようにドライブで攻めこんでくるだろうと。だから先回りのディフェンスで牝鹿の進路を塞ぐが、左右の揺さぶりとフェイントで、じりじりとゴールとの距離を詰められる。そしてある程度ゴールとの距離が近づいたところで、ジャンプシュートに切り替えられる。

 身長差のせいで、ただシュートを打たれるだけで、私には為す術がなくなってしまう。

 ぽしゅっ……と軽やかな音とともに、ボールが網を揺らした。

「はい、こっちも一点。小鞠が足元攻めてくるなら、私は上から攻めるだけだよ」

「んなこたぁわかってんだよ。なんだったら、ポストプレーしてくれてもいいぞ」

「冗談でしょ。私とぶつかり合ったら、小鞠なんてプチッと潰れちゃうじゃん」

 どちらともなく、ハッ……と軽い笑いをこぼし、スリーポイントラインに戻ってくる。

「そういう牝鹿だって、変なところだけ勢いあるクセに、肝心なところでうじうじしやがってよ。どうせなら最初から最後まで突っ走りゃあいいのに、中途半端に立ち止まりやがって、周りのこと振り回すのも大概にしろって、ずっと、ずっとずっと、そう思ってたよ」

 パスの応酬、そして私のオフェンス。

 再びドリブルで一気に斬り掛かる――そう見せかけ半歩引いてボールを両手に持ち、ジャンプシュートに切り替える――フリをして、焦ってブロックに跳んだ牝鹿の横を擦り抜ける。

 美鶴先輩との一対一で私がもっとも得点を決められたパターンだ。

 華麗にドリブルシュートで二点目を決め、振り返ると牝鹿が少し表情をゆがめていた。

「いや小鞠なら絶対にシュート打つ場面でしょ、今の」

「なんのケチだよ、それ」

 それにその自信はどこから沸いてくるんだってくらい、牝鹿は自信満々の表情を浮かべていた。間違っているのは牝鹿ではなく私のほうだとでも言いたげだった。

 その謎すぎる自信に思わず笑ってしまいそうになる。

 ただ、中学時代の私がジャンプシュートに固執していたのは本当だ。だから先輩の指導を受ける前の私であれば、フェイントに至ることなくシュートを阻まれていたことだろう。

 攻守を交代して私のディフェンス。

「小鞠はさ、自分の腹に溜め込みすぎ。言葉にしないと、なんも伝わらないって、小学生でも知ってることなのにさ。それに自分が悪いのに、突然かんしゃく起こすのもどうかと思うよ。私がどんだけ周りの子たちにフォロー入れてたか、小鞠はぜんぜん知らないんでしょ」

 律儀に一言を添えながら、ワンバンのパスを渡してくる。

 さっきと打って変わって、ボールを受け取った牝鹿はボールを持たまま、片足を軸にして体を動かし、左右に揺さぶりをかけてくる。だが先ほどと同じように、牝鹿がやりたいプレイはなんとなく想像できた。私の予想通り、牝鹿は最終的に利き手のドライブに走り、それを先読みしていた私はドリブルを潰し、一瞬の隙を見逃さずボールをカットすることに成功する。

「牝鹿なら絶対に右のドライブでくると思ったぞ」

「あー……そうか。まあ、そうだろうね」

 牝鹿のプレイはだれよりもそばで、だれよりも長く、だれよりも熱心に眺めてきたのだ。彼女がどんなふうに動くのか、私はふわふわとではあるが、掴み取ることができた。

 きっと彼女だって同じような心象であったはずだ。

 この勝負の直前までは。

 ――一ヶ月の練習量の差が意外と大きいみたいだな。

 実際、そこまで大きく能力が向上したわけではない。ただ考え方が――プレイの志向が少しだけ変わっただけだ。なまじ牝鹿が私のことを知っているだけに、不意を突くのは容易かったし、相手のプレイを先読みすることもまた難しいことではなかった。

 二戦目を終え、私に一点差を許してしまったせいか、牝鹿の顔から余裕が消えた。

「……ちょっと気合い入れ直すかな」

 パン! と牝鹿の両手が、彼女の頬を打ち据える。

 手を離すと、まっ赤になった彼女の頬が露わになる。

 私を笑わせて戦意でも喪失させようという魂胆なのかもしれない。

 ただ彼女の表情はあくまで真剣そのもので、私は彼女を笑えはしなかったが。

「みんなが牝鹿みたいに単純人間だと思うなよ。言いたいこと言えりゃあ、私だって苦労しないんだよ。つーか、この歳になりゃあ、言えないことのほうが多くなるってお前にだってわかんだろ。それにフォローだったら、お前の遅刻を私がどんだけかばってやったと思ってんだ」

 いささか乱暴に――ボールを叩きつけるようにパスを出す。牝鹿はにやりと笑うばかりでなにも言わない。ただ私を落ち着かせるように、返ってきたボールは緩やかだった。

「よっこらっしょっと」

 そして牝鹿はおっさん臭い呟きとともに、大きく姿勢を下げる。

 それだけではなく、通せんぼうでもするように、左右に両手を広げてみせる。

 彼女のディフェンスの構えに、思わず自分の眉根が寄ってしまうのがわかった。

「それ、牝鹿の手か足に私が触れたら、そっちのファールになると思うんだけど」

「さすがにそれくらいわかってますとも。まあ、もし、仮に、触れればの話だし」

 相変わらず牝鹿の表情は過剰と言っていいほどの自信を湛えていた。

 私の体に触れずに腕を動かし、ボールだけを奪う自信があるのだろうか。

 ……まあ、有り得ねぇよな。

 どれだけ器用な人間だろうと、ボールを奪うより体が接触してしまう確率のほうが高い。その構えは自分の体ばかりを傷つける、無謀な諸刃の剣に違いなかった。

 そうとわかっていても、その威圧感は尋常ではない。

 まるで壁に突撃することを強いられているような、そんな心地になってくる。

 ……ずりぃな。

 そう思うものの、加減をされるよりはマシだと感じる私がいるのも事実だった。だってそうした手段を講じるのも、私が彼女を追い詰めている証拠に他ならないのだから。

 ドリブルか。

 シュートか。

 悩んだ挙句、私は結局、中途半端な形でドライブを仕掛け、ディフェンスに阻まれて、苦し紛れに放ったシュートはかろうじてリングに当たっただけで入ることはなかった。

 いいように牝鹿に揺さぶられた形になったことが悔して、面白くない。

 明後日の方向に飛んでいったボールを先輩が拾いあげ、牝鹿へとボールを渡す。牝鹿はボールを受け取りながら礼を告げ、少し疲労の滲んだような視線を私へと向けた。

「……私だって悩んじゃいるんだけどね。ただ私は、行動したあとに悩んじゃうってだけ。まあ小鞠の言うことも、もっともだと思うよ。大人になってけば。言いたいことも言えなくなってく。だけど、そういうしがらみとか取り払った先にあるのが友だちなんじゃないのかな」

 牝鹿の言葉に耳を傾けながらも、私の意識は彼女の一挙一動へと傾いていた。

 ……どう仕掛けてくる?

 そればかりを考えていた私は、どうやら知らず知らずのうちに、気持ち重心が後ろへと傾いていたらしい。ボールを受け取った瞬間、牝鹿はキュッと立ち止まる。私があっ、と思ったときにはすでに遅く、牝鹿は綺麗なフォームでジャンプシュートを打っていた。

 振り返らずともシュートが決まったことがわかる。

 ほどなくして背後から、ぽすっ……とボールが網を揺らす音が聞こえた。

「仕切り直しだよ、小鞠。こっから私が一気に勝つから、そのつもりで」

 そんな余裕を醸し出してくる牝鹿に、今度は私がオフェンス側に立つ。

 自分の優位があっという間に失われたこと。

 そして先ほどの牝鹿の言葉が、少なからず私を揺さぶっていた。

「だったら、牝鹿が……お前が、最初から話してくれれば良かっただろ!」

 激昂とともにドライブを仕掛けるが、直情かつ直線的にすぎる攻撃は、あえなく牝鹿に阻まれる。次の勝負は互いに無言で、牝鹿が攻撃を仕掛けてきたが、私がなんとかボールを奪い去る。それからは休憩が挟まるまで黙々と一進一退の攻防を繰り広げていった。

 三分の休憩を挟み、互いに対峙し直す。

 私たちは先ほどまでの対話がウソのように無言で一対一というゲームを続けていた。口を開くくらいなら、その分シュートの精度を上げたかったし、ドリブルの鋭さを増したかった。

 ただ勝ちたかった。

 牝鹿に勝って、ほら見ろ! 私の勝ちだ!

 そう叫んで、ただ笑ってやりたかった。細かな事情などすでにどうでも良くなっていて、ただ彼女に勝つことだけが正義なのだと、頭が錯覚してしまっていた。

 疲労と緊張ばかりが高まっているはずなのに、なぜか牝鹿はその顔に笑みを浮かべる。

「……なに笑ってんだよ。疲れすぎて、頭おかしくなったのか」

「いや、なんかこれ、すっごい楽しくて新鮮だなって思ってさ」

 牝鹿は私の反応を覗うように、こちらを見おろしてくる。

 私も私で、彼女の言わんとしていることを探りたくて、沈黙を保ち続けていた。

「小鞠とバスケすんのひさしぶりだからかと思ったんだけど違うんだよね。私たち、一対一ってほとんどやってこなかったんだなって気づいたんだ。なんか、それも不思議だなって」

「不思議もなにも、ポジションも身長も、真逆だからな」

 一対一は割とメジャーは練習方法ではあるものの、その相手は体格に合わせて選ばれることが多い。身長が一番高かった牝鹿と一番低かった私が相まみえるはずなどない。

 だから小中の六年間で私と牝鹿が一対一を行ったことなど、数えるほどしかなかった。

「まあ、それもあるけど――」

 だが牝鹿は私の回答がお気に召さなかったのか、そこで一旦、語尾を濁した。もしかしたらそれは、単に疲労が滲んで、息継ぎが必要になっただけなのかもしれなかったけど。

「私がずっと、こうやって向き合うのを避けてきたせいなのかもしれないなって」

 牝鹿の口からこぼされた言葉を聞いて、私の口からも自然と笑いがこぼれた。

「まあ、私も似たようなこと考えてたのは事実だな」

 疲れのせいで頭が回らなくなっているのだろうか。

「私は牝鹿を見ないように、わざとバスケに集中してたんじゃないかって考えてた」

 乱れた呼吸に紛れるように、私たちの口から、本心がぼろぼろとこぼれ落ちる。

 今まで私たちを縛っていた理性が、酸欠のせいで緩んでしまっていたのかもしれない。

「でもさ……それでも、私は、ずっとお前に憧れてたんだよ。背が高いのは、もちろん羨ましかったけど、それだけじゃなくて、単純に、お前は、バスケがうまかったから。どんどん前に進んじまうお前の背中を見て、必死になって追いかけて……私はずっと、お前を目標にしてバスケやってたんだよ。なのにお前は……あんなに簡単にバスケを辞めちまった!」

 広々とした体育館に私の声ばかりがマヌケに響く。

 内外の区別なく反響する自分の声の悲痛さが耳障りだったが、それでも私は続けた。

「私は……お前のバスケの想いなんて、その程度でしかないんだなって、失望してた」

 それは心外だと牝鹿は呟く。その声はボリュームを絞ったように小さかったが、不思議と温度差は感じられなかった。彼女の声はきっと静かな怒りを湛えていたのだと思う。

「私はバスケが好きだよ。メチャクチャ好き。小鞠のことも大好き。それは今もまったく変わってないよ。じゃなかったら、こんな勝負なんて、最初から受けてるわけないじゃん。だけど言えなかった。小鞠の言った通り、たぶん、私も気づかないうちに大人になってたから」

 牝鹿の目が私を見据える。

 その目が今にも泣き出しそうなほど潤んでいたものだから私は言葉を失った。

「小鞠が言った通りさ、私は……放送部の先輩と付き合ってるよ。先輩が好きだから、先輩と一緒にいたいと思ったから、私はバスケ部に入るのをやめて、放送部に入ったの。それを……それを小鞠に言えなかったのは、小鞠に嫌われるんじゃないかって不安だったから」

「そんなことで私がお前を嫌いになるわけないだろ!」

 叫び、自分の声のあまりの大きさに、私自身が咽せる。

 そこで一気に酸素を失ってしまい、頭がくらくらした。

「そうなんだよね」

 少し的外れな返答を寄越しながら、牝鹿は慈愛に満ちたような笑みを浮かべた。

「私も、こないだ小鞠に酷いことを言われたとき、すごい傷ついた。一瞬、もう小鞠の顔なんて見たくないって、そう思った。だけど……それでも小鞠のこと、嫌いにはなれなかった」

 牝鹿の言葉に私は心の中で頷いた。

 嫌いになりたいと思ったことは何度もある。

 だけどついぞ『牝鹿が嫌いだ』と思えたことは一度もなかったのだから。

「バスケはさ、また別の形でやれればいいかなって、そう思えたんだ。でも小鞠は違うみたいなんだよ。放送部の先輩と小鞠に対する気持ちは、ぜんぜん違うんだけど……でも私は、小鞠と離れるのだって、つらくて、もう話せないのかなって思うと、すごく寂しくてさ。だから、こうして、どんな形でも、小鞠とバスケができるってだけで、私は嬉しかったりしてさ」

 きっと思い浮かんだそばから言葉を口にしているのだろう。

 そのせいで牝鹿の言葉はとっちらかって、その声音以上の情報を伝えてはくれない。いや、それはもしかしたら、単に私の頭のほうが回っていないことが原因なのかもしれないが。

 それでもその声音を聞けば、彼女が伝えようとしていることが充分理解できた。

 私たちの言葉はいつだってなにも伝えてはくれないけど。

 伝えようとする。ただそれだけのことが――なによりも大切なのだと気づけたのだ。

「あー、もう、頭が回らなくなってきた」

 同じことを考えていた事実が面白くて笑ってしまう。

 なにが面白いのかわかってないだろうに牝鹿もくつくつと笑う。

 酸欠のせいで、ただハイになってしまっているだけなのかもしれなかった。

「こんなに激しく動きながら、喋ってれば、そりゃあ酸欠にもなるだろ。もう、会話なんて、どうでもいいんじゃないか。と言うか、私は、今の、この勝負に、集中したい」

「うん、そうだね。小鞠。私も同じこと、考えてた。だってさ――」

「メチャクチャ楽しいもんな」

「メチャクチャ楽しいからね」

 互いの声と言葉が重なって、私たちは肺に残っていた酸素をすべて吐き出すようにして笑い合う。巡るべき酸素がなくなって、考える余地もなくなって、私たちの中に本能だけが残る。

 唯一、思い起こされるのは、あのとき那月さんが語ってくれた言葉。

 言葉では伝えられない想いはいくらでもあるけど、こうして向き合って、本気でやりあっているだけで、今までわかり合えなかった部分に手が届くような気がするのだから不思議だ。

 そんな残されていた思考すら欲望の中に溶けてゆき。

 私はただ本能の趣くまま、牝鹿に向かって、攻撃をしかけたのだった。